親鸞聖人はお優しい方か、厳しいお方か。
この両面が際立っておられる場面が歎異抄第2章。
親鸞聖人の厳しい姿と優しい姿がある。
「面々のおん計らいなり」
障子をピシャッと閉められる。
しかし、その心は
「みなみな信心決定あれかし」
という底知れぬ優しさがあります。
厳しさと優しさは南無阿弥陀仏を全領して、信心獲得された、
その信心から出るもの。
智慧と慈悲に生かされる。
厳しさは智慧から来る。
仏智を体得して、何が知らされるか。
弥陀の本願まことだった、もしこの身に救い摂られることがなかったら、
親鸞あの千尋の谷におちておった。
あなた、そんなのんきなことでいいんですか、という厳しさ。
私たちが思う一大事と、聖人の知らされた一大事とぜんぜん違う。
「かげろうは明日を知らず、せみは春秋をしらない」
過去世も未来世も知らず、生々世々六道を水車のごとく回りながらそれすら
知り得ない私たちはおおばか者である」
かげろうは、明日を知らない。
「かげろうさん、あの太陽が山の向こうに隠れることがあるんだよ」
「せみさん、この木は黄色くなって、やがてくさーい銀杏ができるんだよ」
といってもわからない。
私たちも後生の一大事、ピンともかんともわからない。
うなぎを取り出して料理する、そういう高級料理店があります。
うなぎ同士が会話している。
「おいおい、最近友達が少なくなったと思わんか」
「そうは思わんが」
「実は、俺たちを人間という鬼が取り出すそうな」
「頭を打ち付けられるそうな」
「身体を三枚に裂かれるそうな」
「みを炭火でじゅーっと焼かれるそうな」
「ええっそんなことあるわけないよ」
私たちが思っている一大事と
親鸞聖人が教えておられる
後生の一大事はぜんぜんちがう。
井戸のぞく子を呼ぶ親は命がけ
子供が井戸をのぞいている。
もうちょっと覗いたら落ちてしまう。
それをみた親は、「なにやっているの!」
私たちは不定の命を持ちながら、よもやよもやと自惚れている。
オーストリアのケーブルカー事故、
小学生が居眠りのトラックで死んだ、
「私は関係ない」と思っている人が次々と死んでいる。
私たちは他人事でぜんぜん気にしない。
善知識は
「今日とも知らず明日とも知らず、いつまでそんな気になっているのか」
うなぎ、それ一つでもどれだけ罪を作っているか。
今まで頭打ち付けられたことのある人。
いない。
人間に生まれた果報。
けれど、その罪を一身に受けていかなければならい後生の一大事が、
ここにブログがあるよりもハッキリしている。
そういう南無阿弥陀仏の智慧によって後生の一大事を
明らかに知らされた善知識は、
「何をいい加減なことをしているのか」
と大変厳しくご教導くださる。
後生の一大事あるのは、私たちだけじゃない、全人類である。
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