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2018年12月19日
タイでの日常生活(33)――タイから日本の間違いを正す運動に参加
今回は、特別に沖縄の辺野古の埋め立てに関して記します。
《辺野古の埋め立て反対にローラさんの記事》
タイに住んでいると、日本の情報源は自ずと限られてきます。
2018年12月18日、夕方の仕事である、水耕栽培のチェックや植木や芝への水やりなどを終えて、ネットを開くと、一番に目に入って来た記事は、「ローラさん呼び掛け、署名10万人に」というMSNの記事でした。ローラはあまり好感を持ってはいない人ですが、彼女の心意気に感動しました。
この問題は難しい問題であることは間違いありませんが、感情とか論理性を抜きにして、沖縄県民の過半数の人が、反対していることはやるべきではないでしょう。
《沖縄タイムズの記事》
沖縄タイムズは次のように、記しています。
「2018年12月18日 13:35 沖縄県名護市辺野古の新基地建設をめぐり、来年2月24日の県民投票まで工事を停止するようトランプ米大統領に求める電子署名活動で、モデルでタレントのローラさんが写真共有アプリ「インスタグラム」で署名を呼び掛けた。
18日早朝、インスタグラム内のストーリーに「We the people Okinawa で検索してみて。美しい沖縄の埋め立てをみんなの声が集まれば止めることができるかもしれないの。名前とアドレスを登録するだけでできちゃうから、ホワイトハウスにこの声を届けよう」と投稿された。
署名は、8日の開始から30日以内に10万筆が集まれば、ホワイトハウスが請願内容など対応を検討する。
署名は18日午後1時20分現在、9万7622筆集まっている。」
その後、既に10万人の署名が集まったようです。2018年12月18日15:26の沖縄タイムズの記事によると、「沖縄県名護市辺野古の新基地建設を巡り、来年2月24日の県民投票まで工事を停止するようトランプ米大統領に求める電子署名活動で、18日午後3時15分までに目標の10万筆の署名が集まった。ホワイトハウスが請願内容など対応を検討する。」とあります。(写真は沖縄タイムズの写真をお借りしました。)
《アメリカとの違い》
アメリカと違って、地方自治がないがしろにされがちな日本ですが、この時代、所謂、州自治が確立されてない日本だからと言って、地方の多数に及ぶ意見を無視して、ごり押ししていいわけはありません。アメリカは州自治権が大幅に認められているので、政府が州自治を無視して、今回の「辺野古」のような問題は起こりえません。日本では、口先で、国民第一といいながら、結局、政治家が自分第一の行動を取ることになっている場合があります。今回の辺野古の問題は、正に、この典型的例だと言えます。
《政治的というより国民的》
政治的になるつもりはないのですが、一人では出来ないことが、多くのの人が力を合わせれば、方向を変えられる。日頃無力感を持つことの多いこの世の中。仕方がないと諦めてしまうことの多い日々。今回のことも、しょうがないかという気持ちが最初あったのですが、ローラの記事を読んで、心が動きました。嘗て、アメリカのキング牧師が人種差別反対運動を繰り広げた時のことです。彼は小さなグループでワシントンを目指しました。一握りのグループです。それが、ワシントンに到達したときは100万人に膨れ上がったということです。100万人はやや誇大された数字ですが、それほど、人々の声は大きくなった訳です。今、日頃社会に無力感を持つ人たちに言いたいのです。あなたの声が、社会を変える。
今回は異質なブログになって申し訳ありません。従来、私はこういうことはしないたちなのですが、どうしても皆さんに声掛けをしないではいられなかったのです。もし、今まで関心のなかった人は、少しだけ、辺野古のことを、ネットなどで見てみて、微力でも立ち上がろうと言う気持ちになって欲しい。行動にはいろいろな方法があると思います。沖縄人ではありませんが、私たちは日本人です。地球人です。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。コメントなどありましたら、お願いします。また、ご訪問下されば幸いです。
2018年12月18日
タイでの日常生活(32)――Jeffer (レストラン)
以前、お気に入りのレストランでMKというレストランを紹介しました。今回は、お気に入りの第2件目としてJefferというレストランを紹介します。
Jefferは全国チェーン店です。日本でいうと、ファミレスという感じの店です。お客は若い人から老人まで、個人からグループ、家族まで幅広く利用されているレストランです。日本ではスカイラークとかガストなどがよく似た感じです。
《雰囲気》
簡単に足が向くレストランです。バンコクにもありますが、ステーキレストランとして運営しているようです。私がよく行く、サコンナコンのレストランは、ステーキを食べることも出来ますが、タイ料理から西洋料理、ハンバーガーまで、幅広いメニューです。よく似たレストランで、日本名のついている「ふじレストラン」というのもあります。
《よく食べるメニュー》
《ステーキ》
一番気に入っているのは、スペアリブです。
《店員》
店員は勿論タイ人です。殆どが女性ですが、男性のスタッフも1〜2人います。男性だろうと思えるのですが、女性かも知れません。タイには男性か女性か見分けがつかない人が時々いますから。一年前にユニフォームは変更して、今は、黒のパンツにTシャツ姿です。それにエプロンをしています。一度か二度反応の悪いスタッフがいましたが、全体的には、キビキビとしていて、サービスもいいです。ただ、タイ語は話すのですが、英語や日本語は駄目ですね。こちらがタイ語を話せるようになれればいいのですが、まだ喋れません。早く喋れるようになりたいな。
今回は、ごく普通のファミレス的なJefferという店を紹介しました。値段もお手頃で、メニューの種類も豊富で、日本人にも十分OKな料理を食すことが出来ます。いつか何処かで見た感じなので、気楽に入れるし。やはり日本人ですね。
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2018年12月17日
ショートショート(超短編)――第10話
第10話 思い出の清算
2006年8月の終わりのことだった。洋子が死亡して5年目の年だ。2001年の8月30日に自らの命を絶って、既に、5年の月日が流れていた。その間、私は何度も何度も彼女が夢の中に出てきて、うなされて目を覚ましたことがあった。もういい加減に何とかならないかという気持ちがあった。ごたごたで別れて10年以上経っていた。あれは1994年のことだった。何故か、忘れにくい年に物事が起こっている。1994年とは私たちがアメリカから戻って来た年でもある。勿論、アメリカから戻って来たからこそ、別れることになったのでもある。しかし、いつも因果なものだと思う。自分にとって忘れがたい事柄が起こった年に何かが起こっている。人生とはそんなものなんだろうと思うときがある。1981年から82年と初のアメリカ留学の年に洋子が本格的に病気を発症して、日本に戻って来た。その後、1993年94年と再度アメリカ留学の年に、また、同じように発症した。病気だと分かっていても、いや、分かっているからこそ最後の決断をしたのかも知れない。別れる必要はなかったのではないかという気持ちが、だからこそいつまでもついて回っているのだろう。勿論、これでよかったという気持ちもあることは確かだ。しかし、2001年に死亡してから、彼女が頭の中に現れる回数が増えていたことは間違いない。死亡したからこそそうなったのかもしれない。だが、区切りをつけてから長い月日が経過するにも拘わらず、悶々とした心の状況を何とか解消したいという気持ちが強かった。それで、明子に墓参りをするかと持ち出してみた。
長崎は久しぶりだった。昔、長崎に住んでいたころ、広島に帰ってくるとき、まだ高速道路もできていないころだった。車で10時間も12時間もかかって、やってきていた。車のほうが安いからといって、随分無理をしたものだ。また、洋子や明子に無理強いしたものだと思いながら、今度も車だが、高速道路を利用した。途中の景色を楽しんだり、長崎で足が必要だということもあって車にしたのだが、心の片隅には、昔の状況を再現してみたいという気持ちがあったことは事実だ。勿論、昔と違って、時間も短く、車も大きくなっている。節約節約と思って、こせこせしていたころの気持ちがないだけ、当時の状況が再現できているとはいえないが、形の上だけでも、何度も往復した、広島長崎間車の旅を再現したかったのだ。高速道路は少し早めに降りて、昔の景色を確かめたかった。昔の本拠地の諫早で高速道路を降りることにした。周りの景色は殆ど変わっていないと思いたかった。変わっているだろうと思いつつ、変わっていないところを見つけることがひとつの心の狙いだったのかも知れない。全体的には前は空間だったところに新しいビルが建ち、昔の位置に郵便局があるが新たな建物に変わっている。僅かに、昔のままの民家が残っていることに安堵感を持ちながら、昔の位置に同じものがあることにも喜びを感じながら、変わったね、ここは昔のままだなどといいながら、かつて何度も通った国道を長崎に向かった。その途中で明子にはどうしても伝えておきたいことがあった。それは明子が生まれて育った場所である。洋子と所帯を持ち始めた昔の長屋アパートで生まれ育ったのだということを教えてやりたかった。25歳の若い女の子には興味のないことかも知れない。それ以上に、中村アパートといったが、その昔のアパートは取り壊され、すっかりモダンな鉄筋のビルが建ち、いくつかの店が入っていた。その隣にあった矢上運送の社長の家も今はなかった。また、日々の買い物に利用した松尾スーパーの姿もなく、その地は今はビルに変わり幾つかの店が入っていた。その店のひとつで、墓に供える花を買うことにした。
長崎の街の中は後から思うと大きくは変わっていなかった。変わっていたのは自分の頭の中だと分かり、少し残念な気がした。それは、自分では10年以上住んだ街はよく覚えているというつもりだった。だからこそ今回昔をたどろうという気持ちになったのでもあった。しかし、自分の頭の中で、街の姿は徐々に薄らいでいることに気づかされたのである。それというのも、予約したホテルの地理的位置がしっかりと認識されていなかったのである。インターネットでホテルを予約し、そこで地図を見て、中島川沿いに位置していることや、川に沿った道を10メートルも行けば市外電車の軌道に出て、そこは諏訪神社前の停留所ということも地図に載っていた。何となく分かっていたつもりだが、何度も迷ってようやく到着する始末だった。しかし、到着してチェックインを済ませて周りを落ち着いて見てみると、徐々に目の前に見える絵が鮮明になっていくことが分かった。そのホテルは諏訪神社のちょうど向かい側にあって、神社を正面から見ることができた。また、神社の有名な石段もはっきりと見ることができた。そこにはクンチを見るために、何度か来たことがあった。この場所は、洋子が子供のころの大切な遊び場だったであろうし、洋子の既に亡くなっている父親の思い出深い場所でもあるはずだ。長崎の人たちはお祭りが大好きだった。特に長崎クンチでは街をあげての大きな催しであった。このときは長崎っ子の血は最高にたぎる時だった。義父にとってもそれは例外ではなく、欠かさず何らかのかかわりを持っていた。クンチでは神社の石段を大きな神輿を担いで駆け下り、最後に駆け上るのが慣わしだった。男くさい勇壮なそのお祭りの雰囲気が洋子の中にも流れているのだと思っていた。それに、明子が5歳のとき七五三をしたのもこの神社だった。勿論、明子はそんなことを覚えているわけはなかった。心の中で、このようなことを思いながら、一緒に、石段を登ってみた。一番上まで石段を登って周りを見ると、見慣れた景色がまた目に飛び込んできた。それに建物は変わっても、街を取り巻く山の形は変わりようがない。そう思いながら、昔目にしたことのある建物を探しながら、見回してみた。最後に、明子とお参りをして神社の石段を降りていった。
5年ぶりに洋子の実家に近づいていった。5年前洋子が命を断ったのを知りつつ、葬式には出ることができなかった。心の中では出ることに躊躇いを感じていたというのが正直な気持ちだったと思う。ちょうどアメリカにいるときのことだった。あのワールドトレードセンターが爆破され、身動きが取れなくなっていたことも確かなことだ。その年は仕事の関係でアメリカの大学を回ってプログラムの最終調整に入っているときだった。自分ひとりでこの仕事をやっていることもあって、職場には詳しい旅程はおいていなかった。8月の終わりにニュージャージの大学を訪問し、新1年生と一緒にワールドトレードセンターの横を通って、自由の女神の周辺をクルーズするというオリエンテーションにまず参加した。それは例の爆破の約1週間前のことだった。その後、インディアナ州の大学に3泊して、次のオハイオ州の大学に行く前に、週末を利用してミネソタに向かった。ミネソタでは明子が待っていることになっていた。明子はミネソタの大学に来て3年目になっていた。時々メールや電話で話していたが、久しぶりに成長した娘に会うことを楽しみにしていた。また、ミネソタには昔から私自身が世話になっているアメリカ人が住んでいた。若い頃にホームステイをさせてもらって以来、親しく交流を続けている。一時、途切れかけたこともあったが、その短いときを入れると20年以上の付き合いになる。明子も大学に入る前に世話になったことが何度もあった。そのアメリカ人とも久しく会っていなかったので、楽しみであった。空港には予定通りママが迎えに来てくれていた。久しぶりということもあって、会ったときに特別な雰囲気を感じ取ることはできなかった。明子は来ていないなとは思ったが、学校があるので、向こうに着いたときに合流するのだろうといった程度にしか思わなかった。そのためママにあったとき、特別に明子が来ていないということの話をすることはなく、今回の旅のことや今の仕事の状況など、いわゆる世間話程度の話をしていた。車を走らせながら、ママが明子から手紙を受け取っているといって、封筒を渡してくれた。それでも何も特に胸騒ぎを感じることはなかったが、封筒を開けて手紙を読んで洋子の死を知った。私の最初の言葉は「洋子が死んでしまった」だった。なんて言っていいか分からないという感じだった。ようやくその言葉が口に出せて、次の言葉が出てこなかった。それもあってか、ママは明子が飛行機で昨日ミネソタを発って日本に向かっているということ、日本に着くと連絡するからといっていたこと、母の死に動揺しとても悲しんでいたことなどを短く話してくれた。言葉が出ない私はただ、胸が熱くなり涙が止めどなく流れてきて、一層言葉を出すことができなかった。後で分かったことは、洋子の死を知ったときに、明子は私に連絡を取ろうとしていたようだが、詳しい日程を職場に残していなかったために、結局、私に知らせたり、相談できず、友達に励まされながら、直ぐに日本に向けて発つ手筈を整えたようだった。明子は何とか母親の葬式には間に合うことができ、火葬に立ち会うことができたということだった。ミネソタに私が到着して、悶々としながら朝を迎え、シャワーを浴びているときに、明子は電話してきた。その電話ではただ、悲しくて、また、明子が悲しかっただろうと思い、一番悲しいときに傍にいてやれなかったことが悲しく、不憫で胸が締め付けられるような感じで、しっかりとしたことを言葉で伝えることができなかった。ようやく出てきた言葉は、ごめんな明子、間に合った? お父さんは帰れそうにないよ、だった。洋子は、「大丈夫。ただ、言っておきたかったのは、これはお父さんのせいではないからね」といっていた。その後、ミネソタの友人の家にもう一泊して、次の目的地のオハイオの大学に向かった。そこに着いた次の日に、ニューヨークで爆破事件が起きて、すっかり身動きができなくなってしまった。その後、明子は10月終わり頃まで、洋子の姉夫妻の家に世話になっていた。私はニューヨークの事件後、散発的に飛ぶ日本への飛行機を何とか確保して、9月中ごろに日本に帰ってきた。そして、その後、9月の終わりに洋子の墓前にお参りに行った。葬式が終わってまだ、一ヶ月も経ってない頃で、実家の入り口の部屋に祭壇が設けてあり、笑っている洋子が額縁の中に入れられていた。その前でお参りをした。このとき以来の長崎訪問であった。
洋子は義父が元気だった頃に購入した墓に入っていた。私は長崎にいる頃、何度か義父の先祖の墓にお参りをしたりしているので、墓の位置はその先祖の墓があるところだと思っていた。明子は母の死後、2ヶ月ばかり洋子の姉の家に世話になっていた関係上、墓の位置は十分分かっていた。私の頭の中での墓の位置と実際に明子が向かおうとする墓の方向と異なっていて、先に進んでいく明子を見て、いったいどこに向かうのだろうと訝っていた。義父が生前購入していた墓地は実家の直ぐ横の石段をかなり登って行ったところにあった。長崎は盆地のようになったところに町があり、坂が多い。オランダ坂でも有名なように、どこに行っても坂、坂、坂である。訪問したのが夏も終わりかけた時期だったが、まだ暑く、汗をたくさんかきながら墓に到着した。あぁ、ここなんだね、お父さんは別のところを思い描いていたよ。やっぱり明子はよく覚えているね。そうか、そうだ、お葬式の後、暫くここにいたんだよね。あぁ、そうだった。忘れていた。てっきり、別のところにあるとばかり思っていた。ごめんね、お父さんの記憶の通りに向かっていたら、とんでもないところにいっているところだった。ぜーぜー言いながら、何とかそう言い終えることができた。明子は墓に着くなり、大きな聞こえる声で、お久しぶりです、元気だった?お母さん、久しぶりにやってきましたよ、と墓に向かって話しかけた。汗を拭きながら墓を背に目を向けると、目の前に広く街が開けていて、とてもいい眺めである。いい眺めだねといいながら、私の中には、その景色は洋子の実家の縁側から眺める景色と同じで、長くこの地に暮らした思い出が蘇えってきていた。何度も訪れた実家から見た景色が墓から見る景色とまったく同じということに何か分からぬ因縁を感じた。でもそれを明子に明かすことはなかった。母の火葬に悲しい思いをしながら参加した明子だが、今はその素振りを微塵も見せず、むしろテキパキとお参りの準備をしていた。今回、車で長崎に着いたところで花を買っていこうという話になって、途中でスーパーに立ち寄って花を買うことにした。既に25歳になっていてもまだ、子供と思っていたが、明子は自ら進んで花やそれに加えるものを選んだりした。いつまでも子供だと思っていたが、私の出る幕はなくなってきているなと実感し、淋しさもあったが、嬉しい淋しさであった。そこでは線香や蝋燭も買い揃え、水も大きなペットボトル2本を購入した。そんな大きなものはいらないでしょうと、つい口出しをしてしまったが、それが単なる口出しだったことが、墓に来てみて直ぐに分かった。私たちが長崎を訪れたのは8月の旧盆から2週間ばかり経った頃のことということもあって、墓には少し汚れが出始めていた。それに、旧盆の頃に供えたと思える花も萎れていた。中には乾いて枯れてしまったものもあった。明子は枯れた花を手際よく抜いて、買ってきた新しい花をくるんでいた新聞紙に上に置いた。更に、墓の上に散らかったようにある枯れ草や葉っぱを取り、新聞紙の上に置いた。そして、水を墓に少しずつかけながら、長らくご無沙汰してごめんね、お母さん、といいながら、墓を優しく洗っていた。その後、軽く墓を拭いた後、蝋燭を灯して、線香を手向けて、二人で墓の前で手を合わせた。私としては、5年ぶりのことで、これが一つの清算になればいいがと思いながらの祈りであった。現実の無意識の夢も含めて、もう夢の中に、出てこないでほしいという気持ちで祈った。
正直言って、帰り道も、勿論、墓に行くときもだが、洋子の家族に会うのではないかと気になっていた。明子も薄々私の気持ちを察していたように思う。墓の位置を間違いそうになったときも、どのルートを通ると彼らに会う可能性を低くできるかということが私の頭の中に強くあった。帰るときは、別の道を帰ったのだが、頭の中には、一方で、昔よく通った道を通ることで、これを最後のときにしたいという気持ちがあった。洋子の実家を訪問するときに通る道は2通りあったが、墓に行くときに通った道がその一つであった。帰りはもう一つの道を通ることで、昔との決別をはっきりとつけたいという気持ちであった。しかし、この気持ちの裏には、彼らと会う可能性がどちらを通ってもあるという認識もあった。出来ることなら会わないでいきたい、知られることなく墓参りをしたいという気持ちであった。仮にあっても特に話すこともない、気まずいだけだという気持ちがあった。しかし、おかしなことに、今思うに、私の中には、偶然会うのもいいという気持ちもあったような気がする。その深層は分からないが、会うことを望むところもあったような気がする。
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2018年12月16日
タイでの旅(11)――ペナン島 6
ペナン島訪問記第6回です。今回が最後になります。今回は、訪問中に見かけた子供が十ピックです。
年を取ると、子供がやけに可愛くなる。何ででしょう。自分の子供も、子供と言える年齢ではなく、おいては子に従えという格言の「子供」になっているので、昔のようにはいかない。子供もれっきとした「大人」になっているからです。
《マレーシアで出会った子供たち》
ホテルには子供連れの家族が大勢来ていました。子供たちと話すことは出来ませんが、彼ら彼女たちの表情を楽しむことは出来ます。殆どが中東からの家族のようです。マレーシアが、イスラム教が主流だということもあるのでしょう。
《その他の子供たち》
子供の写真は撮り難いので、なかなかいい写真がありません。しかし、子供の表情ほど、豊かなものはないのではと思っています。以下の写真は、マレーシア以外で撮った写真の一部です。
《子供の仏像》
子供の仏像も興味津々です。数枚貼り付けておきます。
今回は、主に、マレーシアの子供をトピックにして、記してみました。子供の写真は撮影の時、注意しないと、保護者に不審に思われることがあります。ロリコンと思われるかも知れないからです。(注)この心配の中でなんとか撮った写真でした。子供はどの国でも社会のの宝といいますが、正にそうですね。天真爛漫でまだきらめきのある目がとても素敵ですね。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。コメントなどありましたら、お願いします。また、ご訪問下されば幸いです。
今回で、マレーシアのペナン島訪問記は終わりです。久しぶりに行ったマレーシア。調べてみると、前回行ったのは2008年3月でした。もう10年も経っていました。すっかり変わったマレーシア、ペナンにちょっとした驚きを覚えました。
(注)ロリコンは日本で使う言葉ですが、元々は、ロリータコンプレックスから来た言葉です。最初は、大人の男性の少女への性愛対象を意味していたのですが、現在では少女も少年も含めて、子供への性愛をいうようになりました。
2018年12月15日
タイでの旅(10)――ペナン島 5
今回は、ペナン島訪問記の第5回目として、「極楽寺」について記したいと思います。極楽寺はPenang Hillの直ぐ近くにあります。Penang Hillに比べると、人もまばらで、ゆっくり観光するにはいい所です。
極楽寺ということは、仏教寺院ということで、マレーシアでは珍しい部類に入ります。タイではあちこちに寺院がありますが、マレーシアにはタイほど頻繁には目にしません。イスラム教徒が多いからでしょう。
《極楽寺への行き方》
Penang Hillと同じように、バスでも行けるようですが、私はタクシーをチャーターしていたので、Penang Hillを観光し終わって、極楽寺に向かって貰いました。因みに、タクシーは1時間40リンギッド、約10USDが相場のようです。車で来ている人も多くいたようです。タクシーのドライバーは、もっと上まで行ってくれれば、坂を歩かなくてもよかったのですが。早めにタクシーを止めてしまいました。その為、或いは、そのお陰で、何処かで、見たような風景の中を歩くことになりました。
外国の空港では、飛行機を降りて、パスポートチェックに向かうまで、Duty freeの店の中を通りますね。それほど大々的ではないですが、タクシーを降りて、小物を売っている店の間の小道を通って、進むことになります。ある程度登ると、そこで、車で来た人と合流する地点があるのです。ここまでタクシーが来てくれていれば、しんどい坂道を登る必要はなかったのです。しかし、小店で販売している小物を見ることが出来たので、OK! です。
《いよいよ極楽寺》
極楽寺への道々、物乞いの人が並んでいるのは、ちょっと残念な光景でしたね。ハンディキャップの人には見えませんでしたが、座って物乞いをしていました。
《寺院で感じたこと》
寺院ですが、タイの寺院の建物と違いますね。建物は、上に高くそびえるように作られているという点では同じですが、建物全体が上にそびえるように立っていますね。タイでもこのような形態の建物がないわけではありませんが、よく見かけるのは、タワー型のそびえ方をしていて、中に人が入れるようになっている建物は少ないです。
寺院の屋根の四隅の先端が跳ね上がっているのは、タイも同じですね。これに比べて、日本の寺院の屋根は、このように跳ね上がっていませんね。理由をご存じの人はいらっしゃいますか?
《寺院の仏像》
仏像が並んでいるという点では、タイもマレーシアもよく似てますね。また、仏像の頭は、髪をイメージしたブツブツがつけられています。この点もタイとよく似た点だと思いました。ただ、タイではその頭にとがった形の髪型が施されているのに対して、マレーシアではその「とがった髪型」は見ることが出来ません。
その他、注意して見ると、様々な違いを発見出来ます。まず、仏像の顔です。タイでは垂れ目の仏像もあれば、つり上がった目の仏像もあります。マレーシアで見た仏像は丸い目の仏像が多い感じですし、どちらかというと目をつぶったように見える仏像が多いですね。タイもマレーシアも仏像の、所謂、モデルは僧侶だと思われます。タイでは、仏像は髪のない仏像をよく見受けますが、マレーシアでは特別な仏像を除いて、髪のある仏像が中心です。また、体に羽織っている、所謂、服ですが、これも大きな違いがあります。タイでは、片一方の肩を出していますが、マレーシアでは、片肩をはだけた仏像は見受けられません。
実際、実物の僧侶を見かけましたが、彼の服装は、タイの僧侶の服装とは違っていました。
《仁王像?》
マレーシアの寺院の仏像は、日本の寺院の仏像と似ている仏像があるなという印象です。左の写真はネットからお借りしましたが、このような怖い顔をしている仏像は日本でも、時々見かけます。マレーシアにも同じように、怖い顔をした仏像を見ることが出来ます。その怖い顔の仏像は、悪人を退治していると思える状況に設定してあるものも見かけました。
また、日本でいう、福を呼「ぶえびす像」とよく似た仏像を見ることも出来ます。Wikieによると、「えびす」は日本古来の神の一つとあります。「えびすは日本の神で、現在では七福神の一員として日本古来の唯一(その他はインドや中国由来)の福の神である」(ウイッキペディア)とすると、マレーシアのこの仏像は、福の神の恵比寿様ではないということになりますかね。また、日本古来の神となると、神道ということにならないですかね。いずれにしても、このようなふくよかで穏やかな表情をした仏像のコンセプトは、案外、宗教とか地域に関係なく、存在するのかも知れません。人々の気持ちは、宗教や国教を越えて共通するのが世の常でしょうから。
《寺院から見る街並み》
寺院は少し高台に位置するので、上に登れば上るほど、時々、ペナンの街並みをのぞき見ることが出来ます。それほど高い建物は多くありませんが、5〜6階のビルが建ち並んでいるのが見えます。これは、殆どがアパートで、街そのものが近代化したことを表しています。中層階のビルは、やがて、高層階のビルに将来は代わってくるのでしょうが、今のところ、人口が急増して、中産階級の人々は、土地の値段が家を買える範囲以上に上がり、中層階のアパートに住んでいる人が多いということを表しているように思えます。ペナンに住む人々は、タイの人々と比べて、経済状態がややいいのかも知れません。
《最後にその他の仏像の写真》
今回は、ペナン訪問記の5回目をお送りしました。イスラム教が主体の社会に立つ極楽寺という寺院を訪問した時に見たことの感想を書いてみました。元々教養のない人間ですので、常識を外れた印象もあったかも知れませんが、お許し下さい。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。コメントなどありましたら、お願いします。また、ご訪問下されば幸いです。