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2020年01月17日
「9・11を予言した」幻の本『超限戦』 何故、アメリカ軍人はテロ翌日に「必読」と語ったのか?
「9・11を予言した」幻の本「超限戦」
何故、アメリカ軍人はテロ翌日に「必読」と語ったのか?
〜文春オンライン 1/17(金) 11:00配信〜
2001年9月11日に発生した、アメリカ同時多発テロ事件 ロイター AFLO
〜「9・11を予言した」と大きな話題に為った戦略研究書「 超限戦 21世紀の『新しい戦争』 」中国現役軍人(当時)の喬良氏・王湘穂氏による全く新しい戦争論にして、アメリカの軍事戦略に大きな影響を与えたとされる「幻の1冊」が新書で復刊した。「9・11」の翌日にはアメリカの軍人がテレビで「必読だ」と語ったと云うこの本の凄みとは?〜
「不幸にも予言が当たりましたね」
私達は予言者に為ることは望ま無かったし、ましてや血生臭い現実と為る可能性のあるテロ事件を予言する先覚者に為ろう等とは思ってもみなかった。しかし、神様は、人々の多くの善良な願いを取り合わ無いのと同様に、私達のこうした願いを取り合わ無かった。
2001年9月11日以後、私達は数多くの電話を受けたが、一番多かったのは「不幸にも予言が当たりましたね」と云う言葉だった。それは、ニューヨークのマンハッタンで起きた正真正銘のアメリカの悲劇を指して居た。
3年前に、私達が執筆した「超限戦」は、既に正確な予言と判断を下して居たが、これは本当に恐ろしい予言の的中だった。その恐ろしさから、私達は、予言が見事に的中したからと云って、少しも楽しい気分には為ら無い・・・天下に名の聞こえた世界貿易センタービルのツインタワーが、全世界の目の前で無残にも倒壊した時「貴方の正しさを立証した」と言われても、得意満面に為ることなど絶対に出来ない。
何千と云う罪の無い人々の命を一瞬の内に奪ってしまう様な、驚くべき残酷さは、我々の個人的研究の成果に対する満足感をはるかに圧倒してしまった。これと同時に、私達は深い悲しみと、いかんともし難い思いを感じて居る。3年前、私達はこの本の中で次の様に明確に指摘して居た。
「無差別に一般人を攻撃する」ビンラディン式のテロリズム
新しいテロリズムは21世紀の初頭、人類社会の安全に取って主要な脅威と為るだろう。その特徴は、戦術レベルの行動を以て当事国に戦略レベルの打撃を与え震撼させる事だ。私達は本の中で「ビンラディン式のテロリズムの出現は、いかなる国家の力であれ、それがどんなに強大でも、ルールの無いゲームで有利な立場を占めるのは難しいと云う印象を世間の人に強く与えた」と述べた。
又私達は「彼等は行動が秘密な為に隠蔽性が強く、行為が極端な為に広範囲の危害をもたらし、無差別に一般人を攻撃する事によって、その異常さ・残忍さを示して居る。これ等は全て現代のメディアを通じてリアルタイムに連続的に、高い視聴率で宣伝され、その恐怖の効果を大いに増幅する」と云う点を特に指摘した。
しかし、私達は「狼が来た!」と叫んで居た子供の様に扱われて来た。9・11事件と同じ様に不幸だったのは、当時、私達の話に耳を傾ける人が居なかったことだ。私達をウソを着く子供扱いしたり、更には、私達コソが狼だと後ろ指をさしたり、私達がテロリズムを宣伝して居ると云う人も居た。
処が、狼は本当に来てしまった。しかも私達が予言した方式・・・非職業軍人が、非通常兵器を使って罪の無い市民に対して、非軍事的意義を持つ戦場で、軍事領域の境界や限度を超えた戦争を行う・・・で遣って来たのだ。これこそ正に「超限戦」なのである。
テロ事件の翌日、アメリカ軍人がテレビで語ったこと
報道によれば、9・11事件の翌日、アメリカの或る3つ星の将軍がテレビの視聴者にこう語った。数年前、中国の2人の将校が「超限戦」と云う本を書き、全世界、特にアメリカに対してテロリズムの脅威を警告して居たが、我々の注意を引か無かった。そして、2人が提起した事態は生々しい形で我々の眼前で起きてしまった。我々は改めてこの本を読み直す必要がある様だと。
アメリカ軍人の思想の触覚は、彼等の世界各国の同僚達に比べれば、可成り敏感であると云うべきだろう。「超限戦』が中国で出版されたその年に、その英訳版がペンタゴンの将軍達の机に置かれて居た。更にアメリカ海軍大学から私達宛てに、この本を同大学の正式の教材に採用したいので、非商業的な内部版権を譲渡して欲しいと云う書簡が届いた。
しかし、全ては此処までで、彼等は何もし無かった。彼等がこの本が発して居た警告を理解して居なかったことは、今回の事実が物語って居る。
もし3年前に、アメリカ人が今よりモッと真剣にこの本を読んで居たら、9月11日の悲劇は必ず避けられた筈だと思う程、私達は天真爛漫では無い。この点において、私達は非常に悲観的である。何故なら、私達はビンラディン式のテロリズムへの注意喚起を行っただけで無く、全世界に次の様な警告を発して居たからだ。
テロリストと、スーパー兵器の出会い
「もし全てのテロリストが自分の行動を爆破、誘拐、暗殺、ハイジャックと云った伝統的な遣り口に限定して居る為らば、マダマダ最も恐ろしい事態には為らない。本当に人々を恐怖に陥れるのは、テロリストと、スーパー兵器に為り得る各種のハイテクとの出会いだ」
詰まり、ビンラディン式のテロリズムの他にも、我々は、ハッカー組織が仕掛けるネットテロや金融投機家達が引き起こす金融テロ等、その他の様々なテロリズムに直面するだろうと云うことだ。こうしたテロリストは、ハイテクがもたらした便利さを十分に利用して、彼等の手の届くいかなる処をも、血生臭い或はそれ程血生臭く無い戦場に変える事が出来るのである。
只一点変わら無いのは恐怖である。しかもそれは神出鬼没で、忽然として形の無い恐怖である。どの国もこの様なテロに対して、いちいちそれを防ぎ様が無い。
理解を超えた攻撃をして来る敵にどう対応するか
明らかに惟は伝統的な意義とは違う、全く新しい戦争の形態だ。私達がこれを「非軍事の戦争行動」とネーミングした時、一部の軍事専門家から「ドンな戦術レベルの行動で、アメリカの様な超大国を揺るがす事が出来るのか」と嘲笑された。
彼等に取って、こうした問題は想像しようにも考えられ無いことだ、戦争は即ち軍事であり「非軍事の戦争行動」ナンてロジックに合わ無いと考えて居た。不幸な事に、テロリズム自体が最初から人類の善良な天性のロジックに合うものでは無い。更に不幸な事に、こんなにも簡単な結論を理解する為に、人類・・・今の処ではアメリカ人・・・は血の代価を支払わ無ければ為ら無かった。
そして遂に結論が出た。アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は言った「これは戦争だ!」と。しかし、例え我々が、これは戦争だと判って居ても、こうした戦争の発生を避ける事は依然として不可能だ。
何故なら、これは全ての戦争の中で最も不確定な戦争であり、確定した敵も確定した戦場も確定した兵器も無く、全てが不確定だからである。この為に、常々確定した方式で敵を打撃するのに慣れて居る、いかなる軍事行動も「虎が天を食べ様としても口に入れ様が無い」式の手の着けられない状況に直面する事に為ろう。
「超限戦」の中で指摘した様に、私達から見れば「ハッカーの侵入にしろ、世界貿易センターの大爆発にしろ、ビンラディンの爆弾攻撃にしろ、何れもアメリカ軍が理解して居る周波数バンドの幅を遥かに超えて居る。この様な敵にどう対応するか、アメリカ軍は明らかに心理上或は手段上、特に軍事思想およびそこから派生する戦法上で準備が不足して居る」
同時に、例えテロリズムに打撃を与える側が或る時点・或る局面で、或る程度の勝利を得たとしても、もしテロリズムを根底から取り除く事が出来なければ、必ずや「ヒョウタンを放って置けば、ヒシャクが出来る」と云った苦境に直面する事に為ろう。問題は「テロリズムを根底から取り除く」事だが、言葉で言う程簡単では無い。
「超限戦」に書き加えたいと思って居たこと
此処から「何処にテロリズムの根源があるのか」「何がテロリズムをもたらしているのか」と云う問題が出て来る。民族、文化、宗教、価値観の違いによって、こうした問題に対する解答も異なる。
だが解答がどの様なものであれ、テロリズムは、強い集団に圧迫され日増しに瀬戸際に追い遣られている弱い集団の絶望的な足掻きである、と云う事実を抹消する事は出来無い。もし我々が皆この点を認める事が出来るなら、次の結論・・・テロリズムに対し国家的暴力式の打撃を与えるだけではとても不十分だし、問題を根本的に解決する事にも為ら無い・・・を同様に認める事が出来るであろう。
テロリストがドンなに人を驚かす事件を起こしても、グローバル化の列車は相変わらずビューッと唸りを立てて前に進んで好く。一瞬ブレーキを掛けたり減速しても、殆ど既定の軌道を変える事は無い。我々は皆この列車の乗客である。列車の進行方向が正しいかどうか、列車自体の性能が安全で頼りに為るかどうかは、我々1人ひとりに関わっている。
同じ列車に乗っている以上、片一方だけの安全等存在し無い。安全は共通のものであり、全員一体のものである。この事は、例え列車長にせよ、自分の安全を多くの乗客の安全よりも優先させる事は出来ないと云うことを意味して居る。特に、列車長は乗車して居る1人ひとりの乗客を上手く持て成すことが必要だ。
我々は、乗客の誰かが絶望感から、列車と友に滅びる気持ちを抱き、捨て鉢に為るのを許しては為らない。何故なら、この事は翻って言えば、私達自身の命に危険をもたらすからである。この事コソ、9・11事件後、私達が「超限戦」の中に書き加えたいと思って居たことである。
喬良氏・王湘穂氏 以上
【管理人のひとこと】
一つの書籍を此処に紹介したい・・・デイリーBOOKウォッチ 2019/10/16 より
書名 アメリカは何故戦争に負け続けたのか・・・米国が勝った戦争は過去60年間で一度だけ サブタイトル 歴代大統領と失敗の戦後史 ハーラン・ウルマン著 中本義彦 監修 田口 未和 訳 出版社名 中央公論新社 出版年月日 2019年8月 7日 定価・本体3200円+税
アメリカは強い。戦争には何時も勝って居る・・・先の戦争でアメリカに負けた日本人は何と無くそう思って居る。だからアメリカに付いて行けば間違い無いと。処が本書『アメリカはなぜ戦争に負け続けたのか』(中央公論新社)はマルっ切り正反対の事を言う。アメリカは負け続けて居るのだと。エ−そうなの、と驚く日本人が少なく無いのではないか。
戦後も戦争を続けている
評者は或る時軍事問題の専門家から「アメリカは毎年の様に戦争して居る国だ」と聞いて、一寸驚いたことがある。第二次世界大戦が終わってから、朝鮮戦争を戦ってヴェトナム戦争に介入した事位は知って居たが、その後も戦争を続けて居る事についてはすぐに思い浮かば無かったからである。本書はその辺りを見透かしたかの様にこう説明する。
冷戦が正式に終結した1991年から現在迄、アメリカは実にその三分の二を超える年月を、戦争、或は大掛かりな武力衝突や武力介入に費やして来た。・・・1991年のイラクとの戦争、1992〜1993年のソマリア内戦への介入、2001年から継続中のアフガニスタン紛争と世界規模の対テロ戦争、2003年から継続中のイラク戦争、2016年に始まったシリアとイエメンでの紛争等、1991年以降の26年間の内、合わせて19年にも渉ってアメリカの軍隊は戦争に従事して来たのである・・・。
そして時計の針を戻し、第二次世界大戦後の72年間の内、半分超の37年間は戦争状態にあったと見る。しかも戦績はそれ程目覚ましいものでは無かったと云うのだ。「朝鮮戦争は引き分けだった。ヴェトナム戦争は不面目な敗北に終わった。サイゴン(現ホーチミン)のアメリカ大使館は包囲され、その屋上から最後の救出用ヒューイ・ヘリコプターが飛び立つ映像は、痛恨の敗北を象徴する忘れられ無い光景と為った」
「戦後戦争史」を総括
この60年間で唯一明白な勝利と呼べるのは、1991年の第一次イラク戦争(湾岸戦争)だけだと云う。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、戦争の目的をサダム・フセインとイラク軍をクウェートから追い出すことに限定し、その目的を達した処で大部分の軍隊を引き揚げると云う賢明な判断をした。しかし、その息子のジョージ・W・ブッシュ大統領は、後に第二次湾岸戦争の指揮を執ったものの「イスラム国(IS)」の興隆に繋がり、現在も未だ戦闘が続く。(筆者注・未だ限定的にアメリカ軍はイラクに駐留中)
本書は以上の様にアメリカの「戦後戦争史」を振り返りつつ総括する。
⊡ アメリカ人の殆どは、この数十年間に自分の国がどれ程長く軍事紛争に関わって来たかに気付いてすら居ないか、マルで懸念を抱いて居ない。
⊡ 世界最強の軍隊を持つと誰もが認める国でありながら、戦争や武力介入の結果がこれ程失敗続きなのは何故なのか、と疑問を持つアメリカ人も殆ど居ない。
そこで本書は「国民全般の無関心を踏まえた上で、この国が大きな紛争或は武力介入を決断した時に、常に成功出来る様にするにはどうすれば好いか?」と問題を投げ掛ける。(略)
大統領との関係を重視
本書は「戦争と大統領」の関係を重視している。言うまでも無くアメリカの大統領は、軍の最高司令官としての指揮権を保持する。事実上、宣戦布告無しで戦争を開始する事が出来るし、大統領が使用命令を出すことで初めて核兵器の使用が許可される。詰まり「核のボタン」も握って居る。日本の総理大臣とは比べ物に為らないほどの強大な権力者であり、その力量差が戦争にも付き纏う。
本書では、戦争の趨勢について「最高司令官である大統領の経験不足も足を引っ張る一因」とし「司令官としての経験不足が、最近の三人の大統領に不利な状況を強いて来た」と見ている。そして「現在その地位にある現職大統領にも同様の影響を与えるだろう」と予想する。
辛口のジャーナリストの書いた本かと思ったが、意外なことに著者のハーラン・ウルマンは米戦略国際問題研究所、アトランティック・カウンシルのシニアアドバイザー 1941年生まれ。米海軍士官学校を卒業し、ハーバード大、タフツ大で博士課程修了 安全保障の専門家として、米政府や経済界に助言し、米国内外のメディアにも出て居る人だという 米国国防大学特別上級顧問 欧州連合軍最高司令官管轄下の戦略諮問委員会のメンバーも務めている 著書も色々あるようだ。
本書の訳者、中本義彦・静岡大学教授の解説によると、著者はヴェトナム戦争への従軍を切っ掛けに、軍、大学、ビジネス、シンクタンクの世界に身を置きながら歴代政権にアドバイスして来た大御所的な存在。
豊かな学識と実務経験を兼ね備え、どの政権とも適度な距離を保ちながら、率直に意見具申して来た人物だと云う。「敢えて言えば共和党寄りだが、間違い無く穏健派」であり、本書では「アメリカの武力行為の多くに付いてバランスのとれた判断を下して居る」とのことだ。
選挙に勝つ能力とは次元が違う
アメリカと云う国はニューヨークの「自由の女神」が象徴する様に「自由と民主主義」を旗印にしている。この女神の正式名称は「世界を照らす自由」と云うそうだ。世界各国から来る移民に対し、アメリカでの「自由」を保証すると共に、海外の自由を抑圧する国に対しても目を光らせる。アメリカが武力行使に踏み切る時「自由」「民主主義」等と云う立派なスローガンが掲げられる事は良く知られている。
一方でアメリカは、新大陸に上陸した移民が先住民を制圧し版図を広げた歴史も持つ。サル精神病理学者の本で読んだ様な気がするのだが、そうした過去は国家として一種のトラウマに為っており、常に関与する戦争を「正義」と理由付けし「戦争の正当化」をしようとする内的契機にも為っているそうだ。
即ちアメリカの大統領とは、単に強大な権限を持つと云うだけで無い。アメリカと云う国の歴史や精神も体現する存在だと言える。選挙に勝つ能力とは又次元の違う資質が要求される。そして過去の例を振り返れば、任期中に一度か二度は「開戦」の決断をしなければならないのだ。
本書では、「ケネディ、レーガンにも十分な資質があったとは云い難いが、カーターにはそれが殆ど無かった。そして更に深刻なのは、1992年当選のクリントン以降の4人の大統領である」(中本氏)とされている。
気に為るのはトランプ大統領だが、著者が「常識」の持ち主と評価するマティス国防長官とマクマスター国家安全保障補佐官は既に事実上解任されている。本書の米国での刊行予定が、トランプ大統領の就任から間も無かったこともあり、十分な記述は無いが、最近の4人の中でも「トランプ程政治経験の乏しい大統領は居ない」とシビアだ。
選挙期間中からシバシバ公約や発言を翻して居ることを考えれば「いくら情報に基づいた分析をしても、数時間、或は一日か二日で意味の無いものに為るだろう」と突き放す。そんな大統領に率いられたこれからのアメリカは何処に向かうのか。日米関係はどう為るのか。安倍首相を始め、日本の政治家や官僚も一読して置くべき本と言えるだろう。永田町の書店で特に売れる事を願う。 以上
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絶対に選挙に落ちない男・中村喜四郎が、再び注目される理由
絶対に選挙に落ちない男・中村喜四郎が、再び注目される理由
〜ダイヤモンド・オンライン 麻木久仁子 1/17(金) 6:01配信〜
中村喜四郎衆議院議員 Photo JIJI
最近チラチラと見掛ける 「中村喜四郎」とは
「中村喜四郎」と云う名を聞いて何を思い浮かべるだろうか。最早微(かす)かな記憶・・・「何か汚職で捕まった人じゃ無かったかしら」若い人達なら思い出す記憶も無く「だれ?」と云うだろう。その「キシロー」の名を最近何故か、チラチラと見掛けるのである、それも思い掛け無い処で。「エ?このキシローさんは、あのキシローさん?」
中村喜四郎氏は1949年生まれ。大学卒業後に田中角栄事務所に入り秘書と為り、27歳の時に旧衆院茨城3区で初当選。メキメキと頭角を表し、その後1987年に田中派が分裂すると経世会(竹下派)の結成に参加、翌年には若くして派閥の事務局長、更には40歳の若さで初入閣し、戦後生まれ初の閣僚と為った。
その後は42歳で建設大臣。実力は勿論、その男前な風貌も相まって名実共に建設族のプリンスと謳われた。「小沢の次」「何れは総理も夢では無い」とメディアからも持て囃(はや)された人物である。が、その転落は呆気無かった。
1994年、突如、ゼネコン汚職疑惑が持ち上がり斡旋収賄容疑で逮捕される。政治の腐敗が度々騒がれ、政治改革を世論が厳しく求めていた時代、中村氏の疑惑は大きなニュースと為り連日報じられて大騒ぎだったことを思い出す。
中村氏は自民党を離党したものの議員辞職はせず、検察の取り調べにも黙秘し、最高裁まで約10年に渉って裁判闘争を続けながらも刑が確定する迄選挙に出続け、しかも当選し続けた。その態度は「フテブテしい」とテレビの視聴者や新聞雑誌の読者の目には映ったし、その様な刑事被告人に投票し続ける有権者は一体どんな柵(しがら)があっての事なのかと「旧弊に縛られた古い悪しき日本の選挙」の典型の様にも見えて居た。
が、戦い虚(むな)しく最高裁で上告棄却、実刑判決が確定し黒羽刑務所で刑に服することに為る。勿論国会議員としての議席は遂に剥奪された。政治家としては一巻の終わり、だろうと思われた。それ以降は全国ニュースで中村喜四郎の名を目にすることは無く為って行き、アレだけ大騒ぎして居た世間もその名を忘れて行ったのである・・・
アノ事件後、驚きの人生 無敗で14期目
時は流れ・・・2018年5月、新潟知事選挙は立憲民主党や共産党が呉越同舟で手を組み、前社民党県議の女性候補を応援すると云う、野党共闘が成立した戦いだったが、その戦い振りを報じる記事の中に意外な名があった。「中村喜四郎」何度も応援に入り、ドブ板選挙を展開して居ると云う。
中村氏と云えば田中角栄の最後の弟子とも言われ新潟に縁(ゆか)もあるが。何と野党側に立ち、地元の有力者にも大いに働き掛け、保守層の切り崩しに力を発揮したと云うのだ。残念ながら候補は惜敗したが、手応えのある戦いに迄持ち込む事が出来たと云う。
更にその約1年後、2019年8月、今度はその姿を埼玉知事選挙に現した。しかも立憲の枝野代表、国民民主の玉木代表等と並んで街宣車の上に立ったのである。シャツの袖を捲り上げ熱弁を振るうその姿は、70歳とは思え無い程精悍。与党対野党の事実上一騎打ちと為った選挙で野党候補の当選に力を尽くしたのだ。
「懐かしい!未だ居たのか!」しかし、本書『無敗の男 中村喜四郎 全告白』で改めて、アノ事件後、中村氏がどうして居たのかを辿ると、ソコには驚きの人生があった。未だ居たのか、何て云ってしまったら大変に失礼!だったのだ!
実は中村氏は、刑期を終えた後にも選挙に無所属で出馬し見事当選。その後も勝利を重ね、何と現在14期目の無敗の男だったのだ!しかも毎回圧勝だ。
建設族のプリンスとは昔の話、既に完全無所属で、何等利権を誘導する事も中央とのパイプを誇る事も無い中村氏が、これ程までに選挙に強いのは何故なのか。この本では、今まで沈黙を守って来た中村氏が語る。そこに見えて来るのは過つてマスメディアが描いた人物像とは全く違う姿であった。
日本中が敵に為っても 簡単には離れ無い強い後援会
中村喜四郎氏の後援会は「喜友会」と云う。が、この組織は他の一般的な政治家の後援会とは全く違うのだ。普通は地域のボスや大物・地元企業の経営者等に協力を求め、そこからピラミッド型の組織を作り、イザ選挙と為れば票の取りまとめや選挙活動のアレコレを上意下達で動かして行く。
だが喜友会はそうした地元の名士や企業には全く頼ら無い。組織の基盤は「町内会」毎に細分化した10人から50人と云った小さな単位でありそれが何百と在る。夫々が地域に溶け込んで居り、縦の繋がりも横の繋がりも無く、従ってピラミッド型に上から指示が降りて来たり動員が掛かったりすることも無い。「鉄の結束より竹の様なしなやかさ」を特徴とする組織作りだ。
「ピラミッド型だと、一番上の人が死んだり辞めたりしたら一瞬で組織が崩れチヤウ。一番上の人の気が変わっただけで、大人数が相手陣営にヒックリ返っチヤウ」
だから「俺は何百、何千票持ってるぞ」と云う人物よりも「うちは家族3人だけど一票入れるね」と云う細かい細かい、けれど強い支持を呉れる人々を束ねて行くと云う。だからコソ、例え刑事被告人と為り、日本中が敵に為っても簡単には離れない強い後援会なのだと。とは家、そんな組織は一体どう遣って作るのだろうか。
これが、気の遠く為る様な作業なのである。土日は朝の7時半から夕方6時迄、街頭演説活動を行うのだが、2週間(土日2回計4日)で選挙区の全市町を回る。それも決まった時間と同じルートで回る。有権者に取って、何時も同じ時間に月に2回、中村喜四郎の「肉声」を聞く事に為る。テープは使わ無い肉声である。これを初当選から40年、一度も休まずに続けて居ると云うのだ。
「マルで、天台宗の僧侶が真言を唱えながら千日間も山中を歩き続ける『千日回峰行』の様な過酷な活動である」
そして国政報告会。月に1〜2回、50人から100人規模で国会見学ツアーを行う。タップリと政策に付いて演説したら、後はカラオケ大会等で盛り上げる。余興の司会も自分で遣る。合間に有権者の声を細かく細かく聞く。
イヨイヨ選挙戦とも為れば、一日に何と20箇所も!自らオートバイに跨って各地を周り、声を枯らして演説し、夜は1000人単位で集まる個人個演説会で全員と握手するのだ!選挙戦では各候補が「街頭演説予定」を告知するが、20箇所ナンて見た事が無い。正に選挙の鬼である。しかし、選挙に強い事コソが、孤高を保つ源泉である。政治家は何を言おうが「落ちたら只の人」だからだ。
「絶対に選挙に落ちない男」は これからどんな「鍵」を握るのか
サテ、本書ではこうした中村氏の選挙戦のエピソードは勿論、彼を此処まで支えて来た母や兄との尋常為らざる絆の強さや、検察との戦いの裏側、そしてアノ「斡旋収賄事件」の陰にどんな政治的駆け引きがあったのか、或は地元茨城のドン・山口武平氏との長年に渉る暗闘、ナドナド、兎に角面白い話が満載である。
だが、こうして熱い人生を駆け抜けて居る中村氏は、しかしながら選挙区外では沈黙し、目立って政局に絡む事も無かった。その中村氏が、動き始めたのである。前述した様な知事選への関与のみ為らず、過つての宿敵小沢一郎との和解、小泉純一郎との再会、そして参院選では野党共闘の候補者を応援して回る等、活発にその姿を見せ始めている。
逮捕後は自民党との関係に配慮しつつ、その後は公明党とも良い関係を築いて来たが、2015年の安保法案では棄権、2017年の共謀罪の採決では反対票を投じた。
そして今、無所属に為った旧民進党議員と会派を組みつつ、自分の息子が立候補して居る茨城県議選では、ライバル共産党の候補に必勝の為書きを送る。保守政治家で有りながら、党派に縛られ無いアクロバティックな行動をも厭わ無い。何処へ向かおうとして居るのだろう。ここへ来て変わろうとする中村喜四郎。実に興味深いのである。
利権か政策論か。自由か公正か。そうした政治を巡る「2択」の谷間にコボレ落ちてしまう「義理と人情」を体現して居る様にも見える。そしてそれは、実はとても大切な要素であり、この国の政治の局面を動かす要素であると思う。
一方で、では中村喜四郎と云う政治家は、結局何をしたいのか、その政治目標は今までは鮮明には見えて来なかった。そうまでして選挙に勝つのは何をする為なのか。長い沈黙が続いた。がその沈黙が破られたからには、明確なビジョンが現れて来るだろう。
「絶対に選挙に落ちない男」はこれからどんな「鍵」を握るのか、握り得るのか。本書を読んで居るとその「ドラマ」に期待したく為るのだ。
HONZ 麻木久仁子氏 以上
【非関連報道】 「昭恵夫人」は責任回避の呼称か 気に為る男女の呼び分け
〜47NEWS 江刺昭子 1/17(金) 10:42配信〜
「桜を見る会」で招待客と記念写真に納まる安倍首相と昭恵夫人 2019年4月
間も無く通常国会が召集されるが、国会における議員の呼称が気に為る。議長や委員長が発言者を指名する時、男女を問わず「君」付けで呼んで居るからだ。1890年の第1回帝国議会以来だそうだが、女性の政治参加を一切認め無かった時代の慣習をそのママ踏襲して居て好いのだろうか。
接尾語としての「君」は、同輩や目下の人に使用する事が多い。明治時代には書生言葉でもあったことから主に男性に対して使われる。しかし現代の一般社会では、男女の別無く「さん」付けで呼び合うのが普通である。
国会で初めて男女共に「さん」を用いたのは、1993年に女性初の衆議院議長に為った土井たか子さんだった。目が覚める思いだった。「尊敬の念を持って呼んで居る」と土井さんは語って居る。2018年には、衆院予算委員会で女性初の委員長に為った野田聖子さんが「さん」付けで指名して注目された。だが、ドチラも後が続か無い。
地方議会でも見直しの動きがあり、男性は「君」女性は「さん」と使い分けたり、男女共「議員」と呼ぶ所もあるが、ナカナカ広がら無い様だ。男女共同参画を進める上で、又議会と一般社会の垣根を低くする為にも、呼称から議会改革を進めて欲しい。
メディアが用いる呼称も影響が大きい。議員の様な社会的地位のある人に付いては、新聞は「さん」では無く主に「氏」を用いて居る様だ。そうすると、土井たか子氏、野田聖子氏にする事に為る。
ソモソモ「氏」と「さん」の区別は何が基準なのだろう。敬意を込める場合に「氏」を用いるのであれば、それ以外の人は敬意を払われて居ない事に為る。男性は「氏」女性は「さん」と、新聞は長い間性別で呼称を使い分けて来たが、現在は男女共「さん」が主流に為った。しかし、今も訃報欄等で使い分けして居る記事もあって抵抗を感じる。
シンポジウムで意見を述べる伊藤詩織さん
最近の例では、ジャーナリストの伊藤詩織さんが性暴力を受けたとして元TBS記者山口敬之さんを告訴し、東京地裁で勝訴した事を伝える記事。伊藤「さん」山口「氏」と繰り返し書いてあり、悪い事をしたと認定された山口さんに敬意が払われて居る様で不快だった。
少し前までメディアに頻出して居た「福原愛ちゃん」や「石川遼君」にも違和感があった。大人に伍してアスリートとして堂々と活躍して居るのに、年齢が低いから「ちゃん」「君」呼ばわりは無いだろうと。近年は若くても、男女共ホボ「さん」に統一された様だ。
もう一つ、気に為る呼称は「夫人」である。社長夫人、教授夫人、夫人同伴等と使われ、夫の付属物と云うニュアンスが強い。メディアでは流石に殆ど使われ無く為ったが、1990年代迄は「サッチャー夫人」「アウンサン・スーチー夫人」女子テニス選手の「ビリー・ジーン・キング夫人」等と云う表現が罷り通って居た。
彼女達は誰かの妻としてでは無く、自身の活躍や業績によって報道対象に為って居るにも関わらずである。しかし調べてみると、偉人伝の定番「キュリー夫人伝」は今でも多くの出版社から発行されて居り「マリ・キュリー伝」として居るのは数点に過ぎ無い。
戦前は、社会的地位の有る男性の妻が公的な団体のトップに為るケースが多かった。「〇〇男爵夫人」「〇〇知事夫人」等と呼ばれ、愛国婦人会等の官製団体のトップとして戦争協力をリードした。
しかし、この種の夫人達は、本人の実力でその地位を得た訳では無い。だから戦後はそれを逆用し「為りたくて為った訳では無い」と戦争責任から逃げた。
近年、メディアを賑わして居るのは「昭恵夫人」である。森友問題や「桜を見る会」等、歴代総理夫人の中で動向が突出して居る。公務員のスタッフを身の廻りに置き、総理夫人の肩書きで講演したり、様々な団体の役職を務めたりして来た。ナノに都合が悪く為ると、公人では無く私人だと云って夫の後ろに隠れてしまう。
夫の付属物では無く、自立した社会人と云う自覚が有るのなら、立場に伴う責任を取って貰いたい。その第一歩として、何はともあれ「桜を見る会」の「昭恵夫人枠」招待客の名簿を公表するべきではないか。「夫人」と呼ばれる事で、戦前の「夫人」達と同様、逃げ切ってしまう事等、有っては為ら無い。
女性史研究者・江刺昭子氏 以上
【管理人のひとこと】
ウーン・・・男女の氏名の後に使う「尊称」とは、とてもデリケートの様で、それによって使う人の相手に対する見方・価値観まで透けて見えそうである。例えば、この文章においても写真説明には「ジャーナリストの伊藤詩織さん」「女性史研究者・江刺昭子氏」と何気に使ってしまっている。
伊藤詩織さんに「氏」とは何と無く似合わ無く「女性史研究者・江刺昭子氏」と自然に使ってしまって居た。これはそのママ相手に対する感情まで含まれて居ると批判されそうだ。同じく管理人が何度と使う「安倍晋三氏」とは、一国の総理とも首相とも使い難い「蔑称・べっしょう」の意味で用いて居るのもお気付きだろう。
私はサラリーマンの時、同僚や後輩には極力「さん」付けで使う様に心掛けて居た。それが好かったのか悪かったのかは知ら無いが、それ程親しく無い相手に「君」付けで呼ぶ事に何と無く抵抗があり、自然に「さん」と呼んで居た。
最近は年功序列が崩れ呼び方にも苦慮するだろうが、私は30歳以前に「主任」として本社・大阪から東京へ転勤と為り同じ年齢の社員が数人居た。その中の一人が私を「〇〇氏」と最後まで呼んだ。彼とはその後・・・今も連絡を取り合うポン友の付き合いの腐れ縁があるのだが・・・同年齢の私に「主任」と呼びたく無く苦慮して使ったのだと思う。氏等と呼ばれても何と無く似合わ無かったが「〇〇氏さ、この後一杯やる?」と何度も誘われて居る間に「彼の癖」だと素直に「〇〇さん、好いよ!」と返事する毎日だった。
「さん」は尊敬もあり親し気感もあり決して悪く無い万能な尊称だと思う。でも・・・色々な感情を含んだ尊称が存在して「これは尊称か蔑称か・・・」と迷わせるのも一つの興味には為る。一つの呼び方に杓子定規に定型するのは何と無く味気無い思いもするものだから。
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ゴーンが本当に凄かった時代 彼は日産も私の記者人生も変えた
ゴーンが本当に凄かった時代 彼は日産も私の記者人生も変えた
〜現代ビジネス 井上 久男 1/16(木) 7:01配信〜
〜レバノンに不法出国して逃亡した日産自動車前会長のカルロス・ゴーンは総じて「名経営者だった」と言われる事が多い。だが果たしてゴーンは本当に優れた経営者だったのか・・・その点を検証するには、ゴーンの来日から逮捕までを、日産の中期経営計画をベースに3つのフェーズに分けて見て行く必要がある。
拙著『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』から一部抜粋、それに加筆しながら前編と後編の2回に分けて説明して行く〜
日産の「体質」を変えた男
ゴーンは1999年春に来日し、日産の経営トップと為り再建を指揮した。当時の日産は債務超過目前で、模索して居た独ダイムラー社との提携交渉も立ち消えと為り、倒産の2文字がチラツク状況だった。そこへ乗り込んで来たのが、日産が電撃的に提携を決めた仏ルノー副社長のゴーンだった。
ゴーン改革の代名詞とも為ったのが、最初の中期経営計画「リバイバルプラン」00〜01年度だ。この計画を推進するに当たって、ゴーン氏がまず取り組んだのがクロスファンクショナルチーム・CFTの設置だった。訳すと機能横断チーム。
日産が経営危機に陥った要因の一つが縦割り組織の弊害であり、開発、生産、購買、販売等の各部門が、経営不振の理由を押し付け合って居た。こうした体質なので、意思決定が遅れた上、全体最適も図れ無い傾向にあった。ゴーンはソコに大ナタを振るって体質を改めさせた。
「研究開発」「販売・マーケティング」「車種削減」等課題毎に9つのCFTを設置。「パイロット」と呼ばれるチームリーダーは、殆ど40代の課長クラスに任せた。一つのチームには関係する複数の部門から人材を集めて構成することにより、部門最適では無く、全体最適を目指した。「リバイバルプラン」の原案はこのCFTが作った。
実はトヨタにも似た様な発想があった。トヨタでは新設組織の名称に「BR・ビジネス・リフォーム」と付けるケースがある。1990年代初めの急激な円高とバブル経済崩壊によって収益力が悪化した際、経営企画部内に「BR収益管理室」を置いたのが最初と言われる。
開発や営業、経理など会社の複数の部門から人を集め、車の設計や販売の方法などアラユル仕事の進め方を見直した。小手先だけの改革で目先の利益を追うのでは無く、企業体質そのものを変える様な改革を目指したのである。以降、トヨタにおけるBR組織は会社の課題に素早く対処する緊急プロジェクトチームの様な位置づけと為った。
「コミットメント」概念を輸入した
「リバイバルプラン」の発表記者会見に、当時、朝日新聞経済部の日産担当記者として筆者は臨んだ。印象に残っているのは、ゴーンがプレゼンテーションをする為に映し出された画面に「診断」と云う文字が刻まれ、1988年から1998年迄の過去11年間の業績を徹底分析して居ることだった。
ゴーンは「利益追求の不徹底、顧客志向性の不足、危機意識の欠如等が業績不振の原因であり、これを修正すれば再生の可能性が大である」と説明した。
このリバイバルプラン策定に当たり、日米欧で200人が直接関与し、2000件のアイデアの提案を受け、その内400件を承認した事も記者会見で明かした。策定のプロセスを明確にする事で、再建計画に説得性を持たせると共に、自分達で作ったプランだから実行責任がある事を訴えたかったのであろう。
この時、ゴーンは数字を根拠にする経営者だと筆者は感じた。グループ従業員の14%に当たる2万1000人の削減、コストの6割を占める部品調達では購入先を1415社から600社に絞り込む、そして航空宇宙部門等本業以外の事業の売却等により、総額1兆円のコスト削減を目指す・・・具体的な数字を掲げながら細かく、且つ分かり易く説明した。
そしてゴーンは「3つのコミットメント」と云う言葉を掲げた。今でこそコミットメントと云う言葉はダイエットのCMにも使われ「結果に責任を持つこと」と多くの人が理解出来るだろうが、当時はメディアもどう訳すか迷い「必達目標」と表現した。このコミットメントと云う考え方もゴーンが日本企業に持ち込んで来たものだ。
その3つの必達目標とは、2001年3月期迄の黒字化、2003年3月期迄に営業利益率4・5%の達成と、有利子負債の50%削減である。ゴーンは「黒字化出来無かったら責任を取って退任する」と宣言した。
当時の日本企業は全般的に株式の持ち合いにより、株主からの「規律」が働き難かった為、経営は「ヌルま湯」に為り勝ちだった。経営責任は大きな不祥事でも起き無い限り、棚上げにされる風土があった。ゴーンはそうした風土にもメスを入れる事にしたのだ。
僅か2年で「過去最高益」
そして驚くべき日が遣って来た。「リバイバルプラン」発表から1年後の2000年10月30日、ゴーンが記者会見し、2001年3月期決算の通期業績見通しで当期利益が過去最高の2500億円に為ると発表したのだ。筆者も記者会見に臨んで居たが、この数字が開示される為り、記者会見場から飛び出して「1面のスペースを空けて置いて下さい!」とデスクに第一報の電話を入れた。
過去最高益の要因は、北米での販売増やコスト削減による効果だった。「リバイバルプラン」の効果が即効薬として現れて居た。前年に巨額の引当金を積めば翌年はV字回復し易い財務テクニックがある事も後に分かったが、倒産寸前だった会社が僅か2年後に最高益をヒネリ出すとは、驚き以外の何物でも無かった。
V字回復を受け、筆者は2001年5月、ゴーンの一日を追う取材ルポをした。ゴーンは朝7時40分には会社に出勤し、当時、東銀座にあった日産本社15階の執務室に向かい、自分で自分の部屋のカギを開けて居た。8時頃までは今日遣る仕事の優先順位を考える。
即決即断のケースが多い為、机の上にあった決裁書類を入れる3つの箱は全て空だった。報告文書を持って行くと、書類を破りながら「君だけが頼りで信用して居る、だから書類は不要だ」と言う事もあった。
当時の関係者は「厳しいリストラ等を繰り返して来たので、悪口を言われるのは慣れて居るが、親しみ易さが足り無いと言われる事をゴーンは気にして居る」と語った。夜も遅いと11時位まで働いて居た。目的が明確では無い会食は全て断るとの事だった。ゴルフも嫌いだった。
ホボ一日をその為だけに使う事が、彼流の考えでは無駄なのだそうだ。ワーカホリックの様に早朝から夜遅く迄働くので「セブン-イレブン」と仇名が付いた程だ。
この取材の時、ゴーンに今どんな思いで働いて居るかと聞いたら「社員や株主が誇りに思える会社にしたいし、日産で働く事が社会や家族に貢献して居ることが分かる様にしたい。遣ることはマダマダある」との返事が返って来た。
経営者としての絶頂
リストラだけでは無く、ゴーンは攻めの姿勢にも転じ、2001年には約1000億円を投じて米国での新工場建設や軽自動車への参入等を決めた。リバイバルプランは当初2002年度迄の3年間だったが、1年前倒しで目標をクリアした。3つのコミットメントも全て達成した。
当時のゴーンは、単に数字を管理したり、リストラをしたりするだけでは無く、自動車メーカーの生命線である商品開発にも積極的に口を挟んだ。クルマづくりにも情熱を持って居た。
2000年1月に「プログラムダイレクター」と云う役職を設置したのはその象徴的な動きだ。一人の「プログラムダイレクター」が、担当する車種群でデザイン、技術、製造、購買、販売など6部門に指示する権限を持ち、収益に対して責任を負う。
各部門の専門性を束ねて結果を追求する為の役職であり、これは単にクロスファンクショナルな活動をするだけでは無く、収益確保も同時並行で追求すると云う狙いがあった。
続いてゴーンはリバイバルプランに続く中期経営改革「日産180」02~04年度を策定した。この中期経営計画では、グローバル販売台数の100万台増、営業利益率8%の達成、有利子負債ゼロ(自動車金融事業を除く)をコミットメントとして掲げ、全て達成させた。
2004年3月期には営業利益率11・1%を記録。ゴーンが君臨した19年間で最高値だった。
世間の見方も、リストラへの反発はあったが、丁度2001年に首相に就任した小泉純一郎が掲げたスローガン「構造改革なくして景気回復なし」と相まって、ゴーンが遣った「痛みを伴う改革」が肯定的に捉えられた一面もある。この2つの中期計画の間、即ち2000〜2004年度がゴーンの経営者としての絶頂期だったかも知れない。数値目標を設定して、厳しいリストラを繰り返すだけでは無く日産の組織風土も変えた。
「働き方改革」を先取りした
一例として、人材発掘のシステムも大きく変えた事が挙げられる。ゴーンは来日直後の1999年9月「ノミネーション・アドバイザリー・カウンシル・NAC=人材開発委員会」を設けた。メンバーはゴーンや副社長、人事担当役員。海外の子会社も含めて部長以上の管理職の人事や評価を一元化し、有能な人材を国籍を問わず起用する狙いだった。こうした制度は今でコソ珍しく無いが、20年以上前の日本企業では斬新な仕組みだった。
「働き方改革」を先取りして居た一面もある。ホワイトカラーの生産性向上の取り組みを2001年から本格化させ「V-up推進活動」と名付けた。Vはバリュー(付加価値)の頭文字を取った。
製造現場には「日産生産方式」と云う方法論が浸透して居り、仕事が標準化され易い様に為っている。処が、ホワイトカラーの職場では確立された方法論が無かった。それを改める為の活動であり、社内会議の運営の在り方迄見直させた。無駄な会議を排除し、議事録の作成も簡潔にさせた。ゴーンは、議事録を作成して居る時間は付加価値を「生産」して居るとは見做さなかった。
こうした様々な改革を国内外のメディアが評価した。筆者も肯定的に報じた。同時に、ゴーン改革の取材を通じて新聞記者としての在り方を自問自答した事も多かった。「記者はもっと勉強しないと、グローバル経営の事が理解出来なく為る。夜討ち朝駆け取材だけでは通用しない時代が来て居る。記者教育の事を真剣に考える時代が来て居る」この事を朝日新聞社の社内会議で言ったら、後に役員に為る経済部長に一笑に付された。
実はこの頃から、筆者は社内の人との付き合いは程々にして、空いて居る時間は勉強に充てた。社会人大学院に通ったのもこうした理由からだ。或る意味、自分のキャリア形成に関して気付きを与えて呉れたのがゴーンかも知れないし「ゴーン改革」を取材して居なければ触発されず、恐らくサラリーマン記者を辞める事は無かったかも知れないと今感じている。
筆者は現在、ゴーン批判の急先鋒の様に見られて居るが、彼の活動や実績を全て否定して居る訳では無いことは改めて強調して置きたい。冒頭にも述べたように、君臨した19年間を分けて冷静に見て行く必要がある。
絶頂期を迎えた直後の2005年から、ゴーン流経営に変化が見られ始めた。今から思えばそれが第一フェーズの終わり・・・凋落の始まりだった。後編ではその事を説明して行く。
井上 久男氏 (つづく)
【管理人のひとこと】
管理人がゴーン氏の記事を何度も取り上げるのは、何も彼を擁護しようと云う気では無い。この問題は、単純に企業の中の不手際を、公の官憲の力を借りて利用しようと考えた一部の人達が原因で起こった事件なのだ。その利用された官憲が更なる不手際を起こしてしまい、今や国際問題に発展してしまった・・・単にそれだけだ。
しかし、その根は実はモッと深く歴史的な我が国の検察・裁判制度にも起因するものとしてクローズアップされてしまった。日本の多くのメディアは、日本の法を犯した極悪人と決めつけて「余りにもアクドイ」等と批判・中傷しているが、それは余りに一方的弾劾であり、裁判で裁定されるまでは飽く迄「被告人」として人間として扱わねば為らない筈である・・・それを強調したいと思う迄だ。
日本では起訴されたら99%実刑の裁定が為されるので、起訴=犯罪者のレッテルを貼られてしまうが、刑が確定するまでは「推定無罪」が原則なのが通常の国の判断だ。恐らく裁判に為っても「有罪」は困難な検察だが、彼が国外逃亡を図った事で、別の犯罪を引き起こしてしまった。ゴーン氏は、或る意味早まったのでは無かろうか・・・彼が幾ら日本の検察・裁判を批判しても「法を犯して国外逃亡」した罪は消えない。それだけは確かなことだ。
何故、昭和のトップスター・岡田嘉子は 恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか
何故、昭和のトップスター・岡田嘉子は
恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか
〜文春オンライン 1/16(木) 17:00配信〜
岡田嘉子氏 文藝春秋
スター女優と若手舞台演出家の亡命
今の日本では「越境」「亡命」と云っても全くピンと来ないだろう。島国の日本に陸地の国境は無い。しかし、75年以上前には、傀儡国家「満州国」と他国との境以外にも国境が存在した。
日露戦争の結果、北緯50度線以南の半分が日本領と為った「樺太」現サハリンで、北半分を占めるソ連領との境。そこを雪の正月に越えて行った男女が居た。それも、女は当時のトップスター・岡田嘉子。と云っても、今の若い人達にはピンと来ないだろうが、映画や舞台で活躍し、一時は人気ナンバーワンに為った女優。男は若手舞台演出家・杉本良吉だった。共産主義国家ソ連への2人の亡命は当時大きな話題と反響を呼んだ。
しかし、ソ連ではスターリンによるとされる粛清の嵐が吹き荒れて居り、越境・亡命劇の結末は、本人達が夢見たものとは全く違って居た。詳細は今も現代史の謎の1つとして残されて居る。前代未聞のスター女優の越境、亡命とは一体どんなものだったのか。資料や当時の新聞記事を基に見てみよう。
「岡田嘉子謎の行方 杉本良吉氏と同行 樺太で消える 奇怪・遭難か情死か」(東京朝日)
「風吹の樺太国境に 岡田嘉子さん失踪 新協の演出家杉本良吉君と 愛の雪見か心中行?」(読売)
・・・1938年1月5日付朝刊各紙は一斉にこう報じた。前年の1937年12月、日中全面戦争で日本軍が中国国民党政府の首都南京を陥落させ、お祭り騒ぎで正月を迎えた。そんな中でのニュースに多くの国民は驚いただろう。
当時でも破天荒過ぎた「亡命」
メディアも2人の行動の真意を測り兼ねた様だ。当時の地元紙「樺太日日新聞」は5日付朝刊で「熱愛の旅を樺太へ 岡田嘉子恋の逃避行 新春に投ず桃色トビツク(トピック)」「朔北の異風景に マア素敵だわ」と、ピント外れの報じ方。有名人の越境・亡命が当時でもいかに破天荒な出来事だったかが分かる。
1月6日付(実際は5日)夕刊の続報では「謎の杉本と嘉子・果然入露 拳銃で橇屋を脅迫 雪を蹴って越境 夕闇の彼方に姿消ゆ」(東京朝日)「赤露と通謀か 亜港領事館に逮捕厳命」(読売)等と、越境の模様を詳しく報道。東京朝日の同じ紙面の下部には「戦捷の新春に咲く!」と云う映画雑誌の広告や、各レコード会社が発売した新曲の広告が。
「露営の歌」「上海だより」「塹壕夜曲」「兵隊さん節」・・・各紙共、2人が自分達の意思で越境した可能性を打ち出したが、朝日は6日付朝刊で「謎解けぬ雪の国境 思想上の悩みか 邪恋の清算か」と未だ迷って居る。
その後の動きを新聞報道で見ると、日本の外務省が「北樺太」の首都アレキサンドロフスク駐在の総領事を通じてソ連側に2人の捜索と引き渡し交渉する事に。(8日付夕刊)総領事からの報告で、2人が国境のソ連監視所に勾留され、生存して居ることが判明。(9日付朝刊)2人はアレキサンドロフスクへ護送され、ソ連当局の取り調べを受けて居ることが分かった。(15日付朝刊)誰もが驚く越境劇に周囲の動揺は大きかった。
プッツリ途絶えた2人の消息
小山内薫等の築地小劇場の流れを汲む劇団で、杉本が所属して居た新協劇団は、それ迄もメンバーの多くが検挙される等弾圧を受けて居り「劇団の規約を乱し、劇団の方針に関しての社会的疑惑を引き起こした事に付いては断固として糾弾せざるを得無い。行動は劇団とは無関係」として除名処分を決定。嘉子が所属した井上正夫一座は除名せず「出来るものなら温かく迎えたい」との態度で好対照を見せた。
岡田嘉子の前夫・竹内良一の実妹で嘉子の親友でもあった竹内京子は、事前に相談を受けて居たが、警視庁の調べに「只、雪を見たいからとだけ言って居ました」と答えた。
「婦人公論」は1938年3月号で良吉の妻智恵子の手記「杉本良吉と私」を、4月号では嘉子が10代で生んだ博の手記「子を捨てた母へ」を掲載し話題を集めた。
越境・亡命から8カ月余り経った8月30日付東京日日には「フェイクニュース」が。同年7〜8月に起きた日ソ間の国境紛争「張鼓峰事件」の停戦協定締結後の情報として、岡田嘉子がソ連領で共産学校の日本語教師をして居るが、顔色も蒼褪め頬の肉も落ちて、過って舞台やスクリーンでファンを騒がせた晴れやかな面影はオクビにも見え無いと云われる。一方、杉本はハバロフスクで健在・・・この辺りで2人の消息はプッツリ途絶える。
人気投票でナンバーワンのトップスターに
キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集 女優編」によれば、岡田嘉子は広島市生まれ。地方紙記者だった父の勤務の都合で各地で暮らしたが、元々女優志望で、舞台を経て日活の映画女優に。オランダ人の血を引くとされるエキゾチックな美貌と妖艶な雰囲気を生かし、村田実監督の「街の手品師」等に出演して人気を集め、1925年の映画女優人気投票でナンバーワンに為るなど、トップスターと為った。
1927年「椿姫」に出演したが、村田監督の指導に納得がいか無い等の悩みから、相手役の外松男爵家の御曹司・竹内良一と撮影をスッポかして逃避行。日活を解雇された。しかし、華族の資格を剥奪された竹内と結婚。一座を作って舞台公演を続けた後、松竹蒲田に入社した。
小津安二郎監督の「また逢ふ日まで」「東京の宿」等で好演を見せたが、井上正夫一座で舞台女優に戻る。商業主義に走り勝ちな映画よりも舞台に自分の場所を見い出して居た様だ。
「私達の恋には明日が無いのです」越境を決意
そこで知り合ったのが演出助手の杉本良吉だった。本名・吉田好正。ロシア語に堪能で、早稲田大を中退して左翼の劇団運動に参加し、日本共産党に入党したが、1933年に治安維持法違反で逮捕され執行猶予中だった。
2人は演技指導を通じて親しく為り愛し合う様に。しかし、嘉子には別居中だが竹内と云う夫があり、杉本にも、過つての美人ダンサーで当時は結核で闘病中の妻が居た。嘉子が1973年に出版した自伝「悔いなき命を」には、2人が越境を決意した時の事がこう書かれて居る。
「私達二人は、もうどうする事も出来ない処まで進んで居ました。私達の恋が世間から、周囲の人達から祝福され無い事は好く分かって居ます。私達の恋には明日が無いのです。二人ともそれは好く分かって居るのです。それだけに又激しく燃え上がる愛情なのです」
1937年には日中全面戦争が勃発。軍事色が濃く為る中で、非合法共産党の活動や、それに繋がるプロレタリア文化活動への弾圧が厳しく為って居た。
「彼(杉本)が一番恐れたのは赤紙でした。召集されれば、思想犯の彼が最悪の場所へ送られるのは明らかです」「私達二人は刻々と周囲を取り巻いて来る暗黒を見詰めて、ともすれば黙り勝ちに為るのでした」
と同書は書いて居る。そんな中で嘉子は或る言葉を漏らす。「ネエ、イッソ、ソビエトへ逃げちゃいましょうか」その時「彼はハッとした様に私を見詰めました」
共産主義者に取って理想の地だったモスクワ
実は杉本は以前、国外脱出を計画した事があった。平澤是曠「越境―岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」によれば、1932年、党員仲間と北海道・小樽から小型発動機船でソ連に密航する事を考えたが、仲介者が信用出来ず、船に不安があった事から断念した。
この頃の共産党員や支援者に取って、国際共産主義の本拠「コミンテルン」の在るソビエト・モスクワは理想の地であり、スタニスラフスキーの弟子メイエルホリドが指導する最先端の演劇運動は、左翼演劇人の憧れだった。現に華族出身で「赤い伯爵」と呼ばれた杉本が師事した演出家・土方与志と、同じく佐野碩がモスクワに居ると杉本は思って居た。実際は2人とも追放されて居た。
「海を越えて行く事は、彼が既に失敗して居ます。陸続きと云えば、満州か樺太しかありません。執行猶予の身である彼が満州へ出る事は出来ない。とすれば道は一つ、樺太の国境を越えるだけです」(「悔いなき命を」)
嘉子にも、メイエルホリドの演技指導を受けて「もっと好い女優に」と云う願望があったと云う。「このまま日本にいても・・・」閉塞状況にあった2人が決断するのにそれ程の時間は掛から無かった様だ。
「生涯に一度は樺太に行ってみたいと何時も憧れて居ました」
そこから越境に至る迄は、自伝「悔いなき命を」と、当時「時局情報特派員」の加田顕治が現地で取材し、「事件」から3週間後に出版した小冊子「岡田嘉子・越境事件の真相」では可成りの違いがある。
「悔いなき命を」によれば、2人は1937年12月26日、舞台の千秋楽を終え、翌27日、上野駅発の夜行列車で青森へ。 「青森から連絡船で函館へ着き、旭川迄。その夜は旭川泊まり。どうにも隠し様の無い私の顔です。アイヌの芝居を遣るのでその生活を研究に来た、と宿の人に言った手前、次の日は早く起きてアイヌの家を訪れました。午後出発、翌日朝、海を越えて南樺太へ。その夜は豊原駅前の旅館で一泊。翌日又汽車に乗って、夕刻敷香へ到着。山形屋旅館へ落ち着きました」(「悔いなき命を」)
「岡田嘉子・越境事件の真相」では「二人を乗せた列車が国境の町敷香駅に到着したのが三十一日夜九時」として居る。宿の主人に目的を聞かれた嘉子は「私の父はズッと昔、樺太民友新聞に勤務し、文章生活をして居た事がありますし、生涯に一度は樺太に行ってみたいと何時も憧れて居ました」と答えた。
2人が越境越えを果たした瞬間
以下は「悔いなき命を」に従う。
「それと無く国境の事を聞くと、冬は雪で道が閉ざされ、警備隊詰所に数人の隊員が雪に埋もれて寂しく暮らして居るだけとの事です。それは気の毒だから、その人達を慰問に行こうじゃないかと言い出しますと、宿の人も喜んで・・・」
翌日、警察署長宅に行くと、元日の祝宴中で大歓待を受け、署長がソリを出して呉れる事に為った。「生まれて初めて乗るホロも無い馬ゾリ。四辺は縹緲とした雪野原」「国境警備隊半田詰所へ着いたのは午後二時を回って居たでしょうか。慰問の言葉もソコソコに、私は国境見物を願い出ました」信用した隊員は自分達はスキーで、銃や連絡用電話機を嘉子達が乗った馬ゾリに載せた。
「暗く為っては国境が見え無いから早く早くと馭者をせき立てます」「『ここだ』と言われて、馬ゾリが止まるや否や、二人は手を取り合って駈け出しました」「雪との闘いで邪魔に為った手提げカバンを投げ捨て、暑く為ったので、首に巻いていたセーターを投げ捨てた時、杉本が『国境を越えたぞ!』と叫び、首から吊るして居た呼び笛を吹きました。それと同時に、二人の若い兵士が行途に立ち塞がりました」と嘉子は書いて居る。
「岡田嘉子・境事件の真相」は「国境警備隊半田詰所」を「半田警部補派出所」として居り、この方が正しい様だ。
「嘉子が彼に突き付けた踏み絵だったのだ」
「越境」は杉本の越境の動機をこう分析して居る。モスクワでの演劇修行への強い関心と併せて「愛しい病妻と、嘉子と云う熱い愛人との狭間で葛藤があった。2人に接する杉本の愛に偽りは無かったが、このママ2人に平等に分かち合うのは偽善者であり、必ず破綻の時が来る」
升本喜年「女優 岡田嘉子」は嘉子の動機をこう書く。「杉本の心を心だけでは絶対自分のものに出来無いとすれば、杉本のその体を物理的に智恵子の手の届かない処へ引き離す他に道は無い。樺太国境を杉本に迫ったのは、嘉子が彼に突き付けた踏み絵だったのだ」
ドチラもその通りかも知れない。他にも様々な推測があるが、どれも裏付ける根拠は無い。そして、それから戦争を挟んで長い年月が経った。
理想の地は「地獄」だった
・・・大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相 この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」岡田嘉子の越境 #2
戦後初めて伝えられた嘉子の消息
戦後、嘉子がモスクワの放送局でアナウンサー兼プロデューサーの様な仕事をして居ることが伝わって居たが、消息が正確に報じられたのは1952年。日本人として戦後初めてモスクワを訪問した高良とみ参院議員が面会。
同年7月2日付朝日新聞朝刊には、高良議員等と一緒に写った写真と共に「結婚した岡田嘉子」の見出しで記事が掲載されて居る。
その後、ソ連を訪問する過つての知人等と面会して居たが、ソ連での結婚相手で矢張り戦前、映画スターとして活躍した滝口新太郎が死去。その納骨の為に34年振りに帰国したのは1972年11月だった。
それから何回か両国を往復。その間、山田洋次監督の松竹映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」や舞台にも出演した。
この画面に映る女優は、故・太地喜和子さんです・・・注
「その知らせは余りにも最悪でした」「悔いなき命を」によれば、ソ連の国境警備隊詰所での事を「三日程経った後、私だけが何処か他所へ連れて行かれる事に為った時は、流石の私も杉本に縋り付いて泣きました」と書いて居る。杉本は「直ぐに又逢えるからね」と言ったが「それっ切り私達は二度と再び相逢う事が無かったのです」(同書)
独房の様な所に「三カ所位はアチラコチラへ移されましたが、それが何処だったかは、ロシア語が分か等無いのだから知り様がありません」そしてこう書いている。 「こんな生活が二年近くも経った頃、突然呼び出されました。その知らせは余りにも最悪でした。風邪の後肺炎に為って死んだと云うのです。死に目にも遭え無かった!」そして中央アジアの町で数年暮らし、1947年にモスクワに出たとして居る。日本とソ連を行き来する間に何度もインタビューを受け、越境後の事を聞かれたが、詳しく話す事は無かった。
杉本はスパイ容疑で処刑されて居た
1989年4月15日、モスクワ発時事通信電のショッキングなニュースが新聞夕刊に載った。「杉本良吉氏 実は銃殺 スパイ容疑、粛清の犠牲」(北海道新聞見出し)リャボフと云うモスクワの現職検事補が、国家保安委員会・KGBの文書に「杉本が銃殺された」と云う記述が有るのを発見した事が現地の週刊誌に掲載されたと云う内容だった。
記事によれば、2人は越境後、国境侵犯の容疑で内務人民委員部・NKVD=KGBの前身の取り調べを受け、杉本は拷問の結果、日本の陸軍参謀本部から破壊活動の為派遣されたスパイと虚偽の自白を強制された。杉本は裁判手続き無しに処刑され、その自白からメイエルホリドにも嫌疑が掛かり、彼も処刑されたと云う。
「女優 岡田嘉子」によれば、リャボフは嘉子の家を訪れてその事実を伝えた。「その説明を聞いた嘉子は強烈な印象を受けた筈だが、それを表面には出さず、意外な程冷静に聞き、リャボフの質問に対してロシア語でいちいち答えた。そして最後に言った。『杉本は病死したとばかり思って居た。アノ時、死亡証明書も貰っている。死因は肺炎とあった。死亡の日付も違う』」時事の記事に添えられた嘉子の談話も「モッと早く真実を教えて欲しかった」と為っていた。
「杉本は私を助ける為に罪を被った」
1992年2月、嘉子はモスクワで老衰の為89年の波乱の生涯を閉じた。しかし、物語はそれで終わら無かった。4カ月後の6月、再び時事通信が、越境から2年後の1940年1月に嘉子が検察局と内務人民委員部宛てに嘆願書を出していたと云うニュースを配信した。
それによれば、越境直後「5日間、夜も昼も眠りを与えられ無い取り調べ」を受けて「精神状態に異常」を来たし「スパイと言えばソビエト人とするが、言わ無ければ日本に帰す」と脅されて自白書を書いた。その為、杉本に対する拷問は過酷を極め「隣室で苦しさの余り発する杉本の悲鳴が私の胸を刺した。取り返しの付か無い後悔の念に死を願ったが、監視が厳しく許され無かった」と綴っていた。「杉本は私を助ける為に罪を被った」とも。
嘉子はハバロフスクからモスクワに送られ、1939年10月、軍事法廷でスパイ罪で10年の刑を受けた。杉本の処刑はその1週間前だったと云う。嘆願書はモスクワから約800キロ離れた強制収容所・ラーゲリで書かれ「スパイの汚名は死ぬ程辛い」と再審理を直訴して居たが、願いは適わなかった。
記事は「岡田さんの自白が元で、杉本氏も自らをスパイと認め銃殺に繋がった事が判明した。軍国主義の日本を脱出し、憧れの地ソ連に越境した二人は、当時吹き荒れたスターリン粛清の直接の犠牲者と為った」として居る。
自らの自白が原因だったと云う事実は嘉子に重く圧し掛かり、生涯その事を自分の口から明らかにすることが出来なかったと思われる。自伝「悔いなき命を」に書いた「中央アジアの町に住んだ」と云う話は他の所でも述べて居たが、或はKGBから言い含められた「物語」だったのか、真っ赤なウソだった。
2人が犠牲と為った「スターリンの大粛清」とは
1930年代を中心にソ連で起きた大粛清は、規模や原因等、全容は今も解明されて居ない。横手慎二「スターリン」も「大粛清の全てを単一の原因で説明する事が不可能な事は明らかである」として居る。農業集団化等の経済政策や赤軍の運営等の軍事を巡って、最高権力者スターリンを取り巻く上層部で権力争いが起きた事は間違い無いが、それだけでは無かった。
「現在では、1930年代後半の大弾圧は、こうした政治や軍事の指導層だけでは無く、より広い階層の人々に迄及んだ事が確認されて居るのである」(同書)経済部門の管理者や女性「満州」に関連した人々・・・アリトアラユル人が理由もハッキリし無いまま罪を問われ、死刑を含む粛清の対象に為った。「スターリン」によれば、1936年から38年迄の間に政治的な理由で逮捕された者は134万人に達し、そのうちの68万人余りが処刑されたと云う。これよりはるかに多い人数を挙げる人も居る。
こうした大粛清はスターリンの意図とは別に為されたものでは無かったかと云う議論もあるが「大粛清の責任はスターリンには無かったとする結論迄引き出すのはバランスを失して居る様に思われる」と同書は指摘している。
「事件が可笑しい」2人の越境に関心を示して居たゾルゲ
興味深いのは、嘉子と杉本の越境、亡命にあのゾルゲが関心を抱いて居たことだ。ゾルゲはコミンテルンのスパイでドイツの新聞記者として日本で活動。1941年10月に逮捕され、1944年11月に死刑に処された。
グループの1人で画家の宮城与徳(後死刑)の警察訊問調書には、彼がゾルゲに報告した情報が詳細に記録されて居る。その中に「昭和十三年一月 杉本良吉、岡田嘉子の北樺太越境 両人の経緯及人物評」「ゾルゲの依頼により私の人物評に私見を報告」と云う記載がある。宮城は1942年3月の検事の取り調べにも2人の件に付いてこう答えて居る。
「此の問題はゾルゲから『事件が可笑しいからスパイとして行たのではないか』と調査を依頼され調べて見ましたが、両人とも良い人で芝居を現実に行た丈の事である事が判りました」(検事訊問調書 以上「現代史資料」)ゾルゲからの報告は嘉子と杉本の運命に影響を及ぼさ無かったのだろうか。
歴史から消えた「コミンテルンとの連絡」
今も残る謎の1つは、越境・亡命にどれだけ裏付けが有ったかだろう。杉本の亡命は、同時に日本共産党に入党した宮本顕治・元委員長の指示だったとする見方がある。宮本元委員長自身、著書「回想の人びと」でこう書いている。
「杉本(良吉)は演劇運動の有能な演出家でありました」「こう云う人達を残して置きたい。それにはソ連に遣って置こうと考えた訳であります」「1933年に為りますと、弾圧は一層厳しく為って、コミンテルンとの連絡も容易で無いと云うことで、併せてコミンテルンとの連絡と云うことを考えた訳であります」「マンダートと云って信任状、これは日本共産党員であると証明する文書、これを彼等に渡しました」
正史である「日本共産党の五十年」にもこう書かれている。「コミンテルンとの連絡の為に1938年1月、樺太の国境を超えてソ連に入った杉本良吉も、逮捕されてその任を果たせ無いままソ連で死亡した」
その後の「日本共産党の六十年」「日本共産党の六十五年」も同様の記述だったが、「日本共産党の七十年」では「コミンテルンとの連絡」が消え「日本共産党の八十年」に為ると「杉本良吉、岡田嘉子……」と、他の亡命者と十把一絡(じゅつぱひとからげ)げの書き方に為って居る。この間に杉本の銃殺と嘉子の嘆願書と云う新事実が明るみに出て居り、そうした影響を考慮したのだろうか。
この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」
加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」によれば、旧制東京府立一中(現日比谷高校)で杉本の2年先輩だった新劇界の大物・千田是也は著者のインタビューにこう答えている。
「気の毒なのは杉本良吉・岡田嘉子の1938年1月のソ連行きだった。自分達新築地劇団(築地小劇場の流れを汲む別の劇団)のグループは、土方与志・佐野碩が追放に為ったのを1937年9月頃に知って居た」「新協劇団の杉本はそれを知らずに、ソ連は天国だ、行けば土方・佐野と会えるだろう、メイエルホリドの元で学べるだろうと信じてソ連に入ってしまった」
同書はその時代の状況に付いては次の様に述べて居る。
「当時のソ連は、日本人であれば誰でも『偽装スパイ』を疑われるスターリン粛清の最中であった。既に1936年11月に伊藤政之助、1937年中に須藤政尾、前島武夫、ヤマサキ・キヨシ、国崎定洞、山本懸蔵等が逮捕されて居た」
「杉本良吉・岡田嘉子の越境は、その地獄の中に飛び込んだものであった」
「二人の国境を越える夢は実現されたが、それは、敷居の極度に高い、別の国境に囲い込まれたものに過ぎなかった。夢にまで見た『社会主義の祖国』への入国は、逮捕・拷問と銃殺・強制収容所によって迎えられた」
この事件に未だ謎は残って居る。只、本人達の情報収集や考え方に問題があったとは言えても、理想と思って居た国が実は地獄の地として、信じて来た人間を裏切り死にも追い遣る無残さは、死ぬ迄真実を明らかに出来なかった無念と重為って、80年余り経った今も私達の胸を打つ。
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社会主義復活のヤバい風潮が・・・!リーマンショック後の長期停滞の悲劇
社会主義復活のヤバい風潮が・・・リーマンショック後の長期停滞の悲劇
〜現代ビジネス 安達 誠司 1/16(木) 9:01配信〜
「長期停滞」から抜け出す為に
リーマンショック後の世界経済は「長期停滞」と呼ばれて居る。この「長期停滞」という言葉は、2013年11月のIMFの会議の席上、米国の著名経済学者であるハーバード大学のローレンス・サマーズ氏が用い、それが徐々に普及・定着したものであるが、元々は、大恐慌直後の1938年の米国経済学会で当時の学会長であった同じくハーバード大のアルビン・ハンセン氏が提唱したのが最初であった。
1938年と云う年は、一旦は大恐慌による「デフレの罠」から脱出し掛けた米国経済が再びデフレに見舞われた「1937年大不況」の翌年に当たる。この再デフレに付いては様々な理由が指摘されて居るが、結局の処、デフレを克服出来なかったという「絶望感」が国民の間に広がった。その後、米国政策当局は、第二次世界大戦に参戦すると云う事もあり、戦時体制に突入して行く。
戦時体制を、経済面で言い換えれば「統制経済」と云う事に為るが、有名な「ニューディール政策」はこの長期停滞を克服する為に新たに構想された「統制経済政策レジーム」であった。
ルーズベルト大統領
「ニューディール政策」の代表的な政策は、インフラ投資等の公共投資、及び軍事支出拡大と云った財政支出を、中央銀行であるFRBの低金利政策・・・1942年以降は、国債の各年限の利回りを固定すると云う「Bond Price Peg制」が敷かれた・・・でファイナンスすると云うものであった。
この「マクロ経済政策の組合せ」は「積極的・Activeな財政拡張政策と受動的・Passiveな金融緩和政策」と云う事に為ろう。これは長期停滞を克服する為に有効だと思われる政策の組合せ・ポリシーミックスであることが、ブラウン大学のガウチ・エガートソン氏らによって提唱されて来た事は、当コラムにおいても度々指摘して来た処である。
処で、当時の米国の経済政策を見るうえで注意すべきは、1930年代前半の「デフレからの脱却」に際しては、FRBによる金融緩和・・・特に、国債の積極的な購入による量的緩和政策の効果が大きく、それ程大規模な財政出動を実施した訳では無かったと云う点である。精々、緊縮的な財政政策では無く為ったと云う程度であった。詰まり、当時のFRBは、金融政策主導でデフレからの脱却を実現させた。
だが、これは残念ながら「サクセスストーリー」には為ら無かった。何故なら、この様なリフレーション政策を実施して居る最中から、当時も前例の無かった量的緩和の実施、及び、それに伴うゼロ金利状況の持続に不安を持ち、その結果、金融政策の正常化を急ぎ過ぎた事が再デフレに繋がった可能性が高いからである。
又、同時に増税を実施した事も人々の再デフレ懸念を強めた。これに付いても、ガウチ・エガートソン氏の先駆的な研究がある。この様な、言わば「拙速な経済政策の正常化」が、折角克服し掛けたデフレと云う病をブリ返えさせる事に為ったのだが、それであれば、大規模な金融緩和を再開すれば事足りるのかと云うと、そうでは無かった。
拙速な政策転換は、人々の経済政策に対する「信頼性」」を著しく損ねた。その為、1930年前半には成功した、金融政策に依存したリフレーション政策を単純に繰り返した処で、それが再び成功するか否か疑わしく為ったと云うのが、1930年代終盤の経済状況であった。
そこで、ルーズベルト政権は、経済政策の「レジーム」を本格的に変えようと試みた。これは、単に財政支出を大幅に拡大しただけでは無く、経済のアラユル側面で政府が積極的に介入すると云うものであった。
例えば、価格上昇を意図したAAA・農業調整法による農産物の生産制限やデフレによる労働需給の緩和の悪影響を払拭する事を意図したNIRA・全国産業復興法による労働時間の短縮や賃金の確保「ワグナー法」による労働者の権利拡大と云った政策である。
「MMT(現代貨幣理論)」との危険な類似
処で、以上の様な「ニューディール政策」の枠組みを今の文脈で見てみると、昨年話題に為った「MMT(現代貨幣理論)」との類似点が多い事に気付くだろう。「MMT」の教科書を読むと、MMTでは、財政支出拡大が中央銀行によるファイナンスで実施される事に加え、それに伴うインフレ圧力は、JGP・ジョブ・セキュリティ・プログラムと云う政府主導の雇用創出政策に付随する最低賃金の設定・・・これが物価のアンカーに為る・・・と税制や規制による各市場の需給調整によって対処するのでインフレリスクは低いとされて居る。
実質的には経済の様々な分野で政府の介入を増やす事に為る訳だが、当時の「ニューディール政策」は雅にこれに当て嵌ると考えられる。
米国でMMTを支持するのは、民主党の左派、モッとハッキリ言えば、社会主義を標榜して居る層であるが、当時の米国でも、当初、ルーズベルト政権が構想した政策は「米国の伝統的な自由主義、資本主義を危うくする」として最高裁判所から違憲判決を受けて居る。詰まり、最高裁は米国の社会主義化を懸念したと考えられる。
そこで、ルーズベルト政権は、最高裁判所の人事を変える事によって政策実現を可能にしたのだが、当時の米国でもルーズベルト政権的な政策レジームは、社会主義経済化を彷彿とさせるものとして抵抗感が強かった事が伺える。
又、最近の研究では、経済政策としての「ニューディール政策」を支えて来た官僚(FRB高官を含む)の中に、マルクス主義者が多く含まれて居て、その後の政策にも影響を与えた事が指摘され始めて居る。この様に、当時の米国で社会の価値観すら変えてしまい兼ね無い様な政策が採用された理由は何であろうか?
それは「長期停滞」と云うマクロ経済全体の低迷と云うよりも、同時並行的に深刻化した格差の拡大の影響であろう。そして、その格差の拡大による人々の不満を受け止めると思わせたのが社会主義であった。
以上の様な流れは、米国だけの現象では無く、当然、当時の日本でも見られた。特に、日本の場合は、或る意味、軍部の既得権益と化して居た中国大陸への進出と整合的な経済政策レジームとして統制経済が志向された。
更に言えば、統制経済は、先に実現して居たドイツやソ連を「模範」として、正しい政策として経済学者の間で研究対象と為り、そして、1930年代終盤より実行された。
そして、特筆すべきは、当時の日本の場合、米国とは異なり、リフレーション政策に失敗し、再デフレに陥った訳では無かった。日本では一応は「高橋財政」によって、デフレからの脱却に成功して居たのだった。最も、「高橋財政」も政治的には様々な問題点があり、それが後の統制経済化に繋がったと思われるのだが。
社会主義は復活するのか
そこで、話は現代に移るが、ソ連崩壊・冷戦終結と云う「歴史の終わり」によって死滅したと云われて居た社会主義が、自由を重んじる米国で再び広がりつつあるらしい。
これに付いては様々な調査結果が公表されて居る。ハリス・ポールと云う調査会社によれば、1997年から2012年までに生まれた米国の若者・ジェネレーションZと云われる、の49.6%が社会主義国で暮らす事を望んで居るとの調査結果を発表したらしい。
又、米国のシンクタンクであるケイトー研究所が、昨年9月に発表した世論調査では、社会主義に好意的であると回答した民主党支持者が64%と、資本主義に好意的と回答した支持者45%を上回ったらしい。
これは、今回(リーマンショック後)の長期停滞が米国の格差問題をより深刻化させた事に対する米国民の反応であり、中でも、特に若年層が資本主義の競争社会で勝ち抜く事に対して大きな将来不安を抱えて居る事の証左であろう。
この様な若者の将来不安は、経済全体を動かす「アニマル・スピリット」の後退による米国経済の低迷と表裏一体なのだろう。それ故「長期停滞」が続いて居るのであろう。
こうした動きを観て筆者が疑問に思うのは、若者を中心に支持を高める社会主義が、米国で本当に理解されて居るのだろうかと云う点である。
旧ソ連や現在の中国を観れば、社会主義の「現実」は、寧ろ、権力者が既得権益をより多く享受できる体制である事は明らかである。又、選挙戦でも話題に為り、サンダース議員がその典型例だが、民主党で大統領候補に為る様な人は超富裕層が多い事等を見て、何か可笑しいとは思わ無いのだろうか。やはり「貧すれば鈍する」と云うことなのか。
しかし、この様な風潮は決して米国だけの話では無い。格差拡大を初めとする周辺環境は、米国と変わる処は無い為だ。ただし、1930年代以降の米国との比較で云えば、まだ「拙速な正常化政策」によって再デフレに陥って居ない点が救いなのかも知れない。
ただ、その面では、未だ顕在化はして居ないが、昨年10月の消費増税によって、先行きの再デフレのリスクに付いて警戒すべき点が散見され始めて居る。更に言えば、日本の場合、この「不満」の受け皿に為りそうな有力野党が存在しない点が米国との大きな違いであり、それ故、政府与党には未だ余裕がある様に見受けられる。
だが、戦前日本の政策当局が統制経済に傾斜し、ヤガテ無謀な戦争で多くの犠牲を払う事に為ってしまった切っ掛けは、昭和恐慌迄の長期デフレによる格差拡大と「資本主義の行き詰まり」と云う考えであった。
又、日本の表面的な歴史では、社会主義は徹底的に弾圧され消滅してしまったかの様な扱いだが、当時の政権内で或る程度の影響力を行使したと考えないと、戦争に至る道のりに整合的な説明が付か無い点が多い。その意味で、現在の政治経済状況は戦前、特に1930年代後半との類似点が多い様に思えて為ら無い。
安達 誠司 以上
【管理人のひとこと】
・・・ハリス・ポールと云う調査会社によれば、1997年から2012年までに生まれた米国の若者・ジェネレーションZと云われる49.6%が社会主義国で暮らす事を望んで居るとの調査結果を発表したらしい。
又、米国のシンクタンクであるケイトー研究所が、昨年9月に発表した世論調査では、社会主義に好意的であると回答した民主党支持者が64%と、資本主義に好意的と回答した支持者45%を上回ったらしい・・・
とは実に興味を惹く話だ。超資本主義で、何でも有りの市場経済・競争社会を標榜する超大国アメリカの若者の中に、この様に敗北主義の様な(失礼な言い方だが)心情が生まれて居たとは想像もしなかった。
しかし、アメリカの若者だとて一人の人間だ。競争に疲れ世の中を懐疑的に観る人が増えても自然だ。人間が生まれ生きて行くのは、何も他人を蹴落として競争に打ち勝つ事が目的では無い。人間として生きる幸せを如何に求めるかの流離(さすらい)なのだと達観する人生もある。詰まり、これが極普通の人生観なのに、敢えて「自由競争」「金の獲得」を至上命題にした現在の価値観コソ異常なのだ・・・と悟りを開いたと観ても好いだろう。又は人間本来の価値観を取り戻したのだと。アメリカの若者だって普通の人間の一人なのだ。この当たり前が当たり前に思え無かった現状が異常なのだ。
しかし、社会主義が本来の社会主義として成功させる技は今の処存在しない。嫌、色々実験はしたが何れも失敗し資本主義に敗北してしまった。詰まり、教科書的社会主義は、絵本の中には存在しても現実には存在しなかった架空の物語だった。中国も北朝鮮もキューバも、全てが変形した社会主義であり、社会主義本来の姿では無かろう。
だから、今更社会主義に戻ろうと実験する国は現れ無いだろう。出来得るのは、その思想の利用出来る利点を掬い上げ学び、現実の資本主義社会に何らかの規範とブレーキを掛ける政策を用いる事に限定されるだろう。
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ジム・ロジャーズ「安倍首相の経済政策もホボ全てがが間違い」その理由は?
ジム・ロジャーズ 「安倍首相の経済政策もホボ全てが間違い」その理由は?
〜週刊朝日 dot. 1/16(木) 8:00配信〜
ジム・ロジャーズ 1942年米国アラバマ州出身の世界的投資家 ウォーレン・バフェット、ジョージ・ソロスと並び「世界3大投資家」と称される。2007年に「アジアの世紀」の到来を予測して家族でシンガポールに移住。現在も投資活動および啓蒙活動を行う
「世界3大投資家」の一人とされるジム・ロジャーズ氏の本誌連載「世界3大投資家 ジム・ロジャーズがズバリ予言 2020年、お金と世界はこう動く」今回はトランプ大統領の再選、日米の経済の今後等に付いて。
米軍がイランのソレイマニ司令官を暗殺し、イランが米軍拠点へのミサイル攻撃で報復する等、両国の対立は先鋭化して居る。しかし、トランプ大統領が「軍事力行使は望ま無い」と語った事でも解る様に、両国が全面戦争に突入し第3次世界大戦を引き起こす様な事態は、少なくとも2020年中には起こら無いだろう。当面は世界的な経済危機に発展する事も無い。
又、ウクライナ疑惑を巡る弾劾裁判では、トランプ氏に解任された元最側近のボルトン前米大統領補佐官が証言に立つ構えだが、最終的にトランプ氏は秋の大統領選で再選され、政権が継続する確率の方が高いと見ている。
アメリカの歴史を見ると、再選され無い大統領は殆ど居ないし、既にトランプ陣営は大金を使って票集めを進めて居るからだ。2016年の大統領選を振り返っても私の予見は当たって居た。
トランプ氏は標準控除額の拡大や法人税率一律21%への引き下げ、テリトリアル・源泉地国課税主義税制への移行等を断行。その上で大規模なインフラ投資をしたが、デット・債務は上がって居る。米国は金を刷り続けて居るが、このママ行く筈は無いと思って居る。トランプ氏の言動は殆ど間違って居る。
取り分け、保護貿易政策は愚の骨頂だ。トランプ氏は、中国との貿易戦争は正しい行いで、必ず自国が勝つと信じて居るが、歴史上、保護主義政策を取って貿易戦争に勝った国は無い。
トランプ氏がイランとの戦争を回避し、中国との貿易戦争に解決の道筋を着ける迄は、株式市場も大きく動揺しないだろう。しかし、今年の年末か来年には、米国経済の減速で株式市場に波乱が起きるかも知れない。再選されたトランプ氏が愚策を繰り返し、中国以外の国にも貿易戦争を仕掛ければ、その引き金を引く事に為る。
一方、トランプ氏と良好な関係を築いたとされる安倍晋三首相の経済政策もホボ全てが間違いだ。アベノミクスの第1の矢である金融緩和は、円安に誘導し日本の株価を押し上げた。日銀が紙幣を刷り捲くり、そのお金で日本株や日本国債を買い捲くれば株価が上がるのは当たり前だ。
しかし、引き換えに、日本円の価値は下がり、何れ物価が上がると国民が苦しむ羽目に為る。こうした通貨の切り下げ策で中長期的に経済成長を達成した国は歴史上無く、一部のトレーダーや大企業だけにしか恩恵は無いのだ。
第2の矢である財政出動も、日本を破壊する為の政策にしか見え無い。国の借金が増え続ける中で、間違った経済政策を続けるのは、最終的に借金を返さ無くては為ら無く為った時には、自分がこの世に居ないからなのだろう。安倍首相の行動原理は自分や、自らの体制を維持する事であり、そのツケを払うのは日本の若者だ。私が日本に住む10歳の子供だったら、少しでも早く日本を飛び出す事を考える。近隣の中国や韓国に住んだ方が、余程豊かな生活が送れるに違い無い。
自民党内で安倍総裁の4選を容認する意見があると聞くが、一刻も早く辞任すべきだと思う。新しいリーダーの下で、競争力を高める為に規制を緩和し、子育て環境を整えて子供を増やし、移民をもっと受け入れる様にする等政策転換を急ぐべきだろう。
構成 本誌・小島清利 監修 小里博栄 ※週刊朝日 2020年1月24日号 以上
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2020年01月16日
立憲民主党と国民民主党の合流を阻むもの〜このままでは小池知事に排除された反動に過ぎない
立憲民主党と国民民主党の合流を阻むもの〜
このママでは 小池知事に排除された反動に過ぎない
〜政治ジャーナリスト 安積明子 1/16(木) 14:00〜
合併は平行線
立憲民主党と国民民主党の合流劇は、果たして決着するのだろうか。国民民主党の玉木雄一郎代表は1月15日に両院議員懇談会を開き、立憲民主党との政党間協議の進捗状況を説明。引き続き全国幹事長会議・自治体議員団等合同会議が開かれた。
10日に行われた党首会談では、党名・人事・政策の丸呑みを求める立憲民主党に、国民民主党の玉木代表が拒否。党名に「立憲」を入れ無いこと、党綱領に「改革中道」の文言を盛り込む事等を提唱した為、両者の意見は平行線で終わっている。
実はこの点が重要だ。両党が祖とする民主党は中道左派政党として自民党に対峙した。2009年の衆議院選で政権交代を果たしたが、その原動力と為ったのは、堕した自民党政権に国民が愛想を尽かした事だった。云わば「自民党にお灸をすえる」と云う意味で、民主党に票が投じられた。民主党が国民に積極的に評価されたとは言い難い。
中道左派ではいけ無い理由
立憲民主党の路線も民主党と同じで、中道左派そのものだ。彼等が国民民主党を飲み込もうとするのは、民主党の復活を目指して居るに他なら無い。そして中道左派で居る限り、過つての社会党や民主党の様に一定の割合の支持を得る事も出来る。
何よりも政党支持率がそれを示して居る。取り分け安倍1強と云われる現在の政治状況で、野党で甘んじて居る限りは安泰と云う訳だ。
しかし政権を獲る事には到底結び着か無い。「自民党に代わる選択肢と為る政党を作る」「大きな塊を作る」等と掛け声は勇ましいが、中道左派の方向性では政権を獲る以前の民主党にも及ば無いだろう。
実際にNHKが1月14日に公表した世論調査を見ても、「自民党」が40.0%「立憲民主党」が5.4%「国民民主党」が0.9%「公明党」が3.4%「日本維新の会」が1.6%「共産党」が2.9%「社民党」が0.7% 「れいわ新選組」と「NHKから国民を守る党」が0.2%で、自民党が突出して居るが、立憲民主党と国民民主党を合わせても10%にも及ば無い。
一方で「特に支持している政党は無い」が38.5%を占めて居る。もし野党が政権を狙うならこの層を取り込む必要があるが、中道左派の立憲民主党が果たしてその任を担えるのか。
自分の生き残りを優先する獅子身中の虫たち
そうした懸念とは裏腹に、国民民主党内では立憲民主党への早期の合流を求める声もある。15日には副代表の津村啓介衆議院議員ら21名が、早急の立憲民主党への合流を求める為の両院議員総会の開催を要求した。彼等の多くは比例復活組で、次期衆議院選に不安を抱えて居る。
確かに立憲民主党の方が政党の獲得票数が多い。昨年の参議院選での比例票数を見ても、国民民主党が348万票だったのに対し、立憲民主党は800万票と2倍以上にも上る。しかし野党の勢力の拡大を目指さ無い限り、それでは同じパイの奪い合いに過ぎ無いのではないか。
彼等が目指す「大きな塊」とは、立憲民主党と国民民主党を単に足しただけのものでは無いだろう。ソモソモそれだけなら、野党勢力の拡大と云う意味で合併する意味はあるだろうか。
今も息づく小池知事の恩讐
こうした本質を見え無くして居るのは、2017年の衆議院選での恩讐だ。前原誠司民進党代表(当時)は「民進党のママでは戦え無い」と、人気絶頂だった小池百合子東京都知事に頼った。処が小池知事が作った希望の党の「排除の理論」によって、民進党は2つに分裂。希望の党に入れ無かった人達が寄る辺としたのが枝野幸男代表が立ち上げた立憲民主党だった。
その立憲民主党が今度は国民民主党に合流の条件を突き付けて居る。云わば2年3か月前の仕返しをして居る様に見えるのだ。
「この時に真っ先に希望の党に駆け込んだのが、今立憲民主党との合流を叫んで居る津村さん達だ。今度は立憲に駆け込もうとして居る。只選挙の為に右に左に只走って居るに過ぎ無い」
或る国民民主党の幹部が溜め息を着いた。只自分の生き残りの溜めの政治家の行動程、国民を白けさせるものは無い。そこには国民目線が無いからだ。もし立憲民主党と国民民主党が合併するのなら「支持政党なし」の層をどの様に取り込むのかと云う視点が必要に為る。
民主党政権の失敗は左派の限界を示したものだ。そう云う意味では立憲民主党が只膨張するだけでは、国民の多数の支持は得られ無い。
そこで「改革中道」の意味が重要に為る。立憲民主党も変わら無ければ為らないと云うことだ。代表選規定を作ら無いといけ無いし、場合によってはリコール規定も必要だろう。何よりも更に保守層へウイングを広げないといけ無いが、それを拒否する様に合併条件を突き着けると云うことでは、国民民主党を飲み込む処か「大きな塊」にも「政権選択肢」にも為れやし無いだろう。
政治ジャーナリスト 安積明子 兵庫県出身 慶應義塾大学経済学部卒 国会議員政策担当秘書資格試験に合格後 政策担当秘書として勤務 その後に執筆活動に入り政局情報や選挙情報について寄稿すると共にテレビ・ラジオに出演 趣味は宝塚観劇やミュージカル鑑賞 また月に1度はコンサートや美術展に足を運ぶ 座右の銘は、幼い時から母から聞かされた「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」 「野党共闘(泣)。」「“小池”にはまって、さあ大変!ー希望の党の凋落と突然の代表辞任」(ワニブックスPLUS新書)に続き「「記者会見」の現場で見た永田町の懲りない人々」(青林堂)を4月11日に刊行
main_streamzazumiakiko official site安積明子の「ニュースサイト エレウテリア」 以上
では、この合併劇の経緯をもう一度振り返ってみよう・・・
【関連報道】 「悪夢の様な民主党」に戻る立憲民主の残念さ
政権運営の失敗を又繰り返すのか
〜PRESIDENT Online プレジデントオンライン編集部〜
支持伸び悩みで結集するしか選択肢は無かった
立憲民主党と国民民主党が衆参両院での会派を合流させる事に為った。「安倍1強」に対抗するには野党が一本化するしか無いと、何年も言われ続けて居ただけに、ヤッと野党結集に一歩前進した形だ。しかし、永田町も世論も、今回の結集には冷ややかだ。それもその筈、立憲民主と国民民主らが一緒に為ると云うことは、安倍晋三首相が「悪夢の様な」と皮肉る民主党時代に戻る事を意味するのだ。
8月20日午後、国会内で2人の野党党首は共同記者会見に臨み、こう話した。
枝野幸男立憲民主党代表「今の安倍政権とは違うもう一つの選択肢を、力強く訴えて行けば、今の日本の政治を変える事が出来る」
玉木雄一郎国民民主党代表「国民の期待を受け止める事が出来る新しい動きに繋げたい。延いては政権交代に繋げる第一歩だと考えて居る」
両党の会派合流問題は8月5日に枝野氏が提唱。但し、立憲民主の衆院会派に国民が加わる様求めた「上から目線」の要求だった。これに対し国民民主は衆参両院で新たな統一会派を組むべきだと逆提案。15日の会議では双方の意見が平行線を辿り、交渉は決裂に向かうかと思われて居た。報道陣に取ってツーショットの記者会見は意外だった事だろう。
「れいわ新選組」の躍進に強い危機感を持った帰結
プレジデントオンライン編集部では8月13日にアップした「枝野氏も豹変させた山本太郎の圧倒的な存在感」の中で、枝野氏の提案は「衆参両院で」と云う国民民主側の要望を受け入れる形で合意に達する、と予測した。結局、その予想通りと為った。
記事で指摘した様に、7月の参院選で立憲民主、国民民主とも振るわ無かった事、山本太郎氏が率いる「れいわ新選組」の躍進に強い危機感を持った事を考えれば、合流は当然の帰結だった訳だが、政治メディアはその読みが出来なかったのだろうか。
共同通信社が17、18の両日に行った世論調査で立憲民主の支持率は10.0%で前回7月の調査と比べて3.5ポイント減。国民民主は1.4%で0.3ポイント減。一方、れいわの支持率は4.3%だった。国民民主の3倍もあるのだ。国民民主が立憲民主との合流を目指さない方が可笑しい。
会派合流は「民主党の再来」にしか見え無い
只、この共同通信社の調査には野党共闘に付いて気に為る数字もある。調査では国民民主との会派合流を提案した立憲民主の対応に付いての賛否を聞いて居る。「評価する」は僅か30.2%に留まり、「評価し無い」は50.3%で過半数に達して居る。2党が合流に向かう事を全く歓迎して居ないのだ。
両党は共に民主党をルーツに持つ。2017年の衆院解散を前に、小池百合子氏が率いる希望の党が誕生。当時、民主党の後継政党である民進党は、希望の党に合流する方針だったが、小池氏に「排除」される議員が続出。その受け皿として枝野氏が立憲民主を立ち上げた。
結果として同年の衆院選で、旧民主党勢力は希望の党・立憲民主・更には無所属で出馬したグループに3分割した。衆院選後、希望の党で当選した議員が中心と為り国民民主党に衣替えした。今回の会派合流は、立憲民主と国民民主が結集する。更に2017年の衆院選では無所属で勝ち上がって来た議員を中心とする衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」も加わる見通し。
「社会保障」代表の野田佳彦元首相は22日「安倍政権の強引で理不尽な国会運営を許して来たと云うのは『他弱』と云う問題があった。国会対策を考えた時には強力な野党第1党が必要だ」と会派合流の意義を語った。
要するに3分解した民進党勢力が再結集をすると云う話
3会派が合流すれば、衆院での議員数は117人と為り、2012年に安倍氏が首相に返り咲いて以来、野党の塊としては最大のものに為る。一定のインパクトは有る。但し国民の目には「失敗への道をもう一度歩もうとして居るだけだ」とも映る。要するに3分解した民進党勢力が再結集をすると云う話なのだ。
立憲民主と国民民主は原発政策、憲法等を巡り温度差がある。今回の会派合流は、夫々の違いを或る程度理解した上で、目を瞑って手を結ぶ事に為る。「大人の対応」と云うことも出来る。但し、その事は主要政策でバラツキが大きく「何も決められ無い」と批判を受けた民主党政権時代を思い出させる。安倍氏為らずとも「悪夢の様」だと思う国民も少なく無いだろう。
通常ならば新しい党や会派が出来ると国民の支持は上がる。本当に期待して居るかどうかはさて置いて、新しもの好きの国民による「ご祝儀相場」が期待出来るのだ。しかし、今回はご祝儀相場は期待出来ないだろう。新会派は国民に取って新しいものでは無く、失敗した「古いもの」が再結集して居るだけだからだ。
「れいわ」の山本氏を取り込むしかないが・・・
民主党政権時代を知る永田町関係者は自嘲気味に語る。「ご祝儀相場では無くて、今回は不祝儀相場なのかも知れない。それでも今、出来ることはこれ位なのだよ」
会派合流後、立憲民主・国民民主等は新党結成など新たなステップを模索する事に為るだろう。その時、過つての民主党とは違うものに見える様にするのが最重要課題だ。
民主党を超えた存在に見せる溜めには、参院選でブームを起こした「れいわ」の山本氏を取り込むしか無いのでは無いか。それを可能にするには山本氏らが、立憲民主・国民民主等の会派に魅力を感じる事が必須だ。先に紹介した共同通信社の調査結果を見るまでも無くその道は険しい。
以上
【管理人のひとこと】
立憲と国民の合併劇は一旦物別れと為り、国民の合併推進派は執拗に玉木代表に迫って居る様だし、懐疑派は「それなら別の会派を立ち上げる」として脅かしてる様だ。この様に、今までの何かの原因があり別れたものが「単なる数合わせ」の為に元に戻るのは「何か」が無ければ困難な様だ。
「何か」とは一体何なのだろう・・・それは、小沢一郎氏や中村喜四郎氏の様なベテランが指導してもその通りには進ま無い「天佑」の様な「時・・・時代」の必然性か、国民の大きな「目に見えそうな期待」かも知れない。
残念だが、この両党のゴタゴタには既視感がある・・・そう、アノ民主党の悪夢の様な党内での不統一感丸出しの騒動だ。特に身内の小沢氏を徹底的に批判する人達が、口から泡を吹きながら悪口雑言を撒き散らしたシーンである。
この人達は、自分の立場・利益しか考えず団体・全体の姿が目に入ら無い。一時の大方の情勢・雰囲気(メディアが作り出した世論)だけで行動し発言する・・・日和見の脳味噌しか持ち合わせていない。だから、高等な戦術を以て政界を歩いて来た小沢氏や中村氏の様な「政治道」「テクニック」に理解を示そうとせず「正義」「心情」を表にして「抵抗」を続けるのが政治の正道だと勘違いして居る。
目的の為には私心を捨て大道へ向かう・・・この気概が無くては、何事も個人プレーに終わり目的に届かないのを理解しようとしない。何かの間違いで合併話が進んでも、結果は元の木阿弥に終わるのでは無かろうか。だから、物別れで好かったのだ。
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「発展途上」では無い 日本を衰退途上国に落とした5つのミス
「発展途上」では無い 日本を衰退途上国に落とした5つのミス
〜まぐまぐニュース! 米国在住の作家・冷泉彰彦 1/15(水) 4:45配信〜
米国在住の作家・冷泉彰彦氏
30年に渉り景気の減速が続く日本。どれだけ現政権が自らの経済対策の「効果」をアピールしようとも、私達庶民が好景気を実感する事が出来無いのが現状です。何故、我が国はこのヨウな惨状に陥ってしまったのでしょうか。米国在住の作家・冷泉彰彦さんは今回、自身のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』で、日本が「衰退途上国」に堕ちた原因を考察して居ます。
2020年の呪い
日経新聞と云うのは、日本の会社社会と言いますか、財界を代表する新聞ですが、時々妙に反省モードに為る事があります。割に多いのが、年初の連載記事と云うもので、今年の場合は「逆境の資本主義」と云う現代の資本主義論で、割と力作のようです。
その日経の「反省モード連載」の中で、最大のヒットと為ったのが1997年に掲載した「2020年からの警鐘〜日本が消える」だと思います。当時は、相当に話題に為りましたし、単行本化もベストセラーに為っています。
今年はその「2020年」に他為ら無い訳で、1997年と云う時点では近未来として考えられて居た「2020」と云う数字が現実と為って居る訳です。では、改めて此処から「23年前」に封印された「タイムカプセル」詰まり「危機感のタイムカプセル」を開けて見るとどうなのでしょうか?
ココにその「2020年からの警鐘」の単行本があるのですが、読んだ感想を正直に申し上げるのであれば「脱力感」と云う様な奇妙な気分があります。どう云う事かと云うと、23年前に「こう為ってはいけ無い」と当時の日経の記者やエコノミスト達が「危機感に駆られて」書いた内容が、その2020年に為った現在では「全く危機感を感じ無い」からです。
先ず帯からしてそうです。「先送りはもう許され無い」「先の世代に『夢』有る社会を残す為に、我々は何を為すべきか」「金融、司法、自治、教育等戦後システムを根底から問い直す」と云うキャッチコピーが、もう23年後の今見ると「脱力」せざるを得ません。
先ずもって「夢」有る社会等と云うのはトックの昔に消えてしまって居るし、そんな表現自体が違和感を通り越して新鮮に見える位です。
そして「先送り」ですが、23年前の「許され無い」と云う指摘にも関わらず「金融、司法、自治、教育」の全てに付いて改革は23年間と云う途方も無い時間、堂々と「先送りされてしまって居る」訳です。そうした事実を前提としますと、23年前の「先送りはもう許され無い」と云う力の入った宣言には、何とも言え無い脱力感を感じるのです。
それは「力を入れて宣言しても、どうせ可能には為ら無い」と云う無力感です。「改革なんかしなくても、夢等消えて無く為っても、ドッコイ社会は続いて居る」と云う沈黙の声の大きさ(矛盾した言い方ですが)から考えると、この種の構造改革論が無力であったと云う絶望にも似た思いかも知れません。
ですが、この「2020年からの警鐘」の本文を読み進めて行くと、脱力感とか無力感と云うのは戦慄に変わりました。先ず強く感じられるのは、23年前に当時の人々が想像した「暗い未来予測」がそのママ実現して居ると云うことです。これはもう恐怖としか言い様がありません。丸で、日経新聞が23年前に掛けた「呪い」に日本経済がそのママ縛られてしまって居るかの様です。
冒頭行き成り「大手都銀の倒産」可能性が語られますが、これは1996年から1997年の話でこれは長信銀の金融危機として直ぐに現実のものと為ります。その先の様々な記述、
無縁墓・リスク取れ無い日本マネー・低賃金のアニメ業界・間違う裁判官・幸福感の低い子供・研究鎖国・無く為る退職金・孤立する人々・英国病より重い・・・と云った指摘は、2020年の現在、全てその通りと為り、そして改革は先送られそのママ問題が悪化して居るだけです。
正に、この本によって掛けられた「呪い」がその後ズッと日本を縛って居るとしか言い様がありません。恐ろしいのは結論の部分です。この「2020年の警鐘〜日本が消える」が指摘して居る「日本が消える」と云うことの意味ですが、成長率が低下して国際経済に於ける日本の存在感が「かすむ」事が最大の問題で、それを「日本が消える」と云う表現で警告して居る訳です。
具体的には、この本の236ページから237ページでは、1990年には世界のGDP総額に占める日本の割合が13.9%であったのが、このママ「構造改革が進まずに現状を放置」した場合には、2020年には9.6%に為ってしまう。この事を「日本が消える」と表現して危機感を訴えて居るのです。
では、現実はどう為ったのかと云うと、現状は「5.9%」です。詰まり、1997年の段階では、2020年には9.6%に為って「日本が消える」から大変だと言ってた訳ですが、現実には2019年には「5.9%」に為って来て居る訳です。更に人口減と競争力喪失により2050年には2%に為ると云う予測も出て居ます。
詰まり1997年の人々の感覚からすれば、日本経済は「消える」処か「無く為っている」に等しい訳です。そう考えると、この「2020年の警鐘」と云う本(日経の連載記事)の呪いと云うのは大した事は無く、その23年前の呪いに縛られて居たと云うよりも、日本経済には更に強い「自縛」とでも言うべき呪いが掛かって居り、その為に経済が「消えた」と言って良いと思います。
処で、この実際の2020年にはその様な「経済が消えた」と云う論調が急に増えて来ました。成功の味覚を知って居る世代がドンドンリタイアして居て、文句を言われる事が減ったと云うこともありますが、衰退と云う事実が隠せ無く為っている中では「日本は途上国に為った」とか「先進国では無い」という言い方が極自然に為ったと云うことがあります。この種の「日本は途上国に為った」論に付いては、2つ指摘して置かねば為りません。
1つは「途上国に為った」と云う指摘は必ずしも正しく無いと云うことです。途上国と云うのは実は省略した言い方で「発展途上国」と云う意味ですが、日本はこれには当て嵌ら無いからです。何故ならば、日本は「発展の途上」では無く「縮小・衰退の途上」だからです。
この区別と云うのは重要です。何故ならば、人類の史上の中でこれだけの規模の経済が、これだけのスピードで真っ直ぐ衰退の方向へ突っ走って居ると云う例は無いからです。具体的に言えば、1990年前後をピークに30年間ズッと一直線に衰退して居る・・・これは非常に珍しい事例です。又、衰退の前に明白な繁栄があったと云うのも珍しいです。
勿論、そこには可能性もあります。成功している部分、過つて成功して居た部分を大切にして、それを広げて行く中で全体を再度繁栄の方向に転換する事は出来るかも知れません。ですが、過去30年、それは出来なかったと云う事実は重たいものがあります。そうでは無くて、衰退途上国には独自の問題があります。
1つは、過去の成功体験を記憶して居る為に、何時までも「昔の発想の延長で」考えてしまうと云う愚かさです。それとは別に、諸外国がマダマダ日本の経済力を当てにして居るので「貧しく為ったのにODAを出し続ける」とか「外タレのギャラが高い」とか「TVの放映権料を吹っ掛けられて結局は中継出来ない」と云った情け無い状況が生まれたりもします。
最大の問題は、先進国時代の「贅沢な安全基準」「大き過ぎるインフラ」「要求の高い市民や消費者」と云ったものを抱えて居る為に、只でさえ過大と為っている社会維持のコストが重く圧し掛かって居ると云う問題です。これは、昨年秋の台風15、19、21号でイヤと云う程思い知らされた問題です。
兎に角、全体が大きく沈みつつある中で、部分的に過去の先進国時代の制度やインフラが残って居て、これが悪い作用を起こして居る、その一方で過去の成功体験の延長上でしか発想出来ない・・・これが「衰退途上国」の特徴であると言わざるを得ません。
2つ目は、そうは言っても何もかもを破壊してしまって、真っサラの状態から再出発すれば好いとか、日本をゼロベースで再構築すれば良いと云う訳では無いと云うことです。又、このママ衰退に身を任せて、家族を形成するのを諦め、生活水準や平均寿命は徐々に切り詰めて行けば好いと云うことでも無いと云うことです。
先ず必要なのは、現在の日本で何が起きて居るのか、何が問題で、何を失いつつあるのかと云った「現状把握」をする事です。全ての改革・全ての生存への作戦はそうした現状認識から始まると思います。
改めて5つの問題を指摘したいと思います。
1つは製造業から金融・ソフトと云った主要産業のシフトに対応出来無かったこと。又自動車から宇宙航空、オーディオ・ビジュアルからコンピュータ・スマホへと「産業の高付加価値化」にも失敗した事。
2つ目は、トヨタやパナソニック等日本発の多国籍企業が、高度な研究開発部門を国外流出させて居ること。詰まり製造部門を出すだけで無く、中枢の部分を国外に出してしまい、国内には付加価値の低い分野が残って居るだけと云う問題。
3つ目は、英語が通用しない事で多国籍企業のアジア本部のロケーションを、香港やシンガポールに奪われてしまい、尚且つその事を恥じて居ないこと。
4つ目は、観光業と云う低付加価値産業をプラスアルファの経済では無く、主要産業に位置付けると云うミスをして居ること。
5つ目は、主要産業のノウハウが、最も効果を発揮する最終消費者向けの完成品産業の分野での勝負に負けて、部品産業や良くて政府・軍需や企業向け産業に転落して居ること。
この5つの結果として、日本型空洞化が日本経済を蝕んで居るのだと思います。1997年の人々が「このママでは2020年には世界のGDPの9.6%」と云うシェアまで落ちてしまう、そう為れば「日本が消える」と真剣に心配して居た訳ですが、実際の2020年に為ってみたら「9.6」処か「5.9」と云う「地を這う様な状況」に為っている訳です。日本型空洞化の研究、今年もこれは大きなテーマとして参りたいと思います。
image by: Shutterstock.com MAG2 NEWS 最終更新: 1/15(水) 4:45 まぐまぐニュース!
以上
【管理人のひとこと】
実にお見事なご指摘です・・・1997年の人々が「このママでは2020年には世界のGDPの9.6%」と云うシェアまで落ちてしまう、そう為れば「日本が消える」と真剣に心配して居た訳ですが、実際の2020年に為ってみたら「9.6」処か「5.9」と云う「地を這う様な状況」に為って居る訳です・・・一直線に急降下の言葉そのママなのです。
安倍晋三氏は、何を見て「史上最長の景気維持・継続・・・」と語り続けて来たのでしよう。調査も統計も、例のごとく全てが張りボテの見せ掛けを作って居たのでしょうか。
確かに株価が高く維持し失業率も低く推移しました。しかし、その中身は、政府が年金の資金で株を買い支え、労働力の減少と非正規社員が急増して就業率を押し上げただけの事で、所得は上がらず購買力は冷え込んだママ・・・唯一の海外からの観光客増大の現象は、単なる「自国で買うより日本で買った方が何倍にも安いから」に他なら無い・・・日本の物価・サービスが途上国以上に「安く」感じるからです。っタク、安倍氏は毎年新たなスローガンを掲げ目先を変えるけれど、過去の事には何一つ、結果も反省も語りません「スローガンの使い捨て」を続けて7年もの間、ホンの一部を除く多くの国民を苦しめ続けて来たのです。
冷泉彰彦氏は、海外に住んで居るからコソ、返って冷静に正確に的確に日本の現状を判断出来るのかも知れません。恐らく、日本の優秀な官僚達も同じ様な分析をして居るかも知れませんが、それを聞き教えを乞い的確な政策へと勧める能力が持ち合わせて無いのでしょう。
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大阪の芸人がヤクザと接近し「闇営業」に手を染めるまでの歴史
大阪の芸人がヤクザと接近し 「闇営業」に手を染めるまでの歴史
〜NEWS ポストセブン 1/15(水) 16:00配信〜
大阪を象徴する芸能文化と言えば「吉本のお笑い」を思い浮かべる人が多いだろう。吉本新喜劇を初め、大阪の市井の人々には、吉本のお笑い文化が深く根付いて居る。その吉本に取って、2019年は闇営業で揺れた一年だった。事務所を通さず反社会勢力の忘年会に出席し、ギャラを受け取っていた問題で、雨上がり決死隊・宮迫博之とロンドンブーツ1号2号・田村亮の号泣会見は連日メディアを騒がせた。
吉本芸人と反社会勢力の近さを露呈させる出来事と為ったが「本来、大阪の芸能文化は闇社会とは程遠いものだった」と云うのは、立命館大学名誉教授で上方芸能に詳しい木津川計氏だ。
「江戸時代の元禄期辺りから大阪が文化の中心と為りますが、この時期の大阪は近松門左衛門や井原西鶴が出て最高に進んだ文化・芸能の都市でした。江戸の歌舞伎も文化・文政期辺りまでは、大阪弁で遣って居た程。江戸時代は大阪弁が標準語の様なものだったのです」(木津川氏)
そうした上質な文化を支えたのが「天下の台所」と呼ばれた大阪の富であった。だが、その優位性も明治時代に為ると東京に奪われてしまう。天皇が東京へと移り、政治・経済、そして文化と全てが東京を中心とする様に為ったのだ。
「東京に対抗するには経済しか無いと、大阪は工業化に邁進し、煙の都と為って経済力を高めた。その結果、大正時代に為ると大阪は工業生産力で東京を遥かに凌駕しましたが、一方で経済を重視した事は文化の軽視にも繋がりました」(木津川氏)
工業都市と為った大阪を嫌い、江戸時代から文化人のパトロンと為って来た船場の豪商達が離れてしまう。その結果、芸能文化も市井と密着するものに為って行った。『大阪的』の著者で国際日本文化研究センター教授の井上章一氏が指摘する。
「工場の煤煙や空気汚染を避けて、ブルジョアジー達が神戸や芦屋の六甲山麓に移ってしまった。そうして空洞化した大阪中心部には、河内や和泉、更には九州や四国から続々と労働者が流れ込み、芸能文化も彼等に寄り添うものに為って行きました」
かくして人形浄瑠璃に象徴される嫋(たお)やかな大阪の芸能文化は、吉本新喜劇に代表される大衆文化に変わった。芸人達はドサ回りに精を出し、その土地で興行を仕切るヤクザ達とも距離が近く為る。そしてヤクザを利用し、又利用される芸人達が出て来た。
島田紳助がヤクザの組長との「黒い交際」を理由に引退したのは記憶に新しい。40年以上吉本に所属した大阪在住の漫談家・前田五郎は、本誌『週刊ポスト』(2019年8月16・23日号)でこう告白して居る。
「1980年代に吉本に居た頃は、週に何回もヤクザから仕事を貰っとッタ。ヤクザの営業で30万円や50万円のカネがドンドン入って来て、正に濡れ手に粟や。中にはギャラ100万円と云う仕事もあった。当時、会社の仕事とヤクザの仕事は4対6位ヤッた」
前出の井上氏が語る。「メディアの作る大阪的イメージもそうした土壌形成を後押ししたのでは無いでしょうか。テレビ受けする様にドンドン大阪芸人の言葉がキツく為り、品格が無く為って行きました」
一連の吉本の闇営業問題は、大阪の芸能文化の変質を象徴するものと言えるかも知れない。 (文中一部敬称略)
構成 竹中明洋 ジャーナリスト ※週刊ポスト2020年1月17・24日号 以上
【関連記事】元吉本芸人 「ヤクザと簡単に切れへん事は皆知ってる」
〜ニュースポストセブン〜
闇営業騒動は吉本興業内の様々な問題に飛び火した。そんな中、芸能界と反社に付いて爆弾告発したのが漫談家の前田五郎(77)坂田利夫(77)との漫才コンビ「コメディNo.1」で人気を博した元吉本のベテランである。騒動渦中の7月21日、YouTubeの配信番組で前田はこう言い放った。
「大崎(洋)会長が僕等のマネージャーをしとった時にヤクザの仕事を持って来て、それに行ってんネンから、何回も。それを出さんとエエカッコ抜かしやがって」
本誌・週刊ポストは前田の元に飛んだ。前田曰く「吉本とヤクザの関係は創業家である林家から始まって居る」と云う。 「当時の発注先は殆どが山口組本家ヤッた。元々林正之助会長・・・創業者・吉本せいの弟と山口組三代目・田岡一雄組長の仲は有名(*注)で、その縁も有って本家の祝い事や催しには必ず吉本芸人に声が掛かったんですわ」
*注 1968年1月、正之助氏は田岡一雄組長と組んでレコード会社を乗っ取ろうとしたとして、恐喝の疑いで兵庫県警に逮捕された。当時、正之助氏は「山口組が有るから、レコードの販売、製造が上手く行く」等とレコード会社の設立者を脅したと報じられて居る。
「三代目が亡く為った時は追悼の盆踊り会があって、吉本の芸人は会社命令で参加させられた程や。その場に菅原文太さんや山城新伍さん等が居って驚いた。それと、僕は三代目の息子の満ちゃん・・・田岡満と生まれた年が近くて、ヨウ可愛がって貰って個人的に仕事を貰ってた。満ちゃんは『コレ、取って置きイナ』と他の3倍のギャラをソッと呉れるので、喜んで仕事をして居ました」
田岡満は父の後は継がず映画プロデューサーに為り、父をモデルにした『山口組三代目』(高倉健主演)等の映画をヒットさせた。しかし、彼の周囲には矢張り暴力の匂いがあったと云う。
「何時だったか、北新地のクラブの女の子と焼き肉食べてたら、チンピラみたいな奴が、オイ前田五郎や無いかっ、て近付いて来て、女と何食うてるんやと言って、僕等の席の肉を摘まんで口に入れたりしよった。
ソコに偶々そこを通り掛かったのが満ちゃんのボディガードで、僕が困った顔したらそのチンピラにちょっとこっちおいでって連れて行って、しばらくしたらそのチンピラがスミマセンでした、許してくださいと土下座しに来たんです。
こんな商売遣ってるとヨウ絡まれるんですが、電話するだけで何とか為りますから、満ちゃんは僕の守護神やと思ってました」
前田は、自分だけが特別では無く、当時は皆がそうだったのだと強調する。
「当時は殆どの芸人がヤクザから仕事を受けて居ましたよ。漫才ブームの時、売れっ子の芸人等は、仕事が終わると外で待って居たヤクザの車に乗り込んで打ち上げに行くコンビも居たんやから。それ程ズブズブの関係やったけど、ヤクザが僕等に迷惑を掛ける事は一切無かった。昔は今の半グレのヨウに、芸人を利用しようとする奴は居りませんから」
前田自身、今は時代が変わった事は認めて居る。その上で、過つてを知る吉本幹部らにこう言うのだ。
「ヤクザとの関係はそんなに簡単に切れへん事は、幹部は皆知って居る筈。そやから今回の騒動が、トカゲの尻尾切りで終わら無い様にするのが務めやないか?」
※週刊ポスト2019年8月16・23日号 以上
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2020年01月15日
「ゴーン劇場」に振り回され続けた13カ月 日仏の司法制度の狭間で
「ゴーン劇場」に振り回され続けた13カ月 日仏の司法制度の狭間で
〜ニューズウィーク日本版 AFP通信記者 西村カリン 1/15(水) 19:09配信〜
ゴーン事件は幾ら取材しても真実が分からず 日仏双方の報道に違和感を覚えた
2018年11月19日、翌日から2週間の有給休暇を取る予定だったが、午後6時過ぎに私の予定は突然キャンセルされた。理由は朝日新聞のスクープだった。「ゴーン日産会長逮捕へ」この速報を見た私は皆と同様に驚いた、と云うか信じられ無かった。
日本或は世界で一番有名な経営者が、スターに為った国で突然逮捕される・・・ゴーン事件は最初から、現実では無く映画の様だった。
日産自動車の西川(さいかわ)広人社長(当時)は同日の記者会見で「会社として断じて容認出来る内容では無いし、専門家からも重大な不正行為と云う判断を頂いて居る。代表権と会長職を解く事を承認すべく、私が取締役会を招集する」と話した。何が起きて居るか分からず、数週間に渉って取材をしても疑問だらけだった。
・・・そして2019年12月31日の午前6時半、フランスのラジオ局からの電話で「ゴーンさんはレバノンに居るらしい」と言われた。私は「C'est pasvrai・嘘でしょ!」と言ってしまった。
それ迄の13カ月間、想像出来ないことが何度も起きた。4回の逮捕・4回の起訴。変装して東京拘置所を出たゴーンの姿を見た時は現実じゃ無い様で笑ってしまった。記者として、ゴーン事件は最も手古摺5(てこず)ったものだった。取材をして、アチコチから出た情報を確認するのがホボ不可能だったからだ。
日産からのリークは、明らかに思惑があってのものだがどれ位信用出来るのか。日本のマスコミが報道した検察からのリークも確かめ様が無い。言う迄も無く、ゴーンのPR担当者や友人・フランス人の弁護人と話した際は、彼は無実だと言われた。本当の処は私には分から無いし、他の記者も分から無いと思う。
にもか変わらず、日本の新聞やテレビで彼は何時も「ゴーン容疑者」や「ゴーン被告」詰まりホボ犯罪者として紹介されて居た。その面では推定無罪の原則が守られて居ない。フランスではゴーン容疑者では無く、ゴーン氏と書く。特に通信社は推定無罪の原則を破る事が出来ない。それでもフランスでも、中立的で無い記事は沢山出た。
「人質司法」は使わない
もう1つ困ったことは日本の司法制度だ。フランスの制度と根本的に違い、どう説明すれば誤解が生まれ無いかが日々の悩みだった。
例えばゴーンが起訴されたと報じる時、フランス語で意味の近い言葉を使っても中身は違う。フランスでは起訴の前に「予審開始決定」と云う段階がある。起訴は「ordonnancede renvoi・裁判所への移送決定」と書くが、何故予審開始決定無しに起訴されるかがフランス人は理解出来ない。
例え個人的に改善すべき点があると思っても、私は記者として、自分の意見では無く、取材に基づいて記事を書かないといけ無い。その意味では、フランスでの報道に何度も違和感を覚えた。「日本の司法制度が可笑しいから、ゴーンは何も罪が無いのに逮捕され起訴された」と云う内容だ。特に、日本の事を知ら無いコメンテーターがそんな説明をした。
司法制度とゴーン事件は別々に考えるべき
日本では自白が証拠で、自白を得る為に厳しい取り調べが行われる。推定有罪原則があり、拘置所での食事はお米だけ・・・等の報道もあり、それを信じて居るフランス人が多い。フランス人には日本の司法制度は非常に理解し辛いから、注意すべきだと私はズッと言って居るが、そうすると「日本の司法制度の賛成派」と言われてしまう。
私は記事の中で「人質司法」の表現は使って居ない。インタビュー相手が「人質司法」と言ったら、当人の責任なので書くが、それ以外では書か無い。検察や警察が勾留期間を利用し、自白を得た事件が無いと言いたい訳では無い。只、この捜査や取り調べの遣り方が日本の司法制度の全てである訳では無い。
日本の司法を理解して貰うには、背景説明も欠かせ無い。例えば日本の刑事裁判での有罪率は99%を超える。これはフランス人から見たら酷い数字だ。「起訴されたら有罪に為る」と考えるからだが、彼等は自国の有罪率が94%前後なのを知ら無い。
日本での逮捕された人数・起訴と不起訴の割合を報道し無ければ誤解が生まれる。起訴率(交通違反を除く)の割合は約50%と高くは無い。もしも有罪率が10%か20%だったとしたら、何故罪の無い人がこんなにも裁判を受けたのかと批判されるだろう。だから、日本の有罪率は高いから司法制度が公正では無い、フランスの制度は公正だとは言え無い。
逃亡や記者会見への批判
ゴーン事件の証拠は未だ公表されて居らず「ゴーンが悪い」「日産が悪い」或は「検察が悪い」と言え無い状況だ。只確かに、裁判前の130日間の勾留は厳しいと思う。フランスで同じ様な容疑だったら、多分勾留され無かった。それでも、司法制度そのものとゴーン事件は別々に考えるべきだ。
妻に会え無いからツラ過ぎて、逃げるしか選択肢が無かったと説明したゴーンは、本気でそう言って居ると思う。彼は家族を大事にする人として知られて居る。妻との接触禁止と云う保釈条件が泣ければ逃げ無かった可能性はある。多くのフランス人から見て、妻に会え無いと云う条件はツラ過ぎる。
事件の最初の頃からフランスの世論は割れて居て、日本の司法制度の被害者だと言う人が居れば、容疑が有るから裁判に任せるしか無いと言う人も居る。それでも逃亡についてはマスコミも政治家も多くの一般人も厳しく批判した。
レバノンでの記者会見も説得力に欠けたと言われた。「ゴーンは金持ちで、コネがあるから逃げる事が出来たが、違法で許され無い行為だ。日本の裁判を受けたく無かったのが主な理由だ」と云う意見が多い。
今後は可能なら、日本の検察が何等かの方法で証拠を公表すれば好いと思う。公正な裁判が多くの疑問を解決する筈だが、それが殆ど不可能に為ったのは残念だ。
本誌2020年1月21日号掲載 AFP通信記者 西村カリン 以上
【関連報道】ゴーン被告巡る日本批判 法相自ら反論 WSJに寄稿
〜朝日新聞 2020年1月15日 20時39分〜
、
記者会見する森雅子法相 2020年1月6日法務省 飯塚悟撮影
レバノンに逃亡した日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告(65)の主張を受け、米紙ウォールストリート・ジャーナル・WSJが、社説で日本の刑事司法制度を批判した事に対し、森雅子法相は「制度を正確に踏まえて居ない」と反論する文章を同紙に寄稿した。14日付で電子版に掲載された。
法相自らが海外メディアの主張に反論するのは異例だ。森法相はゴーン前会長のレバノンでの会見後に緊急会見を2回開き、英語や仏語でも反論コメントを公表。「日本の刑事司法の正当性を海外に訴える狙い」(法務省幹部)がある。
WSJは今月上旬の2本の社説で、長期間の拘束や自白の強要と云った問題点を挙げ、前会長が「(日本で)公正な裁判を受けられたか定かでは無い」等と指摘した。
森氏は寄稿で日本の司法手続きに付いて「裁判官に依るチェックも含め慎重に進められ、容疑者や被告の権利にも細心の注意を払って居る」と改めて強調。取り調べの録音・録画の導入で「脅迫的な調べが行われ無いことを検証出来る」と訴えた。
また、日産と政府が協力して前会長を貶1-16-1(おとし)めたと指摘された点にも「半世紀も前に使われた『日本株式会社』を埃を払って持ち出し、政府と企業の陰謀を説く事に説得力は無い」と反論した。
以上