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2020年11月21日
習一篇−4章5
習一が起きたとき、掛布団の上に寝そべっていた。室内はあかるく、日はすでに上がっている。いまは何時だろう、とうつろな目でベッド棚にある置き時計を見たところ、針は七時半を指していた。朝一の授業に間に合わせるには支度を急ぎたい時刻だが──
(学校は……休みか)
昨日が終業式だった。今日から長期の休暇期間に入る。不良に身をやつしてからはじめての夏休みだ。去年までの自分は涼しい家と夏季授業を実施する学校に長く滞在することで暑い夏をやりすごしていた。家族とも学校の者とも不仲になった今年では、同じ手段が取りにくいと予想できる。
(どう乗り切っていくか……)
思案のかたわら、窓の外をながめた。青い空に白い雲が浮かび、雲同士が折り重なっている。重なった雲の下部に太い灰色の筋ができていた。
(銀色……)
灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させる。本日は男の方が終日同伴する、と伝言を受けてある。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、習一はまぶたを落とした。
二度寝は数分を経たずして阻害された。銀髪の少女が窓を叩いたのだ。習一は彼女の登頂ルートがもはや気にならなくなっていた。
少女は窓の施錠がかかっていないことに気づくと、習一の助けを借りずに窓を越えてくる。昨日もそうだったが靴は着用したままの入室だ。
「シューイチ、おはよう」
そうあいさつする背にはいつもの荷物がない。今回は習一に渡すものはないらしい。
「今日はシドがくるよ」
「たったそれだけ言うために、土足で部屋に押し入るのか?」
「ううん。ほかにも伝えることがあるの」
少女は土足で部屋に上がった部分を否定せずに、追加の伝言を告げる。
「今日こなすプリントのほかに、昨日といたプリントを持ってきてね」
「なんでだ?」
「シドが丸つけするの。そうしたらシューイチがちょっとラクできるでしょ」
正誤の確認を教師が肩代わりするらしい。たしかにそれは習一でなくてもやれることだ。作業がひとつでも減れば習一が教師らに拘束される時間も短くなりそうである。
「自分でやりたかったら、それでもいいって」
「いや……あいつに任せる。どうせほかにやることはないんだろ」
習一は昨日の少女が時間つぶしに読書をした様子を思いおこした。昨日の時点では少女にできる手助けがなかったとはいえ、あのようにヒマそうにされるなら作業を分担してもらうのが効率的だと考えた。
「あと、プリントの問題をとくときには教科書を見ていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいらしいから、教科書ももっていこう」
「教科書も? かさばるな、そりゃ……」
「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」
「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」
「んじゃ、したくしてね」
少女は窓を越えていった。常人ではケガをする行動が、彼女にとって造作もない移動方法なのだと習一は知っている。ゆえに彼女の無事を確かめることなく開いた窓を閉め、勉強机にある本棚を見た。
本がぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けしてある。使用頻度の低い芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してあった。
(昔からのクセか……)
育ちのよさが抜けない証拠は放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日こなす科目を決め、時間が余った時用の予備も鞄に詰めて、解答に必要になりそうな教科書を同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探った。私服に着替え、部屋を出る。階段そばの壁が視界に入り、妙に殺風景だと感じる。
(なんか足りないな?)
なにがこの壁に欠けているのだろう、と思うと昨夜のことを思い出した。自身の危機に瀕した際、壁に飾っていた絵画が絶好のタイミングで落下したのだ。
(あれ、なんで落ちてきたんだ?)
習一は絵画を繋ぎとめていたワイヤーを検分しようかとした。しかし昨夜の男──習一の父──と出くわす危険をかんがみて、とっとと玄関に向かうことにした。
昨日脱いだ靴はきれいにそろえてあった。習一は母がそろえたであろう靴を履いて外へ出る。家門の奥に、長身の男性の後ろ姿が見えた。
(あいつは……)
特徴的な銀髪と、腕まくりした黒シャツ。あれが他校の奇矯な教師である。ここ数日はこの教師と似た特徴を有する使いと接してきたせいか、変わった髪色への抵抗感はだいぶなくなってきた。
習一は家の敷地内と外を仕切る鉄格子に手をかけた。外へ出てきた習一に、銀髪の教師が黄色のサングラスを向ける。
「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」
「アンタみたいな目立つ人間、わすれるもんか」
「それは安心しました。では朝食を食べに行きましょう」
教師は朝から外食をするつもりでいる。いまの時刻では開店前な店が多そうだと習一は思う。
「どこで食う気だ?」
「貴方の希望があればその店に。なければ私が店を選びます」
「アンタの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」
「よい返事です。さて、歩きますよ」
教師は習一に背を向け、移動をはじめた。習一はだまって銀髪の教師についていこうとする。しかし今朝会ったばかりの銀髪の少女がどこにもいないのを不審に思い、その件を黒灰色の背に質問した。
(学校は……休みか)
昨日が終業式だった。今日から長期の休暇期間に入る。不良に身をやつしてからはじめての夏休みだ。去年までの自分は涼しい家と夏季授業を実施する学校に長く滞在することで暑い夏をやりすごしていた。家族とも学校の者とも不仲になった今年では、同じ手段が取りにくいと予想できる。
(どう乗り切っていくか……)
思案のかたわら、窓の外をながめた。青い空に白い雲が浮かび、雲同士が折り重なっている。重なった雲の下部に太い灰色の筋ができていた。
(銀色……)
灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させる。本日は男の方が終日同伴する、と伝言を受けてある。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、習一はまぶたを落とした。
二度寝は数分を経たずして阻害された。銀髪の少女が窓を叩いたのだ。習一は彼女の登頂ルートがもはや気にならなくなっていた。
少女は窓の施錠がかかっていないことに気づくと、習一の助けを借りずに窓を越えてくる。昨日もそうだったが靴は着用したままの入室だ。
「シューイチ、おはよう」
そうあいさつする背にはいつもの荷物がない。今回は習一に渡すものはないらしい。
「今日はシドがくるよ」
「たったそれだけ言うために、土足で部屋に押し入るのか?」
「ううん。ほかにも伝えることがあるの」
少女は土足で部屋に上がった部分を否定せずに、追加の伝言を告げる。
「今日こなすプリントのほかに、昨日といたプリントを持ってきてね」
「なんでだ?」
「シドが丸つけするの。そうしたらシューイチがちょっとラクできるでしょ」
正誤の確認を教師が肩代わりするらしい。たしかにそれは習一でなくてもやれることだ。作業がひとつでも減れば習一が教師らに拘束される時間も短くなりそうである。
「自分でやりたかったら、それでもいいって」
「いや……あいつに任せる。どうせほかにやることはないんだろ」
習一は昨日の少女が時間つぶしに読書をした様子を思いおこした。昨日の時点では少女にできる手助けがなかったとはいえ、あのようにヒマそうにされるなら作業を分担してもらうのが効率的だと考えた。
「あと、プリントの問題をとくときには教科書を見ていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいらしいから、教科書ももっていこう」
「教科書も? かさばるな、そりゃ……」
「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」
「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」
「んじゃ、したくしてね」
少女は窓を越えていった。常人ではケガをする行動が、彼女にとって造作もない移動方法なのだと習一は知っている。ゆえに彼女の無事を確かめることなく開いた窓を閉め、勉強机にある本棚を見た。
本がぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けしてある。使用頻度の低い芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してあった。
(昔からのクセか……)
育ちのよさが抜けない証拠は放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日こなす科目を決め、時間が余った時用の予備も鞄に詰めて、解答に必要になりそうな教科書を同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探った。私服に着替え、部屋を出る。階段そばの壁が視界に入り、妙に殺風景だと感じる。
(なんか足りないな?)
なにがこの壁に欠けているのだろう、と思うと昨夜のことを思い出した。自身の危機に瀕した際、壁に飾っていた絵画が絶好のタイミングで落下したのだ。
(あれ、なんで落ちてきたんだ?)
習一は絵画を繋ぎとめていたワイヤーを検分しようかとした。しかし昨夜の男──習一の父──と出くわす危険をかんがみて、とっとと玄関に向かうことにした。
昨日脱いだ靴はきれいにそろえてあった。習一は母がそろえたであろう靴を履いて外へ出る。家門の奥に、長身の男性の後ろ姿が見えた。
(あいつは……)
特徴的な銀髪と、腕まくりした黒シャツ。あれが他校の奇矯な教師である。ここ数日はこの教師と似た特徴を有する使いと接してきたせいか、変わった髪色への抵抗感はだいぶなくなってきた。
習一は家の敷地内と外を仕切る鉄格子に手をかけた。外へ出てきた習一に、銀髪の教師が黄色のサングラスを向ける。
「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」
「アンタみたいな目立つ人間、わすれるもんか」
「それは安心しました。では朝食を食べに行きましょう」
教師は朝から外食をするつもりでいる。いまの時刻では開店前な店が多そうだと習一は思う。
「どこで食う気だ?」
「貴方の希望があればその店に。なければ私が店を選びます」
「アンタの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」
「よい返事です。さて、歩きますよ」
教師は習一に背を向け、移動をはじめた。習一はだまって銀髪の教師についていこうとする。しかし今朝会ったばかりの銀髪の少女がどこにもいないのを不審に思い、その件を黒灰色の背に質問した。
タグ:習一
2020年11月20日
習一篇−4章4
4夜に帰宅
習一は実家に到着した。まずは家門の外から家の様子をさぐる。居間には電灯が点いている。家主はもう帰宅した頃か、妹は学習塾に行っていて家にはいないのだろうか──と習一は家族の所在を考える。こんな想像は帰宅道中にも行なってきた。いま一度同じことを考えるのはただ、気後れしているせいだ。
(……オレがもたついてちゃ、こいつが帰れない)
銀髪の少女は習一の家までついてきた。きっと彼女は習一がきちんと帰宅するのを確認してから帰るつもりなのだろう。彼女の帰宅を遅らせるわけにはいかず、習一は決心して家門の鉄格子に触れた。無言でいた少女が「そうそう」と語りかける。
「サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
言われて習一は借り物があることを思い出した。たたんだ布と、重量の減った水筒を少女に返す。水筒の茶がちゃぽん、と音を立てた。
少女は水筒と布をリュックサックに収納する。荷を背にかつぐと、ふたたび習一をじっと見てきた。
「なんだよ、おまえも早いとこ帰れ」
「おうちに入るところをみとどけるの」
「蚊が飛ぶ時期に野宿なんかしねえって」
そう吐き捨てた習一は帰宅へのためらいがうすれ、家の敷地内に入った。
玄関の戸を開ける。一歩中へ踏みこむと手に汗がにじんだ。この発汗は暑さのせいではない。緊張しているのだ。
(ここまできて、逃げられるか!)
習一は靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っており、だれかがいるようだったが、その存在を見ないようにした。この家に習一が会いたい家族などいない。だれがいようと会う気はなかった。
風呂場へ直行し、汗を洗いながすと、清潔な服に着替える。そうして文具類をしまった鞄を手に、階段へ向かう。このときはもうテレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を乗せたときに、男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主にしたがう。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだ。高圧的な人物はこの家にひとりだけいる。その人物こそが、習一が帰宅を渋る元凶だ。
習一は不快感をこらえ、話者を視界に入れてみる。居間の入り口に、中年が立っていた。まだ仕事用のスーツ姿でいる。夏らしくネクタイとジャケットは着ていない。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ」
男は正論だがしょうもない説教をはじめる。
「入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は無益な話を無視し、階段をのぼりだした。とんとん、と駆け上がる。その足音が二重になった、と思うと習一の片足はうごかなくなる。男が足首をつかんできたのだ。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ?」
男の憤怒が表出する。
「親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右にふってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか」
男は目をかっと見開いた。「なにか言え」と希望したその返答が、彼の図星を突いたらしい。あるいは本人が言おうとしたセリフ以上に習一が予想した言葉は容赦がなかったか。
ともあれ習一は男がぶつけてきた悪意に相当する仕返しをする。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「大好きな金で捕まえた息子ならきっと、あんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかり口にして!」
習一を捕縛する手が乱暴にうごいた。習一は階段のへりをつかみ、とっさに転倒をふせぐ。当座の負傷は回避できたが、現状維持が精いっぱい。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いのだと、どこかで耳にしたことがあった。衝撃から身を守るぜい肉がほぼない習一では殊更痛いだろう。
どう打開すべきか。習一は下策だが男の怒りを鎮める手段がひとつ思いつけた。泣いて詫びるのだ。そうすればきっとこの小物のプライドは回復され、解放される。だがそんな無様な演技をする意欲は微塵も湧かなかった。習一もまた、プライドが高い性分だった。
突然、がたん、と重い物がなにかにぶつかる音がした。途端に足の呪縛が解かれる。習一が何事かと後方をふりむく。すると男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。男の足元には油絵の絵画がある。この絵画は習一が物心ついたときからずっと階段の壁に飾ってあるものだ。ふだんは丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、そう簡単に切れる代物ではない。
(どうして落ちてきた?)
習一は狙いすましたかのように落下物が到来したことを不思議に思う一方、いまが逃走の好機だと判断した。悶絶する男を放置し、駆け足で二階の自室へ入る。自室の戸に鍵をかけると、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
習一は実家に到着した。まずは家門の外から家の様子をさぐる。居間には電灯が点いている。家主はもう帰宅した頃か、妹は学習塾に行っていて家にはいないのだろうか──と習一は家族の所在を考える。こんな想像は帰宅道中にも行なってきた。いま一度同じことを考えるのはただ、気後れしているせいだ。
(……オレがもたついてちゃ、こいつが帰れない)
銀髪の少女は習一の家までついてきた。きっと彼女は習一がきちんと帰宅するのを確認してから帰るつもりなのだろう。彼女の帰宅を遅らせるわけにはいかず、習一は決心して家門の鉄格子に触れた。無言でいた少女が「そうそう」と語りかける。
「サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
言われて習一は借り物があることを思い出した。たたんだ布と、重量の減った水筒を少女に返す。水筒の茶がちゃぽん、と音を立てた。
少女は水筒と布をリュックサックに収納する。荷を背にかつぐと、ふたたび習一をじっと見てきた。
「なんだよ、おまえも早いとこ帰れ」
「おうちに入るところをみとどけるの」
「蚊が飛ぶ時期に野宿なんかしねえって」
そう吐き捨てた習一は帰宅へのためらいがうすれ、家の敷地内に入った。
玄関の戸を開ける。一歩中へ踏みこむと手に汗がにじんだ。この発汗は暑さのせいではない。緊張しているのだ。
(ここまできて、逃げられるか!)
習一は靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っており、だれかがいるようだったが、その存在を見ないようにした。この家に習一が会いたい家族などいない。だれがいようと会う気はなかった。
風呂場へ直行し、汗を洗いながすと、清潔な服に着替える。そうして文具類をしまった鞄を手に、階段へ向かう。このときはもうテレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を乗せたときに、男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主にしたがう。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだ。高圧的な人物はこの家にひとりだけいる。その人物こそが、習一が帰宅を渋る元凶だ。
習一は不快感をこらえ、話者を視界に入れてみる。居間の入り口に、中年が立っていた。まだ仕事用のスーツ姿でいる。夏らしくネクタイとジャケットは着ていない。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ」
男は正論だがしょうもない説教をはじめる。
「入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は無益な話を無視し、階段をのぼりだした。とんとん、と駆け上がる。その足音が二重になった、と思うと習一の片足はうごかなくなる。男が足首をつかんできたのだ。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ?」
男の憤怒が表出する。
「親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右にふってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか」
男は目をかっと見開いた。「なにか言え」と希望したその返答が、彼の図星を突いたらしい。あるいは本人が言おうとしたセリフ以上に習一が予想した言葉は容赦がなかったか。
ともあれ習一は男がぶつけてきた悪意に相当する仕返しをする。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「大好きな金で捕まえた息子ならきっと、あんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかり口にして!」
習一を捕縛する手が乱暴にうごいた。習一は階段のへりをつかみ、とっさに転倒をふせぐ。当座の負傷は回避できたが、現状維持が精いっぱい。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いのだと、どこかで耳にしたことがあった。衝撃から身を守るぜい肉がほぼない習一では殊更痛いだろう。
どう打開すべきか。習一は下策だが男の怒りを鎮める手段がひとつ思いつけた。泣いて詫びるのだ。そうすればきっとこの小物のプライドは回復され、解放される。だがそんな無様な演技をする意欲は微塵も湧かなかった。習一もまた、プライドが高い性分だった。
突然、がたん、と重い物がなにかにぶつかる音がした。途端に足の呪縛が解かれる。習一が何事かと後方をふりむく。すると男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。男の足元には油絵の絵画がある。この絵画は習一が物心ついたときからずっと階段の壁に飾ってあるものだ。ふだんは丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、そう簡単に切れる代物ではない。
(どうして落ちてきた?)
習一は狙いすましたかのように落下物が到来したことを不思議に思う一方、いまが逃走の好機だと判断した。悶絶する男を放置し、駆け足で二階の自室へ入る。自室の戸に鍵をかけると、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
タグ:習一