2019年04月08日
チェコとブラジル(四月六日)
先日、サッカーで代表がブラジルと試合をして予想通り負けた。チェコ代表、いやチェコスロバキア代表とブラジル代表の対戦というと、どうしても1962年のチリで行われたワールドカップの決勝が思い出されるようなのだが、先制したのに逆転負けという展開も、スコアが1−3だったというのも、マスプストという名前の選手が出場していたのも同じだった。
チェコとブラジルの関係でぱっと思いつくのは、これくらいで、そんなに大きな結びつきはないものだと考えていた。以前、チェコ語の教科書で、ヨーロッパの外でチェコ系の人がたくさん住んでいるのは、先ずアメリカとカナダで、それに続くのが南アメリカのアルゼンチンだという話を読んだことがある。チェコスロバキアがナチスドイツによって解体されたあとも、ドイツ系とチェコ系の人たちが仲良く協力し合って生活を営んでいたというのも聞いたような気がするのだが、こちらは記憶違いかもしれない。
とまれ、ということで、トマーシュ・バテャがズリーンに設立して世界的な大企業になったバテャが、世界各地に工場を建設し、同時にズリーンと同じように従業員のための町も建設して生活環境を整えていたという話を聞いたときも、南アメリカではアルゼンチンに工場を建設したものだと思っていたのだけど、チェコテレビで国外で活躍したチェコ人、チェコ系建築家の足跡をめぐる番組「シュムネー・ストピ」を見ていたら違うことがわかった。
バテャが工場と工場城下町を建設したのは、チェコだとズリーンとその周辺のオトロコビツェやナパイェドラなんかが有名なのだが、1920年代からすでに関税対策として外国での工場設立に乗り出しており、一番最初に進出した国はスイスだったかな。そして、第二次世界大戦勃発前後からはアメリカ大陸にも乗り出し、カナダにバトバという町が建設される。チェコスロバキアを離れたバテャ社の中心がカナダとスイスにあるのには理由があるのである。それはともかく、カナダ進出と同じころにブラジルへの進出も始まり、いくつかの工場が建設され、バタで始まる地名を現在まで残すことになる。
では、何故ブラジルだったのかというと、直接関係はないかもしれないけれども、ブラジルで最も重要な大統領の一人がチェコ系らしいのである。その名はジュゼリーノ・クビッチェク・デ・オリベイラ。何もないところに新しい首都ブラジリアを建設することを決めた大統領である。このブラジルの野心的な試みについては中学校の社会の時間に勉強した記憶があるのだけど、遷都を決めた大統領の名前までは載っていなかったかなあ。
この大統領の名字の一つクビッチェクは「Kubitschek」は、ドイツ語風の表記になっているけれども、チェコ語の「Kubíček」がもとになっていることは明らかで、これは母親の名字だったらしい。つまり、クビーチェク大統領は母系でチェコ系ブラジル人だったということになるのである。チェコ語のウィキペディアには、母親は南ボヘミアのロマ人の家系のでだと書かれている。
番組では先祖のいたところとして南ボヘミアのインドジーフーフ・フラデツが登場して、ブラジリアの情景と重ね合わされていた。どちらも水辺の町である点で共通しているようだ。また、大統領の娘にあたる人が登場して、父親がいかに自分の出自、チェコスロバキアとの関係を重視していたかということを語っていた。チェコのテレビ局に対するサービスかもしれないが、自分の名字をクビチェクではなく、クビーチコバーだなんてことも言っていたし。
ブラジルのブラジリアとチェコ、南ボヘミアにこんな関係があったとは、全く知らなかった。ブラジリアという新たに計各都市を建設するというのも、バテャの何もないところに工場と一緒に町を建設してしまう手法に習ったものと考えられなくもないし、ブラジリアの建設に当たった人物が、ズリーンの建設にかかわった人たちと同様、フランスの建築家ル・コルビュジエに師事したというのも共通している。
2019年4月7日23時30分。
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