2020年09月11日
習一篇−3章5
習一は昼食を食堂で食べた。昼休みがもはや終わりにちかづいていたせいか、盛況なイメージのある食事処はすいていた。
その後の習一は授業の終わりまで座席に居ついた。途中で授業を抜ける選択もあったが、やはり暑い外を出歩くのは気が引けて、すずしい屋内ですごすことにした。
放課後はだれとも口をきかぬよう、さっさと帰る。弱った体では生徒から向けられる冷たい視線が思いのほか心に刺さり、その視線からはやく外れたいと感じた。習一がこう感じた要因はおそらく、いまの自分に自衛の手段がないからだ、と自己分析する。以前の習一は腕っぷしが強く、逃げ足も速かった。それゆえ自分に害意をそそぐ者があらわれてもなんとかできる自信があり、嫌味な視線を物ともしなかった。その自信が、現在は失われている。
(くそっ……なさけないな)
力のない自分に腹が立った。その自己嫌悪はいたくない場所にいなければならない自分のふがいなさにも向かう。
(この状態じゃ、あいつとはやり合えないか)
あいつ、とは習一の父である。あの中年は感情が高ぶると手が出る。彼が憎む息子にも当然、その矛先が突きつけられる。
(……会わないようにするか)
父の帰宅時刻は学校の授業終了時刻よりもおそい。放課後すぐに帰れば、体を洗って自室へ行くだけの時間は確保できる。
(夕飯は……いいか)
外食または自室で食うものを買いに寄り道をするとなると、安全な時間は短くなる。習一はそもそも自分が外をあるき回れる体力がないと見越して、夕食はとらない方向で直帰した。
習一は鍵がかかっていた自宅に入り、フローリング張りの廊下を渡る。空調機のあるリビングの戸は開けてあり、冷房が廊下にも利いていた。足の裏の熱を冷えた廊下がうばっていくのが心地よいと感じた。
脱衣所に行き、習一用の衣類ケースを確認する。自分がよく着る下着や部屋着がちゃんと入っていた。着替えがあることを知ったのち、服を脱ぐ。着ていた服は洗濯機へ放りこんだ。
習一はタイルの乾燥している風呂場に入る。シャワーを浴び、液体石けんを泡立てて体を洗うとき、ふと風呂場の鏡に注目した。院内の浴場では意識しなかった映写だ。鏡に映る顔はやつれている。この原因はあきらかに一ヶ月の絶食だ。
(こんなふうに見られてたか……)
習一はその顔が貧相だと思った。以前は野生の獣じみた勢いがにじんでいたはずが、すっかり毒気を抜かれた。攻撃性を失ってしまえばあとに残るのは弱そうな女顔だけ。習一は自分の面構えを不愉快に思い、視線を上に上げた。
次に目についたのは頭髪だ。金色に脱色した髪の根元が黒くなった、いわゆるプリン頭になっている。そのみっともなさに苦笑する。
(いっそ田淵の頭みたいに髪を刈るか?)
田淵というのは習一の悪友だ。習一が不良の道をすすむきっかけとなった悪童である。彼は角刈りスタイルを維持しており、夏場にはちょうどいいすずしげな髪型だと習一は思った。
全身を洗った習一は脱衣所にうつる。体をタオルでわしわしと拭き、室内用の衣服を着た。このときクセで、ハンガーラックに自分の制服がかかってないか確認する。あるのは妹の制服のシャツだ。習一の制服の替えはすべて部屋にあるらしい。制服の替えは一着のみで、明日は今日洗われた分がここにならぶ。なるべくはやめに回収しよう、と習一は自分自身に忠告した。
習一は鞄をもち、廊下へ出る。まだ人の気配がしないのを察知すると、台所へ行って、水分補給をするにした。飯は食べなくてもいいが水はとっておかねば倒れる、という危機管理の意識がはたらいたためだ。ただ水はどこでも飲める。せっかくだからもっと栄養のあるものを、と思って、冷蔵庫をあける。目当ては牛乳か野菜ジュース、甘味のある栄養補助飲料だ。真っ先に目についたのは飲料ではなく、刻んだ野菜とそれに合わせた調味料の入った料理キットだ。母が食事を用意するときに使うものである。母はあまり料理が上手ではないため、手作り感の出せる市販のキットをよく活用する。失敗した料理を食べさせられるよりはいいのか、料理キットには父も文句は言わないらしい。
(料理ってやっぱり大変なのか?)
習一は授業で料理をする程度の経験しかない。そのせいで日々の食事を用意する難易度がよくわからなかった。栄養がとれて味がよければそれでいいと習一は思い、キットのことは放置して、牛乳をコップにあけた。
冷たい飲み物を飲めたあと、就寝前の支度をととのえる。あとは寝るだけになり、自室で休む。室内の冷房をかけて寝台にのると、もうまぶたが重くなっていた。
その後の習一は授業の終わりまで座席に居ついた。途中で授業を抜ける選択もあったが、やはり暑い外を出歩くのは気が引けて、すずしい屋内ですごすことにした。
放課後はだれとも口をきかぬよう、さっさと帰る。弱った体では生徒から向けられる冷たい視線が思いのほか心に刺さり、その視線からはやく外れたいと感じた。習一がこう感じた要因はおそらく、いまの自分に自衛の手段がないからだ、と自己分析する。以前の習一は腕っぷしが強く、逃げ足も速かった。それゆえ自分に害意をそそぐ者があらわれてもなんとかできる自信があり、嫌味な視線を物ともしなかった。その自信が、現在は失われている。
(くそっ……なさけないな)
力のない自分に腹が立った。その自己嫌悪はいたくない場所にいなければならない自分のふがいなさにも向かう。
(この状態じゃ、あいつとはやり合えないか)
あいつ、とは習一の父である。あの中年は感情が高ぶると手が出る。彼が憎む息子にも当然、その矛先が突きつけられる。
(……会わないようにするか)
父の帰宅時刻は学校の授業終了時刻よりもおそい。放課後すぐに帰れば、体を洗って自室へ行くだけの時間は確保できる。
(夕飯は……いいか)
外食または自室で食うものを買いに寄り道をするとなると、安全な時間は短くなる。習一はそもそも自分が外をあるき回れる体力がないと見越して、夕食はとらない方向で直帰した。
習一は鍵がかかっていた自宅に入り、フローリング張りの廊下を渡る。空調機のあるリビングの戸は開けてあり、冷房が廊下にも利いていた。足の裏の熱を冷えた廊下がうばっていくのが心地よいと感じた。
脱衣所に行き、習一用の衣類ケースを確認する。自分がよく着る下着や部屋着がちゃんと入っていた。着替えがあることを知ったのち、服を脱ぐ。着ていた服は洗濯機へ放りこんだ。
習一はタイルの乾燥している風呂場に入る。シャワーを浴び、液体石けんを泡立てて体を洗うとき、ふと風呂場の鏡に注目した。院内の浴場では意識しなかった映写だ。鏡に映る顔はやつれている。この原因はあきらかに一ヶ月の絶食だ。
(こんなふうに見られてたか……)
習一はその顔が貧相だと思った。以前は野生の獣じみた勢いがにじんでいたはずが、すっかり毒気を抜かれた。攻撃性を失ってしまえばあとに残るのは弱そうな女顔だけ。習一は自分の面構えを不愉快に思い、視線を上に上げた。
次に目についたのは頭髪だ。金色に脱色した髪の根元が黒くなった、いわゆるプリン頭になっている。そのみっともなさに苦笑する。
(いっそ田淵の頭みたいに髪を刈るか?)
田淵というのは習一の悪友だ。習一が不良の道をすすむきっかけとなった悪童である。彼は角刈りスタイルを維持しており、夏場にはちょうどいいすずしげな髪型だと習一は思った。
全身を洗った習一は脱衣所にうつる。体をタオルでわしわしと拭き、室内用の衣服を着た。このときクセで、ハンガーラックに自分の制服がかかってないか確認する。あるのは妹の制服のシャツだ。習一の制服の替えはすべて部屋にあるらしい。制服の替えは一着のみで、明日は今日洗われた分がここにならぶ。なるべくはやめに回収しよう、と習一は自分自身に忠告した。
習一は鞄をもち、廊下へ出る。まだ人の気配がしないのを察知すると、台所へ行って、水分補給をするにした。飯は食べなくてもいいが水はとっておかねば倒れる、という危機管理の意識がはたらいたためだ。ただ水はどこでも飲める。せっかくだからもっと栄養のあるものを、と思って、冷蔵庫をあける。目当ては牛乳か野菜ジュース、甘味のある栄養補助飲料だ。真っ先に目についたのは飲料ではなく、刻んだ野菜とそれに合わせた調味料の入った料理キットだ。母が食事を用意するときに使うものである。母はあまり料理が上手ではないため、手作り感の出せる市販のキットをよく活用する。失敗した料理を食べさせられるよりはいいのか、料理キットには父も文句は言わないらしい。
(料理ってやっぱり大変なのか?)
習一は授業で料理をする程度の経験しかない。そのせいで日々の食事を用意する難易度がよくわからなかった。栄養がとれて味がよければそれでいいと習一は思い、キットのことは放置して、牛乳をコップにあけた。
冷たい飲み物を飲めたあと、就寝前の支度をととのえる。あとは寝るだけになり、自室で休む。室内の冷房をかけて寝台にのると、もうまぶたが重くなっていた。
タグ:習一
この記事へのコメント
コメントを書く