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2015年10月10日

「丁寧な暮らし」ってA

お金があることでできることをしただけでは
何の価値もない。

私にしてみれば実践しているからこそ
丁寧に暮らすイコール貧乏暮しに思えるのだが、
こういったことを公言する人々というのは
SNSで「いいね」を付けてもらうためなのだろう。

SNSが普及するに従って「いいね」のハードルが上がり、
お金を出せばできることの価値が下がった。

「いいね」をもらうためには何か人と違うことをしなければいけない。

お金ではない価値のあるモノ。
それが「丁寧さ」なのだ。

ただ何をしたら丁寧なのかわからない人が
ブルーボトルに並んだり、ニューバランスのスニーカーを買ったり
見当違いなことをしているのだろう。

「いいね」を欲しがる人というのは共感を求めているわけで、
共感してもらうためには誰が見ても分かることをしなけれないけない。
だから必然的に形から入るのだ。

しかも現代は証拠が求められる社会になってしまった。
誰かに認められなければいけない。
記憶などという曖昧なものではいけない。
確固たる証拠が必要だ。
だから写真を撮る。

こんなことが「丁寧な暮らし」といえるのだろうか。
どうも自分のための丁寧さではなく、
人様に見てもらうための暮らしにしか思えない。

何かとても感動的な場面に出会った時、
心に焼き付ければその記憶はいつでも、何度でもよみがえる。
写真に残そうとすると肝心な場面を逃す可能性もあるし、
たとえ画像として残せても、
画像を見なければ思い出せないほどの軽い感動しか残らない。

本来画像というものは記憶の補助なのに、
今では主目的になってしまった。

記憶というものは誰かのためのものではない。
自分の感性を高めてくれるもののはずなのに。

感性という点では
「丁寧に暮らす」ということも同様ではないだろうか。
誰かのために暮らしているのではない。
自分が快適になるための丁寧さのはずだ。

私は貧乏だが快適に暮らせている。
私にとって丁寧に暮らすことは目的ではなく手段だ。
貧乏だけど、丁寧に暮らすことで快適でいられる。
快適に暮らすという目的のために
必然的に丁寧に暮らさざるをえないということなのだ。

なんだかカントの定言命法みたいになってきた。
『汝の人格ならびに他のすべての人の人格における人間性を
常に同時に目的として使用し、
けっして手段としないように行為せよ。』

ただ、SNSで「いいね」を付けてもらいたがりの人は
「いいね」してもらうことが喜びなわけだから
快適に暮らすことは目的ではなく、
「いいね」してもらえる丁寧な暮らしをすることが
目的になっているんだよね。
それで幸せならばそれで「いいね」なんだけど。

ブルーボトルに並んだりしている時間があったら
別のことに時間や体力を使ったほうが
人生有効だと思うけど。




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