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2020年04月13日

伝説の舞台裏に迫る! 巌流島の決闘

語り継がれる“伝説の決闘”

今日4月13日は巌流島の決闘があった日です。(慶長十七年 1612年)
巌流島の戦い.jpg
 佐々木小次郎(左)と宮本武蔵

巌流島の決闘は、宮本武蔵佐々木小次郎という二人の剣豪による宿命の決闘として語り継がれています。

この“宿命の対決”は、小説家・吉川英治の『宮本武蔵』によって広く知られるようになり、ドラマティックな決闘シーンは何度も映画やドラマで再現されています。

決闘の舞台となった巌流島とは山口県下関市の関門海峡に浮かぶ小さな無人島で、正式な島名は船島といいます。

船島が巖流島と呼ばれるようになったのは、武蔵と対戦した小次郎が“巖流”を名乗ったことからといわれています。

しかし、この巌流島の決闘、実際には伝説のようなカッコイイ決闘ではなかったようです。

その理由として、この決闘には様々な疑惑や謎が囁かれているからです。

というわけで、今回は巌流島の決闘について語りたいと思います。

巌流島の決闘とは?

佐々木小次郎は剣豪・富田勢源(とだ せいげん)に剣術を学んだ後、諸国武者修行の旅に出て、やがて豊前(福岡県)小倉の細川家に仕えます。

小次郎は一般的な刀より長い「物干竿」と呼ばれる大太刀を用い、秘剣“燕返し”の使い手として若い頃から剣術家として名を馳せていました。

一方、宮本武蔵も同じく諸国武者修行で剣術を磨いていましたが、小次郎の名声を聞き及び、小次郎に決闘を申し込んだのです。

当時、小次郎は18歳、武蔵は29歳だったといいます。

決闘の舞台は巌流島、小次郎が仕えていた細川家が二人の決闘に立ち会う公式の試合でした。

慶長十七年(1612年)4月13日の決戦当日、先に巌流島に到着したのは小次郎でした。

しかし、武蔵は決闘の刻限になっても現れず、待たされた小次郎は次第にじりじりとしてきました。

ようやく現れた武蔵は舟を漕いできた櫂を木刀として戦いに臨みます

武蔵の巧妙な“じらし作戦”に平常心を失っていた小次郎は集中力を欠き、木刀で額を打たれたことが致命傷となって敗北、武蔵が見事勝利したのです。

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勝つためには手段を選ばない !? 姑息な武蔵

この戦いを冷静に振り返ってみると、

本当に武蔵は小次郎より強かったのだろうか?

という疑問が湧いてくることがあります。

まず、武蔵が決闘に遅刻したのは偶然ではなく、最初から小次郎の平常心を乱す為の計算だったと思われます。

だとすると、正々堂々まともに戦っては小次郎に勝てないと考えたから、“じらし作戦”を用いたのではないでしょうか?

さらに、この巌流島の戦いには驚愕の事実があるのです。

自らは決戦に遅れて来たものの、武蔵は島に自分の弟子たちをこっそり潜ませておいたのです。

そして、小次郎が額を打たれて劣勢になったところを隠れていた弟子たちが一斉に飛び出して小次郎をメッタ打ちにしてとどめを刺したのです。

これが事実なら、武蔵は「一対一の勝負」という約束を破り、かなり姑息な手段を駆使して小次郎を倒したことになりますね。

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謎に包まれた剣豪・佐々木小次郎

もう一つ、巌流島決戦の事実を揺るがすような驚きの説があります。

それは、小次郎の存在そのものが疑われていることです。

まず、小次郎は生まれた年が不明であり、出生地も越前(福井県)の浄教寺が有力と考えられていますが、他にも近江(滋賀県)、周防(山口県)など様々な説があるのです。

また、小次郎が富田勢源の直弟子だとすれば、勢源の活躍した時代から考察して巌流島の決闘の時に小次郎は既に60歳前後だったともいわれています。

さらに、巌流島の戦いは武蔵の伝記として後世にまとめられた『二天記』に記述されているものの、武蔵自らが著した兵法書として有名な『五輪書』には小次郎の名がどこにも記されていないのです。

武蔵にとって巌流島の戦いは自分の名が世に知れ渡る大きな転機となった出来事のはずなのに、自ら執筆した著作の中に小次郎の名前が一切出て来ないのは不可解と言わざるを得ません。

小次郎の存在が不明とされる根拠は他にもあり、小次郎が仕えていた細川家や、富田勢源の剣術流派・中条流の史料などにも小次郎の名が出て来ない点もその裏付けの一つと考えられています。



まとめ

  • 巌流島の決闘とは、宮本武蔵と佐々木小次郎の二人の剣豪が関門海峡の船島で戦った伝説の決闘

  • 一対一の勝負のはずだったが、武蔵は自分の弟子たちを使い小次郎にとどめをさした

  • 小次郎は年齢や出生地など不明な点が多く、存在そのものを否定する説もある


“皇帝”と称えられた元西ドイツ代表のサッカー選手・ベッケンバウアーは「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ」という名言を残しましたが、武蔵の行動哲学もこれに通じるものがありますね。

2020年03月27日

なぜ日本は国際連盟を脱退したのか?

国際連盟脱退に至った背景

一昨日、小池都知事が「今週末の外出自粛要請」をした影響により、各地で“買いだめ”が横行しています。

週末に外出しない、いわゆる“巣籠り”のために普段より食糧を買い込んでいるのでしょうが・・・どう考えても(そこまで必要か?)と思われるほど大量に買い物をしている人が多いですよね?

昨夕、買い物に出掛けると、いつものスーパーには普段の倍以上お客さんが入っていて、食品棚は品切れが目立ち、レジ前には長蛇の列ができていました。

僕は普段通り必要な分だけの買い物をしたかったのですが、それがほとんど手に入らず困りました。

少し前のトイレットペーパーの時もそうだったのですが、人は「これが不足するかもしれない」という情報が出回るとアッという間に反応し、それを見聞きした人がさらに追随するという群集心理が働いてしまいます。

店側の方も言ってますが、決して物流が滞っているわけではないので、食糧品は十分に供給されています

だから、週末家にいるとしても普段通りの買い物をして、足りなくなったら必要な分だけ買いに行く、皆がこういう当たり前の行動をしていれば、誰も品不足で困ることにはならないのです。

お年寄りなどの生活弱者の方には深刻な問題となってしまうので、買いだめ行為は本当にやめて欲しいです。


さて、今日3月27日は日本が国際連盟を脱退した日です。(昭和八年 1933年)

国際連盟とは、1920年にアメリカ大統領・ウィルソンの提唱により、国際平和を目的として設立された国際機関であり、現在の国際連合の前身です。

日本は国際連盟の発足当初から常任理事国になったことで、国際的地位も向上しました。

しかしその頃、中国国内では民族運動の高揚により、南満州鉄道などを含む満州(中国の東北部)における日本の既得権益を中国に取り戻そうとする動きがありました。

日本軍はこの中国側の動きに危機感を抱き、武力によって満州の日本権益を死守しようと考えていました。

そのため、日本軍にとっては国際連盟の平和的ルールが足かせになっていたのです。

というわけで、今回は日本が国際連盟脱退に至った流れについて語りたいと思います。

暴走する関東軍

昭和六年(1931年)9月18日、中国・奉天郊外の柳条湖において南満州鉄道の線路が爆破される事件が起こりました。(柳条湖事件)

これは、満州侵攻の突破口を開くために関東軍(満州の権益保護のために駐留した陸軍部隊)が仕組んだ陰謀だったのです。

関東軍はこの事件を「線路爆破は中国軍の仕業だ」と偽り、権益保護の自衛を口実に軍事行動を開始しました。

この事件をきっかけに始まった軍事行動を満州事変といい、昭和二十年(1945年)の終戦まで続く十五年戦争の発端となったのです。

当時の第二次若槻礼次郎内閣は戦線の不拡大方針を表明しましたが、関東軍はこれを無視して侵攻を続け、戦線を拡大していきました。

この関東軍の暴走を止められなかった若槻内閣は総辞職します。

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傀儡国家の誕生

昭和七年(1932年)3月、関東軍は中国から満州の分離独立を画策し、満州国を建国しました。

満州国は清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政として擁立しましたが、実質的には関東軍や日本の官僚が完全支配する日本の傀儡(かいらい=あやつり人形)国家でした。

しかし、若槻内閣の後に組閣した犬養毅内閣はこの満州国を承認しませんでした。

そのため、これを不服とした海軍将校などにより犬飼首相は暗殺されてしまいます。(五・一五事件)

五・一五事件によって政党内閣が軍部に倒されたことにより、それまでの政党政治が崩壊する結果となりました。(5月15日付ブログ参照

同年9月、犬飼内閣の次に組閣した海軍出身の斎藤実内閣は満州国との間に日満議定書を取り交わして満州国を承認しました。

「他所では困難な悪質ヤミ金にも対応!!」
国際的孤立への道

一方、中国は満州事変以来の日本の軍事行動が、不戦条約などに違反する侵略行為だとして国際連盟に提訴していました。

このため連盟はイギリスのリットン調査団を中国に派遣し、1932年2〜9月まで現地を調査させます。

同年10月、調査団による現地調査の結果をまとめたリットン報告書が連盟に提出されました。

調査の結果、

満州事変は日本の自衛行動ではなく侵略行為であり、満州国も満州人による自発的独立ではなく、日本軍が満州における既得権益拡大のため勝手に建国したもの

という事実が明らかになりました。

連盟はこの報告書の内容を受けて翌年2月に国連総会を開き、満州国建国の否認と日本軍の満州からの撤退を審議します。

審議の結果、賛成42 対 反対1(日本のみ)となり、この決議は可決されます。

しかし、日本の全権大使であった松岡洋右

「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」

と発言して、この総会を途中退場したのです。
国際連盟脱退.jpg
 国連総会の結果を伝える新聞記事

そして3月27日、日本は正式に国際連盟脱退を表明しました。

その後、日本はワシントン・ロンドンで締結された海軍軍縮条約の破棄を通告、軍事独立化を進めますが、同時に世界からの孤立も深めていきました。



まとめ

  • 関東軍は柳条湖事件をきっかけに満州事変を起こし、政府の不拡大方針を無視して満州に侵攻した

  • 関東軍は清朝最後の皇帝・溥儀を擁立して満州国を建国したが、犬養内閣が承認を拒んだため五・一五事件を起こして犬飼首相を暗殺した

  • リットン調査団の報告により日本の侵略行為が判明し、国連は日本の満州撤退を決議したが日本はこれを受け入れず国際連盟を脱退した


溥儀はフルネームを「愛新覚羅 溥儀」といい、1987年に公開された映画 『ラストエンペラー』の主人公として知られています。

2020年03月23日

源平最後の決戦! 壇ノ浦の戦い

源平合戦のクライマックス

明日3月24日は源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いが行われた日です。(文治元年 1185年)

源氏と平氏の戦いは、治承四年(1180年)5月に以仁王と源頼政が挙兵したのを皮切りに始まりました。

当初は劣勢だった源氏ですが、翌年に平氏の棟梁・平清盛2月3日付ブログ参照)が亡くなったことにより徐々にその流れは源氏に傾き始めます。

源平合戦において、源氏の棟梁・源頼朝は鎌倉に入ってからほとんど動くことはなく、戦そのものは範頼義経の二人の弟たちに任せていました。

頼朝は平氏を滅ぼさない限り源氏の安泰はないと考え、最後まで平氏追討の手を緩めませんでした。

頼朝の非情なまでの冷徹さと比べ、その頼朝を殺さなかった清盛は武士の棟梁としての“甘さ”があったと言わざるを得ないかもしれません。(1月13日付ブログ参照

範頼と義経の活躍により、まるで坂道を転げ落ちるように滅亡へ向かってしまった平氏ですが、彼らもただ手をこまねいていたのではなく、彼らなりに最善の手を打っていました

まず平氏が西へ移動した理由は、東国がもともと源氏の勢力が強かったのに対し、西国は平氏の勢力圏にあったためです。

そして海での戦いを挑んだのは、水軍を持たない源氏に対し平氏は海上戦を得意としていたからです。

しかし、一度相手に傾いてしまった流れを引き戻すのは容易ではありませんでした。

というわけで、今回は壇ノ浦の戦いについて語りたいと思います。

一ノ谷の戦いは義経の奇襲が勝因ではなかった !?

寿永三年(1184年)1月、先に京へ入った木曾義仲1月20日付ブログ参照)を倒した範頼と義経は、その勢いのまま平氏追討に向かいます。

同年2月、平氏は摂津(兵庫県東部)一ノ谷に陣を構えて源氏を迎え撃つ体制を整えました。

この時、平氏の軍勢は源氏を上回っており、戦上手の義経といえども正面からぶつかっては勝ち目はありません。

かといって平氏の背後を突こうにも、後ろには険しい岩山がそびえ立つ通称・鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる難所がありました。

しかし、義経は敢えてここに目を付けたのです。

地元の者に「鹿が何とか通れるくらいのかなり険しい崖のような道」と説明されましたが、義経は

「鹿が通れるなら馬が通れぬはずがない」

と、鵯越を馬で攻め下り背後を突いて見事に平氏軍を敗走させました。

これが世に名高い「鵯越の逆落とし」です。


ところが、一ノ谷合戦の勝因は実は他にあったという説があるのです。

それは、後白河法皇による謀略です。

法皇は範頼と義経に平氏追討を命じておきながら、平氏には「源氏との和平交渉が成立した」と偽っていたのです。

法皇の言葉を信じた平氏軍は、油断して武装を解いたところで源氏の攻撃を受けたために惨敗したというのです。

実際、法皇の謀りごとを非難する内容が書かれた平氏の手紙が残っています。

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弓の名手・那須与一は実在しなかった !?

文治元年(1185年)2月、範頼と義経は一ノ谷から讃岐(香川県)屋島に逃れた平氏を追ってきました。

海を挟んで源平両軍が睨み合っていたところ、平氏側から一艘の舟が現われ、その舟の舳先には竿の先に付けた扇が高く掲げられていました

これは、「源氏には扇を一撃で射抜けるほどの弓の名手がいるのか?」という挑発だったのです。

義経は家来の那須与一を抜擢し、与一は期待に応えて見事、扇を一撃で射抜いてみせました。

この逸話は以前に紹介した屋島合戦のハイライト「扇の的」ですね。(7月23日付ブログ参照

実は、この屋島合戦のヒーロー・那須与一は実在したかどうかが疑われているのです。

というのも、与一の名は『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語にしか登場せず、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』など信憑性の高い史料には出てこないからです。

『那須氏系図』によると、与一は下野(栃木県)出身で地元の豪族・那須資高の子で本名が宗高となっています。

ですがこの系図も、「扇の的」のエピソードが軍記物語などであまりに有名になったため、後から書き加えられたのではないかともいわれているのです。

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最終決戦に敗れ平家滅亡

文治元年(1185年)3月、平氏はさらに西へ逃れ、生き残りをかけて長門(山口県)の壇ノ浦で源氏を迎え撃つことになりました。
壇ノ浦.jpg
 壇ノ浦古戦場

平氏が壇ノ浦を決戦の地に選んだのは、本州と九州の間に位置する関門海峡は激流で知られており、ここで戦えば海上戦を不得手とする源氏に勝てると考えたからです。

戦いが始まると、平氏は潮の流れを味方につけたことにより、劣勢だった兵力差を跳ね返して戦いを優位に進めました。

この時、平氏軍に追われた義経が舟から舟へ次々飛び移る“八艘飛び”をしたという伝説が残っています。(5月1日付ブログ参照

ところが午後になって潮の流れが変わると形勢は逆転、源氏は兵力差にものをいわせて見る見るうちに平氏を追い込みました。

もはやこれまでと覚悟を決めた二位尼(平時子、清盛の妻)は、わずか8歳の孫・安徳天皇を抱いて舟から海へ身を投げました。

入水の際、安徳天皇が「どこに行くの?」と尋ねると、二位尼は

「波の下にも都がございますよ」

と優しく答えたといいます。

この戦いの敗北により、ついに平氏は滅亡しました。


『平家物語』

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす

 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」


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まとめ

  • 一ノ谷の戦いは義経の「鵯越の逆落とし」よりも後白河法皇の謀略に源氏の勝因があった

  • 屋島の戦いで「扇の的」を射抜いた那須与一は実在が疑われている

  • 壇ノ浦の戦いで平氏は海上戦に活路を求めたが、最後は敗れて平氏は滅亡した


ちなみに、歴代の天皇に代々継承される「三種の神器」草薙剣・八尺瓊勾玉・八咫鏡)のうち草薙剣は、二位尼が腰に差したまま海に飛び込んでしまったので、この時に紛失したといわれています。

2020年01月03日

新時代の幕開け 鳥羽伏見の戦い

明けまして おめでとうございます

令和二年(2020年)最初の投稿です。

皆さんお正月はいかがお過ごしですか?

人それぞれお正月の楽しみ方はあると思うのですが、僕は毎年、初日の出を見に行くのが正月の楽しみの一つです。

しかし、残念ながら今年は見れなかったのです!(泣)

毎年、神奈川の西湘あたりの海岸に行って初日の出を拝んでいるのですが、今年は水平線のかなり上の方まで厚い雲に覆われていて・・・。

海に初日の出を見に行くと、晴れそうでも水平線上にだけ雲が垂れ込めているのはよくあることなのですが、日の出予定時刻から20分以上待っても太陽は現れず、しばらく雲も動きそうになかったので諦めました。

それなのに、昼間になるとやけに天気良かったのが恨めしかったですね。

きれいな初日の出の写真をここに載せたかったので残念です!


さて、今日1月3日は鳥羽伏見の戦いが行われた日です。(慶応四年 1868年)※改元前

鳥羽伏見の戦いとは、前年10月に大政奉還した徳川方の旧幕府軍と、薩摩・長州藩を中心とした新政府軍が最初に激突した戦いです。

旧幕府軍と新政府軍の争いは鳥羽伏見の戦いを皮切りに翌年5月まで約1年5ヶ月に渡って行われ、これらの戦いを総称して戊辰戦争(ぼしんせんそう)といいます。

大政奉還により政権を返上したはずの徳川が、なぜ新政府と戦うことになったのでしょうか?

というわけで、今回は戊辰戦争の火蓋を切った鳥羽伏見の戦いについて語りたいと思います。

薩長の逆襲

慶応三年(1867年)10月14日に行われた大政奉還10月14日付ブログ参照)により、討幕派の薩摩・長州藩の機先を制した最後の将軍・徳川慶喜は、政権返上後も徳川家の権力維持を目論んでいました。

しかし、徳川家の権力維持を認めず、武力行使による巻き返しを画策していた薩長ら討幕派は、慶応三年(1867年)12月9日、公家の岩倉具視・薩摩藩の大久保利通らを中心に朝廷を巻き込んだクーデターを決行し、天皇より王政復古の大号令が発せられました。

これにより、それまでの征夷大将軍や摂政・関白を廃止、新たに総裁・議定・参与の三職を制定し、朝廷と薩長を中心とした天皇親政を確立するため新政府が発足しました。

さらに、その夜に行なわれた三職による小御所会議では、天皇の名において慶喜に辞官納地(官位の辞職と幕府領を朝廷へ返還すること)を命じ、徳川家の権力を剥奪しました。

ほとんど一方的に官位や幕府領を奪われてしまった慶喜は、この決定にとうてい納得できるはずはなく、急遽大坂城に入り、幕府の軍勢を集め臨戦態勢を整えました。

そして各国の公使に対し慶喜は「諸外国との交渉権はあくまでも幕府にあり、薩長が勝手に決めた王政復古は無効である」と通達します。

この状況に全国の諸大名は幕府側と新政府側のどちらに従うべきか、態度を決めかねていました。

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決起する旧幕府軍

このどっちつかずの状況を打開し、武力により一気に決着をつけたい薩摩の西郷隆盛9月24日付ブログ参照)は、江戸で薩摩藩が暴動を起こすことで幕府側を挑発し、決起を誘発するという作戦に出ました。

隆盛の作戦は見事に当たり、江戸における薩摩藩の暴挙を知った幕府側に「薩長許すまじ!」の機運が高まり、ついに幕府軍は立ち上がります。

慶応四年(1868年)1月3日、京都南部の鳥羽・伏見において、会津・桑名を主力とする旧幕府軍1万5千と薩摩藩を主力とする新政府軍5千が激突しました。

数の上では勝る旧幕府軍でしたが、新政府軍の装備する近代兵器に圧倒され敗れてしまいます。

翌日、緒戦の勝利で勢いづいた新政府軍は嘉彰親王(よしあきしんのう)を征討大将軍に奉り、朝廷の「錦の御旗」を掲げることで自分たちを「官軍」と称し、旧幕府軍を「朝敵」としました。
錦の御旗.jpg
 錦の御旗

錦の御旗とは、天皇の命令を受けた正式な朝廷軍であることを示すものです。

新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、いよいよ朝廷が旧幕府軍討伐の旗色を明確にしたため、態度を決めかねていた諸藩は旧幕府軍から続々と離反していきました

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敵前逃亡した慶喜

緒戦で敗れた旧幕府軍ですが、1月6日に慶喜は大坂城内で「たとえ千騎が一騎になっても退却するな。もし、ここ関西で敗れても関東がある。関東で敗れても水戸がある。決して戦うことをやめてはならない!」と、幕兵たちに檄を飛ばし、徹底抗戦を促しました。

ところがその夜、思いもよらない事態が起こります。

徹底抗戦を宣言していた慶喜が、会津藩主・松平容保らわずかな側近を連れて大坂城を脱出、大阪湾に停泊する幕府の旗艦・開陽丸にに乗り込んで海路江戸へ逃げ帰ってしまったのです。

しかもこの時、慶喜は家康以来の徳川家の象徴である金扇の旗印を大坂城に置き忘れるという失態をも犯しています。

この慶喜の体たらくに幕兵たちは呆れ返り、完全に戦意を喪失してしまいました。

旧幕府軍の総大将でありながら、なぜ慶喜は“敵前逃亡”してしまったのでしょうか?

鳥羽伏見の戦いはあくまで局地戦であり、ここで敗れても慶喜が改めて全国の諸大名に号令すれば、数に勝る幕府軍に勝ち目もあったと思われますが、慶喜はそうはしませんでした。

また、敵前逃亡の理由についても生涯語ることはありませんでした。

こうした理由には、慶喜の生い立ちに起因している可能性があります。

水戸出身の慶喜は、幼少の頃から水戸学の中核をなす「尊王論」(天皇を絶対的権威として尊崇する思想)の教えを受けてきました。

その慶喜にとって、徳川家が「朝敵」の汚名を着せられることだけは避けたかったのではないでしょうか?

つまり、たとえ敵であろうと「錦の御旗」を掲げた朝廷軍に弓を引くことはできなかったと考えられるのです。



まとめ

  • 大政奉還後も武力討幕にこだわった薩長は王政復古の大号令を起こし、徳川家の権力を剥奪した

  • 巻き返しを図る旧幕府軍は鳥羽・伏見で新政府軍と戦うが敗れた

  • 徳川慶喜が敵前逃亡した理由は、徳川家が朝敵となることを避けたかったからと考えられる


本日からの始動となりましたが、今年もよろしくお願い致します。

2019年12月20日

家康を震撼させた甲州軍団 三方ヶ原の戦い

“最強軍団” に挑んだ若き家康

明後日12月22日は三方ヶ原の戦いが行われた日です。(元亀三年 1572年)

僕の好きだった大河ドラマ『武田信玄』(昭和六十三年 1988年)の中でも特に印象に残っているのが、この三方ヶ原の合戦開始のシーンです。

浜松城から出てきた徳川軍を見た信玄(中井貴一)の一言

家康、血迷うたか・・・山津波の如く、一気に襲え!」

このセリフには正直、鳥肌が立ちました!


群雄割拠の戦国時代を生き抜いて、最後に天下を獲ったのが徳川家康4月17日付ブログ参照)ですが、家康には生涯に二度の大きな危機があったといわれています。

一つは天正十年(1582年)本能寺の変後の伊賀越え9月22日付ブログ参照)、もう一つがこの三方ヶ原の戦いです。

当時、“戦国最強”の呼び声もあったほど無敵を誇った武田信玄4月10日付ブログ参照)率いる甲州軍団に戦いを挑んだ家康にとって、後の人生に大きな教訓を得ることになった合戦といえるでしょう。

一方の信玄にとっては、上杉謙信との5度にわたる川中島の戦いで凌ぎを削った甲州軍団の強さを改めて全国に知らしめた一戦でもあります。

また、三方ヶ原の戦いは合戦そのものだけでなく、まだ若かった家康と百戦錬磨の信玄の心理戦による駆け引きにも注目すべき点が多いのです。

というわけで、今回は三方ヶ原の戦いについて語りたいと思います。

上洛作戦を開始する信玄

永禄十一年(1568年)、武田信玄は三国同盟を破棄して駿河(静岡県)の今川家を攻めて以来、相模(神奈川県)の北条家とも手切れとなっていましたが、元亀二年(1571年)再び北条家と同盟を結びました。

北条家との再同盟により背後を突かれる心配がなくなった信玄は、長年にわたる念願であった上洛(京都に上ること)をついに決意し、いよいよ天下取りに向けて動き出します

元亀三年(1572年)10月、信玄は2万5千の軍勢を率いて甲府を出発、信濃(長野県)の高遠から伊那谷を通り青崩峠を越えて(現在の秋葉街道)、遠江(静岡県西部)に入りました。

信玄出陣の報告を受けた徳川家康は、同盟者の織田信長に援軍を要請します。

武田軍が家康の領地を越えて自らの領地である尾張(愛知県)・美濃(岐阜県)に侵攻するのを阻止したい信長は、3千の援軍を家康のもとに差し向けました。

この間にも武田軍は徳川方の二俣城などの支城を次々と落とし、家康の居城・浜松城に近づいていました。

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三方ヶ原におびき出された家康

信長からの援軍3千を加えてもまだ武田軍の半数にも満たない1万1千の徳川軍は、野戦では勝ち目がないと判断し籠城を選択、浜松城で武田軍を迎え撃つことにしました。

ところが、武田軍は浜松城の近くまで来たものの城攻めはせず、浜松城を通過して西へ向かってしまったのです。

自らの眼前を素通りされるという屈辱を受け、このまま指をくわえて見過ごすわけにはいかない家康は、家臣たちの反対を振り切って出陣します。

但し、家康も無策に城を飛び出したわけではありません。

浜松城から西へ向かうと大きな坂があり、その坂上から武田軍の背後を突けば小勢でも勝機はあると考えていたのです。

しかし、家康よりも信玄の方が一枚上手でした。

武田軍が浜松城の前を通過したのは、長丁場になる籠城戦を避け、家康を城からおびき出し野戦に持ち込むための陽動作戦だったのです。

信玄の目論み通り、まんまとおびき出された徳川軍を確認した信玄は軍勢を反転、坂上から勢いよく徳川軍に襲い掛かりました

両軍は浜松城の北、三方ヶ原で激突します。

奇襲を仕掛けるつもりでいた家康が逆に仕掛けられる格好となってしまい、徳川軍は家康の側回りにいた旗本まで討ち取られるほどの大敗を喫し、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰りました

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自らへの戒めを忘れない家康

武田軍の猛攻から辛うじて逃げ延びた家康は、あまりの恐ろしさになんと馬上で脱糞してしまったのです。

これを見た家臣の大久保忠世は「殿は糞をたれ流して逃げ帰ったぞ!」と敢えて大声を出して笑い、大敗して意気消沈していた城兵を笑わせたといわれます。


城に戻った家康は意外な行動に出ます。

浜松城の城門を開け放ち、かがり火を焚いてその状況が敵からよく見えるようにしたのです。

これは、空城の計といわれるもので、中国の『三国志』で諸葛孔明が用いたとされる作戦です。

つまり、敢えて無防備な状態を敵に晒すことで、相手は「何か罠があるのではないか?」と疑心暗鬼になり、躊躇して攻められなくなってしまうという一種の心理作戦なのです。

しかし、軍法にも精通していた信玄は、これが空城の計であろうことを見破っていました

ところが、信玄は「この私相手に家康がこんな子供騙しの作戦を採るだろうか?」と更に考えてしまい、結局城攻めはしなかったことで、家康は命拾いしました。


家康は多くの家臣を失った今回の無謀な合戦を猛省し、二度と同じ過ちを繰り返さないことを肝に銘じるため、惨敗した直後の惨めな自分の姿を肖像画に描かせました

その時の絵がこちらです。
徳川家康.jpg

家康はいつもこの絵を傍に置き、慢心しそうになった時に見て自分を戒めたといいます。



まとめ

  • 武田信玄は天下を狙うため上洛を開始し、徳川家康の遠江に侵攻した

  • 信玄の陽動作戦により城からおびき出された家康は三方ヶ原で大敗した

  • 敗れた家康は直後に惨めな自分の姿を描かせ、生涯この絵を自分への戒めとした


僕も「空城の計」は、敵の心理を逆手に取ったなかなか面白い作戦だと思いました。
例えば、玄関が思い切り開いてる家をプロの泥棒が見たら、逆に警戒して入れないでしょうね。
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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