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2016年03月21日
第32回 出奔(四)
文●ツルシカズヒコ
辻からの手紙、四月十三日の文面にはこう書いてあった。
今日帰ると汝の手紙が三本一緒にきてゐたのでやつと安心した。
近頃は日が長くなつたので晩飯を食ふとすぐ七時半頃になつてしまふ。
俺は飯を食ふとしばらく休んで、たいてい毎晩の様に三味線を弄ぶか歌沢をうたう。
或は尺八を吹く。
それから読む。
そうすると忽ち十時頃になつてしまふ。
何にか書くのはそれからだ。
今夜はこれを書き初める前に三通手紙を書かされた。
俺は敢て書かされたと云ふ。
Nヘ、Wへ、それからFヘ、なんぼ俺だつてこの忙しいのに、そう/\あつちこつちのお相手はできない。
それに無意味な言葉や甘つたるい文句なぞを並べてゐるといくら俺だつて馬鹿/\しくつて涙がこぼれて来らあ。
人間と云ふ奴は勝手なものだなあ。
だがそれが自然なのだ。
同じ羽色の鳥は一緒に集まるのだ、それより他仕方がないのだ。
だが俺等の羽の色が黒いからといつて全くの他の鳥の羽の色を黒くしなければならないと云ふ理屈はない(十三日)
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p101)
「Nへ、Wへ、それからFへ」三通手紙を書かされたとあるのは、野枝失踪に関する始末書のようなものか。
Nは西原、WとFは校長と教頭だろうか。
学校へ「トシニゲタ、ホゴタノム」と云ふ電報がきたのは十日だと思ふ。
俺はとう/\やったなと思つた。
しかし同時に不安の念の起きるのをどうすることも出来なかつた。
俺は落ち付いた調子で多分東京へやつてくるつもりなのでせうと云つた。
校長は即座に「東京へ来たら一切かまはないことに手筈をきめやうぢやありませんか」と如何にも校長らしい口吻を洩らした。
S先生は「知らん顔をしてゐようじやありませんか」と俺にはよく意味の分らないことを云つた。
N先生は「兎に角出たら保護はしてやらねばなりますまい」と云つた。
俺は「僕は自由行動をとります。もし藤井が僕の家へでもたよつて来たとすれば僕は自分一個の判断で措置をするつもりです」とキツパリ断言した。
みんなにはそれがどんな風に聞えたか俺は解らない。
女の先生達は唯だ呆れたといふ様な調子でしきりに驚いてゐた。
俺はかうまで人間の思想は異ふものかと寧ろ滑稽に感じた位だつた。
S先生はさすがに汝を稍や解してゐるので同情は充分持つてゐる。
だが汝の行動に対しては全然非を鳴らしてゐるのだ。
俺はいろ/\苦しい思を抱いて黙つてゐた。
その日帰ると汝の手紙が来てゐた。
俺は遠くから客観してゐるのだからまだいゝとして当人の身になつたらさぞ辛いことだらう、苦しいことだらう、悲しいことだらうと思ふと俺は何時の間にか重い鉛に圧迫されたやうな気分になつて来た。
だが俺は痛烈な感に打たれて心は勿論昂(たかぶ)つてゐた。
それにしても首尾よく逃げおうせればいいがとまた不安の念を抱かないではゐられなかつた。
俺は翌日(即ち十二日)手紙を持つて学校へ行つた。
勿論知れてしまつたのだから秘(かく)す必要もない。
そうして手紙を見せて俺の態度を学校に明かにする積りだつたのだ。
で、俺は汝に対してはすこしすまない様な気はしたがS先生に対しても俺は心よくないことがあるのだから。
(十四日)
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p101~102)
S先生は佐藤教頭、N先生は西原のことであろう。
「十五日夜」の辻の手紙によれば、四月十二日、辻宛てに末松福太郎から極めて露骨なハガキが舞い込んだ。
「私妻伊藤野枝子」という書き出しだった。
野枝はたぶん上京しただろうから、宿所がわかったらさっそく知らせてくれ、父と警官と同道の上で引き取りに行くという。
さらに自分の妻は姦通した形跡があるとか、同志と固く約束したらしいというようなことが書いてあった。
辻は野枝が去年の夏、結婚したという話は薄々聞いていた。
しかし、どういう事情でなされた結婚なのかは知らなかった。
……汝が帰国する前になぜもつと俺に向つて全てを打ち明けてくれなかつたのだとそれを残念に思つてゐる。
少くとも先生へなりと話して置けば俺等はまさか「そうか」とその話を聞きはなしにしておくような男ぢやない。
それは女としてそう云ふことは打ち明けにくからう。
しかしそれは一時だ汝が全てを打ち明けないのだからどうすることも出来ないぢやあないか。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p102~103)
野枝は夏休み明け以降の、ほとんど自棄のような生活を思い浮かべていた。
野枝は何度かその苦悶を西原先生に訴えようとした。
しかし、考えることの腹立たしさに順序を追って話の道筋を立てることができなかった。
そしてなるべく考えないように努めた。
そのころは、野枝にとって辻は、そんなことを面と向かって話せる相手ではなかった。
煩悶に煩悶を重ね、焦(じ)り焦りして、頭が動かなくなるほど、毎日そればかり考えていても、考えは決まらなかった。
月日だけが遠慮なく過ぎ去り、とうとう西原先生にも打ち明ける機会がなくなった。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年03月20日
第31回 出奔(三)
文●ツルシカズヒコ
金の問題もあった。
着替えも持たず、お金も用意する暇もなく、不用意にフラフラと家を出てしまったのだ。
三池の叔母の家で金を算段するつもりだったが、ついに言い出せなかった。
そして、家出したことが知れそうになって、思案のあまり志保子の家に来たのだ。
手紙を出して頼んだら、お金の算段に応じてくれそうな二、三人のあてはあった。
その手紙の返事を待つ間に連れ返されそうなところは嫌だったので、志保子を頼ったのである。
しかし、手紙を出して一週間になるが、どこからも返事は来ない。
もうどうなってもいい。
なるようにしかならないのだ。
あの命がけでその日その日を生きていく、炭坑の坑夫のようなつきつめた、あの痛烈な、むき出しな、あんな生き方が自分にもできるのなら、こんなめそめそした上品ぶった狭いケチな生き方より、よほど気が利いているかしれない。
親も兄妹もみな捨てた体だ。
堕ちるならあの程度まで思い切ってどん底まで堕ちてみたい、というふうなピンと張った恐ろしく鳴りの高い調子のときもあるが、すべてのものに反抗して自分で切り開いた道の先は、真っ暗で何もないかもしれない。
自分を自由に扱える喜びに浸れたのは、このまま逃れようと決心した瞬間だけだった。
今日まで一日だって明るい気持ちになったことはない。
肉親という不思議なきづなに締めつけられて、暗く重苦しい気持ちが離れない。
上京したら辻を頼るつもりだが、辻の気持ちだってどちらを向くかわからない。
考えると不安なことばかりだ。
どうせ人は遅かれ早かれ死ぬのだ。
どこか人の知らないところへ行って静かに死にたい。
どうにでもなれという気にもなる。
考えに考えたが、疲れてしまった。
もう何も考えまいと思うが、やはりそれからそれへと考えが飛んでいった。
「郵便! 伊藤野枝という人はいますか?」
「はい」
野枝が出てみると、三通の封書を渡された。
受け取った封書の一通は西原先生から、一通は辻から、あとの一通は鼠色の封筒に入った郵便局からので開けてみると電報為替だった。
野枝は西原先生が送金してくれるとは思っていなかったので、目にいっぱい涙が溜まった。
一昨日に届いた先生からの電報を見たときにも、自分のことを気にかけてくれる気持ちにやはり涙が溢れ、志保子に先生のことを話した。
野枝はまず西原からの手紙を読んだ。
御地からの手紙を見て電報を打つた。
……金に困るのなら何処からでも打電して下さい、少々の事は間に合せますから、弱い心は敵である。
しつかりしてゐらつしやい……自分の真の満足を得んが為に自信を貫徹することが即ち当人の生命である。
生命を失つてはそれこそ人形である。
信じて進む所にその人の世界が開ける。
如何なる場合にもレールの上などに立つべからず決して自棄すべからず
心強かれ 取り急ぎこれ丈け。
今家へあて出した私の手紙の最後の一通があなたの家出のあとに届いたであらうと思はれる、誰れか開封して検閲に及んだかもしれない、熱した情を吐露した文章であつたからもしそれを見た人があるとすればその人は幸福である。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p99)
野枝はぐずぐずしていられないと思った。
先生はこんなにまで私の上に心を注いで下さるか、私は本当に一生懸命にこれから自分の道をどんなに苦しくともつらくとも自分の手で切開いて進んで行かなければならない。
私は決して自棄なんかしない。
勉強する、勉強するそして私はずん/\進んでいく。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p99)
西原からの手紙を読み終えた野枝は、最後に辻の手紙を開けた。
軽いあるうれしさに微かに胸が躍った。
「出奔」に収録されている、辻からの手紙には日付がある。
「八日」「十三日」「十四日」「十五日夜」である。
辻は野枝からの手紙を受け取った後、そのつど文章をしたため、野枝の落ち着き先に封書にして郵送したのであろう。
オイ、どうした。
俺は今やつと『S』を卒業したところだ。
明日から仕事が始まるのだから……。
俺は汝(おまえ)を買ひ被つてゐるかもしれないが可なり信用してゐる。
汝は或は俺にとつて恐ろしい敵であるかもしれない。
だが俺は汝の如き敵を持つことを少しも悔ひない。
俺は汝を憎む程に愛したいと思つてゐる。
俺は汝と痛切な相愛の生活を送つてみたいと思つてゐる。
勿論悉(あら)ゆる習俗から切り離されたーー否風俗をふみにじつた上に建てられた生活を送つてみたいと思つてゐる。
汝の其処までの覚悟があるかどうか。
そうしてお互ひの「自己」を発揮するために思ひ切つて努力してみたい。
もし不幸にして俺が弱く汝の発展を障(さまた)げる様ならお前は何時でも俺を棄てゝどこへでも行くがいゝ。(八日)
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p100)
「S」はドイツの哲学者、マックス・シュティルナーのことだ。
「明日から仕事が始まる」とあるから、四月九日から上野高女の新学期が始まるわけだ。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第30回 出奔(二)
文●ツルシカズヒコ
一九一二(明治四十五)年四月、出奔した野枝は福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の叔母・坂口モトの家に一時逃れ、その後、友人の家に身を潜めていた。
「出奔」はその友人の家に身を潜めていたときの実体験を創作にしている。
「出奔」の登場人物は仮名になっている。
藤井登志子(野枝)、志保子(友人)、夫・永田(末松福太郎)、叔母(代キチ)、N先生(西原和治)、教頭のS先生(佐藤政次郎)、光郎(辻潤)。
このとき、辻は二十八歳、野枝は十七歳。
辻は北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地の家に、母と妹と暮らしていた。
叔母・坂口モトの家を出た野枝は、博多に出た。
そのまま上りの汽車に乗るつもりだったが、少し考えることがあって、そうはしなかった。
友人の志保子のところに行ってみることにした。
「動揺」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p35)によれば「十里ばかりはなれた友達の家」である。
冷たい雨が降る中、田舎道を人力車に揺られて、長い道のりだった。
志保子が留守かもしれない、在宅していても、彼女が自分を受け入れてくれるとはかぎらないーーそんな不安がよぎった。
四、五年会っていなかった友人の突然の訪問を、志保子は涙をいっぱいに湛えた目で、野枝の顔を見上げながら、わずかにうなづき温かく受け入れた。
質素な木綿の筒袖に袴をはいた、野枝の凍った悲しい気分が、いくぶん溶けた。
なぜ突然やって来たのか、野枝がその理由を切り出したのは、ふたりで冷たい床に入り、いろいろなことを話した後だった。
『私ねずいぶん見すぼらしいなりしてゐるでせう。ふだんのまんま家を逃げ出して来たのよ、直ぐにね東京へ引き返して行かうと思つたんですけれど少し考へることがあつてあなたの処へ来たの、長いことはないのだから置かして頂戴な』
漸くこれ丈け云ひ出したのは冷たい床の中に二人して這入つてからよほどいろんなことを話して後だつた。
『まあさう、だけどどうして黙つてなんか出て来たの、どんな事情で? さしつかへがないのなら話してね、私の処へなんか何時までゐてもいゝことよ、何時までもゐらつしやい、あなたがあきるまで――でも本当にどうして出て来たの』
『いづれ話してよ、でも今夜は御免なさいね、随分長い話なんですもの』
『さう、それぢや今にゆつくり聞きませう、あなたのゐたい丈けゐらつしやい。ほんとに心配しなくてもいゝわ』
『ありがたう。安神(あんしん)したわ、ほんとにうれしい』
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p96)
一週間たったが、野枝はそのことについては何も話さなかった。
なんでもぶちまける性質の野枝が話しにくそうなので、志保子も敢えて聞こうともしなかった。
「いい天気ね。今日帰って来たら、一緒にそこらを歩いてみましょうね」
志保子は家の門を出ると、すぐそこに見える小学校に勤めていた。
野枝は毎朝、門まで出て黄色い菜の花の中を歩いて行く友達の姿を見送った。
縁側の日当りに美しく咲き誇っていた石楠花(しゃくなげ)も、もう見る影がなくなった。
野枝は塀の近くに咲いている桃を眺め、差し迫った自分の身の置きどころについて考えようとした。
志保子には「今日はすっかり話してしまおう」と思い、話の順序を立てようとするのだが、長い道程の中で起きたさまざまな出来ごとや、その間の自分の苦悶を考えると、話の道筋を立てることができなくなった。
そして思いは、自分が無断で家を出た後の混乱、父の当惑の様子、叔母や叔父が自分をさんざん罵っている様子、母の憂慮、そういう方にばかり走った。
自分の道を自分で切り開く最初の試みをした、というような快い気持ちなどはまるでなくなり、暗い気持ちになり、また父の傍らに泣いて帰っていこうかというような気になったり、死を願うより仕方がないとさえ思う日もあった。
志保子は注意深く野枝の様子を見ていた。
夕方、野枝が沈んだ目つきをして縁側にボンヤリ立っていたりすると、近所の子供たちを集めて騒がしたりして、野枝の気を紛らすように努めた。
野枝は志保子の目に浮かぶ優しい暖かい友情にしみじみ泣いた。
どうかして志保子の帰りの遅い時には登志子は二度も三度も門を出てはすぐ其処に見える学校の屋根ばかり眺めてゐた。
黄色な菜の花の間に長々とうねつた白い道を見ていると遠いその果もわからない道がいろ/\なことを思はせて、つい涙ぐまれるのであつた。
前を通る人達は見なれぬ登志子の悄然と立つた姿をふしぎさうにふり返つて見て行く。
そんな時登志子は、もう本当に遠い/\知らない処にたつた一人でつきはなされた様な気がして拭いても/\涙が湧いて来て、立つてゐられなくなつてくる。
燈をつけても燈の色までが恐しく情ない色に見えた。
読む書物をもつて出なかつたことがしきりに悔ひられた。
うすらかなしい燈の色を見つめながら彼女は何時も目をぬらして友達を待つた。
それでもなほ悲しい心細い考へが進もうとする時は彼女はのがれる時に持つて出た光郎の手紙を開いて読んでは紛らした。
そうして心弱い自分の気持ちをいくらかづゝ引きたてるのだつた。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p97)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第29回 出奔(一)
文●ツルシカズヒコ
野枝が出奔したのは、一九一二(明治四十五)年四月初旬だった。
野枝は後に「動揺」を発表するが、その中の木村荘太宛ての手紙に出奔についての言及がある。
「動揺」によれば、新橋から帰郷の汽車に乗った野枝は徐々に落ち着いてきて、いろいろ思考をめぐらせた。
最も思いをめぐらせたのは、辻からされた抱擁と接吻のことだった。
私はそれが何だか多分の遊戯衝動を含んでゐるやうにも思はれますのですがまた何かのがれる事の出来ないものに捕へられてゐるやうな力強さを感ぜられるのです。
私はどうしていゝか迷ってゐるうちに汽車はずん/\進んで行つてもうのがれる事が出来ないやうなはめになりました。
そうして仕方なしにとう/\帰りましたが帰つてもぢつとしてゐられないのです。
私はすべて私の全体が東京に残つてゐる何物かに絶えず引つぱられてゐるやうに思はれて苦しみました。
そして直ちに父の家を逐(お)はれて知らない嫌やな家に行かねばならないと云う苦痛も伴つてとう/\私は丁度帰つて九日目に家を出てしまつたのです。
暫くの間十里ばかりはなれた友達の家にゐました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p177/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p34~35)
野枝が今宿に帰郷したのは三月二十九日なので、それから九日目に家を出たとしたら、それは四月六日である。
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)には、帰郷して九日目に「婚家を出」たとあるが、「動揺」の文意からすると婚家の末松家には行かずに出奔したようにも受け取れる。
出奔した野枝は叔母・坂口モト(父・亀吉の次妹)や友人の家を訪ね歩いた。
叔母の坂口モトの婚家は、福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の渡瀬(わたぜ)駅前の旅館だった(現・福岡県みやま市)。
「従妹に」は坂口モトの娘・坂口キミに宛てた書簡形式で書かれていて、出奔したその理由を「きみ」ちゃんに説明する内容になっている。
「伊藤野枝年譜」によれば、坂口キミは野枝より一歳年下で、幼いころ今宿の家で一緒に育ったこともあり、ふたりは仲がよかった。
今、私の頭の中で二つのものが縺(もつ)れ合つて私をいろいろに迷はして居ります。
私は今まで斯(こ)うして幾度きみちやんに手紙を書きかけたか知れないのです。
けれども私の書いたものが果して正当に何の誤もなくきみちやんに理解されるかどうかとそれを考へては、若しきみちやんに理解が出来なかつたときにはきみちやんの為めにもまた私の為めにも大変不幸だと思はれますので止めました。
けれども、どうしても書きたくてたまらないので。
二つのものと云ふのは、その書きたいのと、書いて、もし悪い結果になるといけないと云ふ心配とを云つたのです。
(「従妹に」/『青鞜』1914年3月号・4巻3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p58)
という書き出しで始まる「従妹に」だが、以下、現代の口語調にして要約してみた。
人は私のことを我がままで不孝者だと言います。
自分でもそうは思いますが、人を苦しめておいてなんとも思わないと言われるのは心外です。
私だって苦しくてたまらないのですが、それを我慢して自分の道に進んで行かなければならないのです。
私は自分以外の人の都合で無理に結婚させられたのです。
我慢して結婚したら孝行娘とは言われるかもしれないけれど、幸福であるはずがありません。
誰も侵害することのできない自分の体と精神を持って生まれてきたのに、他人の都合で生きるなんて、生き甲斐のない人生と言わざるを得ません。
人間は誰でも自分が可愛いのです。
自己犠牲とかいっても、それから得られる名誉欲を満足させているわけですから、結局は自分のためなのです。
きみちゃん、よく考えて御覧なさい。
自分がこうしたい、そうしないとすごく困るというような、自分にとって重大なことはなかなか思うようにならないですよね?
そして、それはそういうことをされると困る人が自分のまわりにいて、その人が邪魔するからです。
自分の意志でした結婚ではなかったので、私はそれを破戒しようとしました。
両親や叔父さんたちは、そうされると困るので邪魔するのです。
私は他人が困るからといっても、自分自身が苦しいので無理にも破戒しました。
それで一番困ったのは私に無理強いをした人たちです。
その人たちが困るのは本当は当然なのですが、嘘で固めたいわゆる世間の道徳というものが、それが当然だとは人に思わせないのです。
自分より年が上だとか親だとかということを盾にして、わずかな経験とかを無理な理屈にこじつけて、理不尽に人を服従させてもいいはずがありません。
みんなは私のことを我がままだとか手前勝手だと言いますが、私の周囲の人たちの方がよほど我がままです。
私は自分の思うことをどんどんやるかわりに、人の我がままの邪魔はしません。
私の我がままと他人の我がままが衝突したときは別ですが。
自分の我がままを尊敬するように、他人の我がままを認めます。
けれども世間にはそういうふうに考えている人は、そんなにいません。
自分はしたい放題のことをして、他人にはなるべく思うとおりのことをさせまいとします。
自分は自分だけのことを考えて行動し、他人は他人の勝手に任せておくのが本当なのですが、自分と他人の区別を明確につけることができないのがたいていの人の欠点です。
それはその人たちが悪いのではなくて、日本のいわゆる道徳がいけないのです。
今の日本の多くの人を支配している道徳は、ひとつも本当のものはなく、みな無理な虚偽で固めたものなのです。
だから窮屈なのです。
自他の区別がつかない人たちには、本当の意味の正しい個人主義と、自己本位や自分を甘やかす我がままや傲慢な専横との違いが理解できないのです。
各自が我がままをすると共同が成り立たないから、相互に我慢しなければならないとよく言います。
これも根本的に間違っています。
みんなが他人に関わらず、自分は自分だけのことをやれば、最も自然な共同が可能になります。
自分を抑圧するような不快な感情がないから、嫌な下らない争闘なんかは決して起こらずにすみます。
けれども、共同とか言う人たちにかぎって、自分が他人にかけている迷惑には鈍感で、他人のしていることが自分に関わりだすと、すぐに邪魔をするのです。
それも妙に道徳とかいうものにとらわれて、回りくどい嫌味な愚劣な争いをしているのです。
私は自分を貫徹させるにあたって、そこに突き当たりました。
私は他の多くの人たちのように、悧巧な狡いことはできなかったのです。
道徳には何をさしおいても服さなければならない、そういう考えを私は抱くことができません。
軽蔑しているものに屈するには、私の気位が高すぎるのです。
他人が自分の行為に対してどんな思惑を持つか、というようなことを考える余裕を私は持てないのです。
そしてそのことが悪いことだとは思いません。
私はみんなの一番尊敬している、そして私を縛する最も確かなものであると信じる道徳や習俗を見事に踏みにじりました。
野枝がこの「従妹に」を脱稿したのは、一九一四(大正三)年二月二十三日、出奔した約二年後であるが、野枝が坂口キミに実際にこのような内容の手紙を書いたのかどうかは不明である。
しかし「……こんなしどろもどろな言ひ方でなくもう少しきちんとした答が出来るつもりですから。気持ちが落ちつきしだいに書き代へて送ります」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』p62)という下りもあるので、実際にこのような内容の手紙を書いたのかもしれない。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第28回 わがまま
文●ツルシカズヒコ
登志子や従姉の家は博多の停車場から三里余りもあった。
その途中でも野枝は身悶えしたいほど、不快なやり場のないおびえたような気持ちになった。
従姉の家に立ち寄った後、安子が従姉の家に泊まることになったので、登志子と男が一緒に帰ることになった。
挨拶をして従姉の家の門を出るやいなや、登志子は後ろも振り向かずにできるだけ大急ぎに、袴の裾を蹴って松原が続く町の家の方に歩いて行った。
登志子はひたすら急いで歩いた。
肩を並べて歩くことなんかとてもできない。
声を聞くのも嫌だった。
男は野枝が不快を感じているのは充分に知っていたが、おとなしい彼は登志子の後からついて来た。
登志子は追いつかれないように懸命になって急いだ。
男がとうとうこらえ切れずに言った。
「登志さんは馬鹿に足が早いんだね」
登志子は返事をすることもできなかった。
家では祖母が出たり入ったりしながら、登志子を待っていた。
駆け込むように家に入ると、母や祖母の懐かしい笑顔が並んで登志子を迎えた。
一家中の温かい息が登志子の心をほぐしかけたが、そこに男がいると思うと泣きたくなった。
「私、たいへん疲れていますから、夜になるまで少し寝ますよ」
登志子は袴を脱ぎだした。
祖母は今着いたばかりの孫娘の元気のない真っ青な顔を見ると、愛しそうに言った。
「おーそうだろう、長い旅でも汽車の中ではよう眠られん、お母さん床を出しておやり」
祖母は眉を寄せながら、後から登志子を抱えんばかりに一緒に立った。
男は手持ち無沙汰に座っていた。
叔母と母が気の毒そうに見ていた。
「おばあさんがあれなので、どうも、本当にわがままで」
と、叔母は取ってつけたようなお世辞笑いをしながら、男を慰めるような詫びるような調子で言った。
男も仕方なく笑い、黙ってそこらを見回した。
慧眼な祖母は、去年の夏に気に入らない婚約をされて以来、激しくなった登志子の我がままが心配でたまらなかった。
そして登志子がどんな気持ちで帰ってきたかもよく知っていた。
叔母はこのおとなしい青年を前にしていると、なによりもまず自分の大嫌いな理屈っぽい生意気な姪の我がままが憎らしくなった。
「どうしてあんなですかね。ああ、我がままが激しくては、とても家なんか持てるもんじゃありませんよ。一緒にいるようになったら、どしどし叱りつけてやらなければいけませんよ、本当に」
登志子は床をとつてもらうといきなり横になつて深くすつぽりと蒲団を被つた。
もうひとりだと思ふと、涙が溢れるやうに流れ出た。
何の感もない、たゞ涙が出る、虚心でゐて涙が出る、――ゆるんだ疲れ切つた空虚な心はいつか自から流す涙を見つめながら深い眠りに落ちて行つた。
(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p92)
野枝が「わがまま」を脱稿したのは一九一三(大正二)年十一月十五日で、原稿が掲載されたのは『青鞜』同年十二月号だった。
野枝はおおよそ一年半前の体験を、実名を一切出さない小説のスタイルで書いたわけだが、『伊藤野枝と代準介』の著者・矢野寛治は、同書の中で代家や末松家に対する「非常なる誹謗中傷の文章である」(p65)と、野枝を批判している。
矢野の妻・千佳は代準介の曽孫であり、千代子の孫にあたるが、代家の関係者は長い間この小説「わがまま」によって名誉を毀損されていたようだ。
例えば、辻も「わがまま」に影響を受けて、こう書いている
女の家が貧乏な為(た)めに、叔父さんのサシガネで、ある金持ちの病身の息子と強制的に婚約をさせられ、その男の家から学費を出してもらつて女学校に通つて、卒業後の暁(あかつき)はその家に嫁ぐべき運命を持つてゐた女。
自分の才能を自覚してそれを埋没しなければならない羽目に落ち入つてゐた女。
恋愛ぬきの結婚。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号/『ですぺら』_p176/『辻潤全集 第一巻』)
『伊藤野枝と代準介』によれば、この辻の文章も「わがまま」を真に受けた誤解であり、「後世の伊藤野枝研究者たちは、この創作を鵜呑みにしてしまった」(p69)と研究者の軽率さも指摘している。
さらに「どこの世界に、娘に悪い縁談を持ってくる親が居るものか」(p69)という代準介の言葉や「端(はな)は、ノエ自身が乗り気の縁談だった」(p69)という代キチの言葉が、代家に伝わっているという。
すべてはアメリカには戻らないという末松の言葉から、一生をこの田舎の糸島で暮らすのか、その暗澹たる鬱屈への反発が創作「わがまゝ」を書かせたのであろう。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p69)
「わがまま」に対する同書の反論、代家の経済状態に関する事実関係を挙げての反証(p67)には説得力があり、「わがまま」は野枝が「読者の同情を引くように書いた」(p71)フィクションであるとの見方も正鵠を射ていると思える。
しかし、「あれは、あくまでフィクションですよ」という野枝の言い分もありえる。
しかし、モデルにされた側がはなはだ迷惑なのも、厳然たる事実である。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★辻潤『ですぺら』(新作社・1924年7月11日)
★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第27回 日蓮の首
文●ツルシカズヒコ
門司港駅から博多に向かって汽車が動きだした。
登志子は右側の窓のところに座って外の方を向いたまま固くなっていた。
頭はほとんど働きを止めてしまった。
安子は野枝が持ってきた雑誌を、解かりもしないくせに広げて退屈しのぎに読んでいる。
まき子はわが家に帰っていく子供のように、はしゃいでいた。
まき子は野枝よりふたつ年上の二十歳だ。
父に甘やかされてわがままに育った彼女は、一人前の女として物を考えてみることなんてまるでなかった。
登志子と比べてもずっと幼稚だ。
朝夕同じ部屋にいて、同じ学校の同じクラスの机の前に座っているまき子のやることをひとつ残らず見ている登志子は、これが自分よりふたつ年上の従姉といわれる人かと情けない気がした。
登志子はこの従姉を軽蔑し切っていた。
彼女の父ーー自分にとっては叔父だがーーも少なからず軽蔑していた。
登志子の慧(さと)い眼は、叔父の本能的で盲目的な千代子に対する愛、登志子に対しては厳格な監督者のような威厳を示そうとしていることを、見抜いていた。
登志子は叔父の真面目くさった、道学者めいた口ぶりを心の中で嘲笑していた。
登志子は馬鹿にしきった相手と真剣に会話するつもりはなかった。
「今にーー」と彼女はいつも思った。
『今にーー自分で自分の生活が出来るやうになれば私は黙つてやしない。
私は大きな声で自分がいま黙つて侮蔑してゐる叔父等の生活を罵つてやる嘲笑してやる。
私は私で生活出来るやうになりさへすればあんな偽善はやらない。
少なくともあんな卑劣な根性は自分は持つてはゐない。ーー』
(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p86)
そうして叔父と声を大きくして争う日を待ちかまえていた。
実生活を豊かにするための悪賢い叔父の智慧と敏捷な挙動は最大の利器だ。
登志子はそれを知りながら、それを厭いながら、知らぬ間に彼女自身も叔父の周到に届いた誤魔化しに乗せられてしまった。
嫌な嫌なその叔父は、登志子たちより十五分も前に長崎から博多に着いているはずだ。
登志子は眉を上げホッと息をした。
汽車は走って行く。
いつもはこの汽車の中で聞く言葉の訛りがいかにも懐かしく快く響くのだが、今はそれでころではない。
野枝は顔を蒼くして窓に寄りかかっていた。
「ああ着いた着いた。もう箱崎だ、あと吉塚、博多だわね」
従姉は勢いよく立って荷物の始末を始めた。
登志子はいまさらのようにハッとした。
かまうものか仕方がない。
なるようにしかならないのだ。
登志子はこみ上げてくる涙をグッと呑み込んで、勢いよく立ち上がった。
汽車は見覚えのある松原を走っている。
松の上からは日蓮の首がニュッと出ている。
来たーー博多だーーついに、ついにーー。
地響きをさせて入ってきた汽車は、プラットフォームに沿って長々と着いた。
ピタリと汽車の動揺が止むと、激しい混乱が登志子の頭を瞬時に通り過ぎた。
従姉が大騒ぎして降りる後から、登志子は静かに下車した。
叔父がこっちに急いで来る。
続いて来る男の顔を見ると、登志子はブルブルっと震えた。
登志子はクルリと後ろを向いてあらぬ方を向いた。
「登志さん」
弾んだまき子の声に登志子は我に返り、手持ち無沙汰に立っている男ーー夫ーーに黙礼し、嫌な叔父に挨拶をすませた。
『うれしかるべき帰省――それが斯(か)くも自分に苦しいものとなつたのもみんな叔父の為めなのだ。叔父が斯(こ)うしたのだ。見もしらぬこの永田が私のすべての自由を握るのか――私を――私を――誰が許した。誰が許した。私はこの尊い自身をいともかるはずみにあんな見もしらぬ男の前に投げ出したことはない。私は自身をそれほど安価にみくびつてはゐない私は、私は――』
(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p88)
登志子は押し上げて来るすすり泣きを飲んで、ジッと突いた洋傘の先のあたりに目を落とした。
熱い涙がポツリポツリと眼鏡に当たっては、プラットホームの三和土(たたき)の上に落ちた。
「お登志さん、行きましょう」
安子の声を不意に聞いたときには、従姉は父と並んで二、三間先を階段の方に歩いていた。
まき子と叔父は手荷物の世話などを始めたので、登志子と安子と男の三人になった。
登志子は男の声を聞くのが、体が震えるほど嫌だった。
「ずいぶんお疲れになったでしょう」
登志子はハッとしたが、安子がそれに答えたのでホッとした。
もう幾日かすれば、あの男の家に行ってあの男と生活しなければならないーー登志子にはそんな不快なことがどうしてもできそうになかった。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年03月19日
第26回 帰郷
文●ツルシカズヒコ
一九一二(明治四十五)年三月末、上野高女を卒業した野枝は東京・新橋駅から列車に乗り、福岡県・今宿に帰郷した。
この帰郷について野枝が書いた創作が「わがまま」である。
「わがまま」に登場する人物設定は、以下である。
登志子=野枝、まき子=代千代子、野枝たちと同年輩らしい安子=千代子の親戚、叔父=代準介、叔母=代キチ、夫の永田=末松福太郎、「男」=辻。
「わがまま」では新橋駅から列車に乗り、博多へ向かったのは登志子、まき子、安子の三人である。
昼の汽車に遅れたため、出発は夜になった。
登志子は男と最後の別れになるかもしれないと思い、ジッと男の顔を見た。
この男と二度と会えないとすれば、それは一生忘れられない悲痛な思い出になるだろう。
そう思うと、男の顔を眺めているのが辛い。
登志子はふと、十三歳年下の弟・清のことを思い浮かべた。
まだ改札時間まで間があったので、登志子は故郷の幼い弟に頼まれた飛行機の模型を買うことを口実に、銀座に行くと言って新橋の停車場を出ようとすると、男が言った。
「僕が一緒に行ってやろう」
男は一軒一軒それらしい店の前で尋ねてくれたが、目的の模型は見つからなかった。
登志子はもうそんな買い物なんかどうでもよかった。
登志子はもう手を握り合うこともないできないと思ったのに、思いがけない機会が訪れことがうれしくもあり、悲しくもあった。
「もっと先まで行けばあるだろうけれども、時間がないかもしれない」
「ええ、もうよござんす、引き返しましょう。みんなが待っているでしょうから」
停車場の階段を寄り添って上るとき、ふたりは手が痛くなるほど強く握り合った。
改札口近くにまき子の後ろ姿が見えた。
傍らに世話になった先生や世話焼き役の小父さんがいた。
小父さんは野枝の顔を見ると、昼の汽車に遅れたのは登志子のためだと言って責めた。
興奮し心が荒く波立ってる登志子にとって、その小言は耐え切れないほど腹立たしかった。
自分に小言を言う資格のない人に、つまらないことを言われたということがまず不快だった。
登志子は熱した唇を震わせ、眼に涙をいっぱい溜めて小父さんと言い争いをした。
汽車が新橋の停車場を出た翌々日、登志子たちを乗せた関門連絡船は門司港についた。
船を降り、まき子と安子はいそいそと門司の停車場に歩き始めたが、登志子は重い足取りでずっと後れて歩いて行った。
以前なら、故郷に帰ってきたという懐かしさ、うれしさを感じたが、今回はどうだろう?
まるで自分の体を引きずるようにして行くのだ。
仇敵のような叔父をはじめ、自分が進もうと思う道に立ちふさがる者ばかりだ。
そして、みんなで自分に押しつけた、自分よりずっと低級な夫。
そういう者たちの顔を思い浮かべると、イライラしてきて歯をかみならし、やり場のない身悶えがする。
あと五、六時間したら、その夫の家に入らなければならないのだ。
門司の停車場に入ると、登志子はベンチに荷物を投げるように置いた。
まき子と安子はうれしそうに場内を見回している。
「チョイと、今度は何時に出るの。まだよほど時間があるかしら」
まき子は野枝がボンヤリ時間表を眺めているのを見ると、浮き浮きした声で聞いた。
「そうね」
登志子は気乗りしない返事をしてベンチに腰を下ろした。
登志子はまき子の声を聞くと、叔父の傲然した姿を思い出して嫌な感じになった。
男との一昨夜の苦しい別れが目に浮かんだ。
五、六時間後の嫌なことを忘れるために、東京での出来事を思い浮かべて誤魔化していた。
登志子の暗い心にいっぱいに広がり彼女を覆っているのは、最後の別れの日に登志子に熱い接吻と抱擁を与えた男のことだった。
場内がなんとなくざわめいてきた。
「もうあと十五分よ、登志さん」
と声をかけられ慌てて立ち上がったが、まだ十五分もあると思うと拍子抜けがした。
ふとそこらの人々を見ると、登志子は急になんとも言えない哀しい心細い気がした。
登志子はこの旅行の途中、大阪で連れを離れて、それから四国にいる人を頼って隠れるつもりでいた。
それを思い出すと、不案内の土地の停車場でまごついている心細い自分の姿を、この停車場のどこかに見出した。
登志子の心はさらに沈んだ。
登志子はそのまま無茶苦茶に歩いて出口の方へ言った。
車寄せのすぐ左の赤いポストが登志子の眼につくと彼女は思ひ出したように引き返して袋の中から葉書と鉛筆を出した。
そしてまき子のたつてゐる反対の方をむいて葉がきを顔で覆ふやうにして男の居所と名前を手早く書きつけて裏返した。
何を書かう?
何も書けない。
彼女の目からは熱い涙が溢れ出た。
『漸く此処まで着きましたーー』書いて行くうちに眼鏡が曇つて見えなくなつた。
書けない。
早く書いてしまおふとしてイラ/\して後をふり返るとたんに、
「改札はじめてよ、早く行きましょう」と急かれる。
後の五六字は殆ど無意識に書いた。
(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p85~86)
野枝の「あきらめない生き方・その二」の始動である。
野枝は辻との関係が断絶しないように、先手を打って葉書きを出したのである。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●伊藤野枝 1895-1923 index
第25回 抱擁
文●ツルシカズヒコ
上野高女の卒業が間近になったころのことについて、野枝と同級の花沢かつゑはこう書いている。
……三月の卒業も間近になった頃友達は皆卒業後の夢物語に胸をふくらませておりました。
或る人は外交官の夫人になりたいとか、七ツの海を航海する船乗りさんの奥さんになりたいとか、目前の卒業試験も気にならず、将来の明るい希望の事ばかり語り合っておりましたが、野枝さんは、やっぱり私達より大人でした。
私は卒業すれば九州へ帰らなければなりませんからしばらくあなた方とはお別れですが、必ず東京へは出て来るでしょう。
そして、私は人並みの生き方をしませんからいずれ新聞紙上でお目にかかる事になるでしょう。
そうでなくて、九州に居るようになれば玄界灘で海賊の女王になって板子一枚下は地獄の生活という生き方をするかも知れないわよなどど大言壮語して私達を煙に巻いていましたが。
(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)
上野高女五回生の卒業式が行なわれたのは、一九一二(明治四十五)年三月二十六日だった。 『定本 伊藤野枝全集 第一巻』の口絵には、卒業証書と卒業写真が載っている。 最後列右から四番目が野枝である。 そっぽを向いてふてくされた表情をしている。 前から二列目の左端が辻。 前から三列目、左から六番目が千代子である。 最前列中央が校長の小林弘貞、左が教頭の佐藤、その左が西原と思われる。 |
瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(p83)には、「卒業式には辻は姿を見せず、記念写真をとる時にもあらわれなかった」(辻が風邪気味で熱があったので)とあるが、これは瀬戸内の事実誤認か創作である。
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、卒業式の翌日、三月二十七日に野枝は辻潤と上野公園、竹の台陳列館に故青木繁君遺作展覧会(『美術新報』主催第三回展覧会の一部として開催)を見に行き、初めて辻に抱擁され、その夜、代一家と帰郷したとある。
野枝の創作「動揺」によれば、卒業式前後の野枝の心境や行動は、こんなふうだった。
三月になり野枝は故郷に帰るまいと決心した。
しかし、従姉の千代子も一緒に帰ることになっているので、一度は東京を一緒に出なければならない。
途中で千代子から離れて、しばらく隠れていようと思った。
二十六日が卒業式だ。
野枝はいろいろ準備をしておこうと思ったが、突然、千代子の祖父(代準介の父)が死去、二十七日に帰郷しなければならなくなり、準備をする時間がなくなった。
二十六日の卒業式後は悲痛な思いで、遅くまで学校に残った。
ちょうどそのとき、青木繁の遺作展をやっていたので、二十七日にすべてのことを捨ててそれを観に行くことにした。
一緒に行こうと言ってくれたのは、辻だった。
二日ぐらい前から心が激動していたので、落ち着いて青木繁の遺作を観ることができなかった。
そしてそのかへりにはじめて何の前置もなしに激しい男の抱擁に会つて私は自身が何かをも忘れてしまひました。
惑乱に惑乱を重ねた私はおちつく事も出来ずにそのまゝ新橋に駆けつけました。
新橋には多勢のお友達や下級の人たちが来てゐました。
従姉はさきにいつてゐましたが私のおそかつた為めに汽車の時間には後れたのです。
私は再び小石川まで帰つてまゐりました。
再びその夜十一時にたつ事にして新橋に行きました。
私共に絶えず厚意をもつて下すつた三人の先生がおそいのもかまはず送つて下さいました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p176/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p34)
井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p46)によれば、『謙愛タイムス』の編集を通じて野枝と辻の親交は深まり、「朝来るときも帰りもいつも二人は一緒だった」(友人の証言)という関係になり、辻の帰りが遅いときは野枝も音楽室に残り、オルガンを弾いて歌いながら辻を待っていた。
卒業式の後も、ふたりはいつものように音楽室で遅くまで弾いたり歌ったりした。
明日は東京を立ち郷里に去らねばならぬ野枝。
ふたりは出発の前に別れを惜しんで、前年、二十九歳で夭折した青木繁遺作展を観に行くことにした。
この展覧会には有名は「わだつみのいろこの宮」が出品されていた。
花沢かつゑも新橋駅に野枝と代千代子を見送りに行ったという。
……私達七、八人の友達と佐藤先生・西原先生も御一緒に、この二人を送るべく新橋駅で約束の時間を待っておりました。
代さんは御両親と一緒に駅で待っておられましたが、所定の時間になっても野枝さんの姿が見えません。
だんだん発車の時刻が迫って来ましたので、代さん達も気を揉み始め、皆イライラしておりましたが、野枝さんはとうとうその時間には来ませんでした。
結局代さんや野枝さんは夜の汽車で改めてたつ事になりましたので、私達はそこでお別れして帰って来ました。
後で聞きました事ですが、その夜の汽車で代さんと野枝さんの一行は無事に九州へ帰られたのでしたが、その夜も佐藤先生と、西原先生は駅まで改めておいでになりお見送り下さったとの事でした。
(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)
代家の記述に関しては最も信頼できるであろう、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、上野高女卒業式前後の経緯はこう記されている。
……上野高女卒業式前々日に代準介の実父代(三苫)佐七が亡くなり、代は急遽長崎に戻った。
代の妻キチと娘の千代子、姪のノエは式後、東京駅から博多に帰省する。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p67)
東京駅の開業は一九一四(大正三)年十二月なので、「東京駅」は「新橋駅」の間違いであろう。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
●伊藤野枝 1895-1923 index
第24回 おきんちゃん
文●ツルシカズヒコ
年が改まり、一九一二(明治四十五)年、学校は三学期になった。
野枝はほとんど何もやる気が出なかった。
苦悶は日ごと重くなり、卒業試験の準備などまるですることができなかった。
「辻先生と野枝さん」と誰からとなく言われるようになったころ、野枝は辻とおきんちゃんが接近するのをじっと見ていた。
野枝は、見当違いのことを言われるのがおかしくて、鼻の先で笑ったり怒ったりして見せていた。
しかし、野枝もかなり接近していたのは事実だった。
それは主に趣味の上の一致だった。
野枝は同級生のように呑気な気持ちにはなれなかった。
先生との恋愛関係みたいなことで騒ぐ余裕は全然なかった。
みんなの噂は本当に絵空事だった。
しかし、辻とおきんちゃんとの関係はかなり怪しいと、野枝は感じていたが、それをみんなに話すほどの興味も感じなかった。
野枝は自分自身の気分にひたすら圧迫されていた。
野枝は代千代子と一緒に佐藤教頭の家に寄宿していたが、一月のある月曜日、教頭先生とそのふたりの子供、千代子と五人で日比谷に遊びに行った。
三時ごろ教頭先生の家に戻ると、おきんちゃんと野枝のクラスのEと前年の卒業生が訪ねてきたと女中が言った。
今しがた帰ったばかりだというので、野枝と千代子が停車場に行ってみると、三人はそこにいた。
野枝と千代子が教頭先生の家に引き返すことを勧めたが、四時までに帰らなければいけないのでそれはできないという。
そうしているうちに電車が来た。
野枝が千代子に「じゃあ、千代子さん、駒込まで送りましょうか」と言いながら、身軽にひらりと電車に飛び乗った。
「いいわ、お気の毒だから本当に、ね」
と三人は言ったが、千代子も電車に乗ってしまった。
三人の顔に当惑の色が浮かんだ。
「駒込からすぐにお帰りになるの野枝さん」
とEが聞いた。
「ええ、そうね。辻先生のところへ寄ってもいいわね、千代子さん」
「そうね、寄ってもいいわ、そして墓地抜けましょうか」
「それがいいわ」
三人は顔を見合わせた。
「私たちも寄りましょうか一緒にーー」
おきんちゃんが気軽に言うと、野枝はカッとなった。
「辻先生のところへ寄るくらいなら、なぜ私のところへ帰って下さらないんです! ちょっとだっていいじゃありませんか、少しひどいわ」
「よしましょうか。遅くなるわね」
と、Eさんが野枝の顔を窺いながら言った。
どっちつかずのことを言ってるうちに、電車が駒込に着いた。
「どうするの?」
野枝がムカムカしながら、そう言って電車から降りた。
三人はしばらくぐずぐずしていたが、やがて降りてきた。
野枝には三人の気持ちが見え透いていた。
最初からここへ来るつもりだったから、「四時までに帰らなければ……」なんて嘘をついたのだと思うと、女らしいいろんな小細工をして、下らない隠し立てをしているのが不愉快になった。
電車を降りた三人は何か相談をしていた。
野枝が皮肉な目でじっとEを見つめると、人のよい彼女はおどおどしたような困った顔をした。
野枝はなんだか快いものを感じた。
野枝と千代子が三人のところに行くと、おきんちゃんは黙って俥(くるま)に乗った。
足が痛いことを口実にしてーー。
野枝はフフンと笑いたくなった。
残されたふたりは道を知らないという。
野枝は不快だったので行かないと言ったが、道を教えてやってきわどいところで逃げてやろうと思い、一緒に行った。
ふたりはこのあたりの地理にまったく不案内だったので、野枝はできるだけ遠回りをして、ふたりを引っぱり回した。
途中で馬鹿なお供をしていることが嫌になり止そうと思ったが、こんなところで彼女たちをほっぽり出しても仕方がないので、意地の悪い目をして皮肉を言っては、Eの困ったおどおどした顔を見てある快感を覚え、腹いせをしながら歩いた。
ふたりを辻の家の門まで送りつけ、すぐに引き返した。
ふたりは後を追っかけてきたようだが、見向きもせずに急いだ。
しかし、不快な念はどうしても押さえることができなかった。
翌日、学校に行くと、Eはうつむいてばかりいた。
野枝は意地の悪い顔をしてジロジロ見た。
やがて、Eが小さな声で言った。
「ごめんなさいね。昨日は本当に悪かったわ」
「なに別に悪いこともしないじゃありませんか」
「でも悪かったわ、ごめんなさいな」
「私、あなたからお詫びされる覚えなんかありませんもの、なんですいったい」
野枝の声には薄気味の悪い落ち着きと意地の悪い冷たさがあった。
人のいいEは辛そうに首を垂れた。
「でも怒ってらっしゃるでしょう。今におきんちゃんもお詫びに来ますからーー」
「何を怒っているんです。おきんちゃんが何で私にお詫びするんです。そんなことちっともないわ」
そう言い放って、野枝は教室を出て行った。
「小さな、ケチな根性だね、おまえは」と自分に言いながら、野枝はやっぱりケチな根性に負けていた。
おきんちゃんが来た。
しかし、野枝はまるで相手にしないような態度を見せて追っ払った。
みんなが不思議な顔をして見ていた。
辻に対してもなんとなく一種の軽侮を感じ始めた。
野枝はまたイライラして、本当にまあどうしてこんなにイヤなケチケチした了見を持っているんだろうと思った。
自分が嫌になってきた。
しかし、他人にはなおのこと同感できなかった。
何を読んでもおもしろくなくなった。
すべてがつまらなくなった。
野枝は「惑ひ」の終わりの方で、自分の辻に対する感情をこう分析している。
併(しか)し今考へて見ると、その当時は色々な複雑な考察にわづらはされて苦悶を重ねてゐたときだから意識に上らなかつたのだけれども男に対する愛はその頃から芽ぐんでゐたのだなと町子は考へないわけにはゆかなくなつてしまつた。
(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p275/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p114)
つまり、野枝が辻を恋愛対象として意識し始めたのは、上野高女五年の三学期のころだったということになる。
「惑ひ」は『青鞜』一九一四(大正三)年四月号に掲載されたので、野枝は二年後に、冷静に自己分析をして文章化したのである。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●伊藤野枝 1895-1923 index
第23回 天地有情
文●ツルシカズヒコ
野枝が福岡から帰京したころ、一九一一(明治四十四)年八月下旬の蒸し暑い夜だった。
平塚らいてうは自分の部屋の雨戸を開け放ち、しばらく静坐したのち、机の前に座り原稿用紙に向かった。
らいてうはその原稿を夜明けまでかかり、ひと息に書き上げた。
書き出しはこうだった。
元始、女性は実に太陽であつた。
真正の人であつた。
今、女性は月である。
他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。
偖(さ)て、こゝに「青鞜」は初声を上げた。
現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。
女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。
私はよく知つてゐる。
嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
(「元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して」/『青鞜』1911年9月号・1巻1号/『元始、女性は太陽であったーー平塚らいてう自伝(上巻)』_p328)
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p64)によれば、帰京した野枝は叔母のキチや千代子に対して、露骨に自棄な態度をとり始めた。
さすがに叔父・代準介にはそういう態度は取れないが、この時期、代準介は長崎と東京を行ったり来たりしていて、月の半分も根岸の家にいなかった。
準介は野枝の拗(す)ねた言動をキチから聞いていたが、卒業までには何とか落ち着くだろうと考えていた。
野枝が帰京した後、末松家は入籍を急ぎ、野枝はすでに末松家の嫁なので生活費と上野高女の学費を出したいと申し出た。
末松家と代準介の折衝により、末松家が学費を負担することで双方折り合った。
野枝が末松家に入籍されたのは、十一月二十一日だった。
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』p507)には、野枝は「夏休み以降卒業までの間、従姉千代子と上野高等女学校の教頭佐藤政次郎宅に寄宿する」とある。
野枝はこのころの苦悶をこう書いている。
無惨にふみにぢられたいたでを負ふたまま苦痛に息づかいを荒らくしながら帰京したときにはもう学校は二学期に入つてゐた。
彼女の力にしてゐる先生達は皆で彼女の不勉強をせめて、卒業する時だけにでも全力を傾けて見ろと度々云はれて居た。
併し彼女の苦悶は学校に行つて、忘れられるやうな手ぬるいものではなかつた。
彼女の一生の生死にかゝはる大問題だつた。
きびしい看視の叔父や叔母のゐなくなつたと云ふことも助けて、苦悶は彼女にいろんなまぎらしの手段として強烈なヰスキーを飲むことや、無暗(むやみ)に歩くことや、書物にかぢりつくことを教へた。
教科書は殆んどのけものにされてすきな文学物の書ばかりが机の上に乗るやうになつた。
(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p268~269/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p111~112)
年末、上野高女では「桜風会」(文化祭のようなもの)が開催され、野枝たちのクラスはシェークスピアの『ベニスの商人』を上演し、野枝はベラリオ博士を演じた。
さらに野枝は指名されて、土井晩翠の『天地有情』の中の新体詩「馬前の夢」を朗読した。
卒業間際の桜雲会の余興に、シェークスピアの「ベニスの商人」を上演しました時、シャイロックが町田さんで、私が胸の肉一斤を取られようとする商人のアントニオで、ポーシャが竹下さん、ベラリオ博士が野枝さん、バッサニオが代さんでした。
その時の会に野枝さんが、土井晩翠の『天地有情』の中の新体詩「馬前の夢」の朗読を、堂々と胸を張って終わった時は、会場の全員を夢心地にして了った程でした。
(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)
花沢かつゑは「桜雲会」と書いているが、井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p37)では「桜風会」と表記されている。
花沢かつゑは、野枝に関するそのころのこんなエピソードも語っている。
級友で牛乳屋の娘さんが家庭の事情で学校をやめなければならなくなりました。
佐藤先生もなんとかひき止めたいと考えていらした。
そこであたしたちはその友達の親にかけあいにいくことになりました。
ちょうど途中にあたしの家があったので、みんな焼いもなんか買って、家によって相談することにしました。
ガヤガヤ話しているのを母は障子のかげで聞いていましたが、そのなかでひときわ目立つ野枝さんに眼をつけ、あんなしっかり者をうちの息子の嫁にしたいといったほどでした。
(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p37)
級長だった野枝の仕切りのよさが目立ったのだろう。
「惑ひ」によれば、野枝はだいぶすさんだ生活をしていたふうにとれるが、最高学年の級長としてやるべきことはやっていたようだ。
井出文子は上野高女時代の野枝についてこう書いている。
ともかく上野女学校のいきいきした下町娘気質のなかで、野暮な田舎娘の野枝は精一杯反応し、もちまえの強い性格で逆に友達に一目おかせている。
これらの話から想像しても、上野女学校での教育が野枝の精神形成にあたえた影響ははかり知れないほどおおきかったとおもわれる。
(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p37~38)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』(大月書店・1971年8月20日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index