2020年01月19日
エジプト版「明治維新」が失敗した本質的理由
エジプト版「明治維新」が失敗した本質的理由
〜東洋経済オンライン 歴史キュレーター 尾登 雄平 1/18(土) 5:50配信〜
カイロにある ムハンマド・アリ・モスク(写真 HiRo PIXTA)
〜日本の政治・経済・社会の大変革を成し遂げた明治維新。同じ様に近代化を目指したのがアフリカの大国エジプトですが、その改革はエジプト社会に光と闇を生む事に為ります。『あなたの教養レベルを劇的に上げる 驚きの世界史』の著者、尾登雄平氏にエジプトの近代化への改革に付いて歴史を流れと共に判り易く解説して貰いました〜
エジプトに遣って来た西洋の衝撃
第7回十字軍の混乱の中で生まれたエジプトのマムルーク朝は、1517年に「イスラムの盟主」オスマン帝国に滅ぼされその支配下に入りました。
処が、16世紀からオスマン帝国の無敵神話は崩れ始めます。エジプト南部は、過つては小麦の一大産地でオスマン帝国の穀倉庫でしたが、土着の領主がフランスから生糸や綿花を取り入れて栽培し始め、フランスや仏領西インド諸島と経済的に強く結び付き、フランスの世界的な商業ネットワークの一翼として取り込まれてしまいました。
ナポレオンの時代、フランスはイギリスのインド支配の打破と通商路の破壊を目指してエジプトに侵攻。マムルーク主体のエジプト軍は、カイロ西部のインバーバで行われた「ピラミッドの戦い」でナポレオン軍に大敗を喫し、2年間ではありますがフランスの支配を受ける事に為ります。
この敗北によりエジプト人は、西洋の軍や技術の脅威をマザマザと見せ付けられました。フランスの支配はエジプト人に民族意識や攘夷意識を芽生えさせ、カイロでは大規模な抵抗運動に発展しました。この人々のエネルギーを束ねて近代化を目指したのが、エジプトの維新の立役者、ムハンマド・アリーです。
その後のムハンマド・アリー
ムハンマド・アリーはオスマン帝国のアルバニア人非正規部隊を率いてフランス軍との戦いに参戦し、そこから急速に頭角を現して行きます。ナポレオンのフランス軍が降伏しイギリス軍も撤退した後、エジプトは諸勢力が主導権を巡って争う内戦状態に突入します。
ムハンマド・アリーはその中で競争に打ち勝ってエジプト人の支持を得て総督に就任。オスマン帝国の承認も得る事に成功します。
ムハンマド・アリーのエジプト維新
エジプト総督と為ったムハンマド・アリーは、オスマン帝国の名目的な宗主権の下、実質的な独立国を築き近代化政策を進めて行きます。先ずムハンマド・アリーが乗り出したのは軍事改革です。
それ迄の特定の部族や集団に依存して居た軍の組織を廃止し、初めてエジプト農民に徴兵制を敷き兵力を増強し、フランス人の軍事顧問を招聘し訓練を施しました。近代的に生まれ変わったエジプト軍は、オスマン帝国軍が手古摺(てこず)って居たワッハーブ派やエジプトの反オスマン騒乱・ギリシアの独立勢力を瞬く間に鎮圧して見せ列強を驚かせました。
しかし、英仏露の3カ国は、オスマン帝国にギリシアの自治と停戦を要求。オスマン帝国は同意出来る筈も無く、1827年10月、オスマン帝国とエジプトの連合艦隊と英仏露3カ国連合艦隊との間に戦闘が勃発し、オスマン・エジプト連合艦隊は敗れてしまいます。
激怒したオスマン帝国の皇帝マフムト2世は、3カ国に宣戦布告しますが連戦連敗。1829年9月にアドリアノープル条約を結び、ギリシアとセルビアの自治を認めさせられ、翌年ギリシアは独立する事に為ります。
オスマン帝国のマフムト二世
この頃、ムハンマド・アリーは、オスマン帝国にギリシア戦役の論功行賞として要求して居たシリア・・・現在のシリア・ヨルダン・イスラエル・パレスチナの総督職を要求します。しかしオスマン帝国も財政難でマフムト2世も首を縦に振ら無い。
ムハンマド・アリーは実力でシリアを奪取すべく、急ピッチで軍の再建を進め、2年後の1831年10月に歩兵と騎兵計八個連隊がシナイ半島に向けて出発。海でも軍艦16隻を始めとする海軍がシリアへ向けて出港しました。ムハンマド・アリーの息子で有能な将軍イブラーヒム率いるエジプト軍は、新たに設立されたオスマン帝国の洋式軍隊相手に連戦連勝を続け、滔々(とうとう)首都コンスタンティノープルの近くに迄迫りました。
此処で、エジプトの強大化を恐れるロシアとイギリス・フランスの介入があり休戦協定が結ばれ、シリア地方のエジプトの領有が認められました。イブラーヒムは獲得したシリア地方の土地の国有化や税制改革・教育等近代化策を進めて行きます。この様なエジプト軍の成功は、社会、経済、産業、教育等広範囲な面での近代化に裏打ちされて居ました。
ムハンマド・アリーは権力奪取後、直ぐに財政・税制改革に乗り出し中間搾取層を撤廃し、農地を一元的な管理の下に置き、効率的な徴税を可能にしました。又、農産物の専売制を実施し、小麦や米の輸入で外貨を獲得します。専売制や国の独占は農業のみ為らず工業面でも実施されました。
ムハンマド・アリーは国家主導で製造業を育成し、軍需工場、綿工業、毛織物等様々な分野の国営工場を設立。同時に安くて品質の高いイギリス産の製品の輸入を規制し、産業の保護を図りました。ムハンマド・アリーは「後発国を発展させる為には自由貿易は規制すべき」と考えて居り、国産品の品質が上がり国際的に競争出来る水準に為るまで、国による保護と育成が行われるべきとしました。
ムハンマド・アリー統治下のエジプトの経済開発体制は「軍・政治エリートの強力なリーダーシップの下、有能な官僚テクノクラートが経済政策を立案・実行して行き、上から企業・資本家・労働者を育成して行く」と云う典型的な開発独裁型でした。
これは20世紀半ば以降に、韓国やタイ・台湾・シンガポール等の国々が経済発展を成し遂げた遣り方の先駆的なものでした。しかし、運悪くこの様な成功は長続きしませんでした。
エジプトの敗北と挫折
イブラーヒムが統治するシリア地方では、エジプト流の急速な近代化政策が採られますが、各地で反乱が相次ぎました。これに乗じてオスマン帝国のマフムト二世は失地の回復を図ろうとして対立が深まり、1838年5月にムハンマド・アリーはエジプトの独立を宣言する迄に至ります。(後に撤回)
翌年、マフムト2世はエジプトに宣戦布告。アナトリア方面軍ハーフィズ・パシャ率いる8万の軍がシリアに向かいますが、又してもエジプト軍はオスマン帝国軍を各地で打ち破り、オスマン帝国はエジプトに降伏してしまいます・・・これは、オスマン帝国の実質的な解体と新興国家エジプトの台頭、そしてロシアの南下を決定付ける出来事でした。
これ以上の事態の進展は自国の外交・通商政策の障害と為ると判断したイギリスが介入に乗り出します。イギリスは列強に働き掛けた上でオスマン帝国にエジプトとの妥協を禁止し、エジプトにこれ迄獲得した領土の内スーダンを除く全てをオスマン帝国に返還する様に要求。
この強硬姿勢に、オスマン帝国も方針を転換しエジプト軍の撤退を要求する通告を突き着けます。ムハンマド・アリーはフランスの介入を期待しますが叶わず、イギリス・オーストリア・オスマン帝国連合軍の攻撃を受け、シリア各地で連戦連敗・・・エジプト軍は壊滅寸前に陥り1841年に降伏。ロンドン条約を結びました。
この条約でエジプト国軍は必要最小限にまで縮小させられ、主要産品の政府の独占・専売も廃止され、治外法権や低率の関税等、経済的にも不利な条項を認めさせられました。ここにおいて、ムハンマド・アリーの「維新」は完全に崩壊と為ります。
彼が生涯を賭けて築き上げて来た新興大国エジプトは、その後イギリスの経済的な従属国と為って行くのです。ムハンマド・アリーはその後も、イギリスの軛(くびき)の下で何とかエジプトの財政や国際関係を再生させようと努力しますが、失意の中で1849年8月に80歳で亡く為りました。
エジプト近代化政策がもたらした光と闇
ムハンマド・アリーは一代でエジプトを強大国に成長させたドエライ男ですが、彼がエジプトにもたらしたのは好いことばかりでは無く、近代化に伴う様々な歪みも社会にもたらしました。
ムハンマド・アリーは急速な国の近代化を進める為に、軍備拡張やインフラ整備や工場投資に莫大な費用を投じました。ギリシアで壊滅させられた海軍を再建するのにも相当な費用を使って居ます。しかし結局、領土拡張も失敗に終わり、経済開発の為の多額の投資もコストに見合うだけの充分なリターンを得られず、借金は天文学的に膨れ上がって行きました。
その財務赤字の皺寄(しわよ)せは、支配層を介した農民への無茶な労働ノルマや重税として降り掛かりました。農民の中には生活費にすら困窮し土地を売って逃げたり、借金をして破産したりする者が相次ぐ様に為ります。
農民を困窮させたのが、政府が強制した無償労働です。エジプトでは伝統的に「アウナ」と呼ばれる、共同体のメンバーが集まり地域の為に無償で働く慣習がありました。
村々を囲む灌漑用水路を掘ったり、川の氾濫を防ぐ堤防を築いたり、その地域の農業に深く根ざしたものでしたが、ムハンマド・アリーはこの慣習を拡大解釈し「エジプトと云う故郷の為に」農民達を遠方に派遣し、様々な土木工事を課しました。この労働に対し報酬が支払われる事はありませんでした。
農民は困窮し、一家で逃散する者が相次ぎ、無人耕作地帯が多数出現します。政府はそれ等無人の地を王族やトルコ人支配層・ザワート層に下賜しました。農民の中には、ザワート層に取り入って特権を手に入れ、村落の有力者・アーヤーン層と為る者が出現しました。
彼等は各村落を支配して農民を支配下に置いて綿花栽培の経営層と為り、エジプト農民を収奪する国際金融資本の手先と為ります。
イギリスによって借金漬けと為ったエジプト
ロンドン条約によって海外資本の規制が撤廃され、様々な海外資本がエジプトに進出して来ますが、大きな影響力を持ったのがギリシア人の金融業者でした。彼等は治外法権を盾にしてヨーロッパ式の商習慣を持ち込み、困窮するエジプト農民に高利で金を貸しました。
勝手を知ら無い農民は土地を担保にして金を借り、返済出来ずに破産して土地を奪われてしまいます。金融業者は、財政危機にあるエジプト政府が進めるインフラ整備に投資する事で、有利な条件でインフラの使用を認められました。
エジプトが借金塗れに為ると彼等は特権的に港湾施設を利用する権利を得て、綿花の輸入業を独占的に行う様に為ります。この様な金融業者はグローバル金融資本の末端組織であり、中心部はイギリスの大銀行や証券会社。イギリスの金融業者は上は政府から下は農民迄エジプトを借金漬けにしました。
エジプト政府の公的債務は1864年〜73年には6520万ポンドに迄膨れ上がり、滔々1876年、借金が国庫の45%にも達し、エジプト政府はイギリス・フランス両国による財政管理下に入る事に為りました。
こうしてエジプトの近代化改革の結果は日本とは異なり、欧米に比する列強の仲間入りを果たす処か、半ば植民地状態に置かれる事に為ってしまったのです。
歴史キュレーター 尾登 雄平氏 以上
【管理人のひとこと】
日本は明治維新が起き、西洋列強からの干渉に屈せず何とか独立を維持しますが、何故、大国であるエジプトが植民地としてその後も支配され続けたのか・・・実に色々な因果関係が有ったのでしよう。日本とエジプトの違いとは・・・地理・地勢的問題・歴史・・・管理人には理解出来ませんが、その中の地理的な問題が大きかったのでは無かったのかと想像します。
エジプトの地理は、地中海を挟んで直ぐにヨーロッパ諸国が控え、更にこの地を支配した強大なイスラム教国・オスマン帝国が存在して居る。更には、東方には土着の各種族が群雄割拠する中東地域が・・・詰まりこの様に、当時の世界を動かして居る歯車の中に埋没する脆弱性を元々持って生まれた地域だった。
東洋の一番端の海の彼方にポツンと浮かぶ日本とは、地理的環境が余りにも異なります。幕末時、西洋列強が日本を植民地として侵略し無かった、その理由はハッキリしませんが「植民地として武力で支配する価値」に有ったのでは無いでしょうか。詰まり、何等の資源も無い、当時として5千万人弱程度の人が暮らす貧しい島国にその魅力が無いとされたので無いでしょうか。
エジプトの様に西洋列強が、維新側・徳川側にドンドン資金を貸し付けて内戦を盛んにし・・・借金漬けにし荒廃した国を得た処で、その後の国を維持するだけで相当な投資が必要と為り、借金の取り立ても空しくなる・・・詰まり赤字経営の植民地と為るのが目に見えて居たのです。超大国・オスマン帝国の衰退と共に時代が大きく変わり始めた時代も在ったのでしょう・・・それとも、日本は幸運に恵まれた「神の国」だったからか・・・歴史を学ぶのは、この様にドンドン想像を膨らませ架空の夢や物語を創造出来る楽しみにあります。
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