2020年01月14日
漢帝国と古代ローマ帝国が「ホボ同時に衰退」した偶然では無い理由
漢帝国と古代ローマ帝国が 「ホボ同時に衰退」した偶然では無い理由
〜PHP Online 衆知(歴史街道) 1/14(火) 11:50配信〜
〜予備校講師の神野正史氏の学習法は、暗記に頼らず、歴史の流れを理解するもの。多くの学生の偏差値を急騰させたその学び方を自著『暗記がいらない世界史の教科書』にて示している。
予備校の人気世界史講師である神野正史氏は、世界史を「暗記」しようとしては、返って覚えられ無いと主張する。固有名詞や年号を無理に覚えようとせず、また各国の歴史をバラバラに勉強するのでは無く「歴史の流れ」を理解する事を目指す学習法で、学生によっては1年間で偏差値を20~30上げる事が出来ると云う。
此処では、神野氏の新著『暗記がいらない世界史の教科書』より、ローマ帝国と漢帝国の衰退の関係に付いて触れた一節を紹介する〜
※本稿は神野正史著『暗記がいらない世界史の教科書』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです
世界の歴史は全てひとつの流れの中にある
私が予備校の教壇に立つ様に為って30余年。その間、数え切れ無い程の学生を見て来ましたが、私と出逢う前から「正しい世界史学習」をして居る学生を見た事がありません。現実の「世界の歴史」は、各国の歴史が「世界史」と云う枠の中で密接に関わり合いながら動いて居ます。
それを無視して「世界史」は語れず、それを究明・理解して行く事が「世界史」と云う学問の神髄なのであって、それが無いものは「各国史の寄せ集め」に過ぎません。
歴史には「流れ」と云うものがあり、その流れには「段階」があり、その段階毎に「特性」があり、その中に生きて居る人々や国々は、常にその時代毎の「特性」の枠の中でしか動け無い為、一見バラバラに動いて居る様に見えて、実は統一的・調和的な動きをして居るのです。今回は、その一例を示したいと思います。
気候が変動すると王朝が交代する
西暦200〜400年頃。この時代は世界中で寒冷期と為り、環境の激変で、前時代まで栄えて居た国は揃って衰亡し、これ迄燻っていた地域からは盛国が現れた時代です。永らく広域の統一を維持して来た二大帝国・ローマと漢王朝は、この時代の上半期には歩調を合わせる様にして亡びに向かい、下半期はドチラも次時代の「分裂時代」への過渡期と為ります。
上記二大帝国に挟まれて居た地域においても、前時代に隆盛を誇ったクシャーナ朝・サータヴァーハナ朝が矢張り分裂・解体を繰り返して衰亡して行きます。これに対して、前時代迄永らく燻っていた地域(イラン・北インド)にはササン朝・グプタ朝が生まれて隆盛期に入りました。
より具体的に見てみましょう。永らく続いて居た温暖期も遂に終わりを告げ、この時代からは再び寒冷期に突入します。温暖期から寒冷期又はその逆と、気候が大きく揺れる時にはそれ迄繁栄を謳歌して居た国は潰え、前時代迄影も形も無かった国・燻って居た国が隆盛すると云う逆転現象が起きます。
この時代も例外ではありません。前時代(古代 第8段階)迄安定期に在ったローマ帝国・後漢王朝・クシャーナ朝・サータヴァーハナ朝は、この時代(古代 第9段階)の幕開けと共に一斉に崩壊が始まり、前時代迄混乱・分裂・服属に甘んじて来た国々が隆盛期に入ります。
寒冷化が崩壊させた古代ローマ帝国
この時代に入るや、遂この間まで「Pax Romana」「五賢帝時代」などと謳われて居たのが嘘の様に、一気に帝国の崩壊が始まります。
歴史に疎い者に取っては「遂この間迄あれ程繁栄して居た国がどうして!?」と訝(いぶか)しく感じる程ですが、前時代までの平和は飽く迄「マイナスベクトル・崩壊」と「プラスベクトル・温暖気候」が±0と為った絶妙な調和の上で保たれて居ただけの見せ掛けの平和であって、支え(温暖気候)を失えば、一気に崩壊する程度の危ういものだった・・・と云う事を知って居れば、この時代の崩壊も当然の事と理解出来ます。
ローマでは、寒冷化の到来によって帝国の収益が急速に悪化し、その結果、兵への給与が滞る事が常態化して行きます。兵の不満が募り、それはヤガテ各地で「兵乱」と云う形と為って表面化して行きました。
しかしながら。洋の東西と古今を問わず、正統性や大義名分を持たぬ叛乱軍等「賊軍」の汚名を着せられて鎮圧・処刑される定めにあります。生き残りたい為らば、叛乱軍は自らの正統性を掲げねば為りません。こうして叛乱軍は勝手に「新皇帝」を祭り挙げた為、帝国各地で皇帝を僭称(せんしょう)する者が現れ、帝国は収拾の付か無い大混乱に陥りました。
一兵卒が皇帝を僭称し、何人もの皇帝が併存して、血で血を洗うが如き混迷の時代を政治的には「軍人皇帝時代」と云い、社会的・経済的には「3世紀の危機」と呼びます。
英雄にも止められ無かった「ローマ帝国の分裂」
最早「放って置けば解体に向かう」帝国を担うのに凡帝では荷が重く、帝国に再び統一をもたらす為には「英主」の出現が待たれますが、その歴史的役割を担って現れた人物こそがディオクレティアヌス帝です。
彼は対立皇帝・僭称皇帝を次々と討ち破って久し振りの「単独皇帝」と為り、ローマに再統一をもたらしました。しかしながら、この偉業を成し遂げた彼の力量を以てしても「最早、解体し続けるこの帝国を一人の皇帝で統治する事は不可能」と悟り「四分割統治・テトラルキア」を断行。
従って実質的な統一は10年と保たず、以降の帝国は「統一」とは名ばかりの分裂時代を迎えます。次時代の「ローマ帝国の東西分裂」の前提条件はすでにこの時代に生まれて居たのでした。
同時期に中国各地にも現れた「皇帝」
ローマが「平和」から「危機」に陥落する転換期と為ったのが180年から193 年頃ですが、マルで息を合わせる様に、中国でも「安定期」から「混乱期」の転換期と為る象徴的事件が起こって居ました。それが「黄巾の乱・184〜192年」です。
後漢は第4代和帝以降、原則として幼帝が立ち、その幼帝の横には外戚・宦官が控えてコレを操り、宮廷には奸臣・佞臣(ねいしん)が巣くい、地方には酷吏・汚吏が蔓延、この悪政に耐え兼ねた農民は流民と化して各地で盗賊・叛徒と為って国を荒らす。この様に、前漢と同じ途を辿って行き、その行き着く先に発生したのが「黄巾の乱」です。
この叛乱を境として、中国史は所謂『三国志』時代に入りますが、各地に「皇帝」を僭称する者が現れたこの時代は、ローマ史では「軍人皇帝時代」を彷彿とさせます。世紀で云えば3世紀頃(184〜280年)でしたから、時代的にもローマの「3世紀の危機」に符合します。
司馬炎が担った「ディオクレアヌス帝」と同じ役割
この混乱の時代に再統一をもたらしたのが司馬炎でしたが、彼はローマ史に照らせば「ディオクレティアヌス帝」の歴史的役割を担って居ると云う事に為るでしょう。そのディオクレティアヌス帝は、統一状態を10年と維持出来なかったのですから、もしこの後も「ローマ史と中国史が一致する」と仮定するなら、司馬炎の興した西晋王朝の統一も又短いと云う事に為ります。
果たせるかな、西晋王朝の統一はわずか20年(280〜300年)で破れ、以降、華南は漢民族による単独政権が維持された(東晋王朝)ものの、華北は五胡十六国の異民族が入り乱れた大混乱の時代に突入、次時代の「南北分裂」時代の先駆けと為ったのでした。
ローマは「東西」中国は「南北」の違いはあれど、本質的な動きは見事にシンクロして居る事が判ります。
各地で「繁栄して居た国」と「燻って居た国」が逆転した時代
こうして、地理的には大きく離れて居たユーラシア大陸の 西の果てのローマ帝国と東の果ての後漢王朝が、歴史的に見事なシンクロを示す中、両国に挟まれた地域でも同様な歴史動向が展開されます。
勿論、ローマ・中国とは前時代迄の歴史条件が全く違いますから、ここ迄の一致ではありませんが「前時代に発展していた国・地域はこの時代に入ると共に悉く衰微し、前時代に燻っていた国・地域はこの時代に入ると悉く繁栄する」と云うこの時代の歴史法則は見事に貫徹されます。
即ち、前時代に発展して居たクシャーナ朝・サータヴァーハナ朝は、共にこの時代に入るや衰微し始め、この時代の終わりと共に滅亡して行きます。前時代迄燻り続けて来たイランでは、旧時代を支えて来たパルティア王国が亡び、代わって建ったササン朝がゾロアスター教を国教として急速に発展して行きました・・・西方ではローマ帝国を討ち破って時の皇帝を捕虜 としたばかりか、東方ではクシャーナ朝を征服して中央アジア迄進出、西アジアに覇を唱えて居ます。
前時代まで漢王朝に劣勢を強いられて来たモンゴル高原からタリム盆地に掛けては、漢の衰滅と共に「五胡」が抬頭し始め、魏晋時代を掛けて力を蓄え、西晋が内乱状態(八王の乱)に陥るや、これに乗じて畿内に侵入、華北に異民族国家が濫立する「五胡十六国時代」に突入し、次の南北朝時代の礎を構築して行く原動力と為って行ったのでした。
日本では国家形成の動きが?
この様に、大国とその周辺諸国は「大国が繁栄期を迎えるとその周辺諸国は衰え、大国が衰亡期に入るとその周辺諸国が隆盛する」と云う相反的な動きをする事が多い。
中国と云う東アジアの覇権国家の力が衰えて行くこの時代に、これ迄国家形成が進んで居なかった日本では統一への動きが始まります。唯、この頃の日本に付いては『三国志』の「魏志」東夷倭伝に僅かに伝わるだけで他に記録が無く、詳細に付いては殆ど判って居ません。
この様に、世界史には或る段階毎に「特性」「流れ」が存在するのです。この「流れ」を把握する事こそが、世界史を学ぶ醍醐味だと言えるでしょう。
神野正史(神野正史・予備校講師) 以上
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〜神野正史(じんのまさふみ 予備校講師) 2020年01月14日 公開〜
徳川家康と世界史の関係は?
〜予備校の人気世界史講師である神野正史氏は、世界史を「暗記」しようとしては、返って覚えられ無いと主張する。固有名詞や年号を無理に覚えようとせず、又各国の歴史をバラバラに勉強するのでは無く「歴史の流れ」を理解する事を目指す学習法で、学生によっては1年間で偏差値を20~30上げる事が出来ると云う。
此処では、神野氏の新著『暗記がいらない世界史の教科書』より、ローマ帝国と漢帝国の衰退の関係について触れた一節を紹介する〜
※本稿は神野正史著『暗記がいらない世界史の教科書』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです
世界を覆った「17世紀の危機」
近世以前の世界史は、温暖化或は寒冷化に依って、世界中が一つの「流れ」に従って居ました。この世界全体が従う「流れ」を掴む事で「世界史が見えると云う感覚を得る事が出来ます。その一例として、最寒期が世界を襲った「17世紀の危機」に付いて述べる事にしましょう。
中世末(1350年頃)から始まった「小氷期」は、それ以前の旧制度を軒並み破壊し、その対応策としてヨーロッパ諸国は絶対主義に走り、前時代迄に続々とこれを確立して行きました。
ソコに、1600〜50年頃に更なる厳しい冷え込みが襲い掛かった事で、各地で凶作が続き慢性的な食糧不足から戦乱・疫病・革命が相次ぐ様に為り「17世紀の危機」と呼ばれる暗い時代が生み落とされます。各国は事態打開の為の対応に迫られますが、その対応の取り方によって各国の歴史は大きく変わって行く事に為ります。
スペインの黄昏とドイツ三十年戦争
近世の開幕と共に何処よりも早く絶対主義を確立し「大航海時代」を切り拓いて、スペインの領海に日没無しと謳うたわれたスペインは、前時代の末(1581年)にはポルトガルを併呑する迄に為りましたが、殺戮(そつりく)と掠奪(りゃくだつ)に支えられた繁栄は長く続かず、この最寒期を契機として、衰微の一途を辿り、現在に至る迄歴史の表舞台に立つ事は無く為ります
ドイツでは、前の時代に起きた宗教騒乱の問題解決を「アウグスブルクの宗教和議(1555年)」で先送りした、そのツケを最寒期の到来と共に高い利子を付けて支払わされる事に為ります。
目の前の問題から目を背けた結果、燻り続けた不満は時と共に帝国に蔓延して行った為、1618年にプラハで起こった小さな事件がミルミル大事に為り、帝国全土を巻き込む大乱に発展して行ったのです。それ処か、最寒期の到来を前にして事態の打開を模索して居た周辺諸国がココゾとばかりドイツに軍事介入して来た為、全欧を巻き込んだ大戦争に発展してしまいます。
それが「三十年戦争」です。この戦争で「ドイツの近代化は100年遅れた」と言われる程国土は荒廃し、人口は一気に1/3に迄落ち込み、1648年、要約条約(ウェストファリア条約)が締結されたものの、ドイツ・神聖ローマ帝国は実質的に滅亡して名目だけの存在と為り、分断国家は決定的と為ります。
叛乱を鎮圧出来たフランスとイギリスが辿った両極の道
これに対して英仏は、最寒期到来による国難を、絶対主義を背景とした植民地獲得(英)や戦争介入(仏)等、外への発展で乗り切ろうとします。しかし今回の最寒期に伴う混迷は、それを以てしても吸収し切れず、ヤガテ国民の不満は絶対王権へと向かい、その怒りがこの時代の末期(1640年代)に爆発してしまいます。それコソが、イギリスでは史上初の革命「清教徒革命(ピューリタン革命 1642〜49年)」であり、フランスでは貴族叛乱「フロンドの乱(1648年」です。
この様に、この時代の英仏は「前時代迄に絶対主義を確立」し、国内問題の解決を外・・・植民地獲得・対外戦争に求めたものの、ドチラも絶対王権への叛乱に帰結する・・・と足並み揃えた歴史を歩みましたが、ここから先の両国の歴史は大きく分かれて行く事に為ります。その転換点と為ったのは、その王権に対する叛乱の鎮圧に成功したか失敗したかです。
フロンドの乱の鎮圧に成功したフランスでは、それにより国内に於いて王権に逆らい得る勢力が居なく為り、次の時代で絶対王権の絶頂期を現出する足掛かりと為りました。これに対し、イギリスは叛乱鎮圧に失敗した処か、それが叛乱に収まらずに革命化してしまい、王権そのものが倒れてしまいます。
その首謀者O・クロムウェルは絶対王権を打倒した後、王権を憎む余り、国体まで「王国・キングダム」から「共和国・リパブリック」に変えてしまいました。「何人(なんぴと)たりとも歴史の流れには逆らえ無い」と云う歴史の法則は絶対です。
従って、感情的に為って絶対王権を倒した処で、これを倒した彼自身が絶対君主も裸足で逃げ出す独裁者と為ってこの国を牽引して行く事に為るだけです。こうして、王国を懐かしむ声が高まり、結局、この時代の末には王政復古が行われる事に為ります。
最寒期の危機に翻弄されたバルト海沿岸の国家と、被害の少なかったオランダの覇権
食糧が少無く為れば、残された僅かな富の争奪戦が起きるのは世の常です。只でさえ緯度が高く、寒い気候のバルト海沿岸の国々では、こたびの最寒期の危機をバルト権益を独占する事で乗り越え様とします。
こうしてバルト沿岸の国々は相争い、以降、典露戦争スウェーデンロシア・典波戦争スウェーデンポーランド、更には三十年戦争・典丁戦争スウェーデンデンマーク、そして第1次北方戦争等「バルト海争奪戦」とも総称すべき戦乱を巻き起こす事に為りました。
これ等の争奪戦を勝ち抜き、見事「バルト覇権」を手に入れたのが、グスタフ2世・クリスティーナ・カール10世と3代に渉ってこの争奪戦を戦い抜いたスウェーデンでした。
以降のスウェーデンは別名「バルト帝国」と呼ばれ繁栄したのとは対照的に、敗れたデンマーク・ドイツ・ポーランドは衰退して行き、ロシアは新たな儲け口を探す為、シベリア方面へと領土拡大して行く事に為ります。
この様に、各国が最寒期の危機に悶絶(もんぜつ)する中、比較的被害が少なかったのがオランダです。寒冷気候に依って最も被害を受けるのが農業であり、どの国も農業に大きく依存して居た為大打撃を受けましたが、オランダは商人国家だった為、その被害も他国に比べれば小さく、諸国が悶絶して居るのを横目に、オランダはヨーロッパを飛び出し、新大陸やアジア・アフリカ圏に貿易拠点を作って世界を相手に交易に勤(いそ)しみます。
しかし、そのことは裏を返せば、最寒期が明け、ヨーロッパ諸国が力を恢復し始めれば、オランダの繁栄にも影が差すことを意味します。事実、最寒期が収まって来た17世紀の後半に為ると、海に進出して来たイギリスの挑戦を受け、以降、守勢に転じて行く事に為りました。
停滞期に入ったオスマン帝国とムガール帝国
この様に「17世紀の危機」に悶絶するヨーロッパにも喰い込み、三大陸を股に掛ける大帝国と為って居たオスマン帝国も又、最寒期の影響と無縁ではありませんでした。しかしながら、オスマン帝国は、東地中海をマーレ・ノストゥルム・我等が海として、アジアとヨーロッパを結ぶ中継貿易での商業収入も多かった為「帝国を支えるベクトル」と「衰退のベクトル」が拮抗し、帝国の行く末を左右する様な大戦も無ければ内乱も無い「停滞期」と為ります。
当時のイスラームに於いてオスマン帝国と双璧を成すムガール帝国も又、オスマン帝国と同じ様な道を辿りましたが、ここから先の両国の歴史は大きく分かれて行く事に為ります。
実は、ひとつの国家が衰退期に入った時、そのままユックリと見せ場も無く衰亡して行くパターンと、一時的に文化が華やいで中興が現れるパターンがあります。中興が起こら無い場合はユックリと衰退して行きますが、起こった場合、中興が終わるや否や一気に収拾の付か無い大混乱に陥って短期の内に滅亡することが多いものです。
この時代、オスマン帝国には中興が現れませんでしたが、ムガール帝国は文化が華(はな)やぐ中興現象が現れます。第5代シャージャハーン帝の頃を中心にイスラーム文化とヒンドゥー文化が融合したインド=イスラーム文化が華やぎ、建築にタージ=マハル廟、絵画にムガール絵画が栄えます。従って、次時代からオスマン帝国がユックリと衰退して行くのとは対照的に、以降のムガール帝国は急速に解体して行く事に為ります。
これに対して、前時代、オスマン・ムガール二大帝国に挟まれて発展出来なかったサファヴィー朝は、両国が停滞期に入り圧力が和らいだ事で、両国より少し遅れてアッバース1世(位1588〜1629年)の下に絶頂期に入りました。
しかし、矢張り歴史の流れには逆らえず、彼の没後はオスマン・ムガール両帝国を追う様にして、停滞期に入って行きます。つまり、この時代のイスラーム世界は、三者三様の過程を辿りつつも、結局は一斉に停滞期に入った事に為ります。
小氷期と共に栄えた清朝、ロマノフ朝ロシア帝国、江戸幕府
この様に、ヨーロッパ文化圏が「17世紀の危機」に悶絶し、イスラーム世界が停滞して行ったこの時代、中国は新旧交代の明末清初に当たりました。
サファヴィー朝がアッバース1世の下我が世の春を謳歌して居た丁度その頃と云うのは、中国では明朝第14代万暦帝の親政期(1582〜1620年)に当たりますが、万暦帝は折角首輔・・・内閣大学士の長・現代日本の首相に当たるの張居正から引き継いだ黒字財政を、相次ぐ外征と奢侈な生活でアッと云う間に破綻させ、明朝を亡ぼす元凶と為って行きます。
万暦帝が親政を開始した翌年(1583年)には、すでに満洲・マンジュから女真・ジュルチン族建州部が自立化して居り、その晩年には「清」が打ち建てられ(1616年)万暦帝の死から四半世紀と経ずして明朝は滅亡、清朝が取って代わる事に為りました。
こうして、すでに制度疲労を起こしていた明朝は亡び、新進気鋭の清朝に切り替わった事で、次の時代の極盛期の前提が整います。
この時代は、日本は丁度江戸幕府の前期(初代徳川家康〜4代家綱)に当たり、以降「徳川三百年」と言われる礎を築いて行く事に為りますが、実はこの徳川政権と足並みを揃えるようにして展開した王朝が2つあります。ひとつが、ヨーロッパのロマノフ朝ロシア帝国ともうひとつが中国の清朝。
この3つの王朝・・・正確に言えば、徳川家は将軍家は、いずれも小氷期の最寒期が襲った1600年を少し越えた頃に生まれ、小氷期のド真ん中の1700年前後に絶頂期を迎え、300年近く命脈を保った後、小氷期が明けて間も無く亡ぶと云う、好く似た歴史を歩みます。
正に、小氷期の最寒期に生まれ・小氷期と共に栄え・小氷期と共に亡んで行った・・・小氷期の申し子とも云うべき3王朝でした。
以上
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