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2020年03月18日

謙信の後継者は誰か? 御館の乱

なぜ戦国時代には家督争いが絶えなかったのか?

御館の乱とは上杉謙信の死後、上杉家中で起きた家督争いを巡る内乱です。

戦国の世において、家督争いは避けて通れないことが多く、むしろスムーズな家督相続が行なわれる方が稀といってもいいくらいです。

なぜなら、家督を継ぐ嫡子そうでない庶子とでは雲泥の差があり、庶子になるとたとえ血を分けた兄弟であっても、当主の一家臣に過ぎない立場に甘んじなければならないからです。

その上、庶子に少しでも不穏な動きがあれば、当主は「謀反の疑いがある」として殺してしまうことも少なくなかったのです。

実際、謙信も兄の晴景と家督争いをしている(3月13日ブログ参照)し、織田信長は謀反を起こした実弟を謀殺しています。

また、武田信玄は弟に家督を継がせようと考えていた父を追放して強引に武田家の家督を相続しました。

ましてや上杉家の場合、謙信の死後に残されたのは、もともと兄弟でもない赤の他人どうしの養子だったので家督争いが起きるのは必然ともいえる状況でした。

というわけで、今回は謙信の死後に起きた家督争い・御館の乱について語りたいと思います。

謙信の突然の死により後継者争いが勃発!

天正六年(1578年)3月13日、越後(新潟県)の上杉謙信は脳溢血により突然の死を迎えました。

生涯独身を貫いた謙信に実子はなく、養子は複数いましたが、誰に家督を継がせるかまで謙信は決めてなかったのです。

亡くなった時点で謙信の養子は3人いました。

北条氏康の七男で氏政の弟にあたる景虎、謙信の姉・仙桃院の子である景勝、もう一人は能登(石川県)の畠山氏の一族であった上条政繁の3人です。

政繁は養子というより人質に近い立場だったので、始めから家督相続の対象とはなりませんでした。

また、景勝の姉が景虎に嫁いでいたので、景勝にとって景虎は義兄ということになりますが、この二人のどちらかが謙信の跡を継ぐ対象でした。

一説によると、景虎が小田原の北条氏政の実弟であることから、謙信は景虎に関東管領職を、景勝に越後国主の座を譲ろうと考えていたともいわれています。

しかし、一つの家に二つの権力を共存させるというのはさすがに無理があり、現実的にこれは不可能だったでしょう。

景虎と景勝は互いに「後継者は自分だ」と主張して譲らなかったので、二人は上杉家当主の座を巡って争うことになりました。

スカパー!
当初は兄弟の後ろ盾がある景虎が優勢

景虎側につくか景勝側につくかで上杉家中は真っ二つに分かれましたが、当初は近隣の戦国大名である北条氏や武田氏に親族を持つ景虎が優位と見られていました

しかし、先に動いたのは景勝の方でした。

景勝はいち早く春日山城の本丸を占拠し、謙信が蓄えていた上杉家の莫大な軍資金を確保したのです。

一方、遅れを取った景虎ですが、前関東管領の上杉憲政を味方につけ、春日山城の北東にある御館(憲政の屋敷)を本拠地としました。

景虎の実兄・北条氏政は弟を援護するため、同盟者であった甲斐(山梨県)の武田勝頼に景虎の支援を依頼します。

勝頼も景虎の妹を妻としていたので、景虎の義弟にあたることから景虎を支持しました。

勝頼は景虎支援のため、およそ2万の軍勢を越後に派遣します。

これで景虎は実家の北条家に加えて武田家のバックアップも得たことにより、かなり優位な立場となりました。

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勝頼の調略に成功し形勢は逆転

劣勢となった景勝ですが、謙信の遺した軍資金にモノをいわせ、勝頼を黄金一万両で買収して味方につけることに成功したのです。

しかし、勝頼はなぜ妻の兄を裏切ってまで買収工作に応じてしまったのでしょうか?

おそらく当時の武田家は、長篠での大敗による損失や甲州金山の枯渇などにより深刻な財政難だったため、勝頼にはどうしても金が必要だったのではないかと思われます。

こうして景勝から金を受け取ったものの、やはり義兄の景虎を攻撃することはできない勝頼は中立の立場をとり、越後に入って両者を仲裁し、一旦和睦を成立させました。

そんな折、徳川家康が武田領の駿河(静岡県)に侵攻してきたので、勝頼は慌てて駿河へ向かいました。

勝頼が去ったことで和睦は破綻し、両者は再び戦闘状態に入りました。

勝頼の後ろ盾がなくなったことを知った北条氏政は景虎の支援軍を派遣しますが、積雪によって進軍を阻まれてしまいます

天正七年(1579年)3月、景勝は春日山城から御館を攻め、景虎は防戦し切れず御館から逃亡しました。

景虎は南下して鮫ヶ尾城(新潟県妙高市)まで逃れますが、城主の堀江宗親に裏切られてしまい、3月24日ついに自害して果てました。

上杉景勝.png
 勝利した上杉景勝

景勝は家督争いには勝利したものの、この戦いは家中を二分する争いとなったため、景虎側についた多くの重臣を失い上杉家の勢力は大きく損なわれる結果となりました。



まとめ

  • 御館の乱とは上杉謙信の死後、上杉景虎と上杉景勝の二人の養子による上杉家の家督争い

  • 当初は北条氏政と武田勝頼の二人の戦国大名を兄弟に持つ景虎が優勢だった

  • 景勝は勝頼の買収に成功したことで形成を逆転し勝利した


この結果、勝頼は氏政も裏切る形となってしまい、武田家と北条家の同盟は破綻し勝頼は更なる苦境に陥ってしまいます。(3月11日付ブログ参照

2020年03月16日

宿命のライバルに「塩を送る」 上杉謙信の魅力

敵将までも魅了する人柄

前回のブログでは上杉謙信の生涯について語りました。

謙信は戦国武将の中でも特に人気のある武将として知られていますが、その理由は単に(戦が強かったから)だけではありません。

自らの私利私欲ではなく、正義のために戦ったというのも人気の所以でしょう。

謙信はライバルたちとの戦いを通して、いつの間にか相手に尊敬の念を抱かせてしまうような不思議な魅力がありました。

例えば、宿命のライバル・武田信玄は謙信について

「あれほど勇敢な男と戦ってはならぬ。我が死後は謙信と手を結んで甲斐の国を守れ」

と、子の勝頼に遺言しています。

また、謙信の関東遠征で何度も対戦している北条氏康10月3日付ブログ参照)も

「信玄や信長は裏表があり信用できぬが、謙信だけは一度請け負ったら、たとえ骨になっても義理を通す男。故に肌身を分けて若い者にその精神を見習わせたい」

と、子の三郎(後の上杉景虎)を謙信の養子に出しているのです。

何度も対戦して本来“憎き敵”であるはずの相手に、ここまで言わせる武将は他にいないのではないでしょうか?

他の戦国武将とは一線を画す謙信の個性的な性格や謎とされる部分もその魅力の一部といえます。

というわけで、今回は上杉謙信にまつわる様々なエピソードについて語りたいと思います。

一度引退したことがある

一回目の川中島の戦い後、越後(新潟県)国内の武将どうしで争いが起きて謙信の領国経営を揺るがせる事態が起こりました。

これは、越後の弱体化を図ったライバル武田信玄の調略ともいわれています。

謙信は仲裁に奔走しましたが、家臣間の争いはなかなか収まらず、これに嫌気がさした謙信は国主の座を捨て紀伊(和歌山県)の高野山へ登って引退しようとしたのです。

しかしこの引退騒動は、当時まだ不安定だった謙信の領国経営の安定化を図るための芝居だったとする説もあります。

というのも、突然の引退宣言に慌てた家臣たちに対し、謙信が国主に戻る条件として

1.家臣たちが謙信に忠誠を誓う誓紙を連名で提出すること

2.忠誠の証として人質を謙信の元へ差し出すこと

という2つを提示したからです。

その結果、家臣たちは争いをやめ、改めて謙信の元に結束することを誓いました。

しかし、領国経営安定の為とはいえ、謙信がそんな小細工を弄するでしょうか?

デリケートで実直な謙信の性格から考えると、私利私欲にまみれた家臣たちの醜い争いに、本当に嫌気がさして辞めたくなっただけかもしれませんね。

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謙信は実は女性だった !?

謙信は一度も妻を持たず、生涯独身を貫いたことで有名です。

これは、神仏に対する信仰が篤かった謙信が戦の戦勝祈願のために女色を絶っていたからといわれています。

しかし、信仰のためとはいえ、子供を作って家名を保つことは戦国大名にとって必須の使命だったはずです。

なぜ謙信は妻帯しなかったのでしょうか?

そこで浮上したのが、「謙信女性説」です。

ある史料によると、謙信の死因が「大虫」だったとの記録があります。

大虫とは婦人病のことで、謙信が亡くなった時の49歳という年齢もこの婦人病の死亡率の高い年齢と一致します。

また、謙信は毎月10日頃になると合戦中でも戦いを休止させることが多かったといいます。

これは、いわゆる生理日と重なったからという見方もできます。

その他にも、上杉家の古文書などにみえる謙信の筆跡は女性的な字だったといわれています。

とは言うものの、謙信の肖像画を見ると顔に髭が蓄えられていますよね?

これに関して女性説の立場から言うと、死後に付け加えて描かれたものとみられています。

戦国時代は女子の家督相続が認められていましたが、徳川幕府の時代になるとそれが認められなくなりました。

つまり、もし謙信が女性だったとしたら、幕府がそれを理由に難癖をつけて上杉家を取り潰す可能性があったのです。

そこで、上杉家は謙信が女性であった証拠を隠すため、謙信の肖像画なども男性のように描き替えたということです。

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ライバルとの友情から生まれた言葉

「敵に塩を送る」という言葉があります。

これは、(敵の弱みに付け込まず、逆に救いの手を差し伸べること)という意味で、ライバル信玄とのエピソードから生まれた言葉といわれています。

永禄十年(1567年)信玄は北条・今川との三国同盟を破棄して今川の駿河(静岡県)に侵攻することを決めました。

これに対する報復措置として、北条・今川の両家は武田の甲斐(山梨県)への塩の輸送を全面禁止にしたのです。

当然のことながら、塩は人間が生きていくために欠くことのできない資源なのですが、山国の甲斐では塩を生産することはできず、信玄は苦境に立たされてしまいます。

一方、謙信も今川家から甲斐へ塩を送るのを止めるよう要請されていました。

しかし、謙信は塩止めは武将にあるまじき卑怯な行為だと批判し、

「我は兵をもって戦いを決せん。塩をもって敵を屈せしむることをせじ」

(私は武力で戦いを決したい。塩止めで敵を屈服させるようなことはしたくない)

と、今川の要請を拒否し甲斐に塩を送ったといわれています。
上杉謙信銅像.jpg
 春日山城跡の上杉謙信像

現在の新潟県糸魚川市と長野県大町市を結ぶ国道148号線は通称「塩の道」と呼ばれ、越後から信濃(長野県)を経由して甲斐に至る日本海から塩を輸送するルートとして語り継がれています。

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まとめ

  • 謙信は家臣どうしの争いが絶えないことに嫌気がさし、国主の座を引退したことがある

  • 謙信が生涯独身を貫いたことの謎から実は女性だったとする説もある

  • 隣国から塩止めをされて困っていたライバルの信玄に敢えて塩を送った逸話から「敵に塩を送る」という言葉が生まれた


「敵に塩を送る」という逸話は創作された美談だと言う向きもありますが、謙信の(弱きを助ける)というポリシーから考えれば、あながち創作とも思えないですね。

2020年03月13日

越後の龍 上杉謙信

義に厚き闘将

一昨日の夜、今月20日から開幕予定だった春の選抜高校野球中止の決定を高野連が発表しました。

センバツ大会が中止になったのは、太平洋戦争の影響があった昭和十七年(1942年)〜 昭和二十一年(1946年)以来のことで、戦争以外で中止になったのは史上初です。

大相撲や競馬が無観客で行われ、Jリーグは中断、プロ野球も大幅な開幕延期を決定するなど、新型コロナウイルスの影響がここまで深刻化している現状を考慮すれば、やむを得ない決断だと思われます。

僕は昔から高校野球ファンなので、この決定は本当にショックで今でも信じられない気持ちでいますが、他の学生スポーツ大会も全て中止ならば、高校野球だけ特別扱いするわけにはいかないのでしょう。

それでも、この大会を目標に毎日一生懸命頑張ってきた出場校の選手たちの無念を思うと、心が痛みます。

今回出場予定だった学校の選手たちには、何らかの形で救いの手が差し伸べられることを切に願っています。


さて、今日3月13日は“戦国最強”と謳われた武将・上杉謙信が亡くなった日です。(天正六年 1578年)

“戦国最強”の称号は謙信永遠のライバル・武田信玄4月10日付ブログ参照)にもよく使われますね。

どちらが真の最強武将か?という判断は人それぞれですが、この二人は(タイプの異なる最強)といえます。

信玄は政治・経済・戦略そして人望など、戦国大名としての総合的な角度からみて最強と考えられます。

一方の謙信は国内政治や家臣の人心掌握の面では信玄にやや劣るものの、こと戦における強さは信玄を凌駕するものがありました。

謙信は卑怯な謀略を嫌い、義理人情に厚く、弱き者を救うために戦う正義の武将として知られています。

そして、戦いの神・毘沙門天の熱心な信者だった謙信は、自らを毘沙門天の化身であると信じ、「毘」の旗を掲げて戦場を駆け回ったのです。

というわけで、今回は上杉謙信について語りたいと思います。

謙信の戦好きは天性のものだった !?

上杉謙信 享禄三年(1530年)〜 天正六年(1578年)
上杉謙信.jpg

謙信は越後(新潟県)守護代・長尾為景の次男として生まれます。幼名は虎千代。

虎千代は幼い頃から箱庭に城を作り、人形でこの城をどう攻めるかという今でいえばRPGのような戦のシュミレーションゲームに熱中していたといいます。

この遊びで培われた経験が、後に虎千代の戦の才能を開花させたのかもしれません。

このように虎千代は戦好きな上に短気でカッとなりやすい性格であったので、父は精神修行をさせるため虎千代を城下の林泉寺へ修行に出しました。

父の死後、虎千代は元服し名を景虎と改めますが、兄の晴景との間で家督争いが起こります。

天文十七年(1548年)主家である上杉家の調停により兄に代わって家督を相続、春日山城主となりました。

永禄二年(1559年)景虎は上杉憲政から上杉家の家督と関東管領職を譲られます。

この時に景虎は上杉政虎と改名し、後に出家して謙信と名乗りました。

関東管領とは上杉家が代々世襲した役職であり、本来は鎌倉公方(関東の足利将軍)の補佐役ですが、戦国時代には二家に分裂(山内上杉と扇谷上杉)し、有名無実化した役職でした。

永禄四年(1561年)3月、謙信は関東管領の使命として関東を侵略していた北条氏を征伐するため、およそ10万の大軍を率いて関東に遠征、北条氏康の小田原城を包囲しました。

小田原城を落とすことはできませんでしたが、謙信はその後何度も関東遠征を繰り返します。




宿命のライバルと死闘を演じた川中島

上杉謙信を語る上でどうしても外せないのが、永遠のライバル・武田信玄と覇を競った川中島の戦いですが、この戦いの詳しい内容については9月10日12日付のブログをご覧下さい。

川中島の戦いは天文22年(1553年)〜 永禄七年(1564年)までの間に合計5回行われました。

5度対戦したといっても、実際には小競り合いや単なる睨み合いだけに終わったことが多く、両雄が本当の激闘を繰り広げたのは永禄四年(1561年)9月に行なわれた4回目の戦いのみです。

この戦いの目的は、信玄が信濃(長野県)を完全に支配するためだったのに対し、謙信は信玄によって領土を奪われ逃げてきた村上義清ら信濃の武将に乞われて戦ったのです。

結局、5度の戦いでも決着はつきませんでしたが、戦いの後に川中島を含む北信濃一帯を支配したのは武田方でした。

そのため、川中島の戦いは最終的に領土を死守した武田方の勝利とみる考えもあります。

しかし、関東遠征についても同じことが言えますが、謙信自身は最初からこの戦いに領土的野心はなく、あくまで謙信は他人の領土を略奪した信玄の不正義を正すために戦ったのです。

なので、結果的に武田方が領土を守ったという一点のみで武田方の勝利を断定するのは、やや短絡的と言わざるを得ません。

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最後まで信長を恐れさせた

あの織田信長が最も恐れていた相手は謙信だと言われています。

その証拠ともいえるのが、信長が謙信に送った『洛中洛外図屏風』です。

信長はこの国宝を謙信に献上することで、謙信のご機嫌を窺ったといわれています。


信玄の死後、武田家と和睦した謙信は、足利将軍を追放し畿内制圧を進める信長との同盟を破棄して北陸への進出を開始します。

天正五年(1577年)7月、謙信は能登(石川県)の七尾城を包囲しました。

七尾城は畠山氏の居城でしたが、実質的には信長に味方する畠山氏の重臣・長氏が支配していたからです。

この時城内では家臣どうしが分裂していて、謙信に内応した他の家臣が長氏を謀殺したので謙信は戦わずして七尾城を陥落させることができました。

一方、長氏に援軍を要請されていた信長は重臣の柴田勝家を七尾城へ派遣していました。

同年9月、七尾城に向かっていた勝家軍は加賀(石川県)の手取川を渡ったところで七尾城が既に陥落したことを知り、仕方なく引き返そうとしました。

しかし、謙信はこの機を逃さず勝家軍に襲いかかり、圧倒的勝利を収めたのです。(手取川の戦い)

織田家中きっての猛将・柴田勝家でさえも惨敗せしめた謙信に、信長は改めて脅威を感じたことでしょう。


その後、越後に戻った謙信は関東遠征の準備中に突然倒れ、天正六年(1578年)3月13日、脳溢血のため死去しました。

謙信は大酒飲みとして有名で、血圧も相当高かったであろうことがこの病気の原因と考えられています。

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まとめ

  • “越後の龍”と恐れられた上杉謙信は義理人情に厚く自分を頼ってきた者のために戦う正義の武将だった

  • 宿命のライバル・武田信玄との川中島の戦いにおいて謙信は領土を略奪した信玄の不正義を正すために戦った

  • 謙信は北陸に侵攻してきた織田軍と手取川で戦い圧倒的勝利を収めた


次回は謙信にまつわる様々なエピソードについて語りますのでご期待下さい!

2020年03月11日

武田家を滅亡させた勝頼は本当に愚将だったのか?

あの日からもう9年・・・

9年前の今日、東日本大震災によって多くの方々が亡くなられました。

死者15,899名、そして2,529名もの方々が未だに行方不明となっています。

僕は震災から半年後、どうしてもその時の状況を自分の目に焼き付けておきたくて、現地を訪れました。

その時は岩手・宮城を中心に回りましたが、震災から半年過ぎているにも関わらず、海岸に近い被災地は僕の想像を絶する光景が広がっていたのを覚えています。

あれから東北の復興は着実に進んでいるものの、原発事故のあった福島では今でも4万人以上の方々が故郷に戻れずにいます。

今年は新型コロナウイルスの影響で各地の追悼式などが取り止めになってしまいましたが、地震大国の日本に住んでいる以上、この震災を過去の出来事と考えず、未来への教訓として忘れてはならないと思います。


さて、今日3月11日は武田勝頼が亡くなり、甲斐(山梨県)の名門・武田家が滅びた日です。(天正十年 1582年)

武田家は勝頼の代で滅びたことから、一般的に勝頼は“愚将”扱いされることが多いです。

特に武田家の地元・山梨県では、父の武田信玄が県民の人々から現在もなお英雄扱いされているのに対し、子の勝頼は人気がなく、むしろ武田家を滅ぼした張本人として憎んでいる人すらいます。

勝頼は勇猛果敢な武将だが、人望は父より遥かに及ばないといわれています。

確かに“戦国最強”と謳われた父の信玄と比べてしまったら、器量が劣っていると思われるのは仕方のないところです。

しかし、武田家が滅びた責任の全てが勝頼にあると断言できるほど、本当に勝頼は愚かな武将だったのでしょうか?

というわけで、今回は武田勝頼と武田家滅亡について語りたいと思います。

武田家嫡男の死により運命が激変!

武田勝頼 天文十五年(1546年)〜 天正十年(1582年)
武田勝頼.jpg

勝頼は武田信玄4月10日付ブログ参照)の四男として生まれます。幼名は四郎。

母は信玄が滅ぼした信濃(長野県)の名族・諏訪頼重の娘であり、勝頼の名は信玄の幼名「勝千代」と、祖父にあたる頼重の名を合わせて命名されました。

名前の由来からして、もともと信玄は勝頼に諏訪家を継がせるつもりだったといわれています。

しかし、勝頼の運命を大きく変える事件が起こりました。

永禄八年(1565年)信玄の嫡男・義信が謀反の疑いで幽閉の後、自害させられてしまったのです。

信玄としては勝頼を後継者にしたかったのですが、重臣たちが反発することを考慮し、勝頼の子・信勝を武田家の正統な後継者と定め、勝頼は信勝が元服するまで後見する「陣代」としました。

信玄が決めた事とはいえ、無理のある相続劇は後々まで影響し、この出来事が強い結束力を誇った武田家にほころびが生じるきっかけになったといえます。

天正元年(1573年)4月、父の信玄が死去し、信玄は臨終の際、「我が死を3年間秘匿せよ」と遺言しました。

信玄は自らの死を敵に知られぬよう対外的にしばらく目立った行動はせず、その間に兵力を増強して国力を高めることを勝頼に託して逝ったのです。

しかし、勝頼としてはカリスマ的存在であった父が亡くなったことで動揺を隠せない家臣たちに対し、今こそ自らの存在感をアピールしなければならない時だったので、黙って大人しく過ごすことなどできなかったのです。

天正二年(1574年)6月、勝頼は信玄さえも落とせなかった遠江(静岡県西部)の要衝・高天神城の攻略に成功し武名を上げました。

ところが武田家内部では、信玄の遺言に反して進撃する勝頼の行動に、家臣たちの不信感は募るばかりでした。

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味方の裏切りで崩壊した武田家

家臣たちの不信感をよそに進撃を続ける勝頼に大きな転機が訪れます。

天正三年(1575年)5月、長篠の戦いで織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に武田軍は壊滅的な惨敗を喫してしまうのです。

この戦いで馬場信房・山県昌景・内藤昌豊など信玄以来、武田家を支えてきた重臣たちがことごとく討死し、武田が誇る“最強騎馬軍団”の神話も崩壊してしまいました。

長篠における惨敗により、勝頼の求心力は低下の一途を辿っていきます。

さらに天正九年(1581年)、高天神城が徳川軍に奪い返されてしまい、この時勝頼は援軍を出さなかったため、勝頼の威信は完全に地に墜ちてしまいました。

そして、武田家が崩壊する決定打となったのは、身内であるはずの木曽義昌穴山信君の重臣が勝頼を裏切り、それぞれ織田・徳川へ寝返ったことです。

勝頼は織田・徳川軍の襲来に備え、韮崎に新府城を築城し、ここを本拠地として再起を図りました。

しかし、織田・徳川に戦わずして投降する家臣が多い中、唯一抵抗していた弟の仁科盛信の守る高遠城が陥落するに至り、勝頼は未完成の新府城を焼き払って逃亡することを決意しました。

勝頼は家臣の小山田信茂の誘いで岩殿城に向かいますが、その信茂にも土壇場で裏切られてしまったのです。

これで行き場を失った勝頼を見限った部下たちは続々と離反し、味方はわずか数十人にまで減ってしまいました。

そして逃亡の途中、天目山麓の田野で勝頼はとうとう織田軍に追いつかれてしまいます。

最早これまでと覚悟した勝頼は一族郎党の自害を見届けた後、腹を十文字に掻き切って果てました。


こうして見ていくと、嫡男を自害させて無理な家督相続をさせた父の信玄にも責任の一端はあり、勝頼は信玄の負の遺産を背負わされた悲劇の武将だったともいえるのではないでしょうか。

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武田滅亡にまつわる名言

「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉をご存知ですか?

これは、(無念無想の境地に達すれば、どんな苦痛にも耐えることができる)という意味です。

実はこの言葉、武田家の滅亡時に武田家の菩提寺であった恵林寺(甲州市塩山)の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)の遺した名言なのです。

武田家が滅亡した翌月の天正十年(1582年)4月、織田信長の嫡男・信忠の軍勢が甲斐に襲来し、恵林寺に匿われている六角義定の引き渡しを要求しました。

しかし、住職の快川紹喜は「助けを求めて来た者を見捨てることはできない」と引き渡しを拒否し、義定を逃がしたのです。

これに怒った信忠は僧侶たちを境内に追い込んで恵林寺に火を放ちました。

この焼き打ちにより僧侶ら100人余りが焼死しましたが、紹喜は燃え盛る炎の中でも泰然自若として「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉を唱えつつ亡くなったといいます。



まとめ

  • 武田勝頼は武田家嫡男の兄・義信の死によって父の跡を継ぐことになった

  • 武田家が滅びた最大の原因は味方が次々と裏切ったため

  • 信玄が勝頼に無理な家督相続をさせたことも武田家滅亡の一因に繫がった


ちなみに、歌手の森高千里さんは『心頭滅却すれば火もまた涼し』という曲をリリースし、PVでは恵林寺の山門の前でこの曲を歌っています・・・なぜこのタイトル?

2020年03月09日

絵巻に残された謎! 応天門の変

単なる“他氏排斥”事件ではなかった!

明日3月10日は平安京を騒がせた大事件、応天門の変が起きた日です。(貞観八年 866年)

この出来事を簡単に説明すると、朝廷の重職にあった大納言の伴善男が平安京の応天門に放火した罪により失脚したという事件です。

これは、藤原氏による“他氏排斥”事件の一つとされ、教科書にも出ていますね。

他にも藤原氏による他氏排斥事件としては、承和九年(842年)の承和の変、安和二年(969年)の安和の変などが有名です。

応天門の変もこれら他氏排斥事件の一つに過ぎないと思われがちですが、この事件はそれほど単純なものではありません

この事件の黒幕とされている藤原良房には他氏排斥以外にも思惑があったのです。

そして、この事件の謎を呼ぶ「一枚の絵」とは?

というわけで、今回は応天門の変について語りたいと思います。

事件の経緯

貞観八年(866年)閏3月10日の夜半、平安京の朝堂院の正門である応天門で火災が発生し炎上しました。

当時、応天門の周囲に火の気がなかったことから、人々は「放火ではないか?」と噂しました。

事件から2ヶ月後、大納言の伴善男が右大臣の藤原良相(よしみ 良房の弟)に「応天門に放火したのは左大臣の源信(みなもとのまこと)だ」と密告しました。

善男と源信は朝廷内でライバル関係にあり普段から仲が悪かったので、日頃の恨みから伴氏が作った応天門を源信が放火したと告発したのです。

しかし、この事態を知った太政大臣の藤原良房が、源信は無実であることを清和天皇に訴えたため、結局源信は罪に問われませんでした。

これで一旦は終息するかに思われましたが、事件は思わぬ事態に発展します。

さらに数ヶ月後、今度は逆に「真犯人は伴善男の親子だ」という密告があったのです。

善男は懸命に容疑を否認しましたが、結局は犯人に断定されてしまい、親子共々流罪となってしまいました。

そして、この事件の後、良房は人臣(皇族以外)初の摂政となったのです。

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事件のカギを握る !? 『伴大納言絵巻』

この事件の裏にはやはり朝廷内部の権力闘争があったことは事実です。

おそらく、善男は右大臣の良相と組み、ライバル関係にあった源信を放火犯として告発して失脚させ、その後に良相は空位となる左大臣の地位への昇格を狙っていたと考えられます。(※右大臣より左大臣の方が官位は上)

これに対し、良房はこの陰謀を阻止し、さらに善男と良相の二人を排除しようと考えたのです。

しかし、善男はともかく、なぜ身内である弟の良相まで排除しようとしたのでしょうか?

もし左大臣の源信が失脚して善男と良相の二人が朝廷内で台頭すると、実子のいない良房の藤原本家が、弟の良相の家に取って代わられる恐れがあったからです。

その事態だけは何としても避けたい良房は、善男に応天門放火の罪を被せ、善男もろとも弟の良相を失脚させてしまおうとしたわけです。

この事件の結果、大納言の善男と右大臣の良相の二人が失脚し、左大臣の源信も事件の影響で影を潜めてしまったので、まだ10代で若い清和天皇が朝廷内で頼りとするのは良房以外いなくなってしまいます。

こうして良房の思惑通りに事が進み、良房は正式な摂政となったのです。


ところで、この事件を描いた絵巻物として有名なのが平安末期に描かれた『伴大納言絵巻』です。

この絵巻の中に、この事件のカギを握っていると思われる一つの描写があります。

伴大納言絵詞.jpg
※左が清和天皇で中央が藤原良房

応天門の変について書かれた『宇治拾遺物語』によると、この描写は夜中に良房が清涼殿にある清和天皇の寝所を訪れ、「源信が放火犯などという讒言に惑わされないように」と天皇に忠告している場面と推測されています。

では、一番右で部屋の外から二人の会話を盗み聞きしている人物は一体誰なのでしょうか?

大納言の善男?右大臣の良相?それとも左大臣の源信?

何とも意味ありげな描写だけに様々な憶測を呼んでいますが、断定できる人物は未だ不明とされています。

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応天門にまつわる諺

「弘法も筆の誤り」という諺はご存知ですね?

(その道に優れている人であっても、時には失敗することもある)という意味です。

弘法とは弘法大師、すなわち空海8月22日付ブログ参照)のことで、空海が書道の達人であったことから生まれた諺ですが、この諺のきっかけとなったのが応天門なのです。

書道の腕を見込まれた空海は、応天門に掲げる額の文字を書くことになりました。

書き終えて額を門の上に掲げてみると、「応」の字に点が一つ足りなかったのです。

そこで空海は、墨に付けた筆をなんと額に投げつけて最後の点を打ったというのです。

これも様々な伝説を持つ空海ならではのエピソードですね。

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まとめ

  • 応天門の変とは大納言の伴善男が応天門放火の罪で失脚した事件

  • この事件は他の他氏排斥事件とは異なり、藤原良房による思惑が隠されていた

  • 応天門の変を題材として描かれた『伴大納言絵巻』には事件のカギを握る謎の人物が描写されている


皆さんはこの謎の人物、一体誰だと思われますか?
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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