二河白道のたとえで、
旅人が尊い人の教えの通りにひたすら進んでいくと
突如としてぶち当たるニ河がある。
水の河と火の河です。
ひたすらにというのは真剣に、まじめにむかっていくということで、
西に向かってというのはわかっているのに、思っているのは、
どうしたらおいしいもの食べれるか、いい人と仲良くなれるかとか、
そんな欲の心ばかり。
わかってるはずなのに、なんでだろう?
それが障りになる。
こちらの岸にいるときにはそれが障りにならない、
それはその通りにやってるから。
それが教えの通りに進んでいると、それが障りになる。
聴聞の道を進んで行くと、あれもしたいこれもしたい、だけどできない。
それで苦しい。そう言う心がでてきたというのはそれだけ
真実に向かって進もうとしているということ。
だけどどれだけ欲を満たしても幸せにはなれない
お釈迦さまはお金を指さされて
「大蛇に気をつけよ」といわれている。
毒蛇にかまれそうになる、そう言う心いっぱい。
真実にむかって進まなきゃ行かんということはわかっているけど
その欲の心にほだされそうになる。
その中を尊い方の言葉を信じて進んで行く。
自分の欲を邪魔する人がいる、その通りにさせてくれない。
そういう怒りがでるのはどうしてか?
「悪人ばかりだとケンカにならない」
A家の皆さんは「私が悪かったです」という。
普通なら、自分が正しい、相手が悪い、それでケンカになる。
怒りの心というのは自分が正しい、相手が悪いそういう大前提がある。
自分はどうだろう?自分は同じようなことをしてないだろうか
自分の胸に手をあてて考えて見るといろいろ知らされる。
知らされれば知らされるほど怒りの心はとけていってします。
煩悩で苦しみながら進んでいく道
「貪愛の心常によく善心をけがし瞋憎の心常によく法財を焼く」
(親鸞聖人)
そう言う心が起きるということは、
このニ河の道をひたすらに進もうとしているから。
この白道を進もうとすればするほど苦しみがやってくる。
舟でもそう。
早く進めば進むほど波は高くなる。
のんびりのんびり進んで行くと、波もたたない。
速度をあげると大変なこともおこる。
急ぐことも大事だけれど
「急いで急がず、いそがずに急ぐ」
あまりにも急いで、道をふみはずしてしまったらもともこもない。
しっかり原点を確認して、誰の後生の一大事の為なのか。
我が身の後生のためじゃないか、
そういうことを確認して進んで行く。
だけどのんびりとしていていいのかというとそうではない。
「急がずに急ぐ」それは私達の命は無常だから。
急ぐことも大事だけど、急がずというのは
しっかりと大地に足をふみしめていけ。
ということ、本当にこちらの岸でいいのか、
どこにむかってすすめばいいのかということを
よくよく考えてすすめといわれる。
二河の真ん中に細くて白い道がある。
善導大師は白道の幅を四五寸といわれている。
あの30年間床につかれなかった、生涯女性をみられなかった、
その善導大師が真実を求めようとする心なんか
少しもなかったといわれている。
そんな中を1歩1歩人生の目的にむかってすすんでいる姿。
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