2020年01月25日
明智光秀は何故本能寺の変を起こしたのか 本郷和人氏解説
明智光秀は何故本能寺の変を起こしたのか 本郷和人氏解説
〜NEWS ポストセブン 1/25(土) 16:00配信〜
〜「本能寺の変」の首謀者である明智光秀を主役にしたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』が始まった。光秀は、何故本能寺の変を起こしたのか。『東大教授がおしえる やばい日本史』等ベストセラーを連発する歴史学者の本郷和人氏が、光秀の真実を判り易くレクチャーする〜
光秀が何故本能寺の変を起こしたのか・・・「朝廷黒幕説」や、信長が光秀と縁の深い長宗我部元親を攻め様としたからと云う「四国原因説」等様々な説が出て居ますが、歴史学者の立場から言えば「動機」を探ることに余り意味は無い。それは飽く迄フィクション、小説の領域の仕事です。
その前提の上で敢えて言うとすれば「光秀は、信長の天下統一後の自分の処遇に不安を抱いて居たのでは無いか」と云う事ですね。
信長は息子達の為に、次世代の織田政権を盤石にする準備を着々として居た筈です。それを見て、光秀等オールドパワーは「もう俺達はお払い箱に為るのではないか」と思ったかも知れません。信長の抜擢主義は諸刃の剣であって、役に立つなら幾らでも引き立てるが、不要と為れば切り捨てられる。
実際、佐久間信盛や林秀貞等の重臣が追放されて居ます。それを見て、光秀ばかりで無く家臣の多くが「次は俺か」と思って居たでしょう。
それよりも興味深いのは、光秀は本能寺の変の「後」をどう生き抜こうと考えて居たかと云う事です。好く「明智の三日天下」と言われますが、それは光秀に取って不本意な結果だったのは間違い無い。キッとその後のプランも練って居た筈です。
光秀は(信長に取って重要な)京を抑えて居る。信長の様に全国統一を狙わ無くても、近畿さえまとめれば家臣を路頭に迷わせる事は無いと踏んだのではないか。
本能寺の変の後に、光秀が細川幽斎に宛てた所状が有ります。そこには「自分は私利私欲で信長を討ったのでは無く、(幽斎の子の)忠興等を取り立てたいが為である。近国を平定した後は息子や忠興に譲って引退し様と思う。だから味方に為ってください」と書いてある。
これは細川を味方に付ける為の方便でしょう。切羽詰まった時、人間は何だって言いますからね。でも、光秀の娘のガラシャが嫁ぎ、血縁を通じた盟友でも在った細川幽斎・忠興父子が同調し無かった事は大きな誤算でした。縁の深い細川が着か無いのでは、明智に着くのは辞め様かと云う流れが広がったのではないでしょうか。
【プロフィール】ほんごう・かずと 昭和35(1960)年東京都生まれ 東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ 著書に『上皇の日本史』(中央公論新社刊)『承久の乱』(文藝春秋刊)『乱と変の日本史』(祥伝社刊)『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社刊)等
構成 内田和浩 ※週刊ポスト2020年1月31日号 以上
本能寺の変で信長が言った 「しかたがないな」をどう解釈するか
〜NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀と云えば、織田信長を自害に追い込んだ「本能寺の変」の首謀者として知られて居る。敵役としてのイメージが強い光秀を、信長はどの様に評価して居たのか。『東大教授がおしえる やばい日本史』等ベストセラーを連発する歴史学者の本郷和人氏が、光秀の真実を判り易くレクチュアする〜
美濃出身の光秀がどの様な経緯で信長に仕える様に為ったのかも好く判って居ません。只、信長の前に越前の大名・朝倉義景に仕えたのは間違い無い様です。
何等かの縁で斎藤道三に仕えて才能を認められたが、1556年の道三とその息子・義龍の戦い(長良川の戦い)で道三の側に着いて負けてしまい美濃には居られ無く為った。その後、浪人して朝倉氏に仕えたと云うのが妥当な見方でしょう。只、朝倉氏にはそれ程重用され無かった。
現代に生きる私達には「日本人」と云う共同体の意識があるけれど、群雄割拠で周囲を敵に囲まれた戦国時代にはそれは無い。「同郷の人間以外は信用するな」と云う感覚が有りました。朝倉氏初代の朝倉孝景は、実力で越前守護に伸し上がった戦国大名の走りとも云える人物です。
この孝景が定めた「朝倉敏景(孝景)十七箇条」には「重役の息子だから重役に為れると考えるな。才能が無ければ使わ無い」とか「合戦の時に吉凶を占う事は辞めろ」と云う様に当時としては非常に合理的な考えが示されて居ます。
にも関わらず、内政に付いては「越前以外の者は為るべく使うな」と書いて居る。進歩的だった孝景ですらそうなのですから、余所者の光秀が認められるのは大変だったと想像出来ます。
その後、光秀は朝倉家を離れ、足利義昭(室町幕府15代将軍)と織田信長の両方に属する時期を経て、信長に仕える事に為ります。その後、信長の下で残した実績からも、光秀が軍事的にも政治的にも物凄い才覚を持って居たのは間違い無い。
信長は、才能が有れば出身に関わらず重用すると云う当時としては希有な価値観を持って居た。だからコソ光秀は頭角を現わして行く訳です。
秀吉よりも上だった
上洛した信長が、京の政務に当たらせた4人の中に光秀は名を連ねます。この内、光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀は織田家の中でドンドン出世して行きます(もうひとりは中川重政)大経済都市である京で税を吸い上げる為、信長は期待を掛ける家臣に京都奉行を遣らせ競わせた訳です。
上洛の3年後、信長は比叡山焼き討ちを実行しますが、この時の光秀の働きには目覚ましいものがあった。その為光秀は比叡山の門前町である坂本に城を建てる事を許されます。坂本は京の東の玄関口で、日本海交易による物資が集まる物流の要所でした。
その後、光秀は丹波を平定して亀山を居城にします。亀山は京の西の玄関口。詰まり、光秀は京の東と西の玄関口の両方を貰い、京の経済を制する役割を任された事が判ります。4人の京都奉行で最も信長のお眼鏡に適ったのが光秀だったのです。
加えて、丹波からは京都に何時でも軍勢を送り込める。過つて歴史学研究の権威である高柳光寿さんは「光秀は近畿方面軍の司令官だった」と評して居ましたが、それは正しい解釈でしょう。
織田家の方面軍は、北陸は柴田勝家、中国は羽柴秀吉、関東は滝川一益、四国は丹羽長秀、そして光秀は畿内を担当して居る。この内最も重要なのは畿内ですから、信長が光秀を一番信頼して居た事は間違いありません。
しかし天正10年(1582)6月2日、明智光秀は京都の本能寺を襲い信長は自害します。信長旧臣の太田牛一が書いた『信長公記』には、信長が本能寺で光秀に襲われた時「是非に及ばず」と言ったと記されて居ます。現代風に訳すなら「しかたがないな」です。
信長は女達を逃がしてから死にましたが、太田は女達からそれを聞いたのでしょう。だからこの言葉には臨場感がある。では、この「しかたがないな」をどう解釈するか。「光秀に抜かりは無いだろうから、逃げても仕方が無い。為らばここで死ぬか」と云う意味か。
それとも「光秀を抜擢して今の地位に着けたのは俺なんだから、仕方が無い」と云う意味か。僕は後者なのではないかと思います。
本能寺の変を語る際「信長が油断した」と云う表現をする人が居ます。しかし幾ら警戒しても、親衛隊のトップが裏切ったらどうしようも無い。光秀が近くに居るから枕を高くして寝られると思ったら、そいつが裏切ったと云う事ですから、信長が手抜かりして居たとは云え無いでしょう。
構成 内田和浩 ※週刊ポスト2020年1月31日号 以上
通説が覆された本能寺の変 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』はどう描くのか
「敵は本能寺にあり」・・・明智光秀が主君・織田信長を討つ際に発したと云うこの言葉。今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』(1月19日スタート)ではどう描かれるのか。歴史作家の島崎晋氏が「本能寺の変」の謎に付いて解説する。
本能寺の変が起きたのは天正10年6月2日、西暦で云えば1582年6月21日早朝の事だが、この政変を巡る謎は大きく分けて二つある。一つは動機に関するもので、もう一つは明智光秀による単独犯かそれとも共謀者や黒幕がいたのかと云う点である。
動機に関しては大きく分けて怨恨説と野望説・成り行き説の三つがある。通説と為って居た怨恨説は江戸時代から続く見方だが、これに初めて正面から異を唱えたのは、戦国史研究の大家である高柳光寿で、1958年刊行の『明智光秀』(吉川弘文館)では、光秀が信長から受けたとされる屈辱の全てが後世のフィクションと論証され、野心家としての光秀像が打ち出された。
これに対し、同じく戦国史研究で名を知られた桑田忠親は1964年に刊行した『織田信長』(角川新書)の中で、イエズス会宣教師ルイス・フロイス著の『日本史』の中に、光秀が安土城で信長に足蹴にされたとの記述がある事を根拠に野望説を否定し怨恨説を主張した。
ドチラの説を取るにせよ、歴史愛好家の間では、本能寺の変が光秀の単独犯行で、尚且つ偶々隙が生じたから実行した突発的出来事とする見方が有力だった。それが一変したのは、1992年に作家の桐野作人による『信長謀殺の謎 織田信長謀殺の朝廷疑惑人脈を追う』(ファラオ企画)が刊行されてからだ。本能寺の変には黒幕乃至は共謀者が居て、可成り前から計画されて居たとの説が飛び交う様に為った。
黒幕としては朝廷や追放された15代将軍足利義昭、共謀者としては徳川家康や上杉景勝等の名が挙げられて居る。が、ドレも状況証拠しか無い為、以前の大河ドラマでは採用されるには至ら無かった。
しかし、近世国家成立史を専門とする藤田達生(三重大学教授)が1996年に論文「織田政権から豊臣政権へ─本能寺の変の歴史的背景─」を発表し、2001年にそれを膨らませた『本能寺の変の群像─中世と近世の相克』(雄山閣出版)を世に出すと更に新たな説が登場した。
藤田は当時の書状を根拠に、黒幕は足利義昭で、光秀が謀反に踏み切った直接の切っ掛けは信長の対四国政策の変更にあり、上杉景勝や本願寺、雑賀衆、筒井順慶とも裏で手を結んで居たとする説を唱えた。それ以降、政治的な理由による計画的犯行との見方がにわかに強まる事と為った。
確かに、数々の書状を見る限り、個人的な理由や突発的な行動で無いのは明らか。今年の大河ドラマ『麒麟がくる』が藤田説に従うとすれば、本能寺の変前夜の密使の遣り取りが入念に描かれる事に為るだろう。脚本家や製作スタッフがどの説を採用するのか注目したい。
ポートレートが見付から無かった・・・
【プロフィール】しまざき・すすむ 1963年東京生まれ 歴史作家。立教大学文学部史学科卒 旅行代理店勤務 歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している 著書に『ざんねんな日本史』(小学館新書)『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)『いっきに読める史記』(PHPエディターズ・グループ)など著書多数 最新刊に『ここが一番おもしろい! 三国志 謎の収集』(青春出版社)がある
以上
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