アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2020年01月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2020年01月25日

「人類の未来は決して暗くない」世界注目のハーバード大学教授が喝破する ジャーナリズムの罪


  
  「人類の未来は決して暗く無い」

  世界注目のハーバード大学教授が喝破する ジャーナリズムの罪


              〜文春オンライン 1/25(土) 6:00配信〜


        1-25-16.jpg

             スティーブン・ピンカー氏 コピーライトマーク大野和基


       「我々は未来に付いて楽観主義に為るべきでしょう」

 そう語るのは、ハーバード大学心理学教授のスティーブン・ピンカー氏だ。国内では、崩壊する年金制度や人口減少、移民の受け入れ等の問題が山積し、国外に目を向けても、異常気象や緊迫した国際情勢が待った無しの状況・・・現状をそう捉え、絶望して居る人々は多いだろう。
 しかし、こうした希望の無い評価に対して「それは『地球は平らだ』と主張する位、全くの誤りだ」とピンカー氏は断言する。

 何故人は科学による進歩を正しく認識出来ないのか?

 進化心理学の第一人者であるピンカー氏は、2004年にタイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に、2005年にはフォーリンポリシー誌の「知識人トップ100人」に選ばれた。米国科学アカデミー会員で『アメリカン・ヘリテージ英語辞典』の語法諮問委員会議長も務めて居る。
 又、2011年に刊行した『 暴力の人類史 』では、人類史を通じて暴力が確実に減少した事を、データを基に立証して話題と為った。最新刊の『 21世紀の啓蒙 理性、科学、ヒューマニズム、進歩 』では、現代に蔓延るシニシズムを危惧し「進歩」への信頼を説いて居る。我々が未来に期待出来る根拠に付いて、ピンカー氏が語った。

 「データを見れば、人類を取り巻く環境が良く為って居る事は自明です。18世紀中頃には29歳だった平均寿命は今や71.4歳に延び、食糧状態に付いても、1960年代には1日1人当たり約2200キロカロリーだった摂取量が、現在では約2800キロカロリーです。又、世界総生産は200年でホボ100倍と富も増えました。
 インフラや政治形態も改善して居ます。特に先進国では、清潔な水が蛇口から流れ、権力者を批判しても投獄され無い民主主義の下で暮らす事が出来る。更に、機械化が進み、世界の知識を小さな端末で持ち歩けます。しかし、世界はドンドン悪く為って居る、未来は暗いと云う認識が広がって居ます。人は何故理性や科学による進歩を正しく認識出来ないのでしょうか」

 
 その理由としてピンカー氏は「ジャーナリズムの責任」を指摘する。

 この25年で12億人超が極度の貧困から脱した

 「ジャーナリズムは、毎日、銃撃やテロ攻撃、内戦、飢餓、病気の大流行に付いて報道して居ます。その様な悲惨なニュースを見ると、世界中がバイオレントに為り、病気が流行し、貧困に向かい、危険に陥って居ると思うでしょう。
 一方で、平和に暮らしている地域はニュースに為りません。又、良い事は年に2、3%の割合で徐々に進み、10年・20年を掛けて大きな進歩に為りますが、その進歩は漸進的なので新聞は報道しないのです。
 例えば、極度の貧困(1日1.9ドル未満で生活する人)は、この200年間で、世界の人口の90%から10%迄減少して居ます。しかし『今日、13万7000人の人が極度の貧困から脱出しました』と云うヘッドラインを新聞で見る事はありません。この25年で12億5000万人が極度の貧困から脱したと云う事実に、人は気が付いて居ないのです」


 貴方も「フィルターバブル」に入って居る

 その様にして作られた我々の「世界に対するイメージ」を、より強固にしてしまうのが「SNSにより作られるバイアス」だ。情報が溢れるSNSへの接し方には注意が必要だと続ける。

 「インターネットやSNSにおいては、自分が見たい情報しか見え無く為り勝ちです。それを『フィルターバブル』と言います。我々は、自分と異なる意見を持つ人々に対して『彼等はフィルターバブルに入って居る』と一蹴し勝ちですが、貴方自身もフィルターバブルに入って居る事には気が付きません」
 
 バイアスの影響を容易く受けてしまう我々に必要な能力、それは「データを理解する事」だと云う。目の前の危機に印象論で惑わされ無い事、その重要性をピンカー氏は強調した。

 「調査や分析によって得られるデータから考え、自分自身の考えだけを信頼し無い事を常に心に留めて置くべきなのです」
 
 環境問題や原発、AIに対する恐怖、所得の格差・・・我々が怯える問題の中で、本当に向き合うべきテーマは何だろうか。豊富なデータを基にピンカー氏が語った「 人類はモッと未来に期待すべき 」は「文藝春秋」2月号及び「文藝春秋digital」に掲載されて居る。


        「文藝春秋」編集部 文藝春秋 2020年2月号   以上










ホームページ制作は京都のWeb制作会社、
株式会社アルク
>(aruku)の先端の技術とデザインを駆使して、ホームページの制作をいたします。

レスポンシブデザイン、SEO重視かつモバイルファーストでのホームページ制作で、制作後の運営やサポートもフルでお手伝いいたします。







明智光秀は何故本能寺の変を起こしたのか 本郷和人氏解説




 明智光秀は何故本能寺の変を起こしたのか 本郷和人氏解説

           〜NEWS ポストセブン 1/25(土) 16:00配信〜


             1-25-16.png

 〜「本能寺の変」の首謀者である明智光秀を主役にしたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』が始まった。光秀は、何故本能寺の変を起こしたのか。『東大教授がおしえる やばい日本史』等ベストセラーを連発する歴史学者の本郷和人氏が、光秀の真実を判り易くレクチャーする〜

 光秀が何故本能寺の変を起こしたのか・・・「朝廷黒幕説」や、信長が光秀と縁の深い長宗我部元親を攻め様としたからと云う「四国原因説」等様々な説が出て居ますが、歴史学者の立場から言えば「動機」を探ることに余り意味は無い。それは飽く迄フィクション、小説の領域の仕事です。
 その前提の上で敢えて言うとすれば「光秀は、信長の天下統一後の自分の処遇に不安を抱いて居たのでは無いか」と云う事ですね。

 信長は息子達の為に、次世代の織田政権を盤石にする準備を着々として居た筈です。それを見て、光秀等オールドパワーは「もう俺達はお払い箱に為るのではないか」と思ったかも知れません。信長の抜擢主義は諸刃の剣であって、役に立つなら幾らでも引き立てるが、不要と為れば切り捨てられる。
 実際、佐久間信盛や林秀貞等の重臣が追放されて居ます。それを見て、光秀ばかりで無く家臣の多くが「次は俺か」と思って居たでしょう。

 それよりも興味深いのは、光秀は本能寺の変の「後」をどう生き抜こうと考えて居たかと云う事です。好く「明智の三日天下」と言われますが、それは光秀に取って不本意な結果だったのは間違い無い。キッとその後のプランも練って居た筈です。
 光秀は(信長に取って重要な)京を抑えて居る。信長の様に全国統一を狙わ無くても、近畿さえまとめれば家臣を路頭に迷わせる事は無いと踏んだのではないか。

 本能寺の変の後に、光秀が細川幽斎に宛てた所状が有ります。そこには「自分は私利私欲で信長を討ったのでは無く、(幽斎の子の)忠興等を取り立てたいが為である。近国を平定した後は息子や忠興に譲って引退し様と思う。だから味方に為ってください」と書いてある。
 これは細川を味方に付ける為の方便でしょう。切羽詰まった時、人間は何だって言いますからね。でも、光秀の娘のガラシャが嫁ぎ、血縁を通じた盟友でも在った細川幽斎・忠興父子が同調し無かった事は大きな誤算でした。縁の深い細川が着か無いのでは、明智に着くのは辞め様かと云う流れが広がったのではないでしょうか。


 【プロフィール】ほんごう・かずと 昭和35(1960)年東京都生まれ 東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ 著書に『上皇の日本史』(中央公論新社刊)『承久の乱』(文藝春秋刊)『乱と変の日本史』(祥伝社刊)『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社刊)等

     構成 内田和浩 ※週刊ポスト2020年1月31日号    以上







 本能寺の変で信長が言った 「しかたがないな」をどう解釈するか


 〜NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀と云えば、織田信長を自害に追い込んだ「本能寺の変」の首謀者として知られて居る。敵役としてのイメージが強い光秀を、信長はどの様に評価して居たのか。『東大教授がおしえる やばい日本史』等ベストセラーを連発する歴史学者の本郷和人氏が、光秀の真実を判り易くレクチュアする〜

 美濃出身の光秀がどの様な経緯で信長に仕える様に為ったのかも好く判って居ません。只、信長の前に越前の大名・朝倉義景に仕えたのは間違い無い様です。
 何等かの縁で斎藤道三に仕えて才能を認められたが、1556年の道三とその息子・義龍の戦い(長良川の戦い)で道三の側に着いて負けてしまい美濃には居られ無く為った。その後、浪人して朝倉氏に仕えたと云うのが妥当な見方でしょう。只、朝倉氏にはそれ程重用され無かった。

 現代に生きる私達には「日本人」と云う共同体の意識があるけれど、群雄割拠で周囲を敵に囲まれた戦国時代にはそれは無い。「同郷の人間以外は信用するな」と云う感覚が有りました。朝倉氏初代の朝倉孝景は、実力で越前守護に伸し上がった戦国大名の走りとも云える人物です。
 この孝景が定めた「朝倉敏景(孝景)十七箇条」には「重役の息子だから重役に為れると考えるな。才能が無ければ使わ無い」とか「合戦の時に吉凶を占う事は辞めろ」と云う様に当時としては非常に合理的な考えが示されて居ます。
 にも関わらず、内政に付いては「越前以外の者は為るべく使うな」と書いて居る。進歩的だった孝景ですらそうなのですから、余所者の光秀が認められるのは大変だったと想像出来ます。

 その後、光秀は朝倉家を離れ、足利義昭(室町幕府15代将軍)と織田信長の両方に属する時期を経て、信長に仕える事に為ります。その後、信長の下で残した実績からも、光秀が軍事的にも政治的にも物凄い才覚を持って居たのは間違い無い。
 信長は、才能が有れば出身に関わらず重用すると云う当時としては希有な価値観を持って居た。だからコソ光秀は頭角を現わして行く訳です。

 秀吉よりも上だった

 上洛した信長が、京の政務に当たらせた4人の中に光秀は名を連ねます。この内、光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀は織田家の中でドンドン出世して行きます(もうひとりは中川重政)大経済都市である京で税を吸い上げる為、信長は期待を掛ける家臣に京都奉行を遣らせ競わせた訳です。
 上洛の3年後、信長は比叡山焼き討ちを実行しますが、この時の光秀の働きには目覚ましいものがあった。その為光秀は比叡山の門前町である坂本に城を建てる事を許されます。坂本は京の東の玄関口で、日本海交易による物資が集まる物流の要所でした。

 その後、光秀は丹波を平定して亀山を居城にします。亀山は京の西の玄関口。詰まり、光秀は京の東と西の玄関口の両方を貰い、京の経済を制する役割を任された事が判ります。4人の京都奉行で最も信長のお眼鏡に適ったのが光秀だったのです。
 加えて、丹波からは京都に何時でも軍勢を送り込める。過つて歴史学研究の権威である高柳光寿さんは「光秀は近畿方面軍の司令官だった」と評して居ましたが、それは正しい解釈でしょう。

 織田家の方面軍は、北陸は柴田勝家、中国は羽柴秀吉、関東は滝川一益、四国は丹羽長秀、そして光秀は畿内を担当して居る。この内最も重要なのは畿内ですから、信長が光秀を一番信頼して居た事は間違いありません。
 しかし天正10年(1582)6月2日、明智光秀は京都の本能寺を襲い信長は自害します。信長旧臣の太田牛一が書いた『信長公記』には、信長が本能寺で光秀に襲われた時「是非に及ばず」と言ったと記されて居ます。現代風に訳すなら「しかたがないな」です。

 信長は女達を逃がしてから死にましたが、太田は女達からそれを聞いたのでしょう。だからこの言葉には臨場感がある。では、この「しかたがないな」をどう解釈するか。「光秀に抜かりは無いだろうから、逃げても仕方が無い。為らばここで死ぬか」と云う意味か。
 それとも「光秀を抜擢して今の地位に着けたのは俺なんだから、仕方が無い」と云う意味か。僕は後者なのではないかと思います。

 本能寺の変を語る際「信長が油断した」と云う表現をする人が居ます。しかし幾ら警戒しても、親衛隊のトップが裏切ったらどうしようも無い。光秀が近くに居るから枕を高くして寝られると思ったら、そいつが裏切ったと云う事ですから、信長が手抜かりして居たとは云え無いでしょう。


       構成 内田和浩 ※週刊ポスト2020年1月31日号  以上









 通説が覆された本能寺の変 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』はどう描くのか

 「敵は本能寺にあり」・・・明智光秀が主君・織田信長を討つ際に発したと云うこの言葉。今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』(1月19日スタート)ではどう描かれるのか。歴史作家の島崎晋氏が「本能寺の変」の謎に付いて解説する。
 
 本能寺の変が起きたのは天正10年6月2日、西暦で云えば1582年6月21日早朝の事だが、この政変を巡る謎は大きく分けて二つある。一つは動機に関するもので、もう一つは明智光秀による単独犯かそれとも共謀者や黒幕がいたのかと云う点である。

 動機に関しては大きく分けて怨恨説野望説・成り行き説の三つがある。通説と為って居た怨恨説は江戸時代から続く見方だが、これに初めて正面から異を唱えたのは、戦国史研究の大家である高柳光寿で、1958年刊行の『明智光秀』(吉川弘文館)では、光秀が信長から受けたとされる屈辱の全てが後世のフィクションと論証され、野心家としての光秀像が打ち出された。

 これに対し、同じく戦国史研究で名を知られた桑田忠親は1964年に刊行した『織田信長』(角川新書)の中で、イエズス会宣教師ルイス・フロイス著の『日本史』の中に、光秀が安土城で信長に足蹴にされたとの記述がある事を根拠に野望説を否定し怨恨説を主張した。

 ドチラの説を取るにせよ、歴史愛好家の間では、本能寺の変が光秀の単独犯行で、尚且つ偶々隙が生じたから実行した突発的出来事とする見方が有力だった。それが一変したのは、1992年に作家の桐野作人による『信長謀殺の謎 織田信長謀殺の朝廷疑惑人脈を追う』(ファラオ企画)が刊行されてからだ。本能寺の変には黒幕乃至は共謀者が居て、可成り前から計画されて居たとの説が飛び交う様に為った。
 黒幕としては朝廷や追放された15代将軍足利義昭、共謀者としては徳川家康上杉景勝等の名が挙げられて居る。が、ドレも状況証拠しか無い為、以前の大河ドラマでは採用されるには至ら無かった。

 しかし、近世国家成立史を専門とする藤田達生(三重大学教授)が1996年に論文「織田政権から豊臣政権へ─本能寺の変の歴史的背景─」を発表し、2001年にそれを膨らませた『本能寺の変の群像─中世と近世の相克』(雄山閣出版)を世に出すと更に新たな説が登場した。

 藤田は当時の書状を根拠に、黒幕は足利義昭で、光秀が謀反に踏み切った直接の切っ掛けは信長の対四国政策の変更にあり、上杉景勝や本願寺、雑賀衆、筒井順慶とも裏で手を結んで居たとする説を唱えた。それ以降、政治的な理由による計画的犯行との見方がにわかに強まる事と為った。

 確かに、数々の書状を見る限り、個人的な理由や突発的な行動で無いのは明らか。今年の大河ドラマ『麒麟がくる』が藤田説に従うとすれば、本能寺の変前夜の密使の遣り取りが入念に描かれる事に為るだろう。脚本家や製作スタッフがどの説を採用するのか注目したい。


        1-25-15.jpg
              ポートレートが見付から無かった・・・

 【プロフィール】しまざき・すすむ 1963年東京生まれ 歴史作家。立教大学文学部史学科卒 旅行代理店勤務 歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している 著書に『ざんねんな日本史』(小学館新書)『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)『いっきに読める史記』(PHPエディターズ・グループ)など著書多数 最新刊に『ここが一番おもしろい! 三国志 謎の収集』(青春出版社)がある

                   以上







ホームページ制作は京都のWeb制作会社、
株式会社アルク(aruku)の先端の技術とデザインを駆使して、ホームページの制作をいたします。
レスポンシブデザイン、SEO重視かつモバイルファーストでのホームページ制作で、制作後の運営やサポートもフルでお手伝いいたします。















「国技」大相撲が戦前から批判されて来た大きな矛盾




 【管理人】 数あるプロスポーツの中で、大相撲程小難しく面倒なものは無い。異常な太り方で互いに力一杯ブツ駈り合い投げ飛ばすのだから怪我をして当たり前。身体を守る一切の防具も使わず裸で・・・プロレスの様に互いに意思疎通もせず逃げ場も無く真剣に?対峙するのは半ば異常だ・・・と私は思って居る。
 父親が高校の相撲部の顧問をして居た事もあり・・・一人が序の口で入り活躍したが十両迄は行けなかった・・・余程の鍛錬か持って生まれた天賦が無ければ永くは続けられ無いものだ。これをスポーツと呼べるかどうか。
 そして、私は「若・貴」の作られた大相撲人気にとても疑問を持っている。千代の富士の実力に比べると貴乃花はアマチュアの域は超えて居ない。それは、NHKとメディアが作った楼閣だ。以来、大相撲はスポーツ好きな私からは、余り好きでは無いものへと為ってしまった。誰かが「相撲道」と誇らし気に語っているが、それは全く架空の話だ。更に品格と云うが、それを指摘し語るご本人がどうなのか。品格とか「相撲道」を語るのであれば、それは神の領域の人が云うものである。



  「国技」大相撲が戦前から批判されて来た大きな矛盾

            〜JBpress 1/24(金) 6:00配信〜


           1-25-1.jpg

 『叱られ、愛され、大相撲!「国技」と「興行」の100年史』(胎中千鶴著 講談社選書メチエ)
 
 長きに渉り愛され、そして世間から叱られ続けて来た大相撲。相撲はどの様にして「国技の様なもの」と為ったのか。度重なる不祥事を乗り越えて来た大相撲をどの様に捉え、どの様に付き合って行けば好いのか。「スー女」である胎中千鶴氏が大相撲への愛と苦悩を語る。JBpress
 (※)本稿は『叱られ、愛され、大相撲!「国技」と「興行」の100年史』(胎中千鶴著、講談社選書メチエ)より一部抜粋・再編集したものです。



 「国技の様なもの」

 余り知られて居ないが、大相撲の主催者である公益財団法人日本相撲協会の定款では、協会運営の目的を「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる為」と明記して居る。
 そう為ると、本場所や巡業等も「国技である相撲道」の継承と発展の為に行われて居る事に為る。ビール片手に焼き鳥を頬張って居る場合では無いのだ。

 相撲に「道」を付けて「相撲道」と称するのであれば「国技」に邁進する者達には「武士道」を連想させる様な真剣な態度が求められる。中でも実践者の頂点に立つ横綱は、単なる興行団体の稼ぎ頭やスポーツ選手とは異なる立場なのだから、土俵上でも私生活でも品性高潔で無くてはダメ、と云う理屈に為る。近年目にする「横綱の品格」とやらも、この様な「国技」の枠組みから生じたものと云え様。
 とは云え、「国技」と云う定義は飽く迄協会が唄って居るだけで、相撲が日本の国技であると規定する明確な根拠は見当たら無い。日章旗や「君が代」は法律で国旗・国歌に定められて居るが、国技にはそれが無いのだ。
 詰まり「国技の様なもの」と云うモヤモヤした認識を、日本人がメディアを介して何と無く共有して居る、と云うのが実際の処だろう。

 一人横綱の支え

 この「国技の様なもの」を巡る議論が近年最も沸騰したのは、多数の外国人が角界に入門し、上位に進出し始めた2000年代後半である。朝青龍等外国出身力士の素行が問題視され「国技の危機」として警戒する論調が高まった。メディアが盛んに「伝統」や「神事」を語る事に、何処か排他的な空気を感じた方も居るだろう。 2010年(平成22)朝青龍が引退した。10月の断髪式を終えた彼は「生まれ変わったら、大和魂を持った日本人横綱に為りたい」と、痛烈な皮肉とも受け取れるコメントを残して日本を去った。

 アレから9年が経つ。その間に大相撲界は、2011年の大規模な八百長行為の発覚で存立そのものが危ぶまれる事態を迎え、それをモンゴル出身の白鵬が一人横綱として必死に支え続けた。事ある毎に自身の目標として、伝説の横綱双葉山や大鵬の名を挙げ、過剰な程に日本的な力士として振る舞おうとした当時の彼の姿を、心に留めて置きたい。
 その後も外国出身力士の活躍が続いた所為か「相撲=国技」と云う世間の固定観念は以前に比べて薄らぎつつある様にも見える。だが、稀勢の里や貴景勝等の「日本出身力士」にメディアが過剰に注目したり、横綱を特別視して「国技に相応しい品格」を求めたりする風潮は、未だに根強く存在する。

          1-25-2.jpg

                   蔵前国技館

 国技館の誕生とピンチ

 1954年9月、満を持して蔵前国技館が完成した。総工費2億3千万円、1万1千人収容の大型施設である。新しい国技館の誕生は、協会に取って新時代の幕開けとも云えるが、追い風に為ったのはそれだけでは無い。
 前年の1953年5月場所から始まったテレビ中継コソが、その後の大相撲人気を盤石なものにしたと云える。同年5月にNHK、続けて9月以降は民放各社も放映を開始した。家族そろって茶の間で観戦する「テレビ桟敷」が可能に為ったのである。

            1-25-3.jpg

 そして1955年5月、協会関係者に取って最強のサポーターとも云うべき昭和天皇が国技館を訪れた。戦後初の天覧相撲である。8年半の全国行幸を終え、心置き無く大相撲を楽しめる様に為った天皇が、その後足繁く国技館に通い続けた。
 こうして戦後の大相撲は、国技館と云う大舞台と、その貴賓席に頻繁に登場する天皇の存在によって、他の娯楽・スポーツと一線を画す「国技」としてのステイタスを再び手に入れたのだった。

 しかし、ホッとしたのも束の間、1957年春、協会は戦後最大のピンチに直面した。衆議院予算委員会と文教委員会で、財団法人としての大日本相撲協会の在り方や財政面の問題点を指摘されたのである。同年3月2日に、日本社会党の辻原弘市議員が灘尾弘吉文部大臣に、協会の営利化を指摘、マスコミもこの問題を一斉に報じる事と為った。
 『回顧録』によると、武蔵川の処には知人の社会党代議士から事前に連絡が入って居り「ドンブリ勘定では無いか」「営利主義に走り過ぎて居る」等の世評を受けて辻原等が動き出した事を承知して居た。

 一報を聞いた彼は「何を云ってるのだろう」「他人からケチを付けられる様な事は毛頭無い」と思ったと云う。

 協会の抱える矛盾

 だが、公益性を重んじ「国技」としての相撲の指導と普及に努めるべき協会が、建前とは裏腹に興行収益を優先して居る実態は今に始まった事では無い。1925年に認可されてからこの年まで32年間、協会は公益法人と云う錦の御旗に守られて運営を維持して来たものの、その内実が抱える大きな矛盾は、戦前も度々批判の的と為った。

 戦後の混乱期には、国民もそれ処では無かったのだろうが、1950年代後半と云えば、日本が経済復興を遂げ、大相撲がメディアを通じて再び注目される様に為った時期である。そうした社会の変化によって、改めて「営利主義」が世間の耳目を集めたと云う側面もあるのだろう。

 1957年4月3日、病気療養中の出羽海理事長(藤島秀光)に代わり、武蔵川が文教委員会の公聴会に参考人として出席した。彼の他に現役力士代表として幕内の若瀬川、更に協会OBとして和久田三郎(元・天龍)永井高一郎(元・佐渡ヶ嶽)も招かれ、夫々現在の協会の在り方に付いて意見を述べた。
 質問側は、辻原他、佐藤観次郎・川崎秀二・柳田秀一等自民党と社会党の委員である。この時点で協会は既に8項目の改革案を提示して居た為、公聴会ではこれに基づいて意見交換が行われた。

 会議上の焦点のひとつと為ったのは、その頃マスコミでも取り上げられて居た茶屋制度である。茶屋とは、本場所の切符と館内の飲食物販売を一手に請け負って居た店のことで、理事長を初め協会内の有力者の家族や親戚が経営するものが多く、当時は20軒程存在した。
 彼等は、主に企業や馴染みの上客にノミ切符を販売するので、一般客が個人的に切符を手に入れる事は困難だった。又、切符や飲食物の値段は「ご祝儀」と称され、価格を設定しない場合もあった。この様な不明朗で非近代的な慣習に国民が厳しい目を向けたのは、テレビ中継によって「国技館の大相撲」が全国的に可視化された事と、矢張り無関係では無いだろう。

 更に、相撲指導者を養成する教育機関に関しても意見が求められた。協会設立時に定めた「寄付行為」(定款にあたる基本規則)では、日本の「国技」たる相撲道の維持興隆に努め、それによって国民の育成を図ることを協会の目的として居る。その具体的な事業のひとつが「相撲専修学校」の設置だが、未だに実施に至って居ない点が問題と為ったのである。
 ここでイメージされる学校とは、全国の地域社会や教育現場に相撲を普及させる為の指導者の養成機関であろう。力士経験者や体育教員を受講生と想定するもので、戦時中に佐渡ヶ嶽が私費を投じて開いた長野県の戸隠山道場等がそれに近い。

 処が、この件に付いて委員に質された武蔵川は「学校制を設けまして、それを卒業した者を幕下或は十両と矢理ましても(中略)ナカナカ力士と云うものはそれ一方では完成出来無い訳です」と、シドロモドロの答弁を行って居る。
 詰まり彼は、財団法人の事業として設置すべき指導者養成機関を、興行に従事するプロ力士養成の場と捉えて居たのである。当日の議事録を見る限り、全般的にソツナク意見を述べた武蔵川だったが、殊専修学校の件に限っては激しくピントがズレた遣り取りに終始した。

 待った無しの組織改革

 こうした協会の、認識不足に付いて、和久田は公聴会の場で次の様に痛烈に批判した。

 ・・・33年もホッポラかして置いて、今頃に為って至急取り掛かると云う事は、いかにも私は協会幹部諸公がズルいと申しますか、その場逃れの考え方で、こうした文書を、文面的に見ますると何か盛んに改革をする様な事を言って居りますけれども、結局ホッカブリ主義で、人の噂も七十五日で、その内又何とか為るのだろうと云う様な甘い考えで、この改革案を発表したのではないかと私は察せられるのであります。(「第26回国会衆議院文教委員会議録第15号」1957年4月3日)
 
 1932年の春秋園事件の中心人物として大相撲の改革を求め、その後満洲で相撲教育に力を注いだ和久田の言葉には説得力がある。学校設置問題以外にも、不明朗な会計制度、高い席料、既得権益に執着する茶屋等、25年前に彼が指摘した旧弊を未だに抱え込んで居る協会には、流石に愛想も尽きるだろう。
 満洲から帰還後の和久田は、銀座の中華料理店や名スポーツ用具店経営等複数の事業で成功し、1952年からはラジオ東京(TBSラジオの前身)で、辛口の大相撲解説者としても活躍した。この直言居士、協会に取っては最後迄面倒な存在であったに違い無い。

 公聴会ではこの他にも、各委員が力士の給与・退職金等にも言及したが、武蔵川は、既に協会が提示した改革案に沿って、茶屋制度廃止、専修学校設置、力士の待遇改善等の対策を講じる姿勢を示した。その為特段の紛糾も無く、協会としては何とかピンチを切り抜けた形と為った。

 しかし、事はこれだけで収まら無かった。公聴会から1カ月後の5月4日、出羽海理事長(藤島秀光)が国技館内の協会取締室で割腹自殺を図ったのである。発見が早く一命は取り留めたが、理事長の親族が経営する茶屋の隠し所得の発覚を恐れたからだろうと噂された。これによって協会の組織改革は待った無しの局面を迎える事に為る。
 1957年5月、自殺未遂で療養中の出羽海理事長が辞表を提出し、新理事長として時津風(元横綱双葉山)が就任した。

 武蔵川の『回顧録』によると、新理事長は「全く寡黙の人」だった。「向かい合って話を始めても、話が詰まると30分でも1時間でも黙って座って居る」程だと云う。半面、一度部下に任せた仕事に付いては一切口出しをしないタイプなので、武蔵川に取っては馬が合う上司だった様だ。伝説の横綱の登場は、それだけで協会のイメージアップに貢献した事だろう。

 これを機に協会は、組織改革を一気に進めた。茶屋制度の廃止、力士の月給制度の採用の他、安定収入確保の為に現在に続く1年六場所制に踏み切った。一方で行司や年寄の定年制も実施し、人件費の増大に歯止めを掛けた。
 但し懸案の相撲専修学校に付いては、協会が飽く迄新弟子養成機関の設置に拘った様で、結局1957年10月に「相撲教習所」が置かれた。これは、新弟子が6カ月間、相撲の歴史や文化等教養科目を学ぶ場所と云う形態で、現在も運営されて居る。

              1-25-5.jpg

                   千代の富士

 翌1958年には、財団法人日本相撲協会と改称、イヨイヨ名実共に新生相撲協会が歩み始めた。その後、土俵上には次々とスター力士・名横綱が現れ、夫々の時代を築いて来た。1960年代の柏戸・大鵬、1970年代初頭の北の富士と玉の海と、それに続く輪島・北の湖。1980年代に入ると千代の富士が「ウルフフィーバー」を巻き起こした。

          1-25-7.png

 1985年1月、再び両国新しい国技館が完成した。総工費150億円、収容人員1万1千人、四角形の大屋根を持つ堂々とした外観は、今も両国のシンボルとして健在である。その後の1990年代の平成の若貴ブーム、21世紀に入ってからの朝青龍白鵬等モンゴル勢の活躍は未だ記憶に新しい。

         1-25-4.jpg

 相撲の品格

 しかし、2007年以降、角界では立て続けに不祥事が起きた。相撲部屋内の暴行、横綱の暴力、力士の薬物使用、暴力団が絡む野球賭博、八百長疑惑等、半世紀の間組織内に貯め込んで居た膿が、次々と出されたかの様である。
 協会は関係者を解雇したり引退させたりする事で何とか事態を収拾しようとして来たが、評判と信頼は地に落ち、再びそれを取り戻すのには長い時間が必要だった。この10年は、大相撲の現代史において最も深刻な時代だったと云えるだろう。

 この時期、世間の厳しい目が向けられた角界に対して、メディアや識者が盛んに使う様に為ったのが「品格」と云う言葉である。2005年のベストセラー、藤原正彦『国家の品格』から火が点いた「品格」ブームが、不祥事続きの大相撲にも及んだらしい。
 力士の素行だけで無く、立ち合いの乱れや仕切りの形骸化、勝負が着いた後の駄目押し等、土俵上のルールやマナーにもイチイチ注文が付き「品格」が求められる様に為った。

 そして、そのお手本とされたのが双葉山である。受けて立つ相撲や、泰然自若とした土俵態度等、全てが模範的だと云うのだ。更に、これに便乗して出版された双葉山の著書『横綱の品格』(2008年)も話題に為った。
 と云ってもこの本は、1956年刊行の『相撲求道録』の復刻版(1979年)に、第48代横綱大鵬幸喜の序文などを加え、書名を変えただけのものである。半世紀の時を経て、正か自分が「品格」ブームの一翼を担う事に為ろうとは、故人も予想だにし無かっただろう。


          1-25-6.jpg

                  胎中 千鶴    以上











あの話題の車に頭金なしの完全月額定額で乗れる








×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。