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安全地帯・玉置浩二の音楽を語るブログ、管理人のトバです。安全地帯・玉置浩二の音楽こそが至高!と信じ続けて四十年くらい経ちました。よくそんなに信じられるものだと、自分でも驚きです。
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2024年01月08日

虹色だった

玉置浩二『ニセモノ』十二曲目、「虹色だった」です。先行シングルで、カップリングは「夢のようだね」でした。

音の低いシンバルが高鳴り、なにやら高音の楽器(多分ギター、スライドギターってやつでしょうか)とベースの高音部を使ったユニゾンとでメインテーマが奏でられます。アコギのストロークがバック、玉置さんの必殺技ともいえる「ジャリリーン!」でメインテーマが締められ、そのままアコギのストロークを伴奏のメインに歌が始まります。

淋しそうに星空を見ている君のそばにいるよ、眠るまでそばにいるよ……あ、ダメなやつだこれ、わたしこういうのに超弱いです。太陽はいつも輝いている、みんなが仲良く幸せにいられるように……この短い一番でもう、わたくし魂が震えてなりません。演奏はもちろん玉置ソロの集大成ともいえるシンプルなものを組み合わせてつくられる渋さが最高潮に達しているわけなんですが、なによりわたしの琴線を触れるどころでなくビシバシと叩きまくるのは玉置さんのボーカル、歌詞なのです。「君がもしも〜」のやさしさ、「太陽は〜」のたくましさ、強さ、ドーンと頼れる感じ……。

さっちゃんと会って、さっちゃんと音楽作っていくようになって、またみんなと会うようになって、その中で変わっていった」(志田歩『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』より)

玉置さんをこの境地に導いたのは、まぎれもなく安藤さんなんです。ご本人がどう思ってらっしゃろうとも。あんなに惚れたはれたで苦しい思いをしてきた玉置さんが「世界中に愛があふれているんだ」なんてこんなに力強く歌えるようになったことを「成長」と呼ばずしてなんと呼ぶべきかわたくしにはまったくわかりません。安藤さんとの音楽生活がとんでもない安定感安心感を玉置さんにもたらしたことは確かでしょう。玉置さんの音楽につねに影をさしていた危険な香り(「安全」地帯なのに!)がすっかり消えているのです。

「太陽は〜」のサビに入る直前からエレキギター、ドラムが派手に入り、曲が一気に盛り上がります。まるで「メロディー」の再来です。もの悲しくも美しい旋律に優しくあたたかい歌詞が、玉置さんのセルフコーラスと矢萩さんのギターで彩られているのもまさに「メロディー」のようです。違うところといえば、もの悲しさも歌詞のあたたかさも数段レベルアップしているところでしょうか。そうです。この曲はひどく悲しいのにひどくあたたかいのです。これが「メロディー」のころにはドンピシャに近かった多くの人の望むものからズレていたところなのでしょう……この「虹色だった」は「玉置浩二ショー」で歌われるまで話題に上ることの極めて少ないシングル曲に甘んじていたわけです。

イントロ度同様の間奏を経て曲は二番、今度は「街灯り」「暗闇」です。また夜か!サビでは「太陽」が輝いているのに!「争ったり間違ったり」しているわたしたちを許し、しあわせにしてくれる太陽が輝いている……だから夜だってば!いや、もちろん地球の反対側では太陽が照っているんですが……ああそうか!そうだ、たとえ夜でも太陽が輝いていることには違いないですね、わたしたちがそれを見られないだけで。わたくし、20年以上たってやっとわかりました(笑)。これは太陽系スケールの視点で見れば太陽がいつも輝いている、わたしたちの地球(のどこか)を照らしてくれている、という壮大なシーンと、「淋しそうに星空を見てる」とか「争ったり間違ったり」という極めて身近なシーンとを一気に行き来するという歌だったのです。

二度目のサビを経て、「ジャーン!」とエレキギターが入り、「パーンパパパパーンパーン・パーンパーン」というキャッチーなリフ(なんでしょうねこの音?弦の響きだからギターだと思うんですが、それとシンセのユニゾンです)が入りまして、玉置さんが掛け合いのように力強く歌っていきます。「七色の虹の中を〜」おお、ここでやっと「虹色」というタイトルの言葉が出てきます。さきほど地球全部を丸ごとみるような大きな視点を発見したばかりですから、もう頭の中はRainbowの『Down to Earth』のジャケットのようになっています(笑)。そしてその視点では、自分が虹をくぐりぬける、君と僕が笑っているという身近なことと、世界中に愛があふれているという壮大なこととがミックスしていて、曲のダイナミックな展開も相まってもう大混乱というか、忙しいことになって、映像や文章で表すことの難しい音楽独自の境地が感じられるのです。

曲は「ダダダダッ!ダダダダダダダ!」と激しいスネアが入りまして最後のサビに入ります。とどめの太陽系視点、太陽そのものであるかのような玉置さんの愛があふれるボーカルがみんなをしあわせに、仲良くさせる勢いで響きます。「みんなー」と叫んだところからスローダウン、楽器も演奏を止め、ブレイクがあったかと思うと「ウウン!」とベースが鳴りすぐさまイントロ同様のアウトロへと流れていきます。これも、息をのむスリルというか、絶対痛い目には遭わないとわかっているジェットコースターのようなスリルを味わわせてくれます。

独文学の世界で「教養小説Bildungsroman」と呼ばれるジャンルがあります。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』がその代表格なのですが、典型的には少年が田舎から都会に出て見聞を広め、親友、たいてい女と出会い(笑)人生や世の中のなんたるかを(それが正しいか否かはともかく)知ってゆくという、悩める若者の成長がメインテーマです。

なんの話をしていたかというと、わたくし、不遜なことかもわかりませんが、志田さんの『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』を初めて読んだとき(2006年ですね)、まるで教養小説のようだと思ったんです。ずっとガキのころから安全地帯・玉置浩二の音楽が好きだったわけなのですが、わたくし玉置浩二さんその人そのものにはそんなに興味なかったんです。どんな音楽が好きだったんだろうとか、少年のころはどんなバンドやってたんだろうくらいはもちろん知りたいですよ。ですが、石原さんはその後どうなったとか、薬師丸さんや青田さんとはどうやって知り合ったんだろうとか、好きな食い物は酒はなんだろうとか、ほとんど興味ないんです。だから石原さんとのゴシップがあった80年代に週刊誌も読みませんでしたし(そもそも小学生でしたから床屋くらいでしか読めませんが)、インタビューもあんまり読みませんし写真集やグッズみたいなものにも手を出しません。コンサートで玉置さんがすぐ後ろの通路を通ったって、おおー近いなーと思うだけで手を伸ばしてさわろうなんて全く思いません。楽屋でメンバーやスタッフとどんな話してるんだろうとか好きな服のブランドはなんだろうとか、どうでもいいです。教えてくれるなら聞かなくはないですが(笑)、玉置さんの音楽世界、玉置さんが意図して私たちにリリースして届けてくれる作品以外のものにしいて触れようと思わないのです。それは、作家・芸術家である玉置さんの意図・人格を尊重するからです。たとえ屁をこきながらギター弾いていたってかまいません。かりにマイクがオフのときにファンに呪いの言葉をつぶやいていたって知ったことじゃありません。モーツァルトの書いた楽譜にどんな汚いことが書かれていたとしても、遺体がゴミのように共同墓地の穴に放り投げられたとしても、モーツァルトが届けようとした音楽だけを聴いていればいいのと同様に、玉置さんの私生活がどうであろうとそこに作家としての意図はないとわたくし考えています。いいところどりなんでしょうけども、その「いいところ」を作品として届けようとするのが作家・芸術家ってもんです。だから、『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』も音楽的背景とか制作にのぞむ様子とかわかればいいなくらいの気持ちで読み始めて、その教養小説なみの人生が赤裸々に描かれていて大ショックでした。

教養小説の主人公はその後革命に突っ走ったり、あるいはひどく挫折して傷心のうちに川で溺死したりと、まあ大概ろくな目に合わなくて後味が悪いです。ですが、『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』は玉置さんは鮮やかに復活し、安藤さん松井さんと穏やかに音楽を作っている時点で筆が置かれています。こんな後味のいい教養小説ないですよ。やあ、よかったよかった(笑)。

もちろんこんなことはこのアルバムを初めて聴いているときには知らなかったわけなんですけども、いまやわたくし知ってしまって、この「虹色だった」における穏やかさ、玉置さんの安定ぶり、そして……安全地帯の崩壊時に子どもたちが手を伸ばしていた燃え上がる「太陽」が、この歌ではみんなを見守る存在、みんなを「しあわせになれるように」どんなときも照らす存在として歌われていたという事実を認識したのです。では、この、ほとんど10年間での変化を何と呼ぶべきでしょう?「成長」とか「発展」と呼ぶべきでしょうか。それは進歩史観・成長史観に毒されているんだ、ただ「変化」は「変化」でありそれがばらばらに起こっているだけなのだ……とお決まりの指摘もあるでしょうか。そうなのかもしれません。ですが、わたしはこの玉置さんの「変化」のようなものを「進歩」や「成長」という言葉で人間は呼んでいるんだと考えています。そうでなくては、たいがいろくな終わり方をしない教養小説が百年も二百年も読み継がれるはずがありません。人間は「進歩」「成長」しますし、そこに他にないドラマ性を覚え感動するのです。

『ヴィルヘルム・マイスター』にはミニヨンという少女が出てきて、ときおり歌います。シューベルトが歌に書き、ハイネがはるかにイタリアに思いを馳せた『ミニヨンの歌』です。ヴィルヘルムの愛した女たちのことは誰もぜんぜん覚えていないのに、誰もがその愛らしさと運命の悲しさを覚えているミニヨン……『玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから』という物語(実話なんですけども)における玉置さんの音楽は、『ヴィルヘルム・マイスター』におけるミニヨンとその歌のように、誰もが胸にその魅力を強烈に刻み込まれます。玉置さんの人生と玉置さんの音楽とが、ゲーテと何の関係もないというのは、そりゃそうです、わたしが強烈に関連を感じ、こじつけただけです(笑)。「太陽」の扱いが劇的に変わっただけのことで、何にも進歩も成長もしていないのかもしれません。ですがわたしはそこに進歩や成長を感じ感動するのです。そのもっとも強力なトリガーとなるのがこの「虹色だった」であり、そのとき想起されるのがゲーテだったというだけのことでした。

Nur wer die Sehnsucht kennt,あこがれを知っている人だけが
Weiß, was ich leide!わかるの、わたしが苦しんでいるって
Allein und abgetrennt von aller Freude,ひとり寂しくあらゆる喜びから切りはなされて
Seh' ich ans Firmament nach jener Seite.わたしは見るの、彼方の蒼穹を
(『ヴィルヘルム・マイスター』内『ミニヨンの歌』より)

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posted by toba2016 at 11:47| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセモノ