2020年01月06日
キリスト教に生涯を捧げた武将 高山右近
“本物”のキリシタン大名
今年最初の月曜日、今日から仕事始めという方は多いのではないでしょうか?
今回の年末年始はカレンダーの並びが良く、普段土日休みなら9連休になった方も少なくないでしょう。
でも、あまり休みが長過ぎるのも、仕事始めがより憂鬱になってしまうのでちょっと考えものですね。
さて、今日1月6日はキリシタン大名・高山右近が亡くなった日です。(慶長二十年 1615年)
天文十八年(1549年)日本にキリスト教が伝来して以来、キリスト教は西日本を中心に急速に広まり、庶民だけでなく戦国大名の間にも浸透していきました。
彼らの中でキリスト教の洗礼を受けた者をキリシタン大名といいます。
キリシタン大名と呼ばれる人物は数多くいますが、正直、彼らの信仰がどこまで本当だったのかは疑わしいと言わざるを得ません。
と言うのも、当時日本に来たポルトガル人やイスパニア(現在のスペイン)人は、キリスト教の布教と南蛮貿易をセットで考えていたので、南蛮貿易の利益を得るためにキリスト教に入信した大名も少なからずいたからです。
また、キリスト教は当時の流行でもあったので、織田信長のような新し物好きの権力者が保護しただけの場合もあります。
しかし、右近のキリスト教信仰だけは疑う余地のない間違いなく本物だったと言えるのです。
右近は他のキリシタン大名と何が違ったのでしょうか?
というわけで、今回は稀有なるキリシタン大名・高山右近について語りたいと思います。
父の影響でキリシタンに
高山右近 天文二十一年(1552年)〜 慶長二十年(1615年)※改元前
右近は官職名(右近大夫)で本名は重友
右近は熱心なキリシタンだった父・友照の影響により、少年時代にキリスト教の洗礼を受けました。
右近の洗礼名はドン・ジュストといい、ジュストとはポルトガル語で「正義の人」という意味です。
右近が織田信長の家臣・荒木村重に仕えていた時、村重が信長に謀反を起こしてしまいます。
この時、右近は信長に「降伏しなければ領内の宣教師とキリシタンを皆殺しにする」と迫られ、右近はキリスト教徒を守るため村重と離別し居城の高槻城を開城しました。
仕えていた主君よりキリシタンの命を選んだことからも右近の信仰の深さが窺えますが、他にも右近の真摯な信仰心を示すエピソードがあります。
右近は貧しいキリシタンが亡くなった時、葬列において父と二人でその柩を担ぎ、墓の穴掘りまでしたのです。
当時、このような行為は賤しい身分の者がする仕事だったので、右近の行動に人々は感銘を受けずにはいられませんでした。
このような右近の人柄に魅かれ、右近が統治した領内では領民2万5千人の内、なんと1万8千人がキリシタンに改宗しており、いかに右近の影響力が大きかったかが窺い知れます。
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秀吉の禁教令にも屈せず
領民にも慕われ、キリシタン大名として充実した日々を送っていた右近に危機が訪れます。
天正十五年(1587年)豊臣秀吉はバテレン追放令を発令し、宣教師の国外追放と大名のキリスト教信仰を禁止したのです。
九州征伐の際、キリシタン大名が教会に所領の一部を寄付していることを知った秀吉は、キリスト教が信長をも苦しめた一向宗のように勢力を拡大することを恐れたためといわれています。
ですが実のところは、女好きの秀吉がキリシタンの娘に目を付け愛人にしようとしましたが、その娘はキリシタンとしての貞操を守るため逃げてしまったので、激怒した秀吉がその腹いせにキリスト教を禁止にしたとの噂もあります。
この時、ほとんどのキリシタン大名は信仰を捨て大名の身を守ることを選びました。
キリスト教の信仰か、大名の地位か、どちらかを迫られれば当然の選択といえるでしょう。
しかし、当時明石城主だった右近は秀吉の禁教令に抗議して、信仰を守るため自ら大名の地位を捨てる決心をしたのです。
誰もが生き残るためになりふり構わず身の安泰を図ろうとする戦国時代にあって、この決断はなかなかできるものではありません。
所領を没収され浪人となった右近ですが、やがて加賀(石川県)の前田家に客将として招かれ、この地で20年余りキリシタンとして平穏に過ごしました。
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あくまで信仰を守り国外追放へ
しかし、時代の流れは右近をキリシタンとしてこのまま平穏に人生を終えることを許しませんでした。
慶長十九年(1614年)、前年にキリスト教の禁教令を全国に通達していた徳川家康は、前田家にいた右近をルソン(現在のフィリピン)へ国外追放処分にすることを決めたのです。
家康が右近を国外追放にした理由は、キリシタンから熱烈に崇拝されていた右近を禁教令を口実にもし処刑したら、全国のキリシタンが幕府に対し一斉に蜂起することを恐れた家康の苦渋の決断であったと思われます。
あるいは、大坂攻めを間近に控えていた家康にとって、もし浪人の右近が大坂城に入ってしまったら、全国のキリシタンも豊臣方につくのではないかと恐れたためとも考えられます。
ともあれ、信仰を続けるためこの処分を受け入れた右近は家族や他のキリシタンと共に長崎からルソンへ向かい、到着した首都マニラでルソン総督から大歓迎で迎えられました。
しかし右近は
「私は日本でゼウス様のために命を捧げるつもりでした。しかし、私の信仰心が至らなかったため、主はそれをお許しにならなかったのです。我々を歓迎して頂くお気持ちは有り難いが、私はそれに値する人間ではない」
と、街を挙げての歓迎を辞退したといわれています。
日本からの長い船旅は右近の体を蝕み、ルソンに着いてからわずか40日後の1月6日、右近は熱病のため死去しました。
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まとめ
- 高山右近は他のキリシタン大名とは比べものにならないほど信仰心が篤かった
- 豊臣秀吉が大名のキリスト教信仰を禁じた時、右近は信仰のために大名の地位を捨てた
- 徳川家康が右近に国外追放を命じた時も信仰を守るため受け入れた
平成二十九年(2017年)右近は日本におけるキリスト教の偉大な信者として、ローマ教皇に認められた福者(死後にカトリック教会から与えられる称号)に認定されています。
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