2014年10月30日
兄弟の相克足利尊氏の死「太平記 最終回」
尊氏の提案は、親房を驚愕させるものだった。なんと吉野の帝を都に迎えようというものだ。親房もとまどいながらも
異論はあろうはずもなかった。
尊氏は義詮とともに、直義軍を近江で迎え撃ちこれを撃破し、直義は越前へと敗走した。
直義は越前でも敗れ、鎌倉へ逃れたが、尊氏の体は病に蝕まれていたのである。
しかし直義は鎌倉で尊氏にとらえられ、直義説得のため尊氏は話し合いの場を設けるが、直義は今更、桃井たちを
見捨てることはできないと納得しない。そうこうしているうちに、親房が約束を破り関東へ侵入、桃井刑部も兵力を
集めつつあった。もはや一刻の猶予もない。尊氏は断腸の思いで毒入りの菓子を直義に食べさせ殺害したのである。
そのころ鞆の浦にいた直冬にもこの知らせは届き直冬は激怒して戦の支度を始めた。
弟の死後、尊氏は腫瘍に苦しんでいた。だがそんなことはおかまいなく直冬や桃井は京に攻め込んできた。
直冬は東寺、尊氏は東山に本陣を置いてにらみあった。
桃井たちは意気盛んであったが、直冬に実父尊氏にとどめをさせず、戦局有利にすすめながらも撤退してゆく。
直冬はこれ以後二度と京へ戻ることはなかったが、尊氏は重篤の病で床についていた。
申楽の宴に招かれて、尊氏と談笑する佐々木判官、尊氏の胸には過去の出来事が走馬灯のように駆け巡っていた・・
延文3年4月30日、足利尊氏は54歳で死んだ。
完
大急ぎであらすじをトレースしてきましたが、次回でドラマの総括をします。
異論はあろうはずもなかった。
尊氏は義詮とともに、直義軍を近江で迎え撃ちこれを撃破し、直義は越前へと敗走した。
直義は越前でも敗れ、鎌倉へ逃れたが、尊氏の体は病に蝕まれていたのである。
しかし直義は鎌倉で尊氏にとらえられ、直義説得のため尊氏は話し合いの場を設けるが、直義は今更、桃井たちを
見捨てることはできないと納得しない。そうこうしているうちに、親房が約束を破り関東へ侵入、桃井刑部も兵力を
集めつつあった。もはや一刻の猶予もない。尊氏は断腸の思いで毒入りの菓子を直義に食べさせ殺害したのである。
そのころ鞆の浦にいた直冬にもこの知らせは届き直冬は激怒して戦の支度を始めた。
弟の死後、尊氏は腫瘍に苦しんでいた。だがそんなことはおかまいなく直冬や桃井は京に攻め込んできた。
直冬は東寺、尊氏は東山に本陣を置いてにらみあった。
桃井たちは意気盛んであったが、直冬に実父尊氏にとどめをさせず、戦局有利にすすめながらも撤退してゆく。
直冬はこれ以後二度と京へ戻ることはなかったが、尊氏は重篤の病で床についていた。
申楽の宴に招かれて、尊氏と談笑する佐々木判官、尊氏の胸には過去の出来事が走馬灯のように駆け巡っていた・・
延文3年4月30日、足利尊氏は54歳で死んだ。
完
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