2016年02月04日
「小樽のサムライ部落」
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忌避されたが存在感を発揮
私のブログでは、北海道史の闇をテーマとする「知られざる北海道の歴史」というカテゴリーの中で、札幌の豊平川河川敷や函館の大森浜、旭川の忠別川河川敷などに存在した、サムライ部落を取り上げてきた。
そのいずれも、明治の開拓期から昭和40年代にかけて存在したという共通点を持つ。この「北海道のサムライ部落」の最後の記事として、今回は小樽の松ヶ枝町から入船公園付近にあったサムライ部落を取り上げた。
そのサムライ部落の資料を、小樽史から得るためにネットや図書館で探したが、札幌や函館のような詳細な資料は残されていなかった。旭川を含めた三市では、極めて流動性の高い住民が違法占拠する集落として、市政の運営上排除の対象だった。しかし、小樽のサムライ部落は、名称こそサムライ部落だが「貧しいものが集まった市営住宅」として、市民からの忌避感はあったものの、ひとつの居住区として認められていた。
このサムライ部落を舞台とした、小樽出身の児童文学者・山中恒氏の「サムライの子」が1963年に映画化された。内容は貧乏にめげぬ子どもたちを描くもので、今村昌平氏脚本、若杉光夫監督で撮影され、小沢昭一、南田洋子、浜田光夫などが出演した。後には つのだじろうさんも漫画化した。
当時、このサムライ部落の近所には、歌手のあがた森魚さんや石原慎太郎氏、裕次郎氏の住む石原家があった。往時を知る人が書き込んだブログによれば、「普段はだれも近づかないその場所に、あがたさんが用事でそこを通り抜けた。見るとそこには、戦争から帰って来て家を無くして帰る所のない人達が、掘建小屋のような粗末な建物に住んでいた」
「人々はかなり貧しかったようだ。しかし、家があるのでホームレスではなく、浮浪者に見えてもゴミを拾ってちゃんと仕事をしていた」という。そして「そのゴミを拾う姿がサムライみたいなので、サムライ部落と言われた」そうだ。石原裕次郎氏は、この近所のサムライ部落にちょくちょく出入りして、遊んでいたともあるという。
小樽が生んだ小林多喜二や伊藤整の若かりし頃の昭和初期には、すでにこのサムライ部落はあった。当時の小樽には、小樽港の拡張工事や建設などで、全国から多くのタコが集められた。「飲む・打つ・買う」で借金漬けにされたタコは、そのほとんどが一生抜け出せない状況だったという。このタコを収容したタコ部屋の、通称監獄部屋は市内に数多く存在した。
明治の初めから1900年ごろまで、北海道の国道建設などに囚人が労働力として駆り出された。その後囚人労働が禁止され、代わってタコが使われるようになった。タコには日本人のほか、日韓併合で職を求めて日本に来た朝鮮人などもいた。そして、劣悪な労働環境から逃げたタコが、民家に逃げ込むこともざらだったらしい。
こうした歴史を持つ小樽だからこそ、極貧ながらも住まいと職を持つサムライ部落民が、市民から忌避されながら存在し続けたものと思われる。現に、入船公園の建設はタコではなくサムライ部落民が作ったという。
その後のサムライ部落民の情報は上がってこないが、住民は昭和40〜50年にかけて新設された市営住宅などに移り住んだものと思われる。
写真:現在の入船公園の景観。サムライ部落民が作り上げたという、同A:入船や松ヶ枝には当時を偲ばせる家屋が残されている、
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自分の嗜好を重点にブログをまとめていますが、開拓期の話も興味を持っています。
またご参考になりそうな話を探して、更新したいと考えています。
ご来訪、ありがとうございました!!