2020年01月17日
日本近代史 日米戦争は何故起きたか 久保有政著 −1
日本近代史 久保有政著 −1
著者 久保有政氏
日米戦争は何故起きたか
1 大東亜戦争への道
〜アメリカは、自分の真の敵が誰かを見誤った 日本が自衛戦争に出ざるを得なかった理由とは〜
ダグラス・マッカーサー元帥、彼は戦後、日本の戦争は「自衛戦争だった」と証言した。1941年の日本による真珠湾攻撃から、1945年の終戦に至るまで、日本とアメリカは戦争を交えました。それ以前の日本とアメリカは、一時は兄弟の様に良好な関係を持って居た時期もあります。にも関わらず両者は戦争を交えました。これに付いて「この戦争は日本の侵略的態度に対し、アメリカが懲罰に出たもの」とする、所謂自虐史観が広く語られて来ました。日本を一方的な悪として、アメリカを一方的な正義とする歴史観です。
しかし、これはアメリカが戦後、自分の戦争を正当化する為に唱えた歴史観であり、客観的に観れば決してその様なものでは無かったのです。日米戦争の責任は、アメリカと日本の双方にありました。両者は、中国で利害が対立したのです。
アメリカは、自国の経済圏から日本を閉め出す一方で、中国においてアメリカの割り込みを執拗に求めました。その為に中国に進出して居た日本とブツカリ合ったのです。日米は何故戦争をし無ければ為らなかったのか。その本当の歴史を観てみましょう。
日本の戦争は自衛戦争だったと証言したマッカーサー
日米戦争においてアメリカ軍を率いて日本と戦ったのは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥でした。マッカーサーは日米戦争終結から6年後の1951年5月3日、アメリカ上院の委員会で、過つての日本の戦争に付いてこう証言しました。
「日本が戦争に飛び込んで行ったのは、主に自衛・security=安全保障の必要に駆られての事だったのです」
マッカーサーは、過つての日本の戦争に付いて振り返り、日本は戦いたくて戦った訳では無い。またそれは侵略戦争でも無く、寧ろ「自衛の為だった」と証言したのです。今日も、左翼や「反日的日本人」が「過つての日本の戦争は侵略戦争であった」と言って居ます。しかし、過つて日本と戦った当のマッカーサー本人が「日本の戦争は自衛戦争であった」と言って居るのですから、これは大変注目に値します。
或る日本の地方議会で、議員のひとりが「過つての日本の戦争は自衛戦争だった」と言いました。すると他の議員達から「何をバカなことを言って居るのか、侵略戦争だろう」と野次が飛びました。その時彼は、マッカーサーの証言を正確に英語で引用し、黒板に書いて説明を加えて言いました。
「日本と戦った当のマッカーサー自身が、日本の戦争は自衛戦争だったと言って居るのです」 こう言うと、議会はシーンと静まり帰り、最早野次は消え失せたそうです。日本は何故この「自衛戦争」に出無ければ為らなかったのでしょうか。それには次に観る様に、幾つかの要因がありました。
西へ、西へと進んだアメリカ
アメリカは、西部開拓史に観られる様に「西へ、西へ」の開拓によって大きく為って行った国です。アメリカは、初めはあの様に大きな国ではありませんでした。テキサス州等も、元はメキシコの領土でした。しかし「リメンバー・アラモ砦!」を合い言葉にメキシコと戦争をし、テキサスを初め西部の広大な土地を手に入れたのです。
彼等は又土着民のインディアン達を殺しながら開拓を続け、そのインディアン達との戦争は25年間続きました。合衆国の司令官たちは「インディアンを絶滅すべし」と発言、容赦無い絶滅作戦が展開されました。
女・子供も虐殺、生活環境を破壊し尽くし、インディアンの数が激減した処で、インディアンの組織的反抗は1890年に終結しました。
しかし、アメリカ人の「西へ、西へ」の侵出欲は収まらず、遂に海を越えたのです。1898年、アメリカの戦艦メイン号が撃沈された事件が起きました。アメリカはそれを契機に、スペインとの戦争を始めました。合い言葉は「リメンバー・メイン号!」アメリカはこの戦争に勝利し、短期間でキューバ、フィリピン、プエルトリコ、グアムを手に入れました。
メイン号爆破は、スペインの仕業と宣伝されました。しかし、その真相は100年経った今も不明です。当時、スペインは事件の調査を約束し、戦争を避け様と極限迄譲歩を重ねて居ました。けれどもアメリカは、有無を言わせず開戦に踏み切ったのです。
「リメンバー・アラモ砦!」「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」アメリカの戦争は何時も「リメンバー!」でした。アメリカは不思議な国で、戦争の際には、何時も都合好く敵国からの攻撃があり「リメンバー!」の合い言葉で国民世論がマトマって開戦に至るのです。
日本軍による真珠湾攻撃 1941年
「リメンバー・アラモ砦!」「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」ア メリカの戦争は何時も「リメンバー!」だった。戦争はスペイン領だったフィリピンでも行なわれました。アメリカは現地の独立運動を利用して戦いながら「独立」の約束を破り領有化しました。フィリピン人はアメリカに対し独立運動を起こします。しかし弾圧され、推定二万人が殺害され、又破壊に伴う飢餓と病気で20万人が死にました。
フィリピンを手に入れたアメリカは、フィリピン人に対し英語を公用語とし徹底的な洗脳政策を開始。知的な者程率先してフィリピン古来の文化を捨て、積極的にアメリカ化して行きました。同じ年、アメリカはハワイも武力で脅迫して併合しアメリカ領としました。こうしてアメリカは、日本の目と鼻の先迄遣って来たのです。
当時のアメリカ人は、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化する事によって文明をもたらす事を、神から与えられた「明白なる天意」(マニフェスト・デスティニィ)と称して居ました。メキシコ、ハワイ、グアム、フィリピンと領土拡張を進めたアメリカの西進は、この「明白なる天意」のスローガンの下に行なわれました。それは、傲(ごう)れる白人の支配欲と欲得を正当化する為のスローガンだったのです。
「門戸開放」の利己的目的
此処まで来ると、中国大陸は直ぐそこでした。アメリカは遂に中国大陸を目指しますが、当時既に中国大陸ではヨーロッパ諸国の分捕り合戦が進んでいました。突け入る隙が無い。それでアメリカは1899年に「中国の門戸開放、機会均等」を主張します。要するに「私も入れて呉れ」と云うことです。一見、理想主義的で、ご尤もな意見ですが、その裏には利己的な欲望が隠されて居ました。
アメリカは自分の勢力圏であるプエルトリコ、フィリピン等の「門戸開放」は絶対に主張しません。更に、1929年以降の大恐慌以後は、アメリカは自由貿易を捨ててブロック経済に入り、自分の経済圏から他国を閉め出しました。
即ち、自分の経済圏からは他国を閉め出して閉鎖主義を執る一方、中国には門戸開放を求めると云う、完全なダブル・スタンダードだったのです。それは自分の利益にだけ為ることを求めたものでした。又、当時の中国は酷い内戦状態にありました。ヨーロッパ各国は租界の治安を守り、貿易を続ける為に、既に莫大な労力と資金を費やして居ました。日本も中国に合法的な特殊権益を持って居ました。
当時、内戦と匪賊(ひぞく)の横行する中国では「門戸開放」等非現実的なことであり「門戸開放」で得をするのはアメリカだけだったのです。アメリカは労せずに権益を手に入れようと躍起に為っていました。処が厄介なことに、アメリカ人はこれを利己的な戦略では無く「公平で理想的な行為」と信じ込んで居ました。又、自分達は欧州人の様な覇権主義者では無いとすら思っていました。
アメリカは過去に、メキシコやスペインとの戦争を通して領土を拡大して来たのに、そう云う自国の歴史を都合良く忘れて居たのです。
アメリカは「門戸開放」「公平な権利」の主張を自画自賛、現実には何の意味も無いその主張を各国に執拗に求めました。このアメリカの態度に、ヨーロッパ各国は内心苦笑しつつ「ええ賛成ですよ」と言いながら実行はしないと云う対応を取るばかりでした。
アメリカはこの「門戸開放」を、その後実に40年間に渉って繰り返し唱え続けます。そしてこれが、中国大陸における日米の対立の火種と為って行ったのです。
ロシアの脅威と日露戦争
サテ、この東アジアを我がものにしようと虎視眈々と機会を狙っている、もう一つの国がありました。ロシアです。ロシアは、既に広大なユーラシア大陸に次々と領土を広げ、更に東アジアも狙っていました。ロシアは欧米諸国以上に侵略欲の強い国でした。
日清戦争・1894年後、清国に勝利した日本は、清国との条約により遼東半島と台湾を譲り受けました。処がロシアは、その時ドイツ、フランスを引き連れた「三国干渉」により日本に圧力を掛けて来て「遼東(りょうとう)半島を清国に返せ」と脅して来ます。
日本には当時、その圧力を跳ね返すだけの力はありませんでした。それで日本は苦渋を飲み、遼東半島を清国に返還します。「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)と云う言葉が生まれたのもこの頃です。
ロシアは清国に「サア遼東半島を返して挙げた。その報酬を呉れ」と云って、清国から次々に権益を貰います。更にロシアは、何と清国に返還させたその遼東半島に自分が居座ってしまったのです!ロシアはそんな酷いことを公然と行なう国でした。
ロシアは南下政策を推し進め、満州地域を占領し、更に朝鮮へ干渉し始めました。「これでは次は日本が危ない」と、日本は危機感を募らせます。こうして日本とロシアの間に「日露戦争」一九〇四年が勃発したのです。日本は日露戦争に勝利しました。それはギリギリの勝利・辛勝でしたが、初めて有色人種が白人に勝ったという世界史上の大事件でした。
日露戦争後、日本はロシアとの講和条約により、樺太の南半分や遼東(リャントン)半島、又南満州鉄道を譲り受けました。南満州鉄道とは、ロシアが満州を支配する為に敷いた東清鉄道の南半分です。日本はこの鉄道を経営する事に為りました。
当時の世界では、強い国が他国の経済的な特権を持つ事が認められていました。日本もこの権利を持つことに為ったのです。鉄道は経済発展の重要な基礎ですから、日本はこの権利を得た事を喜びます。しかし、日露戦争で膨大な戦費を使い果たしてしまった日本には、この鉄道を経営する資金の見通しが立ちません。そうした中、アメリカの大実業家ハリマンが来日し、日本政府に「資金を提供するので、南満州鉄道をアメリカと日本で共同経営しよう」と持ちかけました。
ハリマンは「鉄道王」と呼ばれた人で、大きな鉄道会社を経営し世界的に有名でした。この提案に対し、桂太郎首相や、元老・井上馨、その他政財界の多くの人々は賛成し、近く協定を結ぶと仮約束しました。
鉄道王エドワード・ハリマン
井上馨等は、それは日本の防衛の為にも良いと考えて居ました。と云うのは、日本は侵略的なロシアの進出を阻止の為に日露戦争を戦ったのですが、日本一国では満州を守ることは出来ないでしょう。そこにアメリカが入って来れば防衛は強固なものと為ると考えたからです。
しかし、この時外務大臣の小村寿太郎(じゅたろう)は、講話会談の為、未だアメリカに居たので日本に居ませんでした。彼は帰国してこの話を聞くと「飛んでも無い事だ」と言って猛反対したのです。理由は「莫大な戦費を使い、数十万の兵士の血を流して手に入れた権利を、外国に売り渡す真似は出来ないし、講和条約の趣旨にも反する」と云うものです。
確かに、満州における権利は日本人の多大な犠牲を払って獲得したものであり、一方、アメリカはそれを労せずして手に入れる事になります。結局、小村の意見が通り、日本はハリマン提案を拒否しました。南満州鉄道は日本だけで経営する事に為ったのです。
しかし、以来アメリカ人の多くは「日本は満州を独り占めしようとしている」と不快感を持つ様に為りました。アメリカには、鉄道は領土獲得の基礎と云う考えが強くあったのです。鉄道が敷かれる処、自分達の領土が広がると云う考えです。この為ハリマン提案の挫折は、アメリカ人に深い失望をもたらしました。
この出来事も又、歴史の大きな分かれ目でした。この時から36年後、日本とアメリカは戦争をしますが、もしこの時満州の鉄道を日本とアメリカが共同経営して居れば、日米は協調路線を取り、日米戦争は無かっただろうと云う見方もあります。
日米戦争は避けられたか
確かに、満州の鉄道を共同経営して居れば、その後の歴史は全く違った方向へ向かったことは間違いありません。日米は同じ利害を持ったからです。もし日米の政治家が道を誤らず、上手く協調路線を歩んだ為らば、日米戦争は無かったかも知れません。
けれども、本当に日米戦争が無かったかどうかは、結局、想像の域を出ない事です。と云うのは、当時のアメリカは今のアメリカでは無かったからです。当時のアメリカは、今日の様な様々な人種の融合した社会では無く、人種差別的観念の極めて強い国家でした。
アメリカは元々、インディアンに対する虐殺で始まった国です。又その後も、近代に至る迄大規模な黒人奴隷制が存在しました。黒人奴隷はリンカーンの時代に解放されたものの、人種差別は国内に根強く残って居たのです。
当時のアメリカ国内の人種差別は酷い状態でした。レストランも、トイレも、バスも、学校も、公共施設は皆「白人用」と「有色人種用」に分けられて居ました。アジア人種に対する迫害も、既に1800年代から始まって居ました。アメリカ西海岸では、ヒステリックな中国人移民排斥運動が起き虐殺事件も発生しました。その後、矛先は日本人に対して向けられたのです。
日本人移民に対する迫害も、既に1800年代に始まって居ました。勤勉な日本人移民が成功を収めるのを見て、アメリカ人の中には嫉妬と憎悪に燃える者も多く居ました。同時に、白人のロシアを破った民族として、恐怖心をも持ったのです。
当時の多くのアメリカ人に取って、日本人とは得体の知れ無いエイリアンの様な存在に映りました。そして「日本人は油断なら無い」「日本を潰すべきだ」と云う観念が、アメリカで広まって行ったのです。所謂「黄禍論」です。特に日本人移民の多かったカリフォルニアでは、駅やトイレ・街角には「ジャップは消えろ」「ジャップを焼き殺せ」の殴り書きが見られました。散髪屋に入ると「動物の散髪はしない」と断られ、不動産屋に入ると「日本人が住んだら地価が下がる」と断られる。
黄禍論の台頭により、1886年、英国商船の海難事故で乗船して居た日本人が救助されずに死亡した。ノルマン トン号船長曰く「助けて貰いたいなら、何ドル出す? 早く言え、時は金なり」日本人は、B級映画、小説、漫画の格好のネタと為りました。そして、ドギツイ邪悪なイメージばかりが大衆に強烈に植え着けられて行ったのです。
又「新聞王ハースト」と呼ばれる男は、連日、何の根拠も無い日本脅威論を書き立てました。ハーストは「新聞の売上げを増やす為なら、国を戦争に追い込む事も辞さ無い」と言われた人物で、総人口の0.1%しか居ない日本人が恰もアメリカを征服するかの様に書き、世論を煽りました。
更に、日露戦争直後の1906年、サンフランシスコで大地震が起きたのですが、その時排日暴動が起き、日本人移民が暴行・略奪を受けました。日本からは、震災の復興の為にと、50万円(現在の十数億円相当)もの見舞金がアメリカに送られました。処が感謝の言葉も無いばかりか、日本人移民の子はその資金で再建された校舎には入れず、ボロ小屋の様な校舎に隔離教育されたのです。
更にその後アメリカは、感情的で差別心剥き出しの「排日移民法」を成立させてしまいます。日本人移民の総数は、一ヶ月当たりのヨーロッパ系移民よりも少なかったにも関わらず、日本人移民は土地所有も帰化も認められず、権利を剥奪され新たな移民も完全にストップしました。
この排日移民法は、日本国民の感情を痛く傷着けました。この様な人種偏見の強かった当時のアメリカと、日本が、本当に満州で仲良く対等に遣って行けただろうかと云うと、可成りの疑問が残る訳です。
日本を敵視したオレンジ計画
この様にアメリカが、日本人を国内から締め出しても、日本はアメリカとの戦争は全く考えて居ませんでした。アメリカとは仲良く遣って行きたかったのです。日本が最も脅威と感じていたのはロシアでした。アメリカではありませんでした。しかしアメリカの方は、ロシアの脅威を全く気にせず、只日本と云うライバル国家を潰したいと思って居ました。
アメリカは日露戦争直後の1906年に「オレンジ計画」為る作戦を立案して居ます。色々な国を色別して、日本はオレンジだったのですが、これは長期的な日本制圧プランでした。日本を第一の仮想敵国と見做し、戦争準備に着手した計画だったのです。
オレンジ計画は年々改訂され、最終的にはナンと、日本の本土を無差別に焼き払って占領する事迄盛り込まれて居ました。これは日本人の大量虐殺を意味します。アメリカはその様な計画を、ヒトラーのナチス・ドイツに対しても、共産主義のソ連に対しても立てた事はありません。白人国家に対しては決して立て無かった。只黄色人種の日本に対してだけ立てたのです。
この計画は「何れ日本を叩き潰すぞ」と云う計画でした。1945年の大東亜戦争終結に至る迄のアメリカの行動は全て、このオレンジ計画に基づいて遂行されたものでした。
大東亜戦争末期に、アメリカ軍は日本の本土爆撃を為し、各都市を焼け野原として民間人約60万人を虐殺しました。兵士では無い民間人を殺す事は明確な国際法違反です。しかし、それさえも全て、元はと云えばオレンジ計画に盛り込まれて居たことなのです。
何故アメリカが、日露戦争直後と云う非常に早い段階に、日本に対してこれ程強硬な姿勢を持ったのか。当時は未だ日中戦争さえも始まって居ない時代です。その根底に見えるのは矢張り「アジアに白人が進出するのはOKだが、黄色人種の日本が出シャバルのは許せ無い」と云う、アメリカの人種差別意識なのです。アジアに対するイギリスの進出はOK、ドイツも、フランスも、ロシアもOK、しかし日本はダメと云う対抗意識です。
その意識が「オレンジ計画」と為ってマトマりました。当時のアメリカには「日本人の大脳は、欧米人の灰白色より白い。原始的なママで、思考力は劣る」と言って退ける人類学者も居た程です。この様に「何故日本なのか」と云うことを考える時、矢張りその根底に人種偏見があったと言わざるを得ません。日米戦争の根深い原因が、ソコにあったのです。
オレンジ計画が作成された時から、アメリカの日本に対する執拗な嫌がらせと、挑発が始まりました。アメリカは先ず満洲と中国への介入の為に、中国の抗日運動を煽り立てます。それは日本を深く悩ませるものでした。日本政府は1923年の国防方針書に「米国は・・・経済的侵略政策を遂行し、特に支那(中国)に対するその経営施設は、悪辣な排日宣伝と共に、日本が国運を掛け幾多の犠牲を払って獲得した地位を脅かして居る」(現代語訳)と記し、中国におけるアメリカの「悪辣な排日活動」を憂えて居ます。後に日中戦争が泥沼化した背景には、アメリカによる中国の抗日運動の扇動があったのです。
アメリカは日本叩きの為に、中国の混乱を利用して居ました。又日中戦争が始まった時、アメリカは中立を捨て、蒋介石の軍隊へのアカラサマナ支援もして行きました。やがてアメリカは日英同盟を解消させ、日本への石油禁輸、ABCD包囲網等、日本への挑発を続けました。更に、最終的に日本に「ハル・ノート」を付き付け、遂に直接的な武力衝突へと誘い込んで行ったのです。
アメリカは領土を広げる度に、星条旗の星の数を増やして来た。その領土獲得欲は更にアジアに向けられ、次のターゲットは中国だった。しかしそこに立ちハダカッタのが日本だった。
大東亜戦争は人種戦争だった
日米戦争・大東亜戦争とは何か。それは根本的に「人種間闘争」「人種戦争」でした。又、傲れる白人支配に終焉をもたらす為の戦争でもあったのです。アメリカと日本の行動をもう少し詳しく観てみましょう。
日本は第一次世界大戦後、国際連盟に「人種差別撤廃法案」を提出します。それは白人の黄色人種に対する差別に苦しんで居た日本に取って、極めて重要な意味を持って居ました。当時の日本は世界の五大国の一つであり、唯一の黄色人種の国家でした。
日本の非常な努力の結果、この画期的な法案には、多くの国々が賛成しました。処が、議長であったアメリカ大統領ウィルソンが発した鶴の一声「この提案は全会一致で無ければ可決すべきで無い」で結局、否決されてしまったのです。国内で人種差別をして居たアメリカは、人種差別撤廃法案を断じて認める訳にはいか無かったのです。
この様に世界で初めて「人種平等」を国際舞台の場で提唱したのが日本であり、それを力づくで潰したのが、アメリカやイギリスでした。ウィルソンは、「民族自決」を唱えた大統領として知られて居ます。しかしそれは飽く迄欧州の民族に関してだけで、アジアやアフリカの民族等眼中に無かったのです。全ては白人支配の存続と、自国の利益を狙ったものでした。
アメリカとしては、黄色人種と対等に付き合って行く積りは毛頭無かったのです。日本は、この様に人種偏見の渦巻く欧米諸国を相手に渡り合って行か無ければ為らなかったのです。それがどれ程大変な事だったか。
日本は第一次世界大戦に参加した結果、ドイツ領だった南洋諸島(マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、カロリン諸島など)を統治する事に為りました。
そこには日本統治により、やがて学校や病院が立てられ、ミクロネシア人の半数以上が初めて実用的な読み書きが出来る様に為りました。住民全員に予防接種も実施され、漁業、農業、鉱業、商業が振興され、製糖業も目覚ましく発展して、住民の生活水準は著しく向上しました。
人々の多くは今も親日的で、パラオでは八割の人が名前の一部に日本名を着けて居ます。又パラオの国旗が日の丸に似て居るのも親日感情の表れです。第二次世界大戦後、この地域はアメリカの統治下に移されました。しかしアメリカは、この地域を水爆の実験場程度にしか扱いませんでした。
又アメリカ人が、二宮金次郎像を引きずり下ろし、南洋神社を取り壊した事は、現地の人々に取って耐え難い行為だったと云います。この南洋諸島は、グアム島の東隣りに位置します。グアムはアメリカ領、一方の南洋諸島は日本領の直ぐ隣り合わせでした。しかもグアムとアメリカ本土の間に、日本領が入った形です。アメリカは密かに、この邪魔者・日本への敵意を燃やしました。
共産主義に無頓着だったアメリカ
アメリカはこの様に日本に対してライバル意識を持つ一方、共産主義の拡大には全く無頓着でした。1923年〜1924年に掛けて、既に共産化して居たソ連は、外蒙及び烏梁海(ウリヤンハイ・蒙古西方辺境)の地域を、卑怯な手を使って侵略しそこを共産化してしまいました。
この時アメリカはどうしたかと云うと、その恐るべき意味を理解せず、一言の批判も加え無かったのです。又アメリカは、共産主義の侵略・拡大に対し何の措置も取りませんでした。アメリカに取っては、それは白人同胞のした事であって、所詮は対岸の火事にしか思え無かったからです。
当時、共産主義の拡大の脅威を本当に認識していたのは、アジアで只一人日本だけでした。共産主義の拡大がヤガテ世界とアジアを危機に陥れる事を、日本は充分認識しその拡大に対抗して居たのです。処が、アメリカはその日本を、殊更に敵視し叩こうとしました。そこには、日本はアメリカの中国進出の障害だと見る利己的理由があったからです。
世界情勢をもっと大局的に観れば、本当に障害なのは日本では無く、寧ろ、既に始まって居た共産主義のアジア侵略でした。ソ連の共産主義者は外蒙への侵出後、甘い言葉をもって更に中国に近付き、中国を共産化しようと狙っていたのです。
こうした共産主義者の侵略、又アメリカの態度に付いて、後にダグラス・マッカーサー元帥は「太平洋において米国が過去百年に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせたことだ」(1951年5月上院軍事外交委員会)と述べて居ます。アメリカは世界情勢を見誤って居たのです。
中国の内戦に巻き込まれた日本
そうこうする内に、中国の共産主義者の謀略により、日本は中国の内戦に巻き込まれてしまいます。当時、中国の共産軍は、蒋介石の国民党軍に追い詰められ、風前の灯火と為っていました。それで共産軍は、中国内戦に日本軍を引き込み、日本軍と国民党軍を戦わせてその間に共産軍の建て直しを計ろうとしたのです。
日本には、元々中国内部に入って行く積りなど全くありませんでした。満州国が成長して呉れれば、充分だったのです。それはソ連の脅威を防ぐ防波堤と為ったでしょう。
日本は実際の処、広大な中国の内戦に迄構っている余裕等ありませんでした。増してや侵略の意志もありません。しかし度重なる中国側からの挑発、又中国側の謀略により、日本は満州国を守る為、万里の長城の内側に足を踏み入れて行きました。日中戦争(当時は支那事変と呼ばれた)の勃発です(1937年)
日本は蒋介石の軍と戦いました。しかし、日本は何度も和平に持ち込もうと努力しました。処が和平が成立しそうに為ると、必ずと云って好い程それを邪魔する事件が起き和平は破綻したのです。それ等の事件の背後には、ソ連又はアメリカの手引きがありました。彼等は日中が戦う事を望みそれを誘発したのです。
ソ連の目的は、日中戦争によって日中両国が弱体化した処を狙って、両国を共産化する事にありました。一方のアメリカは、日中戦争によって日本を弱体化させ、それによって中国の巨大市場を我がものとしようと狙っていたのです。
詰まり、この日中戦争を単に「日本の軍部の暴走」だとか「明治憲法の欠陥」「参謀本部の無能さ」等で説明する事は、単なる一面の説明に過ぎません。戦争の原因を日本国内の事だけで説明しようとするのは、自虐史観に陥れるものです。
戦争の原因は、寧ろ外に有りました。外から迫り来る悪意は、日本に否応無く決断を迫り、日本を巻き込んで行ったのです。この時アメリカは、日本を叩く為、蒋介石の国民党軍に対し莫大な援助をして行きました。何故なら、蒋介石が戦って呉れるなら、アメリカは自分の血や汗を流さずに中国から日本を追い出し、中国に自分の権益を築けるからです。
しかし、蒋介石への援助が日本叩きに効果が無い事が判ると、アメリカはヤガテ直接対決に日本を誘い込んで行きます。
中国に幻想を抱き続けたアメリカ
日中戦争開始は、日本に取って歴史の大きな分かれ目でした。満州国建国迄は、未だ良かったのです。それは後に、殆どの国が承認する処と為りましたから。けれども、日本が万里の長城を越え、中国内部に迄足を踏み入れた事は、アメリカの怒りを買う事と為りました。
アメリカとの戦争を避けると云う観点からするなら、日本は満州迄に留めて置き、中国内部へは絶対に足を踏み入れるべきでは無かったとの意見があります。日本は満州国を一人立ちさせる事だけに力を使うべきであり、日中戦争は何としても阻止すべきであったと。確かに、もしそれが出来たなら、確かにアメリカとの戦争も避けられたかも知れません。
しかし当時のアメリカは、日中戦争を望みそれを利用したのです。全く理解し難い話ですが、アメリカ人は自国に来た中国人は徹底的に差別し排斥していながら、遠い中国大陸には、ロマンチックな幻想を抱いて居ました。その幻想は、1630年代には、パール・バックのノーベル賞受賞作『大地』に描かれた中国人の姿への感動によって強められました。
又当時の大流行作家ジェームズ・ヒルトンは、中国奥地に神秘的な理想郷「シャングリラ」が有ると云う荒唐無稽(こうとうむけい)な小説『失われた地平線』を書き、これが映画化されて空前の大ヒットと為りました。
又『タイム』『ライフ』誌を創刊、ラジオ、映画、ニュースにも大きな影響力を持ったヘンリー・ルースは、宣教師を父とし中国で育ったと云う個人的な思い入れから、親中・反日の報道に徹して居たのです。彼は、蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴と絶賛しました。中国に居るアメリカ人外交官が、幾ら「現実の中国はそうで無い」と説明しても、アメリカ本国の政府や国民の反応は全く違う方向を向いていました。
毛沢東と組んで日本軍と戦った蒋介石 アメリカ人の多くは蒋介石の正体を見誤って居た
一方の蒋介石も、アメリカ人のこの奇妙な幻想を巧みに利用しました。蒋介石は、自分の軍が為した中国民間人虐殺を日本軍の仕業に見せ掛け、その捏造写真をアメリカ国内にばら撒いて、反日宣伝を繰り広げました。「日本の暴虐」を証拠付けるとされた有名な捏造写真の数々は、この時期に、蒋介石の国民党によって作られたものです。
また蒋介石夫人の宗美齢は、アメリカで開かれた講演会で「日本の暴虐」を訴えて泣いて見せました。英語はペラペラしかも美人、又キリスト教徒を演じる蒋介石夫人の語る言葉によって、異教徒の日本人と戦う敬虔なキリスト教徒夫妻と云うイメージが作られ、アメリカ世論はマンマと蒋介石の国民党支持に廻って行ったのです。
アメリカの著名人や、マスコミ、政治家はスッカリ騙されました。例えばオーウェン・ラティモアは、自分に逆らう者を機関車のボイラーで焼き殺す様な遣り方をして居た蒋介石を「真に民主的なリーダー」と迄呼んだ程です。
蒋介石は民主的なリーダー、日本軍は暴虐な人々と云う観念がアメリカ人に作り上げられて行ったのです。一方、その頃一般のアメリカ人の60%は、世界地図の何処が中国か指し示せ無い程何も知りませんでした。
又大東亜戦争開戦後のイギリスで「蒋介石は、中国内外における巧みな宣伝に支えられては居るが、その実は、腐敗した政治家達に囲まれて居るファシストに過ぎない」と評される様に為っても、アメリカは騙され続けました。イギリス外務省極東部長アシュレー・クラークは、アメリカを訪れた際「現実の中国に付いての限り無い無知」に驚愕したと云います。
偽書『田中上奏文』
その頃、中国の共産主義者が作った偽書『田中上奏文』田中メモリアルが出回る様に為りました。これは「日本は世界征服の陰謀を企てて居る」と云う内容の反日文書で、アメリカ議会でも回し読みされました。
これが偽書であることは、当時の日本の正式な上奏文形式に合致して居ないこと等からも明らかです。しかし、アメリカ人の反日感情を燃え上がらせるのに大きな効果を発揮しました。日本を「美しき民主中国」を脅かす強暴な侵略者として非難する声が上がったのです。
田中上奏文は、その後延々と反日宣伝に使われました。結局、こうして作られたアメリカの幻想により、中国の内戦は泥沼化し、日本は抜け出せ無く為ってしまったのです。しかし、日本は中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を終結させ中国を再建する為に活動して行きました。それは自力で内戦を終結出来ない中国を平定し、アジアに新秩序を建設すると云う道義的介入でもあったのです。
日中戦争が始まって約一年半後には、日本は中国の約半分を占領しました。そして中国の民衆を保護し、そこに近代的な農業や、産業、法制、教育などを持ち込み中国再建に取り組みました。しかしアメリカは、本国に巨大な国土を持ちながら、本土から遥かに離れた地球の裏側の中国に経済市場を求め、日本に対して「お前は引っ込め」とばかりに干渉し続けて来ました。
アメリカは、中国の蒋介石の軍隊への援助を強めました。アメリカそしてイギリスは蒋介石に対し、幾つかのルートを通し、多大な軍事物資や、武器、その他経済的な供給を為していました。もしこのアメリカ等からの莫大な援助が無かったら、重慶の山奥に逃げて居た蒋介石の軍は、日本の前に降参し講和に持ち込んで居たことでしょう。しかし莫大な援助を受けて居たことにより、彼の軍は持ち応えて行きます。
ルーズベルトの幻想
それにしても、蒋介石は何故日本と戦い続けたのでしょうか。蒋介石に取って本当は日本は敵ではありませんでした。彼の本当の敵は共産軍でした。にも関わらず日本と戦い続けた一つの理由は、もし日本と和解すれば「弱腰!」と大宣伝され失脚させられてしまうからでした。彼は自らの保身の為に戦い続けたのです。
もう一つの理由は、彼は日本と戦う事によって、アメリカの援助を更に引き出し、その援助を対共産党戦の為に温存する事を計って居ました。彼は「日本と手を握るぞ」と脅しを掛けながら、更なる援助を引き出して居ました。
そう遣って、アメリカからの援助を対共産党戦の為に温存して居たのです。要するに蒋介石に取って、日本との戦争は「金づる」でした。彼は権力を握るために、アメリカと日本を利用したのです。最もその蒋介石の夢は実現しませんでした。彼は結局、共産軍に負け台湾に逃げてしまう嵌めに為るからです。
しかし蒋介石の野望によって迷惑を受けたのは、アメリカと日本でした。何故なら、両者はその後大戦争を交え無ければ為らない嵌めに為ったのですから。サテ、この蒋介石を不幸にも信用して居たのが、アメリカで大統領に為ったルーズベルトでした。ルーズベルトの特殊なアジア人観は、その後の日米関係に決定的な影響を与えています。
フランクリン・ルーズベルト大統領。彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイが蠢いていた
ルーズベルトは「何時も中国人には親しみを感じて居る」と言って居ました。何故なら、彼の祖先が中国とのアヘン貿易で儲けたからでした。彼は又、蒋介石を偉大な指導者と讃美し援助を惜しみませんでした。
その一方でルーズベルトは、日本は世界征服の陰謀を企てて居る悪の帝国と信じて居ました。彼は「田中上奏文」とホボ同じ内容の話を学生時代に聞き、それを信じ続けて居たのです。更にルーズベルトは、スミソニアン博物館教授アレス・ハードリシュカに「日本は何故邪悪なのか」を内々に研究させ、その結果「日本人が邪悪なのは、我々よりも頭蓋骨の発達が2000年遅れて居るからだ」と云う様な事を本気で信じて居ました。その為に彼は、日本人を病原菌に例え「日本人の根絶」を理想として抱いて居たのです。
ルーズベルトは又、中国に対しては甘い幻想を抱き、更に共産主義のソ連に対しても甘い幻想を抱いて居ました。ルーズベルトには共産主義への警戒感が殆ど無かったのです。そして第二次大戦中は、ソ連と同盟を組み、アノ大虐殺者スターリンと仲良くしました。
ルーズベルトは、スターリンの望むものを挙げていれば、彼は侵略やアメリカの邪魔をし無いだろう等と言っていました。その為ルーズベルト政権の中枢には、ソ連のスパイ網が広がり、暗躍を続けて居ました。アメリカはその後、その為に悩まされる事に為ります。
さて、アメリカやイギリスが蒋介石の国民党軍を支援した為、日中戦争は、日本対白人の代理戦争の様相を呈しました。蒋介石は、白人の傀儡となり戦争は泥沼化しました。
日本の息の根を止め様としたアメリカ
このアメリカやイギリスが蒋介石に援助物資を送って居たルートを「援蒋(えんしょう)ルート」と云います。「援蒋ルート」の全輸送量の半分以上を占めて居たのは、仏領インドシナから中国へのルートでした。
日本は止む無く、そのルートを遮断する為、ベトナム北部に軍隊を進駐させます.(1940年9月)この進駐は、当時のイギリスやアメリカ、ソ連がして居た軍の外国への進駐に比べ非常に紳士的なものでした。特にソ連のバルト三国への進駐は、侵略に他為りませんでした。アメリカ、イギリスも不戦条約違反を犯して居ました。
一方、日本のベトナム北部への進駐は、2ヶ月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末、その地域を支配して居たフランス政府からOKを貰ってのことだったのです。処が、この時アメリカは、自国やイギリス、ロシア等のしたことには何も触れず、只日本を非難して、日本を封鎖する為の「ABCD包囲網」と云うものを作りました。
ABCDとは、アメリカ(America、イギリスBritain、中国 China、オランダDutchの頭文字です。これはアメリカ主導に行なわれた日本に対する厳しい経済制裁でした。ABCD包囲網により、日本には石油や鉄を初め、生活必需品等が入ら無く為ってしまいました。
しかし、こうしたことも全て、先に述べた「オレンジ計画」の一環だったのです。今日も、アメリカはシバシバ他国に対して「経済制裁」と云う手法を執ります。最近では、イラクや北朝鮮に対する経済制裁等です。しかし、最近のアメリカは同じ経済制裁をするにしても、大抵は行き過ぎ無い賢い遣り方をする様に為っています。
余り遣り過ぎると、向こうが牙を剥き戦争を起こして来るからです。けれども、ABCD包囲網と云う経済制裁は、正に日本に「死ね」と言う程のキツイものでした。
ですからこの経済制裁は、戦争を誘発するものだとして、ルーズベルト大統領の前のフーバー大統領は決して行なわ無かったのです。しかしルーズベルトはこの経済制裁に踏み切りました。貿易に依存するしか生きて行く方法の無い日本は、正に窮地に立たされました。更に、1941年にアメリカは日本人の在米資産を凍結し、又日本に対する石油の全面禁輸を実施しました。
石油が入ら無ければ、車も走らず飛行機も飛ばず工場も動きません。日本の産業は停止してしまいます。石油の備蓄を僅かしか持た無い日本に取ってこれは死活問題でした。これ程キツイ事をすれば、日本は戦争を決意するだろうと云うことは、もちろんアメリカにも判っていました。しかしアメリカは、それを望んでいたのです。
以前私は、イスラエルに住むユダヤ人歴史家のアビグドール・シャハン博士が来日した時、彼を連れて日本の神社を案内した事があります。その時彼はシミジミトこう言いました。「多くの人は、日米戦争は日本軍の真珠湾攻撃によって突然始まったと思って居るがそうでは無い。その前に、アメリカが日本に対してして来た悪辣な事柄の数々を知ら無ければ、何故日米戦争が始まったか理解出来ない」
正にそうなのです。日米戦争は、真珠湾以前から始まって居ました。それでも、日本はこの時も未だ、米国との関係修復の為に最後の努力を積んで居ました。日本は、野村駐米大使と来栖(くるす)臨時大使を派遣し、交渉に当たらせたのです。彼等は、日米首脳会談を強く申し入れました。
日本側は、ABCD包囲網を解いて呉れるなら、中国大陸からの撤兵も考慮するとの案を用意して居ました。そして中国でのアメリカに対する門戸開放・機会均等も約束すると。これはチャンと記録にもあることです。日本側は大きな妥協の条件も用意して居たのです。しかし、当時のルーズベルト大統領は、話し合いの場に出て来ませんでした。
もし両者が誠心誠意、交渉のテーブルに着いて話し合ったなら、日米戦争は回避されたに違いありません。処が、アメリカ側はこの時、ノラリクラリするばかりで、交渉の要求にも条件にも返答し無かったのです。
そしてやがて1941年11月26日、アメリカのハル国務長官は野村大使と来栖大使を呼び出し、突如、アノ悪名高い「ハル・ノート」と云う一方的な対日要求を通告して来ました。これが、日本に真珠湾攻撃を決意させるものと為ったのです。
−2につづく
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