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2020年01月14日

安倍政治 漂流する最長政権の内実 その限界と欠落する二つの要素


 

 安倍政治 漂流する最長政権の内実 その限界と欠落する二つの要素

        〜47NEWS 東京大学教授・牧原出  1/14(火) 7:12配信〜

         
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        伊勢神宮外宮の参拝に向かう安倍首相 1月6日午後 三重県伊勢市 

 安倍晋三首相は新年恒例の伊勢神宮を6日に参拝した。その直後の記者会見で、夏の東京五輪・パラリンピックを挙げ「この歴史的な年を日本の新時代を切り開く1年にしたい」と高々と宣言した。首相は昨年11月19日、近代以降の内閣制度の下で最長在任日数と為った。最もそこに祝賀ムードは無かった。
 「桜を見る会」では自身の公私混同が厳しく問われた。自衛隊を派遣する中東の情勢は緊迫化し、カジノを含む統合型リゾート施設IR事業を巡る汚職事件は元内閣府副大臣の逮捕に発展、捜査の行方は見通せ無い。

 政権に向かう国民の眼差しは厳しさを増して居る。20日に召集される通常国会では、越年したこれ等の問題から逃れられ無いだろう。最長政権と為った安倍政権のこれ迄を振り返りながら、波乱が想定される政権の行く末を考えたい。 

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                東京大学教授 牧原出氏

 問われる首相の「風格」

 長期政権と言えば、戦前では日露戦争を首相として指導した桂太郎、戦後では高度経済成長後半期に沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作を初め、伊藤博文、吉田茂、小泉純一郎、中曽根康弘が居並ぶ。これ等名宰相と比べ、首相安倍晋三にそれ程の高い評価を与える事が出来るかと言えば矢張り疑問が多い。.

 首相の公私混同は、夫人の振る舞いを制御出来ない事や、森友・加計学園問題等、さまざまな局面で見られる。首相自らヤジを飛ばして陳謝したり、厳しい質問では答弁に詰まったりする場面は国会の風物詩と化し、直近の国会では、与党が首相を国会に登場させ無い様国会運営で配慮し始めて居る。最長在任の首相に本来あるべき「風格」が無いのである。

 長期政権の源泉
 
 何がこの政権を長期政権へと導いたのか。首相安倍を支える政治家・官僚のチームの組織力は見逃せ無い。冴えた知性に乏しい首相を、チームが幾重にも補って来た。経済産業省出身者で脇を固め、経済政策アベノミクスを練り上げる等これ迄に無い突破力と、危機管理に長(た)けた警察出身官僚を中心に防御力を磨いて来たのである。 
 最長在任首相と為った今、問われるべきは「安倍1強」と呼ばれる政治現象が何処から生まれたかである。ソコには、政権交代が二重の意味で関わって居る。

 第一には、言う迄も無く、2009年に民主党政権を誕生させた政権交代と、2012年の政権交代による現政権の誕生だ。二度の政権交代後、政権陥落を防ぐ事は自民党内で強いコンセンサスと為って居る。与党は首相の足を引っ張るのでは無く、協力して選挙を勝ち抜く事で与党の座を守ろうと必死に為って居る。

 これが、自民党と云う政党から見た政権交代への対処であったとすれば、もう一つの見方は、安倍自身から見た政権交代だ。2007年の参院選で大敗して政権を投げ出した事が、政治家安倍に取って最大の挫折だった。その後の福田康夫・麻生太郎政権は、自民党総裁による政権であったとは云え、野党に奪われたのに近い失意と悔恨をもたらすものでしか無かった。
 2007年の失脚からの復活コソが、2012年の総裁復帰と政権奪還を図る過程における安倍の一貫した問題意識だったのだ。

 意図せず長期化、欠落する長期的発想と人材

 個人的屈辱からの克服と、民主党からの政権奪還と云う二つの意味において政権交代を果たし、成立したのが第2次以降の安倍政権なのである。現政権は「戦後レジームからの脱却」「美しい国」と云った1次政権で顔を出して居た復古的要素を脱色した。
 代わりにアベノミクスを中心とするデフレ克服施策を前面に打ち出し、外交面では、1次政権で挫折した集団的自衛権を限定的に認める憲法解釈の変更も進めた。

 此処迄が、政権が当初温めて居た政策構想であったとすれば、2015年夏でこれ等政策はホボ実現した事に為る。その後は、1年から2年間隔で行われる衆・参院選に合わせ、毎年の様に1年限りの政策を打ち出すと云う短期政権の様なスケジュールを熟さざるを得なかった。戦後の長期政権との決定的な違いは此処にある。
 歴代の長期政権は多数の有識者と各省幹部によるチームが、諮問機関やワーキンググループを通じて、中長期的視点からその時々の課題に対処して来た。そうで無ければ、講和独立、沖縄返還、民営化、バブル破綻後の産業再生等およそ不可能だった。

 現政権は、麻生副総理兼財務相・菅義偉官房長官を双頭に、前述の通り官邸官僚が支える体制が強固に作られては居る。只政策が次々繰り出される現状を見て居ると、長期的発想を持つ人材が、安倍政権には不在であるかの様だ。短期的発想しか持たぬママ、半ば意図せざる形で首相の在任期間が最長と為ってしまったのだ。

 「思考停止」状態のアベノミクス

 確かに場当たり的な政策が目に着く。地方創生、一億総活躍、働き方改革、全世代型社会保障制度改革等目標は極端でありながら、地味で小粒な施策に終始して居る。アベノミクスも異次元緩和の継続の先は思考停止したかの様である。
 外交では一見熟練した様だが、風格に乏しい首相は、国家安全保障局と外務・防衛両省の十分な支えがあって、要約交渉も可能だったと云うべきだろう。

 個人的な信頼関係も矢張りトランプ米大統領との関係に限られる。中国の海洋進出に対抗し、法の支配に基づき地域の安定と経済発展を目指す「自由で開かれたインド太平洋」構想は21世紀の日本に相応しい外交方針だ。只安倍首相が進めたと言うよりは、長期政権の元で兎にも角にも継続出来たことで実りつつあると言うべきであろう。

 政策選択の幅を広げるが、針路を決める力は不足
 
 マルで近視眼的で効果に乏しい政策の羅列の様だ。にも関わらず、この7年間を大きく見渡せば、20世紀の日本政治とは局面の異なる政治への転換を促して居るのも事実だ。多くの政策が、これからの日本に取って、政策選択の幅を広げる点で一貫して居る。.

 アベノミクスと云う経済政策の転換は、円高基調であった為替レートを円安基調へと転換し定着させた。輸出産業に取って有利な条件を整え、人口減に転じた時期に観光産業を活性化させ、日本社会の門戸開放を進めた。外国人労働者の受け入れを広く認める政策も同様だ。日本社会の多様性が格段に増した訳では無いが、その条件が整備されたのである。
 又、集団的自衛権を容認する憲法解釈の変更は、激しい反対運動に直面しながらも、安全保障法制の立法に漕ぎ着けた。最も政府は集団的自衛権を行使する事には慎重で、極限定された条件下とは云え、米国との防衛協力は進んだ。

 2014年と2019年の二度の消費増税に、首相自身は必ずしも積極的では無かった様だが、民主党政権末期に自公民で結んだ「三党合意」を、延期を重ねながらも履行した。5%の消費税率は10%と為り、今後の税制改正は更なる上昇もあれば、1%程度減税する可能性も有り得るだろう。
 そして、天皇退位である。明治以降の天皇制が想定して居なかった退位は、現上皇の強い意志で国民に提案され、圧倒的多数の支持の下、今回限りの特例として粛々と退位と新天皇即位の手続きを進めた。今後天皇は、生涯在位すると云う従来のスタイルを堅持する事も出来る一方、国民の支持と共に退位すると云う選択の余地も残した。

 過渡期のママ終焉に向かう安倍政権の宿命

 長期政権であればコソ、自らの発案である無しに関わらず、政治の基本軸と為る争点に付いて、選択の幅を広げたのは成果である。だが残念ながら、短期的思考に制約され、長期的な視点で今後の方向性を示す事は出来て居ない。
 政権が新たに取り組んだと自ら主張し、6日の会見でも最重要課題に掲げた全世代型社会保障改革は、年金支給開始年齢の問題と云った微修正に留まり、抜本的な改革へと方向付けて居る訳では無い。経済政策、安全保障政策、財政政策、象徴天皇制のいずれも方向付けるのは、ポスト安倍政権かその後の政権と為るであろう。

 選択の幅を広げる政治的コストは覚悟して払ったものの、日本の針路を決定付ける程、世論の先頭に立つ勇気には欠ける。それが安倍政権なのだ。長期政権のママ長大に過渡期の中で漂流し、その過渡期のママ終えざるを得無い宿命にあるかの様だ。

 静かな退陣なら大収穫、投げ出しも

 この長期政権をどう終えるかは、第1次政権で屈辱的な退場を演じた安倍首相に取って関心事の一つである事は想像に難く無い。その意味で、自民党総裁任期満了を来年秋に控えた今年1年の政権運営はとりわけ大きな意味を持つだろう。
 桜を見る会で現れた政権の公私混同振りは、最早隠しても隠し通せ無い問題に為って居る。公金を使った行事に地元後援会の関係者を多数出席させて居た事は「身内ビイキ」との印象を国民に与えたし、個人情報を理由に招待者名簿の公表を拒む姿勢は、森友・加計学園問題や自衛隊イラク派遣部隊の日報問題でも繰り返されて来た光景だ。

 憲法改正では、6日の会見で「私自身の手で成し遂げて行く考えに全く揺らぎは無い」と強がって見せたが、世論の盛り上がりに欠ける上、参院では「改憲勢力」が3分の2の議席を既に失って居り、実現可能性はホボ無いだろう。
 首相が仮に衆院の解散・総選挙に踏み切ったとしても現状の議席を確保出来る保証は無く、憲法改正がより遠のく可能性すらある。外交で成果をアピール事は出来るだろうか。中東情勢は8日、イランによる米軍駐留のイラク基地へのミサイル攻撃で緊張が一気に高まった。北朝鮮の非核化問題や米中の貿易対立も混迷を深め、安倍首相の仲裁で華々しく解決する事等ホボ不可能だ。

 国民からの信頼感が摩滅する中で、社会保障制度改革や財政再建と云った地味な課題に今後何処まで向き合えるかで、この長期政権の評価が決まる。その帰結が静かな退陣で有れば政権に取っては大収穫であり、一歩間違えれば第1次政権と同様、激しい糾弾を受けた「投げ出し」も有り得るだろう。


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              東京大学教授・牧原出  以上

















NHKドキュメンタリー「欲望の資本主義」で再注目の宇沢弘文氏の思想・・・「経済は人間の為にある」




   NHKドキュメンタリー「欲望の資本主義」で再注目の宇沢弘文氏の思想・・・「経済は人間の為にある」

               〜デイリー新潮 1/14(火) 18:30配信〜

 
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 6年前に亡く為った経済学の巨人・宇沢弘文氏に再び注目が集まって居る(NHKアーカイブスHPより)


 ・・・1月3日放送のNHK-BS1スペシャル「欲望の資本主義2020 日本・不確実性への挑戦」で紹介された事で、6年前に亡く為った経済学の巨人・宇沢弘文氏に再び注目が集まって居る。番組を締め括る終章のパートで、経済学者のジョセフ・スティグリッツ氏「30〜40年後にドンな経済や社会を実現したいか・・・日本には非常に偉大な知性が居ましたよね。私の先生の宇沢弘文氏です」と名前を挙げて語ったのだ。宇沢氏は一早くアメリカ式の資本主義の限界を予見して居たとも。

 スティグリッツ氏と云えば、2001年のノーベル経済学賞受賞者。その彼に「非常に偉大な知性」と迄に言わしめた宇沢氏の思想とはいかなるものか。核と為るのは、番組でも紹介されて居た「社会的共通資本」と云う考え方である。
 最晩年の宇沢氏へのインタビューや講演を元にした『人間の経済』の序章には、その考え方が優しい言葉で書かれて居る。加えて昭和天皇やローマ法王との貴重なエピソードも語られた「序 社会的共通資本と人間の心」を同書から全文引用しよう・・・



 昭和天皇のお言葉
 
 人間は心が有って初めて存在するし、心が有るからコソ社会が動いて行きます。処が経済学においては、人間の心と云うものは考えてはいけ無いとされて来ました。マルクス経済学にしても人間は労働者と資本家と云う具合に階級的に捉えるだけで、一人ひとりに心が有るとは考えません。
 又、新古典派経済学においても、人間は計算だけをする存在であって、同じ様に心を持た無いものとして捉えて居る。経済現象の間に有る経済の鉄則、その運動法則を考える時、ソコに人間の心の問題を持ちこむ事は、云わばタブーだった訳です。

 次の様な事を記憶して居ます。1983年、私が文化功労者に選ばれた時の事でした。顕彰式が終わった後、宮中で昭和天皇がお茶を下さる事に為り、実はそれ迄私は天皇制に批判的な考えを持って居たので、違和感を抱えたママ席に臨みました。
 昭和天皇を囲んで一人ひとりが、夫々自分が何をして来たかを話し、時折天皇がそれにお答えに為ります。昭和天皇は思いの他親しみのある気さくな話し振りでしたが、私は自分の順番が来た時にはスッカリ上がってしまい、ケインズの此処が可笑しいだの、新古典派の理論がどうだとか、社会的共通資本とは何か、等と懸命に喋り立てました。しかし、我ながら支離滅裂なのが判って混乱して居た処、昭和天皇が話を遮って、こう仰ったのです。

 「君! 君は経済、経済と云うが、詰まり人間の心が大事だと、そう言いたいのだね」
 
 心の中をピタリと言い当てられた様で、私自身、ハッとしたものでした。それから四半世紀に渉って社会的共通資本の考え方、人間の心を大事にする経済学の研究を進めて来られたのは、あの時の昭和天皇のお言葉に勇気付けられたからでもありました。

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 「レールム・ノヴァルム」
 
 もう一つ、私の人生の中で最も感動的な思い出を振り返ります。今から20年程前、私はローマ法王ヨハネ・パウロ2世にヴァチカンへ呼ばれて、或る歴史的な文書の作成を手伝いました。文書と云うのはEncyclicalsです。
 Encyclicalsは、歴代のローマ法王が在任中に一度は出される重要な公式文書の事で、その時々の世界の状況に関してローマ教会の公的な考え方をマトメたものです。世界中のビショップに配布されるこの分厚いドキュメントは、日本では「回勅」「同文通達」等と訳されます。

 その中で歴史的に最も有名な回勅が、1891年5月にレオ13世によって出された「レールム・ノヴァルム」で、経済学の考え方に大きな影響を与えました。レールム・ノヴァルムとはラテン語で「新しいこと」カトリックの方では「革命」と訳される事もありますが、それにはこう云う印象的な副題が付いて居ました。Abuses of Capitalism and Illusions of Socialism資本主義の弊害と社会主義の幻想です。

 この背景には、産業革命以降のイギリスの工業都市で、資本家が徹底的に労働者階級を搾取し、一般大衆が非常に悲惨な状況に追い遣られて居た事がありました。レオ13世は、新しい工業都市で、子供達の生活が余りにも悲惨な事を深く心配されて居た。
 しかし、多くの人が社会主義に為れば救われると主張して居るのは単なる幻想に過ぎず、社会主義に為ればモッと悲惨な現実が待って居て、人間の存在・魂の自立すら維持出来ないと云う事を主張されたのです。詰まり、階級的対立や競争によってでは無く、人類が互いに協力し助け合う事で困難な時代を乗り越えて行くべきであると云うのが回勅の主旨でした。

 その後を受けて、ヨーロッパでは協調と友愛を基調とする新しいタイプの労働組合運動が起こり、それと同時に協同組合運動が大きく発展しました。しかし20世紀に入ると、1917年のロシア革命によって、15の共和国と世界の陸地面積の6分の1・・・3億人の人口から成るソビエト連邦が成立しました。
 その支配は、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニア等の東欧諸国に及び、一時期は世界の人口の3分の1迄が社会主義体制に組み込まれます。

 ポーランド出身のヨハネ・パウロ2世は、ローマ法王としてヴァチカンに行く迄、過酷な社会主義体制下にある人々の魂を守る事に心を尽くして来られた方です。そしてレオ13世の回勅から丁度100年目、新しい「レールム・ノヴァルム」を作成する事に為り、私はヨハネ・パウロ2世から、そのアドバイザーに為って欲しいと云うお手紙を頂いたのです。
 私は躊躇する事無く「社会主義の弊害と資本主義の幻想」コソ、新しい「レールム・ノヴァルム」の主題に相応しいと返事を差し上げました。私の様な部外者が回勅の作成に関わる事自体前例が無かった様ですが、ヨハネ・パウロ2世によって1991年5月に出された新しい「レールム・ノヴァルム」のタイトルは、Abuses of Socialism and Illusions of Capitalism社会主義の弊害と資本主義の幻想と云うものでした。

 当時は東西ドイツを隔てたベルリンの壁は崩壊したものの、未だソ連共産主義が生きて居て、東欧諸国に破滅的な影響を与えて居ました。「社会主義の弊害」とは、スターリンが何百万と云うソ連の人々を殺し、ソ連全体を収容所列島の様にしながら、同時に東欧の国々に対しても非常に過酷な支配をする、その事を指して居ました。
 その一方で「資本主義の幻想」とは、その頃、西側諸国で勢いを増して居た市場原理主義を中心とした運動が、ヤガテは或る意味で社会主義の弊害に匹敵する様な大きなダメージを人々に与えるに違い無いと云う危惧だったのです。

  「新しいレールム・ノヴァルム」が経済学者に提起したのは、夫々の国が置かれて居る歴史的、社会的、文化的、自然的、経済的諸条件を充分考慮して、全ての国民が人間的尊厳と市民的自由を守る事が出来る様な制度をどう遣って作れば好いのかと云う問題でした。
 そしてこの年に八月革命が起こり、12月に掛けてソ連帝国の解体と云う世界史的な事件に発展します。2005年にヨハネ・パウロ2世が亡く為られた時、ゴルバチョフ元ソ連書記長は葬儀に異例の弔文を送り、その中でヨハネ・パウロ2世の「新しいレールム・ノヴァルム」が、新しいヨーロッパを作る為に非常に大きな役割を果たしたと云う事を述べその業績を称えました。

 医療や教育、自然環境が大事な社会的共通資本である事は勿論ですが、もう一つ、つけ加えるなら、平和コソが大事な社会的共通資本なのです。

 ヨハネ・パウロ2世は、生涯、アメリカが広島と長崎に原子爆弾を落とした事は人類が犯した最大の罪であるとして厳しく批判されました。その為にヨハネ・パウロ2世はアメリカでは評判が悪かったのですが、ローマ法王に為られたばかりの1981年に来日されて広島と長崎を訪れた際、小石川の後楽園で盛大な野外ミサを執り行い、流暢な日本語でこう云う話をされて居ます。

 「平和は人類に取って、一番大事な共通の財産である。特に日本の平和憲法は、平和を守る非常に重要な役割を果たす社会的な資産である」

 社会的共通資本と云う言葉コソ使われませんでしたが、平和を守る事の意味を非常に大切な事と強調されたのです。ヨハネ・パウロ2世は全世界のこれ迄全く対立して居た宗教の責任者の方々を回って歩き、そして歴史的な和解を実現されました。
 聖なる存在を神として敬う、そう云う気持ちが宗教の原点に有るのだから、対象とする神は違ったとしても、神を以て自分達が平和を守って行くと云う気持ちで結び付きたいと考えて居られたのです。

 話は一寸脱線しますが、私には一つ欠点があって、それは酒を飲み過ぎる事です。或る時、ヨハネ・パウロ2世のお部屋でご馳走に預かりました。ローマ法王庁のラベルが貼られたワインを美しい修道女が注いで呉れ、ご馳走を前にした私はスッカリ好い気分に為ってしまいました。
 その際、ヨハネ・パウロ2世が「教育や医療はどの様なルールで維持したら好いのか」とお聞きに為りました。私は「教育も医療も、夫々の職業的専門家が職業的なdiscipline規範に基づいて、そして社会の全ての人達が幸福に為れる事を願って、職業的な営為に従事する事だ」と申し上げ、更に「今、世界は人々の魂が荒れ、心が殺伐として居る。貴方は人間の魂、心を守ると云う聖なる職業をされて居るのに黙って居る。貴方はモッとハッキリ主張しないといけ無い」と一席ブッてしまったのです。

 するとヨハネ・パウロ2世はニコニコしながら「この部屋(ローマ法王の部屋)で私に説教したのは、貴方が初めてだ」と云われました。その後ヨハネ・パウロ2世から、新しく作られた「レールム・ノヴァルム」のゴスペルを、自分の代理人として全世界に広めて欲しいと云う旨の手紙を頂きました。
 Gospelと云うのは普通、ローマ教会の正式な考え方を集約したものですから、キリスト教徒でも無い私に取っては荷が重過ぎる、と申し上げてお断りしたのですが、後に為って手紙の「gospel」の頭文字が小文字だった事に気が付きました。
 大文字のゴスペルはローマ教会の公的な考え方を強調したもので、小文字のゴスペルは単なる信条みたいなものですから、可成り意味合いが違うのです。しかし、それから間も無くヨハネ・パウロ2世は他界されてしまい、失礼な返事をしてしまった事が悔やまれます。

 そして残念ながらその後、必ずしもヨハネ・パウロ2世が期待された様な形での、新しい世界秩序は生まれて居ません。それでも、資本主義と社会主義と云う二つの体制概念が、歴史的な役割を終えて変質或は崩壊する過程で、ローマ法王の重要な仕事を手伝う事が出来たのは、経済学者として大変名誉な事でした。


  デイリー新潮編集部  2020年1月15日 掲載 新潮社   以上






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高度成長期に大ブーム・・・反戦平和教育と共存した「戦争漫画」の遺産




 高度成長期に大ブーム・・・反戦平和教育と共存した「戦争漫画」の遺産

               〜現代ビジネス 1/14(火) 11:01配信〜


 戦争に依って焦土と化した日本が、徐々に復興し高度成長期を迎えた頃、少年達を熱狂させたのは、その戦争を題材とした漫画だった。学校では、反戦・平和教育が徹底されて居た時代に、何故この様な「戦争漫画」ブームが起こったのか。その興亡からは、戦後日本の複雑な容貌が見えて来る。

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 1960年代初期の戦争漫画を代表する「0戦太郎」(辻なおき)と「ゼロ戦レッド」(貝塚ひろし)

 ON・大鵬と共に表紙を飾った「零戦」

 過つて1960年代をピークとして、少年漫画誌に太平洋戦争中の日本海軍の戦闘機「零戦」や陸軍の戦闘機「隼」が飛び交い「紫電改」が乱舞する時代があった。軍用機だけでは無い。当時の少年誌を眺めて見ると、戦艦「大和」戦車・自衛隊・忍者・馬賊(旧満州で暴れ回った賊・日本人の頭目も居た)・・・と云った、今で云うミリタリーや歴史を題材にした活劇風の絵が、当時大人気だったプロ野球の長嶋茂雄や王貞治・大相撲の大鵬等と共に表紙を飾って居る。
 当時の子供達がどんなものに関心を持って居たか、手に取る様に伝わって来るではないか。怪獣や特撮ヒーローものが人気を博す以前、少年誌にアイドルタレントの水着写真が載る等、まだ考えられもしなかった時代のことである。

 この時期には又、幾つかの出版社から、少年向けの戦史全集が出て居て、通して読めば戦争の全体の流れがそれ為りに頭に入る様に為って居た。何より、執筆・監修者の多くが、当時存命だった元参謀クラスの軍人や、講談社の『少年版・太平洋戦争』シリーズの山岡荘八の様な、従軍経験を持つ一流作家だったから、子供向けとは云え、随分贅沢なものだった。
 少年漫画誌も、1960年代には中身の3分の1近くが読み物ページである。戦記本の出版で知られる潮書房光人新社の前身・潮書房光人社の元会長・故高城肇氏も『週刊少年マガジン』(講談社)に「空の王者ゼロ戦」その他の連載を持って居て、そんな記事は今読んでも読み応えがある。

 こんな本や雑誌にリアルタイムに胸を躍らせた子供達の世代は、現在、還暦前後だろうか。時を同じくして発売される様に為った軍用機や軍艦・戦車のプラモデルの人気もブームを後押しした。男の子なら誰でも日本陸海軍機や戦艦の名前・大戦中の主要作戦がスラスラ言えた世代。実際、これ位の年配の人に、今も熱狂的な軍用機・軍艦やプラモデルのマニアが多い様である。

 町に「軍隊経験者」が溢れて居た時代

 こんな、戦後一時代を築いた少年雑誌の戦争漫画は、何時生まれ、どの様に消えて行ったのだろうか。昭和20(1945)年8月15日、日本の敗戦と共に、それ迄一般には知らされて居なかった軍事機密の暴露記事が新聞各紙を賑わせる様に為った。
 例えば「紫電改」と云う戦闘機の名前と存在を明らかにしたのは、昭和20年10月6日の朝日新聞が恐らく最初である。続いて、人間魚雷と呼ばれる特攻兵器「回天」パナマ運河爆撃に出撃するはずだった潜水空母「伊四百型」エンジンとプロペラを機体後部に載せた斬新な前翼型の戦闘機「震電」等の存在が次々に報じられる。

 10月22日の毎日新聞では、秘密の翼・終戦期の海軍新鋭機 の大見出しで、紫電改を初め海軍の新鋭機が写真入りで特集され 生産競争に惨敗・質は世界の最高水準 と、ヤヤ負け惜しみ的な中見出しと共に紹介されて居る。
 処が、GHQ・連合国軍最高司令官総司令部が9月21日に発布したプレスコード・報道統制規則が効力を発揮する様に為り、11月、民間航空全面禁止の指令が出されると共に、新聞からも旧軍の飛行機に関する記事が消えた。

 それから5年。昭和25年、GHQによる日本の航空運航禁止が解除される事が決まり、昭和26(1951)年9月、サンフランシスコ平和条約が調印された前後から、太平洋戦争を回顧する本の出版が急増、航空雑誌や旧軍機の記事も息を吹き返す。
 プレスコードが失効し、既に日本国憲法に依って保障されて居た筈の「表現の自由」が実現したのは、平和条約が発効した昭和27(1952)年4月28日の事だった。
 
 昭和28(1953)年、出版協同株式会社から出版された『坂井三郎空戦記録』実際の執筆者は同社社長の福林正之が大ベストセラーに為る。戦争前期、まだ優勢を保って居た時期に連合軍機をバタバタと撃ち墜とす零戦の姿は、同じ年に始まったテレビのプロレス中継で、外国人の巨漢レスラーを空手チョップで薙ぎ倒す力道山と同じ様に、敗戦で「ガイジン」にコンプレックスを抱く多くの日本人を熱狂させた。云わば、零戦の20ミリ機銃は、力道山の空手チョップの様な「必殺技」であったのだ。

 戦争が終わり、新憲法が公布・施行され、GHQによる占領が解かれても、人の価値観や体験から得た皮膚感覚は、10年や20年で変わり切れるものでは無い。20歳で終戦を迎えた旧軍人なら、昭和30年で30歳・40年で40歳・50年でも50歳の働き盛りの年代である。
 昭和38(1963)年、大阪生まれの筆者自身の卑近な例で言えば、子供の頃の昭和40年代、普段接する近所の商店主や「おっちゃん」と呼ぶ年配の男性の殆どに軍隊経験があり「ワシは徐州の会戦(昭和13年)に出たんや」「ワシはこう見えて陸軍少尉で爆撃機に乗ってたんやぞ」「ワシは上等兵曹で空母『龍驤』や戦艦『扶桑』に乗っとった』等の回顧談の多くは、聊かの誇張を交えた武勇伝だった。中華民国軍との戦いで、敵弾が鉄兜・ヘルメットに命中、貫通せずに鉄兜の中をグルグル回り、頭に鉢巻状の傷痕が残る菓子職人も居た。その人は、この時の体験が元でヤヤ気が変に為って居た。

 ・・・ともあれ、学校で先生が教える、戦前・戦中の日本や旧陸海軍を全否定するかの様な・・・それはそれで歴史から目を背ける問題を孕んだ・・・反戦・平和教育と、日常、身近な大人から聞く戦争の姿には、「戦争はいけ無い」と云う結論は同じでも、決して小さく無い落差があったのは事実である。そして前者の云わば「建前」と、後者の「本音」との狭間にコソ、戦記本が読まれる土壌があった。








 少年漫画誌の隆盛で、一躍ブームに

 漫画の世界でも、昭和30(1955)年、光文社の月刊誌『少年』で連載が始まり、後にテレビアニメ化されたロボット漫画の嚆矢「鉄人28号」(横山光輝作)は、ソモソモの設定が、太平洋戦争末期、日本陸軍が起死回生を期して開発して居た秘密兵器である巨大ロボットが戦後に現れて活躍する話で、矢張り戦争の影響は無視出来ない。

 昭和34(1959)年『週刊少年マガジン』(講談社)『週刊少年サンデー』(小学館)が発刊され、少年漫画誌がブームに為った頃からは、それ迄主に大人の読み物だった戦記ものが、漫画と為って子供の世界に迄降りて来た。

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 「戦争漫画」と云う括りにしてしまうと煩雑に為るので、飛行機がメインの「空戦漫画」に限って、どんな漫画があったかと云うと、代表的なものは先ず「ゼロ戦レッド」(貝塚ひろし・『冒険王』秋田書店、1961年7月号〜1966年1月号連載)「0戦太郎」(辻なおき・『少年画報』少年画報社、1961年9月号〜)であろう。
 貝塚ひろし、辻なおきは空戦漫画の二大作家と呼ばれ、その後も貝塚は「ゼロ戦行進曲」「烈風」「ああ、零戦トンボ」辻は「0戦はやと」「0戦仮面」「0戦あらし」と、空戦漫画を描き続ける。

 作風は、貝塚が、得意とするスポーツ・魔球ものの野球漫画のテイストを色濃く感じさせるものだったのに対し、後に梶原一騎と共に「タイガーマスク」を世に出す辻は、少年撃墜王を主人公に、そのライバル(大抵嫌なヤツ)そして敵役を判り易く描き分け、ドチラかと云えば講談や時代劇に近いものだった。
 「0戦はやと」は、昭和39(1964)年、脚本の一部と主題歌の作詞を「北の国から」等の作品で知られる倉本聰が担当し、テレビアニメ版がフジテレビから38話に渉って放映されて居る。前線から搔き集められた撃墜王ばかり36機の世界最強の戦闘機隊が、荒唐無稽とも言える活躍を見せるプリミティブな空戦活劇だが、締め括りのナレーションに「これだけは絶対忘れまい、敵も味方も人間であることを」と云う言葉が入る等、ヒューマニズムにも一定の配慮が感じられる内容に為って居た。

 他にも、月刊漫画誌『ぼくら』(講談社)に昭和38(1963)年10月号から39(1964)年8月号に掛け連載された、現代の天才パイロットが、父の形見の「ゼロ戦二十一世紀」と名付けた零戦を駆ってライバルや悪の組織と戦う「大空三四郎」(原作・高森朝雄〈梶原一騎〉漫画・吉田竜夫〈タツノコプロ創始者〉)『少年サンデー』に昭和37(1962)年から38(1963)年迄連載された、少年航空兵が陸軍の一式戦闘機「隼」を駆って活躍する「大空のちかい」(九里一平〈タツノコプロ第3代社長〉)等、この時代には星の数程も戦争漫画が生まれ、夫々に人気を得た。

 だが、そんな戦争漫画の中から代表的な作品をひとつ挙げよ、と云われれば、筆者は躊躇無く「紫電改のタカ」(ちばてつや)を選ぶ。

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 異彩を放って居た「紫電改のタカ」

 「紫電改のタカ」は『週刊少年マガジン』に、昭和38(1963)年7月から40(1965)年1月迄連載され、子供ばかりで無くその親の世代にも人気を博した、ちばてつや唯一の戦争漫画である。零戦や隼が縦横無尽に活躍する漫画の中にあって「紫電改のタカ」は、明らかに異彩を放って居た。
 飽く迄もバーチャルな世界、奇想天外な処があるのは、同時代の他の漫画とさして変わら無い。しかし、決定的に違う「何か」があったのだ。その差は、ひと言で云うと、人間性の描写にあったと思う。他の作家が、登場人物のキャラクターを「説明」してしまう処、ちばてつやのそれは「描写」の域に達して居た。つまり、余計な台詞や説明的なカットが無くとも、登場人物夫々の個性が際立ち、素直に読者に伝わって来た。これは、当時20歳代半ばだった作者の天稟によるものだろう。

 簡単に粗筋を紹介すると、主人公は滝城太郎一飛曹(後飛行兵曹長)四国松山出身、お萩が大好物である。松山には母と幼馴染で滝に思いを寄せる信子が居る。滝の属する七〇一飛行隊は多数の敵機との空戦で壊滅、滝を含む4名の生き残りは、松山の三四三空に配属され、度重なる戦果を挙げるが、最後は特攻隊員として出撃する・・・改めて目を通しながら「紫電改のタカ」のアレコレを考察してみる。と云って、これは論文でも作品解説でも無い。筆者の私的な感想文に近いものであると云う事を、予めお断りして置く。

 太平洋戦争末期の台湾・高雄基地「そこには名機紫電で編成された七〇一飛行隊があった」と云う処から物語は始まる。隊長が「白根少佐」である事からも、舞台設定が実在の戦闘第七〇一飛行隊である事は確かだろう。実戦前の猛訓練に、不平タラタラで宿舎に帰った紺野一飛曹達若い搭乗員が、隊長の悪口を言うのを窘1-14-13(たしな)める新入りの滝。生意気な登場の仕方である。
 滝は、緊急指令で敵重爆撃機B-17を邀撃、編隊から単機離れて急上昇・急降下の戦法で行き成り2機を撃墜し初戦果を挙げる。この戦法は後に「逆タカ戦法」と名付けられた。だが七〇一飛行隊は、次の出撃で敵グラマン戦闘機の大編隊との空戦で壊滅、滝と紺野一飛曹、久保一飛曹、米田二飛曹の4人だけが島に不時着して生き残る。

 そこで彼等は米軍に虜われるが、滝の機転で危地を脱し浜辺に隠してあった紫電で脱出。そして味方占領下の島の上空で、又も敵の大編隊と遭遇・空戦に入る。滝はココで「黒いウォーホーク」P-40 米陸軍戦闘機を操る凄腕の少年パイロットのジョージと対戦する。辛くも勝利して万歳で地上部隊に迎えられた滝を待って居たのは「マツヤマキチヘスグカエレ」との「カイグンシレイ ゲンダミノル」からの電報だった。
 滝を呼び戻した「源田司令」は言わずもがな、実在の源田實大佐だが「紫電改のタカ」連載開始の前年、1962年に源田元司令は参議院全国区に自民党から出馬、73万票を集めて当選して居る。源田氏がこの漫画を見た感想を聞きたかったものである。

 新鋭機・紫電改のテストの為横須賀に飛んだ滝は、ソコでも空襲に来た敵艦上機群を邀撃、逆タカ戦法で戦果を挙げる。逆タカ戦法は、急降下で突然敵の視界から姿を消し、下から撃ち上げ上空に抜けて更に急降下で上方攻撃を掛けると云う戦法で、滝機を見失った敵機は「オオ ナ、ナンダ」とか「イマハヤリノ忍術ヲツカッタノカ?」等と言いながら狼狽えるばかりで回避動作もせずに巡航を続ける。多い時はこれの反復攻撃で13機を撃墜した程の恐るべき戦法だ。

 この日の空戦で、敵海軍機の中に1機だけ「滝と対決する為に」陸軍機の黒いウォーホークで紛れて来たジョージと宿命の一騎討ち。しかしジョージは、割り込んで来た1機のオンボロ零戦に撃墜されてしまう。この零戦を操縦して居たのは菅野大尉。実在の戦闘三〇一飛行隊長・菅野直大尉とは似ても似つかぬ髭のおっさんに描かれて居るが、作品のキャラクターとしては好い味を出して居る。
 海に墜ちて助かったジョージは、矢張りこの日、撃墜されて捕虜に為った兄・トマスを救出すべく、同じ地点に墜ちた黒岩上飛曹との格闘を制して、横須賀基地内にあると設定された収容所に乗り込み、兄を助けて欲しいと滝に懇願するも、黒岩の裏切りで射殺されてしまう。

 この黒岩と云うのは「予科練の優等生」だったと云う設定だが、実に判り易い「嫌なヤツ」である。ドサクサに米兵捕虜達は脱走するが、その責任も黒岩が滝に擦り付け、滝は憲兵隊(集英社版の単行本では警務隊)に連行されるのだった。滝は憲兵(警務)に暴行を受けるが、黒岩とジョージの格闘を目撃して居た久保一飛曹の証言で釈放される。
 悪が滅びるのは少年漫画の習い、黒岩はヤガテ、今度は三四三航空隊(又の名を剣部隊)編成の源田司令の訓示の最中に、松山上空に再び遣って来た黒いウォーホークを見て恐怖の余り発狂する。この飛行機に乗って居たのは、弟の復讐に遣って来たトマスだった。黒岩はトマス帰途の空戦で命中球を浴びせるが、体当たりされて戦死する。

 ここで注目すべきは、作者が「友軍=善玉・敵軍=悪玉」と云う捉え方から完全に自由である事だ。この場合、悪いのは黒岩で、ジョージやトマスでは無い。敵も味方も好いヤツは好いヤツとして、悪いヤツは悪いヤツとして、等しく人間的に描かれて居るのだ。しかも、悪いヤツに関しても、最後にはフォローする事を忘れて居ない。この辺り、後のちばてつやの代表作「あしたのジョー」にも共通するものがあろう。









 ラストに凝縮された作者のメッセージ

 物語は、息も突かせぬ展開を見せる。トマスと黒岩が死んだ晩、突然、松山基地上空は多数の気球に覆われる。気球の先には、空気中の振動を敏感にキャッチして爆発する「YBひみつ爆弾」が吊り下げられて居た。敵は、松山基地の戦闘機を封じて居る間に、呉軍港に空襲を掛けて来たのだ。
 この時、滝は咄嗟の機転で気球を撃退、敵機を気球の下に追い込んで全滅させ、その功により二階級進級、准士官である兵曹長に任じられた。

 そして、菅野大尉に力量を見込まれて、スマトラ帰りの「七人のさむらい」と呼ばれる搭乗員達の隊長に抜擢され、下士官搭乗員と同じ兵舎で起居を共にする事に為る。生きながらにして二階級進級の栄を受けた搭乗員は現実には居ないから、これは飽く迄漫画の中の話。
 「七人のさむらい」は、若い滝を侮(あなど)って事有る毎に反抗する。そのリーダーは花田上飛曹。滝は「一飛曹の頃の方が楽しかった」と涙で枕を濡らす。ヤガテ滝以下11名の搭乗員に、台湾近くの島にある秘密基地への進出が下令される。

 ココでは紫電改為らぬ高速モーターボートで敵艦隊を壊滅させ、任務を終えて帰って来た滝は、太陽に向かって飛ぶ事で敵機を幻惑する「新戦法」を編み出し、一日の空戦で24機を撃墜、更にその戦法に磨きを掛けるべく、訓練に明け暮れるのだった。
 不死身に思えた滝の肉体も、ソロソロ限界に近付いて来る。丁度その頃、不気味な縞模様の入ったP-51戦闘機を駆るタイガー・モスキトンと呼ばれる米軍パイロットが、遭遇した日本機を片っ端から撃墜して居た。撃墜王・坂井三郎中尉がモスキトン撃墜を滝に託そうと、特別製の黒い紫電改を届けに来るが、そこで滝は、坂井中尉に体の不調を見抜かれ、日本アルプスの山中で静養を命じられる。だがこれは、静養に名を借りた、モスキトン撃墜の為の秘密訓練であった。

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 滝が許しを得て、大分基地に移動した部隊の元へ帰った時、花田上飛曹が滝に無断で黒い紫電改に乗ってモスキトンと対決する為出撃する。花田は結局、モスキトンに敗れ、何とか基地に帰還した処で事切れる。翌朝、モスキトン撃墜の決意も新たに滝が出撃する。
 滝VSモスキトンの死闘は、この作品のクライマックスである。激闘の果てにモスキトン機を撃墜したと思ったら、滝はもう1機の同じ迷彩の敵機から射弾を受ける。モスキトンは、兄弟のパイロットが2人1役、詰まり2機で単機を装い、日本機が一方に気を取られて居る隙にもう1機が奇襲を掛ける戦法を取って居たのである。

 残る1機に命中弾を与え、不時着させてみると、そのパイロット(モスキトン兄)は滝と変わら無い年頃の少年だった。彼は、真珠湾攻撃の時に家族を日本機に殺され、復讐の為戦闘機パイロットに為ったが「オレハモウ日本人ヲニクンデイナイヨ・・・オマエノヨウナヤサシイ日本人モイルコトガワカッタカラダ」と言い残し、拳銃で自決してしまう。滝に残ったのは、前途有為な若者を死なせた無常感のみだった。
 「戦争ってナンだ? ナンの為に戦争をヤルんだ? 何処の誰がこんな馬鹿気た事を始めたんだ?」と苦悶する滝は、戦争が終わったら学校の先生に為って、子供達に、戦争がいかに恐ろしいものであるかを教えてヤルんだと決意する。

 だが、そんな滝を待って居たのは、特攻出撃の命令だった。滝は、「自分の死が祖国日本を救う事に為るのだと云う言葉を信じようと努力しながら」死出の旅に出る。丁度滝が出撃した頃、母と信子が滝に面会の為、好物のお萩を持って大分駅に到着して居た・・・

 実際の三四三空は特攻を出して居ないが、そんな重箱の隅をつつく様な事を言っても始まら無い。滝の確認出来る撃墜機数を、全部で67機(+協同撃墜多数)と数える事も空しい。「信じながら」では無く「信じ様と努力しながら」滝は死んで行かねば為ら無かったのだ。作者のメッセージは、正にこのラストシーンに凝縮して居る。

 連載開始時のキャッチコピーは〈イヨイヨ始まった日本一の戦記まんが!〉確かに始めの内は、少年漫画らしい痛快アクション劇に近い感じであったものが、ジョージが理不尽な死を遂げる頃から、戦争への疑問を投げ掛ける雰囲気へと段々トーンが変わって来る。
 同時に、誌面に掲げられる楽し気で威勢の好いキャッチと作品の内容との間に乖離が目立つ様に為って来る。恐らく連載中に、編集部や出版社の営業サイドの意図を超えた処で、作者が滝城太郎を通じて内面的にも成長を遂げ、作品も自立する様に為ったのではないか。

 モスキトンが出て来る頃には、ハッキリ反戦的と云える程に、作者の視点が定まって居るが、最終回においても尚『少年マガジン』には〈雨の日も風の日も、紫電改を操縦して大活躍する滝城太郎! わらいと感動で、人気最高の航空戦記まんが!〉と云うキャッチが着けられて居て、ヤヤ痛々しい思いがする。同じ号の特集は「アメリカ第七艦隊のすべて」少年誌には付きものだった懸賞も「マンモス戦車大懸賞」だった。









 ブームに冷水を浴びせた事件
 
 そして「紫電改のタカ」連載終了の3年後、戦記漫画ブームに冷水を浴びせる事件が起きた。「あかつき戦闘隊」懸賞問題である。

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 「あかつき戦闘隊」は、相良俊輔原作、園田光慶画、前編(パゴス島編)、後編(特攻編)に分かれ『週刊少年サンデー』(小学館)で昭和43(1968)年から44(1969)年に掛けて連載された。「紫電改のタカ」と双璧を為す空戰漫画の名作とも呼べる作品だ。
 前編の物語は、新任中尉の八雲剛一郎が新鋭機紫電に乗って、南洋のパゴス島と云う、為らず者パイロットばかりが集められた「あかつき戦闘隊」が配備される小島に、隊長として赴任する処から始まる。

 パゴス島は、地上に在る飛行場は見せ掛けのオトリで、実際の滑走路は海面に浅く隠れた「まぼろしの滑走路」と称する秘密基地だった。経験不足の八雲は部下達にナメられ手荒い洗礼を受ける。だが、自ら階級章を外し、部下に真摯に教えを乞う八雲の姿に、部下達も次第に心酔する様に為って行く。
 パゴス島は敵機の来襲や艦砲射撃に晒され、隊員達は櫛の歯が欠ける様に戦死。遂に秘密基地であることが敵に見破られ、生き残りが足った4人と為って撤退を決意する。だが、正に飛び立とうとした処に敵機が来襲。

 八雲は爆薬を抱えて駆け出し、自らを犠牲にして部下の脱出の時間を稼ごうとしたが、それを察した部下の神虎吉一飛曹(河内の床屋のセガレ)が八雲から爆薬を奪い取り、着陸して来た敵機諸共爆死してしまう。残った3人は、ボロボロに為った戦闘機を操縦してパゴス島を後にした。
 後編では、大尉と為った八雲が、あかつき戦闘隊の生き残り・今三太郎二飛曹と共に、潜水空母イ-400(モデルは「潜水空母」伊号第四百潜水艦)に乗ってレイテ決戦に参加。イ-400は敵駆逐艦「ホワイトウルフ」との激闘で傷付き、戦艦「大和」の盾と為って敵の魚雷を受け沈没。上空から掩護する為発進した八雲も、敵機の大群との空戦で撃墜され、只一人生き残った今二飛曹は「大和」と共に内地に帰還する。

 問題に為ったのは『少年サンデー』昭和43(1968)年3月24日号で同誌がキャンペーンを張った「あかつき戦闘隊大懸賞」の商品の中身である。
 ミリタリーグッズで知られる中田商店がスポンサーに為り、1等が何と日本海軍の兵学校生徒制服・制帽・短剣、刀帯のセット、2、3等がアメリカ軍コレクション、4、5等がドイツ軍コレクション(ナチス旗、鉄十字章)。当選者総数は240名だった。
 これが「少年誌における軍国主義の復活」に繋がるとして、児童文学者達が抗議の声を上げ、小学館および中田商店に懸賞の撤回を求める「要望書」を出した。この事が3月15日の朝日新聞朝刊社会面で報じられたのを皮切りに、20にも上ると言われる、今で言う「市民団体」が小学館に圧力を掛けたのだ。

 少年漫画誌全体が軍事ものに偏り過ぎていた時期であり、抗議の声にも理が無いでは無かったが、昔も今も、こう云う「市民団体」の出す要望や抗議の類は、表現の自由と相反する「価値観の一方的な押し付け」と紙一重のものである事に変わりは無い。しかも連日、入れ替わり立ち代わり抗議に押し寄せて来る。小学館も閉口したに違いない。

 3月29日に為って出された小学館の回答は、賞品の撤回には言及せず「懸賞商品が、戦争推進の材料と為ら無い様に以下の様に十分な配慮を行う」として「当選者発表に際して、商品名の表示は行わ無い」「当選者に送付する際に商品に付いての解説を送付する」と云うものだったが、学校によっては「男子全員が葉書を出した」と言われる位、多くの子供達が応募したにも関わらず、当選して賞品が送られて来たと云う話は終1-14-15(つい)ぞ聞かれ無かった。
 懸賞問題が影響したものか「あかつき戦闘隊」の完結編として書かれた(若木書房版単行本まえがきで、原作者が言及している)はずの「本土決戦編」は、掲載も刊行もされず幻に終わった。

 そして、さしもの戦争漫画ブームも収束に向かう。少年誌として最後発でスタートした『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)が、辻なおきの「0戦あらし」(昭和47年)貝塚ひろしの「烈風」(昭和48年)を連載したのをホボ最後として、戦争漫画は、メジャー系出版社の週刊少年誌の連載と云う場からは姿を消して行った。
 同時に、読み物が多かった少年誌も、漫画主体のより軽いものへと変化して行った。昭和44(1969)年頃から、松本零士が「戦場まんがシリーズ」の短編漫画を不定期に発表、後にオムニバス形式のアニメーション作品(OVA)と為り、名作として熱狂的なファンが着く様に為るが、これは系譜としては「あかつき戦闘隊」以前の戦争漫画とは別のものであろう。









 反戦・平和教育と戦争漫画が共存した時代

 戦争漫画は以後、細分化されたマニアックな部分で生き残って行く事に為るが、ディテールに凝る余り、人間性が置き去りにされて居る様に感じるのは筆者だけだろうか。
 近年では、実在の人物や兵器が、タイムスリップものや美少女キャラクターの擬人化ゲームや漫画のモチーフにされ、当事者や遺族の心情とは掛け離れた独特の世界を構築して居る。その事の是非をココで論じても始まら無いが、軍隊経験の有る人が現役の社会人として身近に居た時代なら、こんな風には為ら無かっただろう。と言って、今時半世紀前のノリで戦争を描いても、世間一般に受け入れられるとは思え無い。時代は変わる、としか言い様が無いのかもしれない。

 戦争漫画衰退の理由は幾つか考えられる。一つには、時期を同じくして現れた特撮変身ヒーローものがそれに取って代わったこと。次に漫画自体の幅が、ギャグあり、心霊・怪奇ものあり、恋愛ものありと急速に広がり、雑誌の中で戦争ものの価値が相対的に下がったこと。「あかつき戦闘隊問題」で、出版社の姿勢が慎重に為った事も否定出来まい。
 そして、昭和47(1972)年の日中国交正常化。上野動物園にパンダが贈られ、中国共産党政権との友好一色だった当時の世相では、それ迄人気のあった、馬賊をテーマにした「おれは馬賊」「馬賊のすべて」等と云う特集記事は最早組み辛い。「パンダが戦争漫画を滅ぼした」と云うのはオーバーだとしても、それ迄国内だけに目を向けて居た出版社側にも、一定の配慮は働く様に為ったのではないか。

 ここまで紹介した戦争漫画の単行本の多くや少年向け戦記全集も、昭和50(1975)年頃までは地方の何処の本屋にも置いてあり「キディランド」の様な子供のオモチャ店でさえ、日本陸海軍の軍帽・階級章等の軍装品を店頭に並べて居た。それらも何時しか店頭から姿を消し、今の40歳代以下の男性に為ると、余程マニアックな人は別として、戦争漫画を読んで育ったと云う人は殆ど居ないのではないだろうか。
 戦争漫画のブームが好かったのか悪かったのか、筆者には判らない。只、戦後、反戦・平和教育と戦争漫画が共存する、そんな時代もあったと云う事は、知って置いても好いだろう。

 戦争漫画で育った世代が生んだ名作

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 ・・・だが、ココへ来て、従来の戦争漫画とは全く別の形で、戦争の時代を描いた漫画とその映画作品が脚光を浴びている。「この世界の片隅に」こうの史代が『漫画アクション』(双葉社)で平成19(2007)年から21(2009)年に掛け連載した漫画を、片渕須直監督が映画化。平成28(2016)年11月の公開以来、3年を超えるロングランと為り、令和元(2019)年12月20日には、新たなエピソードを加えた「完全版」とも呼ぶべき「この世界の(更に幾つもの)片隅に」が、全国で公開されて居る。

 広島に生まれ、呉に嫁いだ主人公の「すずさん」を通して、戦時下の庶民の日常、細やかな喜び、否応無しに迫り来る戦争の恐怖、その中で生き抜く人々の強さを丹念に描いたこの作品は、思想信条を超えて多くの人々の共感を呼んだ。
 原作が素晴らしいもので有ったのは間違い無い。同時に、片渕監督の細部にまで妥協を許さ無い姿勢が、原作の世界観を損なう事無く、光の当て方や見る角度次第で幾つもの色に輝く映像作品を作り上げた。

 この映画の凄さは、当時の記録を基に、その日の実際の気温で画面に蝶を飛ばす、飛ばさ無いを決める程徹底した取材、調査、考証に基づいて作られていながら、それ等を一切誇示して居ない処だ。気付く人は少ないと思うが、呉が空襲を受ける場面で、敵艦上機を追って一瞬映る紫電改の豆粒程の機体も、好く見れば主翼の空戦フラップがチヤんと作動して居たりする。
 一事が万事で、物語自体はフィクションであっても、ディテールに神は宿る。万人に受け入れられる間口の広さと、気付く人だけが気付けるディープな描写とが両立して居て、だからコソ、何度観ても新たな発見があり熱心なリピーターを呼ぶのだ。

 「この世界の(更に幾つもの)片隅に」と、過つての戦争漫画とでは「戦争」の描き方が全く異なり、作品の中で両者の間に関連性を見出す事は出来ない。だが、片渕監督は、知る人ぞ知る零戦・大戦機研究の第一人者であり、過つての戦争漫画に触れて育った世代でもある。
 その時代に子供だった人が、半世紀の時を経てコノの作品を生み出したと考えれば「自分の死が祖国日本を救う事に為るのだと云う言葉を信じ様と努力しながら」出撃した「紫電改のタカ」の滝城太郎も、以て瞑すべし、と言えるのかも知れない。
 (文中敬称略)

               神立 尚紀     以上









 【管理人のひとこと】

 熱い情熱で書かれたこのレポート・・・管理人はこの方のもう少し上の年代だが、そう云えば戦後の復興期が一段落し、多くの国民が貧しいながら懸命に働いた時代だった。敗戦を忘れ新たな日本が生まれ、そして経済成長へと繋がる時代でもあった。
 確かにこの頃、映画でも「戦争」に関するものが次々と封切られたものだ。特に記憶に残るのが、故・本郷功次郎 が主演した海軍の飛行特攻もの。凛々しい姿と不運な運命に対する理不尽な戦争指導者への批判と為る、秀逸な反戦映画だった。鶴田浩二氏の軍服姿も恰好好く、彼は次の任侠路線へと進化して行く。恐らく「丸」と云う戦争に特化した月刊誌もこの頃から出版されたのでは無かろうか。
 TVでは、大岡越前でお馴染の故・加藤剛氏が主演した「人間の条件」が放送され、軍隊や日本の持つ不合理や不正義に悩み立ち向かう好青年を熱演した。彼は中国に対する支配者である醜い日本の姿に嘆き、同じ人間足らんと努力する。

 ・・・そう云えば何故この時代に「戦争もの」が一種のブームの様な時を迎えたのだろうと疑問だった。筆者・神立尚紀氏の文筆家として素晴らしいのは、この話の落とし処として、話題作「この世界の隅に」を持って来た事だ。真正面から「反戦」を訴えず日常生活の中から「戦争の影響」を訥々と綴る事で「何か」を強く心に訴える。振り返って考えると、人間を不幸にさせるのは全て「せんそう」が原因なのだと・・・決して「愛国」だとか「美しい国」だとかの絵空事では無い、真の人間の心を描くのが広く多くの人に感銘を与えられるのだろう。




















 




「もう安倍首相は逃げられ無い」 桜の人田村参院議員が本気の追及方針明言









  「もう安倍首相は逃げられ無い」 桜の人田村参院議員が本気の追及方針明言

              〜週刊金曜日 1/14(火) 13:05配信〜


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 田村智子参議院議員(共産党)たむらともこ 1965年 長野県小諸市生まれ 早稲田大学卒業 国会議員の秘書などを経て2010年7月に国政選挙6度目の挑戦で参議院議員に初当選 現在2期目 2016年4月に日本共産党副委員長に就任


 新年に為っても、安倍晋三首相が主催した「桜を見る会」の問題(下記の疑惑一覧参照)が噴出し続けて居る。1月20日から始まる通常国会でも大きく取り上げられる事は間違い無い。そんな中、問題の突破口を開いた田村智子参議院議員(共産党)が『週刊金曜日』1月10日号で単独インタビューに応じ「安倍首相はもう逃げられ無い」と断言した。インタビュー冒頭で田村議員はこう指摘して居る。

 「第2次安倍政権7年をシンボリックに凝縮して居るのが「桜を見る会」です。公金を使って後援会員等を無料招待する。これは事実上の有権者買収です。これを許したら民主主義も公正な選挙も無く為る」
 
 野党の「追及チーム」は2019年11月下旬に「追及本部」に格上げと為り、田村議員は事務局長代行を務める。「追及本部」は「ホテルルート」「下関ルート」「昭恵(安倍晋三首相の妻)ルート」等八つの調査班を設けた。

 ジャパンライフが宣伝に利用

 田村議員は「ジャパンライフ問題」調査班の班長でもある。ジャパンライフの山口隆祥元会長は「桜を見る会」に招待された事を宣伝に使って居た。田村議員がインタビューで憤る。

 「2017年に経営破綻したジャパンライフ事件は、判って居るだけでも被害者約7000人・被害総額2000億円に上る実害を与えて居ます。泣き寝入りして居る人はもっと居ますよ。これは行政の私物化以上に深刻なもので、決して曖昧にはできません。
 2015年の招待が問題なのは、ジャパンライフは当時、計画的な倒産を視野に、それ迄にどれだけ稼いで財産を隠すかを画策して居た時期だからです。安倍首相の顔写真を使って信用させ被害を拡大させた。詐欺行為の広告塔に為って居たのだから罪深いのです」


 山口元会長の招待は「総理枠」だったのか。通常国会で野党は安倍首相をどう追及するのか。こうした疑問に付いても田村議員は『週刊金曜日』1月10日号で丁寧に答えて居る。安倍首相の責任を問う声は収まりそうに無い。

 「桜を見る会」疑惑一覧

 ▼公文書の廃棄 モリカケ疑惑での文書廃棄・隠蔽・改竄の再現か。2019年5月9日に共産党の宮本徹衆院議員が資料請求をしたが、その直後に名簿をシュレッダーで廃棄。推薦名簿の保存期間は文部科学省と総務省は「10年」だが、内閣府は「1年未満」証拠隠滅の疑い。

 ▼後援会員ら約850人を招待し饗応  安倍事務所が後援会等から約850人を招待し、公費を使った「桜を見る会」で飲食を無料提供したのは公職選挙法が禁じる「買収」の疑い。

 ▼ホテルでの前夜祭 「1人5000円」の会費以外の差額を安倍事務所が負担して居れば公選法違反の「寄附行為」の疑い。実際に掛かった立食パーティー費用と会費との差額をホテル側が負担して居れば贈収賄の疑い。

 ▼政治資金収支報告書への記載なし 「安倍事務所が1人5000円を集金してホテル名義の領収書を渡し、集金した現金はその場でホテル側に渡した」(11月15日・安倍首相の説明)と云うが「ホテル名義の領収書」発行の為には安倍事務所が事前に支払いをして居なければ為らず、そのホテルへの支払いの記載が政治資金収支報告書に無いのは政治資金規正法違反の疑い。

 ▼政府より前に「案内状」送付  「桜を見る会」の招待状を政府が発送したのは2019年3月だが、2月中に安倍事務所から後援者らに「案内状」を送付。公的行事私物化の疑い。

 ▼予算の不正支出 2019年度の「桜を見る会」の予算は「1767万円」だが、実際の支出は約3倍の「5519万円」多くの事業予算が削られる中、首相の立場を利用した不正支出の疑い。

 ▼公費の行事に「昭恵枠」  森友学園疑惑の際、安倍政権は安倍昭恵首相夫人を「公人では無く私人」と閣議決定したが、公的行事に「昭恵枠」の推薦が在ったのは公私混同の行政私物化で不正支出の疑い。共産党の調査では招待者は「7年間で累計143人」に及ぶと云う。

 ▼開門前の写真撮影 「桜を見る会」会場の東京・新宿御苑の開門と受付開始時間は「午前8時30分」だが、安倍首相夫妻は「午前7時48分」に到着し地元後援会員等と写真撮影。公的行事のルールを破る後援者優遇と行政の私物化。

 ▼「ジャパンライフ」元会長を招待 2014年に行政指導を受けたマルチ商法の問題企業「ジャパンライフ」(2017年12月に2405億円の巨額負債を抱え倒産)の元会長が2015年の「桜を見る会」に「招待区分番号60番」枠で招待され、被害拡大に拍車を掛けた疑い。「60番」は総理枠である可能性。2005年の総理推薦者が「60番」である事を宮本徹衆議院議員が公文書館で確認。

 ▼首相の答弁  安倍首相は当初「招待者の取りマトメ等には関与して居ない」(11月8日)としたが、11月20日には招待者の選定について「意見を言う事もあった」と関与を認める発言に変遷。
 又、ジャパンライフの元会長と「個人的な関係は一切無い」(12月2日)と否定したが、父・安倍晋太郎外務大臣(当時)の秘書官だった1984年9月に元会長と共に米ニューヨークを訪れて居た渡航記録がある事を、12月6日に外務省が認めた。野党側はこれを「虚偽答弁」として居る。
 更に11月8日の田村智子議員の質問に対し、安倍首相は公的行事なのに「個人情報」「セキュリティの問題」を連発し正当な理由無く答弁を拒否。


     金曜日電子メディア部 作成 片岡伸行・記者    以上






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漢帝国と古代ローマ帝国が「ホボ同時に衰退」した偶然では無い理由




 漢帝国と古代ローマ帝国が 「ホボ同時に衰退」した偶然では無い理由

           〜PHP Online 衆知(歴史街道) 1/14(火) 11:50配信〜


 〜予備校講師の神野正史氏の学習法は、暗記に頼らず、歴史の流れを理解するもの。多くの学生の偏差値を急騰させたその学び方を自著『暗記がいらない世界史の教科書』にて示している。
 予備校の人気世界史講師である神野正史氏は、世界史を「暗記」しようとしては、返って覚えられ無いと主張する。固有名詞や年号を無理に覚えようとせず、また各国の歴史をバラバラに勉強するのでは無く「歴史の流れ」を理解する事を目指す学習法で、学生によっては1年間で偏差値を20~30上げる事が出来ると云う。
 此処では、神野氏の新著『暗記がいらない世界史の教科書』より、ローマ帝国と漢帝国の衰退の関係に付いて触れた一節を紹介する〜
   

 ※本稿は神野正史著『暗記がいらない世界史の教科書』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです

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 世界の歴史は全てひとつの流れの中にある

 私が予備校の教壇に立つ様に為って30余年。その間、数え切れ無い程の学生を見て来ましたが、私と出逢う前から「正しい世界史学習」をして居る学生を見た事がありません。現実の「世界の歴史」は、各国の歴史が「世界史」と云う枠の中で密接に関わり合いながら動いて居ます。
 それを無視して「世界史」は語れず、それを究明・理解して行く事が「世界史」と云う学問の神髄なのであって、それが無いものは「各国史の寄せ集め」に過ぎません。

 歴史には「流れ」と云うものがあり、その流れには「段階」があり、その段階毎に「特性」があり、その中に生きて居る人々や国々は、常にその時代毎の「特性」の枠の中でしか動け無い為、一見バラバラに動いて居る様に見えて、実は統一的・調和的な動きをして居るのです。今回は、その一例を示したいと思います。

 気候が変動すると王朝が交代する

 西暦200〜400年頃。この時代は世界中で寒冷期と為り、環境の激変で、前時代まで栄えて居た国は揃って衰亡し、これ迄燻っていた地域からは盛国が現れた時代です。永らく広域の統一を維持して来た二大帝国・ローマと漢王朝は、この時代の上半期には歩調を合わせる様にして亡びに向かい、下半期はドチラも次時代の「分裂時代」への過渡期と為ります。

 上記二大帝国に挟まれて居た地域においても、前時代に隆盛を誇ったクシャーナ朝・サータヴァーハナ朝が矢張り分裂・解体を繰り返して衰亡して行きます。これに対して、前時代迄永らく燻っていた地域(イラン・北インド)にはササン朝・グプタ朝が生まれて隆盛期に入りました。
 より具体的に見てみましょう。永らく続いて居た温暖期も遂に終わりを告げ、この時代からは再び寒冷期に突入します。温暖期から寒冷期又はその逆と、気候が大きく揺れる時にはそれ迄繁栄を謳歌して居た国は潰え、前時代迄影も形も無かった国・燻って居た国が隆盛すると云う逆転現象が起きます。

 この時代も例外ではありません。前時代(古代 第8段階)迄安定期に在ったローマ帝国・後漢王朝・クシャーナ朝・サータヴァーハナ朝は、この時代(古代 第9段階)の幕開けと共に一斉に崩壊が始まり、前時代迄混乱・分裂・服属に甘んじて来た国々が隆盛期に入ります。

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 寒冷化が崩壊させた古代ローマ帝国

 この時代に入るや、遂この間まで「Pax Romana」「五賢帝時代」などと謳われて居たのが嘘の様に、一気に帝国の崩壊が始まります。

 歴史に疎い者に取っては「遂この間迄あれ程繁栄して居た国がどうして!?」と訝(いぶか)しく感じる程ですが、前時代までの平和は飽く迄「マイナスベクトル・崩壊」と「プラスベクトル・温暖気候」が±0と為った絶妙な調和の上で保たれて居ただけの見せ掛けの平和であって、支え(温暖気候)を失えば、一気に崩壊する程度の危ういものだった・・・と云う事を知って居れば、この時代の崩壊も当然の事と理解出来ます。

 ローマでは、寒冷化の到来によって帝国の収益が急速に悪化し、その結果、兵への給与が滞る事が常態化して行きます。兵の不満が募り、それはヤガテ各地で「兵乱」と云う形と為って表面化して行きました。
 しかしながら。洋の東西と古今を問わず、正統性や大義名分を持たぬ叛乱軍等「賊軍」の汚名を着せられて鎮圧・処刑される定めにあります。生き残りたい為らば、叛乱軍は自らの正統性を掲げねば為りません。こうして叛乱軍は勝手に「新皇帝」を祭り挙げた為、帝国各地で皇帝を僭称(せんしょう)する者が現れ、帝国は収拾の付か無い大混乱に陥りました。

 一兵卒が皇帝を僭称し、何人もの皇帝が併存して、血で血を洗うが如き混迷の時代を政治的には「軍人皇帝時代」と云い、社会的・経済的には「3世紀の危機」と呼びます。

 英雄にも止められ無かった「ローマ帝国の分裂」

 最早「放って置けば解体に向かう」帝国を担うのに凡帝では荷が重く、帝国に再び統一をもたらす為には「英主」の出現が待たれますが、その歴史的役割を担って現れた人物こそがディオクレティアヌス帝です。
 彼は対立皇帝・僭称皇帝を次々と討ち破って久し振りの「単独皇帝」と為り、ローマに再統一をもたらしました。しかしながら、この偉業を成し遂げた彼の力量を以てしても「最早、解体し続けるこの帝国を一人の皇帝で統治する事は不可能」と悟り「四分割統治・テトラルキア」を断行。

 従って実質的な統一は10年と保たず、以降の帝国は「統一」とは名ばかりの分裂時代を迎えます。次時代の「ローマ帝国の東西分裂」の前提条件はすでにこの時代に生まれて居たのでした。

 同時期に中国各地にも現れた「皇帝」

 ローマが「平和」から「危機」に陥落する転換期と為ったのが180年から193 年頃ですが、マルで息を合わせる様に、中国でも「安定期」から「混乱期」の転換期と為る象徴的事件が起こって居ました。それが「黄巾の乱・184〜192年」です。

 後漢は第4代和帝以降、原則として幼帝が立ち、その幼帝の横には外戚・宦官が控えてコレを操り、宮廷には奸臣・佞臣(ねいしん)が巣くい、地方には酷吏・汚吏が蔓延、この悪政に耐え兼ねた農民は流民と化して各地で盗賊・叛徒と為って国を荒らす。この様に、前漢と同じ途を辿って行き、その行き着く先に発生したのが「黄巾の乱」です。
 この叛乱を境として、中国史は所謂『三国志』時代に入りますが、各地に「皇帝」を僭称する者が現れたこの時代は、ローマ史では「軍人皇帝時代」を彷彿とさせます。世紀で云えば3世紀頃(184〜280年)でしたから、時代的にもローマの「3世紀の危機」に符合します。

 司馬炎が担った「ディオクレアヌス帝」と同じ役割

 この混乱の時代に再統一をもたらしたのが司馬炎でしたが、彼はローマ史に照らせば「ディオクレティアヌス帝」の歴史的役割を担って居ると云う事に為るでしょう。そのディオクレティアヌス帝は、統一状態を10年と維持出来なかったのですから、もしこの後も「ローマ史と中国史が一致する」と仮定するなら、司馬炎の興した西晋王朝の統一も又短いと云う事に為ります。

 果たせるかな、西晋王朝の統一はわずか20年(280〜300年)で破れ、以降、華南は漢民族による単独政権が維持された(東晋王朝)ものの、華北は五胡十六国の異民族が入り乱れた大混乱の時代に突入、次時代の「南北分裂」時代の先駆けと為ったのでした。

 ローマは「東西」中国は「南北」の違いはあれど、本質的な動きは見事にシンクロして居る事が判ります。

 各地で「繁栄して居た国」と「燻って居た国」が逆転した時代

 こうして、地理的には大きく離れて居たユーラシア大陸の 西の果てのローマ帝国と東の果ての後漢王朝が、歴史的に見事なシンクロを示す中、両国に挟まれた地域でも同様な歴史動向が展開されます。

 勿論、ローマ・中国とは前時代迄の歴史条件が全く違いますから、ここ迄の一致ではありませんが「前時代に発展していた国・地域はこの時代に入ると共に悉く衰微し、前時代に燻っていた国・地域はこの時代に入ると悉く繁栄する」と云うこの時代の歴史法則は見事に貫徹されます。
 即ち、前時代に発展して居たクシャーナ朝・サータヴァーハナ朝は、共にこの時代に入るや衰微し始め、この時代の終わりと共に滅亡して行きます。前時代迄燻り続けて来たイランでは、旧時代を支えて来たパルティア王国が亡び、代わって建ったササン朝ゾロアスター教を国教として急速に発展して行きました・・・西方ではローマ帝国を討ち破って時の皇帝を捕虜 としたばかりか、東方ではクシャーナ朝を征服して中央アジア迄進出、西アジアに覇を唱えて居ます。

 前時代まで漢王朝に劣勢を強いられて来たモンゴル高原からタリム盆地に掛けては、漢の衰滅と共に「五胡」が抬頭し始め、魏晋時代を掛けて力を蓄え、西晋が内乱状態(八王の乱)に陥るや、これに乗じて畿内に侵入、華北に異民族国家が濫立する「五胡十六国時代」に突入し、次の南北朝時代の礎を構築して行く原動力と為って行ったのでした。

 日本では国家形成の動きが?

 この様に、大国とその周辺諸国は「大国が繁栄期を迎えるとその周辺諸国は衰え、大国が衰亡期に入るとその周辺諸国が隆盛する」と云う相反的な動きをする事が多い。
 中国と云う東アジアの覇権国家の力が衰えて行くこの時代に、これ迄国家形成が進んで居なかった日本では統一への動きが始まります。唯、この頃の日本に付いては『三国志』の「魏志」東夷倭伝に僅かに伝わるだけで他に記録が無く、詳細に付いては殆ど判って居ません。

 この様に、世界史には或る段階毎に「特性」「流れ」が存在するのです。この「流れ」を把握する事こそが、世界史を学ぶ醍醐味だと言えるでしょう。


       神野正史(神野正史・予備校講師)    以上









 【関連記事】 「徳川幕府の成立」と「強国スペインの衰退」の深い関係

      〜神野正史(じんのまさふみ 予備校講師) 2020年01月14日 公開〜


 徳川家康と世界史の関係は?

 〜予備校の人気世界史講師である神野正史氏は、世界史を「暗記」しようとしては、返って覚えられ無いと主張する。固有名詞や年号を無理に覚えようとせず、又各国の歴史をバラバラに勉強するのでは無く「歴史の流れ」を理解する事を目指す学習法で、学生によっては1年間で偏差値を20~30上げる事が出来ると云う。
 此処では、神野氏の新著『暗記がいらない世界史の教科書』より、ローマ帝国と漢帝国の衰退の関係について触れた一節を紹介する〜

 
 ※本稿は神野正史著『暗記がいらない世界史の教科書』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです


 世界を覆った「17世紀の危機」

 近世以前の世界史は、温暖化或は寒冷化に依って、世界中が一つの「流れ」に従って居ました。この世界全体が従う「流れ」を掴む事で「世界史が見えると云う感覚を得る事が出来ます。その一例として、最寒期が世界を襲った「17世紀の危機」に付いて述べる事にしましょう。

 中世末(1350年頃)から始まった「小氷期」は、それ以前の旧制度を軒並み破壊し、その対応策としてヨーロッパ諸国は絶対主義に走り、前時代迄に続々とこれを確立して行きました。
 ソコに、1600〜50年頃に更なる厳しい冷え込みが襲い掛かった事で、各地で凶作が続き慢性的な食糧不足から戦乱・疫病・革命が相次ぐ様に為り「17世紀の危機」と呼ばれる暗い時代が生み落とされます。各国は事態打開の為の対応に迫られますが、その対応の取り方によって各国の歴史は大きく変わって行く事に為ります。

 スペインの黄昏とドイツ三十年戦争

 近世の開幕と共に何処よりも早く絶対主義を確立し「大航海時代」を切り拓いて、スペインの領海に日没無しと謳うたわれたスペインは、前時代の末(1581年)にはポルトガルを併呑する迄に為りましたが、殺戮(そつりく)と掠奪(りゃくだつ)に支えられた繁栄は長く続かず、この最寒期を契機として、衰微の一途を辿り、現在に至る迄歴史の表舞台に立つ事は無く為ります

 ドイツでは、前の時代に起きた宗教騒乱の問題解決を「アウグスブルクの宗教和議(1555年)」で先送りした、そのツケを最寒期の到来と共に高い利子を付けて支払わされる事に為ります。
 目の前の問題から目を背けた結果、燻り続けた不満は時と共に帝国に蔓延して行った為、1618年にプラハで起こった小さな事件がミルミル大事に為り、帝国全土を巻き込む大乱に発展して行ったのです。それ処か、最寒期の到来を前にして事態の打開を模索して居た周辺諸国がココゾとばかりドイツに軍事介入して来た為、全欧を巻き込んだ大戦争に発展してしまいます。

 それが「三十年戦争」です。この戦争で「ドイツの近代化は100年遅れた」と言われる程国土は荒廃し、人口は一気に1/3に迄落ち込み、1648年、要約条約(ウェストファリア条約)が締結されたものの、ドイツ・神聖ローマ帝国は実質的に滅亡して名目だけの存在と為り、分断国家は決定的と為ります。

 叛乱を鎮圧出来たフランスとイギリスが辿った両極の道

 これに対して英仏は、最寒期到来による国難を、絶対主義を背景とした植民地獲得(英)や戦争介入(仏)等、外への発展で乗り切ろうとします。しかし今回の最寒期に伴う混迷は、それを以てしても吸収し切れず、ヤガテ国民の不満は絶対王権へと向かい、その怒りがこの時代の末期(1640年代)に爆発してしまいます。それコソが、イギリスでは史上初の革命「清教徒革命(ピューリタン革命 1642〜49年)」であり、フランスでは貴族叛乱「フロンドの乱(1648年」です。

 この様に、この時代の英仏は「前時代迄に絶対主義を確立」し、国内問題の解決を外・・・植民地獲得・対外戦争に求めたものの、ドチラも絶対王権への叛乱に帰結する・・・と足並み揃えた歴史を歩みましたが、ここから先の両国の歴史は大きく分かれて行く事に為ります。その転換点と為ったのは、その王権に対する叛乱の鎮圧に成功したか失敗したかです。

 フロンドの乱の鎮圧に成功したフランスでは、それにより国内に於いて王権に逆らい得る勢力が居なく為り、次の時代で絶対王権の絶頂期を現出する足掛かりと為りました。これに対し、イギリスは叛乱鎮圧に失敗した処か、それが叛乱に収まらずに革命化してしまい、王権そのものが倒れてしまいます。
 その首謀者O・クロムウェルは絶対王権を打倒した後、王権を憎む余り、国体まで「王国・キングダム」から「共和国・リパブリック」に変えてしまいました。「何人(なんぴと)たりとも歴史の流れには逆らえ無い」と云う歴史の法則は絶対です。

 従って、感情的に為って絶対王権を倒した処で、これを倒した彼自身が絶対君主も裸足で逃げ出す独裁者と為ってこの国を牽引して行く事に為るだけです。こうして、王国を懐かしむ声が高まり、結局、この時代の末には王政復古が行われる事に為ります。

 最寒期の危機に翻弄されたバルト海沿岸の国家と、被害の少なかったオランダの覇権

 食糧が少無く為れば、残された僅かな富の争奪戦が起きるのは世の常です。只でさえ緯度が高く、寒い気候のバルト海沿岸の国々では、こたびの最寒期の危機をバルト権益を独占する事で乗り越え様とします。
 こうしてバルト沿岸の国々は相争い、以降、典露戦争スウェーデンバツ1ロシア・典波戦争スウェーデンバツ1ポーランド、更には三十年戦争・典丁戦争スウェーデンバツ1デンマーク、そして第1次北方戦争等「バルト海争奪戦」とも総称すべき戦乱を巻き起こす事に為りました。

 これ等の争奪戦を勝ち抜き、見事「バルト覇権」を手に入れたのが、グスタフ2世・クリスティーナ・カール10世と3代に渉ってこの争奪戦を戦い抜いたスウェーデンでした。
 以降のスウェーデンは別名「バルト帝国」と呼ばれ繁栄したのとは対照的に、敗れたデンマーク・ドイツ・ポーランドは衰退して行き、ロシアは新たな儲け口を探す為、シベリア方面へと領土拡大して行く事に為ります。

 この様に、各国が最寒期の危機に悶絶(もんぜつ)する中、比較的被害が少なかったのがオランダです。寒冷気候に依って最も被害を受けるのが農業であり、どの国も農業に大きく依存して居た為大打撃を受けましたが、オランダは商人国家だった為、その被害も他国に比べれば小さく、諸国が悶絶して居るのを横目に、オランダはヨーロッパを飛び出し、新大陸やアジア・アフリカ圏に貿易拠点を作って世界を相手に交易に勤(いそ)しみます。

 しかし、そのことは裏を返せば、最寒期が明け、ヨーロッパ諸国が力を恢復し始めれば、オランダの繁栄にも影が差すことを意味します。事実、最寒期が収まって来た17世紀の後半に為ると、海に進出して来たイギリスの挑戦を受け、以降、守勢に転じて行く事に為りました。

 停滞期に入ったオスマン帝国とムガール帝国

 この様に「17世紀の危機」に悶絶するヨーロッパにも喰い込み、三大陸を股に掛ける大帝国と為って居たオスマン帝国も又、最寒期の影響と無縁ではありませんでした。しかしながら、オスマン帝国は、東地中海をマーレ・ノストゥルム・我等が海として、アジアとヨーロッパを結ぶ中継貿易での商業収入も多かった為「帝国を支えるベクトル」と「衰退のベクトル」が拮抗し、帝国の行く末を左右する様な大戦も無ければ内乱も無い「停滞期」と為ります。

 当時のイスラームに於いてオスマン帝国と双璧を成すムガール帝国も又、オスマン帝国と同じ様な道を辿りましたが、ここから先の両国の歴史は大きく分かれて行く事に為ります。

 実は、ひとつの国家が衰退期に入った時、そのままユックリと見せ場も無く衰亡して行くパターンと、一時的に文化が華やいで中興が現れるパターンがあります。中興が起こら無い場合はユックリと衰退して行きますが、起こった場合、中興が終わるや否や一気に収拾の付か無い大混乱に陥って短期の内に滅亡することが多いものです。
 この時代、オスマン帝国には中興が現れませんでしたが、ムガール帝国は文化が華(はな)やぐ中興現象が現れます。第5代シャージャハーン帝の頃を中心にイスラーム文化とヒンドゥー文化が融合したインド=イスラーム文化が華やぎ、建築にタージ=マハル廟、絵画にムガール絵画が栄えます。従って、次時代からオスマン帝国がユックリと衰退して行くのとは対照的に、以降のムガール帝国は急速に解体して行く事に為ります。

 これに対して、前時代、オスマン・ムガール二大帝国に挟まれて発展出来なかったサファヴィー朝は、両国が停滞期に入り圧力が和らいだ事で、両国より少し遅れてアッバース1世(位1588〜1629年)の下に絶頂期に入りました。
 しかし、矢張り歴史の流れには逆らえず、彼の没後はオスマン・ムガール両帝国を追う様にして、停滞期に入って行きます。つまり、この時代のイスラーム世界は、三者三様の過程を辿りつつも、結局は一斉に停滞期に入った事に為ります。

 小氷期と共に栄えた清朝、ロマノフ朝ロシア帝国、江戸幕府

 この様に、ヨーロッパ文化圏が「17世紀の危機」に悶絶し、イスラーム世界が停滞して行ったこの時代、中国は新旧交代の明末清初に当たりました。

 サファヴィー朝がアッバース1世の下我が世の春を謳歌して居た丁度その頃と云うのは、中国では明朝第14代万暦帝の親政期(1582〜1620年)に当たりますが、万暦帝は折角首輔・・・内閣大学士の長・現代日本の首相に当たるの張居正から引き継いだ黒字財政を、相次ぐ外征と奢侈な生活でアッと云う間に破綻させ、明朝を亡ぼす元凶と為って行きます。

 万暦帝が親政を開始した翌年(1583年)には、すでに満洲・マンジュから女真・ジュルチン族建州部が自立化して居り、その晩年には「清」が打ち建てられ(1616年)万暦帝の死から四半世紀と経ずして明朝は滅亡、清朝が取って代わる事に為りました。
 こうして、すでに制度疲労を起こしていた明朝は亡び、新進気鋭の清朝に切り替わった事で、次の時代の極盛期の前提が整います。

 この時代は、日本は丁度江戸幕府の前期(初代徳川家康〜4代家綱)に当たり、以降「徳川三百年」と言われる礎を築いて行く事に為りますが、実はこの徳川政権と足並みを揃えるようにして展開した王朝が2つあります。ひとつが、ヨーロッパのロマノフ朝ロシア帝国ともうひとつが中国の清朝

 この3つの王朝・・・正確に言えば、徳川家は将軍家は、いずれも小氷期の最寒期が襲った1600年を少し越えた頃に生まれ、小氷期のド真ん中の1700年前後に絶頂期を迎え、300年近く命脈を保った後、小氷期が明けて間も無く亡ぶと云う、好く似た歴史を歩みます。
 正に、小氷期の最寒期に生まれ・小氷期と共に栄え・小氷期と共に亡んで行った・・・小氷期の申し子とも云うべき3王朝でした。


                   以上






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