2015年03月03日
「函館のサムライ部落」
北海道で過去にサムライ部落が存在したといわれた地域は、札幌と小樽、旭川、函館の4箇所のほか、室蘭や釧路などにもそれらしき地域があったようだ。部落と言っても実態は、開拓期に北海道での成功を夢見て、それが敵わずに最貧民に転落したものが作った細貧街。本州の被差別部落とは異なる。
今回は、札幌に続いて函館の細貧街を取り上げた。
函館のサムライ部落は、日乃出町にあった「五十軒長屋」のことを言うようだ。 当時の日乃出町は、昭和6年から13年までは砂山町と呼ばれた。隣接する高盛町が、砂山の最も高い所を高大盛と呼んだところに由来しているという。
そして、新川河口から日乃出町にかけてのこの砂地に穴を掘って、半穴居生活をしていた人びとの一群のことを「サムライ部落民」「砂山部落民」といった。サムライ部落のほとんどの家がムシロの玄関で、雑木で戸を造っていたら良いほうだったらしい。また、住民のほとんどは風貌がボサボサの髪で、綿入半てんを着た男や女たちだったという。
札幌のサムライ部落と同様、明治時代の開拓期に北海道での成功を夢見て移民、それが敵わず本州にも帰れずに、この地に住み始めたのが始まりとされる。ただ、函館は本州からの出入り口にあたり、札幌などで失敗した者が最後にここに溜まった、吹き溜まりの地という特徴を持つ。
昭和11年に北海道が調べた「道内の不良住宅地区」、いわゆる無許可で住居を建てた貧民街の割合は、道内でも函館地区が圧倒的に多く、全道の562戸に対して函館は198戸に及んだ。また、そこに住む住民数は全道の556世帯に対して201世帯と圧倒していた。これも「北海道の吹き溜まり」という意味合いからと考えられる。
大正元年の新聞には「 函館ほど乞食の多いところはない。高大森(現在の高盛町のうち)の乞食部落には170戸、300人位もいる」とある。高大森は乞食部落のようにいわれたり、「前科者や監獄上がりの巣」のように見られるような、典型的な都市貧民街。函館市の都市化に伴うゴミや糞尿の処理は、当時市街地のはずれにあたるこの地域に求められた。
函館では、家庭のゴミが明治期なかばには防波堤がわりに大森浜に投棄されていて、大森浜海岸は次第にゴミ捨て場と化していった。その後、昭和2年に砂山の東部に汚物焼却炉が設けられたが、市内の家庭から出る糞尿の大半は、明治期以来、近郊農家の肥取り馬車が回収をしていた。
しかし、第2次世界大戦が始まると、糞尿回収にまわる力がなくなり、ようやく昭和18年に、砂山に素堀の糞尿貯留池が設けられた。また、戦争の末期には砂山から砂鉄が採れるというので、大量の砂が運びさられた。
戦後は、砂山の砂鉄堀りにはさらに拍車がかかり、砂鉄採取以外にも港湾の埋め立て、ダムやビルの建設、道路舗装などいろいろなことに活用された。そして、砂山を貫く国道278号(通称海岸道路)の工事が完成したのは31年12月。
工事に伴い「サムライ部落」も立ち退きを迫られ、住民は改良住宅への入居や、市内外への流出などでその姿を消した。しかし、その名残は海岸道路沿いに今でも見ることができる。
写真上左:サムライ部落の名残が感じられる海岸道路横に作られた大森公園、同上右:石川啄木公園そばの日の出広路にも名残が、同下:昭和34年当時のサムライ部落と砂山
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今回は、札幌に続いて函館の細貧街を取り上げた。
函館のサムライ部落は、日乃出町にあった「五十軒長屋」のことを言うようだ。 当時の日乃出町は、昭和6年から13年までは砂山町と呼ばれた。隣接する高盛町が、砂山の最も高い所を高大盛と呼んだところに由来しているという。
そして、新川河口から日乃出町にかけてのこの砂地に穴を掘って、半穴居生活をしていた人びとの一群のことを「サムライ部落民」「砂山部落民」といった。サムライ部落のほとんどの家がムシロの玄関で、雑木で戸を造っていたら良いほうだったらしい。また、住民のほとんどは風貌がボサボサの髪で、綿入半てんを着た男や女たちだったという。
札幌のサムライ部落と同様、明治時代の開拓期に北海道での成功を夢見て移民、それが敵わず本州にも帰れずに、この地に住み始めたのが始まりとされる。ただ、函館は本州からの出入り口にあたり、札幌などで失敗した者が最後にここに溜まった、吹き溜まりの地という特徴を持つ。
昭和11年に北海道が調べた「道内の不良住宅地区」、いわゆる無許可で住居を建てた貧民街の割合は、道内でも函館地区が圧倒的に多く、全道の562戸に対して函館は198戸に及んだ。また、そこに住む住民数は全道の556世帯に対して201世帯と圧倒していた。これも「北海道の吹き溜まり」という意味合いからと考えられる。
大正元年の新聞には「 函館ほど乞食の多いところはない。高大森(現在の高盛町のうち)の乞食部落には170戸、300人位もいる」とある。高大森は乞食部落のようにいわれたり、「前科者や監獄上がりの巣」のように見られるような、典型的な都市貧民街。函館市の都市化に伴うゴミや糞尿の処理は、当時市街地のはずれにあたるこの地域に求められた。
函館では、家庭のゴミが明治期なかばには防波堤がわりに大森浜に投棄されていて、大森浜海岸は次第にゴミ捨て場と化していった。その後、昭和2年に砂山の東部に汚物焼却炉が設けられたが、市内の家庭から出る糞尿の大半は、明治期以来、近郊農家の肥取り馬車が回収をしていた。
しかし、第2次世界大戦が始まると、糞尿回収にまわる力がなくなり、ようやく昭和18年に、砂山に素堀の糞尿貯留池が設けられた。また、戦争の末期には砂山から砂鉄が採れるというので、大量の砂が運びさられた。
戦後は、砂山の砂鉄堀りにはさらに拍車がかかり、砂鉄採取以外にも港湾の埋め立て、ダムやビルの建設、道路舗装などいろいろなことに活用された。そして、砂山を貫く国道278号(通称海岸道路)の工事が完成したのは31年12月。
工事に伴い「サムライ部落」も立ち退きを迫られ、住民は改良住宅への入居や、市内外への流出などでその姿を消した。しかし、その名残は海岸道路沿いに今でも見ることができる。
写真上左:サムライ部落の名残が感じられる海岸道路横に作られた大森公園、同上右:石川啄木公園そばの日の出広路にも名残が、同下:昭和34年当時のサムライ部落と砂山
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