2016年11月01日
勘違いしないで!発達障害の子どもはみんながみんな天才ではありません。
●エジソンの母
粘土を使って“1+1=2”を教える小学校教員
エジソンは“粘土と粘土を合わせたら1”だと言い張りました。これに対して担任は「腐れ脳みそ!」と言い放ちました。これに対し、母親は子どもの発想力をつぶす教師と学校側に抗議し、とっととエジソンをその学校から退学させました。
そして人類の生活を変えるあの電球を発明したエジソンが生まれたのです。
いかがでしたか。
子どもにはこうあってほしいと願いを託すのは自然な感情ですが、子どもを無理に変えようとしてはなりません。立ち止まっみましょう。変わるべきなのは親だったりしますよ。
引用元:エキサイトニュース
目から鱗というか、自分の日ごろの行いを反省させられたり、
自己嫌悪にもなりそうですが、確かに変わるべきは親という側面は多分にあります。
親というか大人という広い概念で言っても良いでしょう。
どうしても発達障害というものをクローズアップするときに登場しがちな偉人。
話やもののたとえとしては引用しやすい面はありますが、誤解を招くという点からは
あまり感心できるものばかりではないです。
どうしても、発達障害=天才的な人間という誤認が起こるからです。
天才でなければ、それはまさに天災だなんていうひともいますが…
正直、発達障害でも偉人や偉業を成し遂げないで人生を終えていく人の方が
圧倒的に多いのではないかと思います。もちろん偉業を成し遂げることは社会的に
すばらしいことでありますが、ではそうでなかった発達障害のひとは自分自身を
どのように受け止めれば良いのでしょうか?
これは親も然りで、うちの子は発達障害だけど、親の育て方次第で才能を開花させることが
できる!逆にできないのは親である自分の責任だと無理に才能が無いことを自分の責任に
する人まで現れてきてしまいます。
こういう考えが浸透すると、特別な能力をもちそれが世間的に認知された発達障害の人は
特別な扱いを受けることができるが、それ以外の発達障害の人たちはいわゆる「できそこない」的な
レッテルを世間からではなく、親からも張られて心をよりふさいでしまう要因にもなりかねません。
定型発達でも発達障害でも、一方的に考え方や価値観を押しつけられるという行為は
押しつけられた方からすると不愉快きわまりないストレスとなるわけです。
問題は、日本という国は礼節を重んじる、献身的に自己犠牲をする、言われなくても察する
など文化的に言葉というコミュニケーション以外で相手との交流をたいせつにしている民族
ともいえます。
それが常識として現代もまかり通っていることは多々あり、その発想からすると、
発達障害をもつ当事者やその家族からすると本当に住みにくい環境であるといえます。
ただ、昔と異なり多様化する価値観にも理解をしてくれるような人たちや団体もあります。
世の中が絶望だと思えば絶望だろうし、少し光が見えると思えば光が見えるものです。
どうして私の子どもが発達障害なのだろうと毎日悩んで頭を抱えるより、
ある程度のリスクは承知のうえ、周りになにを言われようとも自分だけは
子どもの行動や発言を丁寧に見守ってあげると言うことは重要だと思います。
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コメントありがとうございます。
その通りだと思います。常識というのは時代によって変化しているでしょうから、
その集合体の中でマイノリティになれば「普通じゃない」という解釈をされること
もおおいでしょうね。
50年昔は常識だったことが今では常識ではないなんてことはザラですし、
変に常識という壁に執着しすぎているのは頭が硬い大人の方なのかもしれません。
もうすこし私もやわらかい頭になりたいです^^
コメントありがとうございました!
能力があるかないかというのは結局周りや社会が判断することが多いので、
友人にそう思われているのは、にぼし様にとっては心強い事だと思います。
才能と言ってもなにを持って才能と定義するかで多分大きく変わりますよね。
日本みたいな平和ぼけした国に住んでいると生きていることの才能なんて
あたりまえになってしまいますから…
障害があろうがなかろうが、自分自身を肯定する力は自分で養って
いかないといけないなぁと私自身しみじみかんじます。
そんなの私にはありません(笑)
そもそも発達障害に限らず、人の才能を見いだす事は難しい事だと思うのです。