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2021年09月26日

家康が 湿地帯の江戸に 幕府を開いたのは必然だった・・・



  湿地帯で片田舎の江戸に 

  太田道灌が着目し 徳川家康が幕府を開いたのは必然だった


  伊東潤×本郷和人 9/23(木) 18:01配信


 9-23-20.jpg

 作家の伊東潤氏と本郷和人東京大学史料編纂所教授が対談! 片田舎だった江戸になぜ道灌は着目したのか 写真 中央公論新社 9-23-20


 オリンピック開催で注目を浴びた東京。歴史を遡(さかのぼ)れば、1457年に関東の武将・太田道灌が江戸城を築き、1603年に徳川家康が幕府を開いた事が今の繁栄に繋がる。その太田道灌と戦ったのが道灌の従兄弟(いとこ)で、主に対して謀反を起こした戦国の鬼・長尾景春だ。
 この度、景春の生涯を描いた小説『叛鬼(はんき)』の著者で作家の伊東潤氏と本郷和人東京大学史料編纂所教授が対談。ソモソモ過つての江戸とは湿地帯が広がる片田舎。道灌は何故江戸に着目したのか・・・

              * * * * * * *


 ◆上杉氏とは何者だったのか?

 ・・・上杉氏と云えば越後の上杉謙信の印象が強いですが『叛鬼』を読むと、古くから関東で重要な役を果たして居た事が判ります。謙信の姓も元々は長尾で、関東管領を受け継いでから上杉を名乗って居ます。ソモソモ上杉氏とは何者だったのかを教えて下さい。

 本郷 先ず概略を説明すると、源氏三代・藤原氏(九条家)二代に続き後嵯峨(ごさが)天皇の皇子・宗尊親王が鎌倉幕府六代目の将軍に為ります。宗尊親王は母親の身分が低く皇位も継げず、僧侶に為るしか無いと思われて居たので、幕府が将軍に欲しいと云って来たのは渡りに船でした。
 宗尊親王の家臣として京都から鎌倉に下って来た下級貴族の一人が上杉です。その後、どの様な経緯かはハッキリして居ませんが、鎌倉幕府の御家人で在る足利家の家臣に為って、上杉の娘が足利の子供を産むケースが増える程信頼される様に為ります。尊氏を産んだのも上杉清子です。

 室町時代に為ると将軍の外戚として力を持った上杉は、鎌倉公方の第一の家臣・関東管領として関東全域の政治を担う様に為ります。時代が下り、14世紀位に為って本家が犬懸(いぬけん)・山内(やまうち)・扇谷(おうぎや)の三つに分かれるのですが、最初に犬懸が潰れ、山内・扇谷が残る。これが『叛鬼』の時代です。
 その後、北条早雲の孫の北条氏康が起こした河越夜戦で、当主・上杉朝定が戦死して扇谷が滅び、山内も北条に追い詰められて越後に落ち延び、生活の面倒を長尾に見て貰う代わりに上杉の名跡を譲る。こうして誕生したのが上杉謙信です。


           9-23-21.jpg
          
        「上杉八将図」江戸時代18世紀 絹本着色 出典東京国立博物館   
    ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/A-12353?locale=ja)9-23-21



 何故長尾では無く 上杉を名乗り続けたのか ?

 伊東 疑問なのは、謙信は姓を上杉に変えますが、関東管領の権威が無く為った後、長尾に戻す事も出来たのに上杉を名乗り続けましたね。後継者の景勝も上杉のママで、結果的に明治迄続いて行きますよね。
 本郷 それ処か越後の各地に居た長尾一族が謙信が上杉に改姓すると、皆上杉を名乗って居ます。
 伊東 一方で足利姓は関東で重んじられませんでした。逆に足利家の家臣に過ぎ無い上杉姓が関東では幅を利かせて居たと云うのは面白いですね。

 本郷 そうですネ。鎌倉時代の北条みたいな存在が上杉なので、関東の人間に取ってはブランドに為って居たのかも知れません。権威は重要で、武田信玄も有能な家臣を見付けると、甲斐や信濃の名家へ養子に出し、皆を納得させてから重臣にして居ます。馬場信春は、その典型ですね。
そう考えると、何処の馬の骨か分から無い人間を重臣に抜擢した信長は本当に変わって居たと思います。
 伊東 信長に付いては従来のイメージが随分と書き換えられて来ましたが、実力主義人事や抜擢人事に関しては画期的ですね。又、北条早雲を見て居ると、柵(しがらみ)が無い事が寧ろ強みに為ってる部分が在ります。権威に寄ら無いと、軍人も官僚も有能なら身分を問わず登用出来ます。そうした形で勢力を拡大した処は信長に似て居ます。


   9-23-22.jpg

         太田道灌公像 埼玉県川越市 写真提供 写真AC 9-23-22


 ◆湿地帯だった江戸に注目した太田道灌の慧眼

 ・・・『叛鬼』には、景春の宿敵として太田道灌が登場します。太田資清(おおたしきよし)の長男として生まれた道灌は、関東管領上杉家を補佐する扇谷上杉家の家宰(かさい)として、30年近く続いた「享徳(きょうとく)の乱」を戦った武将です。
 その道灌が江戸城を築き、それを徳川家康が引き継いで大都市に発展させ現代に繋がりますが、道灌の時代の江戸は湿地帯が広がる片田舎でした。何故彼は江戸に着目出来たのでしょうか?


 伊東 道灌の頃の江戸は大半が湿地帯で、僅かに田畑が散見される程度だと思われて来ましたが、港では船が往来し交易が盛んだったと云う記録も在ります。
 恐らく道灌は江戸を商都として発展させ、扇谷上杉家の経済基盤を強化して行く構想を持って居たのではないかと思います。その点、江戸は関東各地へと物資を輸送出来る好立地に在り、関東全域を支配するには最適です。

 私は北条氏が滅んだ最大の原因は、小田原から本拠を江戸に移せ無かった事に在ると思って居ます。江戸は河川を使った交易網が築けると云う経済的な側面は元より、軍事的な面でも関東各地に後詰勢を送り易い要地です。
 一方、関東の南西端に在る小田原では、豊臣勢の様な大軍に多方面から侵入された時、手も足も出ません。氏康の代で思い切って本拠を小田原から江戸に移して居れば、北条氏はもっと粘り強い抵抗が出来、もしかすると滅亡を免れて居たかも知れません。


 本郷 僕が疑問に思って居た事を伊東さんが説明して呉れました。確かに地政学的な重要性を見抜き、居城を江戸に定めたのは道灌の慧眼(けいがん)でしたが、道灌の力では江戸を大きな街に出来たかは疑問です。
 何と云っても、江戸は井戸を掘っても出るのは塩水だけでした。だから家康は、利根川を曲げて鹿島灘に注ぐ様にし、井の頭から上水道を引いて居ます。こうした大土木工事は、家康が天下人に為ったから可能に為ったもので、道灌では無理だったと思います。

 ◆何故関宿では無く江戸だったのか?

 伊東 井戸を掘っても海水しか出無かったと云うのは盲点でした。道灌の時代なら未だしも、北条氏が本拠を移すのは無理ですね。矢張り江戸に本拠を移すとしたら、江戸幕府が行ったように利根川の東遷事業とセットなんでしょうね。だとしたら北条氏は、江戸では無く関宿(編集部注 今の千葉県野田市周辺)辺りに本拠を移して置けば好かったかも知れません。



  9-25-5.jpg  

                 利根川付け替え工事 9-25-5

 
 本郷 成程。只関宿は海に面して居ないので、経済発展が難しいかも知れませんね。家康の時代に為ると、於大の方の子供で家康の異父弟に当たる松平康元が関宿城の城主に為って居ます。家康が一族で固めた程なので重要な街では在った筈です。
 伊東 そう考えると、関宿に本拠を移しても北条氏が生き残るのは難しかったかも知れませんね。北条氏は後の江戸幕府と比べると、遥かに権力基盤は弱いので、利根川流域の国人達を何処かに移封し、利根川の東遷事業を行う事など出来ませんしね。

 本郷 関宿も大工事を行えば拠点たる街に為ったかも知れませんが、同じ費用を掛けるなら江戸だったんでしょう。江戸湾の防衛を考えた家康は、巨大な船を使う朱印船貿易は浦賀で行う積りでした。だからペリーが江戸では無く浦賀に来たのは必然です。そうした知恵は受け継がれるものなので、道灌が見付け家康が完成させたのが江戸と云う街なんです。


 本稿は『叛鬼』(中公文庫)に収録した特別対談を再編集したものです。

 伊東潤 本郷和人



 〜管理人のひとこと〜

 東京への憧れが在ったのに、学校を卒業し大阪へと向かったのは、姉が大阪の学校に居た事も在るが、何と無く大都会の恐ろしさを予測して居たからだろう。子供の頃から聞いて居た、当時NHKラジオのドラマ「お父ちゃんはお人好し」での優しい大阪弁や人懐こい人間関係に温かい人情を期待して居た事も在るだろう。
 大坂の人間は表面は優しいのだが、心の中では他を寄せ付け無い意固地な処があり、最終的には私には馴染め無かった。卒業し仕事に就いて10年も経た無い内に「東京転勤」が決まり、会社が南浦和に社宅を探して呉れた。以来半ばに2年程の大阪勤務を除き後は東京で暮らして来た。憧れの東京で生活を始めた際には「東京か・・・」と何度も呟き感激したものだ。
 東京は大半が田舎から出て来た者なので、個人的に開けっピピロ気で大マカだった。直ぐに沢山の人達と友達になり個人的にも親しく為ったものだ・・・都会の懐の深さを知ったものだ。その後仙台と行ったり来たりして今に至るが、東京の生活が一番の青春のど真ん中だった事には違いない・・・懐かしい思い出も沢山在る。



















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