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2016年03月18日

第22回 仮祝言






文●ツルシカズヒコ





 西原和治著『新時代の女性』に収録されている「閉ぢたる心」(堀切利高編著『野枝さんをさがして』p62~66)によれば、野枝が煩悶し始めたのは、上野高女五年の一学期の試験が終わり、夏休みも近づいた一九一一(明治四十四)年七月だった。

 西原は国語科の担当で野枝が上野高女五年のクラス担任である。

「どうしましょう、先生、夏休みが来ます、帰らなければなりません」

 西原にこう切り出した野枝は、両腕を机の上に重ね、その上に、いかにも堪え難いといったふうに頭をもたせた。

「どうしたのです、そんなに帰るのがお嫌ですか?」

 野枝はすでに涙ぐんでいる。

「だって、今度帰ったら、また出て来られないかもしれないんですもの」

 西原はショックを受けた。

 女学校を中退することなどどうでもよいが、野枝の天賦の才を伸ばすには、彼女は少なくてもあと数年は東京にいるべきだと、西原は考えていたからだ。

 刺激も少なく、有為な人材も少ない田舎に埋もれてしまうのは惜しい、成長し切れずに終わってしまうかもしれない。

 西原はそう思った。

「なぜ、また来られないのですか?」

 西原の問いかけに、野枝は真っ直ぐに答えない。

「先生、なるようにしかならないのですね」

 彼女は思い諦めた調子で宿命論を閃かし、努めて話題をそらしたが、理由を聞きたいと思う西原と、話したいと思う野枝の心は引き合っていた。

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 夏休みになる三日前。

 ふたりは用もないのに上野の山を歩いた。

 涼しい木陰を選ぶわけでもなく、沈黙したまま、ただ足の向かう方へなるべくゆっくり歩を運んだ。

 野枝は言葉が喉まで出かかるが、舌を動かそうとすると神経が急に興奮して、何も言えなくなった。

 とうとう公園を歩きつくして谷中の墓地の方まで行き、御隠殿坂(ごいんでんざか)を右に降りて根岸の方に出た。

 もう日は傾いている。

 野枝はやっと口を開いた。

「家庭の事情で、また出て来られないかもしれません」

「出て来られなくたってよいじゃありませんか」

「でも卒業ができませんもの」

「卒業証書など、もらはなくてもよいでしょう」

 野枝にとってそんなことはどうでもよいことを、西原は知っていた。

 そんなことより、早く要点に触れたかった。

 すると突然、野枝が言った。

「米国へ行くことになるかもしれません」

 西原は結婚問題が持ち上がっていて、それが野枝の気に入らない縁談なのだろうと推測をしたが、平素は言い渋ることなどない快活な彼女の口から直接、聞き出したかった。

 いつもはテキパキと何でも言ってのけるくせにと不思議に思った。





「米国へ行って何をなさるのです」

「親戚の者が行くので、ついて行くのです」

 なかなか要領を得ない。

 野枝を見ると、唇を固く噛みしめて、むやみに路傍の木の葉をむしっていた。

「また手紙を書きます」

 野枝は目にいっぱい涙をためていた。

「では詳しく書いて下さい」

 西原はこれで野枝と夏休み明けの五十日後に再び会えるのか、あるいは一生のうちに再会することはないのかもしれないと思い、煩悶している彼女の痛々しさが堪え難かった。

「しっかりしていらっしゃいよ」

 とうとう、ふたりは核心に迫る会話ができずに別れた。

 野枝は帰省した今宿から何度か西原に葉書を書いた。

 だが、堪え難さや、諦めや、荒んだ心を大自然の景色によって紛らすような内容で、事実は少しも述べていない。

 西原は返事に困った。





「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、夏期休暇が始まり、代一家と野枝は千代子と野枝の仮祝言をするため福岡に帰省した。

 野枝が末松福太郎との仮祝言に臨んだのは八月二十二日だった。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p63~64)によれば、仮祝言に臨んだ野枝の心情とその後の経緯は、こういうことらしい。

 仮祝言というのは仮契約ではなく、身内親族が集まりきちんと式を上げ、初夜もすます儀式である。

 野枝が末松家に嫁ぐことを了承したのは、福太郎がアメリカ帰りであり、再びアメリカに戻ることに夢を抱いたからだった。

 しかし、仮祝言の夜、アメリカには戻らないとの福太郎の意思を聞き、野枝は失望し立腹し、翌日には東京に戻った。

 アメリカに行けないのなら、野枝には福太郎と結婚する意味がなかったからだ。

 代キチもこう語っている。


「野枝が気がすすまなかったらしいのは事実ですけど、ただアメリカへ行けるということには乗り気でしたよ。あとではいろいろ悪口をいっていましたけど、その時は『アメリカに行けるなら』って、不承不承首をたてにふったのです」

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p78)





 野枝の仮祝言について、野枝の妹・ツタはこう語っている。


 ……自分じゃ、さんざん、親たちや代の叔父夫婦が勝手にとりきめて、被害者のように書いているようですが、そんなものじゃありません。

 相手はうちどうしでよく知り合ってたし、私も祭りだ何だってよく行ったことがありますよ。

 顔も知らない、名も知らない相手なんて書いてますが、そんなことはありませんでした。

 それに、最後まで、嫁(ゆ)く意志がないのに、親たちが無理解でしゃにむに結婚させたようにいってますけど、姉は一度はちゃんと承知したんです。

 ええ、そりゃあ、はじめから一度も、相手を気に入ったことはなかったんですけれど、アメリカへ行けるってことが魅力で、アメリカに行ってさえしまえば飛び出してやるからって私になんか話していました。

 ですから女学校五年の夏休みにちゃんと結婚式を挙げる時も自分で承知しておったんです。

 ええ、島田に結って角かくしに梠縮緬(ろぢりめん)の留め袖の紋付で、今でも覚えていますが、近所でも見たこともないようなきれいな花嫁だと評判されました。

 私の口からいうのも何ですが、若い時の姉は、ちっともおしゃれじゃなくて、髪もなりふりもかまわない方でしたが、きれいでしたよ。

 でも、花嫁支度しながらも、やっぱり相手が気にいらないとぷんぷん怒っていて、わざと、まるで男のように、花嫁衣裳の裾をぱっぱっと蹴散らかして歩いたりして、まわりをはらはらさせるほど当りちらしてはいました。

 嫁入りした翌日にはもう出戻って来て、東京の学校へさっさと帰ってしまいました。

 聟(むこ)さんを全然よせつけなかったそうです。

「指一本だってさわらせやしなかった」

 と威ばっていましたが、まあずいぶんおとなしい聟さんもあったものだと、私たちは話しあったものです。

 そうですね、やっぱり、魅力のない男でしたよ。

 おとなしいだけが取り得で、私だって、嫌でしたね。

 それを姉は、帰ってくるなり、自分では平気で、

「私のかわりにツタちゃんが嫁(ゆ)けばいいわ」

 なんていうんですからーーまあ、そんなことを平気でいうし、本気でそう思うようなところがありました。

 あたしだってそんな男厭ですよ。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p37~39)



★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 20:09| 本文

第21回 縁談






文●ツルシカズヒコ



 級長になり、新聞部の部長を務め、谷先生の自死を知り、新任英語教師の辻の教養に瞠目した野枝の上野高女五年の一学期はあわただしく過ぎていったことだろう。

 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』によれば、野枝と同級の花沢かつゑは、野枝についてこんな回想もしている。

 花沢によれば、野枝は「ずいぶん高ビシャな人」だった。

 花沢が日番で教員室に日直簿を置きに行ったときだった。

 教員室にいた野枝は花沢にスッと近寄り、花沢が小脇にかかえていた本を「何読んでるの?」と抜き取り、パラパラ頁をめくり、「こんなの読んだら早いわね」と言った。

 花沢は小杉天外の『魔風恋風』(前編)を持っていた。

 女学校の高学年にもなって「すいぶん幼稚な本を読んでるのね、花沢さん」と、野枝は言いたかったのだろう。

 花沢に職員室で恥をかかせ、「紋付き事件」のリベンジをしたという、穿った見方もできるかもしれない。

 井出は花沢のことを「級では勢力もあり新入りの野枝をやや冷やかしの眼でみていたのだろう」(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』p36)と書いているが、花沢をボスとする七人組、なにするものぞという、気性の強い野枝の面目躍如たるエピソードである。

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 井出の取材に花沢は五年級の「桜風会」(文化祭のようなもの)での野枝の詩の朗読のすばらしさや抜群の文才について言及し、その実力を認めているが、浅草で細紐テープを作る工場主の娘だった花沢ような東京の裕福な家庭の粋な下町娘からすれば、野枝は野暮ったい田舎娘でもあった。


 だいたい野枝さんはあまり綺麗ずきではなかった。

 髪は束髪にしていましたが、いつも遅れ毛がたれていて、なんだかシラミがいそうでした。

 それに半紙や鉛筆やパン代なんか友達からよく借りっぱなしでした。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p36)


「雑音」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p127)によれば、上野高女四年生のころ「根岸の叔父の家から上野の図書館に、夏休の間毎日のやうに通つた」という。

  野枝にとって身なりよりなにより、日本最大の図書館での知識の吸収が急務であったのであろう。





 一九一一(明治四十四)年の夏、七月ごろだろうか、上野根岸の代家の庭で撮影された野枝と代千代子といとこ、三人の娘の写真が矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p55)に掲載されている。

 いかにも盛夏らしい、浴衣を着た三人娘のバックは竹垣になっており、その向こうが村上浪六邸である。

 野枝は団扇を持っている。

 代準介夫妻と浴衣を着た三人娘は、両国川開きの花火見物に行ったのかもしれない。

「千代子は色白で、目は細長い糸目、頬は下ぶくれの大和なでしこ顔。ノエは逆に浅黒いが、目はくっきりとした二重で、黒目がちのはっきりとした顔である。負けん気の気性が眼光にほどばしっている」(『伊藤野枝と代準介』p62)という、野枝と千代子の特徴がよく表れている写真である。





 そのころ、野枝の縁談話が進行していた。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p63)によれば、相手は加布里(現・糸島市)の富農、末松鹿吉の息子・福太郎。

 代準介、野枝の父・伊藤亀吉、末松鹿吉の三人は幼なじみだった。

 代は千代子の縁談も進めていた。

 相手は今宿青木(現・福岡市西区)出身で、代が若き日に勤務していた九州鉄道株式会社の社員だった。

 千代子は一人娘だったので養子縁組とした。

 野枝もこの縁談に乗り気だったという。

 福太郎がアメリカ帰りで、再びアメリカに行くことになっていたからだ。

 この縁談に対する野枝の心境はいかなるものだったのか。

 おそらくその重要な手がかりとなる資料が、堀切利高によって発掘されている。

 堀切利高『野枝さんをさがして』(p67)によれば、堀切が西原和治著『新時代の女性』(郁文社・一九一六年九月))を長野県松本市内の古書店で偶然見つけたのは、二〇〇〇年十月だった。

『新時代の女性』の「はしがき」には「若い女性の手に成つた偽りなき文章と、それに対する著者の批評と、其の批評を補ふに足るべき著者の感想とを録したものであります」とあり、十九編の文章が収録されている(堀切利高『野枝さんをさがして』p71)。

 その十九編の一編が「閉ぢたる心ーー何故開けないのでせうーー著者より」という西原が書いた文章で、かつての教え子だった女性に「あなた」と話しかけるスタイルで書かれている。

 固有名詞は一切出てこないのだが、堀切は状況証拠から判断して、その女性が野枝であることはほぼ間違いないとしている。



★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 16:21| 本文

第20回 反面教師






文●ツルシカズヒコ


 野枝が上野高女五年に進級した、一九一一(明治四十四)年の春。

 野枝が谷先生からの手紙に返信したのは四月末だったが、一週間が過ぎ、十日が過ぎても谷先生からの返事は来なかった。

 そして、とうとう五月の上旬のある朝、谷先生の友達から谷先生が自殺したという知らせを受け取った。

 谷先生は自宅の前の湯溜池で自殺を遂げたのだった。

 よくふたりで行った、あの思い出の溜池だった。

 野枝は何だか、当然のような気もすれば夢のような、嘘のような気もしながらホロホロ涙を落とした。

 あの長い最後の手紙は、野枝だけに宛てた谷先生の遺書だったのだ。

 暑中休暇に帰省した野枝は、生前、谷先生がいかに人望があり多くの人から尊敬されていたかという話を聞かされた。

 野枝はつくづく思った。

 その人望と尊敬が谷先生を殺したのだと。

 谷先生の自死に関して、周りはその理由をいろいろ取りざたした。

 家庭の問題、ラブ・アフェア、健康問題……。

 しかし、どれも根拠としては希薄だった。

 野枝は谷先生を追いつめた「実際の事柄」を知っていて、それは「ありふれた事柄」だと書いている。

 それを明らかにしたいが、関係者に対する谷先生の心遣いを尊重して、あからさまには言えないとしている。

 家庭問題でもなく恋愛問題でもなく健康問題でもないとすれば、谷先生が苦しめられたのは学校での教師間の人間関係以外に考えられないだろう。

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 野枝は谷先生の自死に遭遇し、さまざまなことを考えたという。


 彼女の生涯は、まるで他人の意志ばかりで過ぎてしまひました。

 しかも、彼女はそれに苦しめられつゝ、とう/\最後まで自分を主張する事が出来ないでしまひました。

 そしてその最後の瞬間に、彼女はやつと自分に返りました。

 けれど、何と云ふ無意味な生涯だつたのでせう。

 自分に返つたと云つた処で、たゞ他人の意志を拒絶した丈けなのです。

 自分に返つたと思つた瞬間には、もう生命は絶へてゐたのです。
 
 彼女自身で云ふ通りに、私は彼女を臆病だとも、卑怯だとも、意久地(いくじ)なしだとも思ひます。

 けれど、世間の多くの人達の生活を見まはすとき、私は卑怯であつても、意久地なしでも、兎に角、彼女程本当に、生真面目に苦しんでゐる人が、どれ丈けあるだらうと考へますと、気弱ながらも、とう/\最後まで自分を誤魔化し得なかつた正直さに対しては尊敬しないではゐられないのであります。


(「背負ひ切れぬ重荷」/『婦人公論』1918年4月号・第3年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p40~41)





 注目すべきは、野枝が谷先生を題材にした原稿を四度も発表していることである。

「嘘言と云ふことに就いての追想」(『青鞜』一九一五年五月号・第五巻第五号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)、「背負ひ切れぬ重荷」、「遺書の一部より」(『青鞜』一九一四年十月号・第四巻第九号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)、そして「着せられた着物」である。

「着せられた着物」はAとBの対話形式でK先生について語り合っている。K先生は谷先生で、Aは野枝、Bは谷先生のことを知っている男性という設定である。

 A(野枝)は、こんな発言をしている。


 ……先生は、あたしに強くなれ強くなれつて云ひ通してゐたのよ。

 ……私は始めから出来る丈(だ)けわがまゝな、悪人になっておくんです。

 ……それが一番、自由な生き方ですよ、世の中には先生のやうに、いゝ子にされて縛(し)ばられて苦しんでゐ人がどんなにあるかしれませんね。

 でも出来る丈け自分を主張しないのはうそですよ。

 生命を与えられたからには出来る丈け生命を満足さすのが本当ですもの。

 私は何の為に生きてゐるんだか分らないやうなふやけた生き方はしたくないわ、先生なんて、何の為めに生きてゐるんだか分らないやうな生き方をして、まるで、生命を他人の為めにすりへらしてゐたから……その点から云へばあんな自分の生命を、そまつにした人はないでせうね。

(生命に)ねうちがあるとかないとか云ふ事は、自分で大事にするか、粗末にするか、どつちかで極まるんぢやありませんか……成るべく自分の生命は高く価値(ねうち)づける事ですよ。


(「着せられた着物」/『才媛文壇』1917年4月創刊号・第1巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』補遺_p483~487)





「遺書の一部より」と「着せられた着物」は、谷先生のことを知らない第三者が読んでもよくわからない内容である。

 野枝はわかる人にだけわかってもらえればよいとして、確信犯で書いたのだろう。

 いずれにしても、嫌なことでもたいがい時間がたてば忘れる気質の野枝が、四度も繰り返して原稿のネタにした谷先生。

 野枝にとって彼女とその自死は生涯忘れ去ることのできないことだったと思われる。

 つまり、野枝にとって谷先生は偉大な教師だったのである。

 人生の反面教師として。



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 14:06| 本文

2016年03月17日

第19回 西洋乞食






文●ツルシカズヒコ



 一九一一(明治四十四)年四月、新任の英語教師として上野高女に赴任した辻は、さっそく女生徒たちから「西洋乞食」というあだ名をつけられた。

 辻がふちがヒラヒラしたくたびれた中折帽子をかぶり、黒木綿繻子(くろもめんしゅす)の奇妙なガウンを来て学校に来たからである。

 辻は貧相な風貌だったが、授業では絶大な信用を博した。


「アルトで歌うようにその口からすべり出す外国語」。

 しかも、話題は教科書の枠をこえて文学、思想にひろがった。

 国木田独歩『武蔵野』バイロンの『恋愛詩』、本間久雄の文芸評論など、彼の話題はつきることがない。

 ことに東京下町に住んで若く世を去った樋口一葉の作品引用は毎度のことで、彼が片手をポケットに、片手を「三日月」といわれた長いあごにあて、「これは例の……」といいだすと、女生徒たちはいっせいに「一葉さんでしょう」と機先を制するのだった。

 辻は苦笑して、「じゃ……やめましょう」と頁をめくった。

 尺八やピアノをひいて各国の国歌をうたわせてくれるのも生徒に喜ばれた。

 辻は立派な教育者だった。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p44~45)

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 辻が生徒の間で人気を博し始めたころのことを、野枝はこう書いている。


 ……その重味をもつた気持のいゝアルトで歌ふやうにその唇からすべり出す外国語はその発音に於てもすべての点で校長先生のそれよりもずつと洗練されてゐて、そして豊富なことを認め得た。

 それにまたその軽いとりつくろはぬ態度とユーモアを帯びた調子がすつかり皆を引きつけてしまつた。

 新任の先生の評判はいたる処でよかつた。

 その男に対する町子の注意はしばらくそれで進まなかつた。

 たゞ町子はそのころ学校で発行した謄写版刷の新聞を殆んど自分ひとりの手でやつた。

 それに先生は新しい詩や歌についての一寸した評論見たやうなものをくれたりした。

 それで可なりに男との間が接近して来た。

 それからまた暇さへあれば尺八の譜を抱へては音楽室に入つてピアノに向つてゐるのが一寸町子の注意を引いた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p267~268/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p111)





 辻はこのころの野枝をこう記している。


 野枝さんは学生として模範的ぢやなかつた。

 だから成績も中位で、学校で教へることなどは全体頭から軽蔑してゐるらしかつた。

 それで女の先生達などからは一般に評判がわるく、生徒間にもあまり人気はなかつたやうだつた。

 顔もたいして美人と云ふ方ではなく、色が浅黒く、服装はいつも薄汚なく、女のみだしなみを人並以上に欠いてゐた彼女はどこからみても恋愛の相手には不向きだつた。

 僕をU女学校に世話をしてくれたその時の五年を受け持つてゐたN君と僕とはしかし彼女の天才的方面を認めてひそかに感服してゐたものであつた。
 
 若(も)し僕が野枝さんに惚れたとしたら彼女の文学的才能と彼女の野性的な美しさに牽きつけられたからであつた。

 恋愛は複雑微妙だから、それを方程式にして示すことは出来ないが、今考へると僕等のその時の恋愛は左程(さほど)ロマンティックなものでもなく、又純な自然なものでもなかつたやうだ。

 それどころではなく僕はその頃、Y――のある酒屋の娘さんに惚れてゐたのだ。

 そしてその娘さんも僕にかなり惚れてゐた、

 僕はその人に手紙を書くことをこよなき喜びとしてゐた。

 至極江戸の前女(ママ/江戸前の女)で、緋鹿(ひか)の子の手柄をかけていいわたに結つた、黒エリをかけた下町ッ子のチャキ/\だつた。

 鏡花の愛読者で、その人との恋の方が遙かにロマンティックなものなのだつた、この人の話をしてゐると、野枝さんの方が御留守になるから、残念ながら割愛して他日の機会に譲るが、兎に角、僕はその人とたしかに恋をしてゐたのだ。

 僕は野枝さんから惚れられてゐたと云つた方が適切だつたかも知れない。

 眉目シュウレイとまではいかないまでも、女学校の若き独身の英語の教師などと云ふものは兎角(とかく)、危険な境遇に置かれがちだ。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p5~6/『ですぺら』_p173~175/『辻潤全集 第一巻』)






「Y――のある酒屋の娘さん」について、野枝はこう書いている。


 おきんちやん――女の名――は吉原のある酒店の娘だ。

 町子のゐた学校の二年か三年までゐたのだ。

 調子のいい人なつこいやうな娘だつた。

 町子は四年からその学校に入つたのだからよくはしらなかつたけれど、後の二年の間におきんちやんはよく学校に来たので――それも町子の級にゐたとかで、調子よく話かけられたりして後にはかなりな処まで接近したのであつた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p265~266/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p110)


「惑ひ」解題(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p401)によれば、おきんちやんは新吉原京町の酒屋の娘の御簾納(みその)キンがモデルで、御簾納は結婚後の姓である。





 このころの野枝について、以下、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』から抜粋引用。


 代はノエの根性を好もしく思っており、隣家の作家村上浪六に紹介する。

 村上も上京を薦めた張本人として目に掛ける。

 代は霊南坂の頭山邸にも、千代子はもちろんノエも娘同様に同道し紹介している。

 ノエは高等小学校卒ゆえに、人より二年遅れた英語力を、辻の力を借りて一気に取り戻そうとする。

 逆に辻は、学園新聞「謙愛タイムス」のノエの記事やエッセーを読み、その文才に瞠目する。

 辻はノエに特段目をかけるようになり、時流の小説や欧米の翻訳物も推薦し指南していく。

 千代子はお嬢様育ちでどこかおっとりしており、ノエに級長を奪われたことを意に介していない。

 根岸の家の二階の八畳に千代子、隣の六畳にノエ。

 襖一枚で仕切られており、境いの欄間から洩れる灯りは両人とも深夜まで及んだと聞く。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』p_61~62)



★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★辻潤『ですぺら』(新作社・1924年7月11日)

★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 23:04| 本文

第18回 遺書






文●ツルシカズヒコ



 一九一一(明治四十四)年四月末、下谷区下根岸の代家に野枝宛ての一通の分厚い手紙が届いた。

 この時、野枝は上野高女五年生である。

 差出人は周船寺(すせんじ)高等小学校の谷先生だった。

 それは長い長い手紙だった。

 書き出しはこうである。


 もう二ヶ月待てばあなたは帰つて来る。

 もう会えるのだと思つても私はその二ヶ月をどうしても待てない。

 私の力で及ぶ事ならばすぐにも呼びよせたい。

 行つて会ひたい。

 けれども、もう廿二年の間、私は何一つとして私の思つた通りになつたことは一つもない。

 私の短かい二十三年の生涯に一度として期待が満足に果たされたことはない。


(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p119)


 自分の細かい近況、野枝に会いたくてたまらないこと、仕事が本当につまらなくなったこと、先のことを考えると何もする気にもなれないことなど、自分の最近の感情を打ち明けたものだった。

 暑中休暇に福岡に帰省する野枝に会う楽しみが、駄目になるかもしれないという。

 ーーあと二、三か月もすれば会えるけれど、それまでとても待てそうもない。だから、野枝に会ったら話さなければならないと思っていたことをここに書きます。あなただけに話しておきたいことを書きますーー。

 そういう前置きで書いてあったことは、彼女のここ数年の「苦しみ」だった。

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 それを読んだ野枝は理解に苦しんだ。

 なぜなら、谷先生は他人に誉められたり尊敬されたりすることに苦しんでいたからだ。

 谷先生は小さいころから他人の機嫌を損ねるようなことのない人だった。

 大人に誉められれば誉められるほど控えめで、大人はさらに感心したが、彼女はそれをうれしいと思ったことはなかった。

 苦しくなってきたのは、小学校の教師になったころからだった。

 子供のころは他人の意志を尊重していればよかったが、教師になると自分の意志で決定決断しなければならないことがあるからである。

 しかし、子供のころからの習慣で他人を不愉快にしたり、怒らせたりすることがいやで、ついつい自分を引っこめてしまう。

 だが、自分のやり方が正しいと思うのなら、反対されようと、自分の意志を貫くべきではないかという自責の念にもかられる。

 谷先生は基督教の説教を聴くようになった。

 他人に対する寛大さや、愛他的な気持ちや、犠牲行為は、彼女にとってなんでもないことだったので、立派な信者だと誉められた。

 しかし、彼女はもっと深い力強い何かを教えてほしかった。

 彼女の苦しみは深くなった。

 自分の意志を尊重すると、他人の意志と衝突し、すべての人を敵にするようなハメに陥ったからだ。

 谷先生は勇気を持って謀反を起こせばよいのだと思うが、誉められるのも嫌だが、憎まれるのも恐いから、それができない。

 自分の不徹底と卑怯を嘲り、憤り、悲しむ。

 そして死ぬよりほかに道はないと思うほど、卑怯物で悪者で浅ましい人間だという。





 一字一句も読み落とすまいとして、貪るように読み進んでいくうちに、野枝には何だかわからないような(悲しいような、恐いような気のする)ことが書いてあった。


 私は毎日教壇の上で教へてゐる時、又職員室で無駄口をきいてゐる時、私が今日死なう明日は死なうと思つてゐる心を見破る人は誰もない。

 恐らくは私の死骸が発見されるまでは誰も私の死なうとしてゐる事は知るまい、と思ひますと、何とも云へない気持になります。

「それが私のたつた一つの自由だ!」と心で叫びます。

 本当に私のこの場合ひにたつた一つたしかめ得たことは、人間が絶対無限の孤独であると云ふことです。

 私の死骸が発見された処で人々はその当座こそは何とかかとか云ふでせう。

 けれども時は刻一刻と歩みを進めます。

 二年の後、三年の後或は十年の後には誰一人口にする者はなくなるでせう。

 曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです。

 よりよく生きた処でわづかにタイムの長短の問題ぢやありませんか。

 人間の事業や言行など云ふものが何時まで伝はるでせう。

 大宇宙!

 運命!


(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p120~121)





 そして、野枝には強者として生きてほしいという切なるメッセージが連ねられていた。


 たゞ私は最後の願ひとして、私は本当に最後まで終(つい)に弱者として終りました。

 あなたは何にも拘束されない強者として活きて下さい。

 それ丈(だ)けがお願ひです。

 屈従と云ふことは、本当に自覚ある者のやることぢやありません。

 私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願ひします。

 忘れないで下さい。


(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p121~122)





 谷先生の長い長い手紙は、こう結ばれていた。


 よく今迄私を慰さめてくれましたね、本当に心からあなたにはお礼を申ます。

 随分苦しい思ひもさせました。

 すべて御許し下さい。

 混乱に混乱を重ねた私の頭です。

 不統一な位は許して下さい。

 ではもう止します。

 最後です。

 もう筆をとるのもこれつきりです。

 左様(さよう)なら。

 左様(さよう)なら。

 何時迄もこの筆を措(お)きたくないのですけれど御免なさいもう本当にこれで左様なら。


 (「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p122)





 不安になった野枝は大急ぎで返事を書いた。

 夢中になって長い返信を書いた。

 何を書いたか覚えてないほど興奮して書いた。

 自分が帰省するまでは、どんなことをしても無事でいてくれるようにと何度も何度も書いた。

 一九一一年四月末、谷先生からのこの手紙を受け取った野枝が、「遺書の一部より」と題して『青鞜』に掲載したのは一九一四年秋だった。

 さらに、野枝がこの手紙について言及した「背負ひ切れぬ重荷」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)が、『婦人公論』に掲載されたのは一九一八年の春である。

「曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです」と谷先生は書いたが、野枝が残した文章により、彼女の存在は永遠に記憶に留められることになった。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



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第17回 謙愛タイムス






文●ツルシカズヒコ



 一九一一(明治四十四)年一月十八日、大逆事件被告に判決が下った。

 被告二十六名のうち二十四人に死刑判決、うち十二名は翌日、無期懲役に減刑された。

 兵庫県立柏原(かいばら)中学三年生だった近藤憲二は、この判決を下校途中の柏原駅で手にした新聞の号外で知った。


 社会問題に無関心であった私は、そのなかに僧侶三人(内山愚堂高木顕明峰尾節堂)がいるのを見て、おやこんな中に坊主がいる、と思ったぐらいだ。

(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p158~159)


 大杉豊『日録・大杉栄伝』(p80)によれば、大杉と保子が、幸徳秋水や管野すが子ら死刑囚に面会に行ったのは一月二十一日だった。

 それが今生の別れになった。

 幸徳ら十一名の死刑が執行されたのは一月二十四日、管野の死刑執行は翌一月二十五日だった。

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 二月一日、徳冨蘆花は第一高等学校の弁論部に招かれ、同校で「謀叛論」と題する講演をした。


 社会主義が何が恐い? 

 世界の何処にでもある。

 然るに狭量にして神経質な政府(註ーーもちろん山県に操られる桂内閣のことである)は、ひどく気にさへ出して、殊に社会主義者が日露戦争に非戦論を唱ふると俄に圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となつて、官権と社会主義は到頭(とうとう)犬猿の間となつて了つた。

 諸君、幸徳等は時の政府に謀反人と見做(みな)されて殺された。

 が、謀叛を恐れてはならぬ。

 謀叛人を恐れてはならぬ。

 自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。

 新しいものは常に謀叛である。

 我等は生きねばならぬ。

 生きる為に謀叛しなければならぬ。


(「謀叛論」/中野好夫『盧花徳冨健次郎 第三部』_p33~36)


 盧花はちょうどそのころ増築中だった新書斎に「秋水書院」と命名した。

「秋水書院」は現在、盧花恒春園に保存され、「謀叛論」の草稿も同園の盧花記念館に保存展示されている。





 三月二十四日、大杉は神楽坂倶楽部で開かれた第二回同志合同茶話会に堀保子と出席した。

 同志合同茶話会は、大逆事件後の「冬の時代」に運動再興の足がかりとするための集まりだった。

 以前に書かれた堺利彦、西川光二郎、幸徳秋水らの寄せ書きがあった。

 大杉は「春三月縊り残され花に舞ふ」と詠み、その寄せ書きに加筆した。

 四月、上野高女五年に進級した野枝は級長を務めた。

 西原担任の級の三年と四年の級長は野枝の従姉・代千代子だったが、代準介の自伝『牟田乃落穂』に「千代子、五年生となり級長を退きたり。これは野枝、反対の行動を執りたるに起因せるなり」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p59)とあり、五年の級長に千代子がなることに野枝が反対し、自分がやるという意思表示をしたようだ。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』は、野枝の言動を「千代子を立てる性格ではなかった。級長を奪い、千代子の鼻を明かす、自己顕示欲の強い娘だった」(p60)と指摘している。

 辻潤は神経衰弱を理由に浅草区の精華高等小学校を退職し、教頭の佐藤と西原の縁故で四月から上野高等女学校に英語教師として赴任した。

 野枝は辻の第一印象をこう書いている





 男が英語の教師として学校にはいつて来たのは、町子が五年になつたばかりの時だつた。

 四月の始めの入学式の時に、町子の腰掛けてゐる近くに腰掛けた、見なれぬ人が英語の教師だと、町子の後からさゝやかれた。

 一寸(ちよつと)特徴のある顔付きをしてゐるのが町子の注意を引いた。

 併しそのことには長く興味をもつてゐられなかつた。

 つい式のはじまる先に立つて彼女は受持教師から、在校生の代表者として新入の生徒たちに挨拶すべく命令されてゐたので困りきつてゐた。

 やがて落ちつかないうちに番がまはつてきたので仕方なしに立つて二言三言挨拶らしいことを云つて引つこんだ。

 続いて新任の挨拶の時に一寸変つた如何にも砕けた気どらない様子であつさりとした話し振りや教師らしい処などのちつともない可なりいゝ感がした。

 式が終つて町子たちのサアクルでは此度のその英語の教師についての噂で持ちきつてゐた。

『何だか変に年よりくさいやうな顔してるわね。若いんだか年寄りだか分らないわね』

『あれで英語の教授が出来るのかしら、矢張り校長先生に教はりたいわね、あの先生何んだかずいぶんバンカラねえ』

『だつてそれは教はつて見なくつちや分らないわ。そんなこと云つたつて校長先生よりうまいかもしれなくつてよ』

『アラだつて何んだか私まづさうな気がするわ、校長先生のリーデイングはすてきね、私ほんとに気に入つてゐるの』

『Oさんはね、それや校長先生よりいゝ先生はないんですもの、でも風采やなんかで軽蔑するもんぢやなくつてよ、教はつて見なくちや、』

 そうしたとりとめもないたわいのない会話が取りかはされてゐた。


(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p266~267/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p110~111)





「惑ひ」は創作のスタイルをとっているが、「町子」は野枝であり「男」は辻である。

「町子たちのサアクル」とは、校内新聞『謙愛タイムス』を作っている新聞部のことであろう。

 堀切利高『野枝さんをさがして』(p70)によれば、「謙愛」は教頭の佐藤とクラス担任の西原の師である新井奥邃の私塾「謙和舎」の「謙和」と響き合うという。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』に、一九一二(明治四十五)年に撮影した「謙愛タイムス新聞部」編集員の写真が載っている。

 編集員は六人で野枝はもちろん、代千代子の姿もある。

 部員の卒業記念写真と思われる。

 野枝と同級だった花沢かつゑは、『謙愛タイムス』と辻についてこう書いている。


 その頃生徒達の手で校内新聞を発行することになりました。

 ガリ版刷り藁半紙一枚の物でしたが、校内の連絡事項や生徒達の作品などの発表をするのが重な刷り物で、編集には野枝さんの実力が大いに発揮されたのだと思います。

 その新聞は「謙愛タイムス」と呼ばれ、当時の下級生でありました村上やす子さんと石橋ちよう子さんが、腰に鈴をつけチリンチリンと配って歩いて下さいました。

 その頃英語の先生に新任していらっしゃった辻潤先生が私達の前に現われました。

 いかにも江戸ッ子らしい磊落さと、先生というような堅苦しさのない新鮮な感じに受け取れましたので、たちまち子供っぽい女学生達の人気の的になってしまったのは当然でした。

 私達も大好きでした。

 新しい英語の教え方に、皆は酔ったように英語の時間が好きになりました。

 放課後になっても、生徒達は学校にいるのが楽しくて仕方がありませんでした。

 辻先生はよく音楽室へこられまして、ピアノを弾いて下さったり、英語の賛美歌などを教えて下さったり、いつか時のたつのも忘れて……。


(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)




★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★中野好夫『盧花徳冨健次郎 第三部』(筑摩書房・1974年9月18日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



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第16回 上野高女






文●ツルシカズヒコ




 野枝が私立・上野高等女学校に在籍していたのは、一九一〇(明治四十三)年四月から一九一二(明治四十五)年三月である。


 当時の上野高女はどんな学校だったのか、そして野枝はどんな生徒だったのだろうか。

『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」に、野枝と同級生だったOGふたりの文章が載っている。

 一九六七(昭和四十二)年一月に発行された、「温旧会」という上野高女同窓会の冊子『残照』に掲載された寄稿を、一部省略して転載したものだ。


 一級が大体三十名位でしたから、第一回生の上級生から五回生迄全部で百五十名程でしたが、全校生が皆お友達で親しく勉強することができました。

 始業のベルが鳴れば皆別々の教室に行きますけれど、休み時間になれば皆仲良く狭い運動場で遊んでおりました。

 当時の校長先生は小林先生、教頭は佐藤先生、私達の五年生の時の担任は西原先生でした。

 ……中心は佐藤先生で、迫力に充ちた修身の時間は、おそらくあの鴬谷の上野高女に学んだ人達の心の底にしみ込んで、終生の心の指針となっている事と思います。

 五十数年経った今でも、折りにふれ時につれ思いだしては心の糧となっております……。

 野枝さんは素晴しく目のきれいな人で、いかにも筑紫乙女のそれらしく、重厚そのものといった感じの方で、又一面、粗野な感じの所もありましたが、何しろ文才にかけては抜群で、私共は足許へも及ばない程でした。

 又文字を書けばこれ又達筆で、一見女性の書いたものとも思われぬ程でしたので、或るお友達は野枝さんから手紙を貰った時、お母さまから男の人からの手紙と誤解されて困ったといっておられた事もありました。

 受持の西原先生は大いにその文才を認められ、何か特別に扱っていらっしゃったようでした。

 私共が、作文の時間に一生懸命貧弱な頭をしぼって考えたり書いたりしておりましても、いつも野枝さんは自分の好きな本を読んだりしていて、作文など提出した事がなくともいつも成績は優を頂いておられたとの事でした。


(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)

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 野枝のクラス担任は国語教師の西原和治だった。

 教頭の佐藤政次郎と西原は哲学館時代からの親友で、ふたりはキリスト教思想人として知られた新井奥邃(あらい・おうすい)の門下生だった。

 佐藤の推挙で西原が上野高女の教師になったのは一九〇八(明治四十一)年である。

 西原と辻潤は千代田尋常高等小学校時代の教員仲間だった。

 年齢は西原の方が辻より六、七歳上だったが、ふたりは親しく交わった。

 堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(P30~)によれば、西原は教職のかたわら、佐藤が創刊した基督教的信仰をベースにした教育雑誌の記者をやっていた。

 辻は西原を通じてその教育雑誌に翻訳や雑文を寄稿していた。

 辻が英語の教師として上野高女に赴任してくるのは一九一一年(明治四十四)年四月であるが、それは佐藤、西原との縁故があったからである。





 上野高女OGの竹下範子は、こう記している。


 お納戸色(なんどいろ)や紫、えび茶などのカシミヤの袴を胸高にはき、紫矢絣(むらさきやがすり)の着物に大きなリボンをかけたおさげ髪そして靴をはいた当時としてはとてもハイカラなスタイル、今、昔じょ女学生として芝居や映画に現われるその姿に、私は自分の若き日のおもかげを追っていい知れぬなつかしさを覚えるものである。

 そのころの校舎は学校というには、余りにも小さいなんの設備もない貧弱なものであった。

 二階建木造建築、職員室、その他音楽兼割烹室、お裁縫兼作法室といってもそれはただ普通の住宅をちょっと改造しただけ、運動場といえば百坪あるか無きかのせまいもの、そこで体操をしたり遊戯をしたり、放課時間鬼ごっこやらいろいろの遊びをして結構楽しく五年間をすごしたものだった。

 先生方も小林校長先生始め、佐藤先生・西原先生……。

 それから印象的なのは日下部書記さん。

 お式の日にはいつでも陸軍大尉の礼装で帽子に鳥の羽をつけ意気揚々と登校されるその姿、得意満面の顔が何かほほえましく……。

 鐘を鳴らす小使のおばさんもあの階段わきのせまい部屋から何か話しかけているのではないかしら。

 購売(ママ)部ともいうべき学用品やお弁当のパンを売るお店のおばさんもまた想い出の人。

 唐草縞の着物に黒繻子の衿をかけたちょっと小意気なおばさん。

 リーチ先生、それは今なおご健在で有名な世界的工芸家バーナード・リーチ氏その人である。

 先生ご夫妻は上野公園桜木町に瀟洒たる居を構えて当時の美術学校でエッチングの研究をされながら私達に英会話を教えて下さったのだ。

 私達のクラスにはまた、卒業後有名になった伊藤野枝さんがいた。

 字がうまく、文才があり、頭がよく、なんとなく異色的存在であった。


(竹下範子「おもいで」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)





 井出文子は「温旧会」のメンバーである花沢嘉津恵に会い、野枝について直接話を聞いている。

 花沢嘉津恵と花沢かつゑは、同一人物だと思われる。

 花沢(旧姓・中山)は、野枝の「紋付きの事件」が忘れられないと語っている。

 当時、学校で式があるときには、生徒は黒木綿の紋付きを着るのが定番だった。

 野枝は十一月三日の天長節に紋付きを着てこなかった。

 元旦の式には野枝はどうするのかというのが、花沢ら仲良し七人組の話題になった。

 野枝は元旦の式に黒紋付きを着てサッソーとやって来た。

 花沢たちはびっくりしたが、よく見ると着物の紋はまだ染めていない、真っ白なお月様のような紋だった。

 
 そのころ、安い紋付きは「石持ち」といって、紋のところだけ白ヌキしてある反物を買い、そこだけ自家の紋に染めさせたんです。

 もちろん、お金のあるひとはそんなのを買いやしません。

 白生地を染め屋にもっていき、紋とともに染めさせるんです。

 そこであたしはほんとうに口がわるくて、「万緑草中の紅一点じゃなくて、白三点ね」といって皆と笑いました。

 それから二月にはいると紀元節(二月十一日)がありますが、野枝さんの白三点はどうなるかがあたし達七人組の関心事でした。

 で、その日になるとどうでしょう。

 野枝さんのお月様のような紋には、自分で書いたらしい二本の線が、キッパリとはいっていたんですよ。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p35~36)


「いじらしいほど勝気な野枝、貧しい実家や親戚に世話になっているという劣等感を、精一杯はねかえしていたのだ」と井出は書いている。

 確かに野枝の勝ち気さが出ているエピソードだが、野枝は貧しいからそうしたのかどうか、私は疑問を抱いている。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、当時の代家はお金に困るような経済状況ではなかったという。

 代千代子は黒木綿の紋付きを着て式に参列していたであろう。

 野枝も叔父叔母に頼めば、黒木綿の紋付きぐらいあつらえてくれたのではないだろうか。

 野枝は形式を重んじる式自体がそもそも嫌いで、そのためにわざわざお金を出して黒木綿の紋付きをあつらえたりすることは、お金の無駄だと考えていたのではないだろうか。

 付和雷同を嫌う野枝の気質というか、反抗心の表れだったと見る視点もありだと思う。

 この「紋付きの事件」は、おそらく野枝が四年時の二学期から三学期にかけてのエピソードだろう。



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)



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2016年03月15日

第15回 大逆事件






文●ツルシカズヒコ



 野枝が上野高女に通学し始めた一九一〇(明治四十三)年春、ハレー彗星が地球に接近中だった。

 七十六年周期で出現するハレー彗星が、地球に最接近したのは五月十九日だった。

 ハレー彗星の尾には毒ガスが含まれているという風説が流れ「この世の終わりになる」のではという社会不安が広がったが、過ぎてみれば何も起こらなかった。

 そのころ禅の修業に励んでいた平塚らいてうは、湯島天神近くの待合で浅草の臨済宗系の禅寺・海禅寺の住職・中原秀岳と結ばれた。

 らいてう、二十四歳である。


 ……未婚の娘として、そのとき自分のしていることが、不道徳なことだという気持ちはありませんでした。

 連れだって待合へ出掛けたことをはじめとして、その後のことはすべて自分の意志によることでした。

 ただ和尚に対する愛が、わたくしにそうしたことをさせたといっては、すこし嘘になるかもしれません。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』_p285)

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 らいてうがこの初体験の三年前に「はじめての接吻」をした相手も中原秀岳だった。

 海禅寺で坐禅の修行を終えたらいてうが「まだ雲水のような純真な感じのこの青年僧に、不意に、なんのためらいもなく接吻をしてしまったのです」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』_p207)とあり、らいてうが突然、中原に接吻をしたのである。

 らいてうは本郷区の誠之小学校高等科二年を終えると、東京女子高等師範学校付属高等女学校(通称お茶の水高女)に入学、同校卒業後は日本女子大学家政科に進学した。

 らいてうは日本女子大在学中に禅の修行に励み、中原秀岳を識ったのも禅の修行を通じてだった。

 日本女子大卒業後、らいてうは成美女子英語学校などに通っていたが、同校講師の生田長江の肝入りで閨秀(けいしゅう)文学会が生まれ、その聴講生になった。

 青山菊栄も聴講生のひとりだった。

 一九〇八(明治四十一)年三月、らいてうは森田草平と那須塩原で心中未遂事件(塩原事件・煤煙事件)を起こすが、森田は閨秀文学会の講師だった。

 新聞はこの事件をスキャンダラスに取り上げ、『万朝報』が報じた「禅学令嬢」が人口に膾炙した。

 堀場清子『青鞜の時代』(p30)によれば、一番えげつない新聞記事は『東京朝日新聞』(一九〇八年三月二十八日)のコラム「六面観」で「あンな女は大久保村にやって乞食の手に抱きつかせるに限るよ」と書いた。

 日本女子大の「桜楓会」は、らいてうを除名した。

 堀場清子『青鞜の時代』が出版されたのは一九八八(昭和六十三)年三月だったが、らいてうの「桜楓会」からの除名は、この時点でも解除されていなかった。


 しかし私は、むしろ回復せぬままがよいと思う。

 女子高等教育に対する世間の敵意と攻撃を、除名の事実の継続によって、永遠に記憶すべきではなかろうか。


(堀場清子『青鞜の時代』_p30)


 しかし、堀場の願い虚しく、らいてうの「桜楓会」除名が解除されたのは、一九九二(平成四)年だった(wiki/平塚らいてう)。

 日本女子大卒というらいてうの学籍は生きていたが、「桜楓会」が彼女をOGとして受け入れるには八十四年の時を要したのであり、その間の「桜楓会」除名の事実も記さねばなるまい。

 現在、「桜楓会」HPの「卒業生の活動」には「平塚らいてう(3回生家政学部)『青鞜』を発刊、女性解放運動の先駆者」とある。





 ハレー彗星が地球に最接近してまもなく、宮下太吉新村忠雄らが検挙された。

 幸徳秋水管野スガらが検挙されたのは六月一日だった。

 大逆事件の検挙・逮捕が始まっていた。

 大杉栄は幸徳や管野らの検挙を千葉監獄の中で知った。

 大杉は新潟県の新発田本村尋常小学、新発田高等小学校を経て、北蒲原尋常中学校(現・新発田高校)に入学、同校を二年で修了し、名古屋陸軍地方幼年学校に入学。

 同級生と格闘をする暴力事件を起こし、名古屋陸軍地方幼年学校を三年途中で中退した大杉は、いったん郷里の新発田に帰郷。

 一九〇二(明治三十五)年に上京し、順天中学に入学した。

 順天中学入学の年、大杉の母・豊が卵巣膿嚢腫で急逝した。

 一九〇三(明治三十六)年九月、東京外国語学校仏語科に入学した大杉は、幸徳秋水、堺利彦らが結成した平民社の活動に関わるようになった。

 一九〇五(明治三十八)年の夏、東京外国語学校を卒業した大杉は、大杉豊『日録・大杉栄伝』(p32)によれば、そのころ「麹町区下六番町二十七番地(現在の番町小学校敷地内)」に住んでいた。

 大杉は「其頃僕は僕よりも二十歳ばかり上の或る女と一緒に下六番町に住んでゐたのだ」(「自叙伝」p)と書いているが、荒畑寒村はこう回想している。


 大杉は外語に通っていたころ、下宿のおかみさんといい仲になってたんです。

 そのうち、おかみが年上なもんだからいや気がさして別れたくなった。

 それで、堀保子を介して、おかみと手を切ってもらったんです。


(『朝日ジャーナル』○年○月○日号〜○年○月○日号連載/『寒村茶話』/『寒村茶話 朝日選書137』_p113)





 一九〇六(明治三十九)年の春、寒村は紀州田辺を引き払って堺利彦の家に寄寓し始めたが、そのころ堺家には堀保子(〜一九二四)、深尾韶(ふかお・しょう)、大杉も寄寓していた。

 保子は、硯友社同人で読売新聞などの記者をした堀紫山の妹であり、二年前に死別した堺の先妻・美知は保子の実姉だった。

 一九〇五(明治三十八)年、堺は延岡為子と再婚。

 山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫_p227)によれば、保子は堺が創刊した『家庭雑誌』の経営実務を担当していた小林助市と結婚したが、離婚した。

 大杉と保子が結婚したのは、一九〇六(明治三十九)年八月である。

 下宿のおかみと手を切る際に仲介役を務めた保子に、大杉が惚れて結婚を迫ったという。


 ところが、保子女史は深尾と婚約してるもんだから、なかなかウンと言わない。

 とうとう大杉はある晩、保子女史の目の前で自分の着ている浴衣に火をつけて、「さあどうだ」って迫ったといいます。

 さすがの保子女史もこれには参って、つい落ちちゃったというので、これこそ文字通りの「熱い恋」だなんて、みんなでしゃれを言ったもんですよ。


(『寒村茶話 朝日選書137』_p113)


 結婚といっても入籍はせず、夫婦別姓、保子の方が六、七歳年上の姉さん女房である。

 大杉は一九〇八(明治四十一)年六月、神田の錦旗館で開かれた山口孤剣の出獄歓迎会散会後、赤旗を振り回し(赤旗事件)、堺利彦、山川均、荒畑寒村、村木源次郎らとともに逮捕され千葉監獄に下獄、重禁錮二年六か月の刑に服していた。

 赤旗事件での入獄は大杉にとって四度目の入獄であり、父・東(あずま)の病死(一九〇九年十一月)を知ったのも千葉監獄入獄中だった。





 幸徳らが拘引された事件との関連の取り調べのために、大杉が千葉監獄から市ヶ谷の東京監獄に移されたのは、一九一〇年九月だった。

 大杉は東京監獄から妻・堀保子に宛て手紙を書いた。


 ことしは初夏以来雨ばかり降り続く妙な気候なので、内外にゐる日向ぼつこ連の健康が甚だ気づかはれる。

(獄中消息・千葉から【堀保子宛・明治四十三年十月十四日】/『大杉栄全集 第四巻』_p489)


 この年の八月、利根川・荒川・多摩川水系の氾濫により、関東平野は一面の水浸しになった。

 この「明治四十三年の大水害」により、東京市も下町一帯がしばらくの間、冠水した。

 不安な日を送りながら東京監獄に移監された大杉は、大逆事件の被告のほとんどを目撃した。


 丁度僕の室は湯へ行く出入口のすぐそばで、其の入口から湯殿まで行く十数間のそと廊下をすぐ眼の前に控へてゐた。

 で、すきさへあれば、窓から其の廊下を注意してゐた。

 皆んな深いあみ笠をかぶつてゐるのだが、知つてゐるものは風恰好でも知れるし、知らないものでも其の警戒の特に厳重なのでそれと察しがつく。

 或日幸徳の通るのを見た。

『おい、秋水! 秋水!』

 と二三度声をかけて見たが、さう大きな声を出す訳にも行かず、(何んと云ふ馬鹿な遠慮をしたものだらうと今では後悔してゐる)それに幸徳は少々つんぼなので、知らん顔をして行つて了つた。


(「前科者の前科話(二)」・『新小説』1919年2月号/「獄中記・千葉の巻」・『大杉栄全集 第三巻』_p316/『大杉栄全集 第13巻』)


 大杉が危うく難を逃れ、刑期を終えて東京監獄から出獄したのは十一月の末だった。


※堺利彦「赤旗事件の回顧」 ※森田草平記念館





★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』(大月書店・1971年8月20日)

★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)

★荒畑寒村『寒村茶話』(朝日新聞社・1976年8月25日)

★荒畑寒村『寒村茶話 朝日選書137』(朝日新聞社・1979年6月20日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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第14回 編入試験






文●ツルシカズヒコ




 一九一〇(明治四十三)年一月、前年暮れに上京した野枝の猛勉強が始まった。

 代準介は野枝を上野高女の三年に編入させるつもりだったが、野枝は経済的負担をかけたくないことを理由に、飛び級して四年に編入するといってきかなかった。


 代家は経済的に逼迫などはなく、どちらかといえば裕福で、そんな気遣いはいらぬ所帯である。

 ノエは学資の負担を建前とし、従姉千代子と同じ四年生に拘り、その意思を曲げなかった。

 ノエの心の中に、千代子への敵愾心が燃えていた。

 ノエの高等小学校の成績は確かにほとんど甲である。

 されども女学校と違い、高等小学校教育には英語が無い。

 数学も、算術である。

 ノエは加減乗除しか知らない。

 編入試験まで二ヶ月強、千代子の一〜三年の教科書を借り、英語と数学は千代子を教師として学ぶ。

 まずアルファベットを覚える。

 初歩の英文法を習い、単語と常用の熟語を覚えていく。

 数学は因数分解から入り、定理を習い、代数を解いていく。

 キチの記憶によれば、「二日徹夜をし、三日目に少し眠る」。

 そんな猛勉強を続け、千代子もそれに付き合っている。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p58)


 野枝の猛勉強ぶりを、岩崎呉夫はこう書いている。


「三日間も徹夜して一晩寝るとケロッとして、また二、三日も徹夜するのですからねえ」と、キチさんは述懐している。

「見ていて恐いぐらいの勉強ぶりでしたよ」

 ーーこの期間に、野枝はひどい近眼になった。

(もっとも眼鏡は、その後ときおりかける程度だったが)


(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p67) 

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 三月、野枝は上野高女四年編入試験に一番で合格した。

 四年編入に拘った野枝に「試験に落ちたら、すぐ田舎へ帰れ」と怒鳴った代準介は、呆れ顔でしばらく野枝の顔を見つめていたが、「おまえが男ならな……」と呟いた(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』p67)。

 堀切利高(一九二四〜二〇一二)編著『野枝さんをさがして』によれば、私立上野高等女学校は、一九〇五(明治三十八)年四月、五年制の上野女学校として、下谷区上野桜木町二番地(現・台東区根岸二丁目)に開校した。

 現在のJR鴬谷駅のそば、鴬谷の新坂を登った高台にあり、当初は鶯渓(おうけい)女学校と称したという。

 一九〇八(明治四十一)年に上野高等女学校となった。

 一九一二年に浅草区神吉町(現・台東区東上野四丁目)に移転、現在は中学・高校・短大・大学を含めた上野学園となっている。

 野枝が四年に編入学した当事の上野高女は一年から五年まで各学年約三十人、全校生徒数約百五十人、その多くは下町の娘たちであった。

 教育方針は教頭・佐藤政次郎(まさじろう/一八七六〜一九五六年)を中心に、良妻賢母を排し、教育の目標として四つの教育綱領を掲げていた。


 一、相愛共謙師弟友朋一家和楽の風をなすこと

 一、教育は自治を方針とし各自責任を以て行動せしむること

 一、つとめて労作の風を喚起し応用躬行せしむること

 一、華を去つて実に就き虚栄空名を離れて実学を積ましむること


(堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』_p69)





 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p34~35)によれば、井出は野枝と上野高女で同級生だったOGに取材している。

 上野高女のカリキュラムは、だいたい文部省の方針に沿い、英語、数学、国語、漢文、倫理、作法、家事。

 教頭・佐藤政次郎が担任していた倫理の時間には『レ・ミゼラブル』や『小公女』の紹介、神崎与五郎の物語などが話され、時間のたつのを忘れさせるおもしろさだったと、OGたちは語っている。

「観察」と称して上野美術館、衛生試験場、淀橋の浄水場、三木長屋といわれる江東のスラム街の見学もあった。

 下谷、根岸、入谷、龍泉寺、吉原あたりの商家、問屋、小企業の町工場の娘たちが多く、みずみずしい桃割れ髪の娘たちが登下校し、学校の帰りに汁粉屋に寄るといった雰囲気があった。





 野枝が上野高女に入学した一九一〇年四月、神近市子も女子英学塾に入学した。

 前年、神近は長崎の活水女学校中等科を三年で中退し上京、麹町区にあった竹久夢二宅に寄宿しながら猛勉強をして、女子英学塾を受験し合格した。

 女子英学塾には神近の一学年上に青山菊栄が在籍していた。

 このころ、辻潤は浅草区の精華高等小学校の教員をしていた。

 辻は浅草区猿尾町の育英小学校高等科を卒業、神田区淡路町の府立開成尋常中学校に入学、同校中退後は神田区錦町の正則国民英学会で英語を学んだ。

 日本橋区の千代田尋常高等小学校の教員を経て、辻が精華高等小学校で教鞭をとるようになったのは一九〇八(明治四十一)からだった。

 野枝が上野高女編入の受験勉強に励んでいた二月、辻は父・六次郎を亡くした。

 六次郎は六年ぐらい前から心臓を患い、精神も病んでいた。

 六次郎の死は、井戸で自殺したとも伝えられている。

 辻はそのころ北豊島郡巣鴨町上駒込四一一の借家に住んでいた。

 この家に母と妹と三人で暮らした時代が最も平穏で幸福な時代であったと、辻は随筆「書斎」(『辻潤全集 二巻』_p158)で回想している。




★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『辻潤全集 二巻』(五月書房・1982年6月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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2016年03月14日

第13回 伸びる木






文●ツルシカズヒコ




 野枝はこの閉塞状況を突破するために、叔父・代準介に手紙を書いた。

 自分も千代子のように東京の女学校に通わせてほしいという懇願の手紙である。

 それは自分の向上心、向学心、孝行心を全力でアピールする渾身の毛筆の手紙だった。


 三日に一通ぐらいのわりで、しかも毎回五枚十枚と書きつらねてある。

 キチさんの話では、とにかく「よくもまあ倦きもせんものだと思うぐらい『東京で勉強すれば私はきっと叔父さんや両親に御恩がえしできるだけの人物になれる。なんとかしてもらえないか』と自信満々に訴えてきましてね」


(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p65)


 野枝が書いた手紙は残っていないが、次のような内容だった。


 私(ノエ)は、叔父叔母を実の父、実の母と思っています。

 「千代子姉も実の姉と思っています。

 私はもっと自分を試してみたいのです。

 もっともっと勉強してみたいのです。

 できれば学問で身を立てたいとも思っています。

 一生を今宿の田舎で終わるかもしれませんが、その前にせめて東京をしっかりこの目で見てみたいと思っています。

 大きくなったら、必ず孝行をさせて頂きますので、どうぞ私を上野高女にやってください。

 ご恩は必ずお返し致しますので」


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p54)

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 下谷区下根岸の代一家の借家の隣りには、大衆小説家の村上浪六が住んでいた。

 一八九一(明治二十四)年、小説『三日月』でデビューした浪六は一躍人気作家となり、大衆小説家として不動の地位を占めていた。

 浪六の小説は江戸時代の町奴(都市に住む無頼者)を主人公にした作品が多く、彼らの頭髪が三味線の撥(ばち)の形に剃った髪型だったので、浪六の小説は「撥鬢(ばちびん)小説」として親しまれた。

 代準介は村上浪六との親交が始まった経緯を自伝『牟田乃落穂』に書き残している。


 夕刻、縁先にて食事をなすに、何時も赤毛の小犬来りて馴れ親しみければ、紙片に「この犬はどちらの犬ですか、名は何と申しますか」と書いて首輪に結びつけたり。

 犬は戻って、また現れた。

 首に新たな紙片を付けている。

「村上の犬です。御贔屓に願います」

 とある。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p50)


 当事の東京下町のゆったりした時間の流れと、人間関係の大らかさが感じられるエピソードである。

 村上浪六の三男で女性史や服装史の研究家である村上信彦によれば、文学的文壇的評価はともかく、当時の浪六の原稿料の高さは他の追随を許さなかったという。


 ……「三日月」を春陽堂から出版したときの契約は「當時の最高原稿料の三倍」だった。

 明治三十三年に『大阪朝日新聞』に書いた「伊達振子」は、尾崎紅葉の新聞小説が一回二圓、流行作家の江見水蔭が八十錢だったのにたいし、一回四圓であった。

 また昭和に入って講談社の雑誌に書きまくったときの稿料も菊池寛以下では應じなかったとのことである。


(村上信彦「虚像と實像・村上浪六」/『思想の科学』・1959年第10号/『明治文学全集89』_p408)





 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、犬がきっかけで始まった代準介と村上浪六との親交は深まり、代は霊南坂に住む頭山満を浪六に紹介したりもしている。

 代準介は哀願の中に矜持のある野枝の手紙を、浪六に見せて相談をした。

 男文の達筆で文章もしっかりしている野枝の手紙を読んだ浪六は、野枝の望みをかなえてあげるべきだと助言した。

 代キチは野枝の気性の激しさや利かぬ気を知って、諸手を挙げなかったが、準介は決断した。

「伸びる木を根本から伐れるもんか」

 伊藤博文がハルビン駅で韓国の民族運動家・安重根によって射殺されたのは、一九〇九(明治四十二)年十月二十六日であった。

 野枝の上京が決まったのは、ちょうどそのころと思われる。

 野枝は今宿の谷郵便局を辞め、この年の暮れに上京、下根岸の代家に寄宿し、女学校編入学のための猛勉強を開始した。

 野枝の妹・ツタは福岡市内に女中奉公に出て、給金一円五十銭のうち一円を今宿の母に送ることにした。

 上京した野枝はおそらく代準介に連れられ、浪六の元に挨拶に行ったことだろう。

 このとき、村上家には生後九か月の男の赤ちゃんがいたはずだ。

 村上信彦である。

 ちなみに浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯、山口二矢は村上浪六の孫(浪六の三女の次男)であり、村上信彦は山口二矢の伯父にあたる。





 ともかく、貧しい瓦職人の娘ゆえに、地元の女学校に入ることすら諦めざるを得なかった野枝だったが、人生で最初に遭遇した難関を自力で突破、運命を切り拓いた。


 ……このときはっきり心に決めたにちがいない。

 東京に行こう。

 そして女学校に入ろう。

 勉強してひとかどの人間になりたい。

 わたしはきっとなれる、と。

 すでに長崎で都会生活を経験していた野枝は、都会こそ立身出世や栄光をもたらすところだと知っていた。

 野枝の計算は的確だった。

 叔父代準介は、東京…に家をかまえ、職工を六人つかって町工場を営んでいた。

 一種の侠気のある彼は、しばしば苦学生(当時自分で学費をかせいでいた学生)をおいていたので、野枝はそれに眼をつけたのである。

 野枝は目標にむかって肉薄した。

 ……彼女のぶ厚い手紙が、三日に一通の割で東京の代家に届けられた。

 そこにはおしつけがましい熱心さで、東京で勉強しさえすれば……きっと将来叔父さんや両親に恩返しができる、どうか援助して女学校に行かせてほしいという主張がめんめんと書かれていた。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p31~32)




★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『明治文学全集89』(筑摩書房・1976年1月30日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)






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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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