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2019年09月03日

世界遺産「平泉」の礎を築いた東北の雄

『世界遺産』で甦る栄華

今日9月3日は、平安末期に東北で栄華を誇った奥州藤原氏が滅亡した日です。(文治五年 1189年)

奥州藤原氏が築いた都市・平泉は、平成二十三年(2011年)6月にユネスコの世界文化遺産に登録され脚光を浴びました。

2011年といえば、3月に東日本大震災が発生し東北地方は壊滅的な打撃を受け、東北を訪れる観光客も激減してしまいましたが、平泉の世界遺産登録は東北復興への希望の光となりました。

僕もこの2011年の秋に平泉を訪れたのですが、世界遺産登録からまだ近い時期だったため、想像以上に観光客が多くて、中尊寺周辺などは駐車場もほとんど空きがないくらい混雑していたのを覚えています。

今でこそ平泉周辺は情緒的で落ち着いたみちのくの観光地という雰囲気ですが、藤原氏が全盛を誇った時代は京の都を知る人々が驚愕するほど発展した大都市だったといわれていました。

今回は未開の地だった東北に一大都市を築いた奥州藤原氏について語りたいと思います。

奥州藤原氏とは

奥州藤原氏は三代百年にわたり繁栄を極めた東北地方の豪族です。

奥州藤原氏.jpg
上が藤原清衡(初代)、右下が基衡(二代)、左下が秀衡(三代)

奥州藤原氏の歴史は永承六年(1051年)に起きた前九年の役から始まります。

前九年の役とは、陸奥(東北の太平洋側)の豪族・安倍氏が朝廷に対し起こした反乱で、源頼義・義家父子が東北に赴き、出羽(秋田・山形)の豪族・清原氏の援助も得て平定します。

前九年の役で父・藤原経清を失った清衡(初代)は、母がこの戦いに勝利した清原氏と再婚したので清原清衡となります。

その後、永保三年(1083年)に起こった後三年の役で異父弟との家督争いに勝利した清衡は、実父の藤原姓を再び名乗り、藤原清衡となります。

清衡は藤原一族の本拠地を平泉に移し、中尊寺の造営に着手、天治元年(1124年)に金色堂を完成させました。
中尊寺金色堂.jpg
この中尊寺は、天台宗を開いた最澄の弟子・円仁(慈覚大師)が嘉祥三年(850年)に開山したものです。


清衡の後を継いだ基衡(二代)は、中尊寺と同じ年にやはり円仁が開山した毛越寺の造営に力を注ぎます。
毛越寺庭園.jpg
毛越寺といえば、極楽浄土の情景を再現したといわれる立派な庭園が有名ですね。

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源義経を庇護した偉大な三代目・秀衡

そして、秀衡(三代)の時に奥州藤原氏は全盛期を迎えます。

秀衡は、”平安美術の粋”とまで評された京都の平等院鳳凰堂を模して無量光院を建立しました。

現在は建物が焼失してしまったのでその跡地しか残っておりませんが、無量光院は本家の平等院を凌ぐほど立派なものだったといわれており、いかに秀衡の権力が絶大だったかを窺わせます。

また、秀衡は源頼朝の弟・源義経の庇護者としても有名で、少年〜青年期を秀衡の元で過ごした義経にとって、秀衡は「育ての親」と言える存在でした。

義経は兄・頼朝の挙兵後、平泉を出て頼朝と合流し平家討伐を果たしますが、その後兄弟不和となり、頼朝に追われ平泉の秀衡の元に戻ってきます。

頼朝は義経が平泉に潜伏しているとわかっていながら、秀衡を恐れて手が出せませんでした。

つまり、平家を滅ぼした後の頼朝が恐れるほど秀衡率いる奥州藤原氏は強大だったのです。

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黄金文化の終焉

文治三年(1187年)10月、ついに秀衡が死去すると、頼朝はここぞとばかりに奥州藤原氏に圧力をかけてきます。

秀衡の生存時から頼朝は義経の引き渡しを要求していましたが、秀衡は頑なに拒否しました。

しかし、秀衡の後を継いだ泰衡は頼朝の圧迫に抗しきれず、とうとう義経を攻めて自害に追い込んでしまいます。(11月11日付ブログ参照

父の秀衡と違い小心者の泰衡なら恐れるに足らずと見た頼朝は、再三の要求にも関わらず長らく義経を匿っていたことを口実に、奥州討伐の兵を起こし泰衡を攻め滅ぼします。

ここに、百年にわたって東北の地に栄華を極めた奥州藤原氏は滅亡しました。

秀衡は平家を追討した義経の軍才を高く評価しており、「義経を総大将に立て、鎌倉の頼朝を討て」と遺言したといわれるので、もし秀衡の遺言が実行されていたら、歴史が大きく変わっていたかもしれませんね。



まとめ

  • 奥州藤原氏は三代百年にわたり東北の地で栄華を極めた

  • 三代目・秀衡は源頼朝が恐れるほどの勢威を誇った

  • 義経を匿った罪で頼朝に攻められ奥州藤原氏は滅亡した


平泉は関東からも遠いので簡単に行くことはできませんが、一度は見てみる価値は十分にあります。
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元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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