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2020年01月17日

何故、昭和のトップスター・岡田嘉子は 恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか




 




 何故、昭和のトップスター・岡田嘉子は 

 恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか


              〜文春オンライン 1/16(木) 17:00配信〜

             1-17-4.jpg

                 岡田嘉子氏 コピーライトマーク文藝春秋

 スター女優と若手舞台演出家の亡命

 今の日本では「越境」「亡命」と云っても全くピンと来ないだろう。島国の日本に陸地の国境は無い。しかし、75年以上前には、傀儡国家「満州国」と他国との境以外にも国境が存在した。
 日露戦争の結果、北緯50度線以南の半分が日本領と為った「樺太」現サハリンで、北半分を占めるソ連領との境。そこを雪の正月に越えて行った男女が居た。それも、女は当時のトップスター・岡田嘉子。と云っても、今の若い人達にはピンと来ないだろうが、映画や舞台で活躍し、一時は人気ナンバーワンに為った女優。男は若手舞台演出家・杉本良吉だった。共産主義国家ソ連への2人の亡命は当時大きな話題と反響を呼んだ。

 しかし、ソ連ではスターリンによるとされる粛清の嵐が吹き荒れて居り、越境・亡命劇の結末は、本人達が夢見たものとは全く違って居た。詳細は今も現代史の謎の1つとして残されて居る。前代未聞のスター女優の越境、亡命とは一体どんなものだったのか。資料や当時の新聞記事を基に見てみよう。

 「岡田嘉子謎の行方 杉本良吉氏と同行 樺太で消える 奇怪・遭難か情死か」(東京朝日)
 「風吹の樺太国境に 岡田嘉子さん失踪 新協の演出家杉本良吉君と 愛の雪見か心中行?」(読売)


 ・・・1938年1月5日付朝刊各紙は一斉にこう報じた。前年の1937年12月、日中全面戦争で日本軍が中国国民党政府の首都南京を陥落させ、お祭り騒ぎで正月を迎えた。そんな中でのニュースに多くの国民は驚いただろう。

 当時でも破天荒過ぎた「亡命」

 メディアも2人の行動の真意を測り兼ねた様だ。当時の地元紙「樺太日日新聞」は5日付朝刊で「熱愛の旅を樺太へ 岡田嘉子恋の逃避行 新春に投ず桃色トビツク(トピック)」「朔北の異風景に マア素敵だわ」と、ピント外れの報じ方。有名人の越境・亡命が当時でもいかに破天荒な出来事だったかが分かる。

 1月6日付(実際は5日)夕刊の続報では「謎の杉本と嘉子・果然入露 拳銃で橇屋を脅迫 雪を蹴って越境 夕闇の彼方に姿消ゆ」(東京朝日)「赤露と通謀か 亜港領事館に逮捕厳命」(読売)等と、越境の模様を詳しく報道。東京朝日の同じ紙面の下部には「戦捷の新春に咲く!」と云う映画雑誌の広告や、各レコード会社が発売した新曲の広告が。
 「露営の歌」「上海だより」「塹壕夜曲」「兵隊さん節」・・・各紙共、2人が自分達の意思で越境した可能性を打ち出したが、朝日は6日付朝刊で「謎解けぬ雪の国境 思想上の悩みか 邪恋の清算か」と未だ迷って居る。

 その後の動きを新聞報道で見ると、日本の外務省が「北樺太」の首都アレキサンドロフスク駐在の総領事を通じてソ連側に2人の捜索と引き渡し交渉する事に。(8日付夕刊)総領事からの報告で、2人が国境のソ連監視所に勾留され、生存して居ることが判明。(9日付朝刊)2人はアレキサンドロフスクへ護送され、ソ連当局の取り調べを受けて居ることが分かった。(15日付朝刊)誰もが驚く越境劇に周囲の動揺は大きかった。

 プッツリ途絶えた2人の消息
 
 小山内薫等の築地小劇場の流れを汲む劇団で、杉本が所属して居た新協劇団は、それ迄もメンバーの多くが検挙される等弾圧を受けて居り「劇団の規約を乱し、劇団の方針に関しての社会的疑惑を引き起こした事に付いては断固として糾弾せざるを得無い。行動は劇団とは無関係」として除名処分を決定。嘉子が所属した井上正夫一座は除名せず「出来るものなら温かく迎えたい」との態度で好対照を見せた。

 岡田嘉子の前夫・竹内良一の実妹で嘉子の親友でもあった竹内京子は、事前に相談を受けて居たが、警視庁の調べに「只、雪を見たいからとだけ言って居ました」と答えた。
 「婦人公論」は1938年3月号で良吉の妻智恵子の手記「杉本良吉と私」を、4月号では嘉子が10代で生んだ博の手記「子を捨てた母へ」を掲載し話題を集めた。

 越境・亡命から8カ月余り経った8月30日付東京日日には「フェイクニュース」が。同年7〜8月に起きた日ソ間の国境紛争「張鼓峰事件」の停戦協定締結後の情報として、岡田嘉子がソ連領で共産学校の日本語教師をして居るが、顔色も蒼褪め頬の肉も落ちて、過って舞台やスクリーンでファンを騒がせた晴れやかな面影はオクビにも見え無いと云われる。一方、杉本はハバロフスクで健在・・・この辺りで2人の消息はプッツリ途絶える。









 人気投票でナンバーワンのトップスターに

 キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集  女優編」によれば、岡田嘉子は広島市生まれ。地方紙記者だった父の勤務の都合で各地で暮らしたが、元々女優志望で、舞台を経て日活の映画女優に。オランダ人の血を引くとされるエキゾチックな美貌と妖艶な雰囲気を生かし、村田実監督の「街の手品師」等に出演して人気を集め、1925年の映画女優人気投票でナンバーワンに為るなど、トップスターと為った。

 1927年「椿姫」に出演したが、村田監督の指導に納得がいか無い等の悩みから、相手役の外松男爵家の御曹司・竹内良一と撮影をスッポかして逃避行。日活を解雇された。しかし、華族の資格を剥奪された竹内と結婚。一座を作って舞台公演を続けた後、松竹蒲田に入社した。
 小津安二郎監督の「また逢ふ日まで」「東京の宿」等で好演を見せたが、井上正夫一座で舞台女優に戻る。商業主義に走り勝ちな映画よりも舞台に自分の場所を見い出して居た様だ。

 「私達の恋には明日が無いのです」越境を決意
 
 そこで知り合ったのが演出助手の杉本良吉だった。本名・吉田好正。ロシア語に堪能で、早稲田大を中退して左翼の劇団運動に参加し、日本共産党に入党したが、1933年に治安維持法違反で逮捕され執行猶予中だった。
 2人は演技指導を通じて親しく為り愛し合う様に。しかし、嘉子には別居中だが竹内と云う夫があり、杉本にも、過つての美人ダンサーで当時は結核で闘病中の妻が居た。嘉子が1973年に出版した自伝「悔いなき命を」には、2人が越境を決意した時の事がこう書かれて居る。

 「私達二人は、もうどうする事も出来ない処まで進んで居ました。私達の恋が世間から、周囲の人達から祝福され無い事は好く分かって居ます。私達の恋には明日が無いのです。二人ともそれは好く分かって居るのです。それだけに又激しく燃え上がる愛情なのです」  
 1937年には日中全面戦争が勃発。軍事色が濃く為る中で、非合法共産党の活動や、それに繋がるプロレタリア文化活動への弾圧が厳しく為って居た。
 「彼(杉本)が一番恐れたのは赤紙でした。召集されれば、思想犯の彼が最悪の場所へ送られるのは明らかです」「私達二人は刻々と周囲を取り巻いて来る暗黒を見詰めて、ともすれば黙り勝ちに為るのでした」
 と同書は書いて居る。そんな中で嘉子は或る言葉を漏らす。「ネエ、イッソ、ソビエトへ逃げちゃいましょうか」その時「彼はハッとした様に私を見詰めました」

 共産主義者に取って理想の地だったモスクワ

 実は杉本は以前、国外脱出を計画した事があった。平澤是曠「越境―岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」によれば、1932年、党員仲間と北海道・小樽から小型発動機船でソ連に密航する事を考えたが、仲介者が信用出来ず、船に不安があった事から断念した。

 この頃の共産党員や支援者に取って、国際共産主義の本拠「コミンテルン」の在るソビエト・モスクワは理想の地であり、スタニスラフスキーの弟子メイエルホリドが指導する最先端の演劇運動は、左翼演劇人の憧れだった。現に華族出身で「赤い伯爵」と呼ばれた杉本が師事した演出家・土方与志と、同じく佐野碩がモスクワに居ると杉本は思って居た。実際は2人とも追放されて居た。

 「海を越えて行く事は、彼が既に失敗して居ます。陸続きと云えば、満州か樺太しかありません。執行猶予の身である彼が満州へ出る事は出来ない。とすれば道は一つ、樺太の国境を越えるだけです」(「悔いなき命を」)
 嘉子にも、メイエルホリドの演技指導を受けて「もっと好い女優に」と云う願望があったと云う。「このまま日本にいても・・・」閉塞状況にあった2人が決断するのにそれ程の時間は掛から無かった様だ。

 「生涯に一度は樺太に行ってみたいと何時も憧れて居ました」

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 そこから越境に至る迄は、自伝「悔いなき命を」と、当時「時局情報特派員」の加田顕治が現地で取材し、「事件」から3週間後に出版した小冊子「岡田嘉子・越境事件の真相」では可成りの違いがある。

 「悔いなき命を」によれば、2人は1937年12月26日、舞台の千秋楽を終え、翌27日、上野駅発の夜行列車で青森へ。 「青森から連絡船で函館へ着き、旭川迄。その夜は旭川泊まり。どうにも隠し様の無い私の顔です。アイヌの芝居を遣るのでその生活を研究に来た、と宿の人に言った手前、次の日は早く起きてアイヌの家を訪れました。午後出発、翌日朝、海を越えて南樺太へ。その夜は豊原駅前の旅館で一泊。翌日又汽車に乗って、夕刻敷香へ到着。山形屋旅館へ落ち着きました」(「悔いなき命を」)

 「岡田嘉子・越境事件の真相」では「二人を乗せた列車が国境の町敷香駅に到着したのが三十一日夜九時」として居る。宿の主人に目的を聞かれた嘉子は「私の父はズッと昔、樺太民友新聞に勤務し、文章生活をして居た事がありますし、生涯に一度は樺太に行ってみたいと何時も憧れて居ました」と答えた。

 2人が越境越えを果たした瞬間
 
 以下は「悔いなき命を」に従う。

 「それと無く国境の事を聞くと、冬は雪で道が閉ざされ、警備隊詰所に数人の隊員が雪に埋もれて寂しく暮らして居るだけとの事です。それは気の毒だから、その人達を慰問に行こうじゃないかと言い出しますと、宿の人も喜んで・・・」

 翌日、警察署長宅に行くと、元日の祝宴中で大歓待を受け、署長がソリを出して呉れる事に為った。「生まれて初めて乗るホロも無い馬ゾリ。四辺は縹緲とした雪野原」「国境警備隊半田詰所へ着いたのは午後二時を回って居たでしょうか。慰問の言葉もソコソコに、私は国境見物を願い出ました」信用した隊員は自分達はスキーで、銃や連絡用電話機を嘉子達が乗った馬ゾリに載せた。

 「暗く為っては国境が見え無いから早く早くと馭者をせき立てます」「『ここだ』と言われて、馬ゾリが止まるや否や、二人は手を取り合って駈け出しました」「雪との闘いで邪魔に為った手提げカバンを投げ捨て、暑く為ったので、首に巻いていたセーターを投げ捨てた時、杉本が『国境を越えたぞ!』と叫び、首から吊るして居た呼び笛を吹きました。それと同時に、二人の若い兵士が行途に立ち塞がりました」と嘉子は書いて居る。

 「岡田嘉子・境事件の真相」は「国境警備隊半田詰所」を「半田警部補派出所」として居り、この方が正しい様だ。

 「嘉子が彼に突き付けた踏み絵だったのだ」

 「越境」は杉本の越境の動機をこう分析して居る。モスクワでの演劇修行への強い関心と併せて「愛しい病妻と、嘉子と云う熱い愛人との狭間で葛藤があった。2人に接する杉本の愛に偽りは無かったが、このママ2人に平等に分かち合うのは偽善者であり、必ず破綻の時が来る」
 升本喜年「女優 岡田嘉子」は嘉子の動機をこう書く。「杉本の心を心だけでは絶対自分のものに出来無いとすれば、杉本のその体を物理的に智恵子の手の届かない処へ引き離す他に道は無い。樺太国境を杉本に迫ったのは、嘉子が彼に突き付けた踏み絵だったのだ」

 ドチラもその通りかも知れない。他にも様々な推測があるが、どれも裏付ける根拠は無い。そして、それから戦争を挟んで長い年月が経った。

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 理想の地は「地獄」だった 

 ・・・大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相 この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」岡田嘉子の越境 #2

 戦後初めて伝えられた嘉子の消息

 戦後、嘉子がモスクワの放送局でアナウンサー兼プロデューサーの様な仕事をして居ることが伝わって居たが、消息が正確に報じられたのは1952年。日本人として戦後初めてモスクワを訪問した高良とみ参院議員が面会。
 同年7月2日付朝日新聞朝刊には、高良議員等と一緒に写った写真と共に「結婚した岡田嘉子」の見出しで記事が掲載されて居る。

 その後、ソ連を訪問する過つての知人等と面会して居たが、ソ連での結婚相手で矢張り戦前、映画スターとして活躍した滝口新太郎が死去。その納骨の為に34年振りに帰国したのは1972年11月だった。
 それから何回か両国を往復。その間、山田洋次監督の松竹映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」や舞台にも出演した。

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            この画面に映る女優は、故・太地喜和子さんです・・・注

 「その知らせは余りにも最悪でした」「悔いなき命を」によれば、ソ連の国境警備隊詰所での事を「三日程経った後、私だけが何処か他所へ連れて行かれる事に為った時は、流石の私も杉本に縋り付いて泣きました」と書いて居る。杉本は「直ぐに又逢えるからね」と言ったが「それっ切り私達は二度と再び相逢う事が無かったのです」(同書)

 独房の様な所に「三カ所位はアチラコチラへ移されましたが、それが何処だったかは、ロシア語が分か等無いのだから知り様がありません」そしてこう書いている。 「こんな生活が二年近くも経った頃、突然呼び出されました。その知らせは余りにも最悪でした。風邪の後肺炎に為って死んだと云うのです。死に目にも遭え無かった!」そして中央アジアの町で数年暮らし、1947年にモスクワに出たとして居る。日本とソ連を行き来する間に何度もインタビューを受け、越境後の事を聞かれたが、詳しく話す事は無かった。

 杉本はスパイ容疑で処刑されて居た

 1989年4月15日、モスクワ発時事通信電のショッキングなニュースが新聞夕刊に載った。「杉本良吉氏 実は銃殺 スパイ容疑、粛清の犠牲」(北海道新聞見出し)リャボフと云うモスクワの現職検事補が、国家保安委員会・KGBの文書に「杉本が銃殺された」と云う記述が有るのを発見した事が現地の週刊誌に掲載されたと云う内容だった。

 記事によれば、2人は越境後、国境侵犯の容疑で内務人民委員部・NKVD=KGBの前身の取り調べを受け、杉本は拷問の結果、日本の陸軍参謀本部から破壊活動の為派遣されたスパイと虚偽の自白を強制された。杉本は裁判手続き無しに処刑され、その自白からメイエルホリドにも嫌疑が掛かり、彼も処刑されたと云う。
 「女優 岡田嘉子」によれば、リャボフは嘉子の家を訪れてその事実を伝えた。「その説明を聞いた嘉子は強烈な印象を受けた筈だが、それを表面には出さず、意外な程冷静に聞き、リャボフの質問に対してロシア語でいちいち答えた。そして最後に言った。『杉本は病死したとばかり思って居た。アノ時、死亡証明書も貰っている。死因は肺炎とあった。死亡の日付も違う』」時事の記事に添えられた嘉子の談話も「モッと早く真実を教えて欲しかった」と為っていた。

 「杉本は私を助ける為に罪を被った」
 
 1992年2月、嘉子はモスクワで老衰の為89年の波乱の生涯を閉じた。しかし、物語はそれで終わら無かった。4カ月後の6月、再び時事通信が、越境から2年後の1940年1月に嘉子が検察局と内務人民委員部宛てに嘆願書を出していたと云うニュースを配信した。
 それによれば、越境直後「5日間、夜も昼も眠りを与えられ無い取り調べ」を受けて「精神状態に異常」を来たし「スパイと言えばソビエト人とするが、言わ無ければ日本に帰す」と脅されて自白書を書いた。その為、杉本に対する拷問は過酷を極め「隣室で苦しさの余り発する杉本の悲鳴が私の胸を刺した。取り返しの付か無い後悔の念に死を願ったが、監視が厳しく許され無かった」と綴っていた。「杉本は私を助ける為に罪を被った」とも。

 嘉子はハバロフスクからモスクワに送られ、1939年10月、軍事法廷でスパイ罪で10年の刑を受けた。杉本の処刑はその1週間前だったと云う。嘆願書はモスクワから約800キロ離れた強制収容所・ラーゲリで書かれ「スパイの汚名は死ぬ程辛い」と再審理を直訴して居たが、願いは適わなかった。
 記事は「岡田さんの自白が元で、杉本氏も自らをスパイと認め銃殺に繋がった事が判明した。軍国主義の日本を脱出し、憧れの地ソ連に越境した二人は、当時吹き荒れたスターリン粛清の直接の犠牲者と為った」として居る。

 自らの自白が原因だったと云う事実は嘉子に重く圧し掛かり、生涯その事を自分の口から明らかにすることが出来なかったと思われる。自伝「悔いなき命を」に書いた「中央アジアの町に住んだ」と云う話は他の所でも述べて居たが、或はKGBから言い含められた「物語」だったのか、真っ赤なウソだった。

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 2人が犠牲と為った「スターリンの大粛清」とは

 1930年代を中心にソ連で起きた大粛清は、規模や原因等、全容は今も解明されて居ない。横手慎二「スターリン」も「大粛清の全てを単一の原因で説明する事が不可能な事は明らかである」として居る。農業集団化等の経済政策や赤軍の運営等の軍事を巡って、最高権力者スターリンを取り巻く上層部で権力争いが起きた事は間違い無いが、それだけでは無かった。

 「現在では、1930年代後半の大弾圧は、こうした政治や軍事の指導層だけでは無く、より広い階層の人々に迄及んだ事が確認されて居るのである」(同書)経済部門の管理者や女性「満州」に関連した人々・・・アリトアラユル人が理由もハッキリし無いまま罪を問われ、死刑を含む粛清の対象に為った。「スターリン」によれば、1936年から38年迄の間に政治的な理由で逮捕された者は134万人に達し、そのうちの68万人余りが処刑されたと云う。これよりはるかに多い人数を挙げる人も居る。

 こうした大粛清はスターリンの意図とは別に為されたものでは無かったかと云う議論もあるが「大粛清の責任はスターリンには無かったとする結論迄引き出すのはバランスを失して居る様に思われる」と同書は指摘している。







 「事件が可笑しい」2人の越境に関心を示して居たゾルゲ

 興味深いのは、嘉子と杉本の越境、亡命にあのゾルゲが関心を抱いて居たことだ。ゾルゲはコミンテルンのスパイでドイツの新聞記者として日本で活動。1941年10月に逮捕され、1944年11月に死刑に処された。
 グループの1人で画家の宮城与徳(後死刑)の警察訊問調書には、彼がゾルゲに報告した情報が詳細に記録されて居る。その中に「昭和十三年一月 杉本良吉、岡田嘉子の北樺太越境 両人の経緯及人物評」「ゾルゲの依頼により私の人物評に私見を報告」と云う記載がある。宮城は1942年3月の検事の取り調べにも2人の件に付いてこう答えて居る。

 「此の問題はゾルゲから『事件が可笑しいからスパイとして行たのではないか』と調査を依頼され調べて見ましたが、両人とも良い人で芝居を現実に行た丈の事である事が判りました」(検事訊問調書 以上「現代史資料」)ゾルゲからの報告は嘉子と杉本の運命に影響を及ぼさ無かったのだろうか。

 歴史から消えた「コミンテルンとの連絡」
 
 今も残る謎の1つは、越境・亡命にどれだけ裏付けが有ったかだろう。杉本の亡命は、同時に日本共産党に入党した宮本顕治・元委員長の指示だったとする見方がある。宮本元委員長自身、著書「回想の人びと」でこう書いている。

 「杉本(良吉)は演劇運動の有能な演出家でありました」「こう云う人達を残して置きたい。それにはソ連に遣って置こうと考えた訳であります」「1933年に為りますと、弾圧は一層厳しく為って、コミンテルンとの連絡も容易で無いと云うことで、併せてコミンテルンとの連絡と云うことを考えた訳であります」「マンダートと云って信任状、これは日本共産党員であると証明する文書、これを彼等に渡しました」

 正史である「日本共産党の五十年」にもこう書かれている。「コミンテルンとの連絡の為に1938年1月、樺太の国境を超えてソ連に入った杉本良吉も、逮捕されてその任を果たせ無いままソ連で死亡した」

 その後の「日本共産党の六十年」「日本共産党の六十五年」も同様の記述だったが、「日本共産党の七十年」では「コミンテルンとの連絡」が消え「日本共産党の八十年」に為ると「杉本良吉、岡田嘉子……」と、他の亡命者と十把一絡(じゅつぱひとからげ)げの書き方に為って居る。この間に杉本の銃殺と嘉子の嘆願書と云う新事実が明るみに出て居り、そうした影響を考慮したのだろうか。

 この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」

 加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」によれば、旧制東京府立一中(現日比谷高校)で杉本の2年先輩だった新劇界の大物・千田是也は著者のインタビューにこう答えている。

 「気の毒なのは杉本良吉・岡田嘉子の1938年1月のソ連行きだった。自分達新築地劇団(築地小劇場の流れを汲む別の劇団)のグループは、土方与志・佐野碩が追放に為ったのを1937年9月頃に知って居た」「新協劇団の杉本はそれを知らずに、ソ連は天国だ、行けば土方・佐野と会えるだろう、メイエルホリドの元で学べるだろうと信じてソ連に入ってしまった」

 同書はその時代の状況に付いては次の様に述べて居る。

 「当時のソ連は、日本人であれば誰でも『偽装スパイ』を疑われるスターリン粛清の最中であった。既に1936年11月に伊藤政之助、1937年中に須藤政尾、前島武夫、ヤマサキ・キヨシ、国崎定洞、山本懸蔵等が逮捕されて居た」
 「杉本良吉・岡田嘉子の越境は、その地獄の中に飛び込んだものであった」
 「二人の国境を越える夢は実現されたが、それは、敷居の極度に高い、別の国境に囲い込まれたものに過ぎなかった。夢にまで見た『社会主義の祖国』への入国は、逮捕・拷問と銃殺・強制収容所によって迎えられた」

 
 この事件に未だ謎は残って居る。只、本人達の情報収集や考え方に問題があったとは言えても、理想と思って居た国が実は地獄の地として、信じて来た人間を裏切り死にも追い遣る無残さは、死ぬ迄真実を明らかに出来なかった無念と重為って、80年余り経った今も私達の胸を打つ。







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