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2019年08月04日

シュムナー・ポリチカ(八月二日)



 ポリチカにはスビタビから出かける。スビタビから山の合間を縫ってうねうねとパルドビツェのほうに伸びているローカル線に乗って30分ほど、ディーゼルの車両には「レギオ・スター」と誇らしげに書かれているけれども、パルドルビツェ地方の出している補助金で運行されている赤字ローカル線である。行き先は名前も聞いたことのないプスター・カメニツェ。
 ポリチカは、名前の通り平らな台地の真ん中にぽつんと存在する街だった。列車が山森を抜けて畑作地帯に入ると遠くに教会の塔らしきものを中心に広がる街が見えてきた。スビタビより大きそうに見えるのは、平地で見晴らしがいいからだろうか。駅は何の変哲もない田舎の小さな駅だった。急行なんてものの走らないローカル線だから、ちゃんとしたホームもなかったし駅舎も小さかった。

 さて、ポリチカまで足を伸ばしたのは、一つは作曲家のマルティヌーの生地として知られているからだが、もう一つは中世以来の旧市街を囲む城壁がほぼ完全に残っているのを見たかったからだ。残念ながらポリチカに通じていた四本の街道に対応して置かれていて四つの城門は破壊されてしまっているようだけど、一部ではなくほぼ一周城壁が残っている街は、まだ見たことがない。

 旧市街の中心の広場に向かう途中で、交差点の通りの先に城壁や見張りの塔のようなものが見えたけれども、情報収集が先ということで、ここでもインフォメーションセンターに向かう。実は、先日の「フラデツ再考」の記事で書いた王妃に属した町の存在を知ったのは、このインフォメーションセンターでのことなのだ。絵葉書やパンフレットの中に並んで、子供向けの絵が中心になった小冊子が二つ置いてあって、そのうちの一冊がポリチカを初めとする「王妃都市」についてのものだった。
 白状しておくと、この時点では形容詞を「věrná」と誤読していたので、ポリチカなんかは王妃に対して忠誠を誓った都市だったのだろうと思い込んでいた。実態は「věnná」でも「věrná」でもあまり変わらないのだろうが恥ずかしい限りである。ここでこの冊子を購入していれば直ぐに誤解も解けたのだが、ポリチカの歴史についての冊子しか買わなかった。いや子供向けの冊子を二冊も買うのは抵抗があったのだよ。読んでみるまでそこまで有用だとは思っていなかったしさ。

 案内所をでてとりあえず城壁のところに向かう。見張りの塔に設置された階段は封鎖されていて登れなかった。登るためには、もう一つの案内所、ボフスラフ・マルティヌー・センターが行なっているガイド付きの見学に参加しなければならないと書かれている。どうせそちらにも行くつもりだったので、町の博物館でもあるマルティヌー・センターに足を向けた。
 博物館ではヤーラ・ツィムルマンの50周年記念の展示も行なわれているようで、ちょっと惹かれたのだが、案内つきの城壁ツアーが10分後に始まるというので待つことにする。この時点で、もう一つの目的だったマルティヌーの生家が改修工事のために見学できないことも知らされた。イグラーチェクという共産党政権の時代の子供の玩具、具体的にはプラスチックの小さな組み立て人形の展示や、リホジュロウトという靴下のお化けの展示など夏休みに子供を集めるための展示が行なわれているようで、博物館も大変だなあと思わされた。

 今回の案内つき見学は、客が一人ということはなく、歴史に詳しそうなチェコ人の夫婦と一緒になった。ガイドしてくれたのはポリチカの出身で普段は音楽学校で勉強しているとか行っていた若い女性。ポリチカ流なのかガイド用の話をするときのチェコ語の抑揚がなんとも独特だった。こちらの質問に答えるときは普通の話ぶりだったけど。
 街を囲む城壁の見学は、市庁舎の二階から始まった。昔のポリチカの様子を復元した模型があり、その前で簡単に町の歴史の歴史について話してくれた。それによると、ポリチカを、13世紀の半ばに国王都市として建設したのはボヘミア王プシェミスル・オタカル二世だった。市庁舎にはその肖像画がかけられていたが、プシェミスル三世と記されている。これは伝説の始祖プシェミスル・オラーチを、一世としてプシェミスルという名前の三人目の君主という意味なのだとか。

 当初は広場の周りに木造の家が並んでいるだけだったが、14世紀に入ってルクセンブルク朝の王、特にカレル四世の治世下に発展を遂げ、石造りの街になるとともに街の周囲を囲む石造りの城壁も建設された。1307年にハプスブルク家のルドルフによって王妃に捧げられて以来、ポリチカはボヘミア王妃の御料地となった。当初は他のボヘミアの国王都市と同様、住民の大半はドイツ人だったが、火災や戦災などで人口が減少するたびにチェコ人の割合が増え、隣町のスビタビとは違い、完全にチェコ人の町になったらしい。
 15世紀のフス派戦争の時代には、当初カトリックの町としてフス派には反対する立場にあったが、ヤン・ジシカ率いるフス派の軍によって陥落させられて以後はフス派の中でもプラハの穏健派にしたがう街になった。ただし、ヤン・ジシカが陥落させたというのには異説もあって、じつはポリチカの住民が自主的にフス派の軍に降って門を開いて迎え入れたという説もあるらしい。
 ポリチカの町は、何度か大きな火事に襲われていて、中でも1845年の大火事では、町はほぼ全滅と言っていい状態で、焼け残った建物は4軒に過ぎなかったという。広場の中心にある市庁舎も、町のシンボルである聖ヤクプ教会も例外ではなく、教会は幸いなことに基礎は無事だったので、同じ場所に同じ大きさで、比較的直ぐに再建されたが、市庁舎が完全に再建されたのは20世紀に入ってからだったらしい。
 以下次号。
2019年8月2日24時。












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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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