2021年09月16日
ソフトバンク孫正義氏が提唱する『スマボ』とは?『スマボ』の意味とその構想とは?
2021年9月15日ソフトバンクグループの孫正義会長兼社長が、ソフトバンクが開催したオンラインイベントに登壇し、日本経済の復活の鍵はロボットにあるとの考えを強調しました。
そのロボットの名前を、孫正義氏の造語で、『スマボ』で説明しました。
孫正義氏の命名した『スマボ』とは一体何なのでしょうか?
今回は、『スマボ』についての意味と孫正義氏の新しい未来の構想について説明します。
【『スマボ』とは?】
孫正義氏が、ネーミングした『スマボ』とは、従来の決まった動きをプログラミングされたロボットを従来型の携帯「ガラケー」になぞらえて「ガラボ」とすると、AI(人工知能)で学習し臨機応変に動くロボットを「スマートロボット(スマボ)」と造語で呼び分けました。
具体的には、飲食店で衝突を回避しながら人の代わりに配膳するロボットや、出荷頻度を考えてモノの配置を考える倉庫のロボットシステムなどをスマボの例として紹介していました。
つまり、AIを活用し、これまで、人間が行っていた臨機応変さを求めれる労働の一部をAIロボットが担うという構想です。
【新しい未来の構想】
『スマボ』を使うことで、ロボットのメリットを生かし、ロボットが24時間休まず働けることから、孫正義氏は、労働時間や生産性を加味すると、『スマボ』は、人間の「10倍の競争力を持つ」と考えているとのことです。
また、孫正義氏は、「最終的には人間の動作の機敏性、正確性をも超えていくと思う。もし1億台日本に導入されれば、労働人口に直して10億人に相当する国に生まれ変わる」と述べています。
これからさらに加速する日本の労働人口の減少を「スマボ」で補っていく戦略を、孫正義氏は、示しました。
さらに、労働人口の減少で日本の競争力や生産力がさらに落ちることを危惧しているとし、ソフトバンクグループが抱える18社の関連企業を通して「スマボ」を普及させていく方針を表明しました。
つまり、『スマボ』を普及することで、これから加速する労働力の減少を『スマボ』で補うということです。
【最後に】
孫正義氏が提唱する『スマボ』の発想は、さすが大企業を牽引するリーダーだと感じました。
大きな構想に、分かりやすい造語のネーミングで、多くの方に、考えを伝える能力に長けていますね。
また、『スマボ』についてですが、企業に取っては、メリットが大きいと感じました。
既に、人手不足が発生しており、さらに、『スマボ』を導入することで、『人件費』という、企業の最大のネックのランニングコストが軽減され、企業の収益が上がりやすいシステムは、メリットが大きいですね。
一方で、『スマボ』が行う業務を担っていた方が、職を失う可能性も高く、これから未来を担う子ども達は、どういった職業が『人』とし求められるのか?を考えて、進路や就職先を考える必要が出てくると思います。
これからは、『人からの指示待ち』の職業は、厳しくなり、『自分から発想し、形作りが出来る人』にならないと、AIロボット以上に求められる人材になるのは厳しい時代になると思います。
また、プログラマーなどの職業は、今も既に不足していますが、さらに需要が高まる職業だと感じました。
しかし、人間も、これまで、列車や自動車が出来て、飛脚という仕事がなくなっても、また、江戸時代が終わり武士という職業が無くっても新しい活躍の場を見つけてきましたから、『スマボ』が出来ても、人間のAI以上の能力で、さらに活躍出来る場所を見つけ、より良い未来に出来る能力が人間にはあると、信じています。
皆さんは、『スマボ』について、どのように感じましたか?
今回のブログは、以上です。
【トリビア】武士の美学!切腹の起源と思想について
以前、テレビドラマ『半沢直樹』で、市川猿之助さんが演じる、伊佐山が、半沢直樹に『詫びろ!詫びろ!詫びろ!』と言っていたのをふっと思い出して、なぜか、『切腹』を連想しましたので、今回は、『切腹』の起源や思想について紹介しようと思います。
【切腹とは】
切腹とは、自らの腹を切るという武士の自害方法のことです。
室町時代には、切腹という行為のなかに美学や忠義、誇りといった気高い精神を見出していたのです。
実際に、切腹することで後世に名を残した歴史的人物は何人もいました。
外国人には理解されない切腹について、ご紹介致します。
【切腹の起源】
日本の切腹には古く長い歴史があり、平安時代末期のヒーロー源義経の生涯を書いたとされる「義経記」には、源義経が武士として切腹したと言う記述が見られます。
しかし、実際に書かれたのは室町時代中期とされており、平安時代末期に武士が切腹をする習慣があったかどうかは分かりません。
平家側の自害の方法としては入水による最期を選ぶ武士も多く、武士の自害の方法として切腹は定着していなかったことが分かります。
このあとの記録としては、鎌倉幕府の終焉で北条氏一族が切腹して末期を迎えたと「太平記」に書かれています。
太平記は室町時代初期に書かれたことを考えると、室町時代初期には武士の切腹という風習が一般的になっていたことが窺えるのです。
武威を誇示する勇気ある行為として武家社会に根付いた切腹は、武士にとってふさわしい自害の方法として定着していきます。
【切腹に見る武士の美学】
なぜ切る場所が腹なのでしょうか。
腹を切っても、すぐに絶命はしません。
切腹した人間を放置すれば、一昼夜かけて長い時間苦しんで絶命します。
苦しむ時間を短くするために、介錯という作法が必要になりました。
これは、切腹する者の背後もしくは左横に立ち、切腹をしたあとすぐさま首を切り落とすことで、苦しむ時間を減らすという武士の情けです。
切腹は武士の名誉であるため、見苦しくないように、介添えをする意味がありました。
介錯は切腹する者の家中から選ばれます。介錯は打ち首とは違い、切腹をする武士の介助をする尊厳を伴ったものです。
切腹人が自ら腕の立つ親しい武士に依頼することもありました。
依頼されたほうも、尊厳をもってそれを受け、介錯をします。
切腹の苦しみを長引かせない思いやりのある行為として首を切るのです。
一太刀で首を切り落とすのは難しい技です。
精神を修練し、剣の熟練者でなければできません。
1868年(慶応4年)に起こった事件として、土佐藩士がフランス人の水兵を11人殺害した「堺事件」があります。
この事件を収束させるために、土佐藩士20人が切腹することになりました。
検使役のフランス人の目の前で次々と切腹と介錯が行なわれていきます。
しかし、二度太刀をふるっても首を切り落とすことができないため、まだ意識のある藩士から「まだ死なん、まだ死なん、早く切れ」と催促される始末でした。
修羅場のようになっていく切腹の現場に検使役のフランス人が耐え切れなくなり、11人目が切腹を終えた時点で処刑は中止となりました。
介錯は大変難しいものであり、また切腹の習慣のない外国人からは理解できないものであったのです。
介錯の役割として、切った腹から内臓をわざと露出して最後の抗議をする無念腹(納得していない切腹)を防ぐ役割もありました。
「武士道」の著者、新渡戸稲造(にとべいなぞう)はなぜ腹を切るのかを下記のように書いています。
『特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以て霊魂と愛情との宿るところとなす古き解剖学的信念に基づくのである。(引用:武士道)』
人間の腹には、霊魂と愛情が宿っているという思想があり、真心と潔白を示すために腹中を見せるのが、切腹の意味だと言われています。
【切腹の後始末】
切腹は江戸時代には武士の名誉ある最期として定着します。
自らの潔白を示すために切腹したり、主や上司から失敗の責任を取るように切腹を命じられたりしました。
命じられてする切腹のことを「詰腹[つめばら]を切る」と言います。
何か不祥事があったときに、詰腹を切らされる者がでてくるのです。
現代のように部下の責任を上司が取るのではなく、武家社会では、上の者の責任を下の者が取るという掟が暗黙の了解になっていきます。
平穏な江戸時代において、武勇を示す切腹の方法は変化していきます。
日本刀で人を切る経験もなく、自分の腹を上手には切れない武士がほとんどになりました。
切腹を上手にできなければ、本人も苦しく、周囲からも見苦しい切腹になってしまいます。
切腹の作法は、細かく決められ、武士の子どもも切腹の作法は一通り教わります。
しかし、実際に自分の腹に刃をたてることは困難な事例が多くなり、短い木刀や、扇子でもって腹にあてたところ(扇子腹)で、介錯をして貰うという切腹方法に変わっていきます。
介錯されたあとは、うつ伏すのが武士の嗜みです。
あおむけに倒れるのは大変恥ずかしいことでした。
そのためにも、介錯人はうつ伏す状態になるように介錯をしなければなりません。
切腹の作法を知らない武士のときは、扇子に手を伸ばした瞬間に介錯をするという作法もありました。
うつ伏せに倒れるために、抱き首という切断方法がありました。
首の皮一枚残して切ることです。
首を切断すると、きれいに切れるほど高く遠くに飛んでしまいます。
そのため、抱き首にして切ると、前傾に倒れるので武士の作法としてかなった切り方になります。
切腹したのちの身体は、付き添いの検使役が絶命していることを確認し、切腹の完了を告げます。
周囲に張り巡らした白木綿の幕と一緒に、白い布でくるまれた遺骸は、遺族に下げ渡されました。
【殉死としての切腹】
江戸時代初期には仕えた藩主が亡くなったときに、あとを追って切腹する家臣が多くいました。
この場合の切腹は追腹(おいばら)と言い、当時は見事な忠義であると流行してしまいます。
例を挙げると、1657年(明暦3年)に死没した鍋島勝重には26人もの殉死者がいました。
強制によるもではなく自らの意思で追腹をします。
あまりにも流行したため、幕府は1663年(寛文3年)に殉死を禁止します。
実際にその後に殉死が出た藩を、幕府が厳罰に処したためにようやく追腹の流行が収まったのでした。
【切腹して名を遺した武士達】
◆清水宗治(しみずむねはる)
1537〜1582年。備中国高松城主。豊臣秀吉による高松城の水攻めを受け、豊臣秀吉は城主の切腹と引き換えに、城の囲みを解きました。見事な最期であったと、豊臣秀吉が褒め称えた切腹だったと言われています。
◆千利休(せんのりきゅう)
1522〜1591年。豊臣秀吉の茶頭(さどう)として仕え、政権人事に関与するほどの側近にまで上りつめますが、豊臣秀吉の反感を買い、切腹を命じられます。武士ではないのに切腹をさせられるのは罰としての意味があります。
◆浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)
1667〜1701年。江戸城内松の廊下で、対立していた上司の吉良上野介義央を切り付け、即日切腹を命じられました。赤穂事件の発端になります。切腹のときに、大名でありながら庭先で切腹するという格下の扱いを受けたことが、赤穂浪士達を仇討ちへと駆り立てた一因とも言われています。
【現代に生きる切腹の思想】
戦国時代までは武勇を誇る切腹と、罰としての切腹があります。
江戸時代の武士の切腹は、君主を守るためという大義が生じました。
藩名や家名を汚してはいけないという忠義の心にあります。
藩の内部で何事か失態があっても、誰かが腹を切れば、説明責任なく物事が解決したかのような終わり方です。
主君を守るために、家臣が犠牲になったと言えるでしょう。
これを現代における組織の責任の取り方としたら、許されるものではありません。
トップが責任を取ってこそ、組織が正常でいられる時代です。
現代でも政権を揺るがす事態が起こったときに、キーマンが自殺をして深層が闇の中に葬られています。
【最後に】
切腹について、調べてみましたが、私個人の意見ですが、切腹は、誉められたものでは無いと感じました。
切腹は、問題があったときの責任逃れで、本来なら、責任の所在の追及や問題の原因を考えて、対策を打ち、次の糧にしないといけない部分をあやふやになってしまう考えだなと思いした。
ただ、これは、その時代に生きた方にしか分からない部分もあるのだろうと思います。
切腹についての考え方は、今の政治家も同じ発想があるように感じます。
問題が起きれば、辞職し、責任追及から逃れ、また、別の人で同じ問題を起こすという、解決になっていないということになるのですが、生き恥を晒すよりは良しとする風潮に繋がっているのかなと思います。
皆さんは、『切腹』について、どのように感じたでしょうか?
今回のブログは、以上です。