第一段階は、美的段階です。
これは、欲望のままに快楽を求める段階です。
欲望は無限なので、満足できません。
一時的には満足できても、やがて虚しくなって絶望します。
第二段階は倫理的段階です。
これは、欲望を満たそうとしてもできないことを知らされた人が、
善いことをして満足しようとします。
しかし私たちは欲望の塊で悪ばかり考えるので、満足できません。
第三段階は、宗教的段階です。
キルケゴールはキリスト教を信じようとしました。
しかし、キリスト教ではダメでした。
このような三段階が親鸞聖人の道と似ているという哲学者もいます。
それは間違いです。まったく違います。
私たちには真実の心はありません。
キリスト教も真実の心を与えることはできません。
それを与えるのが仏教です。
親鸞聖人は、自分に真実の心がないといわれています。
一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。(教行信証信巻)
すべての人に、真実の心はないということです。
そんなすべての人を哀れんで、
如来はご苦労をされて名号を作られました。
三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。
如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。
この名号を頂いて、絶対変わらない絶対の幸福になれるのです。
絶対の幸福になるには、絶対の心がなければならないので、
それを作られるためにご苦労されたのです。
当時は仏教は伝えられていなかったでしょうが、これこそがキルケゴールが知りたかったことです。
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