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2022年07月09日

90才にして人生初めての回覧板回し!

今月7月から ホテルの再開が始まった。
先月6月迄は コロナ対策用の一棟貸しだったので、ほとんど出社すること無く、自宅待機だった。

収入は激減したが、平均賃金の6割は補償されとても助かった。

余裕ある日には別の仕事、アルバイトにも出掛けることが出来、少しは激減した収入を補填することが出来た。

しかし、7月からは、ホテルの通常営業がはじまり、2、3時間の短時間ではなく、自宅を出てから8時間後に自宅ヘ帰宅するようになる。

これでは全介護の母を看ることは出来ない。

しかし、先月亡くなった母。

休むこと無く、今後も仕事を続けることが出来る。

父は母のように全介護を必要としないので、自力でトイレも行けるし、ようやくコーヒーも飲みたいときに自分で入れるようにしてもらった。

長年コーヒー入れても、砂糖さえ、自分でいれようとしなかった父。

そこまで、面倒みれない、私の負担を少しでも軽減するのに協力を求め90才になって初めてのゴミ出しや、新聞をポストから取り入れ、テーブル拭き、町内会の回覧板を90年にして、人生初めて、お隣へ回しに投函。

なーんもしないのに、講釈だけはしていた父。

協力するよう何とか説得、教育。

2022年07月08日

母は亡くなった?亡くなっていない?!

その昨年末の七五三のお参りから 僅か半年程で 母はこの世を去った。

母が亡くなって、暫くは(今も)実感が無く、悲しさを拭おうとする自分と、まだそこに母が居る。と思いたい自分との葛藤。

気を紛らす意味もあって 葬儀を終えた翌々日から仕事に出た。

仕事には支障無いのだが、母のことになると、オカシナ言動をしていたようで。

偶数月には母の年金が振り込まれるので、
"代わりに行って 下ろしてきたる。"

と出掛けた。

キャッシュカードが無かったので、銀行の窓口で、

"代理人である旨確認が必要なので、お母さんから電話いれてもらえますか?"

と言われて、"はい、分かりました"と返事し、帰宅。

父に "お母さん、亡くなったんやで。"
と言われてハット気付いたり。

母に電話がかかってきたときに、
"今、留守にしています。"
と返事したり。

父は私が おかしくなったと心配した。

自分でも、"あれ、今何て言った?!"
と父に確認したりした。

兎に角 母が亡くなった事を認めたくない私がそうさせたと思う。

2022年07月07日

母は全てを計画していた?!

しばらく、ブログ更新していませんでした。

今日は "七夕" 。
願いを込めて書きます。

次女の娘が駆けつけてくれて、葬儀も滞りなく終え、父とのふたりでの生活が始まった。

考えてみると不思議と言うかタイミングが良すぎると言うか?

母は全て計画していたと思えることが多々あるのだ。

アメリカ在住の娘が、旦那の仕事の関係で日本へ帰国したのが今年の3月。

一時帰国ではなく本格的な帰国は10年振りだ。

それも日本の帰国、赴任先が、戦争の際に母が疎開していた九州 熊本 菊池市。
 偶然と言えば偶然だが。


娘はご主人と昨年10月に孫娘を連れ 一時帰国。
その時の七五三のお参りには父も母も自分で歩いて参加出来ていた。

その際、難波宮へお参りに行った際に、"遺影に使える良い写真撮って。"と言われて、母を撮った。

良い笑顔。
"まだまだ、使うのは先やろうけどね。"と私。

"そやな、コロナでしばらく旅行行けてないし、また、旅行行って、ひ孫に会って、成長見守ってからでも遅ないかな。"と母。

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2022年06月30日

最期の会話

6/2 救急搬送される救急車のなかで、心肺停止となり、救急隊員の方々が懸命な蘇生を試みるも、そのまま逝ってしまった母。

最期の会話は 前日夜

"仕事に行くけど大丈夫か?"

"うん、大丈夫。行ってらっしゃい。"

となった。

全くなにも食べなくて、痩せ細っていた母。

こんな体でよく生き長らえているものだ。と思っていた。
だけど、意識は亡くなるこの前日までハッキリしていた。

認知症の進行はなく、私が誰か?分からなくなることは無かった。

2022年06月29日

救急車要請を今年だけで5回

(昨日 ブログ更新中に間違って送ってしまいました。スミマセン)

今年だけで、救急車要請を5回した。
父は2回、母は3回。
運良く ふたりとも私が在宅中に 具合が悪くなり、救急搬送をお願いした。


毎日 父と母 ふたりの様子を看ているので、ちょっとした異変が分かった。

コロナの影響もあり、毎回搬送先が見つかるまで、相応の時間がかかり、ヤキモキしたが、救急隊員の方々の懸命な姿を見て安心してお任せできた。

救急車に乗り込むなど 一度も経験したことが無いのが普通かもしれないが、持病のある高齢者を自宅介護するということを決心した時から、覚悟はしていたが、毎回 申し訳ない気持ちにもなった。


コロナが無ければ、多分 入院させていたと思う。しかし、どの病院も退院迄 面会出来ない。

会えるのは亡くなった時、遺体引き取りの時になるかもという恐怖心と誰にも看取られないで亡くなるのだけは避けたい。

という気持ちが強く、応急処置だけで自宅へ帰るようにした。

"お母さん、あれで良かったのかなあ?"と尋ねた。

2022年06月28日

弟も母も癌で天国へ

母は会いたい、会いたい。と言っていた亡き弟に会って "待たせたねえ。" とでも言ってるのかなあ。

弟が亡くなって 今年で10年が経つ。

弟も癌だった。
亡くなる前の夏 カヌーをしていたキャンプ場へ担当医から "そんなことしている場合ではないです。すぐに帰ってきてください。"と電話があったようだ。

ステージW 末期の胃癌。

キャンプ先から帰ってくると直ぐに精密検査、家族立ち会いでの説明後、ICUに入り、緊急手術による 胃の全摘手術。

その後、抗がん剤投与。

カヌーをしてキャンプ場で過ごすほど 元気だった弟が、みるみるうちに、痩せ細り、体力がなくなり、手術を受けた翌年の春に亡くなった。

僅か51年の人生。

本当に適切な手術、処置だったのだろうか?!

放置して 手術なんかしなければ、もう少しは生き長らえたのではなかったか?!

数年は思い悩んだ。

この事があったので、母が骨折入院の際に、肺がんの可能性があると言われた時に、骨折だけを治して欲しい。と要求した。

高齢だし、手術や、抗がん剤など 到底耐えれるものではないだろうと判断。

しかし、結果的には肺癌による死亡。

何が良かったのか?どうすれば良かったのか?
自問自答がつづいている。

2022年06月27日

この半年は数年の時間が経過した?!

5/19から本格的に父と母の介護のことを書き始めて(それまでは 捨てネコ "マルソー"のことや、ヨーロッパ旅行の思い出などを書いていました。)、

その後 僅か 2週間程で、母が天国へ逝ってしまうとは夢にも思わなかった。

父と母 ふたりの 本格的な介護は昨年夏頃から始まった。

父はそれまでに 脳梗塞で3回 救急搬送されていた。

5年前の 最初の 救急搬送で 脳梗塞と前立腺癌が判明。

その際、担当医から 高齢でもあるし、"最善は尽くしますが、半身不随や言語障害は覚悟してください。"

と言われ、延命措置は希望しない旨の書面にサインした。

父は 治療と理学療法による、リハビリを頑張り抜き、その後今年1月 4回目の脳梗塞による 救急搬送の際は 流石にどうなるだろう?と覚悟を決めた。

案の定、父は自宅へ戻っても、寝たきりになってしまった。

しかし、這い這いから、捕まり立ちができるようになり、トイレへ自力でいけるまで回復。

ゆっくりだが、歩けるようになり、外出もできるまでになった。

母は 父のように これ以上生きていくことを拒否。その為 絶食をするようになった。

父は 兎に角 死ぬのが恐ろしい、怖い。
母は 早く天に召されたい、お迎えが来ないか? もう、十分生きた。


と父と母 ふたりは 考えが真逆。
あまりにも 潔(いさぎよ)い母。

この数週間は 過去一年分、いや、それ以上の時間が経過したように思える。

2022年06月26日

悔いは残る

"もう、何もせんでいいから。
何も要らんから。"

と言うのが口癖のようになったのは、私が忙しく、大変そうにしているのを察知しての親心では無かったか?

入院させていれば、会えないけど、私に対する気遣いは無くて、もう少し良くなったのではなかったか?

いや、入院で良くなったとは限らない。
回復して、退院できれば良いが、誰にも看取られず亡くなった可能性もあったはず。

堂々巡り。

正解なんて無いのはわかっているつもりだけど、あまりにも呆気なく逝ってしまったので、もっと出来ること、やれたことが無かったか?

逡巡(しゅんじゅん)してしまう。

弟に会えたかなあ?
長い間待たせたねえ。
なんて言ってるのかなあ。

2022年06月25日

天国へ逝ってしまった母の本心は?

母は本望を遂げたのだろうか?
自問自答が続いている。

唯一気掛かりなのが、
私に気遣いして、自ら身を引いたのではないだろうか?
亡くなった弟に早く会いたい。というのは本心だったのだろうか?
来月私の孫を連れて帰ってくる娘夫婦に会いたい。と言っていたのに。


この夏のデイサービスでの "スイカ割り"のイベントを楽しみにしていたのに。

男の私が 今まで ろくに手伝いもしたこと無かったのに、買い物、炊事、洗濯、掃除、そして介護と仕事。

二足の草鞋(わらじ)ならぬ、忙しい毎日。

忙しいのは忙しかったが、毎日充実感があったのも事実。

しんどかったのも事実。

だけど、投げ出したいとは思わなかった。

仕事終わって、帰ったら、スーパーへあれとあれを買いに行って、ああ調理して、食べるのが遅いから、時間が経っても美味しく味わえるものはこうして。

掃除はう五月蝿(うるさ)いから、デイサービスに出掛けている間にして、洗濯機にかけれるものはアレとアレにして、洗濯機では無理な 毛布や布団は 近くのコインランドリーの混まない この時間にして、オムツ取り替えはヘルパーさんが毎日二回来てくれるけど、1日一回の日があるから、晩御飯の前にするか?後にするか?

やること考えることが多かった。
でも嫌ではなかった。

希望があったからだと思う。
絶対に母を自力で立たせてみせる。
歩けるようにしてあげる。

絶対に出来ると思っていた。
信じていた。

2022年06月24日

自宅介護の難しさ

母が亡くなって3週間近く経つが、遺品整理や、役所への手続きや届けなど まだ何も出来ていない。

する気力が無い。

未だ 母が亡くなった実感が無くて、父の食事を用意し、父と二人での食事と思わず、母も弟も一緒と思って声掛けして食べるようにしている。

亡くなって 暫くは 独り言が多かったようで、父は "お前、大丈夫か?" と。

自分では 気付いていないが、あたかも 母が傍らに居るように 何か話しているらしい。

自覚がある時も有るが、"そんなこと 言ってた?"
と言う時もある。

先日 健康診断があり、相談したところ、一ヶ月くらい 精神が不安定になるケースはよくあるらしい。

そういえば、10年前に弟が亡くなった時も 落ち着かない日々が続いた。



ボーッとしていると、気が滅入るので、短時間の仕事には出掛けているが、役所などへは足が向かない。


民間の保険で、自宅介護は病気と見なされなかったり、病院ではなく、自宅での療養なので 入院保険金は一円たりとも、一切出なかった。

要介護の認定後 保険金が出るようになる保険は 生命保険とは別物らしい。

また、母の場合 保証期間が90歳までの 有期保証の保険だったので、保険は掛け捨て、掛け損となってしまった。

当然 別に 保険金が欲しいわけでもなかったが、全く保険金が出ないというのは合点いかなかった。


自宅介護の難しさを実感した。




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2022年06月23日

湯灌や葬儀の生中継

"湯灌(ゆかん)"も 撮影許可して貰い、母を綺麗にして貰った。ちゃんと シャンプーそして、リンスもし、爪も切ってもらった。

若い男女の方だったが大変な仕事だなあ。と思った。

祭壇に母の遺影や花が飾られるところも見せて貰った。

お通夜は祭壇ではなく、同じ部屋で 傍らで過ごすことが出来た。

疲れたからか、いつの間にか眠っていた。

そして、夢で母に起こされた。

背中をナデナデしてくれた。
二日前 動かないはずの母が背中を撫でてくれたのと同じ感触。

 葬儀場によっては 神聖な場所なので、お坊さんに許可戴けないこともあるようだが、アメリカとの中継の許しを受けた。

スマホを机に固定し、娘夫婦も参加。

2022年06月22日

海外からお別れ

裸のままの母を早く引き取りたいが、
警察の鑑定医からの連絡を待つことに。

連絡が無いと 先に進めない。

弟や親戚が お世話になった葬儀場へ 連絡すると、4日後迄 予約で埋まっているとのことだった。

警察、火葬場、葬儀場が上手く連携出来ないと、日取りを決めることが出来ない。


駆け付けてくれた娘と手分けして いくつかの葬儀社にまとめてお願いするが、近くの火葬場や葬儀場はそんなことがあるのか?

と思うが、全て予約でいっぱい。


出来るだけ近場で探して貰い、何とか仮予約出来た。

悲しんで泣いている暇もないくらい慌ただしく時が過ぎた。

母は生前 "豪華な葬式は要らん。火葬場へ運んでくれたらそれでいい。"

親戚には声はかけたが、みな高齢で、持病持ちで、入院中のものも多かった。

きちんとお別れしたいのと、誰にも気兼ねせずに泣きたかったので、娘夫婦と、孫と、父と本当に小さな密葬のような家族葬にした。

母にとっての孫娘 ふたりは海外生活だ。
次女の方は 運良く今年の2月 仕事の関係で帰国していたが、

長女はアメリカから駆け付けたいと領事館に掛け合ったようだが、まだ生まれて間もない赤ちゃんが二重国籍でビザ、パスポート取得がままならず、帰ってこれなかった。

"おばあちゃんに ちゃんとお別れの言葉をかけたい。 今まで 有り難うと伝えたい。
何とか出来んやろか?ラインとかで、中継出来んやろか? "
と娘。

父の日、母の日やお雛様、こどもの日、互いの誕生日など記念日には 毎回 ラインなどの動画で祝っていた。


2022年06月21日

私にとっては 大切な母です!

母が息を吹き返すことはなかった。

医師に促され 瞳孔、脈、心電図で確認。

"御臨終です。"

最期 眠っているような母。
走馬灯のようにこの一年の思い出が甦る。

"先日の救急搬送から48時間経過していて、自宅で亡くなったと考えられるので、警察からの検証、確認が必要となります。宜しいでしょうか?"

"はい。"

程なく 警官が病院に来て、色々質問を受けた。

その後、パトカーに同乗し、自宅での検分。
自宅で 亡くなった場合は事件性を疑われ、ややこしいとは聞いていた。が、数時間での検証で済んだ。

翌日 鑑定医の確認後 母を帰して貰えると言うことだった。

"どういう状態で、母は安置されるんでしょうか?"

"遺体安置所で預かります。"

"はい。"

その後、目を疑う光景。

"それはダメやろ。失礼やろ!!
なんやそれ、あんたらにとったら、死体かもしれんが、私にとっては大切な母や!"

なんと、寝袋を粗末にしたような、ナイロンのずだ袋のようなものに、なにも纏(まと)わないで、真っ裸でいれている。

"今までも、これからも、そんな扱い?
疑問に思わないの?
ご遺体という考えはあんたらには無いの?!"

警官はキョトンとしている。
疑問にも思わなかったのだろう。

警察には親族、身内にとっては、大切に扱ってほしいという思いは伝えたい。

2022年06月20日

母の死

救急車が到着し、心臓マッサージを交代。

"アカン、そんなにきつくしたら、骨が折れます!
痩せ細った母にそんなに強くすれば、肋骨が折れます!"

見ていられない。

マッサージしながら、救急車に運ばれた。

三日前に運ばれた病院が運良く受け入れてくれた。

"蘇生希望されますか?"

"えっ?!"

"心停止です。
脈も確認出来ません。"

"はい、お願いします!"

一縷(いちる)の望み。今まで、何度か死を意識してきた。今回も希望を捨てるわけにはいかない。

程なく病院へ到着。

救急チームの方々が控えていてくれ、直ぐに蘇生マッサージ。

母の肋骨が折れるのがわかった。

"もう、結構です。
止めて下さい。
お母さん、ゴメン!!痛かったやろ?
許してな!"

2022年06月19日

母の呼吸が止まった!

娘達も心配し、カリウム不足を補うため、各種栄養剤を取り寄せてくれた。

バナナを小さく、細かくして 食べて貰おうとしたが、口にしない。

かかりつけのクリニックでカリウム補充と栄養剤の点滴をお願いに行ったが、痩せ細った母の体は 点滴さえ打てないほどになっていた。

ヘルパーさんも心配して駆けつけてくれた。

いつもなら"お世話になるねえ、迷惑かけるねえ。"と応じていた母だが その日は意識はなく、眠っていた。


脱脂綿で、水分補給とカリウム補充をするが、穏やかに眠っている。

先日 救急搬送された日から 仕事は休みを取っていた。

母の横にいて、呼吸が乱れないか?止まらないか?
気が気でなかった。

そうして、その瞬間が来てしまった。

まったく呼吸が乱れることもなく、息が止まった。

父に 
"お母さんの呼吸が止まった!息をしていないみたいや!"

母の口に人工呼吸と心臓マッサージをするのと同時に、救急車依頼。

いつもなら、携帯から一発で繋がるのに、何故か繋がらない。

固定電話で試すも繋がらない。

パニック!

固定電話からやっと繋がった。
"母が、呼吸していません。息が止まりました。"

"心臓マッサージのやり方 分かりますか?"

"はい。"

"我々が到着するまで、心臓マッサージ続けて下さい。"

2022年06月18日

呼吸の乱れはカリウム不足

5/31 呼吸が乱れ、息を吸っては止まり、吐いては止まり。

苦しそうにはしていないが、呼吸が止まってしまいそうなので、救急車を呼んだ。

搬送先は大阪市内に見つかった。
到着するなり、救急隊員の方から状況を聞いて貰っていたようで、酸素吸入、血液検査等の精密検査の結果 "カリウム" の数値が 異常値を示しているとのことだった。

まともに食事を摂っていないので、健常者と比べると、あまりにも低い数値だそうだ。

カリウムが不足すると心臓や肺機能に障害が起こり、突然死のリスクが高まるとのことだった。
(カリウムはバナナや昆布に含まれているらしい)

しかし、母は 目を開け会話が出来るまでに回復。

"疲れたから、今日はここへ 泊まらせて貰おうかな。"

"お母さん、ここは病院やから、治療せなあかん。そうなると、精密検査、治療などいろいろ検査となるから、退院まで会われへん。そやから、今日は家へ帰ろ。"

"そやね。帰ろうか。"

少しベッドで休ませて貰い、タクシーで帰宅した。

翌日、掛り付けのクリニックで 耳掃除、酸素吸入をして貰った。

その日の夜
"今から仕事やけど、すぐ帰ってくる。
大丈夫か?"

"うん、大丈夫。行ってらっしゃい。"

3時間程で仕事終え 帰宅すると 母は呼吸の乱れもなく寝ていた。

2022年06月17日

私の知らなかった デイサービスでの父と母

デイサービスを毎回 楽しみにしている父と
行くのを嫌がる母。

寝たきりで 何も出来なくて、楽しく過ごせないのかなあ。と思っていた。

しかし、5/28がデイサービスでお世話になった最後の日までの エピソードを母が亡くなってから文書で頂いた。

そこには 父と母が 二人してデュエットしたり、この8月には スイカ割りのイベント企画が予定されていて、母も楽しみにしていた。と伺って 家では強がりをしていたんだ。と思った。

父と母がデュエットしたなんて信じられない。
だいたい母がカラオケで歌っているのは見たことがない。

私の知らないふたりの姿を想像すると 微笑ましく思えて、楽しいときも過ごせたんだ。とちょっぴり救われた気がした。

ただ、元気になってもらって、大好きだった温泉旅行に連れていってあげたかった。
もっと やりたいことを叶えてやりたかった。

2022年06月16日

なーんもせんでエエ

その後、母の体調が良い時には、色々話しが出来た。

母は いかにも悟りきったような感じで、穏やかな日が過ぎていった。

"あんた(私)はもう、な〜んもせんでエエから。
お母さんのこと 構わんでエエから。"


"お母さん、そんな訳にはいかんやろ?"

"ほっといてくれたらエエ。
寝かしといてくれたらエエ。"

私の手に負えないので、ケアマネージャーさんに相談し、休んでいたデイサービスに行くようにした。


家では 何も口にしないこと。
入浴も儘ならないこと。
私と母だけの会話なので、刺激がなく、他の人と話すことで、何か伸展があればと思っていることなど。
を相談した。

デイサービスの迎えのヘルパーさんが来て 父は楽しみにしているけど、母は行くのを嫌がった。"家に居てる。"と。

ヘルパーさんに 無理矢理、車椅子に乗せて貰い つれていって貰った。

"お風呂入れて貰って気持ち良かった。"とご機嫌だった。

その後も毎回 行くのを躊躇(ためら)っていたが
連れて行って貰った。

2022年06月15日

嫌な予感 息してるか確認するようになった

翌日も いつもの公園へ母と散歩に出かけた。

父に "散歩行くけど、神社側に 屋根付きのベンチあるから、ゆっくり来たら良いから、来る?"と。

父はいつも家で "待っとく。" との返事だった。

母は味噌汁、リンゴジュースは口にするが、お気に入りのフルーツヨーグルト、みかん、お弁当は "要らんねん。" と言うようになっていった。

日に日に痩せていくのがわかるけど、見た目は血色もよく、体温、血圧も正常値。

会話も 私がホワイトボードに書いて、ちゃんと返事してくれる。

痴呆症状は 進行していないし、見た目は元気そうだった。

ただ、その日から、母がちゃんと呼吸しているか?
脈は有るか?
が気になり始め、
早朝や夜中に目が覚め、息しているか?
確認するようになった。

スヤスヤと息しているのを確認すると 
ホッとして床につくようになっていった。




2022年06月14日

毎年 恒例の 花見のあとの食事

敢えて聞こえない振りをして、
"毎年 満開の桜は 見事やなあ。"と返事した。

"おやじと 明日でも 車で  "さくら通り" を一周して食事行こうか?"

"そやね。お父さん、また、フグやで!"

"うん、いつもいっしょ。
フグ食べたら生き返る。言うて ご機嫌やもんな。"

翌日 車に 父と母を乗せ "さくら通り"の満開の桜を いつもは一周するだけだったけど、その日は二周して
"満足したか?綺麗やなあ。" と私。

"うん、大満足。"と母。

"そんじゃ、次は食事行こうか。
孝行息子やろ?"

"そやね。 エエ子やねえ。
お父さんから あんたみたいな子 出来たんが不思議やねえ。" と照れ臭くなるくらい誉めてくれた。

父から誉めて貰った記憶は殆ど無いが、母はいつも 誉めてくれた。

2022年06月13日

"桜観るのは 最後かもしれん"

屋根付きのベンチ 程なく着いた。

外出を嫌がっていた母は 満更でもない様子。

"エエ天気やねえ。"

"そやろ。気持ちエエやろ。
お弁当食べよか。"

幕の内弁当は 母の好きな魚や、高野豆腐 おひたしと小さめのふりかけのおにぎり 他にも 少しの焼きそば付き。

家では殆ど食べようとしないのに、明るい陽気に誘われるように 口にした。
"あー、美味し。"

"そやろ、家と違って 外やと、食欲わくやろ?"

少しずつだけど、好きなものを口にしているのを見て、ホッとした。

おにぎりを小さく分けて、鳩にそれをやって楽しそうだった。

味噌汁は カップの殆どを飲んだ。
お茶と お気に入りの 子供用のリンゴジュースも一本殆ど飲んだので、これならいける!と思い、それからは、雨が降らない限り、仕事の都合がつく限り、公園での食事となった。

用意など色々と大変なのは大変だったけど、家では寝て目を瞑(つむ)ってばかりの母が 寝ないで キョロキョロ回りを見回し 楽しそうだったので、日課となった。

それから、ほどなくして、桜が満開となり、母と記念に写真を撮った。

ボソッと 母が言った。
"桜観るのは これが最後かなあ。"
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2022年06月12日

母との散歩

母の意思は固かった。


当初は 横になって動けないので、お腹が空かないのかなあ? と思っていたのだが、
母の好きな おうどん、みたらし団子、タコ焼きを用意しても、"要らん。"と言い出した。頭をふって"要らん"、"なんも要らん。"と言った。

"お母さん、なんか食べな。体力無くなるで。"

"要らんねん。欲しないねん。"と母。

桜が咲き始め、寝てばかりはまずいので、
"お母さん、公園行こうか?さくら通りの桜まだ満開ちゃうけど、少し、咲き始めたから。"

"エエわ、寝とくわ。"

"付き合って。"と言って 無理矢理 母を抱え 車椅子に乗せた。

"せっかくやから、スーパーでお弁当かって、お団子買って、欲しいもんあったら言うてや。"

外は明るく 春の兆し、まだちょっぴりはだざむいので、膝掛け兼用のストールも用意。
母は満更でもない表情を浮かべ
"エエ天気やなあ。"

"そやろ。気持ちエエやろ。"

"そやね。"と母。

公園までは10分ほど。桜の蕾が多いけど、一部咲き始めていた。

"もう少し待てば、綺麗やで。
桜通りの桜並木いつも綺麗やろ。"

"そやね。今年も見れそうやね。"と母が言った。


そして 公園に着いた。

"屋根付きの ごはん食べるのに ちょうどエエベンチあんねん。そこまで行くからね。"

2022年06月11日

父との二人っきりじゃない!

そんな父と今後はやっていかなくてはならない。


葬儀を終え 嘆き悲しんで 落ち込んでいる私に "そのベッド邪魔で 狭苦しいから、返したら。"

邪魔でも、狭苦しいからでもないのは分かっている。
信じられないかも知れないが、毎月のレンタル料が勿体ないのだ。

単なるベッドではない。
私と母との思い出が一杯のベッド。

母の温もりや、においが感じられるベッド。

流石に父に言った。

"お母さんと過ごした 僕にとっては 大切な宝物みたいなベッド。しんどかったり、泣いたり、笑ったり 思い出がいっぱいのベッドなんや!

使わなくなったから、直ぐ返す。なんて出来るはず無いやん!わからんか?"

父はキョトンとしている。
本当にわからないのだ。
一事が万事 この調子の父なので、争いが絶えない。

"何も言わんとって。僕、傷つくばかりで、ナルホドと思うこと無いから。"

ふたりだと思うと、気がおかしくなりそうなので、亡くなった母と弟が一緒に居ると思うようにしている。

全介護となった母との この半年 本当に多くの方に助けられた。

はじめは私が全てやろうとしたが無理がたたり、私自身が体をこわし、心配したケアマネージャーさんに
"あなたが倒れては身も蓋もありません。任せるものは任せませんか?"とのご提案で、オムツ替えに毎日来て貰うようになり、私自身はとても助かった。


(ヘルパーさんに来て貰うことを 父はなかなか納得しなかった。毎月のヘルパー代が発生するからだ。
なので、、ケアマネージャーさんに
"父には無料、タダということにしておいてください。")


しかし、母にとっては 毎日知らない方に 寝返りも出来ない身を任せるまま、わたしだけではなく、多くの方の助けを借りて生きていく。と思ってくれれば良かったのだが、自身の不甲斐なさを嘆き、多くの方に迷惑をかけてまで、生きる意味はあるのだろうか?

と嘆くことが多くなり、母はある日決心した。

絶食し、自らの命を縮め、早くあの世に逝く決意をしたのだ。

2022年06月10日

計算高さは脳梗塞になっても健在の父

母が元気だったときには、確かに 父と母はふたりして難波へ出掛け、映画を観て、食事して楽しそうだった。

ただ超現実主義の父は 母が食べたいものではなく、値段に目をやり、

母がボヤいていた。
"お父さんと一緒に行くのはエエんやけど、それよりこっちにし。"

価格が高いから。とは言わないらしい。

その辺りの金銭感覚は 私は全く理解出来ない。

母が "ちょっと、喉乾いたから、お父さん喫茶店寄ろ?"
と言っても、"家帰って、ゆっくりして、飲んだらエエ。" と父

決して、もったいないとか、お金かかる。とは言わないらしいのだ。

その辺の計算高さは90歳になった今も健在。

なので、脳梗塞で4回も救急搬送されながらも、言葉に障害も無く、体の麻痺もなく、記憶力は より研ぎ澄まされ、人の名前を 90歳になった今でも一回で覚える。

ヘルパーさんやら、デイサービスへの通所者の方の30人ほどの 名字と名前をセットで覚えると忘れないそうだ。

父が私などと感覚が全く違う。受け入れがたいとおもったのは、

もう10年以上前。

皆が元気だったときに、将来この世を去るときの話をした時、父が "お母さんや お前(私)が居らんようになっても、お父さんは 大丈夫や。"と言った。


私は この人オカシイ!と感じた。

違うやろ?!
お前やお母さんが居なくなったら、ワシは1人ではいきていけん。

と言うのが 普通じゃないか!と私は思う。
誰も居らんように鳴ったら、寂しくて、悲しくて生きる気力が無くなって。。と言うのは父には全くわからないようなのだ。

私がお父さんの考え理解出来へん。と言ってもキョトンとしている。


昨年 母がお気に入りの座ることも出来るお気に入りだった手押し車を 私が不在の時に
"使わんし、邪魔なので引き取りにきて欲しい、"なんて、平気で言える父なのだ。


足元がおぼつかない母は外出しなくなり、歩けなくなり、足腰が弱り、家の 何でもないところで、転んで骨折したことの原因はもしかしたら、自分(父)ではないか?
などとは 思ってもみないし、理解出来ないようだ。

2022年06月09日

母の私へのお別れはナデナデ

母が亡くなる二日前 
殆ど意識の無い母が 夜 何かを言おうと口を動かした。
"お"
"おっ"
"おと"
"おとう"
気付いた。父を呼ぼうとしている。間違いない。

母が元気なとき、"あんな人と次生まれてきたら絶対に一緒になんかならん。もっとエエ人と一緒になる!"

そんな母が 意識朦朧(もうろう)とするなか、わたしではなく、父を呼ぼうとしている。

"お母さん、和哉やで!何?!
水か?!"

返事はない。
母の胸に顔を埋めた。すると動かすことの出来ない手が動いた!!

顔を埋めた私の背中をナデナデしてくれた!

今にして思えば、母から私へのねぎらいの思いだったのではないかと思う。

それから、直ぐに母は眠った。

"おとう、お父さん。"

あれだけ 毛嫌いしていた父を最期の最期に呼ぼうとした。

私が知る父は母へのおもいやり、優しさなど微塵も感じられなかったが、ふたりには わたしのしらないところで、いい思い出があったのかもしれない。

2022年06月08日

確固たる信念 母の愛

骨と皮だけにまで痩せ細った母を見るのは辛かった。

でも、"なるようにしかならん。"
が口癖の明るい母に助けられた。

"チャップリンの映画 また、やらんかなあ。
チャップリン大好きや。"

"そやね。面白いだけちゃうもんね。泣けるし、笑えるし。"

亡くなる二週間前でもちゃんと会話が成立。
その時は 食べれるようになって、寝返りが出来て、立つことが出来て、歩くことが出来るようになって、また、大好きな 温泉へ行って 大衆演劇見て。

本当に出来るようになると思っていた。
信じていた。

だから、頑張れた。

でも、寝なくて、寝れなくて、しんどいときに、ぽろっと言ってしまった。

"おかあさん、しっかりしてや。
弱音ばっかり言って、僕頑張ってるのに、迷惑やで。"と。

しんどかったけど、迷惑なんて思っていなかった。

イライラして、思ってもみないことを言ってしまった。

今にして思えば、母は先に旅立った愛する息子に早く会いたい。
介護している私が 時にしんどそうにしている。
狭間で悩んで、"迷惑かけるねえ。"と言っていたのかもしれない。

だから、早くこの世とおさらばすれば、
亡くなった私の弟にも会える。
私が介護から解放され、ゆっくりさせてあげれる。
と思ったのだと。

でなければ、一滴の水も口にしない信念なんか持てるはずがない。

自分のことより、私への気遣いだったのだ。


2022年06月07日

"有り難う" から"ごめんね" になった理由は私にある

言い過ぎてしまったと後悔している。

その日を境に 母は"有り難うね、迷惑かけるねえ。"
から、"ごめんね、迷惑かけるねえ。"と変わってしまった。


"ごめんね。" なんて言ってほしくない。

"有り難うね。" で充分。

母の死にたい気持ちを強めてしまったのではないか?

その後 
"お母さん、全然 迷惑なんかちゃうからね。
孝行させて。"

家では 飲まず食わずなのだが、近くの公園へ行くと、時間はかかるけど、少し食べた。

鳩がくれば、お弁当のおにぎりを細かくして、あげている。

たくさんの鳩が来るので、家ではなかなか動かさない腕を使うので、リハビリにもなるし、少しでも食べてくれるとホッとした。

"あの二羽は 兄弟やな。"

"なんで?"

"顔がよう似とる。"

"そうかなあ。どれも同じような顔してると思うけど。"


雨模様で無い日は公園へ お弁当、栄養ゼリー、味噌汁、お茶、バナナ、みかん、ヨーグルト、みたらし団子など どれか食べてくれればと思って私と母の 二人分と思えないくらい用意し、公園へ行くのが日課となった。

はじめの ふたつき程は 公園での食事は上手くいった。

途中スーパーへ、車椅子の母と立ち寄り、
"何か食べたいものあったら言ってや。指さしてや。"


"うん、わかった。"

母の欲しいものはだいたい いつも同じ。
三色団子や水羊羹、みたらし団子だった。

そして、食べるのを 次第に面倒臭がるようになり、母に "ごめんね。" と言わせてしまうきっかけとなった私の物言い。

それからは、公園へ出掛けても 以前のように 食べなくなっていった。

そして、口癖のように、
"早よ、お迎え来えへんかなあ。
今日かな。明日かな。"
と口にするようになっていくのと同時に ますます 痩せ細っていった。

2022年06月06日

自ら命を縮めた母

蘇生は見るに耐えないものだった。

痩せ細り 骨と皮だけと言って良いほどになってしまった母。

病院のスタッフが救急隊員から引き継ぎ 蘇生の為の心臓マッサージ。
肋骨が折れるのがわかった。

"アカン!もう良いです。
これ以上 母に傷つけることは我慢できません。"

"はい。分かりました。"

蘇生の為のマッサージはストップされた。

"お母さん、ゴメン!許してや!痛かったやろ?!"

我慢しすぎた母。
若くして亡くなった 私の弟に会いたい。と言うのが 口癖になっていた母。

"頑張ってや。もうちょっと、長生きして、私の孫のけいじ君に会ったってや!"

"そやね。もうちょっと、頑張らなアカンね。"と母

しかし、愛する息子より長く生きている罪の意識が強かった母。

"朋幸より、40年も長生きしてる。
もう、充分や。
もう、な〜んも要らん。"

と度々言うので、強く怒ったこともあった。

"何で?!何でそんなこと言うの?
僕が頑張って お袋の介護してるのは、早く、つい半年ほど前のように歩けるようになって、欲しい物の買いに行って、大好きな温泉と大衆演劇を見に行けるようになって欲しいからやで!

大好きなパチンコもして、長生きして欲しいからやで。"


"朋幸に会いたいのは分かるけど、まだまだ元気でいて欲しい。自分から命を縮(ちぢ)めるようなことはせんとって!"

緊急処置を施してもらい 母を連れ帰った

私の孫のななみちゃんパワーで2日間は公園へ出掛けると食べた!

今思えば、私の亡くなった弟に申し訳無い。と思ったのではないか?と思うのです。

早くに亡くした 母にとっては 可愛い息子が 余りにも若くして亡くなったのに 自分は90歳過ぎて生きている。

分からないが、母には罪の意識があったのではないか?


だから、飲まない、食べないと決め愛する息子のところへ逝くことを覚悟したように思えてならない。

でないと、あんなに食することを拒否できるはずがない。


一週間前 呼吸が不規則になった。

息を吸うのも、息を吐くのも、苦しそうになり、ときおり、呼吸が止まった。

慌てて救急車を呼び、搬送してもらった。

搬送途中 酸素補給して、少しは収まったが会話は出来ない。

そして、入院すれば退院まで面会出来ないと言われ、痰の吸入、除去、極端に低い数値を示したカリウム投与で、母を連れ帰った。

母は"泊まらせて貰おうかな。"

あんなに息苦しそうにしていたのに、会話が出来た。

"お母さん、ここは病院。ホテルではないので。"と、言われ母を連れ帰った。

でも嫌な予感がしたのも事実。

こんなに痩せ細った体で 連れ帰るのは リスクがあることは十分承知しているつもりだった。

しかし、誰にも看取られないであの世に逝ってしまうのは避けたかった。

母との約束。
"家で死にたい。" とのたっての母の希望。
この約束は守りたかった。

退院後 自宅近くの かかりつけのクリニックで耳掃除、痰の除去、口からの酸素吸入は喉に管を通すので、苦しそうだったが 顔のフルコースのメンテが終わると 少しは疲れたようだがケロッとして、"アーしんどかった。"と軽口をたたいた。

2022年06月05日

呼吸をしていない!心停止?!

なんとか 皆の力を借りて、葬儀を終えることが出来た。

母が一昨日 呼吸が止まり、救急車を呼ぼうとするが、今までのように直ぐに繋がらなかった。

"お母さん、お母さん、大丈夫か?!
聞こえるか?!
しっかりして!
和哉やで!分かるか!聞こえるか?!"

時を争う。
母は苦しそうにはしていなかったが、何度 口や鼻に近づいても、鼻息は感じられないし、脈も無い。

胸も動かない。

こんなことは今まで一度も無かった。
スマホでの要求は諦め、固定電話から救急要請。
"心臓マッサージの仕方 分かりますか?"

"はい。"

"それでは、我々が到着するまで 続けてください。
どこで寝ていますか?"

"ベッドの上で"

"ベッドから下ろして、固いところへ移動させること出来ますか?"

"はい。"

"気道が確保できるよう、頭を下げて、強く、胸にマッサージ続けてください。"

"はい。でも、母は痩せ細って、強くやると肋骨(あばらぼね)が 折れる心配が。。"

"かもしれませんが、呼吸させるのが大事です。"

"はい。分かりました。"

頭がパニックになりながらも、心臓マッサージを続けた。


救急車は今迄よりかなり早く来てくれた。
救急隊員の方々が家には入るや否や、"代わりましょう。"と心臓マッサージをしてくれた。

やり方は同じだが、強さが違う。

"そんなに強くおせば、ほねが折れる!"

"いや、リスクがあることは分かってください。"

救急車に私と母が乗り、搬送先も三日前搬送された同じ病院の確保が出来た。

移動中に "心停止、マッサージ続けろ!脈拍は?気道確保 大丈夫か?"

懸命に 母の呼吸が回復できるよう頑張ってくれている。

"蘇生、延命は希望されますか?"

"はい。お願いします。"

2022年06月04日

母が天国へ逝ってしまった

6/3 21:30 母 永眠 天国へ逝ってしまった

飲むことも、食べるこも拒否する母

最近の母の口癖は "な〜んも要らん。" だった。

"アカン!そんなんアカン!!"と私
"アカンで、飲まず食わずで、お母さん こんなに痩せて!
体力、落ちる一方やで!"

"要らんねん。無理に食べさせんといて。"


母は最近 飲まず食わずのハンガーストライキ。
理由は分かっている。

立つことも、歩くことも、寝返りさえ出来なくなった自分が不甲斐ないのだ。

それと もうひとつ これが最大の理由。
私には4歳離れた弟がいた。

いた。そうなのだ。今は居ない。
今年で ちょうど10年。
10年前50歳で亡くなった。胃癌だった。

スポーツが大好きで、背が高くてハンサムで、ファッションモデルや役者をしていた。

優しくて、母ととても仲良しだった。

最近 母がよく言うのが 

"長生きし過ぎた。
朋幸(弟の名前)は50歳、私は91歳になってもうた。
朋幸より40年以上も生きとる。

もうエエ。あの世に逝きたい。"

と言うのが口癖になった。

"お母さん、それはちゃうで!
死ぬのは何時でも死ねる。
お母さん、自分で、歩かれへん。立たれへん。
な〜んも出来へん。て決めてるやろ?
ちゃうよ!
出来る!と思わんと。"

"エエねん。お前だけやのうて、みんなに迷惑かけとる。皆に迷惑かけてまで生きと無いねん。"と母。

オムツ替えを私になかなかさせ無かった母。

"男の お前にさせるわけにはイカン。" となかなかオムツ交換させなかった。

母も女性。
息子がオムツ替えするのは 抵抗があった。

最近はヘルパーさん達に 毎日オムツ交換に来て貰って 私はとても助かっているのだが、母にとっては大きな負担。

知らない人に 自分の全身を見られ、触られ、なすがまま、なされるがまま。

恥ずかしくて、不甲斐なくて。。
母の気持ちもわかる。

でも、出来なくなった時、誰かに手伝って貰ったり、逆に出来る時に 誰かを助けてあげたり。

お互い様と言うのが 生きていく上でとても大切だと思う。ひとりで生きている、生きているつもりでも、見えなくても、誰かの、何かのお世話になっていると思う。

母は潔く、物事にとらわれないサッパリとした人だった
"なるようにしかならん。と"よく言っていた。

何も食べようとしない母を、心配した娘が、孫を連れて会いに来てくれた。

"ばあば、食べて。"

すると、あれだけ拒否していた母が食べた!飲んだ!

"凄いね。私(私の娘)でも食べてくれへんのに。
ななみ(私の孫の名前)が言うと食べたね。"

その後も、"アーン、はい"と言うと 食べた。

この2週間 さすがに喉が渇くので、水やお茶、栄養ドリンクなど液体状のものは稀(まれ)に口にしたが、ご飯、大好きなおうどん、みたらし団子、三色団子など大好きだったものでも固形物は一切食べなかった母が ななみちゃんが口元に運ぶと 全て食べた!

"ありがとう、ななみちゃん。
ずーっと、ここに居てくれへんかなあ。"
"こんなに小さい(2歳 もうすぐ3歳)子でも、小さいからか、パワーがあるんやな。"と私。

"私でも食べてくれへんのにね。"と娘。

娘と孫が帰った後、

"な〜んも要らん。"と言う母に

"ななみちゃんが、ばあば食べてるかなあ" って心配してるよ。"と言うと 飲んだし、食べた。

ななみちゃんパワーを借りて、母に食べさせた。

このところ まともに食べないので、日に日に痩せ細り骨と皮だけになってきた母。

しばらくは ななみちゃんパワーで 食べて貰えそうだ。



2022年06月03日

感染のリスクは自己責任でも会えないの?!

本来なら、入院して治療をお願いしたいのだが、今の母にはそれらに耐えられる体力は無い。

元気な時なら "入院して、ゆっくりしてくるわ!"
と返すに違いない母。

誰にも看取られずに 最期を迎えるのだけは避けたい一心で、介護を続けている。

覚悟を決めたときから、大変なことは想像はしたが、こんなにも大変だとは思わなかった。

在宅介護をされているかたは 日本中では400万人を越え500万人にもなるそうだ。

これはあくまで、介護保険、ヘルパー、介護士、デイサービス等を利用していることからの数値なので、埋もれている方も多いはず。

コロナの奴のせいで、入院したら、基本 退院まで会えない。

最期 会えなかったご家族も多く、悔やんでおられる方々は日本中で相当おられるはず。

感染のリスクは自己責任との了解とれる場合は、入院中でも制限付きでも良いから、面会出来るように出来ないのだろうか?

最期を誰にも看取られない。と言うのは 人の尊厳を踏みにじっている。

基本的人権がないがしろになっていると思うのです。

2022年06月02日

救急搬送された母

今現在5/31火曜 深夜11:30にこのブログ記事を病院の待合室で書いている。

先ほど、母が救急搬送された。

前日は直ぐに収まったのだが、今日は終日息苦しそうにしている。

少し会話が出来て 毎日楽しみにしている車椅子での散歩は家を出て、公園に着く前にしんどそうなので引き返し、ベッドに横になった。

父に夕食を用意して、仕事に出かける準備。

母に "仕事に出るからね。" 
 "大丈夫?" (ホワイトボードでの筆談)

"うん、大丈夫や。"と笑顔で返事してくれた。

会話は成立している。
私がホワイトボードに書いたモノを 目で追って 読んで理解はしていて、母 自ら話す。

聞こえなくなったけど、大変そうだが話すことは 出来る。

でも、夜の仕事を終えて帰ってきたら、一昨日と違う。
目つき、呼吸、背中の曲がり具合

母は痛くても我慢して 滅多に痛いとは言わないので、"大丈夫!"と言うので 私には いつもと違う!と言うことくらいしかわからない。

タダ、見過ごすことの出来ない状態であることは 素人の私でも、分かった。

父に救急車呼ぶからと言ったら、"明日デイサービスやから、(看護師がいるので) 救急車なんか呼ばんでも大丈夫ちゃうか?"
と呑気なことを言う。
(父は 毎回デイサービスを楽しみにしている。)

事の重大さが分かっていない。

目の動きもいつもと違う。

前回の骨折の時と違い 今回は救急車は思ったより早く来てくれた。
母が呼吸困難に なっていること等 状態と毎日の生活ぶり等を説明。

その間、三名いる救急隊員の方々が手分けして血圧、体温、脈拍等 母の状態をチェック。

同時に受け入れてくれる病院を探してくれている。
前回の骨折の際には 大阪市内では受け入れゼロで、ヤキモキしたが、今回は割りと早く30分程で家から 車で15分程の近いところで見つかったので 一安心。

病院に15分程で到着すると看護師の方々が待っていてくれた。

母が呼吸困難になったこと、持病として、高血圧、肺癌を患っていること。

3ヶ月前の2月に圧迫骨折で入院していたこと、薬でアレルギー反応を示したことは過去無かった。事など担当の医師に説明し、
直ぐに病室に運ばれ、私は待合室で待機することになった。

1時間程して 先生から、カリウムが異常に少ない。呼吸困難になったのは痰が絡まっていること。
誤謬性肺炎の可能性があること。高齢で持病があるので、治療の出来る範囲が限られること。コロナ感染のリスクを避けるため、数週間の入院そして退院まで面会できないこと。

など詳しく色々と説明してくれた。

"先生、有り難うございます。
呼吸は出来るようになりましたか?"

ー"はい、痰の吸引、除去をしたので息苦しさは多少無くなったと思います。"
他入院して精密検査し、経過観察し、治療となりますが、延命治療は希望されますか?"と先生。

"先生、精密検査して頂く必要はありません。
延命治療は必要ありません。
入院も必要ありません。" と私。

自宅で父と母二人の介護をしていること。
自宅近くの かかりつけの病院に通院していること。
何と言っても、頑張っているのは、最期は自宅で看取るためであること。

両親と私とで最期は過ごしたいこと。
私が居なくて、母一人で亡くなってしまうことは絶対にさせたくないこと。

等を先生に説明し、了解を得た。

2022年06月01日

母の退院

"お母さんの退院の お迎えに一緒に行く?"

"しんどいので家で待ってる。"と父。

父は退院後は寝たっきりになっていたのだが、年より臭いオムツは嫌と言って、したがらなかった。
(父は89歳)

それで赤ちゃんのようにハイハイしながらトイレへ行こうとするのだった。

間に合わないことが多く、お漏らしする度に "アカン、ワシも終わりや。"

しばらく "あー、うー。"と聞こえるように呻(うめ)くのでそれを聞くのが辛かった。

"終わりや。"と言うのが本音ではないことは分かっている。
と言うのも、毎日 三食はきっちり食べたし、酒、タバコは止めなかった。

父が寝ている時に、私が自分の食事を用意していると、ガッと目を見開き "ワシも食べる" と言った。

そして、必ず言うのが "三食きっちり食べな アカン" といい食べ残すこともなく 出したものは平らげた。

母の退院は私だけで向かった。
帰り道 "何か食べたいもの無い? なんか美味しいもん食べて帰ろか?"と言ったら、

母は "何もいらん。家へ帰って ゆっくりしたい。"と言った。

家に帰ると父は寝ていた。

自力で歩くことは出来ない母を抱え、家に入った。

ベッドに寝かせると 直ぐに眠った。
高速使っても1時間ちょっとだったから、疲れたのだろう。

2022年05月31日

看護師も驚いた! 回復力が凄い母

波乱の年となりそうだ。

母は父のように 泣き言を言わない。

入院翌日 着替え等持って行き、面会できた。
母は "なるようにしか ならんから。" と明るく振る舞った。

肺癌が見つかったことは言う必要も無いと思い、敢えて言わなかった。

10日ほどすると、経過は順調で、座ることも儘ならなかったのに、ベッドに座って食事が自力で出来るようになり、手押し車で介助してもらえば、トイレにも行けたらしい。

"お母さん、明るい方ですね。
よく冗談言って笑わせてくれます。"

"そうなんです。泣き言を言わない強い母なんです。"

"順調なので、来週には退院出来そうですよ。"

退院後は自宅療養すればよく、自宅近くの総合病院の紹介を受けた。

"お母さん 良かったね。もう、退院出来るんやて!
座って食べれるようになって良かったね。"
"あれだけ痛かったのは どう?"

"ほれ、こんなに腕回しても全然痛くない。"

と自慢げに腕を回すので、
看護師の方から 
"ダメですよ。まだ完治したわけでは無いので、また、痛くなりますよ。"

2022年05月30日

父と入れ替わりに 今度は母が入院

自宅療養となった父は 河豚(フグ)を食べて大満足。

"生き返った!病院食は 味気(あじけ)無いもんばっかりや。
マヨネーズやら、ソースやら、醤油かけな食べれたもんや無い!"

と美食家ではないのだけれど、朝・昼・晩と三食きっちり食べないと、まだ、今日はまだ、食っとらん!と騒ぐ。

本来なら 転院先で まだまだ、1ヶ月は療養とリハビリが必要。

"しばらく寝たきりになるでしょう。"
と担当医からいわれた通り、寝たきりに。

でも、三食とお酒、タバコは止めない。
止めるつもりなど毛頭無いようだ。

父も今年の誕生日で90歳、年齢には不足はない。

そして、この父の帰宅から一週間経った土曜日のデイサービスを断った夜 

母が身体中 痛がり救急搬送され入院となったのだった。 

詳しい経緯は先日のブログで書いたけど、背骨2本を折る "圧迫骨折"、 同時に"肺がん"も見つかった。

2022年05月29日

脳梗塞なのに、家に帰ると言って聞かない父

日頃 新聞の折り込み広告など、滅多に見ないのだけど、その日は新聞の整理をしていてたまたま求人広告が目に入った。

朝と夜シフト制、朝2〜3時間、夕方2〜3時間。
合間は自由時間とあった。


まさに探していた条件にピッタリ。
自宅からも近い。

即問い合わせし、面接を受けた。

先方の希望と私の希望条件がピッタリ合致!

すぐにでも働いてほしい。
と言うことだったので、翌日から勤務。

翌朝6時から10時迄で、朝の勤務終了。

自宅から10分ほどなので、帰ってすぐに朝食の用意。

夕方5時に自宅を出れば 夜の勤務に間に合うので、それまで、掃除、洗濯、買い物、少し仮眠も出来る。

晩御飯の用意をして夜の勤務へ。
バスの送迎なので馴れているから 難しい仕事ではなかった。
ルートさえ覚えれば 仕事には直ぐに慣れた。

この頃は父も母も 介助が無くても、自分で食べることが出来たので、作って、父がレンジで温めれば済むように調理していた。

数ヵ月して、年明け 父が脳梗塞で入院。
4回目の脳梗塞での救急搬送。
どうも、血栓が出来やすくなっている。
という担当医の話。

"お酒、タバコは止めませんか?"
1回目の入院の時にも言われたのだが。

父は止めない。
病院内では、当たり前だが 酒、タバコは厳禁。

救急搬送だったので、何時までも その病院には入院出来ない。と言うことだった。

引き続き療養、リハビリが必要と言うことなので 転院先の病院を紹介してもらい 紹介状を持って、転院先を決め 父に "次の転院先が決まったから、来週末 ここを退院して次の病院で、療養とリハビリお願いしてきたから。"
と説明した。


すると"アカン!家に帰る!"

"先生が説明してたやろ?
まだまだ脳梗塞の治療とリハビリが必要。って言ってたやろ?"

すると父は
"自分の体は 自分が一番分かっとる。"
なので。家に帰る。今から帰る。"
と聞かない。

先生にそれはダメです!と言われても、"帰る"の一点張り。

理由はわかっていた。
酒とタバコ!
2週間ほど我慢していたけど、あれやこれや理由をつけて"家に帰る"。と。

担当医の先生も困り果て
"分かりました。自宅療養としますか?"

母と翌日 父を迎えに行った。
帰り道 父が河豚を食べたい。というので、一応退院祝いと言うことで、フグを食べに行った。


それから僅か一週間後に 母が入院することになるとは想像だにしていなかった。

2022年05月28日

毎月の出費が大変になってきた。仕事探し。

やっぱり 一人で父と母 二人の介護は無理なのか?!
自問自答

ケアマネージャーさんからは言われていた。
"一人の介護でも大変なのに 男のあなたが、炊事、洗濯、掃除 これだけで大変なのに そこにお二人の介護。
貴方が倒れますよ"と。

気力、体力には 理由もなく自信が有った。
無理と言われたら、それじゃあ
やってやろうじゃないか!と負けず嫌い。

変に意固地なところがあるのは 自分でも分かっている。

やれるところまで やってみようと決心して半年。

やはり言われた通り。
色んなところに綻(ほころ)びが出てきていた。

それほど深刻にならずに、前向きに明るく楽しく。
を心掛けているのだが、仕事も掛け持ちしての介護なので、時間に追われる毎日。

自分の自由な時間は どんどん無くなっていった。

父・母とずーっと一緒に居ての介護だと滅入ってしまうのは想像がついたので、介護しながら出来る仕事を探していた。
朝から晩まで拘束される仕事は無理なので、何か良いのが無いか?

そんな都合の良い仕事が すぐに見つかるわけもなく、時が過ぎ 金銭的に逼迫することもあった。

何せコインランドリーのクリーニングだけで 月に4万円
オムツ代が月に2万円 介護食等が月に8万円 デイサービスに 二人週に二回で3万円、ヘルパーさんに毎日オムツ替えに来てもらうので2万円 これは毎月 必ず出ていく出費。

これに電気、ガス、水道、携帯電話(ネット)、テレビ等の光熱費や社会保険料や各種税金。

毎日のように湯水のごとく、出費があり、遣り繰りが大変になったことと、家にずーっと居ると気が滅入るので 一石二鳥を狙って、仕事探し。

そして、運よく 早朝2、3時間、夕方からまた、2、3時間。この合間の時間に 介護が出来る!と。

2022年05月27日

言ってはいけないことを言ってしまった!

なるようにしかならない。

よく分かっている。つもりだし、わかろうとするけど、これがなかなか難しい。

介護はやっても、やっても終わりがない。
ゴールなんて無いんだけど、何処を目指してやっているのか?

虚(むな)しくなるときもある。

母の "迷惑かけるねえ。有り難うね。"
が時に悲しくもなる。

元気になって、自分で立ち上がって、トイレ行って、食べたいもの買ってきて、パチンコへ行って、顔馴染みの人と井戸端会議に花を咲かせて楽しそうにしていた 以前の母になってくれれば。

全部無理でも、どれかひとつをきっかけに明るい、冗談を言う母になってくれれば。

多くは望まない。

日に日に弱っていく母を見るのはつらいし、無力感に苛(さいな)まれる。

"ゴメンね。迷惑ばかりかけるねえ"

こう言わしてしまった自分。

ある日 いつものようにテーブルに置いてある味噌汁やらお茶を飲もうとしたとおもうのだが、目を離したときに

テーブル下のマットがべちゃべちゃ。

つい、怒ってしまった。
"しっかりしてや。"

言ってはいけない暴言を放ってしまった。
"僕がどんだけ困っているか、分かってる?"

母は "本当に、すまないねえ。申し訳ないねえ。"
いつになく 本当に、本当に申し訳なさそうに言った。

2022年05月26日

介護している私が病気になってしまった!

朝と夜の仕事は大変だけど、ある意味 息抜きになっている。ずーっと父と母の介護していると正直 兎に角疲れるのだ。

そんな時には良いことは考えない。
悪い方へ悪い方へ自分を追い込んでしまう。

そんな気弱になっている時に、父の問題発言。
"長島三奈は偉いなあ。結婚もせんと、ずーっと親の面倒見てる。"


"何それ?当て付け?!"と私。
"先方は巨人軍の永久名誉監督で、毎年数千万円の報酬。お手伝いさんも居るらしいやん。"

すると、父は
"子供が親の面倒見るのは当たり前"と言った。

別に誉めて欲しくはないけれど、物心がついたときから、誉められたことはただの一度も無い。

それなりの難関とされる国立大学に合格したときも、"学費はどうするんや?"

払ってくれるとは思っていなかったので
"学費は全て自分で稼いでやるから。"と言った。

18歳の時から父には一円たりとも世話にならなかった。
意地でも全て欲しいものは自分で稼いだ。

流石に結婚費用は 母がこそっと用立ててくれた。
"お父さんには内緒やで。"と言われて流石に参った。

翌日から、父の顔を見ると吐くようになった。

自分で言うのも何だが、結構な大食い。
でも、美味しくない。

食べても、父が咳払いしただけで吐くようになった。

おかしい。医者に診てもらった。

"ストレスで、心身ともに参っているでしょう。
正直に言ってください。自殺願望、死にたい。と考えたり、思ったりしていませんか?"

図星だった。

このところ死ぬことばかり考えている。長生きしたくない。このまま寝て、フーッとあの世に逝かないかなあ。と思ったり、考えたりすることが多くなったことを伝えた。

"介護されるご家族 殆どと言って良いくらい皆さん、同じように悩まれ 心身ともに疲弊して大変です。

薬に頼るのは常習化し、常用するようになるのは危険だし、嫌だったので、カウンセリングを受けることにした。

2022年05月25日

ケアマネージャーさんに愚痴やら悩み事、相談にのってもらった

翌朝早くに仕事があるので、最終電車に間に合うギリギリ迄母に付き添った。

その間 病院直属のケアマネージャーさんによる、今後の治療計画や、ここに至るまでの家での生活ぶり等訪ねられた。
"悩みごと、困っていること。
やってほしいこと。何でもおっしゃって下さい"
ととても親切だった。

私が父と母 二人の介護をしていること。

今回は母が救急搬送される一週間ほど前に父が脳梗塞で入院終え退院して、自宅に戻ったばかりであること。
父と母の二人が自宅に揃ったと思っていた矢先に 今回の母の骨折で入院になったこと。

ここしばらく、アレコレ考えて寝れないことなど。
毎月介護に関わるお金の事など色んな話を聞いてもらい、とても落ち着いた。

最終電車に何とか間に合い、自宅に着いたのは 夜中の1時頃だった。

早朝6時には仕事に行かないといけないので、床についた。

2週間ほどの入院になるだろう。と言うことだったので、翌日、仕事が終わってから、血圧の薬や着替えや、おやつ、入れ歯、補聴器などを用意して持って行った。
(おやつなど食べ物は差し入れ出来ないと言うことで持ち帰った。)

普通ならコロナのヤツの影響で退院迄 会えないそうなのだが、誰も患者さんがいないロビーに母を連れてきてくれた。

思った以上に元気そうで、朝ごはんも介助無しで、自分で半分は食べたそうだ。
ホッとひと安心。

"また、来るね。"と言って、夜の仕事場へ向かった。

2022年05月24日

チョット転んだだけじゃなかった。

そのチョット転んだだけから、更に寝込む日が多くなり、デイサービスにも"しんどいから寝とく"と言って 行かなくなる日が多くなった。

でも食欲はまだあり、私の料理を"美味しい"と言ってくれた。食後には 甘いものも食べていた。

"次は デイサービス行こな。"

"うん、わかった。"

でも、デイサービスのヘルパーさんが迎えに来ると、"今日は止めとく。しんどい"と断り、そんなことが続いた。

ケアマネージャーさんにも 説得してもらいに来てもらった。

でも、母は行かなかった。


そして、体のアチコチが痛いと訴えるようになった。

"ほら、少しでも動かないと。本当に寝たきりになるで。"

無理にでも連れて行って貰おうとしたある日

"痛がり方が、いつもと違った。"

なので、"スミマセン今日も止めときます。"

その夜 母は更に痛がった。

体に触れるだけで 痛がるので これは何かある。
と思い救急車をお願いした。

ところが、このコロナ渦なかなか搬送先が見つからない。
救急車が来てから、1時間経過。
救急隊員の方も 申し訳なさそうに
"お母さん、もうちょっと待ってね。痛くない?"
と気遣ってくれる。

体温、血圧、脈拍は特に異常なく、正常。

"息子さん、スミマセン。大阪市内全滅です。"
数百ある病院全てが受け入れてくれない。

そんなことあるのか?
隊員の方も、お手上げ。
これでは出血など伴う重傷者は助かる命も助からなくなると思った。

"やはり、ダメです。どこか心当たり無いですか?"
と逆に私に聞かれた。
"隣の尼崎市はどうですか?"

"ダメなんです。大阪府内しか分からないんです。他府県との連携は出来るシステムになっていないという事をその時初めて知った。

このネットワーク社会。
メタバースとか、仮想の世界は進化しているのに、現実世界はこんなことに。

"スミマセン。大阪府全域に拡げます。"

この時点で二時間程経過、ようやく枚方市に受け入れ先が見つかった。

私も救急隊員の方もホッとして受け入れ先へ向かった。
結局病院に到着したのは夜の11時頃。救急要請してから3時間半程かかった。

救急隊員の方にお礼を言って、あわただしく次の要請箇所へ向かわれた。大変な仕事だ。

病院では院長先生が対応してくれ、CT検査。
血相変えて、先生が"これ、見てください。白く濁った影、ここです。"

"癌ですか?"と私。

"恐らく。肺がんです。私としては、骨折箇所が2本見つかったので、そこの処置をしますが、精密検査を受けられた方が良いと思います。"

母は50代で乳ガンを患い、切除していた。
それから、30年経過しているので、転移ではない。

しばし、考え、"先生、骨折を治して頂くだけで大丈夫です。母の年齢から考えて、CTなどやMRI等の放射線での検査、抗がん剤治療など、耐えられるものではないと思います。治療が体力を奪うことになりかねません。年齢から考えて、癌の進行はそれほどではないと思うんです。どうでしょう?間違ってますか?"

先生も "そうですね。骨折治療を優先しましょう。"とおっしゃってくれた。

"痛みが取れて、歩けたら、私はそれ以上は望みません。"と伝えた。


2022年05月23日

母が転んだ原因は父

自分では立つことも、歩くことも出来なくなり寝て、食べるだけの毎日なので、"生きてる意味がない。いつまで こんなことしてるんやろ?"

"早よ、お迎え来えへんかなあ。"と。

その横で 呑気に酒飲んでタバコ吸って "まだ、何も食べとらん" と言う父。

元はと言えば、母が立つことも、歩くことも出来なくなった原因は父にあると思っている。

直接の要因は家で転んで、救急搬送された先で分かった 背骨2本を折る 圧迫骨折。

しかし、転ぶくらいに足が弱くなったのは 歩くことなく、家に居ることが多くなったからだと思っている。


それまで(つい半年ほど前まで)はあまいものが大好きで、"三色団子"やら、"みたらし団子" や饅頭など スーパーへ自分で欲しいときには買いに出かけ パチンコが好きなので、パチンコ屋さんで、顔馴染みの人と"だんご" 食べながら世間話をしているのを 良く見かけた。


しかし、問題の父。
そこへ "何やってるんや!はよ、帰ってこい。"と。

私が "ええやん、気晴らしやん。"
人と話したり、パチンコはボケ防止にもエエし、歩くことで健康維持にもなるんやから。"

すると、"そんなことはない!と言いきる父。
人に言わせると "お父さん 年取って寂しいんやで。"


でも、昔からそうではないことを私は見ている。

母がちょっと居なくなると機嫌が悪い。
回覧板を渡しに行った お隣さんと世間話を10分以上でもしていると "何してるんや!早よ帰ってこい。" とわざわざ言いに行く。

私が 父に 
" お母さんに 何か急いで してもらう用事でもあるんか?"

特段何も無い。

みっともないから、止めとき。と言っても直らなかった。今から40年以上前 まだ父40代。

父が仕事から帰ってきて、母が居ないと買い物に行っただけなのに機嫌が悪い。

"何時間買い物しとるんや?!"
"必要なもの、チャット買って、サッサと帰ってこい!"と。

子供ながらに 変な親父やなあ、おかんもたいへんやなあ。と思っていた。

そんな私が物心ついたときから、父の母へのある意味 "監視、干渉"ともいえる、今なら"ストーカー"ともいえる行いにはウンザリしていた。

そんな母も90歳になり、相変わらずの父の監視にホトホトつかれ、出かけないようになり、家に居る時間が多くなり、横になってテレビを見るだけの毎日に。

"アカンで、外に出て、おひさん浴びて、歩けるうちは歩かな。足腰弱るで。"

すると、母は "面倒臭くなってな。いちいちお父さんが "何の用事があるんや、"言うてな。"

"アカンて、そんなこんな親父の言うこと無視してエエねん。"

しかし、家に居て寝てばかりの生活は変わらなくなり、思った通り
トイレへ行くにも、立ち上がるのが大変なようになっていった。

"ほれ、言わんこっちゃない。お母さん、足だいぶ弱ってきてるで。"

そんなある日、家で 何かにつまづくでもなく転げてしまった。

"大丈夫か?"
"うん、大丈夫や。チョット転んだだけやから。"




2022年05月22日

楽しみのデイサービスのはずが。。

腰を悪くしてから、毎日オムツ交換にヘルパーさんにきてもらうようになった。

週に二回 父と母 二人は半日のデイサービスにもお世話になり、その間にシーツ替えや洗濯物、食器洗いや、買い物等出来る。

デイサービスでは食事や入浴もしてくれ、レクリエーションもあるようで、父は楽しみにして喜んで行っている。

介護保険の範囲内ですむので持ち出しは僅か(一人一日で2,000円ほど)。

しかし、僅かのお金でもお金を使うのを嫌がる父には無料、タダと言ってある。

母も当初は楽しそうにしていたが、次第に行くのを嫌がるようになった。


出来ることが少なくなり、他人様のお世話になるのが嫌なようだ。

母には"ちゃんと介護保険言うて払った上にサービス料金払っているから、お客さんのつもりでエエねんで。"と言っても、"迷惑ばかりかけて申し訳ないねぇ。"と。

つい一ヶ月前には食事も美味しくて完食していたようだった。
レクリエーションの時間には 特にクイズは答えることの出来る問題のようで得意気に"殆ど解答出来たんやで。"と自慢していた。

しかし、次第に落ち込むようになり、行くのを躊躇(ためら)うようになった。

2022年05月21日

オムツ替えがこんなに大変とは思わなかった!

オムツ替えなんて娘達が産まれた時以来数十年したこともなかった。

パンツ式、パッド、両側装着式等やサイズも成人用なので色々あることなんて知らなかった。

パンツ式が簡単そうなのでそれにした。

翌朝見ると、漏れが大量でオムツをしている意味が無かった。

両側をシールで挟み込むタイプと併用。

それでも、漏れは大量。
薬局で相談にのってもらい、パッドをして、パンツ式をして、その上にシールでの装着式と三枚重ねにした。

これなら大丈夫と思ったが、夜寝る前に装着し、翌朝見てみると、漏れは止まっていなかった。

漏れているので、シーツや毛布、着ているものも濡れている。
まだ早朝は肌寒いので、風邪をひかないか心配だった。

母に "寒く無かったの?"と聞いても、オシッコをしていることもわからない様子。

下半身は殆ど感覚が無いらしい。

ネットやYouTubeでいろいろ調べたり、ケアマネージャーさんに聞いても 漏れは止まらなかった。

そこで私なりに編み出した最善のオムツ装着は、

先ず小さめのパッドを局部に伸ばしてではなく、ギャザーを作るようにして装着。
その上からちょっと大きめのパッド。
そしてパンツ式を履かす。
最後に両側がシール式のオムツとした。

つまりパッド2枚、パンツ式、シール式と4枚。

お尻が ごわごわして気持ちよくないと思うのだが、母は特段文句は言わなかった。

この4枚だと 漏れはなくなった。

でも毎日2回から3回オムツ取り替え。
8枚〜12枚のオムツ替え。
母は自身では動けないので、わたしが右向かしたり、左向かしたり、仰向けにしたり、母も大変だろうけど、わたしの腰にも相当な負担があった。

そして、お風呂へ抱えて入浴させるときに とうとうぎっくり腰になってしまったのだった。

ケアマネージャーさんから "あなたが 寝込むようなことになったら、それこそ大変"と言われ、
ヘルパーさんに毎日来てもらうようになってからは
ずいぶんと楽になった。

しかし、、思ってもみなかった新たな問題がおきた。









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感想(5件)



2022年05月20日

あんたが倒れて、寝込んだらどうするの?!

気を失って倒れるなど 今まで一度も無かった。

ヨーロッパ旅行の際には、47度の熱波襲来のなか、二日ほど飲まず食わずでも、インドのガンジス川で、死体が流れてくる泥水を呑んでも びくともしなかった。

体力には自信が有ったけど、そりゃそうだ。

あれから数十年経過している。
体力は確実に衰えている。

いつものように お風呂場へ母を抱え、入浴させていた。

そんなある日、ギクッ!


どうにもこうにも痛くて、痛くて動けない。

何とかベッドに母を抱えて寝かせようとしたが、無理だった。

ケアマネージャーさんにもう少しのところで、ベッドへたどり着きそうなんやけど。

と事情を説明し、来てもらった。

"無理やで。何でもかんでもやろうとするのは。"

"あなたが倒れて、寝込んだら、どうもこうもいかないよ。"

"頼めるものは、頼むようにしましょう。"と言われ

母のオムツ替えは毎日来てもらうようにした。

2022年05月19日

ここはどこ?気を失った!

ヨーロッパをバックパックを担いでの一人旅から 
うん十年。

父も母も 当然私も年を取った。

父も母も 齢(よわい)90歳になり、物忘れが顕著になり、話の辻褄(つじつま)もだんだんと合わなくなってきた。

私もいずれ物忘れするだろうし、からだの自由も利かなくなるだろう。

今なら、ハッキリと思い出せるヨーロッパ旅行を今の内に書き留めておこうと思い、ここまで あれやこれや書いている。

父も母も 一年前とは 随分変わってしまった。

いまでは、一週間で状況が変わるほどになってきた。

1か月前は ど素人の私の手作りの料理を何でも "美味しい!美味しい!"と食べてくれた。

和洋中とレパートリーも増え、大抵のものは作れるようになった。

しかし、排泄も食事も次第に儘ならなくなってきた母。

介護のかたに自宅へ来てもらい、オムツを毎日交換してもらう度に

"ゴメンね。申し訳ないねぇ。"と
何度も何度も繰り返す。


年初めから つい一月前の4月迄は 私が母のオムツ替えをしていた。

最初は "息子のお前に オムツ替えしてもらうのはアカン" と言って交換させてくれなかった。

でも、布団から毛布から着ているものまで、全てが糞尿の排泄物で濡れ、異様な匂い。

有無を言わさず、私が強行に"総替え"。

そのたびに、毛布から布団から着ているものを車に載せコインランドリーへ走った。

それは 早朝だったり、夜中だったり、次第に寝る時間がなくなり、1日2時間ほどしか寝ない日が二週間ほど続いた。

体力には自信が有ったけど、とうとう倒れた。

倒れたというより、気を失った。

父と母は一階で寝ている。
私は二階。
寝たつもりでは無いのに 気付いたときには 洗濯物を持って倒れていた。

時計を見ると5時間ほど経過していた。










2022年05月18日

ドイツ〜オーストリア〜スイス〜イタリアへ

ドイツからオーストリア、スイスへと南下し、イタリアへ

兎に角ユーレイルパスが使える国を制覇するためちょっと強硬だったけど、ドイツ・ミュンヘンからオーストリア・ウィーンを目指すことにした。
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さすが"芸術と音楽の都" ウィーン

世界遺産のシェーンブルン宮殿(↓左)の広さと優雅さに圧倒される。ヨーロッパの博物館、美術館、宮殿は どこもそうだったけど、寝室やトイレなど結構裏側も見せてくれる。あのモーツァルトもマリーアントワネットもここにいたことがあるらしい。

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(↑右 ウィーンの中心にあり、シンボルとも言えるシュテファン寺院。

ここから南に続く歩行者専用道路は"ケルントナー通り" で両脇にはたくさんのお店やカフェ・レストランが並ぶウィーン1番の目抜き通り。
10分ほど歩くとウィーン国立歌劇場に着きます)



その後、陸路でスイスからイタリアへ国境を越え、そこからミラノ・ヴェネチア・サンマリノ共和国・ローマ・ナポリ・ポンペイまで1,500km、鉄道で旅をする。

スイスのジュネーブからイタリアのヴェネチアを目指すことにした。
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ジュネーヴ。
精密機器や時計製造など、産業においても古い歴史を持ち、カエサル(シーザー)の遠征紀『ガリア戦記』のなかの、ゲナウァは現在のジュネーブらしい。

WHOをはじめとする各種国連機構が200以上も集中しているらしく、世界中から有力者が集まるため高級感が漂い、貧乏旅行の私は場違いなところにいる違和感を感じた。

ジュネーブからローザンヌ間は鉄道で1時間ほどのレマン湖へ。美しい景色にうっとり。

スイスの多くの部分はドイツ語、一部はイタリア語。とガイドブックには在るけど、スイスの南の方では市場の 野菜を売っているおばさんが、ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語を自然に違和感なく普通に話して入るのを目撃して、ビックリ。
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2022年05月11日

ドイツから南下


ドイツのライン川下りを満喫し、南下。

ドイツ観光人気ナンバーワンと言われるノイシュヴァンシュタイン城(↓左)は緑に囲まれた白鳥城。

まさに、夢のような美しさ。

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スイスでは「トップ・オブ・ヨーロッパ」で有名なユングフラウヨッホの麓の村グリンデルワルトと、マッターホルンがそびえるツェルマット(↑右)で大自然の絶景を堪能。

迫力ある山並みと、雄大な大自然と、高山植物の群生。



今なら、ドイツが誇る最高時速300kmの高速列車「ICE:インターシティー・エクスプレスInterCityExpress」が毎日数 便、クールまたはインターラーケンへ運行しているようですが、当時はICEはまだまだ走っていませんでした。

ドイツからスイス間の鉄道は、フランクフルトからハイデルベルグ経由でスイスの国境の町バーゼルに行くルートと、ハイデルベルグからシュトゥットガルト経由でスイスの国境の町シャウハイゼンに行くルートの主に2つの鉄道ルートがあったので、バーゼルからスイスへ。

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チューリヒやベルンなど都会だけど、とにかく町並みが美しい


大きく湾曲するアーレ川に囲まれたスイスの首都ベルン。
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アルプスから注ぐ水は美しい緑色。街は千年前に要塞都市として作られ、中世の姿がそのまま残されています。旧市街の外れにあるバラ公園から街全体を見下ろすと世界遺産に登録される由縁が分かります。

2022年05月06日

ドイツのライン川下り 囚人体験が出来た!



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次に
延々1,320kmを流れる「父なる川」ライン。

その流域にはぶどう畑がのどかに広がり、切り立つ河岸には伝説を秘めた数々の古城が佇み、ハイネが詩に詠んだロマンチックな風景が広がる。

 ライン川流域にはベートーベンの生誕地として知られる学園都市で、第二次世界大戦後はドイツの首都だったボンや、世界遺産にも登録された大聖堂がそびえ立つケルンなど、特色ある町が開けています。


何といっても自然を満喫するなら"ライン川下り"
ライン川観光のハイライトはコブレンツ〜マインツ間約65km。ロマンチックラインと呼ばれ、歴史と伝説が息づいています。
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中世以来の景観が残されているコブレンツ〜マインツ間は、世界遺産に登録され、30以上の古城や城跡が見られます。


コブレンツはライン川とモーゼル川の合流点に位置するローマ時代からの要塞都市。堅固な要塞からの眺めは雄大。

その要塞で宿泊出来、窓が鉄格子になって囚人体験みたいなことが出来ました!
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元々はお城だったものを 要塞にしたようです。

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2022年05月05日

ドイツへ

北欧3ヵ国を満喫し、南下。
デンマーク、オランダ、ドイツへと移動。


リューベックからドイツを南下することにした。
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リューベックは かつてバッハも過ごした、ハンザ同盟の中心都市。とんがり屋根の2つの塔を持つホルステン門が町の入り口にそびえていた。

次にブレーメンへ。
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ブレーメンは10世紀ごろには貿易港として栄え、赤レンガの美しい町並みは『ブレーメンの音楽隊』の童話の世界そのもの。

そしてハンブルクへ
エルベ川のほとりに開け、アルスター湖を中心に運河や水路が縦横にめぐる美しい港町。ドイツでも屈指の商業都市で大都市で、活気に溢れていた。。

2022年05月04日

フィンランドってどんな国?ソ連の脅威はある?

※中々ブログ更新しませんでした。出来ませんでした。
読んで頂いている読者のかたにはスミマセン。

親(父・母)の介護と仕事で 心身ともに時々 変調をきたし、精神的に不安定になることがあり、大人しくしていました。

そんなときでも、仕事に出掛けたり、ブログ書いたりすると、落ち着いたりしたのですが、今回はちょっといつもの自分と違って。。

(前回からの続き)
フィンランドは 当時の ソ連とスウェーデンに挟まれた人口僅か500万人程の国。
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ヨーロッパではどの国もそうだけど、数か国語を殆どのひとが操れる。

フィンランドに入ってはじめて知ったのだけど、お隣のスウェーデン語は公用語。

スウェーデンにもソ連にも支配されていた時代があるようで、フィンランド語、スウェーデン語、ロシア語、英語と普通に4ヵ国語を話すようだった。


中立を保つためだと思うが、北大西洋条約機構(NATO)にも欧州諸共同体(EC)にもワルシャワ条約機構にも加盟しなかった。

ただ、当時はそうだけどのアフガニスタンへの進攻があり、それなりの緊張感はあったが、割りと普通に旅行出来た。

知り合った何人かのフィンランド人に聞いても、ソ連とはずっと国境接しているし、今さら特に脅威は感じない。ということだった。

旅行先で、印象に残っているのは、
特にトゥルク(↓)。
トゥルク大学やトゥルク城があり、昔は首都だった事もあるようで、古きよきフィンランドの町並みが楽しめた。
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フィンランドと言えば、ムーミンとオーロラだけど、オーロラは秋から冬でないと、見れないということで、断念。

2022年04月19日

"行くな!"と言われたら、行きたくなる

ノルウェーのベルゲンでソグネフィヨルドを観て自然の偉大さに圧倒された。

そこからスウェーデンのストックホルムへ。
その頃スウェーデンは全裸で解放されているビーチ"ヌーディストビーチ"が知られていて、ヒッピー運動とも合間って、"性の解放"自然に戻ろう!というムーブメントがあった。
興味はあったが、自信が無かったので、スルーすることにした。

フィンランドはその頃 危ないから行くな!と多くからアドバイスを受けた。と言うのも、後の"モスクワ オリンピック"ボイコットに繋がる1979年12月に始まったソ連のアフガニスタン侵攻がまだ、続いていて、ソ連と接するフィンランドは危険地域と言われていました。

"危ない"と言われれば、余計に見たくなる。行きたくなる。

それなりに、情報をノルウェーやスウェーデンで仕入れて、ストックホルムから鉄道で、フィンランドのヘルシンキを目指した。

移動は"ユーレイルパス"という万能の旅行切符があるので助かったが、大変なのは、両替。

今なら"ユーロ"という共通貨幣があるけど、その頃はヨーロッパのいっても、それほど広大な地域でも無いのにも拘らず、ちょっと移動して国境を越えれば、言語も通貨も違う。

"トラベラーズチェック"と言って、旅行者用の小切手を持ち合わせていたけど、小さなお店では 現金のところが多いので、それぞれの国の通貨を用意しないといけなかった。


例えば こんな感じ

〈ノルウェー〉
■通貨:ノルウェ−・クローネ
■言語:ノルウェー語
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〈スウェーデン〉
■通貨:スウェーデン・クローナ
■言語:スウェーデン語

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〈フィンランド〉
■通貨:ユーロ 
■言語:フィンランド語、スウェーデン語、サーメ語
〈デンマーク〉
■通貨:デンマーク・クローネ
■言語:デンマーク語

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2022年04月16日

ユーレイルパスを使いきるぞ。計画変更

"ユーレイルパス"は大いに役立った。
こうなったら、ユーレイルパスが使える国は全て行ってみようと計画変更。

当初はイスラエルの"キブツ"で世界中の若者とアルバイトして、資金調達も考えたのだが。
(今で言う"ワーキングホリデー"のようなシステムが当時のイスラエルで流行っていました)

ベネルクス3国の次は北欧を目指した。

デンマークから船でスカンジナビア3国(ノルウェー、フィンランド、スウェーデン)へ行くことにした。

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フィンランドではフィヨルド、フィンランドでは、当時のソ連どの国境がどうなっているのか?
体験・この目で観察したかった。

デンマークのオーデンセからフィンランドのオスロへ定期便が出ているのを確認し、そこからベルゲンへは鉄道を利用することにした。

フィンランドではオスロ大学の寮が夏休みの間 ユースホステルとして、利用できた。
近くに本格的なサウナもあり、それまで、湯船に浸かることなく、シャワーばかりだったので、久々に温泉気分が味わえた。

※トゥルク大学の寮は快適だった。
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2022年04月10日

ヨーロッパ

ベルギー ブリュッセルでの不思議な体験は"デジャブ(予知夢)だったのか?

分からないけど、本当に不思議だった。

ベネルクル3国(ベルギー・ルクセンブルク・オランダ)は繋がっているのでかんたんに廻れた。
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オランダと言えば風車とチューリップとゴッホは欠かせない!
東京駅のモデルとも言われているアムステルダム中央駅から
レンブラントの『夜警』やフェルメールの『牛乳を注ぐ女』をはじめとする名画が揃う、オランダ最大の美術館

アムステルダム国立美術館へ

『アンネの日記』で有名なアンネ・フランク一家がゲシュタポに発見され、アウシュビッツの強制収容所に送られるまでの2年間を過ごした隠れ家が、博物館として公開されているので、立ち寄るが、博物館として建てられたわけではないので、当然だが、狭い、普通の家。

ここから、少し行けば"飾り窓地区"
夜と日中では景色が一変する。
セクシーな装いでガラス窓の中から客引きをするお姉さまたちをみることができます。がしかし、日中は家族連れも普通に散策する通りにあった。

2022年04月02日

来たこと無いのに、路が分かった!

パリ ノール駅(北駅)からベルギー ブリュッセルへ

もう、とにかく美しい おとぎのような国!
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中世時代の面影を残す街やルネサンス建築がそこかしこに

どこを撮っても、今ならインスタ映えしそうなところばかり。ブリュッセルの"小便小僧" はガッカリしたけど。
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ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる 人口僅か1,000万人ほどの国。

なのに、
EU 本部や NATO 本部が置かれていたり。

北部フランドル地方はオランダ語圏、南部ワロン地方はフランス語圏、東部地方はドイツ語圏といったように、それぞれに固有の風土を持つ地域で構成された国。

なので、普通の露店のおばさんが、見事に4ヵ国語、5ヵ国語を普通に話しているのにビックリ!


ブルージュはベルギー観光に欠かせない。

ここで不思議な体験をすることに。
タバコを切らしたときのこと。

小店は見渡したところ無い。

でも、小さな運河の路地裏に誘われるように進んだ。
何と道が分かった。以前通ったことの記憶がある。

そんなはずはない。
今回が初のヨーロッパ旅行。

すると、小さな、小さなお土産屋があった。
中へ入った。
気の良さそうな店主らしき人がいた。
お客さんはいなかった。
何と、"セブンスター"が置いてある!

店主らしき人に"これって日本のタバコですけど、珍しいですね?"

"特に、日本を意識したわけではないけど、パッケージのデザインが綺麗やろ?"
"なんで、置いてある"ってことだった。

久しぶりの日本のタバコ。有り難かった。

やはり、以前通った記憶がある。
なので、地図無しで道に迷わず散策出来た。

2022年03月31日

パリは見所がいっぱい!パリ駅が無い!!

気分よく パリへ。

日本だと東京駅や大阪駅は一つ。

ところが!ところがである
"パリ駅"がいくつもある!!

・サンラザール駅(Gare st Lazare)8区
・北駅(Gare de nord)10区
・東駅(Gare de l'est)10区
・リヨン駅(Gare de Lyon)12区
・ベルシー駅(Gare Bercy)12区
・オーステルリッツ駅(Gare d'Austerlitz)13区
・モンパルナス駅(Gare Montparnasse)15区

Screenshot_20220331-121212_Google.jpg

イルドフランス、地方、ヨーロッパ近隣諸国など行き先によって、7つも駅がある。

"パリ駅" が無い?!

ちょっとしたパニック!

更にややこしいのが、
フランスの駅は2種類の呼び名に分けられていて、都市の地下鉄ネットワークであるメトロ(地下鉄)の駅(スタシオン/station)と都市間を結ぶ国鉄駅(ガール/gare)。


もう、ワケわからん!!

パリの観光地で有名どころへは取り敢えず行くことにした。

Screenshot_20220331-120807_Google.jpgScreenshot_20220331-120620_Google.jpg

ノートルダム大聖堂
エッフェル塔
ルーヴル美術館
オルセー美術館
オペラ座(オペラ・ガルニエ)
オランジュリー美術館
凱旋門
シャンゼリゼ通り
サクレ クール寺院
パリのセーヌ河岸
ノートルダム大聖堂

今はそれぞれ結構高額な入場料が必要なようですが、当時はユーレイルパスとユースホステルの会員証で無料で閲覧出来るところが多かった。
かかっても100円ほど。

"凱旋門へ行きたい"と尋ねたときのこと、
"どの凱旋門か?"と聞かれ"???"
いくつも凱旋門があるらしい。

名所が多いので、1週間近く滞在した。

次はどこへ行こうか?

ベルギーがオススメと聞いていたので、
パリからベルギーのブリュッセルへ。
ノール(北)駅からだから、間違うな!と何度も言われた。

このベルギーで不思議な体験をすることになる。

2022年03月30日

折り紙で人垣が!!ちょっとした人気者に

ルアーブルから 花の都パリへ、今度は間違えないように、何度も駅員の方に確認。

Je vais à Paris. (わたしはパリへ行きます)
Est-ce que ça va à paris?(これはパリ行きですか?)
フランス語だけでは不安なので、英語でも、確認。
Does this train go to PARIS?(この列車はパリへ行きますか?)

Oui.(そうだ)

間違いなさそうだ。
安心して、寝台列車のコンパートメントへ。

ユーレイルパスが、便利で助かるのが、国際列車、フェリー、バスにも乗れる。

いくらかかるのか?気にしなくて済む。

使えるところでは とことん利用した。
国や地域によっては、ユースホステル会員証との併せ技で、無料で、博物館や美術館に入場出来たりもした。

日本と違って、国際列車は6名ほどが入れるコンパートメントという個室(↓)になっている。

これが便利なのは、座席がフラットにできて、簡易ベッドになる。

Screenshot_20220329-202455_Google.jpgScreenshot_20220329-202326_Google.jpg

旅は道連れ

個室なので、嫌が上にも、話をすることになる。


日本人は珍しいのか、よく話しかけられた。

その時役に立ったのが、折り紙。

鶴や船や鳥など、それほど難しくないものでも、彼らにとっては始めて目にする折り紙。

隣のコンパートメントへ
"今、日本人がオモロイコトやってるから、おいで、おいで!!"

"私にも折って!!"

折り紙が無くなったら、新聞紙を正方形に切って折りだすと、拍手!

人が集まることもあった。





2022年03月29日

トラブルはトラベルに

トラブルがトラベルになったとの説もあるくらいなので、これもオモシロイ体験だと切り替えて、

こうなったら、行く予定のなかった、アイルランドへ行ってみようと思い北上 ホリーヘッドへ向かった。

その頃のアイルランドは世界で最も危険な国の紛争国。

カトリック教徒とプロテスタント教徒と 北アイルランドを巡って戦争状態。

観光地ではない。

しかし、ダブリンへホリーヘッドから定期船が出ていることが分かったのでアイルランドへ行くことにした。

これも、ユーレイルパスが使えた。
ダブリンに到着しても そんな緊迫した雰囲気は無かった。どちらかと言うと、落ち着いた雰囲気。

聞いてみると、ベルファスト周辺の限定された所での地域紛争なので、ダブリンは落ち着いている。と言う話だった。

こじんまりした、首都ダブリンは居心地が良いくらいだった。

ここも気に入ったのだけど、ヨーロッパ大陸へ。

ロンドンから飛行機でパリに行く予定だった当初の計画はとうに崩れている。

なので、ダブリンから日本人が誰も知らないであろう、ルアーブルと言う港町に行くことにした。
これも、船でユーレイルパスを使ってみた。
Screenshot_20220329-064408_Google.jpg

Screenshot_20220329-063913_Google.jpg

ルアーブルはマルセイユに次ぐ、港湾都市。
いきなりパリでフランス体験と言うより、英語圏からフランス語圏へ入るにはちょうど良かった。


2022年03月27日

ここはどこ?!

イギリスでは ネス湖の"ネッシー"とストーンヘンジの"ストーンサークル"へ行きたかったので、ロンドンから北上。

ところが、何をどう間違えたのか?
西へ西へ列車は走っている?!


夜行列車だったので、停車箇所少ない。

どうしようか?
途中乗り換える?
時刻表とにらめっこ。

無い。ちょうどよい乗り換え列車が無い。

夜中なので、ホテルがもし、見つからなかったら、駅で一夜を過ごすことになる。

しゃあない。このまま西へ向かって最終駅で降りることにした。

この時にとても助かったというか、役立ったのが、"ユーレイルパス"  乗り放題の切符だった。

もし、目的地毎に購入していたら、違約金を払わないと行けない。

乗り放題のキップ(パス)なので、間違っても大丈夫。

しかし、西に行く予定はなかったので、何の知識もない。

着いたのは "カージフ駅"。
カージフ?聞いたこともない。

何か、ロンドンとは標識(↓)やアナウンスが英語と違う?!

何、何、もしかしてイギリスでは無い?!

ちょっとしたパニック。

Screenshot_20220327-125528_Google.jpgScreenshot_20220327-125449_Google.jpg


どうも、イギリスではあるのだけど、"ウェールズ地方"に入ったようだとわかった。

ウェールズは連合王国の一つで、グレート・ブリテン島南西部の半島状の地方。

面積2万0779平方キロメートル、人口290万3085(2001)。ウェールズも国なので、ちゃんと首都がある。

首都はカージフ(↓国旗もある。)。

Screenshot_20220327-125025_Google.jpgScreenshot_20220327-125110_Google.jpg


"Diolch" はまだ、覚えている。

Thank-you.有難う。

英語と全く違う言語!

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