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2019年08月28日

チェコの君主たち5(八月廿六日)



 チェコの国家の勢力を拡大することに成功した名君とも言うべき人物が登場すると、その跡継ぎを巡って必ずのように一族内の権力争いが発生して国力を落としてしまうと言うのが、プシェミスル家の宿あのようなものである。初めて王冠を手にしたブラティスラフ2世の後も同様で、その没後ブルノのコンラート1世が跡を継いだものの、すぐに亡くなり、ブラティスラフ2世の長子で、父と対立して国外逃亡していたブジェティスラフ2世が1092年に君主の座についた。

 ブジェティスラフ2世は宗教の面では、西ローマのキリスト教を重んじ、国内に異教を禁じる法令を出し、魔女や預言者とされていた人たちを国外に追放し、古代スラブ系の信仰に特有の聖木として崇められていた木を各地で伐採させた。そして、大モラバに東ローマのキリスト教を伝えたツィリルとメトデイの法統をつないでいたサーザバにあった修道院を破壊したのである。これによってチェコ国内のキリスト教は西ローマのキリスト教に統一されることになる。
 この急進的な宗教政策は、強い反発を呼び、ブジェティスラフ2世が暗殺者の訪れを予期できるほどだったという。実際に暗殺されたのは、治世9年目の1100年の年末のことで、狩猟からズベチノの城に戻ってきたところを、ロルクとよばれる人物によって殺されたと言う。ただ、犯人のロルクはその場にいた侯爵の部下たちによって捕らえられ惨殺されたため、暗殺の目的も、暗殺者の正体もわからないものになってしまった。背後に国内諸侯や一族の誰かがいたとしてもおかしくはなさそうである。

 翌1101年にブジェティスラフ2世の跡を継いだのは、弟のボジボイ2世だった。ただ、祖父のブジェティスラフ1世が定めた最年長のプシェミスル家の男子に当たらなかったため、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世の援助を必要とした。一説には、すでに兄ブジェティスラフ2世の生前に皇帝からボヘミアの侯爵に任じられていたとも言う。それをチェコの諸侯も追認したということなのだが、以後チェコの君主の選定に際して、神聖ローマ帝国皇帝がくちばしを挟む前例となる。
 即位直後に、ブルノに封じられていたコンラート1世の息子、つまりボジボイ2世から見れば従兄弟のオルドジフが、プシェミスル家で最年長の男子であることを理由に、君主の座を求めて兵を上げボヘミアに侵攻する。このオルドジフ、人望がなかったのか戦闘が始まる前に軍が崩壊してしまい、継承権を手放すことで許される。

 オルドジフの反乱は平定できたボジボイ2世だが、今度はオロモウツで従兄弟が反乱を起こす。ブジェティスラフ1世の息子でオロモウツに封じられていたのがオタ1世だが、その息子のスバトプルクが兵を挙げたのである。そのきっかけとなったのは、ボジボイ2世がポーランドの王位を巡る争いの中兵を出して、賠償金を得ることに成功したのに、協力したスバトプルクには分け前を与えなかったことらしい。
 兵を起こしたスバトプルクはまず1105年にプラハを攻めるが落とせず、ボジボイ2世をドイツに追い落として権力を握ることに成功したのは二年後の1107年だった。そのすぐあとに、神聖ローマ帝国のハインリヒ5世によって捕らえられ、身代金を捻出するためにプラハを初めとするチェコ各地の教会、修道院を襲って財産を奪ったと言われている。

 もっとも重要な(気がする)スバトプルクの政策は、二度の虐殺を経てなお、有力な貴族として勢力を復活したブルシュ家を子供も含めて完全に族滅する命令を出したことである。これまで二度の虐殺でも生き延びた男子がいたように、今回も生き残りがいて、これがスバトプルクに死をもたらすことになる。
 外国に対しては、モラビアをポーランド、ハンガリーによって狙われていたため、ハインリヒ5世とともに、外征しているのだが、ハンガリーに遠征した際には、不運にも突き出した木の枝が目に刺さり片目を失ってしまう。1109年のポーランド遠征で、軍隊の中に紛れ込んでいた無名の暗殺者によって暗殺されてしまう。犯人は捕らえられなかったが、ブルシュ家の生き残りが雇ったのだろうと考えられている。

 いわばオロモウツの分家出身のスバトプルクの後に、兄のボジボイ2世を退けて、君主の地位に付いたのはブラディスラフ1世だった。ただ弟のソビェスラフがチェコの諸侯の一部を率いてポーランドに逃亡し、ポーランドからチェコに攻め込もうとするなど、ブラティスラフ2世の息子たちの、従兄弟たちをも巻き込んだ権力争いが続く。
 ブラディスラフ1世は、1117年になぜか、ドイツから帰国したボジボイ2世に権力を譲り渡す。3年後の1120年には、ボジボイ2世をハンガリーに追い落として、再び権力の座についているから、何が目的だったのか。死を前にして、従兄弟のスバトプルクの弟オロモウツのオタ2世を後継者に指名したらしいが、母親など周囲の圧力を受けて、対立していた弟のソビェスラフに変更せざるを得なかったのだとか。

 ブラティスラフ2世の末子、ソビェスラフ1世がチェコの君主となったのは、1125年のことである。しかし、ソビェスラフと対立したオロモウツの分家のオタ2世が、神聖ローマ帝国のロタール3世に助けを求め、チェコに干渉する機会を得たロタール3世は、1126年の初め冬のさなかにボヘミア遠征を敢行する。雪の中国境の山を越えて平地に降りたロタール3世の軍勢を、ソビェスラフに率いられたチェコの軍隊が迎え撃ち、緒戦で圧勝する。
 その緒戦でオタが命を落としたことで、対立する理由のなくなったソビェスラフ1世は、ロタール3世に和睦を申し出た。帝国と不毛な戦いを続けるよりは、関係を改善したほうがましだと考えたのだろう。この戦いが行われたのは、北ボヘミアのフルメツという街の近くで、このフルメツでは1813年にもナポレオン戦争の一環である大きな戦いが起こっている。

 参考にした子供向けの本には、軍人としても、政治家としても、外交官としても、その能力を十分に発揮したソビェスラフが、死を前にして一つだけ計算違いを犯したと皮肉なことが書かれている。それは、1140年に亡くなった後に、後継者となったブラディスラフ2世が、ソビェスラフの息子のブラディスラフではなく、ブラディスラフ1世の息子のブラディスラフだったことである。同じ名前、同じような名前が頻出する結果、チェコの歴史はわかりにくいものになってしまっている。とまれ、ブラティスラフ2世の孫の世代の話はまた次回ということにしよう。

  プシェミスル家の君主D
   14代 ブジェティスラフ(Břetislav)2世 1092〜1100年
   15代 ボジボイ(Bořivoj)2世      1101〜1107年
   16代 スバトプルク(Svatopluk)     1107〜1109年
   17代 ブラディスラフ(Vladislav)1世  1109〜1117年
   −− ボジボイ(Bořivoj)2世      1117〜1120年
   −− ブラディスラフ(Vladislav)1世  1120〜1125年
   18代 ソビェスラフ(Soběslav)1世   1125〜1140年

 ブラティスラフ2世の子供の世代の権力争いはほぼ50年続いたことになる。日本では院政が本格的に機能し始めて比較的安定していた時期にあたるのかな。
2019年8月26日24時。













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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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