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2016年03月14日

第12回 東の渚






文●ツルシカズヒコ



 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、一九〇八(明治四十一)年暮れに代準介が一家を連れて上京したのは、セルロイド加工の会社を興すためだった。

 長崎の代商店の経営は支配人に任せての上京である。

 この分野では日本でも相当に早い起業であり、頭山満の右腕であり玄洋社の金庫番、杉山茂丸あたりのアドバイスがあったらしい。

 代準介は杉山とも昵懇だった。

 代キチは「とにかく頭山先生と玄洋社の加勢をしたかったようで、女の私にはよく分からない」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p46)と発言している

 代一家は下谷区下根岸(現・台東区根岸四、五丁目)の借家に入居した。

 家賃は月三十円。

 敷地は広く、前庭・中庭・後庭があり、母屋は二階建てで、職人七人を雇って離れでセルロイド加工を始めた。

 千代子は上野高女二年の三学期に編入学した。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p47)によれば「上野高女は下町の町娘の多い学校で、英語力等は土地柄もあり、長崎の方がレベルが高かったかもしれない」。

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 一九〇九(明治四十二)年の四月、野枝は今宿の谷郵便局の事務員になり職業婦人として働き始めていたが、その年の夏、千代子の夏期休暇中に代一家が東京土産を携えて今宿に帰省した。

国勢調査以前の日本の人口統計」によれば、当時の東京市の人口は二百万を超えていた。

 花の東京話も土産になったことだろう。

 この年の五月に東京・両国国技館竣工、六月二日に相撲の常設館として開館した。

 頭山満が師と仰いでいた板垣退助は好角家として知られていたが、代準介も好角家だった。

 頭山満の紹介で代準介は板垣退助の知遇を得ていた。

 夏目漱石も見に行ったという、国技館のこけら落とし興行を板垣、頭山、代の三人は桟敷で観覧したかもしれない。

 そうだとしたら、代準介は土産話として話題にしたことだろう。

 この年は「ハイカラソング」が流行った年でもあった。


 ゴールド眼鏡の ハイカラは 
 
 都の西の 目白台
 
 女子大学の 女学生
 
 片手にバイロン ゲーテの詩
 
 口には唱える 自然主義
 
 早稲田の稲穂が サーラサラ
 
 魔風恋風 そよそよと






 自転車で颯爽と通学する女学生と東大生の恋愛を描いた、小杉天外の長編青春小説『魔風恋風』は、一九〇三(明治三十六)年に『読売新聞』で連載され大ヒットした。

 高等女学校令が公布施行されたのは一八九九(明治三十二)年だったが、二十世紀初頭、明治のハイカラを象徴するのが女学生だった。

 代準介がもし相撲の話をしていたら、野枝はそれをお愛想の相づちを打ちながら、シラーっとして聞いていただろう。

 それよりも、目の前にいる従姉の千代子がまぶしかっにちがいない。

 千代子は現役の東京の女学生なのである。

 三年に進級した千代子は級長をしていた。

 それに比べて、自分は田舎の郵便局の……。


 私(ノエ)も千代子と同じく東京で級長を張るくらいの力はある。

 東京へ行きたい、長崎や福岡より何十倍もの都会の東京で自分を試してみたい。

 この村で終わりたくない。

 自尊心と、功名心と、千代子へのライバル心がノエを動かし始める。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p53)





 代一家が東京に戻った後、野枝は暗い日々を送っていた。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、野枝が郵便局の勤め帰りに今津湾をひとり悄然と見つめながら、そのころの心情を書いたと推測されるのが「東の渚」という詩である。

 野枝の『青鞜』デビュー作であり、野枝が残した唯一の詩だ。

 
 東の磯の離れ岩、

 その褐色の岩の背に、

 今日もとまつたケエツブロウよ、

 何故にお前はそのやうに

 かなしい声してお泣きやる。

(略)

 私の可愛いゝケエツブロウよ、

 お前が去らぬで私もゆかぬ

 お前の心は私の心

 私も矢張り泣いてゐる、

 お前と一しよに此処にゐる。

 ねえケエツブロウやいつその事に

 死んでおしまひ! その岩の上でーー

 お前が死ねば私も死ぬよ

 どうせ死ぬならケエツブロウよ

 かなしお前とあの渦巻へーー

 ーー東の磯の渚にて、一〇、三ーー


「東の渚」/『青鞜』1912年11月号・第2巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p9~10)


 ケエツブロウとはカンムリカイツブリの博多地方の呼び名で、日本には冬季に冬鳥として飛来する。

 群れず一羽でいることが多い。





 どんどん従姉の千代子に遅れていく。

 こんな海辺の田舎で終わってしまうのか。

 どうしてこんな境遇に生まれ落ちたのか、このままで終わる一生なら生きていても意味は無い、ケエツブロウよ一緒に死のうと詠っている。

 夕刻の今津湾を見つめながら、能力のある子が自分の能力を活かしきれないことに地団駄を踏んでいる。

 私(ノエ)も千代子と同じく東京で級長を張るくらいの力はある。

 東京へ行きたい、長崎や博多より何十倍も都会の東京で自分を試してみたい。

 この村で終わりたくない。

 自尊心と、功名心と、千代子へのライバル心がノエを動かし始める。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p52~53)





 野枝の死後、「大杉夫妻の葬儀」を報じた『福岡日日新聞』の記事の中で、野枝が「十四五歳の時作つた歌」が二首紹介されている。


 死なばみな一切の事のがれ得ていかによからん等とふと云ふ

 みすぎとはかなしからずやあはれ/\女の声のほそかりしかな


(『福岡日日新聞』1923年10月17日・三面/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』資料篇_p436)

 
 会葬者の目を惹いたというこの歌も、野枝が今宿の谷郵便局に勤めていたころの作かもしれない。

 田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』によれば、野枝の死後、野枝の地元『糸島新聞』(一九二三年十月二十四日・一面)にも「野枝の和歌/小学校時代」の見出しの記事が掲載され、葬儀で周船寺高等小学校時代の歌稿六十余首が紹介されたという。

『糸島新聞』は『福岡日日新聞』が紹介している二首ではなく、別の九首を掲載している。


 群衆にまじりて聞きし一節の女の声の頭にしみぬ

 日は沈む浮かびし儘の賛美歌を只訳もなく歌ひてあれば

 鏡とりて淋しや一人今日もまた思ひに倦みて顔うつし見る

 鏡見ればつめたき涙伝ひたる後のしらじら光る淋しさ

 頬を伝ふ涙つめたし橋に立てば杉の梢に夕陽の入る

 雨の日は苦しき心しかと抱きかすけき強き音に聞き入る

 夕雲よ白帆よ海よ白鳥よあゝ日は沈むさびしき思ひ出

 赤き頬かゞやく瞳思ひ出づ火鉢に凭(もた)れ机に凭れば

 なべて皆瞳にうつるもの悲し梅の蕾の仄白き夕


(田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』_p123)



★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・2016年10月21日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:24| 本文

2016年03月13日

第11回 湯溜池






文●ツルシカズヒコ





 一九〇九(明治四十二)年、周船寺高等小学校四年在学中の野枝は三月の卒業が間近になっていたが、野枝とクラス担任の谷先生との親交は深くなっていった。

 野枝は十四歳、谷先生は二十歳だったが、ふたりの親交は年齢差や教師と生徒という関係を超えたものになった。

 我がままで強情で小さな反抗心に満ちた不遜な生徒だった野枝は、多くの教師たちから愛想をつかされ憎まれていた。

 強情で不遜な生徒である野枝に対する非難は、受持教師である谷先生に集中した。

 職員室で不良生徒として野枝の名前が出るたびに、谷先生は辛そうに頭を下げていたが、彼女は野枝に訓戒がましいことを言ったことは一度もなかった。

 谷先生はいつも何か考えごとをしていた。

 授業中に生徒の机の周りを歩きながら、目にいっぱい涙をため、何か考えごとをしているようなこともしばしばあった。

 基督教の信仰に救いを求めたこともあったが、それも彼女を捉えることはできなかった。

 谷先生の自宅の前には溜池があり、その溜池は周囲が山になっている高台にあった。





 私は学校の帰りに、よく彼女に連れられて、其処にゆきました。

 堤に座つては、私達はよく歌ひました。

 彼女は私にいろいろ自分の好きな賛美歌などを歌はせては、黙つて何か考へながら、遠くの方を見てゐました。

『ね、本当に立派な人つて、どんな人だとあなたは思ひます?』
 
 不意に彼女は、こんな事を問ひかけて、私を困らすことが、時々ありました。

『他人から賞められる人が本当に立派な人だとは限りませんよ。賞められなくつてもいゝから本当に立派な人になつて頂戴。決して世間の人から賞められやうなんて思つちやいけませんよ。』

 本当に、染々(しみじみ)と、私の顔を見ながら、涙をためて云ひ聞かされた事が、二三度や四五度ではきゝません。

 もし私が彼女から先生らしい言葉を受け取つたとすれば、その言葉位のものだと思ひます。

『あなたは、随分強情つぱりで、強いくせに、私と一緒のときには、どうしてそんなにをとなしいの。いけませんよ、私を見習つちや。私と一緒にゐるときには、他のときよりは倍も倍も強情を張つていゝのよ、我まゝになる方がいゝのよ、私の真似なんかしては本当にいやですよ。私は弱虫で泣き虫で、意気地なしなのよ、私のやうに弱虫になつたら生きては行けなくなりますよ。』

 思ひがけない熱心さで、よくそんなことも云つてゐました。


(「背負ひ切れぬ重荷」/『婦人公論』1918年4月号・第3巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p36)

 
 谷先生と野枝がよく足を運んだ溜池は、湯溜池(現・福岡市西区周船寺)だと思われる。

 野枝が周船寺高等小学校を卒業した後も、野枝と谷先生の親交は続いた。

 しかし、野枝が女学校五年生の春に起きたある出来事によって、野枝と谷先生との交流はあっけなく終わりを迎えることになるのだった……。





 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』には、この時期の野枝についての同級生の証言がある。

 授業中、野枝は「机の下に文学書を隠して読み耽り、教師にさされるとスラスラ答えるので級友たちはみな驚いた」(p64)という。

「あの先生ね『良人の告白』の主人公の白井さんによう似とらっしゃる」(p64)という野枝の発言も、級友たちの記憶に残っていた。

『良人の告白』は一九〇四(明治三十七)年から一九〇五(明治三十八)年にかけて、『東京毎日新聞』に断続的に連載された木下尚江の自伝的長編小説であり、若き弁護士・白井俊三が主人公である。

 男女の愛憎小説として大衆の人気を獲得したが、日露戦争への非戦というオピニオンを含んだ小説でもあった。

 単行本は上編、中編、下編、続編と発売されたが、一九一〇(明治四十三)年に発禁になった。

 岩崎呉夫は、野枝が白井俊三に似ているという「あの先生」に淡い初恋をしたのではないか、その先生はテニスやオルガンを教えてくれた先生ではないかとの推測をしている。

 とすれば「あの先生」は「嘘言と云ふことに就いての追想」に出てくる、H先生ということになるが……。

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 一九〇九(明治四十二)年三月二十五日、野枝は周船寺高等小学校を卒業した。

『定本 伊藤野枝全集 第一巻』の口絵に卒業証書と卒業記念写真が掲載されている。

 野枝、満十四歳の写真である(前列中央)。

 掲載した写真は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』からの引用である。

 これが現存する野枝の最も年齢の若い写真ということになるのだろう。

 卒業後、今宿の谷郵便局に就職し事務員として勤務する。

 田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』によれば、今宿郵便局は現在もあり「(野枝の)育った家からわずか一〇〇メートルもない往還に沿った角地の建物」(p125)である。

 野枝の妹の武部ツタが、このころの野枝について語っている。


 ……こんなところにいるのが厭で厭で、東京へ行くことばかり考えていました。

 郵便局もこんな田舎町に勤める気ははじめからなく、熊本の逓信局の試験をうけたんです。

 学課は一番で通ったけれど、指先が不器用で、あのツツートンを打つ手先の試験がうまくいかず、おっこちたんです。

 ええまあ、手先は不器用な方だったでしょうね。

 でもきものくらいは縫えましたけどね。

 娘時代には恋愛なんて、見むきもしやしません。

 ここらの男なんかてんで頭から相手にしてやしませんでしたよ。

 そりゃあ、学校はよく出来たし、きれいな方だったし、目立つ娘で、向うから好いてきた人は何人かいましたけどね。

 とにかく、娘のころは勉強勉強で、男なんか目もくれてやしませんでした。

 気の強い方で、今じゃ私はこんなおしゃべりになりましたが若い頃はとても無口で、姉の方は思ったことを誰にでもぽんぽんいって、よくしゃべりました。

 それが大人になると、すっかり向うは無口になりました。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p37・岩波現代文庫)



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・2016年10月21日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index





posted by kazuhikotsurushi2 at 16:11| 本文

第10回 大人の嘘






文●ツルシカズヒコ




 しばらくして、校長先生がやって来た。

 校長は黙って講堂のプラットフォームに立ち、大きなテーブルの前の椅子に腰をかけた。

 野枝は瞬時に校長からも叱られると思った。

 野枝はもう泣かなかった。

 野枝の小さな体は激昂に災(も)えていた。

 野枝はじっと校長の顔を睨んだ。

 校長も黙って野枝を睨んでいた。

 T先生が消え入るような声で「校長先生のお前にいらっしゃい」と言った。

 野枝は体中を反抗の血で一杯にしてわくわくさせながら校長の前に立った。

 野枝の頭は、プラットフォームの上の椅子に座っている校長の膝のあたりまでしかとどかない。

 校長はちょっと前にT先生が野枝にした同じ順序で同じことを尋ねた。

 野枝は同じことを答えた。

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 最後に校長は云ひました。

「あなたの云ふのはうそではないかもしれないけれども父母の許もうけずに他へ泊るなどといふことは大変わるいことです。お父さんやお母さんがどんなに御心配なさるかもしれません。第一さういう遠い処に学校のかへりにあそびにゆくと云ふのがまちがひです」

「でも先生、何時でも行くんです。そしてK先生と一所に何時でもかへりますから家ではよく承知してゐるのです。昨日もあすこに行つたことは家でも知つてゐますから、あんなあらしになつてとてもかへれなかつたと云ふことは家の人にもわかつてゐますし、K先生もおかへりになつてはゐませんから」

「まあお待ちなさい。あたたは一体つゝしみをしらない。私がまだ話して了(しま)はないうちに何を云ふのです、私はあなたの先生ですぞ」

 校長先生はまつ青になつて怒りました。

「女はもう少し女らしくするものです。第一もうあなた位の年になれば遊ぶことよりも少しでも家の手伝ひでもすることを考へなくてはならない。昨日のことは仕方がなかつたとしてももしあなたがもつと女らしい、心がけのいゝ人ならあんな処に遊びに出かけることもないだろうしそうすればあんな間違ひはおこらない。それにあなたは何だつてHさんの学校へなどあそびにゆくのです。あなたはあすこの学校へ何の関係があります。関係のない処に遊びに行つて泊るなどゝ実にけしからん事です。あなたはどんなに悪い事をしたのか分つてゐますか?」

「私は何にも悪いことは一つもしません、悪いことなんか一つもしません」

 私はせき込んで漸くそれ丈け出来るかぎりの力をこめて叫びました。

 私はわるいことなんか一つもした覚えはない!

 もう一度自分の心の中でさう叫びながら私は真青になりました。

 立ってゐる足が体をさゝえきれない程に震へるのでした。

 「それ、そんな傲慢なことをまた云ふ。これがどうして悪いことでないと云へます。あなたは少しも物の道理をしらない、長上を尊敬することをしらない。いくら、学科が出来やうと何しようと慎しみのない女は人の上に立つ資格はありません。以後再びこんなことがあれば決して、許しておけませんからそのつもりでーー」

 校長が出てゆくと私の頭の中は一時に真暗になつてガン/\鳴り出しました。


(「嘘言と云ふことに就いての追想」/『青鞜』1915年5月号・第5巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p208~209)





 教室に戻った野枝は、椅子に腰をかけ机に突っ伏した。

 涙があとからあとから湧き出てきた。

 二十分もそうしていると、野枝はふと日が暮れたことに気づいた。

 机の中のものをすべて包みの中に入れ、机の中を反古紙で拭いた。

 野枝はこの不条理の叱責を公平な父に告げ、明日から学校に行かない決心をした。

 外に出ると日はすっかり暮れ、寒気が強く、低い下駄では満足に歩けないほど道はぬかるんでいた。

 人通りのない道を一里以上も泣きながら帰って行った。

 野枝は帰宅すると袴もとらずすぐに、明るいランプの下で近所の人と世間話をしていた父の前に座って、不法な先生の態度や叱責を詳しく話し、明日からもうあの学校には行かないと言った。

 父は一言も返事らしいことも言わず黙っていた。

 K先生は約束通り家にわけを説明しに来てくれた。

 家のものもあの嵐ではと、少しも気にかけていなかった。

 そしてかえってこの日の帰りの遅いことに気をもんでいた。





 野枝は翌日もその翌日も、友達が誘いに来ても断って学校には行かず、終日、古い本箱のふたを開けたり、犬をいじったりして祖母・サトのそばで過ごした。

 登校を拒否していた二日目の夕方、野枝は夕飯前に犬をからかいながら松原に遊びに出るた。

 その間、野枝の留守中の自宅を訪れたT先生が野枝の父と話した後、松原にいる野枝に会いに来た。

 T先生はいきなり野枝の手を握ってどもりどもり詫びた。

 T先生によれば、大勢の先生がいる職員室でS先生がT先生を非難したという。

 野枝のような子供を訓戒も何も与えず放っておくのはおかしい、担任の責任だと。

 T先生が訓戒できないのであれば、校長にで出てもらうしかないということになり、気の弱いT先生はそれに同意してしまったが、そのふがいなさを涙を流して詫びた。

 T先生がどうか明日から学校に出てくれと懇願するので、野枝は出る気になったが、以後、野枝にとって学校は楽しいところではなくなり、二度と職員室になんか入るものかと思った。





 しばらくして、H先生に会った野枝は彼の口から耳を疑うような話を聞いた。

 H先生がS先生に会った際、S先生はT先生のことをこう語ったというのだ。

 ーー波多江のYにH先生と野枝が泊まったことにT先生は大変怒っているが、野枝さんがかわいそうだ。野枝さんはK先生と泊まったと言っているのに、T先生は野枝さんが嘘をついていると決めつけている。しかも校長にまで訓戒をさせるとは、あんな優しそうな顔をしているのに本当にえらいことをおっしゃいます。

「僕はあの晩はC君と一緒に学校に泊まりました。Kさんと野枝さんがYに泊まったのです」

 とH先生が言うと、

「そうでしょうね、私はきっとそうなんだというのに、T先生は聞く耳を持たないいんですよ。T先生はあんまり下らないことにまで干渉しすぎます」

 とS先生が答えたという。

 醜い嘘までついて自分を保ち、善良なT先生を貶めているS先生に、野枝は驚いて言葉を失った。

 野枝が周船寺小学校を卒業して時が経ち、野枝はS先生の嘘は忘れかけていたが、校長にまで叱責されたことの理不尽さは消えなかった。





 野枝はあるときふっと思いついて、S先生も校長もH先生もT先生もよく知っている人に、このことを話をしてみた。

 その人は突然、皮肉な声で哄笑しながら言った。

「ああSですか、なに、あの女の例のやきもちからさ。あなたはまだ小さくてわからなかったろうがいい迷惑さね。あなたがあの女には大人並みに見えたまでさ。ハハハハハハ、いい目にあいましたね」

 嘲るような目つきをその人はした。

 これを聞いて、野枝の心中に刻まれたS先生の嘘の不快な印象はさらに深みを増した。

 すべてに淡白でたいていのことは忘れてしまう野枝だったが、S先生の嘘だけは一生涯忘れ去ることができないものになった。

 嘘とは、本当のことを言うと叱られるので叱責を逃れるために、子供がない知恵を絞って大人に吐く他愛のないものだと、幼少期の野枝は考えていた。

 しかし、いやしくも学校の教師でありながら、度外れの嘘言を弄して生徒や同僚教師を貶める「大人の嘘」に直面した野枝は、大人の汚い心をまざまざ見せつけられ、小さい心は怒りと驚きとに震えた。

 なお野枝は「遺書の一部より」「背負ひ切れぬ重荷」でもT先生に言及している。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』の「背負ひ切れぬ重荷」解題(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p442)によれば、T先生は野枝が周船寺高等小学校四年時の担任「谷先生」である。




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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2016年03月12日

第9回 波多江(はたえ)






文●ツルシカズヒコ




 代一家の上京により、長崎から今宿に戻った野枝は、一九〇八(明治四十一)年十一月、家から三キロほど離れた隣村の周船寺(すせんじ)高等小学校四年に転校した。

 周船寺高等小学校には一年から三年まで通っていたので、転校といっても勝手知ったる古巣に戻ったようなものだ。

 野枝がこの周船寺高等小学校四年在学中に起きた、忘れがたき出来事について書いたのが「嘘言と云ふことに就いての追想」(『青鞜』1915年5月号・第5巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p202~212)である。

 西山女児高等小学校では、受持教師が生徒を自由にさせてくれる教育方針だったので、生徒は教師に干渉されることなく無邪気に飛んだりはねたり腕白をしていた。

 それに比べて田舎の周船寺高等小学校の校風は質素で、野枝は違和感を持ったが、長崎時代と同様に無邪気に過ごしていた。

 生徒の中で校長室や職員室にずかずかと入っていけるのも野枝くらいのものだった。

 先生の多くはその快活さを可愛がってくれたので、野枝も多少増長していたところがあったかもしれない。

 しかし、高等小学校の最高学年である四年生にもなれば、ひとり前の大人の女であってしかるべきと考える女の先生からは、慎みのないお転婆な娘として睨まれてもいたようだが、当時の野枝はそういうことに無頓着だった。

 周船寺高等小学校四年の受持の先生は、Tというやさしい先生だった。

 野枝のおしゃべりや歌やお転婆な行動をいつもニコニコ笑って見守っているような先生だったので、野枝だけでなく級(クラス)のみんながT先生に親しみを持っていた。

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 放課後、野枝は一週間に一、二回、周船寺高等小学校から半里ほど離れた波多江(はたえ)というところの小学校に遊びに出かけていた。

 その波多江の小学校の校長は、野枝が西山女児高等小学校に転校する以前、周船寺高等小学校に在学していたときに同校に赴任していたH先生だった。

 野枝が今宿尋常小学校一年のときに教わったことがあり、野枝の家の近所に住むKという女の先生も、その波多江の小学校で教員をしていた。

 野枝はH先生やK先生とテニスをしたり、オルガンを弾いたりするのが楽しかったのである。

 その日も野枝は波多江の小学校に遊びに行った。

 しばらくすると急に天気が悪くなり嵐になってしまった。

 二、三間先も見えないほどひどい雨が降り、風がピューピュー唸っている。

 嵐が止むのを待っていると、夜になってしまった。

 家までは二里以上の距離があり、もう歩いては帰れないので、H先生は学校の宿直室に泊まり、女のK先生と野枝は学校のそばの先生たちの知り合いのYという家に泊まった。

 野枝の家には翌日、K先生が事情を説明に行き詫びることにした。





 翌日、野枝はいったん家に帰り、それから登校しようと思っていたが、寝坊をしてしまい宿泊先から直接、登校した。

 その日は図画の授業があり、その準備をしてくることができなかった理由を野枝がSという女の図画の先生に説明すると、S先生は男のH先生と外泊したのではないかと勘ぐった。

 野枝は子供ながらも無礼なS先生に激しい憤りを覚えた。

 S先生は学校の規則に非常にやかましい人だったが、野枝は落とし物や忘れ物が多い横着者だった。

 S先生は日ごろから野枝に睨みをきかせていた。

 野枝もS先生の気に障るようなことを無意識に意地悪くしていたかもしれない。

 放課後、野枝が帰りかけると、他の級の生徒が来て、担任のT先生のことづけを伝えた。

 少し用事があるから残っていてほしいとのことだった。

 当番の手伝いなどをして待っていたが、T先生はなかなかやってこない。

 野枝はT先生がことづてを忘れたのかと思い、教室を出て職員室に向うと、T先生が向こうから歩いてきた。

 T先生は野枝を廊下の角に待たせ、職員室に入り火鉢を抱えて出てきて、ふたりは二階の講堂に行った。





 がらんとした広く寒い講堂に入るなり、野枝は泣き出したくなった。

 野枝は今までさんざん待たせたあげく、こんなところに連れ込んだT先生に腹が立った。

 T先生によれば、S先生は野枝が料理屋だと知っているのに嘘をつき、家の許しも得ないで外泊したと主張しているという。

 野枝が泊まった家は料理屋のようだったが、野枝は知らないことだった。

 野枝は涙がこみ上げてきた。

 H先生とK先生のところに遊びに行っただけで、ひどい嵐が夜になってもやまず、乗り物もなく寂しい道を二里以上も歩いて帰宅することはできないから、やむを得ず、すすめられるままに、不安ながら泊まっただけだ。

 それがどうしていけないことなのか、野枝にはどうしても理解できなかった。

 野枝は理由もなしに虐待されていると思った。

 S先生の憎々しい様子を思い出さずにはいられなかった。

 日ごろ、やさしいT先生まで一緒になって叱っていることが悲しく腹立たしかった。

 膝の上に置いた野枝の手の甲に涙がボタボタ落ちた。

 火鉢を見ると、T先生の目からも涙がポトリポトリ続けさまに灰の中に落ちていた。




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



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2016年03月11日

第8回 長崎(二)






文●ツルシカズヒコ



 野枝の長崎時代について、叔母・代キチは岩崎呉夫にこう語っている。


 さようでございますね、近ごろのボーイッシュ・ガールってとこでしたでしょう。

 あんたはアメリカへでもいけば上等なんだけど、日本じゃお嫁の貰い手がないよ。

 よくそんな冗談を申しました。

 はじめのうちは千代子と張合ってムキに自分を主張しようとしていました。

 躾けのことで喧(かまびす)しくいうと、すぐふくれて泣くのです。

 声は決してだしませんで、ただポロポロ涙をこぼしましてね。

 けれどとにかくハキハキして、役に立つ子でしたよ。

 五つ六つのときから肩や胸なんかが、こう男の子みたいに張りましてね、固ぶとりで、着物が似合わないかわりに洋服だとぴったりするような子でした。


(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p61~62)

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 キチは瀬戸内晴美(寂聴)には、こう語っている。


 あの子は長崎にわたくしどもがおりました時、家が貧しゅう子だくさんでありましたのでうちへまいりました。

 気のつよい、きかん気のごついおなごでござりましたが、泣き虫でもありました。

 野枝はわたくしの身内でござりますもの、野枝のつらがるがごと、あるはずのありましょうことか。

 本を読むのが大好きで、掃除とか裁縫とか女らしいことは好きではありませんようにござりました。

 それでも女のつとめだからと申して、千代子と交替でむりにやらせるようにしたものでござります。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p22~23・岩波現代文庫)


 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』には、こう記されている。


 キチ曰く、「ノエは、あまり掃除やお裁縫が得手でなく、女子の務めとして、千代子と共に、無理にでもやらせましたよ」

「千代子の真似ばっかり、する子でした。千代子の読む本を読み、千代子と同じ髪型にし、二人とも水練が達者でしたので、よく鼠島に泳ぎにいってましたよ」

「手先の不器用な娘でしたので、女の勤めとしての針仕事は、とくにきつく教えました。聞かぬ気のところがあり、機嫌をほどくのに、苦労をしました。暇さえあれば書庫に篭っていました」


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p36~37)





 野枝が西山女児高等小学校四年に在籍したのは、一九〇八(明治四十一)年四月から十一月までだったが、甘粕事件後に『長崎新聞』に載った記事の中で、同校校長が同校在学時の野枝についてコメントをしている。

 見出しは「西山女児校にゐた伊藤野枝 成績は殆ど『甲』だつた ーー既に思想がませて大人染みてゐた 暑中休暇の日誌は実に美事なもの」。


 ……第一学期の成績は修身、国語、算術、歴史、地理、理科、手工、唱歌、体操の各教科は全部甲で唯図画、裁縫と行状が乙で学業成績は極めて優秀の方であつた、

 当時の身長は四尺六寸九分、体重十貫十五匁、胸囲二尺二寸七分、背柱は正しくて体格は随分丈分であつた、

 四月以降十月迄に僅三日間事故欠席したのみで熱心に能く勉強してゐた、

 容貌はどちらかと云へば好くない方であつたが非常に文才のあつた事は未だに記憶してゐる、

 野枝は当校在学当時から何となく思想がませて大人染て子供らしい処がなかつた、

 夏季休業中の日誌を担任教師の吉田弘文氏(現活水女学校教師)に出したのを一読してみたが実に軽妙な書振で到底十四五歳位の小娘の書いた文章とは思へない程に巧く書いてあつた……


(『長崎新聞』1923年10月6日・4面/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』資料篇_p435)


 野枝の容貌について「どちらかと云えば好くない方であった」と校長はコメントしているが、叔母・代キチは「きれいでござりましたとも。はっきりした顔だちのよか女でござりました」と語っている(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p23)。

 十三歳の野枝の身長は一四一センチ(四尺六寸九分)、体重は三十八キロ(十貫十五匁)、胸囲は六十八センチ(二尺二寸七分)である。

 ところで、野枝が不器用で裁縫が不得手だったという叔母・キチの発言があり、学校の裁縫の成績も「乙」であるが、野枝は本当に不器用で裁縫が苦手だったのだろうか。

 まず、祖母・サトと父・亀吉が手先が器用で、野枝がその血を受け継いでいるとすれば、不器用でない可能性が高いのではないか。

 そして、野枝は後年、ミシンを購入し洋服作りにハマっている。

 野枝は裁縫が不得手だったのではなく、良妻賢母教育の一貫として押し付けられる裁縫に反発していたのだろう。





 『長崎新聞』によれば、野枝は一九〇八年四月九日に西山女児高等小学校に転校し、同年十一月二十六日に退学。

 同校を退学したのは、代一家が東京で事業を始めるため、上京することになったからである。

 野枝は今宿の実家に帰り、周船寺(すせんじ)高等小学校に戻った。

 西山女児高等小学校四年の二学期途中で今宿に帰ることになった野枝だが、その胸中はいかなるものであっただろうか。

 翌年の三月には高等小学校卒業である。

 卒業後の進路のことも考えなければならなかったはずだ。 

 井出文子は野枝の覚醒をこう捉えている。


 今宿では、貧しくとも家族との一体感のなかにスッポリと浸っていられた。

 父も祖母も兄妹も野枝の力量をみとめ……彼女はその小宇宙の女王様だった。

 何ごとも自分の考えで自由にきめ、ものをいうことができた。

 だが長崎ではそうはいかなかった。

 親分肌の叔父と頭の切れる叔母、叔父が溺愛していた一人娘の千代子……野枝は不安定な他所(よそ)者だった。

 一片の疑いもなく愛情の一体感で暮してきた肉親も、離れてみれば他人と同じである。

 ここで大切にされているのは自分ではなく、千代子である。

 自分はある意味で差別のただ中にいる。

 この嫉妬と屈辱のどうしようもない悲しさのなかで、はじめて野枝に知覚されるのは、誰でもない「自分」であり、このとくべつの「自分」を知り、愛(いと)おしむのも「自分」でしかなく、その未来に責任をもち、その運命を背負うのもまた「自分」をおいていない。

 ……このときから野枝の内部に不敵な魂が根をおろしはじめる。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p26~27)





 矢野寛治はこう指摘している。


 この家では最も大事にされるのは千代子、ノエ自身は今宿の家とは違って中心になれない。

 それは何のせいなのか。

 自分が悪いわけではない。

 貧しさか、ノエはこの代の家で新聞を、雑誌を、ほかの多くの本を読み下し、世の中、社会、お金というものを考えた。

 今は居候の身にて、従順にしておかなければならない。

 我慢と辛抱と没自我だが、唯一自我の発露は成績だった。

 先ず勉強で千代子に優ること。

 千代子は……気立て温厚温雅。

 ……模範の姉だったが、ノエの心の中に生まれついて何の苦労もしていない者への嫉妬が、その底の方で憎しみにもなっていた。

 ……千代子を面従腹背で当面の敵とした。

 ……代準介は境遇の悪さから賢(さか)しらになっている小娘ノエの根性を気に入っていた。

 自分も十三歳から商売をし、生き抜いてきた男だからである。

 ノエの余儀のない捻じ曲がりは、もちろんノエのエネルギーになっていく。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p39~40)



★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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2016年03月10日

第7回 長崎(一)








文●ツルシカズヒコ





国勢調査以前の日本の人口統計」によれば、一九〇八(明治四十一)年末の日本の都市人口の上位五都市は以下である。


 ●東京市 1,488,245人

 ●大阪市 1,226,647人

 ●京都市  442,462人

 ●横浜市  394,303人

 ●神戸市  378,197人

 
 九州の上位五都市は以下である。


 ●長崎市  176,480人

 ●佐世保市  93,051人

 ●福岡市   82,106人

 ●鹿児島市  63,640人

 ●熊本市   61,233人

 
 当時、長崎が九州随一の都会だったことがわかる。

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 神近市子が、郷里、長崎県北松浦郡佐々(さざ)村(現・北松浦郡佐々町)から長崎市の活水女学校に入学するために、長崎市にやってきたのは一九〇四(明治三十七)年だった。

 後に神近と野枝の間にはただならぬ因縁が生じることになるが、このとき十六歳の神近は、生まれて初めて見る長崎市内のにぎわいに歓喜して、「ああ、長崎」と叫びたいような興奮にかられたという。


 異国情緒たっぷりの町並みにはいっていくと、お祭りのような人の波が押し寄せる。

 都会の繁栄とはこれほどめざましいものかと、私は何度も溜息をついた。

「随一の大都会にして、電信電話の線、蜘蛛の巣を張りたるごとし」

 小学校の地理の教科書では、町の賑やかさを教えるのにこれがきまり文句であった。

 私は、先生がそのくだりを読みあげるたびに、一瞬都会の目まぐるしさを想像して、からだを緊張させたものだった。

 ところが、いま私の頭上にはその文章のとおり無数の電線が交錯している。

 私は夢を見ているような心地がした。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p62~63)


 野枝の長崎滞在は八か月(一九〇八年四月〜同年十一月)ほどだったが、このとき二十歳の神近は活水女学校中等科二年生〜三年生(活水女学校は九月入学制)である。

 ふたりは長崎市内のどこかで、すれ違っていたかもしれない。

 



 当時の代一家は代準介が四十歳、代キチが三十二歳、代千代子が十五歳。

 千代子は野枝より二歳年長だが、野枝は早生まれなので学年では千代子は野枝の一学年上である。

 千代子は当時、長崎市内の女学校の二年生だった。

 女学校名は不明。

 親分肌の代準介は天下国家を論じ、友人知己、商売上の来客も多く、代家も時代感覚に敏感な活気のある家だっただろう。

 裕福な代家には新聞、雑誌の類いが豊富にあった。

 野枝は千代子の蔵書を読みあさり、街の本屋で立ち読みもしたことだろう。


 そこにはつばを飲みこむほどの雑誌や書籍がならんでいた。

 年よりませた野枝のことだから……女学生むけの雑誌などに手をだしたにちがいない。

 本屋の棚にはおそらく『女学世界』(一九〇一年刊)、『女子文芸』(一九〇六年刊)などが並んでいた。

 これらの雑誌は当時の少女たちに「投稿」をさそっており、それは野枝に対してどれほど心はずむ未知の世界をかい間みせてくれたことだろう。


(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p28)





『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』「伊藤野枝年表」(p5)によれば、野枝は「この頃から文学を好んでゐたが、十二三歳頃からしきりに少女雑誌文芸雑誌等へ作文和歌等を投書して、数回賞品を貰つた事もある」という。

 野枝自身は当時のことをこう書いている。


 ……小さいうちからいろいろな冷たい人の手から手にうつされて違つた風習と各々の人の異つた方針に教育された私はいろ/\な事から自我の強い子でした。

 そして無意識ながらも習俗に対する反抗の念は十二三才位からめぐくんでゐたので御座います。

 私は生まれた家にも両親にも兄妹にも親しむ事の出来ない妙に偏つた感情を持つてゐるのです。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・第3巻第8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p174/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p33)


 後に野枝はコンベンショナル(因習的)なものと闘う「新しい女」の看板を掲げることになり、その視点を強調した屈折した書き方をしているが、自分の人生を切り拓いていく上で、家族など何の頼りにもならいないという認識はこの時点ですでに明確になっていたのは事実だっただろう。





 野枝より二歳下の妹・武部ツタは、女姉妹同士ということもあり、子供のころから野枝とは隠し隔てのない仲だった。

 瀬戸内晴美(寂聴)『美は乱調にあり』のツタの発言は、歯切れのよいカラッとした辛口発言がいい味を出しているが、野枝の長崎時代についても一刀両断にこう断言している。


 姉が長崎の叔母の家へいったのも、ただ自分が勉強したいからで、うちより叔母の家の方が勉強するのに都合のいい環境だったからでしょう。

 叔父や叔母にいじめられたみたいなことを書いているのはまったく、でたらめですよ。

 叔母のところでだって、お千代さん同様、ずいぶん我まま勝手にしていたようです。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p36・岩波現代文庫)


 ツタによれば、野枝は子供のころから自分のことしか考えず、自分さえ勉強ができればよく、母親が困ろうが兄や弟や妹が泣こうが平気で、嫌いなことは一切せず、同じ年ごろの子どもと遊ぶというようなことも嫌いで、いつもひとりで何かしているような子供だった。

 おかげでツタは損な役目ばかり引き受けさせられた。

 物心ついたころには、父が家に寄りつかず、母が近所の畑仕事や賃仕事をして子供を養っていたので、ツタは子供のときから母を何とか助けようとしたが、野枝は一向に知らん顔をしていた。

 成人してからもなんの親孝行もしていない母にさんざん迷惑をかけ通した野枝は、得な性分の人で、野枝が生きてる間じゅう迷惑のかけられ通しだったという。




★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)





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2016年03月09日

第6回 代準介






文●ツルシカズヒコ




「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p506)によれば、一九〇八(明治四十一)年三月、周船寺高等小学校三年修了後、野枝は長崎に住む(長崎市大村町二十一番地)叔母・代キチのもとへ行き、四月、西山女児高等小学校四年に転入学した。

 野枝、十三歳の春である。

 代キチは野枝の父・亀吉の三人の妹の末妹だが、妹の中で一番のしっかり者だった。

 キチの夫・代準介(一八六八〜一九四六)は実業家として財をなし、代一家は裕福な暮らしをしていた。

 代準介の先妻・モト子(一八七〇〜一九〇五)は一粒種の長女・千代子(一八九三〜一九二六)を生んだが、千代子が十二歳のときに病死した。

 代準介と野枝の父・亀吉は幼なじみであり、その縁で野枝が長崎に来る二年前に、キチが代準介の後添えに入ったのである。

 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(p62)と井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p24~25)は、野枝が長崎に来た時期を一九〇四(明治三十七)年秋としているが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p37)は代準介がキチと再婚した時期などの状況から判断し、一九〇八年春が「正しいと考える」と指摘している。

 矢野寛治の妻・千佳子は代準介の曽孫にあたり、『伊藤野枝と代準介』は代家に伝わる代準介の自伝『牟田乃落穂』のデータを駆使して書かれている。

 野枝が代一家のもとに身を寄せることになったのは、叔母・キチの采配だった。


 ノエの叔母であるキチは、実家の困窮を常に気にかけており、夫・代準介にノエの扶養を願い出ている。

 代も長女・千代子(先妻・モト子との間の子)が一人娘ゆえに、ほぼ一歳違いのノエを姉妹同様に育てることに同意する。

 この頃、父・亀吉は家を捨て、懇ろの女性と行く方をくらましていた。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p30~31)

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 野枝のその後の人生において、叔父・代準介はキーになる人物のひとりである。

 代準介とはいかなる人物だったのか。

『伊藤野枝と代準介』(p222~228)に収録されている「代準介・年譜」を、野枝が長崎に来る前年までたどってみる。


●1868年(慶応4年・明治元年)
福岡県糸島郡太郎丸村で生まれる。

●1880年(明治13年)12歳
周船寺(すせんじ)高等小学校卒業。父が長崎に出たので、家業を継ぎ、日用雑貨業および穀物買入業を営む。同時に貸本業も営む。

●1887年(明治20年)19歳
九州鉄道株式会社社員に推挙。

●1888年(明治21年)20歳
市町村制度実施となり、太郎丸村一帯の村役場収入役に当選する。

●1890年(明治23年)22歳
収入役を辞任。実業家に転じるべく父のいる長崎へ。高島炭鉱小曽根商店に入る。

●1891年(明治24年)23歳
貿易商で廻漕業の相良商店の娘モトを妻に迎え、妻の実家の家業を手伝う。

●1894年(明治27年)26歳
日清戦争開戦により、海軍から旗艦松島・厳島・橋立の三艦の酒保用達を命じられる。

●1895年(明治28年)27歳
相良商店を離れ、独立する。海軍の仕事を第一として事業を発展させていく。

●1898年(明治31年)30歳
ロシア艦隊ウスリー号、平戸生月島に座礁。これを三萬円(現価格およそ4億5千万円)で買収。ウスリー号引き揚げ途中で売却。

●1900年(明治33年)32歳
三菱長崎造船所の用達となる。木材納入と古鉄の払い下げを引き受ける。

●1901年(明治34年)33歳
以降、三菱からの仕事が殺到する。事業順調にして、長崎一流人とのサロンを作る。茶道に熱中し書画骨董を蒐集する。

●1904年(明治37年)36歳
木材納入のため、全九州はもとより、四国、大阪、名古屋、北海道を視察。

●1905年(明治38年)37歳
三菱におもに槻(けやき)を納入する。

●1907年(明治40年)39歳
上京して宮崎滔天の取り次ぎで頭山満を訪ねる(初対面)。長崎東洋日の出新聞社社主・鈴木天眼、主筆・西郷四郎の選挙運動をして衆議院議員に当選させる。





 地方都市の叩き上げの実業家である。

 人脈があり機を見るに敏だったのだろう。

 海軍と三菱財閥との太いパイプによって、日清日露戦争をうまくビジネスにつなげ財を成した。

 政治やジャーナリズムにも一家言のある親分肌の国士風実業家だった。

『伊藤野枝と代準介』によれば、「代商店」は三菱長崎造船所の御用達として木材の納入をおもな商いとし、代準介は「代商店」の社長として良材を求めて日本全国を奔走していた。

『牟田乃落穂』によれば、代準介は鈴木天眼の選挙運動の際、「予、選挙事務長となり、社員三、四十名、草履がけにて運動に従事せしめ」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p45)とあるので、「代商店」の従業員は三、四十人ぐらいだったようだ。

 三菱長崎造船所は一九〇八年に世界最高クラスの豪華客船「天洋丸」を造る技術を備えた、東洋最大の民間造船所となっていた。

 玄洋社の総帥・頭山満は代の遠縁にあたり、代は頭山を一族の英傑として幼き日より霊峰富士の高嶺を仰ぎ見るように、畏怖畏敬、憧れを抱いていた。

 頭山に面会した代は頭山の大アジア主義に共感した。

 頭山の謦咳に触れ、お金や書画骨董、茶会だけの生き方を恥じた。

 代は有為の子弟の育英も実践していて、多くの不遇であるが有為の子弟の学費の援助をしている。




★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第5回 能古島(のこのしま)






文●ツルシカズヒコ



 伊藤家は窮乏を極めていたが、野枝はいじけず伸び伸びと育った。


 ……毎日働きにでている母親から逆に独立心を学んだのと、彼女の周辺に美しい自然があったことがあげられよう。

 家の裏木戸をでれば、ただちに白い砂浜と荒い玄界灘の波立つ海がせまっている。

 両手をひろげたように東西から妙見崎と毘沙門山が今津湾をつつんでいる(ママ)。

 蒼い水平線のむこうは大空にとけ、白い入道雲がわきのぼっている。

 手まえには能古島が雄牛がうずくまったように横たわっている。

 野枝は海にでておもうさま泳ぎまわった。

 沖へでると海辺の家は遠くみえなくなり……頭上にはぬけるような大空が広がる。

 波間にからだをうかしてゆさぶられていると、少女のこころは何ものにもとらわれない自由さにとき放たれていくのだった。


井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p22)

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 幼少時の野枝が泳ぎが得意だったことはよく知られていて、海岸から四キロほどの距離にある能古島までも泳げたという。

 野枝の泳ぎについて野枝の叔母・代キチの証言がある。

 これは瀬戸内晴美(寂聴)が『文藝春秋』に「美は乱調にあり」を連載するため、福岡市に取材に訪れたときのものであろう。

 瀬戸内は西日本新聞社の紹介で野枝の長女・魔子(真子に改名)に会い、魔子の案内で代キチ、四女・ルイズ(留意子に改名)、次兄・由兵衛、妹・ツタに面会している。

 瀬戸内が来福したのは「桜が咲く」ころだったが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p32)によれば、それは一九六四(昭和三十九)年である。

 このとき、風邪気味で床についていた代キチは八十八歳、前年に脳溢血で倒れてベッドに仰臥していた由兵衛は七十二歳、ツタは六十七歳、魔子は四十七歳、ルイズは四十二歳である。

 
 泳ぎでござりますか。

 はあそれはあんた海辺育ちのことゆえ、河童(かっぱ)のごと上手でござりました。
 
 型は抜き手でござります。

 わたくしなども、子供のころから、学校をぬけだして日がな一日、泳いで暮しておりました。

 陽の当る材木の上に寝ころんで濡れた髪を干し、半分乾いたのをごまかして結いあげ、内緒のつもりでござりますから無邪気なものでござりましたよ。

 はあ、そりゃもう、下ばきなんどというものをはきましょうかいな。

 誰しもすっぱだかで泳ぎます。

 野枝は飛びこみなど好きでござりましたが……。

 わたくしどもの子供のころと、野枝の子供のころとのくらしは、ああいう田舎町ではさして変っていたとも思われません。


(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p23~24・岩波現代文庫)





 青鞜時代、野枝は仲間たちに自分の幼少時のことを話すことはほとんどなかったようだが、珍しく話したのが水泳のことだった。

 平塚らいてうは飛びこみの話が印象に残ったという。


 海国に育つた野枝さんは水泳が上手で男子に交つて遠泳の競争も出来るのださうだが、殊に眼まひのする様な高い櫓(やぐら)から水の中に飛び込むことの出来るといふことは野枝さんの……得意としてゐる処らしい。

 最初それを練習する時はいくら飛び込まふ/\と思つても足がすくむでどうしても思ひ切つて飛び込めない。

 けれど一旦櫓に登つたが最後もう梯子を取られて仕舞ふから二度と下りてくることは出来ないことになつてゐるので、死んだ気になつて飛び込んで仕舞ふのだといふやうな話をいつか野枝さんから聞いたやうに記憶してゐるが、どうも野枝さんのやる処を見てゐるとそれによく似た処があるやうなのは面白い。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号_p83~84)





『青鞜』の編集部員仲間だった小林哥津(かつ/一八九四〜一九七四)は、野枝から聞いた幼少時の逸話を記憶に残していて、井出文子に話している。

 野枝の家の隣りに八幡神社があり、そこは子供たちの遊び場だった。

 ある日、遊びの中でひとりの子が「首つり」の真似をしてみせた。

 松の枝に縄をかけてぶら下がっているうちに、本当に首が締められて、その子がもがき始めた。

 おもしろがって見ていた子供たちは急にゾッとして、クモの子を散らすように逃げて行った。


 首をしめてしまった子が助かったか、死んでしまったのかはわからない。

 けれどその動機の無邪気さと、事実の残酷さで、小林哥津にとってはやり切れない物語だった。

 ところが野枝はその話をむしろ明るい調子で笑いとばしながら語ったというのである。

 都会育ちで、繊細な神経の持ち主であった哥津にとっては、その笑いが不可解でなんともイヤーな気持になったと、彼女はわたしに話したことがある。

 この話は、わたしの心にも深く残っている。

 たぶん野枝の笑いは、この無慈悲な記憶を遮断するための表現であったのではなかろうか。

 野枝の笑いのなかには、あまりにもありありとその日の情景、空の色、雲の形、松風のざわめき、子どものゆがんだ表情と自分たちの驚きや胸ぐるしさが記憶されていたのにちがいない。

 野枝は、それを生ぬるい感傷などでは語れなかったのであろう。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p23~24)





「首つり」といえば野枝の創作に「白痴の母」(『民衆の芸術』1918年10月号・第1巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)という作品がある。

 野枝が今宿の実家に帰省中に、実際に起きた事件をリポートしているような創作である。

「野枝の実家」の隣家に住む母とその息子。

 汚い身なりの母は八十歳をすぎている。

 五十歳をすぎている息子は白痴である。

 近所の子供たちにからかわれ、腹立ち紛れに子供たちを追い回す白痴の息子は地域の問題児である。

 野枝が小学生だったころから、白痴の息子は地域の問題児だった。

 ある日の夕方、白痴の息子が逃げる子供を石段から突き飛ばし、怪我をさせてしまう。

 それから三、四日して、老母の死体が発見される。

 老母は裏の松の木に紐をかけ首つり自殺をしたのだった。

 野枝が二十三歳のときに発表した作品だが、病苦や生活苦のために首つり自殺をする人がいるという現実は、幼いころから彼女の中にインプットされていたのだろう。

 今宿にかぎらず、当時の日本の貧しい村落に共通することだっただろう。





 ついでながら、野枝の幼児期の今宿のことが垣間見える創作がもうひとつある。

「火つけ彦七」という作品である。

「今から廿年ばかり前に、北九州の或村はづれに、一人の年老(としと)つた乞食が、行き倒れてゐました。」

 という書き出しなのだが、この原稿執筆時の野枝は二十六歳、その二十年ばかり前というのは野枝が六歳のころということになる。

 子供たちは白髪の下から気味の悪い眼を光らせて睨み据える乞食の彦七が怖いのだが、怖いもの見たさで覗きに行く。


 ……若(も)しも恐い事があつて、逃げるときに、逃げ後れるものがないやうに、めい/\の帯をしつかりつかみあつて、お宮の森をのぞきに出かけました。

 ……子供たちの眼にまつさきに見えたのは、お宮の森で一番大きな楠の古木の根本に盛んに燃えてゐる火でした。

 そしてその次ぎに見えたのは、その真赤な火の色がうつつて何とも云へない物凄い顔をしたあの乞食でした。

『ワツ!』

 子供達は……悲鳴をあげてめい/\につかまえられてゐる帯際の友達の手を振りもぎつて、駆け出して来ました。


(「火つけ彦七」/『改造』1921年7月夏期臨時号・第3巻第8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p479~480/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p364)


 このあたりの細かい描写は、この作品がフィクションだとしても、野枝が小さいころに同様の体験をしたことを下敷きにしているかのようだ。

 度胸のいい野枝のことだから、逃げ腰の仲間に発破をかけて、先頭に立って覗きに行ったかもしれない。

 この乞食は村の家につけ火をし、放火犯として逮捕される。

 彼は三十年前に村から逐電したのだが、村への復讐の念に燃えて村に舞い戻って来たのだった。

 被差別部落問題をテーマにした重い作品である。

 乞食は若いころ、町外れの瓦焼き場の火を燃す仕事にありついたが、これは野枝の父・亀吉が職人として雇われていた今宿瓦の工場をモデルにしているのであろう。




★井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年03月08日

第4回 ノンちゃん






文●ツルシカズヒコ


「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)によれば、一九〇一(明治三十四)年四月、野枝は今宿尋常小学校に入学した。

 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(p62)と井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p62)は、野枝の今宿尋常小学校入学を一九〇三(明治三十六)年としているが、「伊藤野枝年譜」を信頼したい。

 今宿尋常小学校に入学した四月、野枝は満六歳だが、早生まれなので問題はないだろう。


 野枝は毎朝おばあさんにお下げ髪や、当時たばこ盆といわれた髪型(頭の真ん中をとりあげて紐でむすぶ)に結ってもらい、手織木綿のつつ袖のキモノに、石版と読本と行李がたの弁当箱を風呂敷につつんで背にしばり、兄や妹と学校にでかけるのだった。

 家から約二十分ぐらいの学校への道は、たんぼの畦道で、春はタンポポやレンゲの花が咲き、夏にはカエルや虫がとびだし、たのしい秋祭りがおわると、校庭の銀杏の葉は黄金色にいろづき、やがて鉛色の空からシベリア渡りの北風の吹く冬がやってくる。

 野枝は頭からスッポリと赤いケットをかぶって妹と一緒にくるまりながら、風におわれるように道をいそぐのだった。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p21)

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石版」は昔のノート、その上に鉛筆代わりの「ろう石」で書き取りを行った。

「石版」「ろう石」は大正時代ぐらいまで使用されたようだ。

 井出文子は「野枝がかよった今宿小学校は、現在も町はずれに建っている」と書いている。

 井出が記している「現在」は一九七〇年代と思われるが、二〇一七年現在も福岡市立今宿小学校は現存している。

 地図で調べてみると、今宿小学校は野枝一家が住む東松原の海沿いの借家があったあたりから、南の丘陵の方角、約一キロに位置している。

「家から約二十分ぐらいの学校への道」と井出は書いているが、子供の足で一キロ歩くのに二十分は妥当だろう。

「今宿小学校ホームページ」によれば、同小学校は一四〇年の歴史がある。





 これが「作詞・野坂治 作曲・津留崎浩行 」の校歌 である。


 一.渚を守る 松原の
  松の雄々しさ父として
  歴史はるかにしのびつつ
  みんなで励もう明るく強く
  ああ 今宿
  今宿校に力あれ

 二.緑したたる高祖山
  山ふところを母として
  希望はるかに仰ぎつつ
  みんなで伸びよう明るく強く
  ああ 今宿
  今宿校に栄あれ

 三.雲わきあがる玄海の
  潮の香りを友として
  理想はるかに望みつつ
  みんなで進もう明るく強く
  ああ 今宿
  今宿校に光あれ


(「今宿小学校ホームページ」より)

 もしこの校歌が野枝が卒業する以前に作られたものだとしたら、野枝も大声で歌っていたはずだ。





 今宿尋常小学校に入学したころの野枝は、相当やんちゃだったようだ。


 この頃から、ひどい負け嫌ひであつた。

 兄達は極くおとなしかつたので、時に朋輩からいぢめられる事があつたが、野枝さんはそれを見ると承知しなかつた。

 往々、思ひ切つた乱暴な加勢さへした。


(「伊藤野枝年表」_p4/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)



「ノンちゃん」というのが野枝の呼び名だった。

 友だちから「勝気な子」といわれていた野枝は、気の弱い兄をいじめっ子からかばうというふうだった。

 学校の勉強ができるというより、知的好奇心のつよい子といってよかった。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p21)


 ……兄の由兵衛が内気な性格で近所の悪童連にいじめられて泣いていると、野枝は飛んでいって悪童連と取っ組合いの喧嘩をするほど勝気だった。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p61)


「伊藤野枝年表」(p5)によれば、十代のころの次兄・由兵衛は「貧困の中にあつて平然として発明考案に耽り、既に特許権を得たもの五六件あるが、製品販売力がないので何れも他に譲与して、ただ考案にのみ専念」していたという。

 どうやら、次兄・由兵衛は今でいうオタク体質だったようだ。





 野澤笑子(野枝の三女・エマ)が、小学校時代の野枝のエピソードを書き記している。


 小学校に上がって平がなが読めるようになるとこんなことがあった。

 言い付けておいた用事をやらないので懲らしめに押し入れに閉じ込めると、暫らく泣いていたがいつか静かになっている。

 泣き寝入りしたのかと思ってそっと襖を開けてみると、何時の間に持ち込んだのか蝋燭に火を点して、壁に張った古新聞のかな文字を熱心に読んでいた。

 昔の新聞はすべての漢字にかなが付いていたのを私も覚えている。

 もう少し長じて、暇さえあれば手当たり次第に本を読んでいる娘に、少しは掃除を手伝いなさいと叱りつけると素直に「はい」と返事をして、勢いよくパタパタとはたきをかけていたのが、これも暫らくすると音が止んでいる。

 もう終わったのかと来てみると、何と右手にはたきを持って突っ立った侭(まま)左手に本をかかえて読み耽っている。

 そんなことは始終だったという。


(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」_p4)





「伊藤野枝年譜」(p505)によれば、一九〇四(明治三十七)年六月、野枝は今宿尋常小学校四年途中で叔母・マツの養女になり、榎津(えのきづ)尋常小学校に転校した。

 野枝の父・亀吉にはマツ(一八七一〜)・モト(一八七四〜)・キチ(一八七六〜一九六六)、三人の妹がいたが、マツは長妹である。

 山本直蔵・マツ夫妻は三瀦(みずま)郡大川町大字榎津六二〇番地(現・福岡県大川市若津西浜町)に住んでいた。

 直蔵は商いをしていたらしいが、「博打うち」との説もある。

 直蔵とマツ夫婦に子供がなかったこともあるが、困窮していた伊藤家の口減らしの養子縁組だった。

 一九〇五(明治三十八)年三月、榎津尋常小学校卒業。

 マツが離婚したためマツとともに今宿の家に帰り、四月から約三キロ離れた隣村の周船寺(すせんじ)高等小学校に入学した。

 当時の学制は尋常四年・高等四年で、尋常六年・高等二年になるのは一九〇七年(明治四十年)からである。

 福岡市立周船寺小学校も現存している。

 ウィキの同校の「著名な出身者」は三嶋一輝(横浜DeNAベイスターズの投手)などだが、伊藤野枝の名前も記されている。

 このころ、伊藤家の窮乏はマックスに達し、父・亀吉、長兄・吉次郎は満州に渡り、次兄・由兵衛も佐賀に出ていたと言われている。

 外に働きに出て行った母が、夕暮れになっても帰宅しなかったことがあった。

 妹・ツタがこう回想している。

 
 妹ツタと二人で留守番をしていた野枝は、心細さもましてくるとともに、どうにも腹が空いてたまらなくなってしまった。

 ーーそれで、台所の戸棚をさがして冷飯をみつけて塩で握って食べようと姉がいいました。

 わたしはその飯が今夜の分だとわかっていたので、「お母さんの分をのこしておこうよ」と姉にいったのですが、姉は耳もかさず、「お腹が空いたのだからしかたがない」といって平然とあまさず食べてしまいました。

 ツタはそのときの姉の情のこわさが忘れられなかったと回想している。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p22)



★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



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2016年03月07日

第3回 万屋がお





文●ツルシカズヒコ




 野枝の風貌や資質は祖母・サト(父・亀吉の母)、父・亀吉の血を受け継いでいた。


 野枝さんのお父さんは……漁、挿花、料理、人形造り、音曲、舞踏等、何れも素人離れがしてゐる程の趣味に富んだ人である。

 就中、音曲に秀で、土地でのお師匠さん格である。

 野枝さんの祖母は、幼少から文学を好み、学制設定前に、夜、付近の子女を集めて、女大学または手習ひを教へてゐたほどであつたから、その薫陶も尠なくなかつたであらう。

 また祖母は音曲に趣味を持ち、老後までもそれを捨てなかつた。

 八十近くなつても、村のお祭りには屋台に上つて真先に踊つたほどであつた。

 従つて野枝さんも、七八歳の頃から音律を解し、三味線を弄んでゐた。


(「伊藤野枝年表」_p3~4/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)


「伊藤野枝年表」を執筆したのは、『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』の編集に携った近藤憲二と思われる。

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『炎の女 伊藤野枝伝』の著者、岩崎呉夫が今宿に取材に訪れたのは、一九六二(昭和三十七年)年八月だと推定される。

 岩崎はこのとき、野枝の次兄・由兵衛(当時七十歳)や野枝の叔母・代キチ(一八七六〜一九六六)などに会い話を聞いている。

 代キチは明治九年生まれ(『炎の女 伊藤野枝伝』_p62)なので、当時八十六歳。

 由兵衛もまた野枝の血はサトと亀吉のそれを引き継いでいると語っている。


 亀吉は……生来の芸道楽で、音曲、歌舞、人形つくり、料理などの上手として村内ではその器用さをもてはやされていたという。

 野枝の顔つき、文才、芸才、書の手筋、気質などは、ほぼこの血の流れを受けているようだ。

 サトは今宿の隣りの姪ケ浜村の素封家、藤野武平の二女だが、若いころから文芸趣味にすぐれ、与平に嫁いでからも近所の子弟を集めて習字や勉強をみてやっていたという。

 また芸事も達者で、村の祭りの折などはお師匠さん格であったらしい。

 気性ははげしく、男まさりだった。

 父の亀吉はそのサトの血をうけて、前述したように多芸多彩な器用人で、俳句を巧みにし、この村での師匠格だったという。


(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p57~p59)


 野枝の父・亀吉は美男子として通っていた。


「万屋(よろずや)がお」と村人たちがいっていたのは、この一族に特有の彫りの深い顔立ちのことである。

 鼻筋がとおっていて、眉と眼がややせまっており、眼のまわりの線がくっきりと黒い南国的な風貌である。

 この顔立ちは野枝の兄妹や、野枝の子どもたちにも伝えられている。


井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p15)





 一九〇〇(明治三十三)年、野枝が五歳のころ、亀吉は家業再興をはかり、農産物加工の事業を始めるが失敗に終わった。


 野枝が小学校に入る頃には谷の家屋敷を手放し、東松原の海沿いの借家に移り、手先の器用な亀吉は近在の瓦工場の職人になった。

 亀吉は生来の芸道楽のうえ、職人としての腕も良かったが、気に染まぬ仕事はしないという人だった。

 そのため一家の生活のほとんどをムメが担っていた。


(「伊藤野枝年譜」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)


 ムメは家運の没落、夫の出奔、子だくさん、そうした不幸を背負いながら、働きもの、出稼ぎで有名な「糸島女」の名にふさわしく、堤防工事の日雇いや農家の手間仕事などに出て、この一家を支えた(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』p15~16)。

「近在の瓦工場」というのは、今宿瓦を造る工場である。
 

 もともとこのあたりは、伊万里あたりからの技術が伝えられたものか、瓦では全国有数の地であり、かつて皇居造営のさい全国コンクールで「今宿瓦」は第三位にはいった記録が残っている。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p58)


 福岡市博物館HPによると、今宿で瓦生産が開始されたのは十七世紀ごろで、福岡城へ献納されるほどの品質の高さだった。

 一八八四(明治十七)年からの皇居造営にあたっても、献上した今宿瓦の見本が高い評価を得た。

 しかし、昭和の初めには二、三軒が瓦の製造を行なう程度になり、一九八〇年代前半に今宿での瓦製造は終わりを迎えた。

 日本の一般家屋に瓦ぶきが普及したのは明治に入ってからで、今宿瓦の最盛期もおそらくそのころだったのだろう。

 福岡市博物館のHPには亀吉が「名人肌」だった鬼瓦の写真も載っている。





 亀吉が今宿瓦の職人だったころのエピソードを、野澤笑子(野枝の三女・エマ)が伝え聞いている。

 サトとムメが台所で亀吉の陰口を言っていると、野枝が「父ちゃんに言い付けてくる」と駆け出したという。

 サトとムメは学齢にも達しない女の子が、一里もある行ったことのない父親の仕事場に行けるわけがないと放っていたが、夕方近くになっても戻ってこない。

 ふたりは不安になったが、野枝は父親に手を引かれ意気揚々と帰って来た。

 野枝が言うにはーー。


「一人で西へ向かって歩いてゆくとだんだん足が痛くなって来た。すると後から荷馬車が来て馬方のおじさんが何処へゆくのかと聞くので、高田の瓦工場へ父ちゃんを向(ママ)かえに行くと言ったら、小さい子供が歩いては無理だと乗せてくれた」

(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)


 同じエピソードを野枝の妹・武部ツタが、井出文子に語っている。

 亀吉の留守をいいことに、祖母と母が世間話のあげく、亀吉の甲斐性なしを嘆きあしざまに罵った。

 そのころ亀吉は村人たちから「甲斐性なしの極道」と呼ばれていたのである。

 野枝は幼いながら父が非難されているのがわかると、父への同情が抑えきれず、家を出て瓦工場に向かった。

 夕暮れもせまって不安になってきたころ、亀吉が帰ってきた。


 亀吉の背には気持ちよさそうにねむりこけている幼い娘がいた。

 その顔をみて、母親はハッと昼間の鬱憤ばらしをおもいだした。

 そして恐いおもいで娘を見直したというのである。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p19)


 井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p19)によれば、ツタは亀吉が瓦工場の職人だったころのエピソードをもうひとつ、井出文子に語っている。

 亀吉は腕のいい職人で特に「鬼瓦」を作る腕は「名人肌」と言われていたが、気分屋で気が向かないと仕事に出かけないし、給金も自分で取りに行かない。

 瓦工場に給金を取りに行くのは母かツタだったが、野枝も一度取りにやらされたことがあった。

 工場には瓦や粘土がうず高くつみあげられ、暗くしめった土間のむこうには一段と高い座敷があり、四角火鉢のまえに工場主がどっかりと坐り、くわえぎせるで紙でひねった金を投げてよこすのである。

 野枝はその後、二度と瓦工場には行かなかったという。





 井出は亀吉と野枝の関係性を、こう分析している。


 彼女は父亀吉の秘蔵っ子とみなにいわれていた。

 他の男の子たちには気むずかしい亀吉だったが、野枝にだけは怒った顔をみせたことがなかった。

「甲斐性なしの極道」といわれていた亀吉は、己れの感情の自由に生きた人であり、それゆえにそのつけを、貧乏や世間からの悪口などのかたちで受けとらねばならなかった。

 その頑固で悲しいおもいをわかちあってくれるのは、妻でも母でもなく、むしろ幼い娘の野枝であった。

 野枝には父と同質の感受性があり、それゆえ父の感情の内側に入り、いわば同志といってもいい信頼が二人の間でできあがっていたのではなかろうか。

 父親ゆずりのゆたかな感受性を受けついだことによって、野枝は貧しいくらしの中に育ったにもかかわらず、つやと魅力にみちた女として成長した。


(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p20)


 このころの野枝にとって、男前で器用で芸達者な亀吉は自慢の父であり、尊敬の対象だっただろう。

 しかし、近代化が急激に進捗中の社会では、父のそうした能力は評価されない。

 感受性が強かった野枝は、なにかすっきりしないものを感じ始めていただろう。

 特に今宿瓦の工場主の使用人に対するゾンザイな態度にーー。

 金が人間を支配するようになった世の中にーー。



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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