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2021年09月29日
安倍・菅を否定する新たな政治を 岸田政権に望む
祝 岸田総裁!!
自公で在っても 安倍・菅を否定する新たな政治を 岸田政権に望む
安倍・菅政権8年 「目くらまし」だったアベノミクス
世界での〔日本の埋没〕が加速した
寺島実郎 9/29(水) 13:00配信
菅義偉首相が9月3日、自民党総裁選(9月29日投開票)への不出馬を表明した。菅首相は、1年前に体調不良を理由に急きょ辞任した安倍晋三前首相を官房長官として支え、経済政策「アベノミクス」を引き継ぐと表明。その菅氏が退陣する事に依り、2012年12月の第2次安倍政権発足以降続いたアベノミクスは名実共に終止符が打たれる。
自民党総裁選とその後直ぐに行われる衆議院選挙を経て、どの様な政権が発足するのか現時点では不明だが、新政権が経済政策を打ち出すに当たっては過去8年半余りの総括が必要だ。アベノミクスは、多くのマイナス面を存在し無いかの様に無視し、数少無いプラス面を誇大に強調した為、多数の人々が「目くらまし」を受けた政策だったと云え様。
この間、日本は経済成長が停滞し、勤労者の生活は好転し無かった。日銀に夜異次元金融緩和を通じて為替を円安に誘導、輸出企業の業績は好転し、日銀と年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が資金を株式市場に振り向けた事で株価は上昇したが、資産を持つ者とそうで無い者の経済格差を広げた。
企業業績の改善と株高は、上場企業の経営者や、大半が高齢者層に分布する株式保有層には恩恵を齎(もたら)したものの家計の消費は増え無かった。
20年度の国内総生産(GDP)は536兆円に留まり、安倍政権が目標に掲げた600兆円に大きく届か無かった。株価や企業業績の好調を喧伝(けんでん)する一方で、全雇用者の3割以上が年収200万円未満の極めて厳しい生活水準を強いられて居る。
ソコに、新型コロナウイルスの感染拡大が襲い、国民生活の苦境に拍車を掛けた。秋に発足する新内閣が、それでもアベノミクスの路線を継承するか如何かを国民は注意深く見定めるべきである。
◇技能五輪での低迷
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アベノミクスへの評価で重要だと捉(とら)えて居る数字が、世界のGDPに於ける日本の比重だ。1994年には日本のGDPが世界の17・9%を占めたが、20年には6%に落ち込んだ。世界経済での日本の存在感がコノ四半世紀で3分の1に縮小した。
コロナ禍のトンネルを抜け出て、30年頃を想像すると4%台に落ちて行く事に為るだろう。前回の東京五輪(64年)の年が4・5%だったので、その頃に戻ると云う事だ。
今夏の東京五輪の開催に付いて様々な議論がメディアを賑わせたが、より真剣に考え無ければ為ら無いのは「技能五輪国際大会」に於ける日本の凋落(ちょうらく)振りだ。
十数年前迄は、日本は金メダルの獲得数で世界のトップを争って居たが、17年は9位、19年は7位だった。
製造分野の技能だけでは無く「美容・理容」「看護・介護」と云ったサービス技能の競技も種目化して居る。技能五輪での成績の落ち込みは、産業に於ける日本の現場力が急速に衰えて居る事を証明して居る。
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産業に関して重要なファクトをもう一つ取り上げたい。それは、ジェット旅客機の国産化プロジェクト「スペースジェット(旧名称MRJ)」の開発が挫折した事だ。三菱重工業が母体と為り「日本の産業技術を結集」すると意気込んで開発を進めて来た。
主翼に最先端技術を注入して米ボーイングや欧州エアバスよりも燃費に優れた機体を目指したものの、新技術を継ぎ込んだ場合、安全性証明の観点から米国での型式証明を取るには時間が懸かり、ボーイングが使って居る既存の素材を使った方が早いと気付き、開発がドンドン後退する中で、航空需要に打撃と為るコロナ禍が来てしまった。
日本企業が担って居る部品・部材・素材等の要素技術は大変高度なものでは在るが、高度な技術力を持って居る事と、飛行機を完成させる事は次元が違う。
今日本に求められて居るものは「総合エンジニアリング力」で在る。個別の要素を組み合わせて完成体を作る力が必要だ。
◇「食と農」と「医療・防災」
戦後の日本が工業生産力モデルの優等生として世界の先頭に立ち、基幹産業の鉄鋼・エレクトロニクス・自動車産業等が外貨を稼いで国を豊かにしようと只管(ひたすら)走り、そのピークを迎えたのが94年。アレから二十数年が経ち、何時の間にか世界経済の中で埋没して居る。
しかし、工業生産力モデルを強化して「再び日は昇る」と願っても実現し無い。粗鋼生産がピークの1億2,000万トン(07年)に戻る事は無く、今年は8,000万トンを割り込むだろう。エレクトロニクス分野は、日立製作所が必死に為ってソフトウエア産業への業態転換を図って居る様に、付加価値の源泉がモノ作りからソフトに移行して居る。
自動車産業では、EV(電気自動車)化と云う流れを受けて、ガソリン車は走らせ無いと云う世界のルールが確立され様として居る。エネルギー効率が相当良いハイブリッド車ではダメなのかと立ち向かっても認められ無いのが、日本の自動車産業が置かれて居る現状で在る。
円安に誘導したアベノミクスに依って、輸出産業の国際競争力を高めたと云うよりも、円高圧力から日本企業を解放し、安易に収益を高める事が出来ると云う経営が蔓延(はびこ)ったと感じる。自国の通貨が国際社会で、ジワジワと評価を高めて行く事が健全で在ると認識を改めるべきだろう。
そこで今後の日本には二つのキーワードが求められるだろう。一つは「イノベーション」である。DX(デジタルトランスフォーメーション・デジタル化に依る企業・事業の再構築)と脱炭素化へ向けたエネルギー・環境技術は間違い無く強化すべき分野だ。だが、それだけでは道を間違えると云うのが私の考えだ。
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もう一つは「ファンダメンタルズ」と呼ぶべき分野で、具体的には食料と農業・医療や防災等の分野だ。「食と農」では、生産に限らず、加工・流通・調理と云う各過程で付加価値を高める戦略が必要で、例えば各過程でDXを駆使して生産性を上げる等、食料自給率を現在の38%から70%程度に回復させる戦略が求められる。
豊かさを求めるこれ迄の産業構造から国民の安全・安心を担保する産業へと変えて行く必要があり、医療・防災は中核産業に為り得る。
私が率いる日本総研が窓口と為って「医療・防災産業創生協議会」を今年2月に立ち挙げ、民間主導で様々なプロジェクトを進めて行く。一例として「道の駅」を防災拠点として、自衛隊ヘリで搬送可能な高機能のコンテナを集積する。
コンテナは医療行為や炊事・トイレや風呂等として使うもので、災害に応じて太平洋側、日本海側でも展開可能にするものだ。こうしたプロジェクトを創出する事で、長期的には輸出産業に迄育てる事を視野に入れて居る。
寺島実郎・日本総合研究所会長 9-29-23
〜管理人のひとこと〜
自民党の総裁選挙が終わり、岸田氏が河野氏を大きく引き離して新たな自民党総裁と為った。今後党役員人事・臨時国会を経て首相指名へと流れ、新たな閣僚人事が出て、衆院解散・総選挙と為る。そして来年の参院選で新たな政府が確定する。今度は真面目な政府を作って頂きたい。
河野氏と比較すると岸田氏は、地味で堅実で落ち着いた話し口調とで、安倍・菅路線とは多少異なり何と無く安心感を持たせて呉れそうだ。閣僚人事に多くの女性の登用や実力者を起用すると、可成りの重厚内閣と為り長期安定政権も期待出来る。
が、安倍晋三の様な6年も7年もの固定された政権では直ぐにダメに為ってしまうから、精々5年間の全速力疾走で・・・GDP600兆円を目標に、先ずは中間層から下の国民を豊かにする事だけを考えて欲しい。経済産業対策に〔れいわ新選組〕の山本太郎氏の特任大臣起用も考慮したら如何だろうか。彼の掲げる政策を柱に新たな国の方向を定めて欲しいものだ。
太田道灌(おおたどうかん)と江戸の関係?
太田道灌(おおたどうかん)と江戸の関係?
一体何者? 東京にヤタラと
「太田道灌(おおたどうかん)」の伝説が残って居るワケ
9/28(火) 21:31配信 9-28-20
江戸城を築いた太田道灌
太田道灌(画像 千代田区観光協会)9-28-21
日本各地には様々な伝説や伝承が残されて居ます。東京にもその様な土地が色々在りますが、ヤタラと目にするのが「太田道灌」の名前です。如何(どう)して東京はコンナにも太田道灌だらけなのでしょうか? その理由を探ります。
◇ ◇ ◇ ◇
太田道灌は、室町時代後期に関東で活躍した武将(1432〜1486年)です。軍法師範と称された一方で、歌人としても知られた文武両道の人物でした。何より知られて居るのは江戸城を築いた事。水利が好く広大な平野が広がる江戸には、後に徳川家康が幕府を開いて都市を作りますが、道灌は江戸が発展する可能性を見い出して居ました。
太田道灌に纏(まつ)わる伝説と云えば、一番好く知られて居るのは「山吹の里」の伝説です。「山吹の里」の伝説は次の様な内容です。
〜或る日鷹狩(たかが)りに出た太田道灌。処が俄か雨に遭ってしまい、近くに在った農家に立ち寄り、その家の娘に蓑(みの)を所望します。処が娘は、蓑では無く和歌と共に山吹を一枝だけ差し出しました。道灌は理由も判らずソコを後にしますが、後に和歌の意味を知り、蓑の一つも貸す事が出来無い娘の苦しい心の内を知ったと云います。
和歌は 「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき」 と云うもの。実の為ら無い山吹と「蓑(実の)一つだに無い」と云う意味を掛けて居ます。これは娘の作ったものでは無く『後拾遺和歌集(あとしゅういわかしゅう)』に収録されて居る兼明親王(914〜987年)の作品〜
道灌はコレを知ら無かった事を恥じ、後に武芸だけでは無く和歌の勉強にも努めたと云います。このエピソードは昭和の戦後は未だ有名だった様で長谷川町子の『サザエさん』にも「みのひとつだになきぞかなしき」と云うフレーズが登場するシーンが在ります。因みに落語の演目にも為って居ます。
関東一円で多くの伝説を残す道灌
荒川区西日暮里に或る山吹の花一枝像(画像 荒川区)9-28-22
「山吹の里」は何処なのか・・・と云うのが知りたい処ですが、都内の複数の場所が手を挙げて居ます。下記は都内の候補地です。
⊡ 山吹の花一枝像(荒川区西日暮里)
⊡ 山吹の里公園(豊島区高田)
⊡ 太田道灌の史跡(同)
⊡ 大聖院(新宿区新宿)
⊡ 新宿中央公園(同区西新宿)
この他、
⊡ 埼玉県越生町(おごせまち)も有力な地で在り、山吹の里歴史公園が作られて居ます。太田道灌に纏わる言い伝えとして他にも、
⊡ 川崎市幸区に在る丘陵地帯 夢見ヶ崎(ゆめみがさき)の地名は、道灌が見た夢に由来する話
⊡ さいたま市北区奈良町の「三貫清水」は道灌が「とても旨い」と云って三貫文(50万円)の褒美を授けた事に由来する話が在ります。
都内だけでは無く、関東一円で多くの伝説を残して居る太田道灌。最期の地と為った神奈川県伊勢原市では毎年10月に「道灌まつり」が行われて居ます(新型コロナウイルスの感染拡大の影響で2021年は中止)
太田道灌が遣って来る迄の東京
新宿中央公園に在る太田道灌の像(画像 写真AC)9-28-23
ソモソモ、太田道灌は何故コンナにも関東のアチコチに出没して居るのでしょうか。 「太田道灌は何をした人?」と聞かれた時、多くの人は前述の様に
⊡ 江戸城を作った人
⊡ 江戸の街を作った人
と答えるでしょう。そこに大きなヒントが在ります。都内や近郊で博物館に行ってその街の歴史を辿る常設展を見ると或る共通点に気付きます。
それは、縄文時代の遺跡の説明や土器等の遺物の展示には力が入って居るにも関わらず、江戸時代の展示迄の間の古代や中世には殆ど触れられて居無いケースが多い事です。詰まり、太田道灌が遣って来る迄の東京は 「何も無いと云っても差し支え無い場所」 だった訳です。
道灌の生い立ち
江戸城・皇居(画像 写真AC)9-28-24
太田道灌は、室町時代(1432年)に鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐する関東管領(かんれい)上杉氏の一族・扇谷上杉家の家宰(かさい・家長に代わって家の仕事を取り仕切る人)だった太田資清(すけきよ)の子として生まれました。
鎌倉公方とは、室町幕府が関東を支配する為に作った出先機関です。その後、家督を継ぎますが、将軍家や公方家・管領家の争いの中に在り穏やかでは無い人生でした。
古河公方(茨城県古河市に在った幕府の出先機関)との争いで、道灌は父と共に河越城(埼玉県川越市)や岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)を築いたとされます(岩槻城は別の説も在り)その後、房総の千葉氏を抑える為に、利根川下流域に城を築く必要が生じます。
そこで築城する場所として決めたのが、江戸氏の領地で在った武蔵国豊嶋郡・・・後に江戸城と呼ばれる城です。
この地に定めた事に付いても 「霊夢のお告げが在った」 「品川沖を行く道灌の舟にコノシロと云う魚が踊り入り、吉兆と喜び江戸に城を築く事を思い立った」 等の言い伝えが在りますが定かでは在りません。
兎も角城は無事に築かれ、周辺には日枝神社や平河天満宮等が造られました。又、皇居には現在も「道灌堀」と云う名前の堀が残されて居ます。
歴史的事実は古文書や古記録、或いは発掘の成果から明らかにされますが、道灌の事を逐一追ったものや当時の江戸(未だ江戸では無い場所)を記したものは残されて居らず、道灌は江戸の祖として「伝説の存在」だと云えるのです。そして、道灌の伝説が至る所に広まったと云う訳なのです。
北区赤羽にも城を築いた道灌
木造太田道灌坐像附厨子(画像 北区飛鳥山博物館)9-28-25
他にも道灌は今の北区赤羽に稲付城(いなつけしろ)を築いて居ます。此処は鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点と為って居た場所。街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継する為の山城として築かれたものです。
当時の城は天守閣等は無い所謂「山城」で、太田道灌が造った幾つかの城も一般にイメージされる「城」とは異なります。
但し、この稲付城の跡は現在静勝寺(せいしょうじ)と云う曹洞(そうとう)宗の寺院に為って居り「木造太田道灌坐像(ざぞう)附厨子(ずし)」を所蔵。像は道灌の命日で在る7月26日に因んで、毎月26日に開扉(かいひ)されます。
道灌堂は道灌の250回忌に当たる1735(享保20)年に建立、厨子は350回忌に当たる1835(天保6)年に製作されました。この像の複製品と関連資料が北区飛鳥山博物館に展示されて居ます。1486(文明18)年、伊勢原に居た道灌は風呂場を出た所で暗殺され、55年の生涯を閉じました。
太田道灌は江戸の「大本」?
千代田区外神田に在る現在の神田明神(画像 写真AC)9-28-26
此処迄見て来た様に、東京の土地と伝説は太田道灌に始まり開かれたものだと云えます。しかし、太田道灌よりも前に一つだけ好く知られて居る伝説の土地が在るのです。そのヒントが神田明神です。神田明神は現在の場所(千代田区外神田)に移る前、現在の大手町に在りました。しかし、その場所の付近で天変地異が多発した為に現在の場所に移転されたと云います。
天変地異が起きたのは、平将門の首が京都から持ち帰られ、此処に祭られた為と云われて居ます。そして平将門の祟(たた)りなのか疫病(えきびょう)が流行ったそうです。元々神田明神が在った場所は現在「平将門の首塚」として大手町のオフィス街の一角に存在して居ます。
これ迄、土地・建物の再開発で何度も移転させようとしては、その度に「悪い事」が起こり、今は禁忌の地としてオカルトマニア以外にも知られる様な有名な場所に為りました。
その平将門の起こした乱から数百年して、江戸の基礎を築いた太田道灌。一介の武将で在り確かに存在した人物ですが、江戸の祖として背負う逸話の数は伝説級。動物や植物の起源を負うと辿り着く一つの種の様に、太田道灌は江戸の大本に為って居ると云えるかも知れません。
春日ルナ(ライター)9-28-27
太田道灌「山吹の里・・・」を扱った落語 ウィキより参照
江戸発祥の落語であり、初代林家正蔵の咄本『笑富林』(1833年刊)に原型が見られる。若手が鍛錬の為に演じる、所謂「前座噺」のひとつ。3代目三遊亭金馬・5代目柳家小さんらは、晩年迄長く同演目を得意ネタとした。
「岩田のご隠居」宅に遊びに来た八五郎は、隠居に、張りまぜ(複数の絵を貼った)の屏風を見せて貰う。八五郎は絵の一つに付いて「シイタケの親方みてェな帽子被って、虎の皮のモモヒキ履いて突っ立ってるアレは誰です?」と尋ねる。それは太田道灌の「山吹の里」の伝説を描いたものであった。隠居は以下の様な道灌の逸話を語る。
〜室町時代中期の武人・道灌は、狩りをして居る最中に村雨に遭い、雨具を借り様と1軒のアバラ家に立ち寄った。15歳位の少女が出て来て「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ山吹の枝を盆に乗せて差し出し頭を下げた。道灌が意味を掴み兼ねて居ると、家来のひとりが「『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』と云う古歌がございます(後拾遺和歌集・兼明親王作。これは『実の』と『蓑(みの)』を掛け『お出しできる雨具はございません』と云う断りでございましょう」と進言した。
コレを聞いた道灌は「アア、余は未だ歌道(かどう)に暗い(詳しく知ら無い)のう」と嘆き、それ以来和歌に励み歌人として知られる様に為った〜
コレを聞いた八五郎は「うちにも好く傘を借りに来る男が居る。ひとつその歌で追っ払ってやろう」と思い着き、歌を仮名で隠居に写して貰って帰宅する。程無くして雨が降り出し、その男が飛び込んで来る。
からかうチャンスが遣って来たと感じた八五郎は内心で喜ぶが、男は既に傘を持って居て「提灯を貸して欲しい」と八五郎に頼む。雨具で無ければ「蓑ひとつだに・・・」が出来無い為、八五郎は困り「『雨具を貸してください』と言やァ(言えば)、提灯を貸してやらァ」と男に告げる。
男が仕方無く「雨具を貸して呉れ」と言うと、八五郎は少女を演じ「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ、歌が書かれた紙を差し出した。男はそれを「ナナヘヤヘ、ハナハサケドモ、ヤマブシノ、ミソヒトダルト、ナベトカマシキ」とつかえながら読み「短(みじ)けェ都々逸だな」と感想を漏らす。
八五郎が「都々逸う? オメエ、よっぽど歌道が暗(くれ)ェなァ」とからかうと男は「カド(角)が暗ェから、提灯借りに来た」 お後が宜しい様で・・・