唯心の弥陀、己心の浄土について。これは聖道仏教の考え方。
阿弥陀如来や極楽浄土を観念的に見る。実在しないのだ。
心の中に思い浮かべるものだという。
ハワイの今から100年以上前、日本人がたくさん移民した。
その子供たちが二世。
英語も半分、日本語も半分。
今、日系4世、5世。考え方もアメリカ。
しかし日本を懐かしく思う。
日本は私の心のふるさとだといっている。
心の中にそういうイメージを膨らませている。
これは一つの想像の世界。
観念の遊戯、観念の世界。
仏教の教え、阿弥陀仏の本願に救われる。
呼び声を聞く。
対面する。
確かな弥陀に確かに救われる教え。
それに対して聖道仏教で言われる、
この唯心の弥陀、己心の浄土というのは、
ちょうど心の中には鏡のようなものがあるのだ。
ところが色々な錆によって曇っている。
だからこれをやすりで磨く。
それまで曇ってみえなかったものが見えてくる。
錆にたとえたのは煩悩で、これを断ち切ると見えてくる。
私の心の中に弥陀や浄土を照らし出すんだ、と思っているのです。
死ぬまでなくそうとしてなくならない。
これは死ぬまで求道と一緒です。
それに対して、真実の仏教の教えというのは、
生きたこの世で、生きた弥陀と対面して、
阿弥陀如来と一体となるのです。決勝点があるのです。
タグ:阿弥陀仏
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