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2020年05月13日
鎌倉幕府 vs. 朝廷 承久の乱
鎌倉幕府成立後も公武の二元政治
明日5月14日は承久の乱が起きた日です。(承久三年 1221年)
承久の乱とは、討幕を目論んだ後鳥羽上皇が鎌倉幕府に戦いを挑んだ幕府対朝廷の全面戦争です。
源頼朝(1月13日付ブログ参照)は平氏を倒し征夷大将軍となって鎌倉幕府を開きましたが、これで武士の世が全盛を迎えたわけではありません。
なぜなら、西国では京都の朝廷による支配力が依然として強かったからです。
つまり、鎌倉幕府が成立してからしばらくの間、東国は鎌倉幕府、西国は朝廷が支配するという、いわゆる“二元政治”の状態が続いていたのです。
この状態、朝廷側の貴族たちにしてみれば面白かろうはずがありません。
何しろ、つい最近まで”貴族の番犬”などと蔑んでいた武士たちが、今では自分たちと肩を並べて支配者層に君臨しているわけですから。
このような不満を抱えていた朝廷が、再び貴族政治の復活を目指して挙兵したのが承久の乱です。
というわけで、今回は承久の乱について語りたいと思います。
朝廷の復権を目指す後鳥羽上皇
建久9年(1198年)わずか19歳で天皇の座を譲位し院政を開始した後鳥羽上皇は、朝廷の権威回復のため意欲的に行動します。
後鳥羽上皇 治承四年(1180年)〜 延応元年(1239年)
まず、それまで院の警護を担当していた北面の武士に加え、新たに西面の武士を設置して院の軍事力を強化しました。
さらに、朝廷内で幕府寄りの公家であった九条兼実らを排除することで、上皇は鎌倉幕府と距離を置く方針を示したのです。
承久元年(1219年)1月、朝廷に対し好意的だった三代将軍・源実朝が暗殺(1月27日付ブログ参照)されたことで、上皇は幕府に対してますます不信感を抱くようになります。
その結果、幕府が提案した「上皇の皇子を次期将軍として迎えたい」という申し入れを上皇は拒否したのです。
源氏将軍が途絶えたことにより、情勢が不安定になった幕府の様子をみた上皇は今が好機と捉え、ついに討幕を決断しました。
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“尼将軍”の説得で幕府方は結束
承久三年(1221年)5月、上皇は鎌倉幕府の執権・北条義時追討の院宣(上皇の命令書)を全国に発令、幕府に宣戦布告しました。
幕府の実質的支配者である義時が「朝敵」とされたことで、東国の御家人たちの間に大きな衝撃が走り、幕府内でもただならぬ動揺が広がっていました。
一方、上皇も院宣の効力に絶対的な自信を持っており、やがて東国の武士たちが幕府を討ち、義時の首を自分の前に持ってくることを確信していました。
しかし、動揺する武士たちに喝を入れたのが、義時の姉で今は亡き源頼朝の妻であった“尼将軍” 北条政子でした。
政子は朝廷に対し弓を引くことをためらっていた大勢の御家人たちの前で
「あなた方が亡き頼朝公から受けた御恩は山よりも高く、海よりも深い」
と、涙ながらに訴えたのです。
さらに政子は、「もし、この戦いに我々が負ければ、武士は再び貴族たちに組み敷かれて惨めな地位に成り下がる」と、情に訴えるだけでなく実利的にも御家人たちを諭しました。
政子の懸命な演説に感銘を受けた幕府の御家人たちは、一致団結して朝廷に立ち向かうことを決心したのです。
幕府の支配は全国へ
政子の説得により結束した幕府方は、義時の嫡男・泰時と義時の弟・時房の二人を総大将として京都の朝廷に向けて進軍を開始します。
その後、幕府方に賛同する東国の武士たちが各地から続々と集まり、幕府方の総兵力は19万にも膨れ上がりました。
対する上皇方では、上皇の予想に反して院宣に応じた武士は少なく、2万数千程度しか集まらなかった上、中心となる武将もいなかったため統率力にも欠く状態でした。
上皇方は圧倒的な兵力の前になすすべもなく、幕府軍はわずか一ヶ月で京都を完全に制圧、戦いは幕府方の圧勝に終わったのです。
戦いの後、以下のことが決定しました。
- 首謀者である後鳥羽上皇は隠岐(島根県)へ、順徳上皇は佐渡(新潟県)、土御門上皇は土佐(高知県)へそれぞれ流罪
- 上皇に味方した公家や武士の所領約3千ヶ所を幕府が没収
- 朝廷の監視と西国御家人の統率のため、京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置
承久の乱の結果、それまでの朝廷と幕府による二元政治が終わりを告げ、朝廷の権威は失墜、鎌倉幕府は西国も含めた全国的な政権へと発展したのです。
まとめ
- 後鳥羽上皇は鎌倉幕府と距離を置き、討幕の機会を窺っていた
- 後鳥羽上皇の挙兵で動揺した御家人たちを北条政子が説得し、幕府方は再び結束した
- 幕府方が勝利したことにより、鎌倉幕府は全国的な政権へと発展した
承久の乱で幕府の軍門に下った朝廷はそれから百年の間、後醍醐天皇の登場を待たねばならなかったのです。
2020年05月11日
秀頼は大坂で死なず? 秀頼生存説に迫る!
豊臣家殲滅に執念を燃やす家康
前回のブログでは「大坂夏の陣」というタイトルながら、真田幸村を中心に語ったので豊臣家滅亡については触れませんでした。
徳川家康(4月17日付ブログ参照)は関ヶ原の戦い(9月15日付ブログ参照)の勝利によって実質的には天下を取りましたが、五大老として「豊臣家の家臣」という立場を否定したわけではありません。
ですから家康は、関ヶ原についても表向きは(秀頼公をたぶらかす佞臣・石田三成を討つ)という大義名分で戦ったとしています。
とは言うものの、世間的には誰の目にも家康は既に天下人として映っていました。
しかし、家康自身はまだ決して安泰だとは思っていませんでした。
なぜなら、秀吉の死後、家康自らが天下取りへの野望を顕わにしたのと同様に、自分の死後、豊臣恩顧の大名が秀頼を担ぎ上げて徳川政権に反旗を翻すかもしれないと考えていたからです。
家康はそれを阻止するため、自分が生きているうちに何としても豊臣家を滅ぼしておく必要があったのです。
というわけで、今回は大坂夏の陣における豊臣秀頼と、“その後”について語りたいと思います。
豊臣家の最期
慶長二十年(1615年)5月8日、前日に真田幸村も討死し、いよいよ追い詰められたのが大坂城の豊臣秀頼とその母・淀殿でした。
豊臣秀頼
二人は徳川軍の攻撃で炎上した大坂城本丸を離れ、本丸北側の山里曲輪に逃れていました。
その間、秀頼の側近・大野治長は、秀頼の妻で徳川秀忠の娘である千姫(2月5日付ブログ参照)を逃がして秀忠のもとへ送ることで、秀頼と淀殿の助命に一縷の望みを懸けたのです。
しかし、あくまで豊臣家殲滅を目指す家康はこれを許さず、山里曲輪の攻撃を命じました。
最後の望みを絶たれた秀頼と淀殿はついに自害して果てたのです。
燃え盛る大坂城と共に、豊臣家はここに滅亡しました。
その後、大坂城を脱出した秀頼の遺児・国松丸も間もなく捕えられ、京の六条河原において処刑されました。
国松丸はこの時わずか8歳でした。
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鹿児島に落ち延びた秀頼 !?
このようにして大坂夏の陣は終わり豊臣家は滅亡したのですが、なんと自害したはずの秀頼には生存説があるのです。
生存説の根拠となったのが、秀頼が亡くなった時の状況です。
秀頼は山里曲輪で自害したのですが、その後徳川軍の攻撃で山里曲輪が炎上したため、中にあった焼死体のどれが秀頼のものか判別できなかったのです。
このことから、巷では“秀頼は落城のどさくさに紛れて脱出した”との噂がまことしやかに囁かれました。
長崎の平戸にある東インド会社の商館長だったリチャード・コックスも、当時の日記に「秀頼は生きているという噂がある」と記しています。
これらの噂を裏付けるかのように、この頃京や大坂では
「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたよ鹿児島へ」
という童謡が流行ったといわれています。
実際、鹿児島市内には秀頼の墓が存在し、秀頼にまつわる伝承なども数多く語り継がれているのです。
また、平戸藩主だった松浦静山(まつら せいざん)の著した『甲子夜話』によると、「大坂夏の陣の後、一人の浪人が鹿児島にやってきたが、いつも大酒を飲んでは暴れるので周囲の人々を困らせていた」という話あります。
実はこの人物こそ秀頼であるらしいと、地元ではもっぱらの噂になったといわれています。
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天草四郎は秀頼の子だった !?
秀頼生存説にはさらなる続きがあります。
寛永十四年(1637年)に起きたキリシタン最大の反乱・島原の乱(10月25日付ブログ参照)で一揆方の総大将となった天草四郎が、実は秀頼の子だったというものです。
秀頼は鹿児島に逃れた後、地元の娘との間に子ができて、その子は「豊臣秀綱」と命名され、その後天草地方に渡ってキリシタンになったとされています。
しかも、天草四郎が秀頼の子だとする証拠もあるといいます。
それは、戦いの時に総大将が掲げる「馬印」です。
天草四郎は島原の乱の時、“千成瓢箪”(せんなりびょうたん)の馬印を掲げていたといわれています。
この千成瓢箪は秀頼の父である秀吉が使用していた馬印として有名であることから、天草四郎が豊臣家と深く関わりのある人物だと推測されるのです。
もし、天草四郎が秀頼の子だとすれば、島原の乱にも新たな見解が生まれることになります。
それは、島原の乱鎮圧に老中の松平信綱が派遣されたことです。
九州地方の農民反乱のために、幕府の中核である老中がわざわざ江戸から乗り出すのは異例のことです。
これはつまり、徳川幕府の威信に懸けて、豊臣家の末裔である天草四郎を確実に滅ぼさなければならなかったからではないでしょうか?
こう考えると、島原の乱は大坂の陣の続きだったと言えなくもないですね。
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まとめ
- 徳川家康は自分の死後に豊臣家が反旗を翻すことを案じて、生きているうちに豊臣家を滅ぼした
- 豊臣秀頼は死後にその遺体が判別できなかったため、生きて鹿児島に落ち延びたという説がある
- 島原の乱の総大将・天草四郎は鹿児島に落ち延びた秀頼の子だという説もある
秀頼もそうですが、源義経にしても織田信長にしても、死後に遺体が発見されない、あるいは判別できないと、生存説が囁かれるものですね。
2020年05月08日
決戦! 大坂夏の陣
「昌幸の子」から「日本一の兵」へ
今日5月8日は大坂夏の陣が終わり、豊臣家が滅亡した日です。(慶長二十年 1615年)※改元前
大坂夏の陣は、半年前に行なわれた冬の陣と合わせて「大坂の役(又は陣)」と言いますが、真田幸村はその両方で活躍しました。
前回のブログでは幸村の前半生について語りましたが、もし彼がこの大坂の役で活躍しなかったら、「真田幸村」の名が歴史に刻まれることはなかったかもしれません。
なぜなら、この大坂の役の前まで幸村は「真田昌幸の子」としてしか世間的には評価されていなかったからです。
この大坂城を舞台にした二度の戦いで、幸村は比類なき勇将として一気にその名を全国に轟かせることになりました。
幸村は九度山に流されて以来、14年間も貧しい暮らしに耐え忍んできました。
年齢も四十代後半にさしかかり、(自分はこの山奥の村で、このまま寂しく朽ち果ててゆくのだろうか?)と苦悩する幸村に手を差し延べたのが豊臣家でした。
だから、幸村が大坂入城を決意したのは、金のためでも、立身出世のためでもなく、宿敵・徳川家康(4月17日付ブログ参照)を相手に武士として最後の“死に花”を咲かせるためだったと思われるのです。
というわけで、今回は大坂の役における真田幸村の活躍について語りたいと思います。
落日の大坂城へ
慶長十九年(1614年)10月、大坂城に入った幸村は毛利勝永・長宗我部盛親・後藤又兵衛・明石全登(たけのり)と並んで「大坂城五人衆」と呼ばれました。
その他にも関ヶ原の戦いの後に浪人となった者たちを中心に各地から続々と結集し、大坂城の総兵力はおよそ10万にものぼりました。
大坂城における軍議の席で、幸村はまず大坂・京などの畿内を制圧して徳川方と西国大名の連絡経路を遮断した上で近江(滋賀県)の瀬田まで出陣し、西上してくる徳川方を迎撃するという作戦を提言します。
浪人たちのほとんどは幸村の作戦に賛成しましたが、実戦経験に乏しい豊臣家の近臣たちは総勢20万ともいわれる徳川方の大軍に恐れをなし、あくまで籠城を主張したので、結局この軍議では籠城することに決まりました。
確かに籠城策にも一理あります。
なぜなら、大坂城は築城した秀吉が
「百万の大軍をもってしても落とすことはできないであろう」
と豪語したほどの難攻不落の巨城だったからです。
それでも幸村は、大坂城の南側の部分だけが唯一弱点になるのではないかと考えていました。
そこで幸村はこの場所の守りを申し出て、ここに出丸(本城から張り出した形の小城)を築くことにしたのです。
これが、後に名高い「真田丸」です。
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激闘! 真田丸
同年11月、大坂冬の陣が始まると、幸村は5千の兵と共に真田丸に立て籠もりました。
徳川方も真田丸を落とせば大坂城を攻略できると考え、最大兵力の前田利常軍約2万で真田丸を攻撃します。
しかし、幸村はこの大軍相手にも動じることなく冷静でした。
敵を十分に引きつけ、敵兵が真田丸の城壁に張り付いたところを城内から鉄砲で一斉射撃したのです。
これは、父昌幸が上田城で徳川軍を二度撃退した真田家得意の戦法です。
この時の戦いで前田軍は大打撃を被り、おびただしい数の死傷者を出して敗退しました。
真田丸における見事な勝利により、幸村の武名は敵味方双方に知れ渡ったのです。
幸村の鮮烈な戦いぶりに脅威を感じた家康は、幸村の叔父・真田信尹(のぶただ)を使って幸村の寝返り工作を試みることにしました。
最初、「信濃(長野県)に10万石を与える」という条件で幸村を勧誘しましたが、幸村はあっさり断ります。
しかし家康も諦めず、もう一度幸村のもとに使者を送り「それでは信濃一国ではどうか?」と食い下がりました。
すると、幸村は
「10万石では寝返らぬが、信濃一国なら寝返るとでもお思いか? この幸村、一度秀頼公にお味方すると約束した以上、信濃一国どころか日本の半分をくれてやると言われようとも決して寝返りなどせぬ」
と、きっぱり言い放ったのです。
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狙うは家康の首一つ!
このままでは大坂城の攻略は難しいと考えた家康は一旦和議を結び、謀略によって大坂城の堀をすべて埋め尽くした上で改めて戦いを挑んできました。
慶長二十年(1615年)5月、大坂夏の陣が始まると、既に真田丸を破却された幸村は裸同然の大坂城から打って出て、まず伊達政宗の軍勢を撃破することに成功します。
しかし、大坂方では諸将が相次いで討死する状況にあり、起死回生を図りたい幸村は一か八か家康の首を狙う特攻作戦を敢行するのです。
同7日、「真田の赤備え」といわれる全軍赤一色の幸村の軍勢は、茶臼山の家康本陣に向かって火の玉の如く突進しました。
前衛の松平忠直隊を蹴散らすと、ついに家康の本隊に迫ります。
幸村軍の猛攻ぶりは凄まじく、家康の正旗が踏み倒されるほどでした。
家康の正旗が踏み倒されたのは、武田信玄に敗れた三方ヶ原以来のことです。(12月20日付ブログ参照)
これにはさすがの家康も死を覚悟し、二度も自害を口走ったといわれますが、それでも側近たちに守られながらなんとか逃げ延びました。
一方、幸村軍も多くの兵が討ち死にし、幸村自身も負傷してほとんど動けなくなっていました。
幸村はわずかに残った兵と共に安井神社で休息中、松平家鉄砲組の西尾仁左衛門に討ち取られました。
真田家の家紋「六文銭」
戦後、幸村の奮闘ぶりは大評判となり、徳川方の武将でさえこぞって幸村を称賛しています。
その中でも特に薩摩(鹿児島県)の島津家は
「真田 日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由」
と、幸村の活躍を絶賛しました。
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まとめ
- 大坂城に入った真田幸村は籠城戦に備え、城の南部に真田丸を築いた
- 幸村の活躍に脅威を感じた徳川家康は寝返り工作を試みたが、幸村は決して裏切らなかった
- 大坂夏の陣で幸村は家康をあと一歩のところまで追い詰めたが、ついに届かなかった
源義経と同じく幸村の英雄伝説の中には「真田十勇士」などの創作もありますが、幸村が最後まで義理を通し、誇り高く戦い抜いた勇将であることは紛れもない事実です。