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2019年10月03日

文武両道に優れた “相模の獅子” 北条氏康

信玄や謙信の影に隠れた名将

今日10月3日は北条氏康が亡くなった日です。(元亀二年 1571年)
北条氏康.jpg
永正十二年(1515年)〜 元亀二年(1571年)

氏康は戦国ファンなら誰もが知る名将ですが、彼のライバルだった “甲斐の虎” 武田信玄や “越後の龍” 上杉謙信が川中島の戦い9月10日12日付ブログ参照)を始め、あまりにも華々しい活躍が目立っていたため、彼らに比べればやや地味な存在であり脚光を浴びることの少ない人物です。

しかし、氏康は北条氏による関東支配を確立させた戦略だけでなく、政治家としても優秀でした。

領内では通貨を永楽銭に統一、他の大名に先駆けて検地を実施し税制改革を行ない領民の負担軽減に努め、他にも領内に目安箱を設けて領民の意見を直接聞き入れるようにしたことで、領民からとても信頼される領主でした。

また、和歌の腕前は歌人並みと評されるほど文化人としての教養も持ち合わせ、まさに文武両道に秀でた名将なのです。


僕の中で氏康は、昭和六十三年(1988年)に放送された大河ドラマ『武田信玄』(主演:中井貴一)の中で北条氏康を演じた杉良太郎さんのイメージが強く、「めちゃくちゃカッコイイなぁー!」と思いながら見ていた記憶があります。

というわけで、今回は北条氏康について語りたいと思います。

関東支配を確立させた河越夜戦

戦国時代の小田原に拠点を構えた後北条氏の祖・北条早雲の孫である氏康が、関東に一躍その名を轟かせたのが河越夜戦です。(天文十五年(1546年) 4月20日)

北条氏と関東の覇権を巡り争っていた関東管領の(山内)上杉憲政と(扇谷)上杉朝定は、古河公方・足利晴氏も巻き込んで連合軍を結成、約8万の軍勢で北条氏の関東における前線基地・河越城(埼玉県川越市)を包囲します。

対する北条軍は8千の軍勢しかなく、十分の一の兵力でまともに戦っては勝ち目がないと考えた氏康は、相手を油断させるためにまず和議を申し入れ、臣従することを約束しました。

氏康の殊勝な態度に和議を受け入れた上杉連合軍はすっかり油断し、そこを見計らって氏康は深夜に夜襲を仕掛けます

深夜ということもあり、全くの不意を突かれた連合軍はたちまち総崩れとなり、北条軍は上杉の大軍を河越城から駆逐することに成功したのです。

氏康の見事な戦略によって河越での戦いに勝利した北条氏は、これ以後、両上杉に代わって関東支配を確立させました。

なお、この河越夜戦は、厳島の戦い(弘治元年 1555年)、桶狭間の戦い(永禄三年 1560年)と並んで日本三大奇襲と呼ばれています。

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三者の思惑が合致した三国同盟

河越夜戦の勝利で両上杉を関東から追い出した氏康ですが、敵は両上杉だけではなく、隣国である駿河(静岡県)の今川義元とは敵対関係にあって小競り合いが絶えず、甲斐(山梨県)の武田信玄4月10日付ブログ参照)にも脅威を感じていました。

そんな中、今川義元の軍師・太原雪斎の提案により甲斐・駿河・相模(神奈川県)の三国は同盟を結ぶことになります。

これが甲相駿三国同盟で、三者の話し合いが行われた場所から善得寺の会盟ともいわれます。(天文二十三年 1554年)

同盟の証しとして、義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぎ、信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぎ、そして氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぐというバランスのとれた三角関係の政略結婚を成立させました。

勿論、敵対していた者どうしが手を結ぶには理由があり、この同盟により義元は三河・尾張(共に愛知県)への進出、信玄は信濃(長野県)支配、氏康は関東の完全制覇と、それぞれの目的に後顧の憂いなく邁進できるからです。

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“甲斐の虎”・“越後の龍” とも互角に渡り合う

三国同盟により後顧の憂いがなくなった氏康の前に強敵が現れます。

河越夜戦で氏康に敗れた上杉憲政から関東管領職を譲り受けた上杉謙信3月13日付ブログ参照)が、北関東の軍勢を集め11万を超える大軍で北条征伐に乗り込んで来たのです。(永禄四年 1561年)

しかし、氏康は難攻不落の名城・小田原城において籠城戦を展開し、謙信は大軍で小田原城を包囲しますが落とすことはできず、一ヶ月後に撤退しました。
小田原城.jpg

謙信はその後何度も関東に出兵しますが、氏康の巧みな戦術により決定的なダメージを与えるには至りませんでした。


また、今川義元が桶狭間の戦い(永禄三年 1560年)で敗死したのを機に三国同盟を破棄した武田信玄も氏康と敵対することとなり、謙信と同じように信玄も小田原城を包囲しますが、やはり落とすことはできず甲斐に撤退します。

この時、氏康は撤退する武田軍に奇襲を仕掛けることを画策しますが、この奇襲は信玄に見破られ、逆に北条軍は返り討ちに遭いました

これが三増峠の戦いです。(永禄十二年 1569年)


この三増峠の戦いにはあるエピソードが残っています。

戦いの最中に本隊とはぐれた武田の兵士数名は夜中に山中を彷徨い、翌朝目の前に海を見ました

敵地の相模湾に迷い出てしまったと思い込み、もはやこれまでと覚悟した兵士たちはその場で自害してしまいます。

しかし、彼らが海と思っていたのは、広大な蕎麦の畑だったのです。

以来、この地では彼らの死を悼んで蕎麦を作らなくなったそうです。(神奈川県厚木市に残る伝説)

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まとめ

  • 氏康は武力だけでなく政治家としても領民に慕われた文武両道の名将だった

  • 氏康は自軍の10倍の敵を破った河越夜戦の後に関東支配を確立させた

  • 氏康は武田信玄や上杉謙信にも引けを取らない戦略を備えていた


氏康がいつか大河ドラマの主人公になるのを期待するのは小田原市民だけではないでしょうね。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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