2019年05月10日
クロア篇−10章3
クロアが抱えていた猫がむずがり、床へ下りた。クロアは手中の温もりを失う。自身の両腕をつかむことで、自身のさびしさをまぎらわせる。
「わたしが、魔人の娘……」
はじめて知ったことだ。それでも突拍子ない事実とは思えなかった。
「ベニトラやナーマが、わたしを魔族寄りの人間みたいに言っていたのは……」
「魔族の血が濃い者は魔障の血の濃度が見抜ける。あなたのように気付かない者もいるがね」
「じゃあダムトやプルケも、わたしが……お父さまの子じゃないとわかってた?」
魔人寄りの官吏は「黙っていてごめん」と婉曲的に肯定する。
「クロアさまには教えなくていいことだと、みんな思っていたんだ。でもこうして実父疑惑の魔人と関わりをもっちゃ、そうも言ってられないよね……」
「お父さまは? 知っていらしたの?」
「ああ、ダムトが……教えてたらしい」
「いつ?」
「ダムトがクロアさまの従者に取りたてられたころ、だったかな」
「そんなに……むかしから?」
父は自身の血を受け継がない娘を、そうと知ってなお愛育した。その行為にどれだけのむなしさがあっただろうか。クロアは父が表に見せなかった心情を想像するといたたまれなくなり、目元に熱気がのぼってくる。
「お父さまは、ずっと……真実を隠しておいでだったのね……」
娘が慕う父親が他人だと知れば娘は傷つく。それゆえ官吏にも口止めして、クロアを領主の娘として居させた。その情愛を想うとクロアはむせび泣きそうになる。だが感情の爆発をこらえ、毅然とした態度をつらぬいた。涙はいくつか流れてくるが、強引にぬぐい、鼻をすすった。
タオは兎に茶の用意を頼み、部屋を出る。クロアも彼に手を引かれて出ていく。
「帰るまえに、すこし休んでいこう」
「わたしは、もう話すことは──」
「事情を飲みこむには時間がかかるだろう? 一息ついておこう」
クロアはタオの心遣いに甘えることにした。クロア自身は自分が平静をたもてていると思うのだが、他人から見てどうかはわからない。余計な不安を屋敷へ持ちこまないよう、ここで心の整理をしておこうと考えた。
タオに連れられる間、クロアはかつてないほどに思考をめぐらせる。母がヴラドの妻に等しい人だと父が知ったらどうなるだろう。母を魔人に返すのか。
(お母さまがいなくなったら、妹たちが寂しがるわ。まだちいさいんだもの)
クロアの不安は幼い家族にあった。学舎に住まう妹と弟は長期休暇の帰省時、我先にとフュリヤに抱きつくのだ。彼らは母への慕情が強く、まだまだ甘え盛りだ。
(あの子たちが独り立ちするまでは、お母さまにいてもらわないと……)
母の身柄を返さないのなら、どうやって捜索人の目をくらますのか。その手段はとてもクロアでは思いつけなかった。
クロアたちは沈黙したまま、一階へもどった。灰色の獣人が手招きしていたので、その案内にしたがうと、食堂のような場所に出た。調理場の近くに食卓がある。タオが食卓に着き、クロアとプルケも着席する。兎の獣人たちが手際よく茶の支度をした。二人の獣は言葉を交わさずに息の合った連携を見せる。タオの急な茶会の要求を、別室にいた獣人がすでに知っていたのを鑑みると、兎の彼らにのみ聞こえる会話をしているのかもしれない。
クロアとプルケには蜂蜜の入った紅茶がふるまわれた。タオは甘味が好かないのか素のままの紅茶を飲む。クロアは飲食をする気になれず、湯気の立つ茶杯を見ていた。
「今後のことが、心配か?」
タオがこともなげに聞いた。他人事にはちがいないのだが、クロアには快く思えない質問だ。
「あなたに憂えていただく必要はありませんわ」
「ねえや、じいやに生活を支えられていた貴族が、いきなり平民の暮らしを営めるか?」
こう聞かれてやっと、クロアは自分が公女である資格が無いことを悟る。
「あ……そうだわ、わたし……お父さまの後継者じゃなくなるんだわ」
「いま気付いたか?」
タオがあきれたようにおどろくので、クロアはむっとする。
「わたしがバカだとおっしゃりたい?」
「そうじゃない。さきほど貴女が落ちこんでいたのを、公女でなくなることに対する不安のせいだと……私が勘違いした」
他人の目からはそう見えたのか、とクロアは意表をつかれた。タオはプルケを見て、「領主はどうお考えだ?」と問う。プルケは彼女は首をひねって「ヒラ役人にはなんとも」と言う。
「クノードさまのお心は、わからない。クロアさまをどうしたいのか、ご本人に聞かないと」
父に話さなくては物事が進まない。クロアは意を決して、紅茶を一気飲みした。空けた茶杯をそっと机上へおろす。
「そう、ね……お父さまとお母さまにちゃんと知らせなくちゃ」
「継承権の話も大事だが、ヴラドが夫人を連れもどしたがっていることにも対処してほしい」
「そこが問題だわ。お母さまを返さなかったら、やっぱり武力行使してくるのかしら?」
「そうなる危険は、ある」
前途の暗くなる可能性だ。クロアは口の中の甘い後味がすっかり苦々しくなるのを感じる。
「もしお母さまの身柄を渡したら……一生、お母さまと会えなくなる?」
「わからない。ヴラドの活動時期はまちまちだ。やつが活動するときは夫人も同行するだろうが、何十年と寝られれば夫人もそれに従うことになる」
クロアはヴラドの居室にある空の棺桶を思い出した。寝台のない部屋であったが、あれが寝床だというのか。
「ヴラドはいつも棺桶の中にいるの?」
「ああ。普通の寝台で寝ると体にほこりが積もるそうだ。ほこり除けに、棺桶を使う」
並みの人間では考えられない問題対策だ。この館の主が何十年でもねむるというのは、本当によくあることらしい。
「あんなに大きい棺桶を使うのだから、さぞ体も大きいのでしょうね」
「そうだな……貴女がそれだけ体格がよいのも、きっとヴラドの遺伝だ」
そう言われてしまうと、クロアはこれまで自身を欺いてきた自意識を直視する。
「わたしの身長……お父さまを追い越してしまったものね……」
クノードは中背で、フュリヤは女性にしては高いほうだがクロアほどではない。クロアが両親に似なかった身体的特徴を、ずっとフュリヤの父方の影響だと思いこんできた。クロアの怪力もそうだ。自己に流れる魔人の血が、すぐれた身体能力を発現したのだと信じてきた。同じ血を継ぐフュリヤにはあらわれていない異能力だと知りながら、自分は特異な例の混血児なのだと見做した。そうすることで、公女である自己を肯定しつづけた。しかし現実は、もっと単純だったようだ。
「……ヴラドも、力がとびっきり強いの?」
クロアは平易な答案の答え合わせをするように、否定を想定しない確認をこころみた。タオは目を閉じて「かなり強い」と明快に答える。
「ほかにも貴女とヴラドが似ている部分はあるが……じかに見てみればわかる」
タオの話は一段落ついたと見て、クロアは獣人に茶の礼を言う。そうして食堂を出た。朱色の猫がとことこと後ろをついてくる。
『もう平気か』
クロアがしゃがみ、猫と目線を合わせる。
「ええ、わたし……いろいろと納得はできたわ」
『公女でなくなってもかまわぬか』
「いいのよ。もともとわたしに不似合いだったわ」
しかしさびしさは感じた。クロアの周囲にいる人々は、クロアが公女という立場だからよくしてくれたのだ。その地位が不当であったと知れたいま、彼らとも離別するおそれがある。それでもクロアが自分を孤独だと思わない望みがあった。
クロアは猫の両頬をそっと手で包んだ。毛皮ごしに頬肉をもむ。
「わたしが身分を剥奪されても……ベニトラはわたしと一緒にいてくれる?」
『おぬしの心根が変わらぬかぎりは、共にいよう』
クロアは感極まって、猫を抱き上げる。その頬に自分の頬をごしごしとすり寄せた。どんな窮地に陥っても自分はひとりではないのだと、温かい被毛が教えてくれた。
「わたしが、魔人の娘……」
はじめて知ったことだ。それでも突拍子ない事実とは思えなかった。
「ベニトラやナーマが、わたしを魔族寄りの人間みたいに言っていたのは……」
「魔族の血が濃い者は魔障の血の濃度が見抜ける。あなたのように気付かない者もいるがね」
「じゃあダムトやプルケも、わたしが……お父さまの子じゃないとわかってた?」
魔人寄りの官吏は「黙っていてごめん」と婉曲的に肯定する。
「クロアさまには教えなくていいことだと、みんな思っていたんだ。でもこうして実父疑惑の魔人と関わりをもっちゃ、そうも言ってられないよね……」
「お父さまは? 知っていらしたの?」
「ああ、ダムトが……教えてたらしい」
「いつ?」
「ダムトがクロアさまの従者に取りたてられたころ、だったかな」
「そんなに……むかしから?」
父は自身の血を受け継がない娘を、そうと知ってなお愛育した。その行為にどれだけのむなしさがあっただろうか。クロアは父が表に見せなかった心情を想像するといたたまれなくなり、目元に熱気がのぼってくる。
「お父さまは、ずっと……真実を隠しておいでだったのね……」
娘が慕う父親が他人だと知れば娘は傷つく。それゆえ官吏にも口止めして、クロアを領主の娘として居させた。その情愛を想うとクロアはむせび泣きそうになる。だが感情の爆発をこらえ、毅然とした態度をつらぬいた。涙はいくつか流れてくるが、強引にぬぐい、鼻をすすった。
タオは兎に茶の用意を頼み、部屋を出る。クロアも彼に手を引かれて出ていく。
「帰るまえに、すこし休んでいこう」
「わたしは、もう話すことは──」
「事情を飲みこむには時間がかかるだろう? 一息ついておこう」
クロアはタオの心遣いに甘えることにした。クロア自身は自分が平静をたもてていると思うのだが、他人から見てどうかはわからない。余計な不安を屋敷へ持ちこまないよう、ここで心の整理をしておこうと考えた。
タオに連れられる間、クロアはかつてないほどに思考をめぐらせる。母がヴラドの妻に等しい人だと父が知ったらどうなるだろう。母を魔人に返すのか。
(お母さまがいなくなったら、妹たちが寂しがるわ。まだちいさいんだもの)
クロアの不安は幼い家族にあった。学舎に住まう妹と弟は長期休暇の帰省時、我先にとフュリヤに抱きつくのだ。彼らは母への慕情が強く、まだまだ甘え盛りだ。
(あの子たちが独り立ちするまでは、お母さまにいてもらわないと……)
母の身柄を返さないのなら、どうやって捜索人の目をくらますのか。その手段はとてもクロアでは思いつけなかった。
クロアたちは沈黙したまま、一階へもどった。灰色の獣人が手招きしていたので、その案内にしたがうと、食堂のような場所に出た。調理場の近くに食卓がある。タオが食卓に着き、クロアとプルケも着席する。兎の獣人たちが手際よく茶の支度をした。二人の獣は言葉を交わさずに息の合った連携を見せる。タオの急な茶会の要求を、別室にいた獣人がすでに知っていたのを鑑みると、兎の彼らにのみ聞こえる会話をしているのかもしれない。
クロアとプルケには蜂蜜の入った紅茶がふるまわれた。タオは甘味が好かないのか素のままの紅茶を飲む。クロアは飲食をする気になれず、湯気の立つ茶杯を見ていた。
「今後のことが、心配か?」
タオがこともなげに聞いた。他人事にはちがいないのだが、クロアには快く思えない質問だ。
「あなたに憂えていただく必要はありませんわ」
「ねえや、じいやに生活を支えられていた貴族が、いきなり平民の暮らしを営めるか?」
こう聞かれてやっと、クロアは自分が公女である資格が無いことを悟る。
「あ……そうだわ、わたし……お父さまの後継者じゃなくなるんだわ」
「いま気付いたか?」
タオがあきれたようにおどろくので、クロアはむっとする。
「わたしがバカだとおっしゃりたい?」
「そうじゃない。さきほど貴女が落ちこんでいたのを、公女でなくなることに対する不安のせいだと……私が勘違いした」
他人の目からはそう見えたのか、とクロアは意表をつかれた。タオはプルケを見て、「領主はどうお考えだ?」と問う。プルケは彼女は首をひねって「ヒラ役人にはなんとも」と言う。
「クノードさまのお心は、わからない。クロアさまをどうしたいのか、ご本人に聞かないと」
父に話さなくては物事が進まない。クロアは意を決して、紅茶を一気飲みした。空けた茶杯をそっと机上へおろす。
「そう、ね……お父さまとお母さまにちゃんと知らせなくちゃ」
「継承権の話も大事だが、ヴラドが夫人を連れもどしたがっていることにも対処してほしい」
「そこが問題だわ。お母さまを返さなかったら、やっぱり武力行使してくるのかしら?」
「そうなる危険は、ある」
前途の暗くなる可能性だ。クロアは口の中の甘い後味がすっかり苦々しくなるのを感じる。
「もしお母さまの身柄を渡したら……一生、お母さまと会えなくなる?」
「わからない。ヴラドの活動時期はまちまちだ。やつが活動するときは夫人も同行するだろうが、何十年と寝られれば夫人もそれに従うことになる」
クロアはヴラドの居室にある空の棺桶を思い出した。寝台のない部屋であったが、あれが寝床だというのか。
「ヴラドはいつも棺桶の中にいるの?」
「ああ。普通の寝台で寝ると体にほこりが積もるそうだ。ほこり除けに、棺桶を使う」
並みの人間では考えられない問題対策だ。この館の主が何十年でもねむるというのは、本当によくあることらしい。
「あんなに大きい棺桶を使うのだから、さぞ体も大きいのでしょうね」
「そうだな……貴女がそれだけ体格がよいのも、きっとヴラドの遺伝だ」
そう言われてしまうと、クロアはこれまで自身を欺いてきた自意識を直視する。
「わたしの身長……お父さまを追い越してしまったものね……」
クノードは中背で、フュリヤは女性にしては高いほうだがクロアほどではない。クロアが両親に似なかった身体的特徴を、ずっとフュリヤの父方の影響だと思いこんできた。クロアの怪力もそうだ。自己に流れる魔人の血が、すぐれた身体能力を発現したのだと信じてきた。同じ血を継ぐフュリヤにはあらわれていない異能力だと知りながら、自分は特異な例の混血児なのだと見做した。そうすることで、公女である自己を肯定しつづけた。しかし現実は、もっと単純だったようだ。
「……ヴラドも、力がとびっきり強いの?」
クロアは平易な答案の答え合わせをするように、否定を想定しない確認をこころみた。タオは目を閉じて「かなり強い」と明快に答える。
「ほかにも貴女とヴラドが似ている部分はあるが……じかに見てみればわかる」
タオの話は一段落ついたと見て、クロアは獣人に茶の礼を言う。そうして食堂を出た。朱色の猫がとことこと後ろをついてくる。
『もう平気か』
クロアがしゃがみ、猫と目線を合わせる。
「ええ、わたし……いろいろと納得はできたわ」
『公女でなくなってもかまわぬか』
「いいのよ。もともとわたしに不似合いだったわ」
しかしさびしさは感じた。クロアの周囲にいる人々は、クロアが公女という立場だからよくしてくれたのだ。その地位が不当であったと知れたいま、彼らとも離別するおそれがある。それでもクロアが自分を孤独だと思わない望みがあった。
クロアは猫の両頬をそっと手で包んだ。毛皮ごしに頬肉をもむ。
「わたしが身分を剥奪されても……ベニトラはわたしと一緒にいてくれる?」
『おぬしの心根が変わらぬかぎりは、共にいよう』
クロアは感極まって、猫を抱き上げる。その頬に自分の頬をごしごしとすり寄せた。どんな窮地に陥っても自分はひとりではないのだと、温かい被毛が教えてくれた。
タグ:クロア
この記事へのコメント
コメントを書く