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2020年01月17日

ゴーンが本当に凄かった時代 彼は日産も私の記者人生も変えた




 ゴーンが本当に凄かった時代 彼は日産も私の記者人生も変えた

          〜現代ビジネス 井上 久男 1/16(木) 7:01配信〜

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 〜レバノンに不法出国して逃亡した日産自動車前会長のカルロス・ゴーンは総じて「名経営者だった」と言われる事が多い。だが果たしてゴーンは本当に優れた経営者だったのか・・・その点を検証するには、ゴーンの来日から逮捕までを、日産の中期経営計画をベースに3つのフェーズに分けて見て行く必要がある。
 拙著『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』から一部抜粋、それに加筆しながら前編と後編の2回に分けて説明して行く〜



 日産の「体質」を変えた男

 ゴーンは1999年春に来日し、日産の経営トップと為り再建を指揮した。当時の日産は債務超過目前で、模索して居た独ダイムラー社との提携交渉も立ち消えと為り、倒産の2文字がチラツク状況だった。そこへ乗り込んで来たのが、日産が電撃的に提携を決めた仏ルノー副社長のゴーンだった。

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 ゴーン改革の代名詞とも為ったのが、最初の中期経営計画「リバイバルプラン」00〜01年度だ。この計画を推進するに当たって、ゴーン氏がまず取り組んだのがクロスファンクショナルチーム・CFTの設置だった。訳すと機能横断チーム
 日産が経営危機に陥った要因の一つが縦割り組織の弊害であり、開発、生産、購買、販売等の各部門が、経営不振の理由を押し付け合って居た。こうした体質なので、意思決定が遅れた上、全体最適も図れ無い傾向にあった。ゴーンはソコに大ナタを振るって体質を改めさせた。

 「研究開発」「販売・マーケティング」「車種削減」等課題毎に9つのCFTを設置。「パイロット」と呼ばれるチームリーダーは、殆ど40代の課長クラスに任せた。一つのチームには関係する複数の部門から人材を集めて構成することにより、部門最適では無く、全体最適を目指した。「リバイバルプラン」の原案はこのCFTが作った。

 実はトヨタにも似た様な発想があった。トヨタでは新設組織の名称に「BR・ビジネス・リフォーム」と付けるケースがある。1990年代初めの急激な円高とバブル経済崩壊によって収益力が悪化した際、経営企画部内に「BR収益管理室」を置いたのが最初と言われる。
 開発や営業、経理など会社の複数の部門から人を集め、車の設計や販売の方法などアラユル仕事の進め方を見直した。小手先だけの改革で目先の利益を追うのでは無く、企業体質そのものを変える様な改革を目指したのである。以降、トヨタにおけるBR組織は会社の課題に素早く対処する緊急プロジェクトチームの様な位置づけと為った。

 「コミットメント」概念を輸入した

 「リバイバルプラン」の発表記者会見に、当時、朝日新聞経済部の日産担当記者として筆者は臨んだ。印象に残っているのは、ゴーンがプレゼンテーションをする為に映し出された画面に「診断」と云う文字が刻まれ、1988年から1998年迄の過去11年間の業績を徹底分析して居ることだった。
 ゴーンは「利益追求の不徹底、顧客志向性の不足、危機意識の欠如等が業績不振の原因であり、これを修正すれば再生の可能性が大である」と説明した。

 このリバイバルプラン策定に当たり、日米欧で200人が直接関与し、2000件のアイデアの提案を受け、その内400件を承認した事も記者会見で明かした。策定のプロセスを明確にする事で、再建計画に説得性を持たせると共に、自分達で作ったプランだから実行責任がある事を訴えたかったのであろう。
 この時、ゴーンは数字を根拠にする経営者だと筆者は感じた。グループ従業員の14%に当たる2万1000人の削減、コストの6割を占める部品調達では購入先を1415社から600社に絞り込む、そして航空宇宙部門等本業以外の事業の売却等により、総額1兆円のコスト削減を目指す・・・具体的な数字を掲げながら細かく、且つ分かり易く説明した。

 そしてゴーンは「3つのコミットメント」と云う言葉を掲げた。今でこそコミットメントと云う言葉はダイエットのCMにも使われ「結果に責任を持つこと」と多くの人が理解出来るだろうが、当時はメディアもどう訳すか迷い「必達目標」と表現した。このコミットメントと云う考え方もゴーンが日本企業に持ち込んで来たものだ。

 その3つの必達目標とは、2001年3月期迄の黒字化、2003年3月期迄に営業利益率4・5%の達成と、有利子負債の50%削減である。ゴーンは「黒字化出来無かったら責任を取って退任する」と宣言した。
 当時の日本企業は全般的に株式の持ち合いにより、株主からの「規律」が働き難かった為、経営は「ヌルま湯」に為り勝ちだった。経営責任は大きな不祥事でも起き無い限り、棚上げにされる風土があった。ゴーンはそうした風土にもメスを入れる事にしたのだ。

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 僅か2年で「過去最高益」
 
 そして驚くべき日が遣って来た。「リバイバルプラン」発表から1年後の2000年10月30日、ゴーンが記者会見し、2001年3月期決算の通期業績見通しで当期利益が過去最高の2500億円に為ると発表したのだ。筆者も記者会見に臨んで居たが、この数字が開示される為り、記者会見場から飛び出して「1面のスペースを空けて置いて下さい!」とデスクに第一報の電話を入れた。
 過去最高益の要因は、北米での販売増やコスト削減による効果だった。「リバイバルプラン」の効果が即効薬として現れて居た。前年に巨額の引当金を積めば翌年はV字回復し易い財務テクニックがある事も後に分かったが、倒産寸前だった会社が僅か2年後に最高益をヒネリ出すとは、驚き以外の何物でも無かった。

 V字回復を受け、筆者は2001年5月、ゴーンの一日を追う取材ルポをした。ゴーンは朝7時40分には会社に出勤し、当時、東銀座にあった日産本社15階の執務室に向かい、自分で自分の部屋のカギを開けて居た。8時頃までは今日遣る仕事の優先順位を考える。
 即決即断のケースが多い為、机の上にあった決裁書類を入れる3つの箱は全て空だった。報告文書を持って行くと、書類を破りながら「君だけが頼りで信用して居る、だから書類は不要だ」と言う事もあった。

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 当時の関係者は「厳しいリストラ等を繰り返して来たので、悪口を言われるのは慣れて居るが、親しみ易さが足り無いと言われる事をゴーンは気にして居る」と語った。夜も遅いと11時位まで働いて居た。目的が明確では無い会食は全て断るとの事だった。ゴルフも嫌いだった。
 ホボ一日をその為だけに使う事が、彼流の考えでは無駄なのだそうだ。ワーカホリックの様に早朝から夜遅く迄働くので「セブン-イレブン」と仇名が付いた程だ。

 この取材の時、ゴーンに今どんな思いで働いて居るかと聞いたら「社員や株主が誇りに思える会社にしたいし、日産で働く事が社会や家族に貢献して居ることが分かる様にしたい。遣ることはマダマダある」との返事が返って来た。

 経営者としての絶頂

 リストラだけでは無く、ゴーンは攻めの姿勢にも転じ、2001年には約1000億円を投じて米国での新工場建設や軽自動車への参入等を決めた。リバイバルプランは当初2002年度迄の3年間だったが、1年前倒しで目標をクリアした。3つのコミットメントも全て達成した。
 当時のゴーンは、単に数字を管理したり、リストラをしたりするだけでは無く、自動車メーカーの生命線である商品開発にも積極的に口を挟んだ。クルマづくりにも情熱を持って居た。

 2000年1月に「プログラムダイレクター」と云う役職を設置したのはその象徴的な動きだ。一人の「プログラムダイレクター」が、担当する車種群でデザイン、技術、製造、購買、販売など6部門に指示する権限を持ち、収益に対して責任を負う。
 各部門の専門性を束ねて結果を追求する為の役職であり、これは単にクロスファンクショナルな活動をするだけでは無く、収益確保も同時並行で追求すると云う狙いがあった。

 続いてゴーンはリバイバルプランに続く中期経営改革「日産180」02~04年度を策定した。この中期経営計画では、グローバル販売台数の100万台増、営業利益率8%の達成、有利子負債ゼロ(自動車金融事業を除く)をコミットメントとして掲げ、全て達成させた。

 2004年3月期には営業利益率11・1%を記録。ゴーンが君臨した19年間で最高値だった。 
 世間の見方も、リストラへの反発はあったが、丁度2001年に首相に就任した小泉純一郎が掲げたスローガン「構造改革なくして景気回復なし」と相まって、ゴーンが遣った「痛みを伴う改革」が肯定的に捉えられた一面もある。この2つの中期計画の間、即ち2000〜2004年度がゴーンの経営者としての絶頂期だったかも知れない。数値目標を設定して、厳しいリストラを繰り返すだけでは無く日産の組織風土も変えた。

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 「働き方改革」を先取りした

 一例として、人材発掘のシステムも大きく変えた事が挙げられる。ゴーンは来日直後の1999年9月「ノミネーション・アドバイザリー・カウンシル・NAC=人材開発委員会」を設けた。メンバーはゴーンや副社長、人事担当役員。海外の子会社も含めて部長以上の管理職の人事や評価を一元化し、有能な人材を国籍を問わず起用する狙いだった。こうした制度は今でコソ珍しく無いが、20年以上前の日本企業では斬新な仕組みだった。

 「働き方改革」を先取りして居た一面もある。ホワイトカラーの生産性向上の取り組みを2001年から本格化させ「V-up推進活動」と名付けた。Vはバリュー(付加価値)の頭文字を取った。
 製造現場には「日産生産方式」と云う方法論が浸透して居り、仕事が標準化され易い様に為っている。処が、ホワイトカラーの職場では確立された方法論が無かった。それを改める為の活動であり、社内会議の運営の在り方迄見直させた。無駄な会議を排除し、議事録の作成も簡潔にさせた。ゴーンは、議事録を作成して居る時間は付加価値を「生産」して居るとは見做さなかった。

 こうした様々な改革を国内外のメディアが評価した。筆者も肯定的に報じた。同時に、ゴーン改革の取材を通じて新聞記者としての在り方を自問自答した事も多かった。「記者はもっと勉強しないと、グローバル経営の事が理解出来なく為る。夜討ち朝駆け取材だけでは通用しない時代が来て居る。記者教育の事を真剣に考える時代が来て居る」この事を朝日新聞社の社内会議で言ったら、後に役員に為る経済部長に一笑に付された。

 実はこの頃から、筆者は社内の人との付き合いは程々にして、空いて居る時間は勉強に充てた。社会人大学院に通ったのもこうした理由からだ。或る意味、自分のキャリア形成に関して気付きを与えて呉れたのがゴーンかも知れないし「ゴーン改革」を取材して居なければ触発されず、恐らくサラリーマン記者を辞める事は無かったかも知れないと今感じている。
 筆者は現在、ゴーン批判の急先鋒の様に見られて居るが、彼の活動や実績を全て否定して居る訳では無いことは改めて強調して置きたい。冒頭にも述べたように、君臨した19年間を分けて冷静に見て行く必要がある。

 絶頂期を迎えた直後の2005年から、ゴーン流経営に変化が見られ始めた。今から思えばそれが第一フェーズの終わり・・・凋落の始まりだった。後編ではその事を説明して行く。


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              井上 久男氏  (つづく) 


 【管理人のひとこと】

 管理人がゴーン氏の記事を何度も取り上げるのは、何も彼を擁護しようと云う気では無い。この問題は、単純に企業の中の不手際を、公の官憲の力を借りて利用しようと考えた一部の人達が原因で起こった事件なのだ。その利用された官憲が更なる不手際を起こしてしまい、今や国際問題に発展してしまった・・・単にそれだけだ。
 しかし、その根は実はモッと深く歴史的な我が国の検察・裁判制度にも起因するものとしてクローズアップされてしまった。日本の多くのメディアは、日本の法を犯した極悪人と決めつけて「余りにもアクドイ」等と批判・中傷しているが、それは余りに一方的弾劾であり、裁判で裁定されるまでは飽く迄「被告人」として人間として扱わねば為らない筈である・・・それを強調したいと思う迄だ。
 日本では起訴されたら99%実刑の裁定が為されるので、起訴=犯罪者のレッテルを貼られてしまうが、刑が確定するまでは「推定無罪」が原則なのが通常の国の判断だ。恐らく裁判に為っても「有罪」は困難な検察だが、彼が国外逃亡を図った事で、別の犯罪を引き起こしてしまった。ゴーン氏は、或る意味早まったのでは無かろうか・・・彼が幾ら日本の検察・裁判を批判しても「法を犯して国外逃亡」した罪は消えない。それだけは確かなことだ。

























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