2014年10月29日
「サムライ部落」再び
6月29日に更新したブログ、「サムライ部落が豊平川河川敷に」https://fanblogs.jp/bukki/archive/100/0?1414493730で、札幌の貧民街の話を載せたが、ブログ内でサムライ部落の検索が多いことに驚いた。今回は札幌の歴史探訪として、このサムライ部落の発生から終焉までを取り上げた。
「サムライ部落」とは、昭和40年代半ばまで存在していた、豊平川の河川敷を住居とする者の集まった貧民街。札幌市民の中でも、70歳以上の年配者はその存在をしっかりと記憶しているはず。しかし、出身地が札幌以外の私のような年代でも初めて聞くような話なので、札幌に住んでいる若年層や地方出身者はその事実を驚くかもしれない。同じサムライ部落の名称が旭川や函館、小樽にも残っているのは、札幌の影響からか。
「サムライ部落」は、当時の新聞記事によれば昭和4年9月に東橋近くで誕生、当初は30名ほどの住民だったという。東橋に近い苗穂地区も、明治中期から細民街を形成していて、ここから溢れた人々が東橋近辺の川原に定住を始めたという考えもあるようだ。
もうひとつの説として、「すすきの」にあった遊郭が菊水に移されたことで、遊郭の残飯を目的とした浮浪者たちが豊平川を越えたという話も残されている。こうした遊郭に依存する貧民が菊水あたりから川原に移ったと考える人もいる。
ただ「部落」とは言っても、本州のような落ち武者や朝鮮人居住地区、町屋の生活が認められなかった非人が住民の被差別部落とは異なり、歴史も極めて浅い。本州から北海道に成功を求めて移住した人の中で、夢破れて貧民となった行場のない人々が集まって自然発生したのが「サムライ部落」だといわれる。
戦後は、引揚者や戦災者なども加わり、ピーク時には川の両岸に集落が発生した。サムライとは武士ではなくおはらい屋(雑品屋)、いまで言う廃品回収業者のことだが、部落でまだおはらい屋をしているのは良い方で無職者が多かったらしい。また、街中の住民から見れば危険地帯でもあったようだ。
今年で73歳になる私の仕事の大先輩が、当時の様子を教えてくれた。その頃、南2条の狸小路付近で下宿生活をしていたが、サムライ部落の住民が豊平橋を渡って街中の人間と喧嘩をしたり、逆に街中の人間がサムライ部落に押しかけるなど、サムライ部落の住民と街中の住民は一触即発状態にあったという。
札幌市が本格的にサムライ部落の解消に乗り出したのは、冬季オリンピックの開催が決まってからで、昭和44年を最後に部落は取り壊されて姿を消した。部落住民は、市内各地に建設された厚生住宅や改良住宅に転居、あるいは保護施設などに収容された。
写真上左:9条橋から見る、豊平橋のサムライ部落住居が集まっていたルネッサンスホテル近辺。同上右:菊水の遊郭に近い河川敷にも貧民街があった。現在は公園となっている。同下:東橋からサムライ部落のあった河川敷を望む
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「サムライ部落」とは、昭和40年代半ばまで存在していた、豊平川の河川敷を住居とする者の集まった貧民街。札幌市民の中でも、70歳以上の年配者はその存在をしっかりと記憶しているはず。しかし、出身地が札幌以外の私のような年代でも初めて聞くような話なので、札幌に住んでいる若年層や地方出身者はその事実を驚くかもしれない。同じサムライ部落の名称が旭川や函館、小樽にも残っているのは、札幌の影響からか。
「サムライ部落」は、当時の新聞記事によれば昭和4年9月に東橋近くで誕生、当初は30名ほどの住民だったという。東橋に近い苗穂地区も、明治中期から細民街を形成していて、ここから溢れた人々が東橋近辺の川原に定住を始めたという考えもあるようだ。
もうひとつの説として、「すすきの」にあった遊郭が菊水に移されたことで、遊郭の残飯を目的とした浮浪者たちが豊平川を越えたという話も残されている。こうした遊郭に依存する貧民が菊水あたりから川原に移ったと考える人もいる。
ただ「部落」とは言っても、本州のような落ち武者や朝鮮人居住地区、町屋の生活が認められなかった非人が住民の被差別部落とは異なり、歴史も極めて浅い。本州から北海道に成功を求めて移住した人の中で、夢破れて貧民となった行場のない人々が集まって自然発生したのが「サムライ部落」だといわれる。
戦後は、引揚者や戦災者なども加わり、ピーク時には川の両岸に集落が発生した。サムライとは武士ではなくおはらい屋(雑品屋)、いまで言う廃品回収業者のことだが、部落でまだおはらい屋をしているのは良い方で無職者が多かったらしい。また、街中の住民から見れば危険地帯でもあったようだ。
今年で73歳になる私の仕事の大先輩が、当時の様子を教えてくれた。その頃、南2条の狸小路付近で下宿生活をしていたが、サムライ部落の住民が豊平橋を渡って街中の人間と喧嘩をしたり、逆に街中の人間がサムライ部落に押しかけるなど、サムライ部落の住民と街中の住民は一触即発状態にあったという。
札幌市が本格的にサムライ部落の解消に乗り出したのは、冬季オリンピックの開催が決まってからで、昭和44年を最後に部落は取り壊されて姿を消した。部落住民は、市内各地に建設された厚生住宅や改良住宅に転居、あるいは保護施設などに収容された。
写真上左:9条橋から見る、豊平橋のサムライ部落住居が集まっていたルネッサンスホテル近辺。同上右:菊水の遊郭に近い河川敷にも貧民街があった。現在は公園となっている。同下:東橋からサムライ部落のあった河川敷を望む
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サムライ部落というのは初耳でした。
水車町の1,2丁目あたりから豊平、菊水の辺は昔は木造平屋が多く「スラム街」的な様相を呈していましたね。けっこう友達も住んでて(ぼろ家ではなかったけど)、ま、小学生の頃は意識はしてませんでしたが。
オリンピック以降も単発的にそういった店(?)は残ってました。
一条橋の近く、菊水寄りの家屋は昨年、知らないうちに新築住宅が。
豊平橋のたもと、教会近くの家屋は昨年、火事になりました。
表通りを外れると、けっこう古い物件が残ってます。ファクトリー近くにも。
いつも、海の近いところに住まわれていることを羨ましく思っていました。今年は、アキアジが好調のようですね。シーズンも終盤ですが、これからの追い込みを期待しています
今回のサムライ部落、自分は50代ですが全く知りませんでした。
とても興味を持って読ませて頂きました。