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日本人初の留学生は誰? 意外と知らない歴史上の留学トリビア

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『広辞苑(第六版)』によれば、留学とは「よその土地、特に外国に在留して勉強すること」(P.2953より引用)となっています。大学生のみなさんの中には、現在海外留学を考えている人もいらっしゃるかもしれませんね。では、日本で初めて海外に留学した人は誰なのでしょうか!? 今回はそんな意外と知る機会のない、日本の歴史上に残っている「留学生」についてご紹介します。

■日本初の留学生は女性!?

日本人で海外留学した最初の人は誰でしょうか? 史書に残る最古の例を探してみると「善信尼」という女性が『日本書紀』『扶桑略記』に登場します。

善信尼は587年に「百済に行って仏教の戒律を学びたい」と願い出ます。翌588年に百済の使節が来日した際に、帰りの船に乗って百済に渡り、590年に帰国。善信尼は桜井寺に住まい、11人の女性に得度したそうです。

善信尼が仏教の戒律を勉強するために百済の地を踏んだのは、遣隋使(第1回は600年)よりも前のことになります。

日本史で学んだとおり、この後は多くの学生・学問僧が遣隋使、それに続く遣唐使(第1回は630年)で海外へ留学したことが記録に残っています。教科書にも登場する、遣隋使に同行した南淵請安、遣唐使に同行した吉備真備や阿倍仲麻呂は特に有名ですね。

■「留学生」はなかなか帰ってこない人

読みは「るがくしょう」ですが、留学生という言葉はすでに奈良時代にありました。

留学生(るがくしょう)は、文字どおり「行った先に留め置かれる」学生という意味で、広辞苑(第六版)によれば「隋・唐や新羅などに派遣され、十数年から30年以上の長期滞在して学問・仏教を学ぶ者」(P.2976より引用)となっています。

つまり「留学生」とは、元々は「十数年から30年以上」も現地で勉強する人のことだったのです。これに対して、短期留学の人は「還学生(げんがくしょう)」と呼ばれました。学問僧の短期留学生の場合は「還学僧」です。

■近代教育の外国大学に学んだ日本人


鎌倉時代になると、歴史の教科書で学んだとおり南宋との貿易が盛んとなって、多くの僧が留学しました。元寇でいったん大陸との関係が途絶し、室町時代には日明貿易が盛んとなりますが、貿易以外での渡航は原則禁止でした。以降では、伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節といった特筆すべき出来事もあったのですが、江戸時代は鎖国が国是でしたから、日本人が海外留学できる状況ではありませんでした。

では、近代教育機関としての海外の大学に初めて留学した日本人は誰でしょうか? 土佐の漁師で、遭難して仲間4人と共に無人島に漂着。無人島で143日暮らした後に、アメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカに渡ったジョン万次郎を思い浮かべる人もいらっしゃるでしょう。救助されたのは1841年(天保12年)で、彼は14歳でした。

捕鯨船の船長だったホイットフィールド氏にその利発さを認められたジョン万次郎は、氏の養子となり、マサチューセッツ州のフェアヘブンで暮らすようになります。この地にあったオールド・ストーン・スクールに通って読み書きを習い、優秀な成績で卒業。さらに私立校ルイス・バートレット・スクールにも通い、ここで数学・測量・航海術・造船技術を学びました。ただ、残念なことにジョン万次郎が通った学校は大学ではありません。

ジョン万次郎は1851年(嘉永4年)に日本に戻ります。この11年後に、オランダのライデン大学で学ぶことになる留学生が江戸を出発するのです。それが、赤松則良、伊東玄伯、内田正雄、榎本武揚、沢太郎左衛門、田口俊平、津田真道、西周、林研海らでした。日本に近代技術を導入しなければならないと考えた幕府の命を受けてのことです。

彼らはオランダでそれぞれ必要な知識を貪欲に学びました。例えば、西周はライデン大学のフィッセリング教授から、性法之学(自然法)、万国公法之学(国際公法)、制産之学(経済学)など5科目を学んでいます。津田真道も同教授から学びました。

1863年には、幕府には内緒で長州藩もイギリスに伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三の5人を留学させています。現在では「長州ファイブ」と呼ばれる彼らはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに学びました。1865年には、薩摩藩からも五代友厚、森有礼らの留学生がイギリスへ向かい、長州ファイブ同様にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに学んでいます。

■明治時代にアメリカに留学した女の子たち

幕末から明治初期にかけて、欧米諸国に留学したのは男性がほとんどだったのですが、1871年(明治4年)に岩倉使節団に同行した50余名の留学生の中に、アメリカに留学する5人の女性がいました。彼女たちは近代になってからの日本人初の女性留学生といわれます。

津田梅子(6歳)
永井繁子(10歳)
山川捨松(11歳)
吉益亮子(14歳)
上田悌子(16歳)

です。現在の感覚からすればまさに女の子たちです。このうち、上田悌子は体調不良、吉益亮子は眼病を患って、1872年(明治5年)に日本に帰国しましたが、ホームシックが原因という説もあります。こんな幼い女の子がアメリカに留学するというのは、現在の私たちには想像もできないきついものだったでしょう。

津田梅子は11年、永井繁子は10年、山川捨松は11年という長期の留学期間を終え帰国。それぞれに女性の教育機関を向上させるために尽力しました。山川捨松が協力し、津田梅子が1900年(明治33年)に創立した女子英学塾は、その後津田塾大学となり、今も名門校として知られています。ちなみに山川捨松はアメリカの大学(ヴァッサー大学でした)を卒業した初めての日本人女性です。

海外へ留学した初めての日本人が女性で、しかも尼僧だったというのは驚きですね。もしかしたら、記録に残っていないだけで、善信尼よりも前に海外に留学した人がいるかもしれませんが……。




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