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2021年09月24日

日本史 室町時代 応仁の乱


  


  日本史 室町時代 応仁の乱

 「実は将軍家の跡継ぎ争いでは無かった」

  応仁の乱が11年も続いた本当の理由



  9-24-30.png 9/24(金) 10:16配信



   9-24-30.jpg

       歌川芳虎(江戸時代)の作品(写真 Japanese-finearts.com)9-24-30


 何故、応仁の乱は11年間も続いたのか・・・東京大学史料編纂(へんさん)所の本郷和人教授は「戦の切っ掛けは足利将軍家の跡継ぎ問題だが、それ以上に重要な事が在る。それは、瀬戸内海の交易権を巡る経済戦争としての側面だ」と云う・・・

 本稿は、本郷和人『日本史の論点』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。


           9-24-31.jpg   

            東京大学史料編纂所教授 本郷 和人 9-24-31


 八代将軍・義政には長いこと子供が出来無かった  

 「応仁の乱」(1467〜1477年)の切っ掛けに付いては諸説在りますが「原因は足利(あしかが)将軍家の跡継ぎ問題だった」と云うのが定説です。
 当時の室町幕府がドンな状態だったかと云うと、クジ引きで選ばれた六代将軍の足利義教(よしのり)が暗殺され、義教の息子で在る足利義勝(よしかつ・1434〜1443年)が七代将軍に就任して居ました。処が、義勝は未だ幼い内に亡く為ってしまい、八代将軍として義勝の弟で在る足利義政(よしまさ・1436〜1490年)が選ばれました。
 
 義政は、銀閣寺を建てた人としても知られて居ますが、長い事子供が出来ませんでした。次の将軍を如何するか考えた際、義政は「自分の弟に僧侶に為って居る者が居るから、彼に将軍の位を譲る」と言い出しました。処が、その出家した弟にその事を伝え還俗(げんぞく)して貰おうとすると難色を示されます。

 弟が還俗した後に息子が産まれる  

 弟からして見れば、父の六代将軍で在る義教は暗殺されて居るし、将軍に為る事が良い事の様にも思え無い。だから「義政兄さんは未だ若いから子供が出来るかも知れ無い。もし息子が出来た場合、自分が居たらどうせ邪魔にされるだろうからイヤだ」と断りました。
 しかし義政は「大丈夫だ。ドンな事が在ってもお前を後援するから、還俗して自分の跡を継いで呉れ」と言う。 そこ迄言われるのなら仕方が無いと、還俗し足利義視(よしみ・1439〜1491年)と名乗る様に為りました。  

 処が人生とは皮肉なものです。ソンな話をした翌年、足利義政の妻で在る日野富子(ひのとみこ・1440〜1496年)が息子を産んでしまいます。それでも八代将軍の義政は「息子は生まれたものの、弟と約束している以上、将軍職は予定通り弟に譲る」と考えて居ました。
 還俗した義視の立場からすれば「アレだけ強く約束したのだから、息子が生まれたからと云って、約束を反故(ほご)にするのは勘弁して呉れ」と主張するのは当然です。でも日野富子にして見れば、自分がお腹を痛めて産んだ子を将軍にしたい。そこで、九代将軍に誰を据えるべきかと云う問題が勃発しました。

 高級娼婦から「貴方の子よ」と言われたものの・・・  

 足利将軍家で問題が起こって居た頃、畠山(はたけやま)家も同様の問題で揉(も)めて居ました。ここで簡単に、室町幕府の政治事情に付いて補足させて下さい。
 当時の室町幕府は、斯波(しば)家・畠山家・細川家の三つの家が代わる代わる〔管領(かんれい)〕に為る事で運営されて居ました。〔管領〕とは幕府の実質的な政治責任者の事。詰まり畠山家は、幕府政治に非常に強い発言力を持って居る家柄だったのです。  

 クジ引き将軍・義教の八百長の実行者としての疑いが在る畠山満家(みついえ)も畠山本家の当主です。又、満家の息子の畠山持国(もちくに・1398〜1455年)は、畠山家の全盛時代を築いたと言われる程に優秀な人物でした。  
 処が彼の次を決める際に、息子で在る畠山義就(よしなり・1437?〜1491年)と甥に当たる畠山政長(まさなが・1442〜1493年)の間で非常に面倒な跡継ぎ問題が起きてしまったのです。如何して息子が居るのに甥(おい)が後継者候補に挙がり、更に二人の間でバトルが起こったのか。

 過つて、畠山持国はオペラの〔椿姫〕の様な高級娼婦と深い仲に為り、相手の女性が妊娠して男の子を生みました。女性からは「貴方の子よ」と言われたものの、何せ相手は高級娼婦、数多くの恋人が居る筈です。そこで、持国は「エ、本当に自分の子なの?」と云う疑いを抱きました。
 誰の子だか判ら無い男の子を自分の家に迎え入れたくは無い。そこで持国は、息子が生まれたら直ぐに寺に送り僧侶にして仕舞いました。

 行き成り息子が登場して後継者争いが勃発  

 月日が経(た)ち、持国は跡目に付いて考える様に為りました。「私には息子が出来無かったな。仕方無い甥の政長を後継者にしよう」と決めました。しかし、或る時京都に在る相国寺(しょうこくじ)へ行くと「アレ?  もしかして、お父さんじゃないですか?」と一人の少年に話し掛けられます。
 それは、過つて〔椿姫〕から生まれ落ち自分が寺へ送った息子でした。赤ん坊の頃には判りませんでしたが、イザ成長した息子を見てみると、その顔は自分に瓜二つ(うりふたつ)です。「これは、自分の子に違い無い」と持国は確信します。  

 折角息子が居るの為らば、甥では無くて息子に跡を継がせたい。そう思った持国は、その僧侶を還俗させ義就(よしなり)と名乗らせ家へ連れて帰るのです。
 サテ、此処で困ったのは、政長とその家来達です。政長にして見れば「自分が後継者に為ると思って居たのに、行き成り出て来た息子にその地位を搔っ攫(かさら)われてしまうのか」と愕然(がくぜん)としたでしょう。
 政長の家来達にしても、将来的には政長が家督を継ぐと思って居たからコソ、一生懸命彼に取り入る努力をして居た訳で「だったら、これ迄の自分の努力はナンだったのだ・・・」とガッカリしてしまったでしょう。  

 逆に、政長に取り入るのに失敗して居た家来達は「新しい跡取りと為る義就さんに取り入ろう」と考えて義就を持ち挙げます。この跡目争いに依って畠山家は真っ二つに割れてしまいました。しかも、騒動の最中に問題の原因を作った持国は死んでしまい、争いは苛烈(かれつ)を極めました。

 畠山家と足利将軍家の跡継ぎ問題で幕府が真っ二つに  

 ドチラが家督を継ぐべきかを議論した末、幕府側が支持したのは甥の政長側でした。一方の義就は、謀反人と認定され討伐の対象に為りました。それでも、義就は自分の名誉を守る為懸命に戦いました。応仁の乱に登場して来る武将は皆軍事面では平凡です。ですが例外的に畠山義就は戦上手でした。
 その様子に目を付けたのが山名一族の長で、当時の幕府に大きな権力を持って居た山名宗全(そうぜん・1404〜1473年)です。粘り強く戦う義就を見て「此奴は使えるな」と思った彼は「山名は義就を支持する事を決めた」と宣言します。  
 
 困ったのは政長です。山名宗全が義就を支持するの為らば自分は如何為るのかと不安に為った彼は、三管領で在り幕府内で山名と対抗出来るだけの力を持つ細川勝元(かつもと・1430〜1473年)に「自分を支持して呉れますよね?」と詰め寄った。
 勝元は「勿論貴方を支持しますよ」と賛同します。此処で、幕府内に、畠山義就を推すグループと畠山政長を推すグループが誕生します。

 この畠山家と足利将軍家の跡継ぎ問題に依って室町幕府は、細川勝元が率いる東軍と山名宗全率いる西軍に真っ二つに割れました。両者の争いは、京都で十一年間の長きに渡って行われ、気が付いたら京都は焼け野原に為って居た。これを「応仁の乱」と呼びます。

 応仁の乱の本質は「誰が幕府の運営をするか」を巡る権力争い  

 教科書等では、非常に複雑な人間関係で説明される応仁の乱ですが、この解釈の問題点は、両軍が何を求めて戦って居たのかがハッキリし無い点です。では僕は如何考えるか・・・僕は応仁の乱の本質は「誰が幕府を運営するか」を巡る権力争いだったのだと思います。平凡過ぎますか?マア聞いて下さい。

 改めて考えてみたいのが将軍の地位に付いてです。以前、将軍職は「私が遣ります!」「嫌、私が!」と人々が奪い合う華々しい地位でした・・・例えば、クジ引き将軍義教の兄弟、大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)は将軍の座を狙って運動し討たれて居ます。
 が、応仁の乱前後の将軍職と云うものは左程魅力的なものでは無いし、何と云っても義教(よしのり)が暗殺された影響か将軍自体の影響力も失墜して居ました。だから、将軍家の跡継ぎ問題等はどう転んでも幕政に変化を齎(もたら)すものでは無かった。

 寧ろ、重大な意味を持ったのは〔細川と山名に依る幕府内の勢力争い〕です。その頃、両家の火種に為って居たのは、瀬戸内海の交易権ではないかと僕は思って居ます。瀬戸内海の交易は当時非常に盛んでしたので、コレを押さえれば豊かな富が手に入ります。
 瀬戸内海交易の延長線上には、日明(にちみん)貿易の利権も在ります。日明貿易は儲(もう)かるので、誰もが遣りたいと考えるのですが、明との交易は将軍の名が無いと出来ません。

 自分が幕府の実権を握って将軍を自在に操れれば、日明貿易も手中に収める事が出来ます。そこで細川と山名は、瀬戸内海沿岸にどれだけ自分の拠点が築けるかを争います。 細川は四国を拠点として居り、堺の商人と連携して居ました。
 対する山名は、備後(びんご)や安芸(あき)現在の広島県辺りに拠点を構え、航行する船に対して税金を取って居ました。更に山名の盟友には、山口に拠点を持つ大内氏が居ます。

 大内は「自分は朝鮮の王朝の子孫だ」と名乗って居た程なので朝鮮との交易も行って居ます。又、彼は博多の商人とも確りと繋がりを結んで居たので明との交易にも強かった。  
 詰まり、室町時代には〔ドチラが瀬戸内海の交易権を押さえるか〕を争う〔経済戦争〕が行われて居た。それが、応仁の乱が十一年も続いた要因のひとつではないかと僕は思います。



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 本郷 和人(ほんごう・かずと) 9-24-32 東京大学史料編纂所教授  1960年東京都生まれ 文学博士 東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事 専門は日本中世政治史・古文書学 『大日本史料 第五編』の編纂を担当 著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書) 『軍事の日本史』(朝日新書) 『乱と変の日本史』(祥伝社新書) 『考える日本史』(河出新書) 監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数


 文章 東京大学史料編纂所教授  本郷 和人











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