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2017年11月27日

永観三年正月の実資〈下〉(十一月廿四日)



 十九日は内裏から帰宅した後、自宅の渡殿の料理用の炉である地火炉を作り始めている。このあとしばらく地火炉に関する供応が繰り返される。

 廿日は伊予介源遠古が饗応用の食事を準備して持ってくる。当然酒宴となり、源遠古は酔っ払って着ていた服を同席していた近衛府の官人に与えている。両三の人とあるので、源遠古だけでなく他にも何人か同じようなことをした人がいたようである。
 午後からは左大臣のところで行なわれる新年の宴会である大饗に出席し、夜になって主客である尊者が現れるがこの日の尊者が誰だったのかは書かれない。実資は最後まで残らずに退席している。午前中からお酒を飲んでいたせいであろうか。

 廿一日は頼忠のところと内裏を行ったり来たりしている。伝聞の形で、前日の左大臣の大饗で刃傷沙汰が起こったことが記される。藤原惟成の言葉として、六日に大江匡衡に怪我をさせた犯人を捕まえるようにという太政官符が諸国に送られ、犯人を捕まえたものには賞をあたえることになったことが記される。
 実資の自宅では、七日間の不動の調伏法が始まり、源遠資がやってきたので、地火爐次、恐らくは饗応を与えている。この日今年最初の外記政が行われているが、最後の付け足しのように書かれている。

 廿二日は、昨日に続いて源遠資を饗応して、内裏に参っている。内裏では音楽やら饗宴やらでいつものとおりである。餘慶僧都が不動の調伏法を納めている。頼忠は娘の藤原ィ子が居住していた承香殿に泊まっている。
 前日の廿一日に左大臣の源雅信が天皇に文書を奏上し直裁を受ける儀式である官奏に候じている。「已に秉燭に及ぶ」とあるが、始めたのが夕方だったということか、官奏が夕方まで続いたということなのか。
 最後に「宅印を始む」とあるのは、実資が自家印を使い始めたということだろうか。

 廿三日は外記の高丘相如の話として、右大臣藤原兼家が廿五日に右大臣の大饗を行なうから、その日は早く仕事を終わらせるように公卿たちに伝えてまわらせるようにという指示を受け、左大臣の源雅信からの同じようなことをいわれたので、召使たちに実際伝えに行かせたという。こんなことはこれまでなかったんだけどねえというのは高丘相如の感想だろうか。

 廿四日は、雨の中、上皇のところに出かけ、その後内裏に向かう。夕方帰宅するまで特筆することはなかったようである。

 廿五日の最初の記事は、今年から卵を食べるのをやめたというものである。ということは、去年までは卵を食べていたということになる。平安時代に卵を食べていたというのもちょっと以外である。その卵を止めたということを僧の勝祚に恐らく実資の邸宅内にあった仏堂の本尊に伝えさせている。
 内裏に呼ばれて参内したら、天皇の使いとして朱雀印に住む円融上皇の元に手紙を届ける使者として出向くことになる。内容は一日に上皇のほうから奏上した件についてである。院の判官代を受領職につけるという話。「三品足下」というのは三品の親王のことか、三位中将の藤原義懐のことか。
 この日右大臣藤原兼家邸での大饗と、除目の際の役職を仰せ付ける除目の召仰が行なわれている。右大臣の大饗のほうは出席していないのか伝聞である。政敵だから仕方がないのだろう。

 廿六日は除目のための議論が行われる。ただし除目のことについて、百官の長である太政大臣頼忠に連絡がなかったというのを実資は疑問視している。頼忠は関白でもあるわけだが、花山天皇との関係はあまりよくないのである。
 円融上皇からは、天皇に前日の手紙に対する返事が返ってきている。また廿五日に左大臣が上皇に馬二頭を献上したらしい。

 廿七日の記事には、この日と次の廿八日が物忌であることが記される。ただし除目という重要な儀式のためなので、外出して参内している。ちょっとお疲れ気味なのか、「聊か所労有り」などと記している。正月は儀式が多いから。

 廿八日も物忌ではあるが参内する。除目のことは今日終わらせるというのが天皇の意向のようである。しかし、京官の除目が弾正忠しかなされていないと実資は指摘している。春の除目は県召などと言われるように地方官の任命が中心ではあるが、京官の任命も行われるのが普通だったのである。
 また天皇から公卿たちの権利である地方官の任官を推薦する権利である年給をしばらく停止するようにという指示が左大臣源雅信に対して出されている。実資は夜中過ぎの丑の刻の終わりに退出しているが、議論は寅の刻まで続いたという。それで左大将の藤原朝光が出席した公卿のために、入内した娘の藤原姚子が居住する麗景殿で湯漬けを出している。前日にも藤原為家が娘の藤原忯子の居所である弘徽殿で湯漬を提供しており、一日ならいいけど二日続けて湯漬というのはどうかねと実資は疑問を呈している。湯漬だからというよりは、女御の父親が公卿に対して供応をするのが問題なのであろう。

 廿九日は、小雪の中、円融上皇の元に向かう。花山天皇から、円融天皇に乳母の加賀という人物についてのことは一日に奏上すれば、望みどおりになるだろうという言葉があったのに対して、実資が使者として内裏に出向いてお礼を奏上している。

 卅日は左大臣の源雅信に呼び出されて、円融上皇の子の日の遊びについての計画を立てている。左大臣との話し合いで院の庁の役人に準備させることになったものについては、実資が院に出向いて話をしている。この日は円融上皇の御前で一日中蹴鞠が行なわれているが、実資は実は蹴鞠の名手だったらしい。
2017年11月25日20時。








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