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2016年03月20日
第31回 出奔(三)
文●ツルシカズヒコ
金の問題もあった。
着替えも持たず、お金も用意する暇もなく、不用意にフラフラと家を出てしまったのだ。
三池の叔母の家で金を算段するつもりだったが、ついに言い出せなかった。
そして、家出したことが知れそうになって、思案のあまり志保子の家に来たのだ。
手紙を出して頼んだら、お金の算段に応じてくれそうな二、三人のあてはあった。
その手紙の返事を待つ間に連れ返されそうなところは嫌だったので、志保子を頼ったのである。
しかし、手紙を出して一週間になるが、どこからも返事は来ない。
もうどうなってもいい。
なるようにしかならないのだ。
あの命がけでその日その日を生きていく、炭坑の坑夫のようなつきつめた、あの痛烈な、むき出しな、あんな生き方が自分にもできるのなら、こんなめそめそした上品ぶった狭いケチな生き方より、よほど気が利いているかしれない。
親も兄妹もみな捨てた体だ。
堕ちるならあの程度まで思い切ってどん底まで堕ちてみたい、というふうなピンと張った恐ろしく鳴りの高い調子のときもあるが、すべてのものに反抗して自分で切り開いた道の先は、真っ暗で何もないかもしれない。
自分を自由に扱える喜びに浸れたのは、このまま逃れようと決心した瞬間だけだった。
今日まで一日だって明るい気持ちになったことはない。
肉親という不思議なきづなに締めつけられて、暗く重苦しい気持ちが離れない。
上京したら辻を頼るつもりだが、辻の気持ちだってどちらを向くかわからない。
考えると不安なことばかりだ。
どうせ人は遅かれ早かれ死ぬのだ。
どこか人の知らないところへ行って静かに死にたい。
どうにでもなれという気にもなる。
考えに考えたが、疲れてしまった。
もう何も考えまいと思うが、やはりそれからそれへと考えが飛んでいった。
「郵便! 伊藤野枝という人はいますか?」
「はい」
野枝が出てみると、三通の封書を渡された。
受け取った封書の一通は西原先生から、一通は辻から、あとの一通は鼠色の封筒に入った郵便局からので開けてみると電報為替だった。
野枝は西原先生が送金してくれるとは思っていなかったので、目にいっぱい涙が溜まった。
一昨日に届いた先生からの電報を見たときにも、自分のことを気にかけてくれる気持ちにやはり涙が溢れ、志保子に先生のことを話した。
野枝はまず西原からの手紙を読んだ。
御地からの手紙を見て電報を打つた。
……金に困るのなら何処からでも打電して下さい、少々の事は間に合せますから、弱い心は敵である。
しつかりしてゐらつしやい……自分の真の満足を得んが為に自信を貫徹することが即ち当人の生命である。
生命を失つてはそれこそ人形である。
信じて進む所にその人の世界が開ける。
如何なる場合にもレールの上などに立つべからず決して自棄すべからず
心強かれ 取り急ぎこれ丈け。
今家へあて出した私の手紙の最後の一通があなたの家出のあとに届いたであらうと思はれる、誰れか開封して検閲に及んだかもしれない、熱した情を吐露した文章であつたからもしそれを見た人があるとすればその人は幸福である。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p99)
野枝はぐずぐずしていられないと思った。
先生はこんなにまで私の上に心を注いで下さるか、私は本当に一生懸命にこれから自分の道をどんなに苦しくともつらくとも自分の手で切開いて進んで行かなければならない。
私は決して自棄なんかしない。
勉強する、勉強するそして私はずん/\進んでいく。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p99)
西原からの手紙を読み終えた野枝は、最後に辻の手紙を開けた。
軽いあるうれしさに微かに胸が躍った。
「出奔」に収録されている、辻からの手紙には日付がある。
「八日」「十三日」「十四日」「十五日夜」である。
辻は野枝からの手紙を受け取った後、そのつど文章をしたため、野枝の落ち着き先に封書にして郵送したのであろう。
オイ、どうした。
俺は今やつと『S』を卒業したところだ。
明日から仕事が始まるのだから……。
俺は汝(おまえ)を買ひ被つてゐるかもしれないが可なり信用してゐる。
汝は或は俺にとつて恐ろしい敵であるかもしれない。
だが俺は汝の如き敵を持つことを少しも悔ひない。
俺は汝を憎む程に愛したいと思つてゐる。
俺は汝と痛切な相愛の生活を送つてみたいと思つてゐる。
勿論悉(あら)ゆる習俗から切り離されたーー否風俗をふみにじつた上に建てられた生活を送つてみたいと思つてゐる。
汝の其処までの覚悟があるかどうか。
そうしてお互ひの「自己」を発揮するために思ひ切つて努力してみたい。
もし不幸にして俺が弱く汝の発展を障(さまた)げる様ならお前は何時でも俺を棄てゝどこへでも行くがいゝ。(八日)
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p100)
「S」はドイツの哲学者、マックス・シュティルナーのことだ。
「明日から仕事が始まる」とあるから、四月九日から上野高女の新学期が始まるわけだ。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第30回 出奔(二)
文●ツルシカズヒコ
一九一二(明治四十五)年四月、出奔した野枝は福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の叔母・坂口モトの家に一時逃れ、その後、友人の家に身を潜めていた。
「出奔」はその友人の家に身を潜めていたときの実体験を創作にしている。
「出奔」の登場人物は仮名になっている。
藤井登志子(野枝)、志保子(友人)、夫・永田(末松福太郎)、叔母(代キチ)、N先生(西原和治)、教頭のS先生(佐藤政次郎)、光郎(辻潤)。
このとき、辻は二十八歳、野枝は十七歳。
辻は北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地の家に、母と妹と暮らしていた。
叔母・坂口モトの家を出た野枝は、博多に出た。
そのまま上りの汽車に乗るつもりだったが、少し考えることがあって、そうはしなかった。
友人の志保子のところに行ってみることにした。
「動揺」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p35)によれば「十里ばかりはなれた友達の家」である。
冷たい雨が降る中、田舎道を人力車に揺られて、長い道のりだった。
志保子が留守かもしれない、在宅していても、彼女が自分を受け入れてくれるとはかぎらないーーそんな不安がよぎった。
四、五年会っていなかった友人の突然の訪問を、志保子は涙をいっぱいに湛えた目で、野枝の顔を見上げながら、わずかにうなづき温かく受け入れた。
質素な木綿の筒袖に袴をはいた、野枝の凍った悲しい気分が、いくぶん溶けた。
なぜ突然やって来たのか、野枝がその理由を切り出したのは、ふたりで冷たい床に入り、いろいろなことを話した後だった。
『私ねずいぶん見すぼらしいなりしてゐるでせう。ふだんのまんま家を逃げ出して来たのよ、直ぐにね東京へ引き返して行かうと思つたんですけれど少し考へることがあつてあなたの処へ来たの、長いことはないのだから置かして頂戴な』
漸くこれ丈け云ひ出したのは冷たい床の中に二人して這入つてからよほどいろんなことを話して後だつた。
『まあさう、だけどどうして黙つてなんか出て来たの、どんな事情で? さしつかへがないのなら話してね、私の処へなんか何時までゐてもいゝことよ、何時までもゐらつしやい、あなたがあきるまで――でも本当にどうして出て来たの』
『いづれ話してよ、でも今夜は御免なさいね、随分長い話なんですもの』
『さう、それぢや今にゆつくり聞きませう、あなたのゐたい丈けゐらつしやい。ほんとに心配しなくてもいゝわ』
『ありがたう。安神(あんしん)したわ、ほんとにうれしい』
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p96)
一週間たったが、野枝はそのことについては何も話さなかった。
なんでもぶちまける性質の野枝が話しにくそうなので、志保子も敢えて聞こうともしなかった。
「いい天気ね。今日帰って来たら、一緒にそこらを歩いてみましょうね」
志保子は家の門を出ると、すぐそこに見える小学校に勤めていた。
野枝は毎朝、門まで出て黄色い菜の花の中を歩いて行く友達の姿を見送った。
縁側の日当りに美しく咲き誇っていた石楠花(しゃくなげ)も、もう見る影がなくなった。
野枝は塀の近くに咲いている桃を眺め、差し迫った自分の身の置きどころについて考えようとした。
志保子には「今日はすっかり話してしまおう」と思い、話の順序を立てようとするのだが、長い道程の中で起きたさまざまな出来ごとや、その間の自分の苦悶を考えると、話の道筋を立てることができなくなった。
そして思いは、自分が無断で家を出た後の混乱、父の当惑の様子、叔母や叔父が自分をさんざん罵っている様子、母の憂慮、そういう方にばかり走った。
自分の道を自分で切り開く最初の試みをした、というような快い気持ちなどはまるでなくなり、暗い気持ちになり、また父の傍らに泣いて帰っていこうかというような気になったり、死を願うより仕方がないとさえ思う日もあった。
志保子は注意深く野枝の様子を見ていた。
夕方、野枝が沈んだ目つきをして縁側にボンヤリ立っていたりすると、近所の子供たちを集めて騒がしたりして、野枝の気を紛らすように努めた。
野枝は志保子の目に浮かぶ優しい暖かい友情にしみじみ泣いた。
どうかして志保子の帰りの遅い時には登志子は二度も三度も門を出てはすぐ其処に見える学校の屋根ばかり眺めてゐた。
黄色な菜の花の間に長々とうねつた白い道を見ていると遠いその果もわからない道がいろ/\なことを思はせて、つい涙ぐまれるのであつた。
前を通る人達は見なれぬ登志子の悄然と立つた姿をふしぎさうにふり返つて見て行く。
そんな時登志子は、もう本当に遠い/\知らない処にたつた一人でつきはなされた様な気がして拭いても/\涙が湧いて来て、立つてゐられなくなつてくる。
燈をつけても燈の色までが恐しく情ない色に見えた。
読む書物をもつて出なかつたことがしきりに悔ひられた。
うすらかなしい燈の色を見つめながら彼女は何時も目をぬらして友達を待つた。
それでもなほ悲しい心細い考へが進もうとする時は彼女はのがれる時に持つて出た光郎の手紙を開いて読んでは紛らした。
そうして心弱い自分の気持ちをいくらかづゝ引きたてるのだつた。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p97)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第29回 出奔(一)
文●ツルシカズヒコ
野枝が出奔したのは、一九一二(明治四十五)年四月初旬だった。
野枝は後に「動揺」を発表するが、その中の木村荘太宛ての手紙に出奔についての言及がある。
「動揺」によれば、新橋から帰郷の汽車に乗った野枝は徐々に落ち着いてきて、いろいろ思考をめぐらせた。
最も思いをめぐらせたのは、辻からされた抱擁と接吻のことだった。
私はそれが何だか多分の遊戯衝動を含んでゐるやうにも思はれますのですがまた何かのがれる事の出来ないものに捕へられてゐるやうな力強さを感ぜられるのです。
私はどうしていゝか迷ってゐるうちに汽車はずん/\進んで行つてもうのがれる事が出来ないやうなはめになりました。
そうして仕方なしにとう/\帰りましたが帰つてもぢつとしてゐられないのです。
私はすべて私の全体が東京に残つてゐる何物かに絶えず引つぱられてゐるやうに思はれて苦しみました。
そして直ちに父の家を逐(お)はれて知らない嫌やな家に行かねばならないと云う苦痛も伴つてとう/\私は丁度帰つて九日目に家を出てしまつたのです。
暫くの間十里ばかりはなれた友達の家にゐました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p177/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p34~35)
野枝が今宿に帰郷したのは三月二十九日なので、それから九日目に家を出たとしたら、それは四月六日である。
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)には、帰郷して九日目に「婚家を出」たとあるが、「動揺」の文意からすると婚家の末松家には行かずに出奔したようにも受け取れる。
出奔した野枝は叔母・坂口モト(父・亀吉の次妹)や友人の家を訪ね歩いた。
叔母の坂口モトの婚家は、福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の渡瀬(わたぜ)駅前の旅館だった(現・福岡県みやま市)。
「従妹に」は坂口モトの娘・坂口キミに宛てた書簡形式で書かれていて、出奔したその理由を「きみ」ちゃんに説明する内容になっている。
「伊藤野枝年譜」によれば、坂口キミは野枝より一歳年下で、幼いころ今宿の家で一緒に育ったこともあり、ふたりは仲がよかった。
今、私の頭の中で二つのものが縺(もつ)れ合つて私をいろいろに迷はして居ります。
私は今まで斯(こ)うして幾度きみちやんに手紙を書きかけたか知れないのです。
けれども私の書いたものが果して正当に何の誤もなくきみちやんに理解されるかどうかとそれを考へては、若しきみちやんに理解が出来なかつたときにはきみちやんの為めにもまた私の為めにも大変不幸だと思はれますので止めました。
けれども、どうしても書きたくてたまらないので。
二つのものと云ふのは、その書きたいのと、書いて、もし悪い結果になるといけないと云ふ心配とを云つたのです。
(「従妹に」/『青鞜』1914年3月号・4巻3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p58)
という書き出しで始まる「従妹に」だが、以下、現代の口語調にして要約してみた。
人は私のことを我がままで不孝者だと言います。
自分でもそうは思いますが、人を苦しめておいてなんとも思わないと言われるのは心外です。
私だって苦しくてたまらないのですが、それを我慢して自分の道に進んで行かなければならないのです。
私は自分以外の人の都合で無理に結婚させられたのです。
我慢して結婚したら孝行娘とは言われるかもしれないけれど、幸福であるはずがありません。
誰も侵害することのできない自分の体と精神を持って生まれてきたのに、他人の都合で生きるなんて、生き甲斐のない人生と言わざるを得ません。
人間は誰でも自分が可愛いのです。
自己犠牲とかいっても、それから得られる名誉欲を満足させているわけですから、結局は自分のためなのです。
きみちゃん、よく考えて御覧なさい。
自分がこうしたい、そうしないとすごく困るというような、自分にとって重大なことはなかなか思うようにならないですよね?
そして、それはそういうことをされると困る人が自分のまわりにいて、その人が邪魔するからです。
自分の意志でした結婚ではなかったので、私はそれを破戒しようとしました。
両親や叔父さんたちは、そうされると困るので邪魔するのです。
私は他人が困るからといっても、自分自身が苦しいので無理にも破戒しました。
それで一番困ったのは私に無理強いをした人たちです。
その人たちが困るのは本当は当然なのですが、嘘で固めたいわゆる世間の道徳というものが、それが当然だとは人に思わせないのです。
自分より年が上だとか親だとかということを盾にして、わずかな経験とかを無理な理屈にこじつけて、理不尽に人を服従させてもいいはずがありません。
みんなは私のことを我がままだとか手前勝手だと言いますが、私の周囲の人たちの方がよほど我がままです。
私は自分の思うことをどんどんやるかわりに、人の我がままの邪魔はしません。
私の我がままと他人の我がままが衝突したときは別ですが。
自分の我がままを尊敬するように、他人の我がままを認めます。
けれども世間にはそういうふうに考えている人は、そんなにいません。
自分はしたい放題のことをして、他人にはなるべく思うとおりのことをさせまいとします。
自分は自分だけのことを考えて行動し、他人は他人の勝手に任せておくのが本当なのですが、自分と他人の区別を明確につけることができないのがたいていの人の欠点です。
それはその人たちが悪いのではなくて、日本のいわゆる道徳がいけないのです。
今の日本の多くの人を支配している道徳は、ひとつも本当のものはなく、みな無理な虚偽で固めたものなのです。
だから窮屈なのです。
自他の区別がつかない人たちには、本当の意味の正しい個人主義と、自己本位や自分を甘やかす我がままや傲慢な専横との違いが理解できないのです。
各自が我がままをすると共同が成り立たないから、相互に我慢しなければならないとよく言います。
これも根本的に間違っています。
みんなが他人に関わらず、自分は自分だけのことをやれば、最も自然な共同が可能になります。
自分を抑圧するような不快な感情がないから、嫌な下らない争闘なんかは決して起こらずにすみます。
けれども、共同とか言う人たちにかぎって、自分が他人にかけている迷惑には鈍感で、他人のしていることが自分に関わりだすと、すぐに邪魔をするのです。
それも妙に道徳とかいうものにとらわれて、回りくどい嫌味な愚劣な争いをしているのです。
私は自分を貫徹させるにあたって、そこに突き当たりました。
私は他の多くの人たちのように、悧巧な狡いことはできなかったのです。
道徳には何をさしおいても服さなければならない、そういう考えを私は抱くことができません。
軽蔑しているものに屈するには、私の気位が高すぎるのです。
他人が自分の行為に対してどんな思惑を持つか、というようなことを考える余裕を私は持てないのです。
そしてそのことが悪いことだとは思いません。
私はみんなの一番尊敬している、そして私を縛する最も確かなものであると信じる道徳や習俗を見事に踏みにじりました。
野枝がこの「従妹に」を脱稿したのは、一九一四(大正三)年二月二十三日、出奔した約二年後であるが、野枝が坂口キミに実際にこのような内容の手紙を書いたのかどうかは不明である。
しかし「……こんなしどろもどろな言ひ方でなくもう少しきちんとした答が出来るつもりですから。気持ちが落ちつきしだいに書き代へて送ります」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』p62)という下りもあるので、実際にこのような内容の手紙を書いたのかもしれない。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第28回 わがまま
文●ツルシカズヒコ
登志子や従姉の家は博多の停車場から三里余りもあった。
その途中でも野枝は身悶えしたいほど、不快なやり場のないおびえたような気持ちになった。
従姉の家に立ち寄った後、安子が従姉の家に泊まることになったので、登志子と男が一緒に帰ることになった。
挨拶をして従姉の家の門を出るやいなや、登志子は後ろも振り向かずにできるだけ大急ぎに、袴の裾を蹴って松原が続く町の家の方に歩いて行った。
登志子はひたすら急いで歩いた。
肩を並べて歩くことなんかとてもできない。
声を聞くのも嫌だった。
男は野枝が不快を感じているのは充分に知っていたが、おとなしい彼は登志子の後からついて来た。
登志子は追いつかれないように懸命になって急いだ。
男がとうとうこらえ切れずに言った。
「登志さんは馬鹿に足が早いんだね」
登志子は返事をすることもできなかった。
家では祖母が出たり入ったりしながら、登志子を待っていた。
駆け込むように家に入ると、母や祖母の懐かしい笑顔が並んで登志子を迎えた。
一家中の温かい息が登志子の心をほぐしかけたが、そこに男がいると思うと泣きたくなった。
「私、たいへん疲れていますから、夜になるまで少し寝ますよ」
登志子は袴を脱ぎだした。
祖母は今着いたばかりの孫娘の元気のない真っ青な顔を見ると、愛しそうに言った。
「おーそうだろう、長い旅でも汽車の中ではよう眠られん、お母さん床を出しておやり」
祖母は眉を寄せながら、後から登志子を抱えんばかりに一緒に立った。
男は手持ち無沙汰に座っていた。
叔母と母が気の毒そうに見ていた。
「おばあさんがあれなので、どうも、本当にわがままで」
と、叔母は取ってつけたようなお世辞笑いをしながら、男を慰めるような詫びるような調子で言った。
男も仕方なく笑い、黙ってそこらを見回した。
慧眼な祖母は、去年の夏に気に入らない婚約をされて以来、激しくなった登志子の我がままが心配でたまらなかった。
そして登志子がどんな気持ちで帰ってきたかもよく知っていた。
叔母はこのおとなしい青年を前にしていると、なによりもまず自分の大嫌いな理屈っぽい生意気な姪の我がままが憎らしくなった。
「どうしてあんなですかね。ああ、我がままが激しくては、とても家なんか持てるもんじゃありませんよ。一緒にいるようになったら、どしどし叱りつけてやらなければいけませんよ、本当に」
登志子は床をとつてもらうといきなり横になつて深くすつぽりと蒲団を被つた。
もうひとりだと思ふと、涙が溢れるやうに流れ出た。
何の感もない、たゞ涙が出る、虚心でゐて涙が出る、――ゆるんだ疲れ切つた空虚な心はいつか自から流す涙を見つめながら深い眠りに落ちて行つた。
(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p92)
野枝が「わがまま」を脱稿したのは一九一三(大正二)年十一月十五日で、原稿が掲載されたのは『青鞜』同年十二月号だった。
野枝はおおよそ一年半前の体験を、実名を一切出さない小説のスタイルで書いたわけだが、『伊藤野枝と代準介』の著者・矢野寛治は、同書の中で代家や末松家に対する「非常なる誹謗中傷の文章である」(p65)と、野枝を批判している。
矢野の妻・千佳は代準介の曽孫であり、千代子の孫にあたるが、代家の関係者は長い間この小説「わがまま」によって名誉を毀損されていたようだ。
例えば、辻も「わがまま」に影響を受けて、こう書いている
女の家が貧乏な為(た)めに、叔父さんのサシガネで、ある金持ちの病身の息子と強制的に婚約をさせられ、その男の家から学費を出してもらつて女学校に通つて、卒業後の暁(あかつき)はその家に嫁ぐべき運命を持つてゐた女。
自分の才能を自覚してそれを埋没しなければならない羽目に落ち入つてゐた女。
恋愛ぬきの結婚。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号/『ですぺら』_p176/『辻潤全集 第一巻』)
『伊藤野枝と代準介』によれば、この辻の文章も「わがまま」を真に受けた誤解であり、「後世の伊藤野枝研究者たちは、この創作を鵜呑みにしてしまった」(p69)と研究者の軽率さも指摘している。
さらに「どこの世界に、娘に悪い縁談を持ってくる親が居るものか」(p69)という代準介の言葉や「端(はな)は、ノエ自身が乗り気の縁談だった」(p69)という代キチの言葉が、代家に伝わっているという。
すべてはアメリカには戻らないという末松の言葉から、一生をこの田舎の糸島で暮らすのか、その暗澹たる鬱屈への反発が創作「わがまゝ」を書かせたのであろう。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p69)
「わがまま」に対する同書の反論、代家の経済状態に関する事実関係を挙げての反証(p67)には説得力があり、「わがまま」は野枝が「読者の同情を引くように書いた」(p71)フィクションであるとの見方も正鵠を射ていると思える。
しかし、「あれは、あくまでフィクションですよ」という野枝の言い分もありえる。
しかし、モデルにされた側がはなはだ迷惑なのも、厳然たる事実である。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★辻潤『ですぺら』(新作社・1924年7月11日)
★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第27回 日蓮の首
文●ツルシカズヒコ
門司港駅から博多に向かって汽車が動きだした。
登志子は右側の窓のところに座って外の方を向いたまま固くなっていた。
頭はほとんど働きを止めてしまった。
安子は野枝が持ってきた雑誌を、解かりもしないくせに広げて退屈しのぎに読んでいる。
まき子はわが家に帰っていく子供のように、はしゃいでいた。
まき子は野枝よりふたつ年上の二十歳だ。
父に甘やかされてわがままに育った彼女は、一人前の女として物を考えてみることなんてまるでなかった。
登志子と比べてもずっと幼稚だ。
朝夕同じ部屋にいて、同じ学校の同じクラスの机の前に座っているまき子のやることをひとつ残らず見ている登志子は、これが自分よりふたつ年上の従姉といわれる人かと情けない気がした。
登志子はこの従姉を軽蔑し切っていた。
彼女の父ーー自分にとっては叔父だがーーも少なからず軽蔑していた。
登志子の慧(さと)い眼は、叔父の本能的で盲目的な千代子に対する愛、登志子に対しては厳格な監督者のような威厳を示そうとしていることを、見抜いていた。
登志子は叔父の真面目くさった、道学者めいた口ぶりを心の中で嘲笑していた。
登志子は馬鹿にしきった相手と真剣に会話するつもりはなかった。
「今にーー」と彼女はいつも思った。
『今にーー自分で自分の生活が出来るやうになれば私は黙つてやしない。
私は大きな声で自分がいま黙つて侮蔑してゐる叔父等の生活を罵つてやる嘲笑してやる。
私は私で生活出来るやうになりさへすればあんな偽善はやらない。
少なくともあんな卑劣な根性は自分は持つてはゐない。ーー』
(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p86)
そうして叔父と声を大きくして争う日を待ちかまえていた。
実生活を豊かにするための悪賢い叔父の智慧と敏捷な挙動は最大の利器だ。
登志子はそれを知りながら、それを厭いながら、知らぬ間に彼女自身も叔父の周到に届いた誤魔化しに乗せられてしまった。
嫌な嫌なその叔父は、登志子たちより十五分も前に長崎から博多に着いているはずだ。
登志子は眉を上げホッと息をした。
汽車は走って行く。
いつもはこの汽車の中で聞く言葉の訛りがいかにも懐かしく快く響くのだが、今はそれでころではない。
野枝は顔を蒼くして窓に寄りかかっていた。
「ああ着いた着いた。もう箱崎だ、あと吉塚、博多だわね」
従姉は勢いよく立って荷物の始末を始めた。
登志子はいまさらのようにハッとした。
かまうものか仕方がない。
なるようにしかならないのだ。
登志子はこみ上げてくる涙をグッと呑み込んで、勢いよく立ち上がった。
汽車は見覚えのある松原を走っている。
松の上からは日蓮の首がニュッと出ている。
来たーー博多だーーついに、ついにーー。
地響きをさせて入ってきた汽車は、プラットフォームに沿って長々と着いた。
ピタリと汽車の動揺が止むと、激しい混乱が登志子の頭を瞬時に通り過ぎた。
従姉が大騒ぎして降りる後から、登志子は静かに下車した。
叔父がこっちに急いで来る。
続いて来る男の顔を見ると、登志子はブルブルっと震えた。
登志子はクルリと後ろを向いてあらぬ方を向いた。
「登志さん」
弾んだまき子の声に登志子は我に返り、手持ち無沙汰に立っている男ーー夫ーーに黙礼し、嫌な叔父に挨拶をすませた。
『うれしかるべき帰省――それが斯(か)くも自分に苦しいものとなつたのもみんな叔父の為めなのだ。叔父が斯(こ)うしたのだ。見もしらぬこの永田が私のすべての自由を握るのか――私を――私を――誰が許した。誰が許した。私はこの尊い自身をいともかるはずみにあんな見もしらぬ男の前に投げ出したことはない。私は自身をそれほど安価にみくびつてはゐない私は、私は――』
(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p88)
登志子は押し上げて来るすすり泣きを飲んで、ジッと突いた洋傘の先のあたりに目を落とした。
熱い涙がポツリポツリと眼鏡に当たっては、プラットホームの三和土(たたき)の上に落ちた。
「お登志さん、行きましょう」
安子の声を不意に聞いたときには、従姉は父と並んで二、三間先を階段の方に歩いていた。
まき子と叔父は手荷物の世話などを始めたので、登志子と安子と男の三人になった。
登志子は男の声を聞くのが、体が震えるほど嫌だった。
「ずいぶんお疲れになったでしょう」
登志子はハッとしたが、安子がそれに答えたのでホッとした。
もう幾日かすれば、あの男の家に行ってあの男と生活しなければならないーー登志子にはそんな不快なことがどうしてもできそうになかった。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index