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2020年01月17日

日米開戦の「真の原因」を作ったのは誰か




 日米開戦の 「真の原因」を作ったのは誰か

           〜PHP Online 衆知 歴史街道 1/17(金) 11:52配信〜


       1-17-25.jpg

         日本海軍攻撃隊の爆撃で炎上する真珠湾のアメリカ戦艦


           1-17-26.jpg

 日米戦争は、第二次世界大戦の一側面であった。ヨーロッパの戦いから派生した局地戦であったと言い換える事も出来る。米国のフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下 ルーズベルト)も英国のウィンストン・チャーチル首相も真の敵はナチスドイツで在ると考えて居た。

 戦後教育で育った世代は、日本の支那大陸への「侵略的」外交政策が、アノ戦争の原因であると考える。仮に日本の満洲事変以降の外交が侵略の連続であると云う解釈を是とするとしても、筆者はこの様な解釈はして居ないが・・・それは日米開戦の原因では無かった。

 ※本稿は歴史街道編集部編『太平洋戦争の新常識』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです。

 日米開戦と日中戦争は全く関係が無い

 英国がドイツの空爆(The Blitz)に苦しみ、米国にどれ程救援を求めてもルーズベルトは動け無かった。米国に取って、英国は言葉を同じくする最も親しみのある国である。その国が敗北寸前まで追い込まれて居た。それでもアメリカ世論は動かず、ルーズベルトは身動きが取れ無かった。
 世論の80パーセント以上が頑として、ヨーロッパのゴタゴタに巻き込まれる事を拒否し続けた。そのアメリカ国民が、中国の為に自国の若者の命を犠牲にしても構わ無いと思う筈も無い。

 日米開戦と日中戦争は全く関係が無い。それにも関わらず、日中のゴタゴタが日米の戦いの原因であったかのごとく語られるのは、戦後の日本国民にその様に思わせたい歴史家や外国勢力が存在するからだ。
 日米開戦の真の原因は、ルーズベルトとチャーチルが、飽く迄もナチスドイツとの戦いを望んだからである。ルーズベルトがドイツとの戦いを望んで居たことはハーバート・フーバー元大統領、ハミルトン・フィッシュ下院議員等、彼と同時代を生きた政治家が既に多くを語って居る。

 ルーズベルトが、

  ワシントン議会の承認無く、ドイツ海軍(Uボート)への攻撃命令を発して居たこと
  国民に対してその事実を隠し、米艦船がUボートから一方的に攻撃を受けて居ると説明して居たこと
  有り得無いナチスドイツによる米本土攻撃の恐怖を煽った事


 一方でアドルフ・ヒトラーは、
 
  ルーズベルトの挑発に乗るナ と海軍に厳命して居たこと

 ・・・等は、既に好く知られて居る。

 ルーズベルトは密使の報告を無視した

 もしルーズベルトが、ヨーロッパの戦いに巻き込まれる事を怖れ、そうした事態を真に避け様として居たのであれば、ドイツに宣戦布告した英仏と独の間に立って仲介に入る外交的オプションがあった。アメリカの強大な国力を背景にした外交を展開すれば、少なくとも暫定休戦協定を締結させられる可能性があった。米国には戦争当事国に痛み分けを強制出来る力があったのである。
 実際、当時のルーズベルト支援者の中にも、彼がその様な外交を展開して呉れるだろうと期待する者が少なく無かった。その一人がウィリアム・ローズ・デイヴィスであった。

 デイヴィスは独立系石油王であり、ルーズベルトの有力支援者だった。ルーズベルトが再選を目指した選挙戦(1936年)では、30万ドルを拠出している。彼は、民主党の有力支持団体であるアメリカ鉱山労働者連盟会長ジョン・L・ルイスの友人でもあり、ホワイトハウス幹部とは太い人脈があった。
 1939年9月15日正午少し前、彼はホワイトハウスでルーズベルトと会っている。このことはルーズベルトの公式スケジュールの控えから確認が出来る。自身が密使と為り、ドイツ指導者に休戦交渉に応じる様説得したいと語り、ルーズベルトの了解を得た。コーデル・ハル国務長官、スティーブン・アーリー報道官、ジョン・ルイス会長も同席した。

 ベルリンに入ったデイヴィスは、ヘルマン・ゲーリング元帥と複数回に渉る交渉に臨んだ。ルーズベルトに仲介の意思があると聞かされたゲーリングは驚いた様であったが、米国の仲介努力を感謝し次の様に語った。

 「貴殿の言葉には驚かされた。ルーズベルト氏は我が国に対しては悪意を持ち、英仏への同情心が強いと思って居た。和平の維持に付いてドイツは常にそれを望んで来た。只対等の関係で無くては為ら無い。今貴方が披瀝した考えは、ヒトラー総統及び我が政府のこれ迄の主張に合致する。
 ワールドコンフェランス・世界規模の会議を開く事。それだけが、和平を再構築出来る手段であろう。我が国は当然に、ルーズベルト氏がその様な会議を主宰するのであれば歓迎である。会議の目的は、恒久的和平の構築である」


 ゲーリングは「世界会議は何処で開催されても構わ無い。ワシントンであっても自身が代表として参加する」とまで述べた。ナチス政権の講和(休戦)を望む態度を確認したデイヴィスは、直ちにワシントンに戻った。しかしルーズベルトは、自身が遣(や)った密使であるにも関わらず、彼と会おうとし無かった。理由は「会議中で忙しい」であった。
 業を煮やしたデイヴィスは、ドイツが講和の意思を持って居ることを手紙で伝えたが、ルーズベルトから返答はな勝った。

 チャーチルから仲介への反発があった可能性も否定出来ないが、ルーズベルトにはナチスドイツと外交交渉するつもりは、鼻から無かったと推論しても間違い無かろう。その後、デイヴィスがホワイトハウスに招かれる事は無かった。

 ヒトラーは副総統ヘスをイギリスに送り込んだが・・・

 ナチスドイツは開戦後、暫くはその戦火を西側に広げ無かった。1939年9月1日のポーランド侵攻から翌1940年5月の間は、独と英仏との地上戦は殆ど無い。この時期を欧米の歴史家は「Phony War・偽りの戦争」と呼んで居る。

 筆者は、ヒトラーが英仏とは戦いたく無い姿勢を見せる事で、暫定休戦協定に入る機会を窺って居た時期ではないかと考えている。独ソ戦の緒戦(バルバロッサ作戦)の少し前の時期(1941年5月から6月)には、英国の敗北は濃厚であり、ドイツとの和解を探る事の是非が、英国内では真剣に議論された。
 既に中立の立場をかなぐり捨てて対英軍事支援を強化して居たルーズベルト政権内部からも、軍事支援を中止すべきだとする声が高まって居た。こうした状況の中にあってヒトラーは、対英戦争の休戦を求めて最後の賭けを打った。勝勢にある時期だからコソ出来る博打であった。

 1941年5月10日、アウクスブルクの町(ミュンヘン北西およそ70キロメートル)は晴れ上がり、絶好の飛行日和であった。この日の夕刻(5時45分)、一機の双発機(メッサーシュミットBf110)が、北に機首を向けてこの町を飛び立った。
 操縦するのは、ナチスドイツのナンバーツーであるルドルフ・ヘスナチス副総統だった。ヘスは、ミュンヘン一揆(1923年)の失敗でヒトラーと共に収監されて以来、苦難を共にした同志であった。

 北海を北上した同機は北緯55度40分付近に達すると、進路を西に取りスコットランドの町グラスゴーを目指した。ヘスがグラスゴーの南およそ15キロメートルの農村イーグルシャムにパラシュート降下したのは、その日の夜11時を少し回った時のことである。
 ヘスがスコットランドを目指したのには理由があった。何とかしてハミルトン公(英国空軍准将、スコットランド防空担当)に会い、彼を通じて英国王ジョージ6世との謁見を実現させたかったのである。

 国王を説得し頑迷なチャーチルの対独外交を変更させ、暫定休戦に持ち込みたかった。ヘスは、着地の際に足を挫き身動きが取れ無く為って居る処を、イーグルシャムに住む農夫に発見された。 知らせを受けたハミルトン公は、メリーヒル仮設病院に運ばれて居たヘスに会った(翌朝10時)。公の報告書には次の様に書かれて居る。

 「彼は、『(ヒトラー)総統は英国を敗北させようとは考えて居らず、戦いを止めたいと願って居る。今回の飛行は4度目であり、以前の試みは悪天候で失敗した』と語った」

 ハミルトン公は対独宥和派の有力者であり、国王にも近い立場だった。ヘスは公にヒトラーの思いを伝える事は出来たが、そこ迄であった。国王に会うことは叶わ無かった。グラスゴー郊外の古城(ブキャナンキャッスル)に幽閉され、その後ウェールズの病院(Maindiff Court Hospital)に移送された。
 チャーチルは、ヘスを厳重な監視下に置いただけで、決して会おうとし無かった。英国存亡の危機にあって、ナチスドイツのナンバーツーが自身の生命をも顧み無い決死行で、スコットランドにパラシュート降下したのである。

 筆者には何故チャーチルがヘスに会おうとし無かったのか理解出来ない。リアリストの政治家であったなら少なくとも直接ヘスの話を聞き、ドイツの真意を探ろうとした筈である。

 独ソ戦が局地戦に終始して居た可能性

 正統派の語る歴史では、ゲーリングが講和交渉に前向きであった事(デイヴィス密使交渉)も、ヘスの決死行も語られ無い。ドイツが講和を願って居たことを書いてしまうと、ルーズベルトとチャーチルの戦争指導が誤って居たのではないか、との疑念を湧かせる事に為る。アノ戦争は、ルーズベルトとチャーチルの、二人の特異な政治家が作った戦争である。

 「二人の怪物(ヒトラーとスターリン)の戦いは不可避である。両者が死闘を続け、国力を浪費した時点で仲介に入るべきだ」と考えて居たハーバート・フーバー元大統領の見立て(フーバー著『裏切られた自由』)には合理性がある。
 独ソの戦いは激しいものに為っただろうが、局地戦に終始して居た蓋然性は十分にあった。そう為っていれば世界大戦にも為らず、日米戦争等起きる筈も無かったのである。

 ルーズベルトは1941年に入ると、苛めにも似た対日強硬外交を本格化させたが、それは日本を対米開戦させ、それを口実にアメリカが対独戦に参戦しようと云う思惑の為であり、飽く迄英米両国の対独外交の一側面であった。この視点(合理的推論)コソが、アノ戦争とは何だったのかを解く鍵なのである。


          歴史街道編集部     以上









 【管理人のひとこと】

 この文章では、米英のドイツに対する徹底的な敵愾心が第二次世界大戦を拡大させた、との様な主旨と受け取れます。この様に今でも、アノ戦争とは何だったのか・・・これは弛(たゆ)まぬ私達の疑問であり、永遠の真実追求のテーマでもあります。
 丁度この問いに対する幾つかの文章を次回から掲載しょうと思います。皆さんと一緒に考えて行きましょう・・・物語として読まれても興味の湧くストーリーもあります・・・









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