仏教では、私たちの心を八つに分けて教えたものを、八識と言います。
その八識とはこの8つの心です。
(1)眼識
(2)耳識
(3)鼻識
(4)舌識
(5)身識
(6)意識
(7)末那識
(8)阿頼耶識
眼識とは、色とか大きさとかを区別する心。
耳識とは、音を聞き分ける、区別する心。
鼻識とは、においをかぐ、判断する心。
舌識とは、味を判断する、区別する心。
身識とは、感触を区別、判断する心。
これらの五つは前五識と言われ、記憶する事ができません。
意識とは、私達の脳。
見た物が赤いと、頭が赤いと命令を発します。
末那識とは、執着。
物事に執着を起こす心。
これはオレのもの、自分のものという心になります。
この心は悪を造らせます。
オレがオレがと言う心、私がやってやったんだとか。
阿頼耶識は、別名蔵識・業識と言われます。
蔵識の蔵とは大切なものを蓄えるところです。
焼けないし残ります。
自分のした行為が業種子となって蓄えられます。
この業種子が縁と結びついて結果が引き起きます。
この結果が因となり縁と結びついて再び結果が引き起きます。
この業種子は、縁と結びつくまで絶対になくならないので
業力不滅と言い、肉体が滅びても業種子は滅びません。
因果が縁と結びついて結果となり、
またその結果が因となって結果を引き起こします。
そうやって常に阿頼耶識は変化し続けているので、
「暴流の如し」
といわれます。
業種子は目に見えません。
「年毎に咲くや吉野の山桜き割りてみよ花のありかは」
と言う歌があります。
吉野山は、山が桜か桜が山かといわれるほど、桜の木があります。
春になると咲く桜の花も冬になると、春の陽気と言う縁がないので花は咲かない。
吉野山の桜を見物しようとある冬にきた人がありました。
うわさとは違う桜の木の姿を見た人が
桜の花がどこに咲いているのかと探したが、どこにも見当たりません。
そこで木を一分刻みに切ってみたけれども見当たらなかったが、
ないと言う事ではありません。
春という縁がきたら毎年花が咲くように、常に勢力があります。
ただ見えないだけで存在しています。
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