2015年11月24日
旭川のサムライ部落
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札幌、函館よりはましだった
私のブログで、これまで「北海道の知られざる歴史」をカテゴリーとする、札幌と函館のサムライ部落の話も取り上げてきた。このほか、旭川と小樽にも名称を同じくする細民街の歴史が残されている。
「部落」とは言っても、本州のような落ち武者や朝鮮人居住地区、町屋の生活が認められなかった非人が住民の被差別部落とは異なり、歴史も極めて浅い。ほとんどが、本州から北海道に成功を求めて移住した者の中で、夢破れ行場の無くなった人々が集まって自然発生したのが「サムライ部落」だといわれる。
本州の部落のような住民の定住性はなく、きわめて流動性の激しい集落だったらしい。戦後は、引揚者や戦災者なども加わり、札幌ではピーク時に川の両岸に住民が住み着いた。また、サムライとは武士ではなくおはらい屋(雑品屋)、いまで言う廃品回収業者のこと。
歴史的に見ると、札幌の豊平川河川敷にあったサムライ部落は、昭和の初めから冬季札幌オリンピック前後の昭和40年代、函館の日ノ出町にあったサムライ部落「五十軒長屋」は、昭和6年頃から31年ごろまで大森の海岸道路沿いにあった。
札幌のサムライ部落は当初、東橋に近い苗穂地区で明治中期から細民街を形成され、ここから溢れた人々が、東橋近辺の川原に粗末な木造の住居を築いて定住を始めたのが始まりだという。
それに対して函館の「五十軒長屋」は、大正時代末期から新川河口から日乃出町にかけての砂地に穴を掘って、半穴居生活をしていた。「サムライ部落民」「砂山部落民」とも言われ、部落民のほとんどがムシロの玄関で、雑木で戸を造っていたら良いほうだったらしい。札幌と比べてもさらにひどい生活ぶりだったようだ。
この札幌と函館のサムライ部落は、行き場のない人々が集まった細民街で町屋の人々からも差物を受けたが、旭川のサムライ部落はコミュニティがある程度保たれていたようで、生活ぶりも札幌よりは増しだったようだ。
旭川のサムライ部落は、旭川市街と神楽町を結ぶ忠別橋上流の河川敷に、大正末期あたりから集落が作られ、戦後は満州からの引揚者も住みついた。
記録によれば、昭和20年代には最高で53世帯、約200人が暮らしていたという。河川改修や美観上の問題から、昭和39年5月に旭川市の斡旋で17戸が他の地区へ移転、残りは新築等自力で転居していった。歌手の藤圭子さんの一家も一時、ここに住んでいたとの話も残っている。
札幌と函館、小樽の3都市には、当時の遺物や記録をまとめたサムライ部落の名残が残されている。しかし旭川には、往時をしのばせるような部落の遺物や資料はなく、わずかに当時を知る年配者の記憶以外に当時の様子を伝えるものは残っていない。
写真は、昭和初期から30年代にかけてサムライ部落のあった旭川・忠別川河川敷公園
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いつも、ブログを見ていただきありがとうございます
旭川にお住まいなのですね。
近郊の美瑛や富良野にも、サムライ部落とは異なりますが、
引揚者や朝鮮人の集まった集落があったという話を聞きます。
機会があったら、発生の原因などを調べてみたいと思っています
また、怖くないホラーや、地域の隠された歴史などを発信していきたいと考えています。
コメントをありがとうございました!!