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2021年02月17日
習一篇−5章1
習一たちは午後も図書館に居続けた。習一は残る五教科の理科と社会科のうち、教科書を持参した政治経済に苦戦する。教科書にない作文の解答を求められてつまづいたのだ。機械的に教科書の説明を抜粋しても解けず、自分の言葉に直さねばならない。快調な出だしだった午前の課題とは反対に、鈍重な進捗におちいる。習一は嫌気がさしてきて、いったん顔を上げた。
(ちょっと休むか?)
席についてからというもの、ずっと同じ作業をしてきた。それは教師とて同じだが、彼は趣味の読書にいそしめているせいか疲労の様子はなかった。
習一は小声で「すこし離れる」と教師に離席を宣言し、トイレ休憩へ向かった。用をすませて席へもどってくるときに、これまで注意をそそがなかった館内の様子を見る。試験勉強に励む若者がいるほか、余生をもてあますかのような老人が新聞を読んでいる。それらの顔ぶれは開館後にやってきたらしい新顔もいれば、開館前に館外で待機していた者もいる。長時間の滞在者は習一たちだけではないのだと知れた。
習一が今日かぎりの自席に着こうとしたとき、長机の端にいる大小の人影が視界に入った。それが親子連れではないかと思った瞬間、ひどく嫌なしこりが腹のあたりにこみ上げた気分になる。だがしこりはすぐに消え失せた。習一は自身の急激な変調にとまどいながらも、人影をしっかと見据えた。
父らしき男性と小学校低学年な男の子が向かい合って座っている。それぞれが鉛筆を片手にして、なにごとかを言う。男の子はふてくされた表情だ。その手元にはうすっぺらい問題集がある。柔らかい顔つきの男性が返事をしたのち、男の子はまた問題集に手をつけた。「もう飽きた」、「帰りたい」などの不服は言いくるめられたのだろう。父親のほうも分厚い本を見ながらノートに書きつける作業を再開した。
一連のやり取りを見た習一は頬の筋肉が刺激されるのを感じた。笑ったのだ。あの親子を見て。それに気づいたとき、どうして笑ったのか、自分で自分がよくわからないでいた。だが不思議と悪い気はしなかった。
(前はあんなの見たら、逆にイラついてたような)
いつからだったか、仲の良い親子風景を見せつけられれば無性にやりきれなくなっていた。いまもそのわだかまりが完全に消えたわけではない。だが快の心持ちがより前面に感じられ、不快はその陰へと追いやられていた。
(入院してて、毒気が抜けたか?)
長く滞在したおぼえのない入院生活を経て、習一は体力を失い、負を感じとる感情も弱まった。まるで憑き物が落ちたようだ。肉体が衰えたのは困るが、くさくさした気分に振りまわされずにすむ点においては快適になった。
長考がすぎたのか、習一が着席した際に正面を見ると教師と目が合った。習一が気まずそうに眉をしかめると教師はなにも見なかった風体で読書を継続する。それからの習一は顔を上げず、視線の移動は机上に制限した。
太陽が赤みをうっすら帯びる時間帯になる。習一は朝のうちに腹に貯めた飲食物が尽きるのを感じた。持ってきたプリントのうち、参考資料を持参したものはすべて解き終え、教師による確認も終わった。教師がペンを走らせた紙の束は積み重なったままだ。これらは誤答の確認は自室でも簡単にできる、と習一は判断したため、放置していた。
習一は教科書なしで解けるプリントを前にして、ふと考える。補習の開始日は明々後日。明日と明後日は習一の予定がない。もし教師が一日あるいは二日間とも習一の近辺にはべるのなら、間違いを訂正するのみのプリントをまた持ち運ぶ必要がある。そうであればいまのうちに解答のチェックができる分を片付けておけば効率がよいかもしれない。
習一は目下に目標を決定するため、図書を読みふける教師に質問を投げる。
「アンタの見張り、明日もやる気か?」
「はい。明日も今日と同じように課題に励んでもらうつもりです」
「明日には全部終わりそうだな。それなら確認をやっとくか……」
「貴方のキリがよいところまで進めてください」
教師は男女の思考の違いについての本に目を落とす。彼は一度めに取ってきた三冊を読み終え、返却して新たに図書を複数持ってきた。本のタイトルを見るに、人間の心理にまつわる解説本ばかり。職業柄、念頭に入れるべき知識なのだろうが、そこまで念入りに知る必要がこの男にあるのだろうか。
習一は銀髪の教師とは二日程度しか顔を合わせていないとはいえ、その二日で彼の表面的な人物像は固まった。温厚篤実な紳士。内面は確実なことがわからぬとはいえ、いまのところさしたる汚点は出していないように見えた。そんな彼が世間一般的な失言や失態を引き起こすさまは想像しにくい。彼の発言が習一の癪《しゃく》に障ったことはあれど、世間的には地雷にあたる文言ではなかったし、習一を傷つける意図もまったくふくまれていなかった。
得てして、他者から見てすでに一人前の域に到達しても「まだ不足がある」と学びを深める者がいる一方、本当に知識を備えるべき者は「意味のないこと」と捨て置き、自己の瑕疵を拡張させていくものなのかもしれない。習一が想定する後者は紛れもなく自分の父だった。
習一はプリントに四色ボールペンの青色で正答を書き続け、教師が手を下したプリントすべてを見終わった。これで今日のノルマは達成した。図書館を出ようか、と思い教師の顔を見る。教師は無言で立ち、本を携えて長机を離れる。習一の意思を察知して、本を書棚にもどすつもりなのだ。習一も帰り支度のためクリアファイルに紙の束を入れ、筆箱とともに鞄の中へ収めた。鞄にしまった教科書の背を触り、持参した冊数に差がないことを確かめる。私物がなくなった机を見つめ、教師の帰還を待った。ほどなくして現在の保護者が席にやってくる。
「今日はこれでおしまいにしますか?」
「ああ」
二人は半日を過ごした公共施設を発った。気兼ねなく私語を話せる場所まで移動すると教師は足を止める。
「夕飯の希望はありますか?」
「ない。あんたの好きにしてくれ」
「わかりました。私についてきてください」
習一は髪を暗い朱に染める教師を追いかけた。教師は習一の家とは反対の方向へ向かう。その方角にはパン屋やラーメン屋など食べ物関係の店が居並ぶ。そのどれかが夕食の場になるのだと習一はあらかじめ想定した。
(ちょっと休むか?)
席についてからというもの、ずっと同じ作業をしてきた。それは教師とて同じだが、彼は趣味の読書にいそしめているせいか疲労の様子はなかった。
習一は小声で「すこし離れる」と教師に離席を宣言し、トイレ休憩へ向かった。用をすませて席へもどってくるときに、これまで注意をそそがなかった館内の様子を見る。試験勉強に励む若者がいるほか、余生をもてあますかのような老人が新聞を読んでいる。それらの顔ぶれは開館後にやってきたらしい新顔もいれば、開館前に館外で待機していた者もいる。長時間の滞在者は習一たちだけではないのだと知れた。
習一が今日かぎりの自席に着こうとしたとき、長机の端にいる大小の人影が視界に入った。それが親子連れではないかと思った瞬間、ひどく嫌なしこりが腹のあたりにこみ上げた気分になる。だがしこりはすぐに消え失せた。習一は自身の急激な変調にとまどいながらも、人影をしっかと見据えた。
父らしき男性と小学校低学年な男の子が向かい合って座っている。それぞれが鉛筆を片手にして、なにごとかを言う。男の子はふてくされた表情だ。その手元にはうすっぺらい問題集がある。柔らかい顔つきの男性が返事をしたのち、男の子はまた問題集に手をつけた。「もう飽きた」、「帰りたい」などの不服は言いくるめられたのだろう。父親のほうも分厚い本を見ながらノートに書きつける作業を再開した。
一連のやり取りを見た習一は頬の筋肉が刺激されるのを感じた。笑ったのだ。あの親子を見て。それに気づいたとき、どうして笑ったのか、自分で自分がよくわからないでいた。だが不思議と悪い気はしなかった。
(前はあんなの見たら、逆にイラついてたような)
いつからだったか、仲の良い親子風景を見せつけられれば無性にやりきれなくなっていた。いまもそのわだかまりが完全に消えたわけではない。だが快の心持ちがより前面に感じられ、不快はその陰へと追いやられていた。
(入院してて、毒気が抜けたか?)
長く滞在したおぼえのない入院生活を経て、習一は体力を失い、負を感じとる感情も弱まった。まるで憑き物が落ちたようだ。肉体が衰えたのは困るが、くさくさした気分に振りまわされずにすむ点においては快適になった。
長考がすぎたのか、習一が着席した際に正面を見ると教師と目が合った。習一が気まずそうに眉をしかめると教師はなにも見なかった風体で読書を継続する。それからの習一は顔を上げず、視線の移動は机上に制限した。
太陽が赤みをうっすら帯びる時間帯になる。習一は朝のうちに腹に貯めた飲食物が尽きるのを感じた。持ってきたプリントのうち、参考資料を持参したものはすべて解き終え、教師による確認も終わった。教師がペンを走らせた紙の束は積み重なったままだ。これらは誤答の確認は自室でも簡単にできる、と習一は判断したため、放置していた。
習一は教科書なしで解けるプリントを前にして、ふと考える。補習の開始日は明々後日。明日と明後日は習一の予定がない。もし教師が一日あるいは二日間とも習一の近辺にはべるのなら、間違いを訂正するのみのプリントをまた持ち運ぶ必要がある。そうであればいまのうちに解答のチェックができる分を片付けておけば効率がよいかもしれない。
習一は目下に目標を決定するため、図書を読みふける教師に質問を投げる。
「アンタの見張り、明日もやる気か?」
「はい。明日も今日と同じように課題に励んでもらうつもりです」
「明日には全部終わりそうだな。それなら確認をやっとくか……」
「貴方のキリがよいところまで進めてください」
教師は男女の思考の違いについての本に目を落とす。彼は一度めに取ってきた三冊を読み終え、返却して新たに図書を複数持ってきた。本のタイトルを見るに、人間の心理にまつわる解説本ばかり。職業柄、念頭に入れるべき知識なのだろうが、そこまで念入りに知る必要がこの男にあるのだろうか。
習一は銀髪の教師とは二日程度しか顔を合わせていないとはいえ、その二日で彼の表面的な人物像は固まった。温厚篤実な紳士。内面は確実なことがわからぬとはいえ、いまのところさしたる汚点は出していないように見えた。そんな彼が世間一般的な失言や失態を引き起こすさまは想像しにくい。彼の発言が習一の癪《しゃく》に障ったことはあれど、世間的には地雷にあたる文言ではなかったし、習一を傷つける意図もまったくふくまれていなかった。
得てして、他者から見てすでに一人前の域に到達しても「まだ不足がある」と学びを深める者がいる一方、本当に知識を備えるべき者は「意味のないこと」と捨て置き、自己の瑕疵を拡張させていくものなのかもしれない。習一が想定する後者は紛れもなく自分の父だった。
習一はプリントに四色ボールペンの青色で正答を書き続け、教師が手を下したプリントすべてを見終わった。これで今日のノルマは達成した。図書館を出ようか、と思い教師の顔を見る。教師は無言で立ち、本を携えて長机を離れる。習一の意思を察知して、本を書棚にもどすつもりなのだ。習一も帰り支度のためクリアファイルに紙の束を入れ、筆箱とともに鞄の中へ収めた。鞄にしまった教科書の背を触り、持参した冊数に差がないことを確かめる。私物がなくなった机を見つめ、教師の帰還を待った。ほどなくして現在の保護者が席にやってくる。
「今日はこれでおしまいにしますか?」
「ああ」
二人は半日を過ごした公共施設を発った。気兼ねなく私語を話せる場所まで移動すると教師は足を止める。
「夕飯の希望はありますか?」
「ない。あんたの好きにしてくれ」
「わかりました。私についてきてください」
習一は髪を暗い朱に染める教師を追いかけた。教師は習一の家とは反対の方向へ向かう。その方角にはパン屋やラーメン屋など食べ物関係の店が居並ぶ。そのどれかが夕食の場になるのだと習一はあらかじめ想定した。
タグ:習一
2021年02月02日
習一篇−4章8
習一は喫茶店で腹いっぱいに朝食を食べた。同伴者が栄養不足な習一のため、と言って彼の分の肉とパンが半分ばかし習一に渡り、習一は予想外の食事量を摂らされた。教師が分けてくれた食べものはどれも美味で、その点はうれしい分与だったものの、病み上がりには重たい。それが取り分けた張本人にも伝わったのか彼は残してもいいと言ってきた。しかし習一は幼少期から食べのこしをマナー違反だと叩きこまれているために嫌がった。結果、満腹をおぼえる以上のものを胃に詰めこむ事態となった。
食事が終わった習一は次に図書館へ行くことになった。教師はそこで習一に宿題を解かせるという。身軽な教師はさっさと歩くが、胃袋が満杯な習一は歩みがおくれた。習一が置いてけぼりを食らいそうだと懸念したとき、教師の移動速度が落ちる。このとき彼は後方を目視していなかった。どうやら足音の大小かなにかで習一との距離を察したらしい。
「無理にたくさん食べたのですか?」
教師が横顔を習一に見せながらたずねた。
「わるいか。残すのはキライなんだ」
「残飯の廃棄は私も嫌です。ただ貴方に無理をさせたくはありませんでした」
「いまはワケありだから、廃棄はしかたないってか?」
「いえ、貴方が残せば私が処理するつもりでした」
「自分のメシを他人にやった小食人間の言うことじゃないな」
習一は教師の言い分をあげつらった。しかし教師が食事を分けた理由は習一の体調回復のため、と事前に聞いており、その厚意は理解していた。
「私は食事量を抑えていますが、一度に食べられる量がすくないわけではありません。次からは残してもらっていいですよ」
教師は節制する理由を言わなかった。習一はその理由をダイエットのたぐいだと推測しておき、放っておいた。
習一たちは遅い歩みで図書館へついた。まだ開館時間でなかったようで、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれている。扉の付近には開錠を待つ人がいた。習一たちも開館待ちの集まりに加わる。習一は図書館に入れば私語がはばかられるのをかんがみ、いまのうちに教師に確認をとる。
「アンタが課題の丸つけをするんだって?」
教師は「はい」と答えながら提げていた鞄を抱える。
「どのペンで丸つけをしましょうか」
彼は鞄の中から文具入れらしきポーチを出し、片手でそのポーチを開けた。赤色系統のペンを数本つかんで見せる。
「貴方の好みの色があればそれを使います」
「妙なところで気を遣うんだな。そんなもん、アンタが仕事に使ってるやつでいいだろうに」
「教え子の勧めです。『自分の好きな色を見たら気分が上がる』ものだそうで」
「好きな色、ねえ……」
習一は提示された色ペンの中でうすいピンク色が目にとまった。採点の赤ペンに用いるよりは教科書やノートに書かれた重要な文字列にマーカーを引くときに使うような色だ。
「これにしますか」
教師は習一の注目したペン以外をポーチ内へ落とす。習一はその色が赤ペンとして使うにふさわしくない色ではないかと思い、顔をしかめる。
「アンタはそれがオレの好きな色だと思うのか?」
「ええ、気になっているようでしたから」
「女向けの色じゃねえか」
「そうでしょうか。こういったピンク色のペンを使う生徒は男女問わずいると思います」
二人が些末な会話をしていると建物の奥から群青の前掛けを着た司書が出てきた。ガラス張りの扉のロックを解除すると扉が左右に開いた。これで開館である。司書が立札を引っ込めるかたわらで、待ち人が続々と入館していく。
「ペンの色はどうしましょうか」
教師はいまだに些事にまごつき、立ち止まっていた。余分な待機時間が増えたせいで習一はいらつく。
「そのピンクでいい」
「わかりました。それでは行きましょう」
二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。屋外とはあきらかに別種の匂いが満ちている。これは年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。
教師が木製の長机に鞄を置いた。習一もその反対側の席に陣取る。習一はプリントと教科書を机上に並べ、教師は鞄からクリアファイルを出す。それが課題の解答一覧のようだ。習一は今日までに解いた答案を教師に手渡し、以後、両者は黙々と作業に没頭した。
教師は赤とは言いがたい色ペンをキュッと鳴らしていた。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。丸を付けおわったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。その作業時間は合計して三十分あるかどうか。
「確認のタイミングは貴方に任せます」
そう言って教師は静かに立った。
「なにするんだ?」
「本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。まだ時間に余裕はあるので、適度に息抜きしてください」
悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。
(息抜きって言ったって……)
まだまだ終わりが見えないうちから読書に励んでも気は休まらない。手荷物の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回していい、と優先順位を設けて取りくんだ。
十五分ほどして習一の監督者がもどる。彼は三冊の本を机に置き、うち一冊を開いた。それらの表題は心理学にまつわる内容だ。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの前でオレ対策をするのか?)
三冊すべてが習一への対応手段を学ぶための本のように思えた。しかし教師は子どもとその親とに密に接する職務。習一を御するだけに終わる教養本ではない。習一は自意識が過剰であったと内省し、課題の仕上げに意識をもどした。
習一が問題数がすくなめだった束をひとつ仕上げ、美術の教科書を閉じる。教師が丸つけを完了して置いた三束の横へ、束を置いた。すると教師が読書を中断し、ペンを手にする。教師の丸つけと習一の解答とでは速度がちがい、教師のほうが時間的余裕はふんだんにある。なのにすぐ丸つけに取りかかる様子を見るに、こいつは真面目なのだと習一は思う。その一方で、教師が習一のことを最優先にしているような気もした。
習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数がすくなく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置くと、教師は「もう昼食の時間ですね」と言ってくる。
「腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ?」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて、夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯はどこで食うんだ、また外食か?」
「はい。私は料理ができませんから」
教師の告白はつまり、前日のサンドイッチは彼の手製ではないことになる。ではだれが作ったのか、の質問が習一の喉に出掛かった。そんな雑談は後回しにすべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
食事が終わった習一は次に図書館へ行くことになった。教師はそこで習一に宿題を解かせるという。身軽な教師はさっさと歩くが、胃袋が満杯な習一は歩みがおくれた。習一が置いてけぼりを食らいそうだと懸念したとき、教師の移動速度が落ちる。このとき彼は後方を目視していなかった。どうやら足音の大小かなにかで習一との距離を察したらしい。
「無理にたくさん食べたのですか?」
教師が横顔を習一に見せながらたずねた。
「わるいか。残すのはキライなんだ」
「残飯の廃棄は私も嫌です。ただ貴方に無理をさせたくはありませんでした」
「いまはワケありだから、廃棄はしかたないってか?」
「いえ、貴方が残せば私が処理するつもりでした」
「自分のメシを他人にやった小食人間の言うことじゃないな」
習一は教師の言い分をあげつらった。しかし教師が食事を分けた理由は習一の体調回復のため、と事前に聞いており、その厚意は理解していた。
「私は食事量を抑えていますが、一度に食べられる量がすくないわけではありません。次からは残してもらっていいですよ」
教師は節制する理由を言わなかった。習一はその理由をダイエットのたぐいだと推測しておき、放っておいた。
習一たちは遅い歩みで図書館へついた。まだ開館時間でなかったようで、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれている。扉の付近には開錠を待つ人がいた。習一たちも開館待ちの集まりに加わる。習一は図書館に入れば私語がはばかられるのをかんがみ、いまのうちに教師に確認をとる。
「アンタが課題の丸つけをするんだって?」
教師は「はい」と答えながら提げていた鞄を抱える。
「どのペンで丸つけをしましょうか」
彼は鞄の中から文具入れらしきポーチを出し、片手でそのポーチを開けた。赤色系統のペンを数本つかんで見せる。
「貴方の好みの色があればそれを使います」
「妙なところで気を遣うんだな。そんなもん、アンタが仕事に使ってるやつでいいだろうに」
「教え子の勧めです。『自分の好きな色を見たら気分が上がる』ものだそうで」
「好きな色、ねえ……」
習一は提示された色ペンの中でうすいピンク色が目にとまった。採点の赤ペンに用いるよりは教科書やノートに書かれた重要な文字列にマーカーを引くときに使うような色だ。
「これにしますか」
教師は習一の注目したペン以外をポーチ内へ落とす。習一はその色が赤ペンとして使うにふさわしくない色ではないかと思い、顔をしかめる。
「アンタはそれがオレの好きな色だと思うのか?」
「ええ、気になっているようでしたから」
「女向けの色じゃねえか」
「そうでしょうか。こういったピンク色のペンを使う生徒は男女問わずいると思います」
二人が些末な会話をしていると建物の奥から群青の前掛けを着た司書が出てきた。ガラス張りの扉のロックを解除すると扉が左右に開いた。これで開館である。司書が立札を引っ込めるかたわらで、待ち人が続々と入館していく。
「ペンの色はどうしましょうか」
教師はいまだに些事にまごつき、立ち止まっていた。余分な待機時間が増えたせいで習一はいらつく。
「そのピンクでいい」
「わかりました。それでは行きましょう」
二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。屋外とはあきらかに別種の匂いが満ちている。これは年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。
教師が木製の長机に鞄を置いた。習一もその反対側の席に陣取る。習一はプリントと教科書を机上に並べ、教師は鞄からクリアファイルを出す。それが課題の解答一覧のようだ。習一は今日までに解いた答案を教師に手渡し、以後、両者は黙々と作業に没頭した。
教師は赤とは言いがたい色ペンをキュッと鳴らしていた。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。丸を付けおわったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。その作業時間は合計して三十分あるかどうか。
「確認のタイミングは貴方に任せます」
そう言って教師は静かに立った。
「なにするんだ?」
「本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。まだ時間に余裕はあるので、適度に息抜きしてください」
悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。
(息抜きって言ったって……)
まだまだ終わりが見えないうちから読書に励んでも気は休まらない。手荷物の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回していい、と優先順位を設けて取りくんだ。
十五分ほどして習一の監督者がもどる。彼は三冊の本を机に置き、うち一冊を開いた。それらの表題は心理学にまつわる内容だ。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの前でオレ対策をするのか?)
三冊すべてが習一への対応手段を学ぶための本のように思えた。しかし教師は子どもとその親とに密に接する職務。習一を御するだけに終わる教養本ではない。習一は自意識が過剰であったと内省し、課題の仕上げに意識をもどした。
習一が問題数がすくなめだった束をひとつ仕上げ、美術の教科書を閉じる。教師が丸つけを完了して置いた三束の横へ、束を置いた。すると教師が読書を中断し、ペンを手にする。教師の丸つけと習一の解答とでは速度がちがい、教師のほうが時間的余裕はふんだんにある。なのにすぐ丸つけに取りかかる様子を見るに、こいつは真面目なのだと習一は思う。その一方で、教師が習一のことを最優先にしているような気もした。
習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数がすくなく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置くと、教師は「もう昼食の時間ですね」と言ってくる。
「腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ?」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて、夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯はどこで食うんだ、また外食か?」
「はい。私は料理ができませんから」
教師の告白はつまり、前日のサンドイッチは彼の手製ではないことになる。ではだれが作ったのか、の質問が習一の喉に出掛かった。そんな雑談は後回しにすべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
タグ:習一