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2020年01月19日

ゴーン氏の情報小出し戦略でケリー被告を有罪にしようと焦る検察




 ゴーン氏の情報小出し戦略でケリー被告を有罪にしようと焦る検察

       〜〈週刊朝日〉AERA dot. 1/19(日) 15:03配信〜



 「逮捕された時は驚かされたが、出国では彼等を驚かせた」

 〜こうスペインのメディアに語ったのは、日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告(65)世界中の注目を集めたレバノンへの「大」逃亡の時期を昨年末にした理由に付いて、1月17日付のスペイン紙「パイス」がインタビューを報じたのだ〜


 ・・・逃げるのに12月30日を選んだのは何故ですか?

 「日本の人々はリラックスし、休暇を取り、スキーに出掛けたりする時期だからだ。良いタイミングだった」
 
 ゴーン被告は1月8日のレバノンでの会見以降、自ら選別した各国のメディアの取材に積極的に応じて居る。派手な逃亡の足取りもホボ分かって来た。様々な情報をまとめると、ゴーン被告は去年12月29日午後2時半頃に、帽子を被りマスク姿で港区の制限住居を出発。
 六本木のホテル「グランドハイアット東京」で2人の支援者、米国の民間軍事会社に所属する米陸軍特殊部隊グリーンベレーの元隊員マイケル・テイラーとジョージ・ザイエクと合流した。その後3人はタクシーを利用し、分乗して品川駅に行き、新幹線で新大阪駅に移動。同日夜、関西空港近くのホテルに入った。

 「ゴーン被告は当初から新幹線を使う事を考えて居た節がある。列車のカメラ解析は街頭に有る防犯カメラや警察のNシステム等に比べ、入手と解析に時間が掛かる為だ。元隊員が、或る程度街頭カメラ等に映っても構わ無いと考えたのでは。寧ろ解析の時間稼ぎを指南したのではないか」(警察関係者)

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 今回の逃亡、その後の会見の動きに付いて、ジャーナリストの須田慎一郎さんは次の様に分析する。

 「ゴーン被告は兎に角日本に居ることが精神的に耐えられ無かった。日本の司法制度では名誉回復が図れ無い。日本のメディアにも真意を話せ無かった。だから広報コンサルタント会社と提携し、早くから計画を進め、メディアを選択し取材に応じる形にしたのでしょう。
 日本での名誉回復を図る為に段階的に各国のメディアに情報を小出しにして居ると考える事が出来る。このイメージアップ戦略には明確なゴールが設定されて居る筈です」


 逃亡を結果的に許してしまった日本の司法当局。取り分け東京地検は汚名返上、反撃のチャンスを伺って居る様だ。今後のゴーン被告への責めてもの追及のカギとされて居るのが、共犯として起訴されて居る日産元代表取締役のグレッグ・ケリー被告(63)の裁判である。
 東京地裁は1月16日の公判前整理手続きで、ゴーン被告とケリー被告、更に法人としての日産の裁判を分離する事に決めた。

 起訴状等によると、ゴーン被告はケリー被告と共謀し、2010年度から17年度の自分の役員報酬を、退任後に受け取る分も含めて実際には計約170億円だったのに、約91億円少なく記載した虚偽の有価証券報告書を提出したとされる。
 金融商品取引法には、役員や従業員等が事業活動に関連して違法な行為をした場合に、個人だけで無く法人も罰せられる両罰規定がある為、法人としての日産も起訴されて居る。

 ケリー被告は、ゴーン被告と同様に「報告書に記載すべき確定した報酬では無かった」と無罪を主張して居り「ゴーン被告がサインした報酬の書面作成に関与して居ない」と検察が主張する共謀の成立を否定して居る。
 ゴーン被告を裁く事はホボ不可能と為っているが、検察がケリー被告や日産の罪を立証する為の証拠や証人は、ホボ共通して居る為、公判への影響は必至だ。

 「ゴーン被告に対して日本の司法当局は最早何も出来ない。4月から開始が予定されて居るケリー被告の公判は世界中から『衆人環視状態』に為ります。検察はケリー被告に付いては何が何でも有罪に持って行きたい。しかし慎重に事を運ば無いといけ無いでしょう。公判では、金商法が罪として認定されるかどうか、そして日本の人質司法の問題、司法取引の問題にも改めて注目が集まります」(須田さん)

 「日産幹部と検察にハメられた」と話したゴーン被告。果たして4月迄にゴーン劇場の第2幕はあるのだろうか。


       ※週刊朝日オンライン限定記事 本誌・野田太郎   以上









 【関連報道】ゴーン被告の在日フランス人の友人等が明かすレバノンへの逃亡劇の全真相

              〜週刊朝日 2019.12.31 16:16〜

 新年を目前に衝撃のニュースが飛び込んで来た。日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告がレバノン入りしたと海外メディアが一斉に報じたのだ。
 ゴーン被告は会社法違反(特別背任)等で起訴され保釈中だった。日本からどの様に出国したのか、その詳細は明らかに為っていないが、本誌はゴーン被告の知人等を独自取材、その足取りを追った。ゴーン被告が「私は今、レバノンに居る」「不正に仕組まれた日本の司法制度の人質には為らない」との声明をアメリカの代理人を通じて発表したのは12月30日。

 「ビックリした。出国禁止で、パスポートも持って居ない筈。どう遣って出国したんだろう…」
 
 検察幹部はこうショックを隠せ無い。2019年4月にゴーン被告の弁護団が公開した動画以外に保釈中、ゴーン被告の動静は余り伝わって来なかった。そんな中、ゴーン被告と連絡を取っていた在日フランス人の友人が本誌の取材に対し、こう語った。「ニュースを聞いて驚いた。だが、ゴーン被告がこう云う行動を取ることは止むを得なかったと思う」
 定期的にゴーン被告と接触して居た友人の1人もこう明かす。 
 「ゴーンさんは、様々な点で検察、日本に怒りを感じて居た。妻と長く会う事も許されず、最初から有罪有りきの検察の捜査にも非常に憤りを感じて居た。当初は日本で裁判を戦い、無罪を勝ち取ると意欲的だった。だが、保釈中、いかに日本の司法制度全体が検察主導で、有罪有りきの構造に為っているかを知り、絶望感を感じて居た」

 そしてゴーン被告の様子をこう語る。

 「例えば、ゴーンさんが逮捕される事と為った有価証券報告書の虚偽記載に付いても『日産の西川元社長も決裁して居る。何故私だけが悪く為るの?』『ゴーンが有罪であれば好いと云う捜査だ』と話して居た。西川氏等日本人を守り、ゴーン有罪有りきで進む、東京地検の捜査をアンフェアと批判して居た。弁護士が同席出来ない事情聴取、否認すると長期間の身柄を拘束される人質司法だ。保釈中でも、妻とも会えず『自由にならねば戦え無い』と大声で話す事もあった」

 ゴーン被告は保釈に当たってパスポートを弁護士に預け、日本国内に留まると約束して居た。仮にパスポートがあっても出国は不可能だ。
 「入管に問い合わせた処、ゴーン被告程の著名人なら見逃す事は無いと言って居る」(前出・検察幹部)
 海外メディアの報道を総合すると、ゴーン被告は12月29日〜30日に賭けてトルコからプライベートジェットでレバノンに到着したと云う。
 
 どの様にして、日本を出国したのか?

 「ゴーンさんには様々な友人が居ます。。レバノンでは大統領にと声が挙がる程の人物です。恐らく、レバノン等の政府の外交特権を駆使して出国させたのではないでしょうか。パスポートを偽造するなど、法を犯す事は有り得無い。何故なら、ゴーンさんは『私が悪い、悪く無いでは無い。日本の司法制度、民主主義と対決だ』とも言って居ました。戦いの為に敢えて、日本脱出を選んだのでしょう」

 元東京地裁検事の郷原信郎弁護士はこう話す。

 「公判前の被告人に海外逃亡されて声明まで出された。検察に取っては、正に赤っ恥。ゴーン氏の事件、東京地裁の捜査は酷いの一言でしたから。ゴーン氏は業を煮やして強硬手段に出た様に感じます。日本政府が要請して、ゴーン氏の身柄をレバノンから戻すと云うことは、恐らく難しいでしょう。
 ゴーン氏は自由の身に為ったことで、自身の事件だけでは無く、日本の司法制度の根幹がいかに問題か、徹底して訴えて来る筈です。そう為れば、検察はゴーン氏の有罪無罪処じゃ無く為りますよ」

 
 ゴーン被告の広報担当者が発表した声明の全文は以下の通り。

 私は現在レバノンに居ます。もうこれ以上、不正な日本の司法制度に囚われる事は無く為ります。日本の司法制度は、国際法・条約下における自国の法的義務を著しく無視して居り、有罪が前提で差別が横行し、基本的人権が否定されて居ます。
 私は正義から逃げた訳ではありません。不正義で政治的な迫害から逃れたのです。やっと、メディアの皆さんと自由にコミュニケーションを取る事が出来ます。来週から始められる事を、楽しみにして居ります。


 ゴーン被告の逆襲から目が離せ無い。


       ※週刊朝日オンライン限定記事  本誌取材班    以上







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「ユーラシア大陸」の復活が世界を大きく変える



 
 「ユーラシア大陸」の復活が世界を大きく変える

             〜東洋経済オンライン 1/19(日) 15:00配信〜


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      ユーラシアと 「スーパー大陸」が世界を支配しようとして居る

 〜アメリカにおける現代日本研究の第一人者が新境地を開いた。中国を軸にユーラシアの復活と国際秩序への影響の分析に挑んだ『スーパー大陸 ユーラーシア統合の地政学』は、イギリス・フィナンシャル・タイムズ紙の「2019年のベスト書籍(政治部門)」に選ばれた。著者のジョンズ・ホプキンス大学のケント・E・カルダー教授に聞いた〜

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 地域の再連結が起きて居る

 ・・・ユーラシアが「スーパー大陸」詰まり、決定的に世界を支配する大陸に為ると予見しています。.

 これまではアメリカの位置する北米大陸がスーパー大陸だった。1869年に大陸横断鉄道が完成し、アメリカは大西洋沿岸の限られた地域のみで機能していた国から、太平洋でも活動しうる国に変わった。続いて1914年にパナマ運河が開通したことで、アメリカは本格的に超大国への道を歩み始めた。
 同じように、新しいインフラによる地域の連結がユーラシアで起きている。シルクロードを現代に復活させる中国の「一帯一路」構想がまさにそれだ。世界人口の半数以上が住むユーラシアは、エネルギー的にも自立可能な大陸であり、その再連結は時代の基調といえる。.

 ・・・何がユーラシアの再連結を促したのでしょう。

 最大の要因は中国の高度成長だが、それはもっと大きなドラマの一部にすぎない。欧州、ロシア、東南アジアの政治・経済の変容、さらにインドやイランの動きなどすべてが関係している。転換点は3つある。まず1991年のソ連崩壊によって、中国の西側に巨大な空白が生まれた。
 ユーラシアの中心部、ハートランド(心臓地帯)への中国の勢力拡張が始まったのだ。中国は膨大なエネルギー需要を背景に中東との結び付きも深めた。これを19世紀にハートランドで帝国主義列強が覇を競った「グレートゲーム」の再来だとみる向きもあるが、今回は中国の力が圧倒的に強い。かつてのような勢力均衡の構図とは異なる。

 2つ目は2008年のリーマンショックだ。その後に中国の西方シフトには拍車がかかり、中国は四川省や甘粛省、新疆ウイグル自治区など西部地域のインフラ整備を大規模に進めた。
 最後が2014年のウクライナ危機だ。クリミア半島に侵攻したロシアに対して西側が制裁を加えたことで、欧州とロシアの関係は複雑化した。中東欧諸国は、ロシアとの関係を見直す一方で中国との関係を強化した。これにより生まれたのが、中東欧の16カ国と中国の首脳会談である「16プラス1」だ。

 アジアと欧州をつなぐインフラはこれまでシベリア鉄道しかなかったが、中国により鉄道網の整備が進んだ。さらに中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)のような新しいタイプの国際金融機関の登場により、欧州とアジアの関係がより近くなった。

 中ロは平等ではなく上下の関係

 ・・・中ロの接近もユーラシアの再連結を後押ししています。

 ウクライナ危機で孤立したロシアは中国との関係緊密化に動き始めた。ただし中ロは平等ではなく上下の関係だ。西側との関係の悪化や経済的な補完関係、対米戦略の一致などで結び付いているが、ソ連崩壊時は中国と同水準だったロシアのGDPは、今や中国の6分の1しかない。ロシアは中国に軍事技術面でも協力しており、この不平等なタッグは世界の戦略環境に大きな影響を及ぼしている。
 日本には日ロの緊密化で中国とのバランスを取ろうと考えている人もいるようだが、効果があるか疑問だ。ロシアは弱すぎるからだ。

 ・・・ユーラシアの台頭は国際秩序をどう変えますか? 

 第2次世界大戦後にアメリカ主導で作られたブレトンウッズ体制など現行の国際秩序は、ルールをベースにしたものだ。これに対して中国が目指すのは、多国間のルールによらず、2国間の交渉で国際問題を解決するという仕組みだ。
 中国はお互いの内政には干渉せず、ウィンウィンの関係で多元的な秩序を作ろうという方向に進んでいる。その先にあるのは、緩やかな地域覇権からなる分権化された国際社会だろう。

 ・・・内向きになるアメリカは、中国に圧倒されるしかないのでしょうか。

 そうは思わない。アメリカには中国に勝るものが3つある。食料、エネルギー、そしてテクノロジーだ。人口が多く、輸入に依存する中国の食料問題はアメリカより厳しい。その傾向はますます強まるかもしれない。エネルギーも同じで、経済発展に伴い輸入が増える。2030年までに中国は石油消費量の7〜8割を輸入するようになる見通しだ。一方でアメリカではシェールガスの生産が増えその輸出国になる。

 日本は部分的に一帯一路に協力すべき

 テクノロジーについては、中国に特定の分野で競争力があるのは間違いない。ビッグデータの収集や利用に中国の体制は有利かもしれないが、全体としてはテクノロジーでのアメリカの優位は続くだろう。アメリカにはシリコンバレーのような、テクノロジー開発に資金を融通するためのエコシステムが確立されている。知的財産が保護されていることもプラスだ。
 これら3つに加えて、人口動態の違いもある。アメリカは移民が流入するため若年人口が増えていく。中国は逆で、2030年代以降に高齢化が深刻になる。ユーラシアのスーパー大陸化は中国に追い風だが、中国が第2次大戦後のアメリカのような圧倒的に強い力を持つとは思わない。

 ・・・スーパー大陸を背景にする中国に、日本はどう向き合うべきでしょうか。

 習近平国家主席が近く訪日する一方、アメリカのトランプ政権の外交方針は予想しにくい。こういう状況下で日本は中国との関係を安定させる必要がある。その意味で、日本は部分的に一帯一路に協力する必要があるだろう。しかし、長期的にみれば日中の国益はかなり異なることを忘れてはいけない。
 ユーラシアの再連結は中国に有利になるので注意したほうがいい。日本にとって大事なのは、スーパー大陸を中国一極ではない多元的な構造にすることだ。

 日本とEUとの協力も重要だ。アメリカがTPP(環太平洋経済連携協定)から撤退したタイミングで日本とEUのEPA(経済連携協定)が結ばれたのはよかった。日本は一帯一路とは別の枠組みで、バルト諸国や中央アジアなどに関与するとよい。そのためにEUと連携するのも選択肢の1つだ。


        西村 豪太 東洋経済記者    以上










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エジプト版「明治維新」が失敗した本質的理由




 エジプト版「明治維新」が失敗した本質的理由
          
     〜東洋経済オンライン 歴史キュレーター 尾登 雄平 1/18(土) 5:50配信〜


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      カイロにある ムハンマド・アリ・モスク(写真 HiRo PIXTA)

 
 〜日本の政治・経済・社会の大変革を成し遂げた明治維新。同じ様に近代化を目指したのがアフリカの大国エジプトですが、その改革はエジプト社会に光と闇を生む事に為ります。『あなたの教養レベルを劇的に上げる 驚きの世界史』の著者、尾登雄平氏にエジプトの近代化への改革に付いて歴史を流れと共に判り易く解説して貰いました〜

               1-19-4.jpg        


 エジプトに遣って来た西洋の衝撃

 第7回十字軍の混乱の中で生まれたエジプトのマムルーク朝は、1517年に「イスラムの盟主」オスマン帝国に滅ぼされその支配下に入りました。

 処が、16世紀からオスマン帝国の無敵神話は崩れ始めます。エジプト南部は、過つては小麦の一大産地でオスマン帝国の穀倉庫でしたが、土着の領主がフランスから生糸や綿花を取り入れて栽培し始め、フランスや仏領西インド諸島と経済的に強く結び付き、フランスの世界的な商業ネットワークの一翼として取り込まれてしまいました。

 ナポレオンの時代、フランスはイギリスのインド支配の打破と通商路の破壊を目指してエジプトに侵攻。マムルーク主体のエジプト軍は、カイロ西部のインバーバで行われた「ピラミッドの戦い」でナポレオン軍に大敗を喫し、2年間ではありますがフランスの支配を受ける事に為ります。
 この敗北によりエジプト人は、西洋の軍や技術の脅威をマザマザと見せ付けられました。フランスの支配はエジプト人に民族意識や攘夷意識を芽生えさせカイロでは大規模な抵抗運動に発展しました。この人々のエネルギーを束ねて近代化を目指したのが、エジプトの維新の立役者、ムハンマド・アリーです。

          1-19-7.jpg その後のムハンマド・アリー

 ムハンマド・アリーはオスマン帝国のアルバニア人非正規部隊を率いてフランス軍との戦いに参戦し、そこから急速に頭角を現して行きます。ナポレオンのフランス軍が降伏しイギリス軍も撤退した後、エジプトは諸勢力が主導権を巡って争う内戦状態に突入します。
 ムハンマド・アリーはその中で競争に打ち勝ってエジプト人の支持を得て総督に就任。オスマン帝国の承認も得る事に成功します。

 ムハンマド・アリーのエジプト維新

 エジプト総督と為ったムハンマド・アリーは、オスマン帝国の名目的な宗主権の下、実質的な独立国を築き近代化政策を進めて行きます。先ずムハンマド・アリーが乗り出したのは軍事改革です。
 それ迄の特定の部族や集団に依存して居た軍の組織を廃止し、初めてエジプト農民に徴兵制を敷き兵力を増強し、フランス人の軍事顧問を招聘し訓練を施しました。近代的に生まれ変わったエジプト軍は、オスマン帝国軍が手古摺(てこず)って居たワッハーブ派やエジプトの反オスマン騒乱・ギリシアの独立勢力を瞬く間に鎮圧して見せ列強を驚かせました。

 しかし、英仏露の3カ国は、オスマン帝国にギリシアの自治と停戦を要求。オスマン帝国は同意出来る筈も無く、1827年10月、オスマン帝国とエジプトの連合艦隊と英仏露3カ国連合艦隊との間に戦闘が勃発し、オスマン・エジプト連合艦隊は敗れてしまいます。
 激怒したオスマン帝国の皇帝マフムト2世は、3カ国に宣戦布告しますが連戦連敗。1829年9月にアドリアノープル条約を結び、ギリシアとセルビアの自治を認めさせられ、翌年ギリシアは独立する事に為ります。

       1-19-8.jpg オスマン帝国のマフムト二世

 この頃、ムハンマド・アリーは、オスマン帝国にギリシア戦役の論功行賞として要求して居たシリア・・・現在のシリア・ヨルダン・イスラエル・パレスチナの総督職を要求します。しかしオスマン帝国も財政難でマフムト2世も首を縦に振ら無い。
 ムハンマド・アリーは実力でシリアを奪取すべく、急ピッチで軍の再建を進め、2年後の1831年10月に歩兵と騎兵計八個連隊がシナイ半島に向けて出発。海でも軍艦16隻を始めとする海軍がシリアへ向けて出港しました。ムハンマド・アリーの息子で有能な将軍イブラーヒム率いるエジプト軍は、新たに設立されたオスマン帝国の洋式軍隊相手に連戦連勝を続け、滔々(とうとう)首都コンスタンティノープルの近くに迄迫りました。

 此処で、エジプトの強大化を恐れるロシアとイギリス・フランスの介入があり休戦協定が結ばれ、シリア地方のエジプトの領有が認められました。イブラーヒムは獲得したシリア地方の土地の国有化や税制改革・教育等近代化策を進めて行きます。この様なエジプト軍の成功は、社会、経済、産業、教育等広範囲な面での近代化に裏打ちされて居ました。
 ムハンマド・アリーは権力奪取後、直ぐに財政・税制改革に乗り出し中間搾取層を撤廃し、農地を一元的な管理の下に置き、効率的な徴税を可能にしました。又、農産物の専売制を実施し、小麦や米の輸入で外貨を獲得します。専売制や国の独占は農業のみ為らず工業面でも実施されました。

 ムハンマド・アリーは国家主導で製造業を育成し、軍需工場、綿工業、毛織物等様々な分野の国営工場を設立。同時に安くて品質の高いイギリス産の製品の輸入を規制し、産業の保護を図りました。ムハンマド・アリーは「後発国を発展させる為には自由貿易は規制すべき」と考えて居り、国産品の品質が上がり国際的に競争出来る水準に為るまで、国による保護と育成が行われるべきとしました。
 ムハンマド・アリー統治下のエジプトの経済開発体制は「軍・政治エリートの強力なリーダーシップの下、有能な官僚テクノクラートが経済政策を立案・実行して行き、上から企業・資本家・労働者を育成して行く」と云う典型的な開発独裁型でした。

 これは20世紀半ば以降に、韓国やタイ・台湾・シンガポール等の国々が経済発展を成し遂げた遣り方の先駆的なものでした。しかし、運悪くこの様な成功は長続きしませんでした。

 エジプトの敗北と挫折
 
 イブラーヒムが統治するシリア地方では、エジプト流の急速な近代化政策が採られますが、各地で反乱が相次ぎました。これに乗じてオスマン帝国のマフムト二世は失地の回復を図ろうとして対立が深まり、1838年5月にムハンマド・アリーはエジプトの独立を宣言する迄に至ります。(後に撤回)
 翌年、マフムト2世はエジプトに宣戦布告。アナトリア方面軍ハーフィズ・パシャ率いる8万の軍がシリアに向かいますが、又してもエジプト軍はオスマン帝国軍を各地で打ち破り、オスマン帝国はエジプトに降伏してしまいます・・・これは、オスマン帝国の実質的な解体と新興国家エジプトの台頭、そしてロシアの南下を決定付ける出来事でした。

 これ以上の事態の進展は自国の外交・通商政策の障害と為ると判断したイギリスが介入に乗り出します。イギリスは列強に働き掛けた上でオスマン帝国にエジプトとの妥協を禁止し、エジプトにこれ迄獲得した領土の内スーダンを除く全てをオスマン帝国に返還する様に要求。
 この強硬姿勢に、オスマン帝国も方針を転換しエジプト軍の撤退を要求する通告を突き着けます。ムハンマド・アリーはフランスの介入を期待しますが叶わず、イギリス・オーストリア・オスマン帝国連合軍の攻撃を受け、シリア各地で連戦連敗・・・エジプト軍は壊滅寸前に陥り1841年に降伏。ロンドン条約を結びました。

 この条約でエジプト国軍は必要最小限にまで縮小させられ、主要産品の政府の独占・専売も廃止され、治外法権や低率の関税等、経済的にも不利な条項を認めさせられました。ここにおいて、ムハンマド・アリーの「維新」は完全に崩壊と為ります。
 彼が生涯を賭けて築き上げて来た新興大国エジプトは、その後イギリスの経済的な従属国と為って行くのです。ムハンマド・アリーはその後も、イギリスの軛(くびき)の下で何とかエジプトの財政や国際関係を再生させようと努力しますが、失意の中で1849年8月に80歳で亡く為りました。

 エジプト近代化政策がもたらした光と闇

 ムハンマド・アリーは一代でエジプトを強大国に成長させたドエライ男ですが、彼がエジプトにもたらしたのは好いことばかりでは無く、近代化に伴う様々な歪みも社会にもたらしました。

 ムハンマド・アリーは急速な国の近代化を進める為に、軍備拡張やインフラ整備や工場投資に莫大な費用を投じました。ギリシアで壊滅させられた海軍を再建するのにも相当な費用を使って居ます。しかし結局、領土拡張も失敗に終わり、経済開発の為の多額の投資もコストに見合うだけの充分なリターンを得られず、借金は天文学的に膨れ上がって行きました。
 その財務赤字の皺寄(しわよ)せは、支配層を介した農民への無茶な労働ノルマや重税として降り掛かりました。農民の中には生活費にすら困窮し土地を売って逃げたり、借金をして破産したりする者が相次ぐ様に為ります。

 農民を困窮させたのが、政府が強制した無償労働です。エジプトでは伝統的に「アウナ」と呼ばれる、共同体のメンバーが集まり地域の為に無償で働く慣習がありました。
 村々を囲む灌漑用水路を掘ったり、川の氾濫を防ぐ堤防を築いたり、その地域の農業に深く根ざしたものでしたが、ムハンマド・アリーはこの慣習を拡大解釈し「エジプトと云う故郷の為に」農民達を遠方に派遣し、様々な土木工事を課しました。この労働に対し報酬が支払われる事はありませんでした。

 農民は困窮し、一家で逃散する者が相次ぎ、無人耕作地帯が多数出現します。政府はそれ等無人の地を王族やトルコ人支配層・ザワート層に下賜しました。農民の中には、ザワート層に取り入って特権を手に入れ、村落の有力者・アーヤーン層と為る者が出現しました。
 彼等は各村落を支配して農民を支配下に置いて綿花栽培の経営層と為り、エジプト農民を収奪する国際金融資本の手先と為ります。

 イギリスによって借金漬けと為ったエジプト

 ロンドン条約によって海外資本の規制が撤廃され、様々な海外資本がエジプトに進出して来ますが、大きな影響力を持ったのがギリシア人の金融業者でした。彼等は治外法権を盾にしてヨーロッパ式の商習慣を持ち込み、困窮するエジプト農民に高利で金を貸しました。
 勝手を知ら無い農民は土地を担保にして金を借り、返済出来ずに破産して土地を奪われてしまいます。金融業者は、財政危機にあるエジプト政府が進めるインフラ整備に投資する事で、有利な条件でインフラの使用を認められました。

 エジプトが借金塗れに為ると彼等は特権的に港湾施設を利用する権利を得て、綿花の輸入業を独占的に行う様に為ります。この様な金融業者はグローバル金融資本の末端組織であり、中心部はイギリスの大銀行や証券会社。イギリスの金融業者は上は政府から下は農民迄エジプトを借金漬けにしました。
 エジプト政府の公的債務は1864年〜73年には6520万ポンドに迄膨れ上がり、滔々1876年、借金が国庫の45%にも達し、エジプト政府はイギリス・フランス両国による財政管理下に入る事に為りました。

 こうしてエジプトの近代化改革の結果は日本とは異なり、欧米に比する列強の仲間入りを果たす処か、半ば植民地状態に置かれる事に為ってしまったのです。


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             歴史キュレーター 尾登 雄平氏   以上







 【管理人のひとこと】

 日本は明治維新が起き、西洋列強からの干渉に屈せず何とか独立を維持しますが、何故、大国であるエジプトが植民地としてその後も支配され続けたのか・・・実に色々な因果関係が有ったのでしよう。日本とエジプトの違いとは・・・地理・地勢的問題・歴史・・・管理人には理解出来ませんが、その中の地理的な問題が大きかったのでは無かったのかと想像します。
 エジプトの地理は、地中海を挟んで直ぐにヨーロッパ諸国が控え、更にこの地を支配した強大なイスラム教国・オスマン帝国が存在して居る。更には、東方には土着の各種族が群雄割拠する中東地域が・・・詰まりこの様に、当時の世界を動かして居る歯車の中に埋没する脆弱性を元々持って生まれた地域だった。

 東洋の一番端の海の彼方にポツンと浮かぶ日本とは、地理的環境が余りにも異なります。幕末時、西洋列強が日本を植民地として侵略し無かった、その理由はハッキリしませんが「植民地として武力で支配する価値」に有ったのでは無いでしょうか。詰まり、何等の資源も無い、当時として5千万人弱程度の人が暮らす貧しい島国にその魅力が無いとされたので無いでしょうか。
 エジプトの様に西洋列強が、維新側・徳川側にドンドン資金を貸し付けて内戦を盛んにし・・・借金漬けにし荒廃した国を得た処で、その後の国を維持するだけで相当な投資が必要と為り、借金の取り立ても空しくなる・・・詰まり赤字経営の植民地と為るのが目に見えて居たのです。超大国・オスマン帝国の衰退と共に時代が大きく変わり始めた時代も在ったのでしょう・・・それとも、日本は幸運に恵まれた「神の国」だったからか・・・歴史を学ぶのは、この様にドンドン想像を膨らませ架空の夢や物語を創造出来る楽しみにあります。








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何故、国際世論はゴーン氏を支持し、ジャパン・バッシングに傾いたのか




 何故、国際世論はゴーン氏を支持し

 ジャパン・バッシングに傾いたのか?


         〜現代ビジネス 歳川 隆雄 1/18(土) 10:01配信〜


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 日本の司法制度そのものへの批判

 日産元会長・最高経営責任者(CEO)のカルロス・ゴーン被告の逃亡と、レバノンの首都ベイルートで1月8日に行われた記者会見は、欧米メディアが大々的に報じ、今やその逃亡劇がハリウッドで映画化されると云うのだ。

 「人質司法」hostage justiceと云う言葉に象徴される様に、欧米では日本の司法制度そのものに対する批判が強い。その中には勿論、事実誤認や誤解・偏見が散見で切る。だが、日本の法務・検察当局によるゴーン逮捕後の取り調べ、勾留環境・期間に付いての批判、特に取り調べに弁護士の同席を認めて居ないのは主要国の中で日本だけとの指摘はジャパン・バッシングの様相を帯びて居る国際世論に大きく影響して居る。

 取り分け厳しい論調で日本の司法制度批判の先頭に立って居るのが米紙ウォール・ストリート・ジャーナルWSJである。同紙社説の概要を時系列で紹介する。

 (1) 2018年11月27日付 共産党が支配する中国の話で有ろうか。嫌、資本主義の日本で起きた事だ。日本の検察当局は、不正会計問題に揺れた東芝やオリンパスの容疑者に対してこの様な扱いをし無かった筈だ。日産とルノーの経営統合を阻止する動きの一環では無いかと思っても可笑しく無い。
 (2) 2019年1月9日付 日本の検察の遣り方は、有罪を認める迄容疑者を拘束し、弁護士の立ち会い無しに尋問する。裁判は基本的に形式的なもので、予め有罪は決まって居る。
 (3) 同3月6日付 自分達の司法制度がマルで「第三世界」の様に映って居る事を要約理解し始めたのではないか。本件は企業のCEOの行動を巡る見解の違いの様であり、法廷では無く役員会議室で処理出来たのでは無いかと思われる。
 (4) 2020年1月3日付 逃亡したゴーン氏を責めるのは難しい。ゴーン氏が法廷で身の潔白を証明出来れば好かったが、公正な裁判を受けられたかどうかは定かでは無い。日本の不透明な企業統治と法に基づくデュープロセス・適正な手続きの欠如を白日の下に晒した。日本が現代的な自由市場経済により相応しく為る様司法制度と企業統治を改革する事が正義を果たす最善の方法である。


 手厳しい日本の司法制度批判である。筆者は上述の社説に異論があるが、特に米メディアが最も力点を置いて報じて居る「日本の裁判では有罪率99%を超えて居り、とても公平とは言え無い」との指摘を問題視して居る。

 一方、米国の有罪率は・・・

 果たして、その通りなのか。司法取引による有罪答弁・plea of guiltyも含めれば、米国も有罪率は99%超である。
 某有力省庁のワシントン駐在員の説明によると、米国の司法取引制度には「自己負罪型」と「捜査協力型」の2種類があり、何れも量刑の軽減等を得るが、自己負罪型は「自ら」の罪を認めるのに対して、捜査協力型は「他人」の捜査公判に協力するものだ。そして米国では前者の司法取引が過半だと云う。

 日産内の権力闘争本が出版される
 
 WSJ紙は米国にこの様な司法取引制度があり、有罪率が99%超である事に言及して居ない。正に不公平である。「ファクト事実・ファインディング・ライター」を自任する筆者は、日本批判に短絡的に反発する「愛国者」では無い。
 只、取り調べに弁護士の同席が認められ無いのは、米・英・仏・独・伊・韓等主要国で、日本のみと云う指摘には謙虚に耳を傾けたい。この一点が「日本は人質司法」と言われる所以である。

 畏友の仏人ジャーナリストの、レジス・アルノー氏・仏フィガロ紙東京特派員とその友人のヤン・ルソー・仏経済紙レ・ゼコー東京特派員の共著『Le fugitif - Les secrets de Carlos Ghosn』逃亡者‐カルロス・ゴーンの秘密が2月5日に出版される。翻訳は東洋経済新報社から5月頃刊行。
 四半世紀を超える友人であるアルノー氏は、ゴーン被告の逮捕直後からベイルートでのゴーン・ファミリー取材を含め、日産内の権力闘争をフォローして来た。同書には今迄日本で報じられ無かったゴーン被告の「秘密」満載だと云う。楽しみである。


            歳川 隆雄     以上









 【関連報道】冷静に考えてゴーン氏の逃げ得を許すべきでは無い「明確な理由」

 レバノンで「旧会長社宅」に逃避の厚顔


            〜ジャーナリスト 井上 久男 2020・1・6〜


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 逃亡の是非と司法制度批判は「別問題」

 日産自動車のカルロス・ゴーン前会長が、保釈の条件を破って国外に逃亡した。逃亡先は、ゴーン氏の第二の故郷であるレバノンだ。レバノン移民の子としてブラジルで生まれ、中等教育をレバノンで受けて国籍も持つゴーン氏は、同国では英雄的な存在である。
 報道によると、同国大統領もゴーン氏の保護を約束して居る。ゴーン氏の逃亡は、どう考えても単独での実行は無理であり、国内外に複数の関係者が居ると見られ、レバノンの国家としての関与も疑われる。

 今回の逃亡に付いては、国内外で大きな議論が巻き起こって居り、日本もレバノンにゴーン氏の身柄引き渡しを求めて居る。今後、一刑事事件から外交問題に発展する可能性もある。そして対応次第では、国際世論で日本政府が批判されるリスクもある。
 此処は、事態を冷静に分析し、今後、ゴーン氏が仕掛けて来ると見られる海外メディアを使った「情報戦」に備え、それに対抗する手段を構築する必要性があるのではないか。

 先ず、今回の逃亡は、日本の出入国に関する正規の手続きを踏んで居ないことから、明らかに違法行為と言える。ゴーン氏は保釈条件も破ったのだから、民主主義国家における司法手続きを無視した行為でもあり、到底許されるものでは無い。ゴーン氏の逃亡劇を受けて、
  日本では被疑者の拘留期間が長い
  取り調べに弁護士が同席出来ない
  日本の刑事事件は有罪率が99%なので判決前に既に有罪が決まって居る
  保釈後の制限事項に夫人と会え無い
 ・・・事が掲げられて居るのは人道的では無い。


 と云った日本の司法制度への批判が再び起こって居るが、逃亡事件の是非と日本の司法制度が抱える課題を一緒にして論じるのは適切では無いと筆者は考える。
 拘留期間の長さや弁護士が同伴出来ないこと等は、ゴーン氏の事件に限らず指摘されて来たことであり、徐々に改善して行けば好い話だ。刑事事件の有罪率が高いと云う指摘も、日本の検察は証拠が固く、有罪を取れそうな事件だけを起訴して居るから有罪率が高く為る。警察が容疑者を逮捕し送検しても、警察の証拠固めが甘いと、検察が不起訴処分にしてしまう事も多々ある。
 これは、行政機関である警察の仕事を、司法機関である検察がチェックする行為とも云える。只、特捜部の場合は、司法機関が逮捕・起訴までを一貫して行う為、そこにチェックの入る余地が殆ど無いことは課題と言えるだろう。

 保釈後もゴーン氏がキャロル夫人と面会出来無いことは、当然だと筆者は考える。東京地検特捜部が立件したゴーン氏の特別背任事件の内「オマーンルート」では、キャロル夫人が代表を務める会社にカネが流れて居るとされ、夫人は事件関係者と見られても無理は無い。
 事件関係者と云うよりも、重要参考人と言うべきかも知れない。検察の肩を持つ訳では無いが、裁判で口裏を合わせる可能性も否定出来ない為、面会を制限するのは当然と言えるのではないか。
 仮に日本の司法制度が課題を抱えて居るとしても、だからと言って、保釈条件を破り法を犯して迄も国外逃亡して好い訳では無い。同一の問題として論じる事自体が可笑しい。

 レバノンの邸宅は日産保有の物件

 筆者が強調したいことは、今回の逃亡事件によって、ゴーン氏が姑息でセコイ人間であると云うことが分かった点だ。名経営者と言われて来た自らの「看板」を汚す行為であった事は間違いあるまい。
 日産は、ゴーン氏が日産の事件関係者と接触するのを監視する為、警備会社に監視を依頼して居たが、その行為がプライバシーの侵害に当たると抗議を受けた警備会社は、12月29日にゴーン氏の監視を止めたと云う。監視を止めた直後に、ゴーン氏は協力者と会い、不法出国して逃亡したと見られる。「プライバシーの侵害」と云う大義名分を掲げて監視を解かせ、その隙を突いたと言える。

 そして、レバノンに逃亡したゴーン氏が、現在住んで居る自宅は日産保有の邸宅だ。日産の会長・取締役の職からは既に解任されて居るのに、逃亡後に日産保有の邸宅に住んで居るのである。この邸宅に付いては、逃亡前に日産が取り返そうとした処、レバノン政府が居住権を盾に認め無かったと云う。こうした点からも、レバノン政府がゴーン氏の逃亡に協力したのではないかと勘繰ってしまう。
 この邸宅は、ゴーン氏が日産の資金を不正流用して建てたものだ。日産の社内調査によると、ゴーン氏等が2012年5月に会社資金を不正流用して950万ドル約10億円で日産に取得させ、2回の改築費計870万ドル約9億4000万円も社内規定に反して日産に負担させたと云う。
 更に、キャロル夫人が会社に対して「シャンデリアの修理費6万5000ユーロ約780万円を支払う様に」と要求したメールも確認されて居る。余談に為るが、この邸宅は「遺跡の跡に建てられたもので、リビングのガラス張りの床からは埋葬された本物のミイラを見る事が出来る」(日産関係者)そうだ。

 明らかな「不正隠し」のスキーム

 邸宅保有の構図にも、不正を隠す意図が伺える。その詳細を説明しよう。ゴーン氏等は、ベンチャー企業に投資をする為に、日産の子会社としてオランダにジーア社を設立。処が設立直後にジーア社は子会社から外され、日産本体との間に3社が介在する様に為った。
 そのジーア社が、租税回避地の英領バージン諸島にハムサホールディングスを設立。更に、同諸島に2つの子会社を設置し、孫会社としてレバノンのベイルートにフォイノスを置いた。そのフォイノスが、ゴーン氏が今逃げ込んだ邸宅を保有して居る。

 実際にはジーア社はベンチャー企業に投資して居らず、最初からゴーン氏が不正に利用する為に設立した会社と見られる。日産の社内調査では、ジーア社は当初中近東のアブダビに設立される計画で、ゴーン氏に対する「隠れ報酬」を払い込む目的で作ろうとして居た動きが、社内メールの遣り取りから把握されて居ると云う。

 ゴーン氏を擁護する人の中には「ゴーン氏位の世界的な経営者であれば、ホームパーティ等の接待用として使う為に、世界各地に会長社宅を持って居るのは当たり前だ」とする声もある。確かに、日産の様なグローバル企業の経営トップが接待用の邸宅を持って居ても全く可笑しくはない。
 しかしそうであれば、正々堂々と日産保有にして置けば好いのに、連結から意図的に外した会社が租税回避地に子会社を作り、更に孫会社まで作って、ソコに邸宅を保有させると云う行為自体が不自然だ。日産はこれを「会計監査の目を逃れる為だった」と見て居る。1999年の来日以来のゴーン氏の功罪も含めて、こうした不正の構図は、拙著『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』(文春新書)に詳しく書いて居る。

 日産の社内調査による内規違反に該当する「不正」は、特捜部が立件した特別背任事件の中には含真れていない。しかし、フォイノスの法人登記上の所在地は、特別背任として立件された「オマーンルート」の中で、資金が不正に流れたとされるGFI社と同じだ。豪華邸宅保有は本来、事件として立件されても可笑しくなかったのではないかと思いたく為る。

 日本は狼狽えるべきでは無い

 今後、ゴーン氏はレバノン政府の支援を得て、海外メディアを巧みに利用しながら、日本の「人質司法」への大批判を展開するだろう。一部報道によると、ハリウッド関係者にも会ったと云う。恐らく、ゴーン氏の行動を美化した映画作りでも画策して居るのだろう。
 これは決して民族差別的に言うのでは無いが、ビジネスの世界では「レバシリには気を付けろ」と云った言葉がある。「レバシリ」とはレバノンとシリアの事だ。一般論として、商売上手の華僑でもインドの強(したた)かな商人には勝てず、そのインド商人が束に為ってもレバノン・シリア出身の商人には敵わ無いと言われる。

 ゴーン氏も巧みに、言い方を変えれば詭弁を弄しながら、自己を正当化し日本に逆襲して来ることは容易に想像が着く。こうしたゴーン氏の逆襲に、日本政府も日本の司法も狼狽えてはいけ無い。ゴーン氏がメディアを使って「逆襲」を仕掛けて来るのであれば、日本側も国際的に、ゴーン氏の捜査に問題が無かったことをハッキリ主張して行くべきだ。
 検事総長が、日本外国特派員協会で記者会見すべきかも知れない。特捜部の捜査に関する情報開示の手法は「リーク」中心の様に見えるが、これを機会にそれも改め、海外メディアも同席する発表形式に改めた方が好い。

 それと、ゴーン氏の逃亡に付いては明らかに違法行為であるので、警察の協力も得て、国内に協力者がいないかを徹底的に捜査するべきだ。昨年12月29日にプライバシーの侵害を理由に監視を解かせ、その日に日本に入国したトルコのプライベートジェット機に乗って、夜には密出国と云う流れは、余りにも手際が良過ぎる。
 こうした状況から推察しても、ゴーン氏の逃亡が単独で可能だったとは思え無い。繰り返すが、日本の司法制度に課題が有るから逃げて好いと云う話でも無い。

 日産は社内調査を公表すべき

 裁判所も、15億円の保釈保証金等保釈条件が本当に妥当だったのか真摯に受け止めるべきだ。例えば、保釈保証金の額に付いて、ゴーン氏の様な富豪外国人が被告に為ったケースでは、どう判断するのか研究すべきだろう。保証金は、被告の資産状況等を勘案しながら、逃げられ無いことを担保する額で決まるとされる。要は、没収されては困る額を設定すると云うことだ。
 しかし一般論として、富豪外国人の中には、租税回避地に隠し資産を持って居るケースが有ると言われる。「パナマ文書」のケースは象徴的だ。だから、こうした人達の資産を把握する事は簡単では無い。であれば、被告の身体にGPSを装着する等、科学的に逃亡を回避出来る様な手法の導入が求められる。

 日産側も社内調査の結果を正式に発表すべき時期が来たのではないか。裁判への影響を考慮していると見られ、社内調査で判明したゴーン氏等の不正の内容を公式に公表することを避けて来たが、今の流れでは、裁判がもう開かれる事は無いだろう。
 そう為ると、ゴーン氏の不正が明るみに出る機会は無く為る。司法判断とは別に、企業としてゴーン氏の不正をどう把握したのか、その全容を世界に知らしめるべきではないか。今回の逃亡を受けて、或る日産社員は筆者にこう語った。

 「20年近くこうした人間性を疑われる様な男が経営トップを務めた会社で働いて居たかと思うと、何か裏切られた様な気分に為る」

 最後に敢えて言わせて貰うが、ゴーン氏が取った行動は完全に日本を舐めているし、彼に従って来た日産社員の会社を思うプライドをも傷着けた。ゴーン氏の「逃げ得」を許すべきでは無い。


                以上


 




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ヒトラーを「左翼」「社会主義者」と見做してはいけ無い理由




 ヒトラーを「左翼」「社会主義者」と見做してはいけ無い理由

          〜現代ビジネス 田野 大輔 1/18(土) 10:01配信〜

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 広がる「ヒトラーは社会主義者だ」の認識

 近年、右派勢力の間で「ヒトラーは社会主義者だ」と云う主張が広がり始めて居る。事実、そうした主張はアメリカのオルトライト・新右翼や共和党の一部の常套句と為って居て、敵対陣営である民主党左派を攻撃するのに多用されて居る。
 日本の所謂「ネット右翼」の間でも、ナチズムを社会主義と同一視して、これを左翼批判に用いる発言が目立つ様に為って居る。社会主義的・左翼的な主張を唱える者は皆ナチスであって、人々を戦争やホロコーストに導こうとする者だと云う訳だが、こうした粗雑な主張は勿論、歴史の実態にはそぐわ無い。

 ナチ党は正式名称を「国民社会主義ドイツ労働者党・Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei」と云う。党名に「社会主義」と「労働者」が含まれて居るので、ナチズム=社会主義=左翼と短絡してしまい勝ちだが、そうした安直な見方は「国民」「ドイツ」が表す意味の重要性を無視して居る。
 これ等の語は、民族や人種に究極的な価値を置く右翼的な政治姿勢を示すものに他為らず、それと不可分に結び着けられる事で「社会主義」や「労働者」の意味合いも根本的に変わって居る。

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 ナチ党が掲げたのは、単なる社会主義では無く「国民社会主義・Nationalsozialismus」であって、それはドイツ民族・国民の為だけの社会主義、民族至上主義・人種差別主義(反ユダヤ主義)と結び着いた社会主義を意味する。
 尚、日本では従来「国家社会主義」と訳される事が多かったが、「国家・Staat」と「国民・Nation」の混同を避ける目的から、近年では「国民社会主義」と云う訳語が一般的に為っている。ヒトラーが言う様に、ナチズムは国民・民族を優先する運動であって、国家はその為の手段に過ぎ無いのである。

 ナチスは、マルクス主義の階級闘争や国際主義と云った概念に反対し、歴史の動因を民族・人種間の闘争に見て、国民・国家統合(ナショナリズム)を通じたドイツの再生と膨張・侵略を図ったが、そうした基本的な政治姿勢は、資本主義体制の打倒・変革を目指す本来の意味での社会主義や共産主義と異なる処か、それと明白な敵対関係に立つものだった。

 実際にも、ナチスはヴァイマール時代を通じて左翼政党と激しい抗争を繰り広げ、政権掌握後には社会主義者と共産主義者を一斉逮捕して強制収容所に送る等、徹底的に惟を弾圧した。
 ヒトラー自身『わが闘争』の中で繰り返し「ドイツの共産主義化」の危機を訴え、その黒幕としてユダヤ人の国際的陰謀を攻撃して居るが、そうした主張をナゾルかの様に、第二次世界大戦中の独ソ戦では「東方生存圏」の獲得と云う侵略目標に加えて「ユダヤ=ボルシェヴィズム」(ユダヤ人と共産主義を同一視するイデオロギー)の殲滅と云う人種・政治的目標が掲げられた。

 労働者を懐柔したけれど・・・
 
 確かに、ナチズムは一部で社会主義の影響を受けて居た。ヒトラーは左翼政党のプロパガンダの手法を模倣し、度々反資本主義的なレトリックを用いて労働者階級のルサンチマンに訴える演説を行なったし、政権初期迄一定の力を有したナチ党左派の間には、本気で社会主義革命を目指す動きも存在した。彼等の多くは1934年6月末の粛清事件の後、失脚するか閑職に追い遣られた。
 又、ナチスは政権掌握後、公共事業による雇用の創出・労働者向け福利厚生の拡充・家族支援や有給休暇の提供・消費・レジャー機会の拡大等と云った政策を次々に打ち出し、それを「実行の社会主義」の成果として誇示した。

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 中でも好く知られて居るものとして、労働者にも手の届く格安の乗用車として開発されたフォルクスワーゲンや、労働者の余暇を充実させる目的で歓喜力行団が提供した安価なパッケージ旅行が挙げられる。
 そうした社会的平等を目指すと云う意味で「社会主義的」な政策が導入された背景には、労働者を懐柔して階級闘争から引き離し、格差の無い「民族共同体」に統合しようとする狙いがあった。社会・経済的に恵まれ無い労働者層に手を差し伸べ、彼等を称揚して誇りや自尊心に訴えると共に、或る程度の実質的な利益を提供し、将来の豊かな生活を期待させる事で、体制への順応を促進しようとしたのである。

 効果が薄かった「社会主義的」政策

 だが労働者を褒め称えるプロパガンダや「社会主義的」と言える様な政策も、実際の生活を向上させる迄には至らず「民族共同体」のスローガンとは裏腹に、社会対立や不平等の是正も進ま無かった。
 ドイツ社会の構造は1930年代を通じて殆ど変化せず、労働者層の割合は依然として60%程度で、景気上昇によって恩恵を受けた他の社会層と比べて相変わらず不利益を被って居た。賃金は上がらず消費は冷え込み、物不足が深刻化して配給制まで敷かれて居た。
 象徴的な事に、フォルクスワーゲンは市場供給が始まる前に生産が中止され、大型客船でのクルーズ旅行も労働者には高嶺の花のママだった。

 こうした事は全て、ナチ政権が来るべき侵略戦争の為に軍備拡張を優先した結果だったと言える。政権掌握後の景気回復も殆どが軍需によるもので、1938年には軍備支出が国家支出の74%にまで達した。失業対策事業として有名なアウトバーンの建設も、それが雇用創出に果たした役割は限定的だった。負債によって賄われたこの軍需経済は、戦争が起こる事で初めて採算が取れるものだった。
 この様な理解を踏まえると、労働者向けの様々な優遇措置も究極的には侵略戦争と云う目的に奉仕するもので、彼等を軍需生産に繋ぎ留めて置く為の社会政策的譲歩でしか無かったと見るべきである。

 民族・国家への献身と服従を強いる

 こうしたナチスの政治姿勢は「社会主義」と云う概念が、専ら全体の為の奉仕・義務と云う意味で用いられた事にも示されて居る。マルクス主義に由来する社会主義の概念は、ナチ政権下では従来の階級闘争的な意味を奪われ、労働者の活力と社会的平等を誇らかに表明すると同時に、彼等に只管(ひたすら)民族・国家への献身と服従を強いると云う権威主義的な性格を持つものと為った。

 「ドイツの兵士は、世界に過つて存在した最初で最良の社会主義者である」ドイツ労働戦線指導者ローベルト・ライ等
 
 と言われた様に、兵士を模範として再定義されたナチス流の社会主義は、労働者を国家による統制に従属させ、軍需生産に邁進させ様とする体制の政治・経済的利害と適合的だったと言える。何れにせよ、それが本来の意味での社会主義と全く異なるものだった事は明らかである。

 反共イデオロギーとしての「全体主義論」

 処で、ナチズムの「社会主義的」な性格を強調し、これを共産主義と同一視して批判する視点は、同時代から一部の自由主義者・保守主義者の間で共有され、第二次世界大戦後の冷戦期には、所謂「全体主義論」として結実する事に為った。
 それによると、ナチズムはスターリニズムと同様、国家統制・計画経済を推進する全体主義であり、イデオロギー上は対立するが本質的には同一だと云う事に為る。国家・社会の全面的な再編を図るナチスの急進的な政治姿勢は、一般的な保守や右翼と異なる特徴を持っており、自由や民主主義を否定する点では、寧ろ左翼の共産主義体制に近い事が強調されたのである。

 だが全体主義論は、冷戦期の西側陣営において反共産主義のイデオロギーとして注目されたものの、その後の実証研究の進展と共に、分析枠組みとしての限界が指摘される様に為った。ヒトラーの絶対的意志の下、テロルとプロパガンダを通じて国民全体を統制する体制と云う全体主義論のナチズム理解は多くの面から批判され、体制内諸機関の競合・対立や一般民衆の順応・抵抗と云った複雑な支配の実態に注目するアプローチが優勢と為った。

 そうした研究状況を考えると、ナチスの唱える「社会主義」に付いても、その政治的影響力を額面通りに受け取る事は出来ない。それがドイツを実際に社会主義化する程の力を持た無かったことは、上述の通りである。

 ナチスを「左派ポピュリズム」と呼んで好いのか

 昨今の欧米におけるポピュリズムの台頭を受けて、最近ではナチズムをそうした運動の一つと捉える見方も出て来て居る。「AfD・ドイツのための選択肢」と云った極右排外主義運動との類似性を指摘する論者が殆どだが、中にはナチスが親労働者的な政策を執った点に着目して、これを「左派ポピュリズム」と規定する者も居る。

 例えば日本の或る国際政治学者は、ナチスが「ドイツ労働者党」であり「財形貯蓄」等の労働政策を実施した事等を根拠に挙げて、ヒトラーは「左翼ポピュリスト」であると主張して居る。だがこの様にナチズムの「左翼ポピュリズム」的性格を重視する事は、意図的かどうかは兎も角として、ナチズムの本質を見誤らせると同時に、右翼ポピュリズムを免罪する事にも繋がる。
 左翼と右翼の区別が曖昧化したポスト冷戦期の政治状況の下では、こうした粗雑な左翼批判を行なった処で、徒に混乱を招くデマゴギーにしか為ら無い。その点では、ナチズムと共産主義の類似性を強調する全体主義論が意味を持ち得たのも、左右の対立がハッキリして居た時代だったからコソだと言える。

 近年の歴史研究では、ナチズムが伝統的な左翼・右翼の政治的スペクトルには位置付け難い、複雑で矛盾した運動だと云うことが共通理解と為っている。左右のポピュリズムと比較する場合にも、そうした点を踏まえつつ、慎重な検討を行なうべきである。
 ナチズムの「社会主義的」な性格を過大視し、これに「左翼」のレッテルを貼って批判するのは、歴史認識として間違って居るばかりか、歴史修正主義に与する危険性さえ孕んでいる。その意味では、ヒトラーを社会主義者と呼ぶ論者には寧ろ、過去を政治的に利用しようとする狙いを見出すべきかもしれない。

 攻勢を強める右派勢力に取って、そうした主張は自らとナチズムの親近性から人々の目をソラし、敵対陣営に批判を向けさせる眼くらましの方便として役立つのである。ナチズムを左翼ないし社会主義と同一視する者が居たら、右派勢力の免罪や正当化を図る政治目的が無いか疑って掛かるべきだろう。
 

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                田野 大輔    以上






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2020年01月18日

日本は侵略戦争を続けたのか? 結論




 日本は侵略戦争を続けたのか? 結論


 【管理人】此処に来て「明治以来の日本の戦争は、果たして侵略戦争なのか?」との疑問に対して或る意味で結論するべきだと、色々な投稿を調べてみました。しかし、今の処、明確な判断を下すまでには至っていません。私自身も戦後教育の中で育った人間でありおよそ次の様な個人的見解で居ました。

 「明治維新を成し遂げ富国強兵策を執った日本は、日清・日露戦争以来、海外に植民地を求め朝鮮や台湾を併合し、果ては中国の東北部の満州に傀儡国家を築いた。遅く遣って来た東洋の侵略者として、それを快く思わ無かったアメリカ・イギリスを初め諸外国に批判されます。色々な経済制裁を受け、特に経済的関係の深かったアメリカを中心として、日本移民を排斥したり貿易制限等の制裁を強化します。
 日本は、アメリカを初め諸外国と外交交渉を重ねるのですが、アメリカと最後の交渉に臨んだ日本は、到底呑め無い決定的な通告を受けてしまいます。貿易を制限され石油の供給を停止されると、日本は座して死を待つのみ・・・と日本は米英との戦争を決意するに至ります・・・」


 との基調は、日本が主体と為った海外膨張政策・・・所謂「侵略」との判定です。しかし、日本が「侵略」を始める(言わば明治維新後から)以前の大航海時代以来、世界の先進国は世界中を侵略し、殆どを植民地として支配し、唯一残ったのが大国・中国だったのです。
 その中国を、世界各国が狙って居ました。そこへ、同じ東洋の後進国だった日本が割って入り満州を奪ってしまった・・・詰まり、日本は後から遣って来て横取りした様な受け取り方をされたのでしよう。ですから、日本は確かに侵略の意図を以て中国に進出しました。
 が、日中戦争に引き擦り込まれ、延いては太平洋戦争へと発展した切っ掛けに為ってしまいましたが、アメリカを初めイギリス・オランダから「侵略者」と罵られる謂(いわ)れは毛頭ありません。彼等の植民地政策コソが侵略・搾取の先駆者なのですから・・・


 そこで、次の文章を参照したいと存じます。


 アゴラ 言論プラットフォーム 津上 俊哉 「戦争の総括」に付いて 2013年05月14日 08:00


          1-18-1.jpg

                  津上 俊哉氏

 BLOGOSに田原総一朗氏がした『ワシントン・ポスト』等外国主要メディアの安倍首相批判 ココが大間違いだ!と云う投稿に対して、木走正水氏が田原総一朗氏の主張が日本の国益に沿うとは到底思え無いと云う反論を載せている。
 形勢判断や結論に於いては木走氏と同じだが、今「アメリカに逆らいちゃぶ台返し」するのは拙いと云う木走氏の理由付けだけでは残尿感(笑)が有るので、二つの論点に付いて、私なりの「補助線」を引いて考えてみたい。

 1)太平洋戦争は日本の侵略では無い。太平洋戦争は侵略国であるイギリス・アメリカ等の連合国、 そして同じく侵略国である日本との闘いだった。これは、日中戦争は侵略で申し訳無かったが、太平洋戦争は普通の戦争で悪びれる処は無い


 と云う所謂「二つの戦争」論だ。真珠湾攻撃のニュースを聞いた少なからぬ日本人が「カラリと晴れた」気分に為ったと云うから、当時も今もそう考える日本人は多いのだろう。かく言う私も昔はそう考えていた。でも「二つの戦争」論は日本人独特の史観で、百回唱えても他国に理解される事は無いと思う。
 世界通用の理解は、日本の対中侵略が、植民地が多数残存していた当時の感覚からしても許される限界を越えてしまった事が「太平洋戦争」を導いたと云うことであり「アノ戦争は(連続した)一つ」なのである。

 これには史実の裏付けがある。対米開戦を知った日本人が「カラリと晴れた」気持ちに為ったのは、直前の「ハルノート」の理不尽さに憤って居たからだが、途中迄妥協が成立する望みもあった対米交渉(対日禁輸解除交渉)が、ハルノートで一挙に暗転したに付いては、米国から妥協的な方針の事前協議を受けた中華民国・蒋介石政権の猛烈な巻き返しや英国(チャーチル)の後押しがあった。
 詰まり、中国大陸での戦さで負け続けていた中国が、外交戦で日本に反撃した結果がハルノートなのである。そして、最後は日本に勝った。日米戦争に直接参加する事は勿論無かったが、それは大日本帝国を消耗させ、大陸で戦え無くさせる為の最大の戦略であった。だから、中国に取っては、日本の対中侵略戦争と日米戦争は断じて「二つの戦争」では無い「一つ」なのである。

 他の国に取っての「一つの戦争」度合いは、中国程では無いかも知れない。英国は対独戦に米国を引き込む事が文字通りの死活問題だったから、策略として中華民国を後押しした。日米が開戦すれば「枢軸国連合対連合国」の戦いに為るからである。だから、英国に取っても「アノ戦争は一つ」であり、そこに「日独伊のファシズム連合と残る世界の戦い」と云う色付けも加えられる。
 そして、米国は、日本の対中侵略が無かったら、日本と戦争迄する理由も無かった。そして、欧州と太平洋の両方で同時に戦う事は、米国の力を持ってしても「総力戦」を要した。「偶々二つの戦争を同時並行で遣る事に為った」では、国民も力が出無い。「ファシズムと戦う」と云うバインダーが不可欠だった。米国に取っても当然、戦争は「一つ」である。

 そう云う記憶を持つ顔触れを向こうに回して「アノ戦争は二つだった」と唱えても、受け容れられる筈が無い。田原氏は他方で「対中戦争は侵略だった」と認めてバランスを取って居る積もりかも知れないが「二つ」に分ける事が容れられ無い以上「反ファシズム闘争だった」と云う世界の「公史」に挑む危険な考え方だとして、中国他に乗じられるだけである。

 2)極東軍事裁判が「平和に対する罪」と云う事後法でA級戦犯を処断したのは間違って居る

 この論法の最大の問題は、極東軍事裁判が、敗戦国日本が選び取ったディールだった事を等閑視する点である。勿論喜々として選んだ訳では無く、止むを得ざる選択ではあったが、それは戦争の責任追及を最小に限定する為のディールだった。
 当時の日本のエスタブリッシュメントの心情としては、昭和天皇の責任追及を避ける国体護持と云うのが一番大きかっただろうが、それだけでは無い。寛大な講和条件で、しかも早期に主権を回復して国際社会に復帰する為と云うのも大きかった。

 逆に言えば、敗戦後、米国を始めとする連合国側に向かって「日本は悪く無い」と言い張れば、昭和天皇は処刑されて居たかも知れないし、賠償は軽めの「役務賠償」(日本経済に取っては「特需」だった)等では済まず、占領・Occupied Japanが永く続いて居ただろう。
 そう為って居たら、戦後の日本国民はドレ程苦しんだか。その意味では、戦前、マスコミの煽動に乗って、「対中進出」を好戦的に支持した日本国民を免罪する意味も有った。

 そう云うディールにする為に、当時のエスタブリッシュメントが遣ったことは、生贄(A級戦犯)を差し出す事だった。戦犯調査に当たって居た占領軍当局には、A級戦犯達の責任の重さを断罪する大量の密告が届いた事を、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」が活写して居る。
 A級戦犯達は、占領軍だけで無く同胞による見え無い包囲網がジワジワと狭められて行く。罪を被って死んで呉れのを感じて居た筈である。少数者に責任を代表して貰って、残りの日本が免罪される為には、少数者の罪が重く無ければ為ら無い。だから「人道に対する罪」なのである。
 そう云うディールでありショーであった。だからコソ、ウィロビー・GHQのG2の長「この裁判は史上最悪の偽善だ」と吐き捨てたのである。(敗北を抱きしめて)

 戦後日本は、昭和天皇にも一般国民にも有った戦争責任をA級戦犯に被せて復興を図った。そのディールで復興を遂げて経済大国に復活した今に為って、一部の政治家の様に「アノ戦争は自衛戦争だった、日本は悪く無い」と言うのは、レストランで出された食事を平らげ勘定を済ませた後で「自分が食べたかった料理じゃ無かった金を返せ」と言う様なものだ。
 占領当時にそれを言って居たら、今の日本は無かった。当時そう思ったからコソ、ディールしたのが我々の先代ではないか。疚(やま)しいのは当たり前だが、疚しさから逃れる為に、今更「日本は悪く無かった」と言うのは卑怯だ。

 田原氏が言う「アノ戦争の総括」は遣ったら良い。しかし、それは、極東軍事裁判が敗戦国日本が選び取ったディールでもあった重い歴史を振り返るものであるべきだ。


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               津上 俊哉 平成25年5月13日記   

 1980 東京大学法学部卒業 通商産業省入省 1994年 通商政策局公正貿易推進室長 1996年 在中国日本大使館 経済部参事官 2000年 通商政策局北東アジア課長 2002年 経済産業研究所上席研究員 2004年 東亜キャピタル(株) 取締役社長 2012年 津上工作室 代表

                 以上


 【管理人のひとこと】

 歴史とは、過去の出来事等を時間を経た後に「アレコレ」と分析し評価する事だ。その学習により現在・未来の遣るべき道の指針を引き出そうとする人類の共通した学び方の一つだ。そこでは、分析し評価する人によって夫々の立場・主張が紛れるのが普通で、依って色々な解釈が生まれるのが当たり前。
 だから、それ等を読み学ぶ人も同じく、全てを一概に信じ込まず、自分の感性やそれ迄の学習を土台にして冷静な立場で受け入れ無くては為ら無いだろう。詰まり、それ等を読み判断する我々も歴史上の一人なのだと。

 今まで調べた投稿から、管理人は「多種多様な考え方」を学んだ。そのドレを信ずるかは貴方に任せるしか無いと。詰まり「日本の聖戦・東洋の解放者」との主張を受け入れるのも勝手だし、田原氏や津上氏の意見に賛同するのも自由だ。
 日本人として「こうで有りたい、こうで有って欲しい」との願望を全て捨てろとも言い難い。何故なら「歴史」とは、後世にその願望に沿った「脚色」が為されるのが常だった・・・生き残った勝者の都合の好い言訳を聞くだけなのだから。
 田原氏の「中国には侵略したが、太平洋戦争は自衛戦争だ」との言葉も他から見ると「都合の好い言訳」に過ぎ無いだろうし、今更「東京裁判は間違いだ」と叫んでも、当時の殆どの国民は「戦争被害者の会」の一員であり、戦争指導者に対する心からの怒りと反発を持って居たので「東京裁判の結果を冷静に受け入れた」のは想像出来るのだ。
 好い悪いでは無く、その様な流れが多くの人が望んだ結果でも有った・・・それが歴史の一つの見方であり、今回の結論としたい。









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【太平洋戦争以前】アメリカの対日戦争計画「オレンジ計画」と「レインボー5」



 Man On a Mission システム運用屋が、日々のアレコレや情報処理技術者試験の攻略を記録して行くITブログ・・・と云うのも昔の話。今や歴史メインで偶に軍事。別に詳しく無いので過大な期待は禁物 歴史 2017-07-23


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 【太平洋戦争以前】 アメリカの対日戦争計画 「オレンジ計画」と「レインボー5」


 本日の記事は、太平洋戦争以前にアメリカが策定して居た対日戦争計画「オレンジ」に付いて。序に、そのオレンジプランと云うかカラープランの後に策定された「レインボー」に付いても少々触れたいと思います。

 「対日戦争計画」と聞くと、マルでアメリカが日本相手の戦争を始め様として居た様に聞こえますが、オレンジは飽く迄も「日本と戦争する羽目に為った場合」に備えて研究・立案して居たものであり、実際に対日開戦しようとして居た訳ではありません。オレンジは「カラープラン」と呼ばれた戦争計画の一つです。

 カラープランは、アメリカが交戦可能性の有る国を「仮想敵国」として立案した戦争計画*1で、夫々の国に対して色別の符号を用いて居ました。オレンジが日本を「仮想敵」として立案されたプランですが、他にもブラック=ドイツ、レッド=イギリス、クリムゾン=カナダ、グリーン=メキシコ、イエロー=中国、ゴールド=フランス等々、キリが無いのでこの辺で辞めときますが、多数の国を対象として居り、日本だけを特別敵視して居た訳ではありません。
 昔々、一部の一寸アレ気な人達が「日本はアメリカの戦争プログラムに嵌められて戦争に引き擦り込まれた、そのプログラムをオレンジプランと云う!」的な妄言を好く吐いてましたが、そう云うものでは無い訳です。マア、最近はそんな認識の人は余り居ないと思うのですが・・・多分・・・そうで有って欲しい・・・そうで有って欲しかった。

 「仮想敵」と云う言葉の誤解

 オレンジプランの内容に触れる前に少し前置きを。前節で、アレな人達がオレンジプランに付いて妙な認識をして居る旨書きましたが、これは「仮想敵国=敵と考えて居る国」と云う単純な捉え方をして居る事が原因の一つじゃないかと思っています。意図的に扇動して居る人はどうか知りませんが。
 国防や作戦・軍備等の計画立案に当たっては、「敵」の戦力や戦略・戦術等が或る程度具体的に為らないと有効性のある計画を立てる事は困難です。その為「仮想敵」を設定します。

 「仮想敵」は、大抵、自国に脅威を及ぼす可能性の高い国・勢力を優先的に選定しますが、必ずしも政治・外交上の敵対・緊張は前提とされず、友好的な関係に有ろうが同盟国で有ろうが、僅かでも交戦可能性の或る国家・勢力で有れば「仮想敵」として設定し得ます。
 又「仮想敵」は一つでは無く、通常、複数の「仮想敵」が設定されます。安全保障上、多種の事態を想定して置くのは当たり前の事なので。交戦可能性や脅威度による重み付けによって、実際の戦略や軍備等への反映度合いは異なって来るでしょうが。

 そんな訳で「仮想敵」と云う言葉に振り回されると、どいツもこいツも皆敵と云うことに為ってしまいます。現実に「仮想敵国」と云う言葉に報道や国民が振り回され、無駄に緊張が高まった事もありました。実際には「敵」と「仮想敵」の間には大きな隔たりが有る訳ですね。

 オレンジプラン

 サテ、ここからオレンジプランの話を。カラープランは多数の国を対象として居ましたが、交戦可能性の低い国に付いては形式的な紙上計画に留まります。「オレンジ計画」の著者、エドワード・ミラーによると、オレンジプランが最初に作成されたのは1904年との事ですが、オレンジプランもこの当時は裏付けに乏しい紙上計画に過ぎ無かった様です。
 しかしながら、日露戦争(1904〜1905年)後、日米間の緊張の高まりにより、オレンジプランの重要性が増す事と為りました。その為、陸海軍のプランナー達は、本腰を入れてオレンジプランの立案に取り組むことと為ります。

 尚、カラープランで他に本格的な計画立案が行なわれて居たのは、レッド(イギリス)ブラック(ドイツ)位です。 「日本だけを特別敵視して居た訳では無い」と書きましたが、イギリス、ドイツと並んで、割と本格的な戦争計画が練られては居た訳ですね。
 因みに、20世紀初頭に於いて、最も重要視されて居たのはブラック(ドイツ)です。ドイツは当時、英海軍に次ぐ世界第2位の戦艦19隻を保有して居り、第5位の日本(7隻)を大きく引き離して居ました。その為、20世紀初頭に置いては米海軍の主力は大西洋に常駐して居り、太平洋には旧式装甲巡洋艦数隻から為るアジア艦隊がフィリピンに配備されて居ただけでした。

 オレンジプランの内容

 オレンジプランはその時々の情勢によって変化して居ますが、想定された戦争推移に付いては初期計画から余り変わって居ません。戦争推移は以下三段階に分けられます。

 1. 日本軍の奇襲と攻勢
 2. 消耗戦とアメリカ軍の反攻
 3. 日本封鎖


 上記を見れば判る通り、オレンジプランは日本の先制攻撃が前提と為って居ます。以下、各段階に付いての説明を。

 第一段階では、日本軍によるフィリピン・グアムへの先制攻撃が想定されて居ます。但し、この先制攻撃に対するフィリピン・グアムの防衛に付いては、明確に定まっては居ません。
 フィリピン・グアムが失陥し無い様、一定規模の陸海軍を平時より配備して防衛する案や、日本の先制攻撃に対し間髪入れず全艦隊をもって即時反攻を行う等の案がありましたが、両者共コストやリスクを考慮すると現実的とは言い難いものでした。結局の処フィリピン・グアムは一旦放棄されるであろう事が暗黙的に想定されて居た様です。

 第二段階では、大西洋艦隊の回航による米海軍の反撃と為っています。太平洋と云う広大な戦域に於ける補給(兵站)が課題と為りましたが、これに付いては艦隊に随伴して兵站支援を行う「役務部隊」が発案され、1922年に実現する事と為ります。
 尚、オレンジプランの研究初期に於いて、既に、広大な太平洋を戦域とする対日戦が長期的かつ無制限の総力戦に為り得ると予測されてたりします。

 第三段階では、フィリピン・グアムを奪回したアメリカ艦隊が、これ等を前進根拠地として沖縄経由で日本本土に侵攻する事と為っています。尚、この際に日本海軍との艦隊決戦も予期されて居ますが、日本海軍撃滅は必須ではありません。
 アメリカ海軍の目標は海上優勢(制海権)を獲得して海上封鎖を行い、物資の輸入遮断をもって経済産業を崩壊させ降伏に追い込む事とされて居ました。実際の太平洋戦争の推移では、真珠湾攻撃やアメリカによる南西太平洋での攻勢と云った相違は有ったものの、ホボオレンジプランの想定通りに為りました。オレンジプラン立案者達の見識を伺わせるものですが、この正確さがオレンジプラン陰謀論の一因でも有るのかも知れませんね。

 オレンジからレインボーへ

 サテ1939年6月、ドイツ及びイタリアの膨張政策を初めとする情勢の変化を受けて、アメリカ政府はカラープランに替わる戦争計画であるレインボープランを策定します。カラープランは、一国対一国の戦争を想定した割とシンプルな計画でしたが、これに対しレインボープランでは、当時の外交・同盟関係を前提とした計画と為って居ました。「レインボー」シリーズは番号を付された幾つかの計画から構成されて居ます。

  レインボー1はドイツの南米大陸への侵攻への防衛計画で、陸軍の要求を反映したものです。
  レインボー2は、アメリカと英仏の同盟を前提に、枢軸国側と太平洋・大西洋にて戦うものですが、欧州では一先ず防勢を取り太平洋方面での勝利を優先する計画でした。
  レインボー3はアメリカ単独による対日戦争で、オレンジプランの改定版と云えるものです。
  レインボー4は、レインボー1の内容に加えて、日本による太平洋侵攻を想定して居ます。
 そしてレインボー5、これが実際に第二次世界大戦において統合戦略計画「ABC-1」として採用されたプランと為ります。内容はレインボー2と同じく、英仏同盟前提での太平洋・大西洋の二正面作戦ですが、こちらは欧州での勝利を優先するものでした。

 レインボー5の採用は、ローズヴェルトとチャーチルのワシントンでの会談・アーカディア会議でドイツ打倒を最優先とする合意が為された為でもありますが、真珠湾攻撃により米太平洋艦隊が壊滅して居た事から、どの道太平洋戦線は防勢を取らざるを得無い、と云う事情もありました。

 最後に

 サテ、簡単ながらオレンジプランに付いて述べてみました。Webでは、パラレルワールドに迷い込んだのかと思っちゃう位、奇妙な「歴史観」が溢れているのですが、今回記事を書こうと思ったのも、偶々オレンジプラン陰謀論のサイトを見てしまったからだったりします。
 以前、陰謀論の種は尽きまじなんて書きましたが、本当、色々とコジツケて呉れるものです。ソロソロ、落ち着いて来ても好いかと思うのですがね・・・等と不明瞭な事を言いつつ、今日の記事を終わります。

                   以上


 【管理人のひとこと】

 各国の軍隊は「仮想敵国」を色々想定して軍備を整えるのが常識です。メクラ滅法に武器と人員を揃え「戦え!」と号令しても軍隊は機能しません。「仮想敵国」を想定する事によって、最優先される危機に対処する様に、装備・組織・作戦運用が決定され予算化され日々の活動の根本と為ります。ですから、現在の自衛隊でも、想定可能なアラユル危機を考え、一番に優先され・予算的に可能な組織・装備を作り備えるのです。
 恐らく我が国では、中国・北朝鮮・ロシア等が優先されるでしょうが、目に見える危機だけでは無く、アラユル事態を想定して図上演習を怠ら無いでしょう。その中には同盟国や友好国とて除外されません。詰まり、アラユル事態に対処すべき心構えは持って無くては緊急時に動け無いからです。ですから、例えアメリカや韓国に対しても情報収集は怠らずに行うのが国防の原則です。

 その意味で、過去のアメリカのオレンジ計画も同じ根拠のもので、取り立てて論ずるのもナンですが、その計画が余りにも嵌った結果と為ったので「日露戦争後、真剣に日米戦争を想定して居た・・・」と結論されますが、それは当然の事なのです。対日部署は、アラユル情報を集め万全な対処の計画を作るのが任務なのですから。それは、アメリカ軍も旧日本軍でも同じ事でしょう。これを、アメリカは昔から日本を敵視し戦争を仕掛けたかった・・・と解するかどうかは個人の受け取り方次第です。







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2020年01月17日

日本近代史 日米戦争とは何だったか 久保有政著 −2




 日本近代史 −2

 大東亜戦争の意味 久保有政著


             1-18-13.jpg

 アメリカは真の敵が誰かを見誤った「本当に勝ったのは日本だ」と云うドラッカーの言葉は何故生まれたか

 日本への最後通牒ハル・ノートを書いたハリー・ホワイト、彼はソ連のスパイだった。前項「日米戦争はなぜ起きたか」では、真珠湾以前からアメリカが行なって来た日本に対する執拗な嫌がらせに付いて観ました。その嫌がらせの総まとめとも言えるものが、開戦直前にアメリカが日本に提出して来た最後通牒「ハル・ノート」です。

 最初の一発を日本に打たせる為のハル・ノート

 アメリカが提出して来た「ハル・ノート」は、日本に取っては寝耳に水、予想もし無いものでした。そして日本政府には、目が眩む程の絶望感が走ったのです。その対日要求は、中国大陸や仏領インドシナから日本の軍隊を引き上げる等が要求の主なものでした。この様な要求は予想出来ないでもありませんでした。
 では、何故これが寝耳に水だったかと云うと、アメリカの言い分は、日本がこれ等の要求を全て呑めばABCD包囲網を解く、と云うものでは無かったのです。日本がこれ等の要求を呑んだら、ABCD包囲網をどうするかと云う話し合いに応じると云うものに過ぎませんでした。
 
 しかしビジネスの世界でもそうですが、人と交渉して相手に妥協を求める際には、自分の方でもそれ為りの妥協を用意し無ければ為らないものです。国際政治の舞台でも同様の筈です。処がアメリカの要求は、自らは一点の妥協もせず聊かの犠牲も払わず、只日本が要求を呑んで丸裸に為れと居う無茶苦茶なものでした。こんな高飛車で理不尽な要求は、到底呑めるものではありません。
 呑めば、こちらは丸裸に為って、交渉する際の取引カードが無く為ってしまいます。詰まり、要求を呑んで丸裸に為った後に「矢張りABCD包囲網は解きません」と言われても、もうどうする事も出来ないのです。

 ハル・ノートを受け取る以前の日本政府は、アメリカとの関係を何とか修復したいと、必死の努力を続けて居ました。しかしこの要求を受け取った時、今や全ての努力が挫折したと知ったのです。この時日本国内に「事態此処に至る。座して死を待つより戦って死すべし」と云う気運が生まれました。そして開戦を決意、真珠湾攻撃へと向かって行ったのです。
 戦後、東京裁判で只一人、日本の無罪を主張したインドのパール判事は「ハル・ノートの様なものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクの様な小国でも、矛を取ってアメリカに立ち向かうだろう」と述べたことは有名です。

         1-18-9.jpg インドのパール判事

 何故アメリカは、ハル・ノートと云う様な無茶苦茶な要求をして来たのでしょうか。アメリカは「オレンジ計画」に観られる様に、何れ日本を叩き潰そう屈服させ様と思って居ました。真珠湾以前から、アメリカが日本との戦争を決意して居たことは、今日では良く知られて居ます。
 けれども当時、アメリカ国民の大半は参戦に反対でした。アメリカ人の多くは、過つての大恐慌の悪夢から要約立ち直り安定した生活を手に入れる様に為ったばかりでした。出来ることなら、他国との戦争等に関わりたくありません。
 
 そうした中、ルーズベルト大統領は、何とか日本と戦争をし、日本を屈服させたいと願って居ました。又当時ヨーロッパでは、既にドイツ軍の勢力がイギリスにも迫って居ました。それでルーズベルトは、盟友チャーチル首相のイギリスを救う為にも、アメリカの参戦を何とか果たしたいと思って居たのです。
 もしアメリカが日本と開戦すれば、日本とドイツの同盟関係により(日独伊三国同盟)アメリカは自動的にドイツとも開戦する事に為ります。そうすればアメリカがドイツを打ち負かす機会が生まる訳です。その為ルーズベルトは、何とか参戦を果たしたいと願っていました。

 けれども、アメリカ政府が勝手に戦争を始めても、アメリカ世論が付いて来る訳がありません。どうしたら、世論は日本との戦争を好しとするだろうか。そうです。もし日本が最初の一発を打てば、アメリカ国民は怒り、戦争止む無しと思うに違いありません。
 アメリカは、西部劇にも見られる様に決闘の国であり、先に相手に銃を抜かせてコソ、大義名分が立つと云うものなのです。その為にアメリカが用意したのが「ハル・ノート」と云う日本への要求書でした。これを突き付けるなら、日本は牙を剥いて刃向かって来るに違い無い・・・そう踏んだ訳です。

 勿論、こうした国運を賭けた重要な外交文書が出されるには、当然、アメリカ議会の承認が必要の筈です。処がハル・ノートは、アメリカ議会もアメリカ国民も全く知ら無い処で、密かに日本に突き付けられました。れが日本に出された事は、ルーズベルト大統領と、幾人かの側近だけが知って居たことだったのです。
 真珠湾が攻撃された時、殆どのアメリカ国民は、ハル・ノートの存在すら知りませんでした。アメリカ国民は、アメリカに対する日本の横暴な侵略が突如始まったとしか思わ無かったのです。

     1-18-10.jpg英国チャーチル首相

 戦争責任は双方にある

 当時、ハワイの真珠湾にはアメリカ軍の一大基地があって、アメリカによるアジア侵出の拠点と為っていました。1941年12月8日、日本軍はこの真珠湾の基地を攻撃・破壊しました。真珠湾攻撃のニュースが飛び込んだ時、喜んだのはルーズベルト大統領でした。これでアメリカ世論は一気に傾き、日本との戦争を始められるからです。
 当時の大統領側近の話によれば、真珠湾のニュースを聞いた時、大統領は「安堵した」と言います。それは彼の念願が適った瞬間でした。

 ルーズベルト大統領は、戦争には参加しないと公言して当選したが、心ではアメリカの参戦を強く願っていた。彼は日本を挑発して日本に「最初の一発」を打たせることに成功し、米国民を一気に戦争へ向かわせて行った
 
 その後、大統領は米国民の前に出ると、急に顔を強張らせて怒りを露わにし、これを日本の「卑怯な騙し討ち」と非難して、国民の怒りを駆り立てました。皿に「リメンバー・パールハーバー・真珠湾を忘れるな」の合い言葉を繰り返し、一気に日本との戦争に向かわせて行ったのです。
 後に、イギリス・チャーチル内閣のオリバー・リットルトン生産相は、1944年の演説の中で、日本の真珠湾攻撃に付いて触れています。当時の『ザ・タイムズ』誌は、記事の中で次の様に記しました。
 
 「リットルトン氏は日本人が真珠湾でアメリカ人を攻撃せざるを得無い』程、アメリカは日本を挑発した、と言明し『アメリカが戦争に巻き込まれたと云うのは、歴史を戯画化したものである』と付言した」
 
 アメリカは、戦争に巻き込まれたのでは無く戦争を自ら引き起こしたのだ、と云うことです。イギリスの海軍軍人ラッセル・グレンフェル大佐も、その著『主力艦隊シンガポール』の中でこう述べました。

 「今日、卑しくも合理的な知性のある人で、日本が合衆国に対して悪辣な不意討ちを行なったと信ずる者は居ない。攻撃は充分予期されて居たのみ為らず、実際に希望されて居たのである。ルーズベルト大統領が、自国を戦争に巻き込みたいと考えて居たことは疑問の余地は無い。しかし政治的理由から、最初の敵対行動が相手側から始められる様にする事を、熱望して居たのである。
 その様な理由から彼は・・・武力に訴え無ければ耐える事が出来ない点まで、日本人に圧力を加えたのである。日本は、アメリカ大統領によって合衆国を攻撃する様に仕組まれたのである」


 この様に、日米戦争は、決して日本が一方的に始めたものではありませんでした。寧ろ、アメリカは日本を、戦争以外に選択肢の無い処に追い遣ったのです。もし戦争責任と云う事を言うなら、それはアメリカにも日本にも有ったことです。
 戦争は有っては為らないものです。しかし日米は戦争をしました。その責任は双方に有ります。日本は中国大陸に戦線を拡大する過ちを犯しました。アメリカは、日本を戦争へと挑発しました。双方がそう云う過ちを犯したと云うことを、認識し無ければなりません。
 
 しかし、人間は結果から物事を見てしまい勝ちです。戦争に負けた方の日本が全て悪く、勝った方のアメリカは全て正しかったと考え勝ちです。特に日本にはその傾向が強く存在します。けれども、それではいけ無いのです。戦争の教訓を生かすことに為りません。
 これは、戦争を讃えて居るのでも肯定して居るのでもありません。今の日本は、自虐的な歴史観に陥って居ます。日本が全て悪かったのだと。又、アノ当時の政治家や軍人達は皆狂って居たのだと。しかしそうではありません。当時の日本人は、熟慮に熟慮を重ねた末、やむを得ず戦争に突入して行ったのです。そこには、真剣に国の未来を考えた人々の姿がありました。

 勿論、失政や失策もありました。後から「アアすれば好かった」「コウすれば好かった」と云うこともありました。しかし問題は、アノ状況まで追い込まれた時、それ以外には選択肢はあったかと云うことです。








 特攻隊員等、彼等を初め全ての日本兵は、日本とアジアの未来を思い、命を捧げた。その犠牲の上に今日の日本とアジアがあることを、私達は忘れては為ら無い。
 

 もし貴方が、アノ残酷極まりない弱肉強食の時代に生きて居たとしたら、貴方は戦争を止められたでしょうか。1941年9月6日の御前会議では「帝国は、自存自衛を全うする為、対米・英・蘭戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目処とし戦争準備を完遂す」との決定が下されています。日本は戦わずして屈服するより、戦う事を選びました。それは日本の存亡を賭けた戦いだったのです。
 昭和天皇は戦後「この前の戦いは、結局は人種問題と石油問題であった」と言われています。日米戦争の原因は、大局的に観れば、アメリカの人種差別政策が遠因と為り、石油全面禁輸が近因と為って起きました。昭和天皇は、その大局を好く見通して居られたのです。

           1-18-11.jpg ソ連 スターリン

 コミンテルンの謀略
 
 サテ、今まで私達は日米戦争の原因として、主に日本側とアメリカ側の要因だけを観てきました。しかし、単に両者の要因だけで日米戦争が起きた訳ではありません。実は当時、日米間に戦争が起こって欲しいと熱望していた、第三者の存在があったのです。そして結局それが日米戦争に火を点けました。
 その第三者とは、ソ連のモスクワに本部を置く「コミンテルン・国際共産主義組織」です。コミンテルンは「世界中を共産主義化する」と云う野望を抱いて行動して居た人々です。
 
 共産主義は、目的の為には手段を問いません。彼等は世界の列強同士を戦わせ、それ等の国々が戦争で弱体化した処を狙って、その国に共産主義革命を起こし共産主義化する戦略を立てて居ました。詰まり「夷(い・ 外国)を以て夷を制す」の考えです。20世紀に起きた多くの騒乱や局地戦争、又大東亜戦争を含む第二次世界大戦等、世界中の大半の戦争に共産主義者の謀略が関与して居ます。コミンテルンは、世界中に戦争の種をバラ撒いたのです。
 
 私達は、人間は平和主義者ばかりでは無いことを知る必要があります。コミンテルンは、日米間に戦争を起こしたいと欲しました。それによって両者を弱体化させ、ソコに共産革命を起こし、両者とも共産主義化しようとした謀略です。
 この目的の為には、アメリカ人の日本に対する怒りを積もらせる必要があります。その目的の下に共産主義者が作ったのが、先程も述べた偽書「田中上奏文」です。それは日本を悪者に仕立て上げたものでした。更に、日本にアメリカとの戦争を決意させたものは「ハル・ノート」であるとも述べました。このハル・ノートですが、実は元々ハル国務長官自身が最初に用意した原案は、もっと穏やかなものでした。
 それは日本側が呑める内容でした。それがもし実際に出されていたら日本側は呑んだでしょう。そして日米戦争は起こら無かったに違いありません。

 しかし、その後実際に日本に突き付けられたハル・ノートは、強硬で無茶苦茶な要求と為っていました。その原稿を書いたのはハル長官自身ではありません。財務省補佐官のハリー・ホワイトなる人物でした。それをルーズベルト大統領が気に入り、これで行けと云うことに為って、ハル長官から野村大使に手渡されたので、以後「ハル・ノート」と呼ばれる様に為りました。
 ハル・ノートを書いたこのハリー・ホワイトは、共産党員でありソ連のスパイであった事が、戦後明らかに為りました。

 と云うのは、別にエリザベス・ベントレイと云うソ連のスパイが逮捕されたのですが、彼女は、ハリー・ホワイトは共産党エリートだと喋ったのです。又、ウイタカー・チェンバースと云う元共産党員の男も、ホワイトはソ連のスパイだと告発しました。
 こうしたスパイ疑惑の中、ホワイトは審問期間中に突然、不審な死を遂げます。その死に方は事故死か自殺の様にも見せ掛けられて居ましたが、コミンテルンに消されたと云うのが大方の見方です。この様に、ハル・ノートが対日強硬要求と為った背景には、日米間に戦争を起こそうとするコミンテルンの謀略があったのです。  
 
 根底にあった人種差別

 この様に日米戦争は、元々ブロック経済に始まった世界経済の窮迫を背景に、欧・米・日の東アジアへの進出、ソ連の脅威、石油問題等を原因とし、そこにコミンテルンの謀略も加わって起きました。
 
 しかし根本的には、アメリカがブロック経済と排日主義によりアメリカへの門戸を日本に対して閉ざした一方、中国の門戸開放を執拗に求め、日本を締め出しに掛かったと云うアンフェアーな行動が大きな原因としてあったのです。
 更に、もっと根底に、アメリカ人の人種偏見が存在しました。開戦後、アメリカのトマス・ブレーミー将軍はこう演説しています。「諸君等が戦って居るのは、奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言って好い」
 又4943年の米軍の調査では、アメリカ兵の半数が日本民族を根絶すべきと考えて居ました。その狂気はそのママ戦場に持ち込まれ、日本兵捕虜は容赦無く撃ち殺され、未だ息の有る者も他の死体と共に穴に投げ入れられたと、従軍記者エドガー・L・ジョーンズは記して居ます。

 アメリカは、自らの打算的な目的の為に、日本人を殊更に敵視したのです。何故アメリカはナチス・ドイツでは無く、日本に原爆を落としたのか。それはドイツ人は白人であり、日本人は黄色人種だったからでしょう。著名な飛行家リンドバーグは「ドイツ人はユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱いで同じ様な事を仕出かしたのである」と書いています。

 ドイツ人がユダヤ人に対し、酷い人種偏見を抱いて居たのと全く同じ様に、アメリカ人は日本人に対し、酷い人種偏見を抱いて居ました。もしこの人種偏見が無かったら、歴史は全く違った方向へ進んだことでしょう。しかし、当時は人種偏見の時代だったのです。
 大航海時代以降の四世紀に渉る白人支配・白人全能の歴史に、日本は只一国で立ち向かいました。白人は、この生意気な有色人種をどうしても許せませんでした。そして彼等は「オレンジ計画」を作成し、日本の都市を悉く空襲で焼き払い、原爆を二発落とす迄収まりませんでした。
 
 一方、日本は、当初から日本対白人の戦争をしようと思って居た訳ではありません。日本は最後の最後まで、欧米を相手とする国際協調に賭けていました。それは忍耐に忍耐を重ねたものです。しかしそれが破綻した時、日本は自存自衛の為に、白人相手に戦う事を辞さ無かったのです。








 東京裁判の偽善

 日米戦争は四年間続きました。前半は、日本の方が優勢でした。破竹の快進撃を続けたのです。しかし後半は、物量にものを云わせたアメリカが反撃の期を掴み、アメリカの優勢に転じました。やがて日本軍の各地での玉砕、特攻隊、広島・長崎への原爆投下等悲惨な事が続き、遂に日本が降伏。マッカーサー元帥と占領軍が日本の厚木基地に降り立ちました。
 マッカーサーは、日本の戦犯を裁く為に東京で軍事法廷を開きました。所謂「東京裁判」極東軍事裁判です。それは裁判とは云っても、実際は勝者が敗者を一方的に裁いた一種のリンチに過ぎませんでした。

 東京裁判は一種のリンチであり、負けた日本が一方的な悪である事を世界に印象付ける為のショーだった

 それは、勝ったアメリカが一方的な正義であり、負けた日本が一方的な悪である事を世界に印象付ける為の演出だったのです。一種のショーと言っても好いでしょう。このショーを通して、日本の戦時指導者は「戦犯」とされて処刑されました。
 この東京裁判、又それによって形成された「東京裁判史観」は、今も日本人に暗い影を落として居ます。この裁判は一体何だったのか、少しみてみましょう。

 過つてヨーロッパでは多くの戦争がありました。昔はヨーロッパでも、勝者が敗者に無茶苦茶な要求をしたり、敗者を容赦無く裁いて処刑したりする事が多くありました。しかし、ヤガテ啓蒙思想の時代に為ると、ヨーロッパの人々はそれを反省し、そう云うことは良く無いと云って余りしなく為ったのです。
 詰まりウェストファリア条約以降「勝敗はあっても、敵を悪いものとは決めつけ無い」と云う伝統が生まれました。その為第一次世界大戦が終わった時も、負けたドイツ皇帝ヴィルヘルム一世をどう裁くかと云う案は、ヨーロッパからは出ませんでした。

 当時アメリカは厳しく裁く事を求めましたが、ヨーロッパの人達は、勝者が敗者を裁く事は好くないと云って、結局その意見を通しました。事実、ヴィルヘルム一世は裁かれ無いまま、自分の親類の居るオランダで平和に余生を過ごす事が出来たのです。
 処が第二次世界大戦後に為ると、状況が一変しました。何しろアメリカが圧倒的に強かったので、全てにアメリカの意見が通る事と為ったのです。東京裁判に観られる様に、勝者が敗者を裁くと云うことが当然の様に行なわれました。

 アメリカは新しい国で、言わばヨーロッパの伝統を飛び越して出来た国です。ヨーロッパでは既に「勝者が敗者を裁くのは好くない」と云う観念に為っていたのに、アメリカはそのプロセスを経て居ないので、敵を悪魔同然に扱いました。
 東京裁判においても、その様な認識の下に日本人を裁いたのです。そして東京裁判が行なわれて居る間中、占領軍が作った「真相はこうだ」「真相箱」と云うラジオ番組が毎日、引切り無しに日本国民に向かって流され続けました。
 
 それはアメリカのして来たことは一方的な正義であり、日本のして来たことは一方的な悪だったとする内容です。アメリカ人の歴史観を日本人に吹き込み、巧みに日本人を洗脳する番組でした。日本の国民が悪いのでは無い。軍部が悪かったのだ。アメリカは日本を救って呉れた、アメリカが自由と民主主義を呉れた、といったぷロパガンダ(政治宣伝)です。
 この番組は、NHKが作った様に偽装されて居ましたが、作ったのは占領軍でした。それが三年間も、毎日ゴールデンタイムに流され続けたのです。当時の日本人は敗戦で何もかも失い呆然とした状況でしたし、厳しい情報統制下にありましたから多くの者が「そうだったのか」と思みました。

 これは占領軍の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム・戦争犯罪意識を植えつける洗脳計画」に基づいて作られたものなのです。又このプログラムにより占領軍は、日本人に与える情報や、出版物、教育等を厳しく制限し統制しました。こうして、今日の日本に観られる様な「明治以降の日本の歴史は侵略の歴史だった」と云う、日本を悪者とする歴史観が形成されて行きました。これが、今日の日本人の自虐史観の源なのです。

 私達は洗脳されて居た

 この様に、それは押し着けられた歴史観でした。私達は洗脳されて居たのです。しかし戦後50年、或は60年経って、要約日本の真実の歴史が語られる様に為りました。私達は今コソ東京裁判史観の呪縛から解き放たれ、父母や祖父母の時代の歴史を、もう一度学び直す必要があります。
 
 日米戦争に付いて観るなら、アメリカが一方的に正義だったと云うのは全く有り得無いことです。何故なら、国際法に乗っ取って裁くなら、民間人を殺した罪が一番重いからです。アメリカは日本の各都市への無差別爆撃で、民間人計約60万人を殺しました
 その遣り方は、先ず直径5〜6キロの周辺を焼夷弾で焼き払い、人々の逃げ道を断って、それから内側に無数の爆弾を雨霰と落とすものでした。それは始めから民間人の虐殺を目的としたものだったのです。史上空前のホロコーストでした。
 又アメリカは、原爆で、民間人計約30万人を殺しました。原爆は一発はウラン型爆弾、一発はプルトニウム型爆弾でした。アメリカは持った以上、使ってみたかった。それで日本人を相手に人体実験を行なったのです。

 アメリカは既に日本が降伏する意志を持って居ることを知りながら「戦争を終わらせる為」と称して原爆を落とし、民間人の大量虐殺を行なった

 実は当時既に、日本は降伏する事を決めて居ました。和平の仲介を既にソ連に願い出ていたりです。アメリカ側も、その情報を掴んでいました。処がアメリカは「これ以上アメリカ人兵士の死者を出さ無い為」と言い訳を付けて、日本で原爆による殺戮を行なったのです。
 詰まり、原爆を落とさ無くても日本はもう降伏すると知っていながら「それを落とさ無いと戦争は終割らない」と米国民に説明して、原爆を落としたのです。

 又、原爆を使った背景には、戦後の体制を見据えて「アメリカにはこんな凄い武器があるぞ」と云うことを、ソ連に見せ着けて置く狙いもあったのです。近代戦において、これ程多くの民間人を組織的に、且つ、躊躇いも無く殺した国があったでしょうか。国際法から云えば、アメリカは最も裁かれるべき存在である筈です。しかし、裁かれて居ません。
 
 勝者が敗者を裁いた東京裁判がいかに茶番であるか、それを考えただけでも判ると云うものです。アメリカは中国への野望を抱き、その為に、黄色人種の大国に成長して居た日本を何時かは叩か無ければ為らないと思って居ました。
 ヤガテ排日移民法による日本人移民の締め出し、中国での排日運動の扇動、蒋介石へのアカラサマナ軍事援助、ABCD包囲網、石油輸出禁止等を行ない、最後にはハル・ノートで挑発して、日本を戦争へと向かわせました。アノ戦争でアメリカの何処に「正義」があったのでしょうか。

 一方、日本が戦ったのは自衛の為でした。そして欧米列強によるアジアの全植民地化を防ぎ、アジア諸国を独立させると云う「正義」がありました。単に日本を悪者とするだけの歴史観は、歴史への冒涜と云うものです。そして日本人を骨抜きにしてしまうものです。私達は、日本人としてのアイデンティティ(自分は何者か)を回復する必要があります。それには公平で真実な歴史観に立つ必要があるのです。








 朝鮮戦争を通してマッカーサーが知ったこと
 
 サテ、戦争直後の7年間、日本はアメリカ占領軍の支配下に置かれ独立を奪われました。7年間、日本に主権は無かったのです。主権が無かったと云うことは、日本と云う独立国家が無かったことでもあります。
 占領軍は当初、日本を二度と戦争に向かわせ無いようにする為、日本の産業を農業と軽工業位に限る政策を執りました。重工業を遣らせず農業国家にする積りだったのです。戦車や戦艦、武器を作られたら困るからです。
 
 処が、ヤガテ1950年、朝鮮戦争が勃発しました。北朝鮮軍が韓国を侵略したのです。その北朝鮮軍を援助して居たのがソ連と中国でした。

 朝鮮戦争でマッカーサーは、日本から見た共産軍の脅威と云うものを初めて肌で感じた

 この時、マッカーサー元帥は初めて、日本から観た共産軍の脅威と云うものがどんなものかを肌で感じる様に為ります。朝鮮半島が共産化してしまったら次は日本です。朝鮮半島は、丁度日本列島の脇腹にナイフを突き刺す様な形で存在して居ます。そこにソ連や中共が居座ってしまったら、日本も共産化されてしまうのは、最早時間の問題です。
 マッカーサーは、アメリカ軍を組織し直し、直ぐ朝鮮半島に飛んで、韓国から共産軍を追い出しに掛かります。彼はソコで必死に戦いますが、結局、日米戦争時以上のアメリカ人死傷者を出してしまいます。戦闘は一進一退を繰り返し、要約三年後に共産軍を北緯三八度線迄追い返した処で休戦と為りました。

 この戦争が始まった時、アメリカは日本に対する政策を改めたのです。アメリカは急いでサンフランシスコ講和条約を結び日本を独立させました。そして日本の重工業をも許し、朝鮮戦争に必要な様々な物資の供給基地として、日本の産業を援助・育成しました。これが朝鮮戦争特需と云われるものです。これによって日本の産業と経済は、復興の契機を掴みました。
 何故マッカーサーは、朝鮮戦争で、あれ程の苦労をし無ければ為らなかったのでしょうか。それは敵の北朝鮮軍と共にソ連軍や中共軍が居たからです。
 
 マッカーサーは、この朝鮮戦争を戦った時、過つて日本が何故あれ程朝鮮半島や満州に拘ったか、と云う理由をハッキリ理解しました。朝鮮と満州は、日本に取って共産軍から身を守る為の最後の防波堤だったのです。マッカーサーは日本を統治し、その後朝鮮戦争を戦って共産軍の脅威に直面して初めて、日本の立場というものをハッキリ理解しました。
 それで、マッカーサーは朝鮮戦争中の1951年、演説の中で日本の自衛権を強調して居ます。彼は日本を独立させ、その独立した日本が再武装する必要性を説きました。又、共産軍の圧倒的な力に直面した彼は、共産軍を叩く為に満州に原爆攻撃を加える許可をアメリカ大統領に求めて居ます。

 しかし、再び世界戦争に拡大する事を恐れたアメリカ大統領トルーマンは、この要求を拒否しマッカーサーを解任しました。帰国したマッカーサーは、アメリカ上院議会で、日本に付いての証言を求められました。過つての日本の戦争に付いてどう思うかと聞かれた彼は、日本が中国大陸に進出したのは侵略戦争では無かった、自衛の為の戦争だったと言いました。
 これは、朝鮮戦争を通して北からの脅威が骨身に沁みたマッカーサーの、実感から出た言葉だったのです。マッカーサーは過つて、日本を侵略戦争を行なった悪者と決め着け、東京裁判を開き「平和に対する罪」で日本を断罪した人物です。しかし、ヤガテ日本統治を通して日本の立場に立ち、又朝鮮戦争を経験した時、過つての日本の戦争は自衛戦争だった事をハッキリと理解したのです。

 アメリカの見込み違い

 アメリカは中国に市場を求め、中国を自分側に着けたいと思って、日本と戦争をしました。アメリカは当時、中国は「第二の西部」だと云う強い思い入れを持って居たのです。中国は西欧諸国や日本の進出により滅茶苦茶に為っているけれども、本来は成熟した国であり、良いパートナーに為れると思って居たのがアメリカでした。
 この思い込に従い、アメリカは国民党の蒋介石をズッと助けて来ました。蒋介石はキリスト教徒を演じていましたし、アメリカ世論への訴え方の上手い人でした。しかし結局、アメリカは蒋介石を助けた事により、大きく国益を損じたのです。

 客観的に観るなら、日本の方が歴史的にもキチンと選挙をして議会も運営して居ました。処がアメリカは、権力欲の塊に過ぎない蒋介石を、民主的な指導者と思い込んでしまったのです。これがアメリカの大きな見込み違いでした。
 アメリカは蒋介石に、金でも武器でも食糧でも大量に注ぎ込んで助けました。しかしそれ等は、全て蒋介石の軍隊に食い物にされて居たことは有名です。その挙句、日本が退却した後、蒋介石は毛沢東と戦って直ぐに負け台湾に逃げてしまいました。

 以後、共産党に支配された中国は、皮肉な事にソ連と組んでアメリカに敵対する様に為ったのです。更に、その後アメリカは、朝鮮戦争の時に中国と戦う事に為ってしまいました。これはアメリカに取ってみれば、非常なショックだったでしょう。中国が敵と為って立ちハダカッタのですから。
 アメリカは、過つて日本さえ遣っ付ければ中国を好きな様に出来ると思って、莫大な金と軍隊を注ぎ込み、日米戦争迄遣ったのです。処が、騙された当てが外れた、と云う気持ちだったでしょう。アメリカは日米戦争を戦って、何の得もして居ないのです。

 その後、要約これに気付いたアメリカは、日本を大切な同盟国と考える様に為りました。アジアで責任と信頼をもって付き合えるのは誰かと、ふと考えたら、それは日本ではないか、と云うことに為ったのです。迷惑な話です。もう少し早く気付いて呉れれば良かったのにと思います。明治以来、日本側にはその用意はあったのですから。アメリカが蒋介石を助けたりし無ければ、日本側も、アメリカを敵視する事は無かったのです。
 又アメリカに取って、ソ連を友としたことも、大きな見込み違いでした。アメリカは日本を敵視し、日本を潰す為の戦いにソ連を仲間として引き入れました。アメリカは当初、共産主義に対して極めて寛容で、その為に後でそのツケを払う嵌めになったのです。

 アメリカは、真の敵が誰かを見誤ったのです。本当はアメリカにとって、日本よりもソ連のほうが脅威だったはずです。大東亜戦争後の朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも、背後にはソ連がいました。そしてアメリカは、そのソ連の存在に長く苦しめられることになったのです。





 

 「本当に勝ったのは日本」

 日本は過つて大東亜戦争で、アメリカを初めとする連合国と戦い、負け、結局、何もかも失いました。戦争なんてバカなことをしたからだと思う人も居るでしょう。しかし、アノ弱肉強食の植民地時代、残酷極まりない西欧列強が犇めく時代にあって、果たして本当に戦争が回避出来たでしょうか。
 幾つか歴史の大きな分かれ目はありました。けれども結局、歴史は戦争へと向かって行きました。それが「歴史の必然」だったと云うべきでしょう。但し、日本の戦争は悪いことばかりだったのではありません。
 P・F・ドラッカーと云う思想家が、日本は物理的には負けたが、本当に勝ったのは日本であると云った意味のことを言って居ます。

           1-18-12.jpg  P・F・ドラッカー 

 本当に勝ったのは日本である・・・どう云うことでしょうか。それは、この戦争で日本が戦ったことによって、それ迄西欧諸国が築き挙げて来た人種差別世界が打ち砕かれたからです。
 アノ戦争以前、アジアで近代的な独立国家として歩んで居たのは日本だけでした。後は観な、西欧諸国の植民地と化して居たのです。それは戦争前の地図をみたら一目瞭然です。アジアは何処も彼処も西欧の植民地で、白人が黄色人種を支配し搾取していました。
 
 その為、アジアは益々貧しく為り、西欧諸国は益々富んで行きました。アジア人は白人にペコペコして、召使いの様に為って仕えて居ました。アジア人は自分の国に居ながら、権利を制限され苛酷な人種差別の下で暮らしていました。
 しかしその時日本が、それ等の植民地に居る西欧諸国の軍隊を次々に追い出して行ったのです。そして、日本がアジア諸国に育んだ独立への意志は、その後日本が敗戦を迎えた後も、確実に育って行きました。日本の敗戦後、西欧諸国は再びアジアに来て、植民地化しようとしました。処がアジア人はもう、彼等の言い為りには為りませんでした。彼等は戦後、次々に独立して行ったのです。

 結局、大東亜戦争によって、西欧諸国は植民地を全て失なっただけで終わったのです。一方、日本は戦闘には負けましたが、アジア諸国を西欧から独立させると云う目的を果たしました。
 戦争に勝ったか負けたかは、戦争目的を達成したかどうかで決まる、とはクラウゼヴィッツの戦争論です。日本の戦争は、人種差別世界を叩き潰すと云う目的、又自存自衛の目的を果たしました。その意味で、日本こそ勝ったのです。
 
 これは私達が誇りにして好い事です。タイの元・首相ククリッド・プラモードは、新聞にこんな一文を載せています。
 
 「日本のお陰で、アジアの諸国は全て独立した。日本と云うお母さんは難産して母体を損なったが、生まれた子供はスクスクと育って居る。今日、東南アジアの諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話が出来るのは、一体誰のお陰であるか。それは身を殺して仁を為した日本と云うお母さんがあった為である」

 日本の捨て身の一撃が、人種差別世界を叩き潰したのです。大東亜戦争は、大航海時代以来の欧米諸国によるアジア・アフリカ収奪の歴史に終止符を打ちました。これは、幾ら評価しても評価し切れないほど、大きな事柄です。人類史上、画期的な出来事といって好いのです。歴史学者H・G・ウェルズも述べて居ます。
 
 「この戦争は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石を置いた」
 
 その主役を果たしたのが日本でした。アノ空前のスケールの戦争だった大東亜戦争の意義が、此処にあります。戦争は、無いに越したことはありません。しかし、もしアノ戦争が無かったなら、今もってアジア諸国は西欧の植民地であり続けたでしょう。黄色人種は白人の召使いの様に、ペコペコして居なければ為らなかったでしょう。
 西欧はアジアからの搾取によって益々富み、アジアは益々貧しく放置されて居たに違いありません。しかし日本の戦争が、その歴史の流れを変えたのです。これは神の配剤でしょう。


              久保有政著   以上









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日本近代史 日米戦争は何故起きたか 久保有政著 −1

 

 日本近代史 久保有政著 −1


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                著者 久保有政氏

 
 日米戦争は何故起きたか 


 1 大東亜戦争への道

 〜アメリカは、自分の真の敵が誰かを見誤った 日本が自衛戦争に出ざるを得なかった理由とは〜

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 ダグラス・マッカーサー元帥、彼は戦後、日本の戦争は「自衛戦争だった」と証言した。1941年の日本による真珠湾攻撃から、1945年の終戦に至るまで、日本とアメリカは戦争を交えました。それ以前の日本とアメリカは、一時は兄弟の様に良好な関係を持って居た時期もあります。にも関わらず両者は戦争を交えました。これに付いて「この戦争は日本の侵略的態度に対し、アメリカが懲罰に出たもの」とする、所謂自虐史観が広く語られて来ました。日本を一方的な悪として、アメリカを一方的な正義とする歴史観です。

 しかし、これはアメリカが戦後、自分の戦争を正当化する為に唱えた歴史観であり、客観的に観れば決してその様なものでは無かったのです。日米戦争の責任は、アメリカと日本の双方にありました。両者は、中国で利害が対立したのです。
 アメリカは、自国の経済圏から日本を閉め出す一方で、中国においてアメリカの割り込みを執拗に求めました。その為に中国に進出して居た日本とブツカリ合ったのです。日米は何故戦争をし無ければ為らなかったのか。その本当の歴史を観てみましょう。

 日本の戦争は自衛戦争だったと証言したマッカーサー

 日米戦争においてアメリカ軍を率いて日本と戦ったのは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥でした。マッカーサーは日米戦争終結から6年後の1951年5月3日、アメリカ上院の委員会で、過つての日本の戦争に付いてこう証言しました。
 
 「日本が戦争に飛び込んで行ったのは、主に自衛・security=安全保障の必要に駆られての事だったのです」

 マッカーサーは、過つての日本の戦争に付いて振り返り、日本は戦いたくて戦った訳では無い。またそれは侵略戦争でも無く、寧ろ「自衛の為だった」と証言したのです。今日も、左翼や「反日的日本人」が「過つての日本の戦争は侵略戦争であった」と言って居ます。しかし、過つて日本と戦った当のマッカーサー本人が「日本の戦争は自衛戦争であった」と言って居るのですから、これは大変注目に値します。

 或る日本の地方議会で、議員のひとりが「過つての日本の戦争は自衛戦争だった」と言いました。すると他の議員達から「何をバカなことを言って居るのか、侵略戦争だろう」と野次が飛びました。その時彼は、マッカーサーの証言を正確に英語で引用し、黒板に書いて説明を加えて言いました。
 「日本と戦った当のマッカーサー自身が、日本の戦争は自衛戦争だったと言って居るのです」 こう言うと、議会はシーンと静まり帰り、最早野次は消え失せたそうです。日本は何故この「自衛戦争」に出無ければ為らなかったのでしょうか。それには次に観る様に、幾つかの要因がありました。

 西へ、西へと進んだアメリカ
 
 アメリカは、西部開拓史に観られる様に「西へ、西へ」の開拓によって大きく為って行った国です。アメリカは、初めはあの様に大きな国ではありませんでした。テキサス州等も、元はメキシコの領土でした。しかし「リメンバー・アラモ砦!」を合い言葉にメキシコと戦争をし、テキサスを初め西部の広大な土地を手に入れたのです。
 彼等は又土着民のインディアン達を殺しながら開拓を続け、そのインディアン達との戦争は25年間続きました。合衆国の司令官たちは「インディアンを絶滅すべし」と発言、容赦無い絶滅作戦が展開されました。
 女・子供も虐殺、生活環境を破壊し尽くし、インディアンの数が激減した処で、インディアンの組織的反抗は1890年に終結しました。

 しかし、アメリカ人の「西へ、西へ」の侵出欲は収まらず、遂に海を越えたのです。1898年、アメリカの戦艦メイン号が撃沈された事件が起きました。アメリカはそれを契機に、スペインとの戦争を始めました。合い言葉は「リメンバー・メイン号!」アメリカはこの戦争に勝利し、短期間でキューバ、フィリピン、プエルトリコ、グアムを手に入れました。
 メイン号爆破は、スペインの仕業と宣伝されました。しかし、その真相は100年経った今も不明です。当時、スペインは事件の調査を約束し、戦争を避け様と極限迄譲歩を重ねて居ました。けれどもアメリカは、有無を言わせず開戦に踏み切ったのです。

 「リメンバー・アラモ砦!」「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」アメリカの戦争は何時も「リメンバー!」でした。アメリカは不思議な国で、戦争の際には、何時も都合好く敵国からの攻撃があり「リメンバー!」の合い言葉で国民世論がマトマって開戦に至るのです。

 日本軍による真珠湾攻撃 1941年

 「リメンバー・アラモ砦!」「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」ア メリカの戦争は何時も「リメンバー!」だった。戦争はスペイン領だったフィリピンでも行なわれました。アメリカは現地の独立運動を利用して戦いながら「独立」の約束を破り領有化しました。フィリピン人はアメリカに対し独立運動を起こします。しかし弾圧され、推定二万人が殺害され、又破壊に伴う飢餓と病気で20万人が死にました。
 
 フィリピンを手に入れたアメリカは、フィリピン人に対し英語を公用語とし徹底的な洗脳政策を開始。知的な者程率先してフィリピン古来の文化を捨て、積極的にアメリカ化して行きました。同じ年、アメリカはハワイも武力で脅迫して併合しアメリカ領としました。こうしてアメリカは、日本の目と鼻の先迄遣って来たのです。

 当時のアメリカ人は、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化する事によって文明をもたらす事を、神から与えられた「明白なる天意」(マニフェスト・デスティニィ)と称して居ました。メキシコ、ハワイ、グアム、フィリピンと領土拡張を進めたアメリカの西進は、この「明白なる天意」のスローガンの下に行なわれました。それは、傲(ごう)れる白人の支配欲と欲得を正当化する為のスローガンだったのです。








 「門戸開放」の利己的目的

 此処まで来ると、中国大陸は直ぐそこでした。アメリカは遂に中国大陸を目指しますが、当時既に中国大陸ではヨーロッパ諸国の分捕り合戦が進んでいました。突け入る隙が無い。それでアメリカは1899年に「中国の門戸開放、機会均等」を主張します。要するに「私も入れて呉れ」と云うことです。一見、理想主義的で、ご尤もな意見ですが、その裏には利己的な欲望が隠されて居ました。
 
 アメリカは自分の勢力圏であるプエルトリコ、フィリピン等の「門戸開放」は絶対に主張しません。更に、1929年以降の大恐慌以後は、アメリカは自由貿易を捨ててブロック経済に入り、自分の経済圏から他国を閉め出しました。
 即ち、自分の経済圏からは他国を閉め出して閉鎖主義を執る一方、中国には門戸開放を求めると云う、完全なダブル・スタンダードだったのです。それは自分の利益にだけ為ることを求めたものでした。又、当時の中国は酷い内戦状態にありました。ヨーロッパ各国は租界の治安を守り、貿易を続ける為に、既に莫大な労力と資金を費やして居ました。日本も中国に合法的な特殊権益を持って居ました。

 当時、内戦と匪賊(ひぞく)の横行する中国では「門戸開放」等非現実的なことであり「門戸開放」で得をするのはアメリカだけだったのです。アメリカは労せずに権益を手に入れようと躍起に為っていました。処が厄介なことに、アメリカ人はこれを利己的な戦略では無く「公平で理想的な行為」と信じ込んで居ました。又、自分達は欧州人の様な覇権主義者では無いとすら思っていました。
 アメリカは過去に、メキシコやスペインとの戦争を通して領土を拡大して来たのに、そう云う自国の歴史を都合良く忘れて居たのです。

 アメリカは「門戸開放」「公平な権利」の主張を自画自賛、現実には何の意味も無いその主張を各国に執拗に求めました。このアメリカの態度に、ヨーロッパ各国は内心苦笑しつつ「ええ賛成ですよ」と言いながら実行はしないと云う対応を取るばかりでした。
 アメリカはこの「門戸開放」を、その後実に40年間に渉って繰り返し唱え続けます。そしてこれが、中国大陸における日米の対立の火種と為って行ったのです。  

 ロシアの脅威と日露戦争
 
 サテ、この東アジアを我がものにしようと虎視眈々と機会を狙っている、もう一つの国がありました。ロシアです。ロシアは、既に広大なユーラシア大陸に次々と領土を広げ、更に東アジアも狙っていました。ロシアは欧米諸国以上に侵略欲の強い国でした。
 日清戦争・1894年後、清国に勝利した日本は、清国との条約により遼東半島と台湾を譲り受けました。処がロシアは、その時ドイツ、フランスを引き連れた「三国干渉」により日本に圧力を掛けて来て「遼東(りょうとう)半島を清国に返せ」と脅して来ます。

 日本には当時、その圧力を跳ね返すだけの力はありませんでした。それで日本は苦渋を飲み、遼東半島を清国に返還します。「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)と云う言葉が生まれたのもこの頃です。
 ロシアは清国に「サア遼東半島を返して挙げた。その報酬を呉れ」と云って、清国から次々に権益を貰います。更にロシアは、何と清国に返還させたその遼東半島に自分が居座ってしまったのです!ロシアはそんな酷いことを公然と行なう国でした。

 ロシアは南下政策を推し進め、満州地域を占領し、更に朝鮮へ干渉し始めました。「これでは次は日本が危ない」と、日本は危機感を募らせます。こうして日本とロシアの間に「日露戦争」一九〇四年が勃発したのです。日本は日露戦争に勝利しました。それはギリギリの勝利・辛勝でしたが、初めて有色人種が白人に勝ったという世界史上の大事件でした。
 日露戦争後、日本はロシアとの講和条約により、樺太の南半分や遼東(リャントン)半島、又南満州鉄道を譲り受けました。南満州鉄道とは、ロシアが満州を支配する為に敷いた東清鉄道の南半分です。日本はこの鉄道を経営する事に為りました。

 当時の世界では、強い国が他国の経済的な特権を持つ事が認められていました。日本もこの権利を持つことに為ったのです。鉄道は経済発展の重要な基礎ですから、日本はこの権利を得た事を喜びます。しかし、日露戦争で膨大な戦費を使い果たしてしまった日本には、この鉄道を経営する資金の見通しが立ちません。そうした中、アメリカの大実業家ハリマンが来日し、日本政府に「資金を提供するので、南満州鉄道をアメリカと日本で共同経営しよう」と持ちかけました。
 ハリマンは「鉄道王」と呼ばれた人で、大きな鉄道会社を経営し世界的に有名でした。この提案に対し、桂太郎首相や、元老・井上馨、その他政財界の多くの人々は賛成し、近く協定を結ぶと仮約束しました。

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 鉄道王エドワード・ハリマン

 井上馨等は、それは日本の防衛の為にも良いと考えて居ました。と云うのは、日本は侵略的なロシアの進出を阻止の為に日露戦争を戦ったのですが、日本一国では満州を守ることは出来ないでしょう。そこにアメリカが入って来れば防衛は強固なものと為ると考えたからです。
 しかし、この時外務大臣の小村寿太郎(じゅたろう)は、講話会談の為、未だアメリカに居たので日本に居ませんでした。彼は帰国してこの話を聞くと「飛んでも無い事だ」と言って猛反対したのです。理由は「莫大な戦費を使い、数十万の兵士の血を流して手に入れた権利を、外国に売り渡す真似は出来ないし、講和条約の趣旨にも反する」と云うものです。

 確かに、満州における権利は日本人の多大な犠牲を払って獲得したものであり、一方、アメリカはそれを労せずして手に入れる事になります。結局、小村の意見が通り、日本はハリマン提案を拒否しました。南満州鉄道は日本だけで経営する事に為ったのです。
 しかし、以来アメリカ人の多くは「日本は満州を独り占めしようとしている」と不快感を持つ様に為りました。アメリカには、鉄道は領土獲得の基礎と云う考えが強くあったのです。鉄道が敷かれる処、自分達の領土が広がると云う考えです。この為ハリマン提案の挫折は、アメリカ人に深い失望をもたらしました。

 この出来事も又、歴史の大きな分かれ目でした。この時から36年後、日本とアメリカは戦争をしますが、もしこの時満州の鉄道を日本とアメリカが共同経営して居れば、日米は協調路線を取り、日米戦争は無かっただろうと云う見方もあります。









 日米戦争は避けられたか

 確かに、満州の鉄道を共同経営して居れば、その後の歴史は全く違った方向へ向かったことは間違いありません。日米は同じ利害を持ったからです。もし日米の政治家が道を誤らず、上手く協調路線を歩んだ為らば、日米戦争は無かったかも知れません。
 けれども、本当に日米戦争が無かったかどうかは、結局、想像の域を出ない事です。と云うのは、当時のアメリカは今のアメリカでは無かったからです。当時のアメリカは、今日の様な様々な人種の融合した社会では無く、人種差別的観念の極めて強い国家でした。

 アメリカは元々、インディアンに対する虐殺で始まった国です。又その後も、近代に至る迄大規模な黒人奴隷制が存在しました。黒人奴隷はリンカーンの時代に解放されたものの、人種差別は国内に根強く残って居たのです。
 当時のアメリカ国内の人種差別は酷い状態でした。レストランも、トイレも、バスも、学校も、公共施設は皆「白人用」と「有色人種用」に分けられて居ました。アジア人種に対する迫害も、既に1800年代から始まって居ました。アメリカ西海岸では、ヒステリックな中国人移民排斥運動が起き虐殺事件も発生しました。その後、矛先は日本人に対して向けられたのです。

 日本人移民に対する迫害も、既に1800年代に始まって居ました。勤勉な日本人移民が成功を収めるのを見て、アメリカ人の中には嫉妬と憎悪に燃える者も多く居ました。同時に、白人のロシアを破った民族として、恐怖心をも持ったのです。
 当時の多くのアメリカ人に取って、日本人とは得体の知れ無いエイリアンの様な存在に映りました。そして「日本人は油断なら無い」「日本を潰すべきだ」と云う観念が、アメリカで広まって行ったのです。所謂「黄禍論」です。特に日本人移民の多かったカリフォルニアでは、駅やトイレ・街角には「ジャップは消えろ」「ジャップを焼き殺せ」の殴り書きが見られました。散髪屋に入ると「動物の散髪はしない」と断られ、不動産屋に入ると「日本人が住んだら地価が下がる」と断られる。

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 黄禍論の台頭により、1886年、英国商船の海難事故で乗船して居た日本人が救助されずに死亡した。ノルマン トン号船長曰く「助けて貰いたいなら、何ドル出す? 早く言え、時は金なり」日本人は、B級映画、小説、漫画の格好のネタと為りました。そして、ドギツイ邪悪なイメージばかりが大衆に強烈に植え着けられて行ったのです。
 又「新聞王ハースト」と呼ばれる男は、連日、何の根拠も無い日本脅威論を書き立てました。ハーストは「新聞の売上げを増やす為なら、国を戦争に追い込む事も辞さ無い」と言われた人物で、総人口の0.1%しか居ない日本人が恰もアメリカを征服するかの様に書き、世論を煽りました。

 更に、日露戦争直後の1906年、サンフランシスコで大地震が起きたのですが、その時排日暴動が起き、日本人移民が暴行・略奪を受けました。日本からは、震災の復興の為にと、50万円(現在の十数億円相当)もの見舞金がアメリカに送られました。処が感謝の言葉も無いばかりか、日本人移民の子はその資金で再建された校舎には入れず、ボロ小屋の様な校舎に隔離教育されたのです。
 更にその後アメリカは、感情的で差別心剥き出しの「排日移民法」を成立させてしまいます。日本人移民の総数は、一ヶ月当たりのヨーロッパ系移民よりも少なかったにも関わらず、日本人移民は土地所有も帰化も認められず、権利を剥奪され新たな移民も完全にストップしました。  
 この排日移民法は、日本国民の感情を痛く傷着けました。この様な人種偏見の強かった当時のアメリカと、日本が、本当に満州で仲良く対等に遣って行けただろうかと云うと、可成りの疑問が残る訳です。

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 日本を敵視したオレンジ計画

 この様にアメリカが、日本人を国内から締め出しても、日本はアメリカとの戦争は全く考えて居ませんでした。アメリカとは仲良く遣って行きたかったのです。日本が最も脅威と感じていたのはロシアでした。アメリカではありませんでした。しかしアメリカの方は、ロシアの脅威を全く気にせず、只日本と云うライバル国家を潰したいと思って居ました。
 アメリカは日露戦争直後の1906年に「オレンジ計画」為る作戦を立案して居ます。色々な国を色別して、日本はオレンジだったのですが、これは長期的な日本制圧プランでした。日本を第一の仮想敵国と見做し、戦争準備に着手した計画だったのです。

 オレンジ計画は年々改訂され、最終的にはナンと、日本の本土を無差別に焼き払って占領する事迄盛り込まれて居ました。これは日本人の大量虐殺を意味します。アメリカはその様な計画を、ヒトラーのナチス・ドイツに対しても、共産主義のソ連に対しても立てた事はありません。白人国家に対しては決して立て無かった。只黄色人種の日本に対してだけ立てたのです。
 この計画は「何れ日本を叩き潰すぞ」と云う計画でした。1945年の大東亜戦争終結に至る迄のアメリカの行動は全て、このオレンジ計画に基づいて遂行されたものでした。

 大東亜戦争末期に、アメリカ軍は日本の本土爆撃を為し、各都市を焼け野原として民間人約60万人を虐殺しました。兵士では無い民間人を殺す事は明確な国際法違反です。しかし、それさえも全て、元はと云えばオレンジ計画に盛り込まれて居たことなのです。
 何故アメリカが、日露戦争直後と云う非常に早い段階に、日本に対してこれ程強硬な姿勢を持ったのか。当時は未だ日中戦争さえも始まって居ない時代です。その根底に見えるのは矢張り「アジアに白人が進出するのはOKだが、黄色人種の日本が出シャバルのは許せ無い」と云う、アメリカの人種差別意識なのです。アジアに対するイギリスの進出はOK、ドイツも、フランスも、ロシアもOK、しかし日本はダメと云う対抗意識です。

 その意識が「オレンジ計画」と為ってマトマりました。当時のアメリカには「日本人の大脳は、欧米人の灰白色より白い。原始的なママで、思考力は劣る」と言って退ける人類学者も居た程です。この様に「何故日本なのか」と云うことを考える時、矢張りその根底に人種偏見があったと言わざるを得ません。日米戦争の根深い原因が、ソコにあったのです。

 オレンジ計画が作成された時から、アメリカの日本に対する執拗な嫌がらせと、挑発が始まりました。アメリカは先ず満洲と中国への介入の為に、中国の抗日運動を煽り立てます。それは日本を深く悩ませるものでした。日本政府は1923年の国防方針書に「米国は・・・経済的侵略政策を遂行し、特に支那(中国)に対するその経営施設は、悪辣な排日宣伝と共に、日本が国運を掛け幾多の犠牲を払って獲得した地位を脅かして居る」(現代語訳)と記し、中国におけるアメリカの「悪辣な排日活動」を憂えて居ます。後に日中戦争が泥沼化した背景には、アメリカによる中国の抗日運動の扇動があったのです。

 アメリカは日本叩きの為に、中国の混乱を利用して居ました。又日中戦争が始まった時、アメリカは中立を捨て、蒋介石の軍隊へのアカラサマナ支援もして行きました。やがてアメリカは日英同盟を解消させ、日本への石油禁輸、ABCD包囲網等、日本への挑発を続けました。更に、最終的に日本に「ハル・ノート」を付き付け、遂に直接的な武力衝突へと誘い込んで行ったのです。








 アメリカは領土を広げる度に、星条旗の星の数を増やして来た。その領土獲得欲は更にアジアに向けられ、次のターゲットは中国だった。しかしそこに立ちハダカッタのが日本だった。
 
 大東亜戦争は人種戦争だった

 日米戦争・大東亜戦争とは何か。それは根本的に「人種間闘争」「人種戦争」でした。又、傲れる白人支配に終焉をもたらす為の戦争でもあったのです。アメリカと日本の行動をもう少し詳しく観てみましょう。

 日本は第一次世界大戦後、国際連盟に「人種差別撤廃法案」を提出します。それは白人の黄色人種に対する差別に苦しんで居た日本に取って、極めて重要な意味を持って居ました。当時の日本は世界の五大国の一つであり、唯一の黄色人種の国家でした。
 日本の非常な努力の結果、この画期的な法案には、多くの国々が賛成しました。処が、議長であったアメリカ大統領ウィルソンが発した鶴の一声「この提案は全会一致で無ければ可決すべきで無い」で結局、否決されてしまったのです。国内で人種差別をして居たアメリカは、人種差別撤廃法案を断じて認める訳にはいか無かったのです。

 この様に世界で初めて「人種平等」を国際舞台の場で提唱したのが日本であり、それを力づくで潰したのが、アメリカやイギリスでした。ウィルソンは、「民族自決」を唱えた大統領として知られて居ます。しかしそれは飽く迄欧州の民族に関してだけで、アジアやアフリカの民族等眼中に無かったのです。全ては白人支配の存続と、自国の利益を狙ったものでした。
 アメリカとしては、黄色人種と対等に付き合って行く積りは毛頭無かったのです。日本は、この様に人種偏見の渦巻く欧米諸国を相手に渡り合って行か無ければ為らなかったのです。それがどれ程大変な事だったか。
 
 日本は第一次世界大戦に参加した結果、ドイツ領だった南洋諸島(マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、カロリン諸島など)を統治する事に為りました。
 そこには日本統治により、やがて学校や病院が立てられ、ミクロネシア人の半数以上が初めて実用的な読み書きが出来る様に為りました。住民全員に予防接種も実施され、漁業、農業、鉱業、商業が振興され、製糖業も目覚ましく発展して、住民の生活水準は著しく向上しました。
 
 人々の多くは今も親日的で、パラオでは八割の人が名前の一部に日本名を着けて居ます。又パラオの国旗が日の丸に似て居るのも親日感情の表れです。第二次世界大戦後、この地域はアメリカの統治下に移されました。しかしアメリカは、この地域を水爆の実験場程度にしか扱いませんでした。
 又アメリカ人が、二宮金次郎像を引きずり下ろし、南洋神社を取り壊した事は、現地の人々に取って耐え難い行為だったと云います。この南洋諸島は、グアム島の東隣りに位置します。グアムはアメリカ領、一方の南洋諸島は日本領の直ぐ隣り合わせでした。しかもグアムとアメリカ本土の間に、日本領が入った形です。アメリカは密かに、この邪魔者・日本への敵意を燃やしました。

 共産主義に無頓着だったアメリカ
 
 アメリカはこの様に日本に対してライバル意識を持つ一方、共産主義の拡大には全く無頓着でした。1923年〜1924年に掛けて、既に共産化して居たソ連は、外蒙及び烏梁海(ウリヤンハイ・蒙古西方辺境)の地域を、卑怯な手を使って侵略しそこを共産化してしまいました。
 この時アメリカはどうしたかと云うと、その恐るべき意味を理解せず、一言の批判も加え無かったのです。又アメリカは、共産主義の侵略・拡大に対し何の措置も取りませんでした。アメリカに取っては、それは白人同胞のした事であって、所詮は対岸の火事にしか思え無かったからです。

 当時、共産主義の拡大の脅威を本当に認識していたのは、アジアで只一人日本だけでした。共産主義の拡大がヤガテ世界とアジアを危機に陥れる事を、日本は充分認識しその拡大に対抗して居たのです。処が、アメリカはその日本を、殊更に敵視し叩こうとしました。そこには、日本はアメリカの中国進出の障害だと見る利己的理由があったからです。
 世界情勢をもっと大局的に観れば、本当に障害なのは日本では無く、寧ろ、既に始まって居た共産主義のアジア侵略でした。ソ連の共産主義者は外蒙への侵出後、甘い言葉をもって更に中国に近付き、中国を共産化しようと狙っていたのです。

 こうした共産主義者の侵略、又アメリカの態度に付いて、後にダグラス・マッカーサー元帥は「太平洋において米国が過去百年に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせたことだ」(1951年5月上院軍事外交委員会)と述べて居ます。アメリカは世界情勢を見誤って居たのです。

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 中国の内戦に巻き込まれた日本

 そうこうする内に、中国の共産主義者の謀略により、日本は中国の内戦に巻き込まれてしまいます。当時、中国の共産軍は、蒋介石の国民党軍に追い詰められ、風前の灯火と為っていました。それで共産軍は、中国内戦に日本軍を引き込み、日本軍と国民党軍を戦わせてその間に共産軍の建て直しを計ろうとしたのです。
 日本には、元々中国内部に入って行く積りなど全くありませんでした。満州国が成長して呉れれば、充分だったのです。それはソ連の脅威を防ぐ防波堤と為ったでしょう。
 
 日本は実際の処、広大な中国の内戦に迄構っている余裕等ありませんでした。増してや侵略の意志もありません。しかし度重なる中国側からの挑発、又中国側の謀略により、日本は満州国を守る為、万里の長城の内側に足を踏み入れて行きました。日中戦争(当時は支那事変と呼ばれた)の勃発です(1937年)
 日本は蒋介石の軍と戦いました。しかし、日本は何度も和平に持ち込もうと努力しました。処が和平が成立しそうに為ると、必ずと云って好い程それを邪魔する事件が起き和平は破綻したのです。それ等の事件の背後には、ソ連又はアメリカの手引きがありました。彼等は日中が戦う事を望みそれを誘発したのです。
 
 ソ連の目的は、日中戦争によって日中両国が弱体化した処を狙って、両国を共産化する事にありました。一方のアメリカは、日中戦争によって日本を弱体化させ、それによって中国の巨大市場を我がものとしようと狙っていたのです。
 詰まり、この日中戦争を単に「日本の軍部の暴走」だとか「明治憲法の欠陥」「参謀本部の無能さ」等で説明する事は、単なる一面の説明に過ぎません。戦争の原因を日本国内の事だけで説明しようとするのは、自虐史観に陥れるものです。
 
 戦争の原因は、寧ろ外に有りました。外から迫り来る悪意は、日本に否応無く決断を迫り、日本を巻き込んで行ったのです。この時アメリカは、日本を叩く為、蒋介石の国民党軍に対し莫大な援助をして行きました。何故なら、蒋介石が戦って呉れるなら、アメリカは自分の血や汗を流さずに中国から日本を追い出し、中国に自分の権益を築けるからです。
 しかし、蒋介石への援助が日本叩きに効果が無い事が判ると、アメリカはヤガテ直接対決に日本を誘い込んで行きます。

 中国に幻想を抱き続けたアメリカ

 日中戦争開始は、日本に取って歴史の大きな分かれ目でした。満州国建国迄は、未だ良かったのです。それは後に、殆どの国が承認する処と為りましたから。けれども、日本が万里の長城を越え、中国内部に迄足を踏み入れた事は、アメリカの怒りを買う事と為りました。
 アメリカとの戦争を避けると云う観点からするなら、日本は満州迄に留めて置き、中国内部へは絶対に足を踏み入れるべきでは無かったとの意見があります。日本は満州国を一人立ちさせる事だけに力を使うべきであり、日中戦争は何としても阻止すべきであったと。確かに、もしそれが出来たなら、確かにアメリカとの戦争も避けられたかも知れません。

 しかし当時のアメリカは、日中戦争を望みそれを利用したのです。全く理解し難い話ですが、アメリカ人は自国に来た中国人は徹底的に差別し排斥していながら、遠い中国大陸には、ロマンチックな幻想を抱いて居ました。その幻想は、1630年代には、パール・バックのノーベル賞受賞作『大地』に描かれた中国人の姿への感動によって強められました。
 又当時の大流行作家ジェームズ・ヒルトンは、中国奥地に神秘的な理想郷「シャングリラ」が有ると云う荒唐無稽(こうとうむけい)な小説『失われた地平線』を書き、これが映画化されて空前の大ヒットと為りました。

 又『タイム』『ライフ』誌を創刊、ラジオ、映画、ニュースにも大きな影響力を持ったヘンリー・ルースは、宣教師を父とし中国で育ったと云う個人的な思い入れから、親中・反日の報道に徹して居たのです。彼は、蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴と絶賛しました。中国に居るアメリカ人外交官が、幾ら「現実の中国はそうで無い」と説明しても、アメリカ本国の政府や国民の反応は全く違う方向を向いていました。

 毛沢東と組んで日本軍と戦った蒋介石 アメリカ人の多くは蒋介石の正体を見誤って居た
 
 一方の蒋介石も、アメリカ人のこの奇妙な幻想を巧みに利用しました。蒋介石は、自分の軍が為した中国民間人虐殺を日本軍の仕業に見せ掛け、その捏造写真をアメリカ国内にばら撒いて、反日宣伝を繰り広げました。「日本の暴虐」を証拠付けるとされた有名な捏造写真の数々は、この時期に、蒋介石の国民党によって作られたものです。
 また蒋介石夫人の宗美齢は、アメリカで開かれた講演会で「日本の暴虐」を訴えて泣いて見せました。英語はペラペラしかも美人、又キリスト教徒を演じる蒋介石夫人の語る言葉によって、異教徒の日本人と戦う敬虔なキリスト教徒夫妻と云うイメージが作られ、アメリカ世論はマンマと蒋介石の国民党支持に廻って行ったのです。
 
 アメリカの著名人や、マスコミ、政治家はスッカリ騙されました。例えばオーウェン・ラティモアは、自分に逆らう者を機関車のボイラーで焼き殺す様な遣り方をして居た蒋介石を「真に民主的なリーダー」と迄呼んだ程です。
 蒋介石は民主的なリーダー、日本軍は暴虐な人々と云う観念がアメリカ人に作り上げられて行ったのです。一方、その頃一般のアメリカ人の60%は、世界地図の何処が中国か指し示せ無い程何も知りませんでした。
 又大東亜戦争開戦後のイギリスで「蒋介石は、中国内外における巧みな宣伝に支えられては居るが、その実は、腐敗した政治家達に囲まれて居るファシストに過ぎない」と評される様に為っても、アメリカは騙され続けました。イギリス外務省極東部長アシュレー・クラークは、アメリカを訪れた際「現実の中国に付いての限り無い無知」に驚愕したと云います。





 

 偽書『田中上奏文』

 その頃、中国の共産主義者が作った偽書『田中上奏文』田中メモリアルが出回る様に為りました。これは「日本は世界征服の陰謀を企てて居る」と云う内容の反日文書で、アメリカ議会でも回し読みされました。
 これが偽書であることは、当時の日本の正式な上奏文形式に合致して居ないこと等からも明らかです。しかし、アメリカ人の反日感情を燃え上がらせるのに大きな効果を発揮しました。日本を「美しき民主中国」を脅かす強暴な侵略者として非難する声が上がったのです。

 田中上奏文は、その後延々と反日宣伝に使われました。結局、こうして作られたアメリカの幻想により、中国の内戦は泥沼化し、日本は抜け出せ無く為ってしまったのです。しかし、日本は中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を終結させ中国を再建する為に活動して行きました。それは自力で内戦を終結出来ない中国を平定し、アジアに新秩序を建設すると云う道義的介入でもあったのです。

 日中戦争が始まって約一年半後には、日本は中国の約半分を占領しました。そして中国の民衆を保護し、そこに近代的な農業や、産業、法制、教育などを持ち込み中国再建に取り組みました。しかしアメリカは、本国に巨大な国土を持ちながら、本土から遥かに離れた地球の裏側の中国に経済市場を求め、日本に対して「お前は引っ込め」とばかりに干渉し続けて来ました。
 アメリカは、中国の蒋介石の軍隊への援助を強めました。アメリカそしてイギリスは蒋介石に対し、幾つかのルートを通し、多大な軍事物資や、武器、その他経済的な供給を為していました。もしこのアメリカ等からの莫大な援助が無かったら、重慶の山奥に逃げて居た蒋介石の軍は、日本の前に降参し講和に持ち込んで居たことでしょう。しかし莫大な援助を受けて居たことにより、彼の軍は持ち応えて行きます。

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 ルーズベルトの幻想
 
 それにしても、蒋介石は何故日本と戦い続けたのでしょうか。蒋介石に取って本当は日本は敵ではありませんでした。彼の本当の敵は共産軍でした。にも関わらず日本と戦い続けた一つの理由は、もし日本と和解すれば「弱腰!」と大宣伝され失脚させられてしまうからでした。彼は自らの保身の為に戦い続けたのです。
 もう一つの理由は、彼は日本と戦う事によって、アメリカの援助を更に引き出し、その援助を対共産党戦の為に温存する事を計って居ました。彼は「日本と手を握るぞ」と脅しを掛けながら、更なる援助を引き出して居ました。

 そう遣って、アメリカからの援助を対共産党戦の為に温存して居たのです。要するに蒋介石に取って、日本との戦争は「金づる」でした。彼は権力を握るために、アメリカと日本を利用したのです。最もその蒋介石の夢は実現しませんでした。彼は結局、共産軍に負け台湾に逃げてしまう嵌めに為るからです。
 しかし蒋介石の野望によって迷惑を受けたのは、アメリカと日本でした。何故なら、両者はその後大戦争を交え無ければ為らない嵌めに為ったのですから。サテ、この蒋介石を不幸にも信用して居たのが、アメリカで大統領に為ったルーズベルトでした。ルーズベルトの特殊なアジア人観は、その後の日米関係に決定的な影響を与えています。

 フランクリン・ルーズベルト大統領。彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイが蠢いていた

 ルーズベルトは「何時も中国人には親しみを感じて居る」と言って居ました。何故なら、彼の祖先が中国とのアヘン貿易で儲けたからでした。彼は又、蒋介石を偉大な指導者と讃美し援助を惜しみませんでした。
 その一方でルーズベルトは、日本は世界征服の陰謀を企てて居る悪の帝国と信じて居ました。彼は「田中上奏文」とホボ同じ内容の話を学生時代に聞き、それを信じ続けて居たのです。更にルーズベルトは、スミソニアン博物館教授アレス・ハードリシュカに「日本は何故邪悪なのか」を内々に研究させ、その結果「日本人が邪悪なのは、我々よりも頭蓋骨の発達が2000年遅れて居るからだ」と云う様な事を本気で信じて居ました。その為に彼は、日本人を病原菌に例え「日本人の根絶」を理想として抱いて居たのです。

 ルーズベルトは又、中国に対しては甘い幻想を抱き、更に共産主義のソ連に対しても甘い幻想を抱いて居ました。ルーズベルトには共産主義への警戒感が殆ど無かったのです。そして第二次大戦中は、ソ連と同盟を組み、アノ大虐殺者スターリンと仲良くしました。
 ルーズベルトは、スターリンの望むものを挙げていれば、彼は侵略やアメリカの邪魔をし無いだろう等と言っていました。その為ルーズベルト政権の中枢には、ソ連のスパイ網が広がり、暗躍を続けて居ました。アメリカはその後、その為に悩まされる事に為ります。

 さて、アメリカやイギリスが蒋介石の国民党軍を支援した為、日中戦争は、日本対白人の代理戦争の様相を呈しました。蒋介石は、白人の傀儡となり戦争は泥沼化しました。

 日本の息の根を止め様としたアメリカ

 このアメリカやイギリスが蒋介石に援助物資を送って居たルートを「援蒋(えんしょう)ルート」と云います。「援蒋ルート」の全輸送量の半分以上を占めて居たのは、仏領インドシナから中国へのルートでした。
 日本は止む無く、そのルートを遮断する為、ベトナム北部に軍隊を進駐させます.(1940年9月)この進駐は、当時のイギリスやアメリカ、ソ連がして居た軍の外国への進駐に比べ非常に紳士的なものでした。特にソ連のバルト三国への進駐は、侵略に他為りませんでした。アメリカ、イギリスも不戦条約違反を犯して居ました。

 一方、日本のベトナム北部への進駐は、2ヶ月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末、その地域を支配して居たフランス政府からOKを貰ってのことだったのです。処が、この時アメリカは、自国やイギリス、ロシア等のしたことには何も触れず、只日本を非難して、日本を封鎖する為の「ABCD包囲網」と云うものを作りました。
 ABCDとは、アメリカ(America、イギリスBritain、中国 China、オランダDutchの頭文字です。これはアメリカ主導に行なわれた日本に対する厳しい経済制裁でした。ABCD包囲網により、日本には石油や鉄を初め、生活必需品等が入ら無く為ってしまいました。

 しかし、こうしたことも全て、先に述べた「オレンジ計画」の一環だったのです。今日も、アメリカはシバシバ他国に対して「経済制裁」と云う手法を執ります。最近では、イラクや北朝鮮に対する経済制裁等です。しかし、最近のアメリカは同じ経済制裁をするにしても、大抵は行き過ぎ無い賢い遣り方をする様に為っています。
 余り遣り過ぎると、向こうが牙を剥き戦争を起こして来るからです。けれども、ABCD包囲網と云う経済制裁は、正に日本に「死ね」と言う程のキツイものでした。

 ですからこの経済制裁は、戦争を誘発するものだとして、ルーズベルト大統領の前のフーバー大統領は決して行なわ無かったのです。しかしルーズベルトはこの経済制裁に踏み切りました。貿易に依存するしか生きて行く方法の無い日本は、正に窮地に立たされました。更に、1941年にアメリカは日本人の在米資産を凍結し、又日本に対する石油の全面禁輸を実施しました。
 石油が入ら無ければ、車も走らず飛行機も飛ばず工場も動きません。日本の産業は停止してしまいます。石油の備蓄を僅かしか持た無い日本に取ってこれは死活問題でした。これ程キツイ事をすれば、日本は戦争を決意するだろうと云うことは、もちろんアメリカにも判っていました。しかしアメリカは、それを望んでいたのです。

 以前私は、イスラエルに住むユダヤ人歴史家のアビグドール・シャハン博士が来日した時、彼を連れて日本の神社を案内した事があります。その時彼はシミジミトこう言いました。「多くの人は、日米戦争は日本軍の真珠湾攻撃によって突然始まったと思って居るがそうでは無い。その前に、アメリカが日本に対してして来た悪辣な事柄の数々を知ら無ければ、何故日米戦争が始まったか理解出来ない」
 正にそうなのです。日米戦争は、真珠湾以前から始まって居ました。それでも、日本はこの時も未だ、米国との関係修復の為に最後の努力を積んで居ました。日本は、野村駐米大使と来栖(くるす)臨時大使を派遣し、交渉に当たらせたのです。彼等は、日米首脳会談を強く申し入れました。

 日本側は、ABCD包囲網を解いて呉れるなら、中国大陸からの撤兵も考慮するとの案を用意して居ました。そして中国でのアメリカに対する門戸開放・機会均等も約束すると。これはチャンと記録にもあることです。日本側は大きな妥協の条件も用意して居たのです。しかし、当時のルーズベルト大統領は、話し合いの場に出て来ませんでした。
 もし両者が誠心誠意、交渉のテーブルに着いて話し合ったなら、日米戦争は回避されたに違いありません。処が、アメリカ側はこの時、ノラリクラリするばかりで、交渉の要求にも条件にも返答し無かったのです。
 
 そしてやがて1941年11月26日、アメリカのハル国務長官は野村大使と来栖大使を呼び出し、突如、アノ悪名高い「ハル・ノート」と云う一方的な対日要求を通告して来ました。これが、日本に真珠湾攻撃を決意させるものと為ったのです。


            −2につづく






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日米開戦の「真の原因」を作ったのは誰か




 日米開戦の 「真の原因」を作ったのは誰か

           〜PHP Online 衆知 歴史街道 1/17(金) 11:52配信〜


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         日本海軍攻撃隊の爆撃で炎上する真珠湾のアメリカ戦艦


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 日米戦争は、第二次世界大戦の一側面であった。ヨーロッパの戦いから派生した局地戦であったと言い換える事も出来る。米国のフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下 ルーズベルト)も英国のウィンストン・チャーチル首相も真の敵はナチスドイツで在ると考えて居た。

 戦後教育で育った世代は、日本の支那大陸への「侵略的」外交政策が、アノ戦争の原因であると考える。仮に日本の満洲事変以降の外交が侵略の連続であると云う解釈を是とするとしても、筆者はこの様な解釈はして居ないが・・・それは日米開戦の原因では無かった。

 ※本稿は歴史街道編集部編『太平洋戦争の新常識』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです。

 日米開戦と日中戦争は全く関係が無い

 英国がドイツの空爆(The Blitz)に苦しみ、米国にどれ程救援を求めてもルーズベルトは動け無かった。米国に取って、英国は言葉を同じくする最も親しみのある国である。その国が敗北寸前まで追い込まれて居た。それでもアメリカ世論は動かず、ルーズベルトは身動きが取れ無かった。
 世論の80パーセント以上が頑として、ヨーロッパのゴタゴタに巻き込まれる事を拒否し続けた。そのアメリカ国民が、中国の為に自国の若者の命を犠牲にしても構わ無いと思う筈も無い。

 日米開戦と日中戦争は全く関係が無い。それにも関わらず、日中のゴタゴタが日米の戦いの原因であったかのごとく語られるのは、戦後の日本国民にその様に思わせたい歴史家や外国勢力が存在するからだ。
 日米開戦の真の原因は、ルーズベルトとチャーチルが、飽く迄もナチスドイツとの戦いを望んだからである。ルーズベルトがドイツとの戦いを望んで居たことはハーバート・フーバー元大統領、ハミルトン・フィッシュ下院議員等、彼と同時代を生きた政治家が既に多くを語って居る。

 ルーズベルトが、

  ワシントン議会の承認無く、ドイツ海軍(Uボート)への攻撃命令を発して居たこと
  国民に対してその事実を隠し、米艦船がUボートから一方的に攻撃を受けて居ると説明して居たこと
  有り得無いナチスドイツによる米本土攻撃の恐怖を煽った事


 一方でアドルフ・ヒトラーは、
 
  ルーズベルトの挑発に乗るナ と海軍に厳命して居たこと

 ・・・等は、既に好く知られて居る。

 ルーズベルトは密使の報告を無視した

 もしルーズベルトが、ヨーロッパの戦いに巻き込まれる事を怖れ、そうした事態を真に避け様として居たのであれば、ドイツに宣戦布告した英仏と独の間に立って仲介に入る外交的オプションがあった。アメリカの強大な国力を背景にした外交を展開すれば、少なくとも暫定休戦協定を締結させられる可能性があった。米国には戦争当事国に痛み分けを強制出来る力があったのである。
 実際、当時のルーズベルト支援者の中にも、彼がその様な外交を展開して呉れるだろうと期待する者が少なく無かった。その一人がウィリアム・ローズ・デイヴィスであった。

 デイヴィスは独立系石油王であり、ルーズベルトの有力支援者だった。ルーズベルトが再選を目指した選挙戦(1936年)では、30万ドルを拠出している。彼は、民主党の有力支持団体であるアメリカ鉱山労働者連盟会長ジョン・L・ルイスの友人でもあり、ホワイトハウス幹部とは太い人脈があった。
 1939年9月15日正午少し前、彼はホワイトハウスでルーズベルトと会っている。このことはルーズベルトの公式スケジュールの控えから確認が出来る。自身が密使と為り、ドイツ指導者に休戦交渉に応じる様説得したいと語り、ルーズベルトの了解を得た。コーデル・ハル国務長官、スティーブン・アーリー報道官、ジョン・ルイス会長も同席した。

 ベルリンに入ったデイヴィスは、ヘルマン・ゲーリング元帥と複数回に渉る交渉に臨んだ。ルーズベルトに仲介の意思があると聞かされたゲーリングは驚いた様であったが、米国の仲介努力を感謝し次の様に語った。

 「貴殿の言葉には驚かされた。ルーズベルト氏は我が国に対しては悪意を持ち、英仏への同情心が強いと思って居た。和平の維持に付いてドイツは常にそれを望んで来た。只対等の関係で無くては為ら無い。今貴方が披瀝した考えは、ヒトラー総統及び我が政府のこれ迄の主張に合致する。
 ワールドコンフェランス・世界規模の会議を開く事。それだけが、和平を再構築出来る手段であろう。我が国は当然に、ルーズベルト氏がその様な会議を主宰するのであれば歓迎である。会議の目的は、恒久的和平の構築である」


 ゲーリングは「世界会議は何処で開催されても構わ無い。ワシントンであっても自身が代表として参加する」とまで述べた。ナチス政権の講和(休戦)を望む態度を確認したデイヴィスは、直ちにワシントンに戻った。しかしルーズベルトは、自身が遣(や)った密使であるにも関わらず、彼と会おうとし無かった。理由は「会議中で忙しい」であった。
 業を煮やしたデイヴィスは、ドイツが講和の意思を持って居ることを手紙で伝えたが、ルーズベルトから返答はな勝った。

 チャーチルから仲介への反発があった可能性も否定出来ないが、ルーズベルトにはナチスドイツと外交交渉するつもりは、鼻から無かったと推論しても間違い無かろう。その後、デイヴィスがホワイトハウスに招かれる事は無かった。

 ヒトラーは副総統ヘスをイギリスに送り込んだが・・・

 ナチスドイツは開戦後、暫くはその戦火を西側に広げ無かった。1939年9月1日のポーランド侵攻から翌1940年5月の間は、独と英仏との地上戦は殆ど無い。この時期を欧米の歴史家は「Phony War・偽りの戦争」と呼んで居る。

 筆者は、ヒトラーが英仏とは戦いたく無い姿勢を見せる事で、暫定休戦協定に入る機会を窺って居た時期ではないかと考えている。独ソ戦の緒戦(バルバロッサ作戦)の少し前の時期(1941年5月から6月)には、英国の敗北は濃厚であり、ドイツとの和解を探る事の是非が、英国内では真剣に議論された。
 既に中立の立場をかなぐり捨てて対英軍事支援を強化して居たルーズベルト政権内部からも、軍事支援を中止すべきだとする声が高まって居た。こうした状況の中にあってヒトラーは、対英戦争の休戦を求めて最後の賭けを打った。勝勢にある時期だからコソ出来る博打であった。

 1941年5月10日、アウクスブルクの町(ミュンヘン北西およそ70キロメートル)は晴れ上がり、絶好の飛行日和であった。この日の夕刻(5時45分)、一機の双発機(メッサーシュミットBf110)が、北に機首を向けてこの町を飛び立った。
 操縦するのは、ナチスドイツのナンバーツーであるルドルフ・ヘスナチス副総統だった。ヘスは、ミュンヘン一揆(1923年)の失敗でヒトラーと共に収監されて以来、苦難を共にした同志であった。

 北海を北上した同機は北緯55度40分付近に達すると、進路を西に取りスコットランドの町グラスゴーを目指した。ヘスがグラスゴーの南およそ15キロメートルの農村イーグルシャムにパラシュート降下したのは、その日の夜11時を少し回った時のことである。
 ヘスがスコットランドを目指したのには理由があった。何とかしてハミルトン公(英国空軍准将、スコットランド防空担当)に会い、彼を通じて英国王ジョージ6世との謁見を実現させたかったのである。

 国王を説得し頑迷なチャーチルの対独外交を変更させ、暫定休戦に持ち込みたかった。ヘスは、着地の際に足を挫き身動きが取れ無く為って居る処を、イーグルシャムに住む農夫に発見された。 知らせを受けたハミルトン公は、メリーヒル仮設病院に運ばれて居たヘスに会った(翌朝10時)。公の報告書には次の様に書かれて居る。

 「彼は、『(ヒトラー)総統は英国を敗北させようとは考えて居らず、戦いを止めたいと願って居る。今回の飛行は4度目であり、以前の試みは悪天候で失敗した』と語った」

 ハミルトン公は対独宥和派の有力者であり、国王にも近い立場だった。ヘスは公にヒトラーの思いを伝える事は出来たが、そこ迄であった。国王に会うことは叶わ無かった。グラスゴー郊外の古城(ブキャナンキャッスル)に幽閉され、その後ウェールズの病院(Maindiff Court Hospital)に移送された。
 チャーチルは、ヘスを厳重な監視下に置いただけで、決して会おうとし無かった。英国存亡の危機にあって、ナチスドイツのナンバーツーが自身の生命をも顧み無い決死行で、スコットランドにパラシュート降下したのである。

 筆者には何故チャーチルがヘスに会おうとし無かったのか理解出来ない。リアリストの政治家であったなら少なくとも直接ヘスの話を聞き、ドイツの真意を探ろうとした筈である。

 独ソ戦が局地戦に終始して居た可能性

 正統派の語る歴史では、ゲーリングが講和交渉に前向きであった事(デイヴィス密使交渉)も、ヘスの決死行も語られ無い。ドイツが講和を願って居たことを書いてしまうと、ルーズベルトとチャーチルの戦争指導が誤って居たのではないか、との疑念を湧かせる事に為る。アノ戦争は、ルーズベルトとチャーチルの、二人の特異な政治家が作った戦争である。

 「二人の怪物(ヒトラーとスターリン)の戦いは不可避である。両者が死闘を続け、国力を浪費した時点で仲介に入るべきだ」と考えて居たハーバート・フーバー元大統領の見立て(フーバー著『裏切られた自由』)には合理性がある。
 独ソの戦いは激しいものに為っただろうが、局地戦に終始して居た蓋然性は十分にあった。そう為っていれば世界大戦にも為らず、日米戦争等起きる筈も無かったのである。

 ルーズベルトは1941年に入ると、苛めにも似た対日強硬外交を本格化させたが、それは日本を対米開戦させ、それを口実にアメリカが対独戦に参戦しようと云う思惑の為であり、飽く迄英米両国の対独外交の一側面であった。この視点(合理的推論)コソが、アノ戦争とは何だったのかを解く鍵なのである。


          歴史街道編集部     以上









 【管理人のひとこと】

 この文章では、米英のドイツに対する徹底的な敵愾心が第二次世界大戦を拡大させた、との様な主旨と受け取れます。この様に今でも、アノ戦争とは何だったのか・・・これは弛(たゆ)まぬ私達の疑問であり、永遠の真実追求のテーマでもあります。
 丁度この問いに対する幾つかの文章を次回から掲載しょうと思います。皆さんと一緒に考えて行きましょう・・・物語として読まれても興味の湧くストーリーもあります・・・









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