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2019年12月09日

「闘い続ける」香港雨傘の女神 周庭さんの思い 100万人デモから半年




 




  「闘い続ける」香港雨傘の女神 周庭さんの思い 100万人デモから半年


             〜西日本新聞 12/9(月) 11:22配信〜


      12-9-20.jpg

 「一国二制度が無く為る2047年よりも、明日の香港がどう為るか想像着か無い」と危機感を募らせる周庭さん 11月下旬 香港 撮影・川原田健雄


 〜香港で政府への抗議活動が本格化して9日で半年。11月の香港区議会(地方議会)選挙では民主派が圧勝したが、民主派団体幹部の周庭さん(23)は「これで終わりじゃ無い。香港人の自由と権利を守る為闘い続ける」と国際社会を巻き込み中国政府の圧力と対峙(たいじ)する構えだ。日本にも米国の香港人権・民主主義法の様な強い措置を求める〜

 「民主的な国なら選挙で未来を変えられる。でも中国は独裁国家で、香港の選挙にその力は無い。引き続き街で闘う事が大事だ」民主派が8割超の議席を獲得した区議選を振り返り、周さんは力を込めた。
 中学生だった2012年「中国国民としての愛国心」を養う愛国教育導入に反対するデモに参加。2014年には行政長官選挙の民主化を求めるデモ「雨傘運動」で学生団体幹部を務め「民主の女神」と呼ばれた。長く民主化運動に身を投じて来たからコソ従来の活動に限界も感じる。

 「平和なデモなら香港政府は要求を聞こうともしない。6月に逃亡犯条例改正案の撤回を求めて200万人が街に出たのに無視された」
 6月以降「勇武派」と呼ばれる若者が警察と衝突。交通妨害や中国寄りと見做した店の破壊を繰り返す。
 「日本では迷惑を掛ける行為と云う見方があるけど、実生活に影響が無い社会運動には力が無い。政府にプレッシャーを掛け無いと何も変わら無い」
 日本語が堪能な周さんは日本の報道も目にするが、香港のデモが「過激」と報じられる事に違和感を覚える。
 「広東語では激しく急進的と云う意味の『激進』を使う。過激では前に進む運動の意義が伝わら無いでしょ」
 
 大好きなアニメで学んだ日本語を駆使し、ツイッターで香港の今を発信する。
 「日本の報道は『香港で暴力的な衝突が起きた』で終わる。その背景と理由を日本人に伝えたい」  
 日本の政治にも期待は大きい。
 「各党が香港情勢を懸念する声明を出して呉れたのは有難い。でも米国の様な制裁を含む法律があればもっとパワフル。アジアの民主国家として中国の人権問題に強い行動を取って欲しい」と訴える。

 香港中心部の幹線道路を占拠した「雨傘運動」は学生と民主派団体の路線対立もあり失敗に終わった。その後は長く絶望と無力感に苛(さいな)まれたと云う。 「占拠した道路に『We will be back(又戻って来る)』と落書きしたけど、どう遣ったら戻れるのか分から無くて…」
 5年後の今、胸にあるのは「仲間割れしない」との思いだ。「平和的なデモも、急進的な行動も主張は矛盾しない。皆経験を積み重ねて頑張って居る」
 
 香港に高度な自治を認める「一国二制度」は2047年迄続く約束だ。だが「今は1国1・1制度あるかな?」デモ参加者のマスク着用を禁じる覆面禁止法を香港の裁判所が違憲と判断した際も中国政府は非難した。
 司法の独立や言論の自由と云った香港の価値観は揺らぐ。それでも「香港は私の家。此処に残り自分の家を守りたい」と前を向いた。 

            香港で川原田健雄     以上







 【関連報道1】香港分断家族まで 警官の夫と溝 離婚を協議 デモ支持か否か


     〜2019/10/28 6:00 (2019/11/19 12:27 更新) 西日本新聞 国際面 川原田 健雄〜

 「逃亡犯条例」改正案を契機に始まった抗議活動が続く香港で、政府支持かデモ支持かを巡り社会の分断が深まって居る。長引く混乱はビジネスや家族の絆にも亀裂を生み、市民生活に暗い影を落として居る。

 「一番身近な人を怖いと感じる様に為った。自分とはマルで違う人間の様で…」

 香港の小学校でソーシャルワーカーとして働くチェリー・ヤンさん(40・仮名)は、14年間連れ添った警察官の夫(40)への不信を口にした。夫婦仲に亀裂が入ったのは、7月21日夜に香港北西部の元朗地区で起きた事件が切っ掛け。
 デモ帰りの市民が白いTシャツを着た集団に襲撃され45人が負傷した。複数の通報があったにも関わらず、警察は到着が遅れ、一部警官は棒を持った白シャツ集団を見ても取り調べ無かったと報じられた。白シャツ集団は地元犯罪組織の構成員と見られ、警察がデモ隊への暴力を黙認したとの見方が市民に広がった。

 「何故警察は何もしないの?」そう尋ねても夫は「警察は間違って無い。悪いのはデモ隊だ」と繰り返すばかり。その後、デモのニュースが流れる度に「デモ隊はゴキブリだ(もし俺が)警察じゃ無くても殴りに行きたい」と罵る様に為った。
 「警察はプライドが高い。間違いを認めると全てが崩れてしまう。だから自分達は正しいとしか言え無い」とヤンさんは指摘する。

 平和なデモに限界を感じ、過激な行動で政府に声を届け様とする若者達。その思いを理解しない夫にヤンさんの気持ちは塞ぐ。
 「19歳から警官の夫が信じるのは(警察等の)体制。人間性を重視するキリスト教徒の私とは考え方が違う」激しい夫婦喧嘩を繰り返した末、会話は無く為り、8月末から離婚に向けた話し合いを続ける。 「2人の子供の前では夫婦を演じて居るけど、私達の結婚は死んだも同然」
 亀裂は夫婦に留まら無い。祖父母の代から香港に住むヤンさんの親族も、中国と仕事の繋がりがある政府支持派とデモ支持派に分かれる。口論に為ら無い様親族で集まる機会は減った。「集まっても食事は別のテーブルで取り、言葉を交わさ無い」と云う。

 警察とデモ隊。その狭間に居る警官の家族だからコソ出来る事は無いかとも考える。衝突の現場に出向き警察とデモ隊双方に「互いを罵るのは辞め様」と呼び掛けた事もあった。警官の家族同士で通信アプリのグループを作り、融和に向けた取り組みを話し合うが妙案は無い。「今は警察もデモ隊も挑発的でどうにも為ら無い」とヤンさんは為息を着く。
 心配なのは子供の世界に迄分断が広がらないかだ。インターネット上では警官の子供に対する苛めを呼び掛ける動きもある。「虐めなんて許される筈が無いのに、何故そんな呼び掛けが起きるのか。根本原因を考えないと解決には為ら無い」と訴える。

 香港では企業やメディアの「色分け」も進む。政府支持は「青」警察の制服の色だ。対してデモ支持は「黄」2014年の民主化デモ「雨傘運動」の象徴と為った色だ。「青」と見做されるとデモ隊の破壊行動の標的と為る。米コーヒーチェーンのスターバックスコーヒーや日系の元気寿司も、香港の運営会社が「青」に色分けされ、一部店舗が破壊された。
 各店舗を色分けし、地図上に表示するスマートフォン用アプリも登場。デモ参加者に食事を無料提供し「黄」とされた香港島の飲食店は「売り上げが3〜4割伸びた」(男性従業員)と云う。

 住宅建材を販売する男性(35)も「黄」だが、取引相手とはデモの話題を避けて居る。デモ支持なら取引を打ち切ると云う親中派の顧客が少無くないからだ。中国寄りの考えを持つ年配の大工も多いと云う。「曖昧に相づちを打ちながら相手がどんな考えか見極める。暫くこう云う状態が続くだろう」と話した。

 
             香港で川原田健雄   以上







 【管理人のひとこと】

 お隣の国の出来事なのだが、日本の報道には何かデモに対する批判的な思惑が濃い気がする。確かにTV画面に映るのは、暴徒化したデモ隊と必死に水を浴びせ催涙弾を発砲し続ける警察隊との死闘で、公共物が破壊され店舗が破壊される・・・衝撃的な映像だ。
 確かにTV的な絵に為るのだろうが、現場を詳細に取材した某TV局のものは、もう少し深化した姿勢で状況を詳しく報道した。それは、単に表面に現れた動きのみを報道するのでは無く、その裏に隠された思いや心情を映し出す心の篭ったものだった。
 香港を領有したイギリスと中国の取り決めで、返還前の一時期を、この香港の「一国二制度」の制度が成り立って居るのだが、旧宗旨国のイギリスは「約束が違うじゃないか!」と中国政府に注文を付けて居るのだろうか。アメリカが「内政干渉も恐れず」香港政府を批判する国内法律を作って牽制するが、どの程度の効果があるのかは不明。但し香港の市民は、その応援に心強く思うだろう。我が国は、対岸の火事と傍観しているだけで好いのだろうか・・・責めて心情的な応援はすべきだろう・・・













韓国・アメリカ・日本・・・米コロンビア大学生達が語る「慰安婦問題」



 

 【管理人】キャロル・グラック教授は、実に好く「従軍慰安婦」の事を詳細に研究されて居る。そして、それを単に日韓の政治問題としてだけで無く、世界の軍隊に存在する事でもあり、戦争と女性には付き物の不幸の一つでもあると認識し、その問題を取り上げ政治問題化した背景にも思考する。これを読めば、その問題の殆どを冷静に客観的に理解出来るだろう・・・少し長い文章だが、最後まで検証下さい。


  





 韓国・アメリカ・日本・・・米コロンビア大学生達が語る「慰安婦問題」

   〜慰安婦問題 世界の記憶  キャロル・グラック コロンビア大学教授(歴史学)〜


 〜日本近現代史を専門とする米コロンビア大学のキャロル・グラック教授(歴史学)『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義―学生との対話―』(講談社現代新書)には、グラック教授がコロンビア大学で多様な学生達と「戦争の記憶」に付いて対話をした全4回の講義と、書き降ろしコラムを収録して居る。
 評価や単位認定の対象に為ら無い対話式の特別講義には、コロンビア大の学生11人〜14人が参加した。育った場所が日本・韓国・中国・インドネシア・カナダ・アメリカ各地と国際性に富んだ彼等が、一人ひとりの視点から「戦争の記憶」を語る。そこで浮かび上がるのは、各国夫々違う戦争の記憶の「作られ方」だ。
 本作の発売に辺り、3回目の講義「慰安婦の記憶」を3回に渉って全文掲載する。長く語られ無かった慰安婦問題が1990年代にアジアで噴出したのは何故なのか。グラック教授が学生達との対話を通して炙り出す、私達の知ら無かった「慰安婦問題の背景」とは〜



            12-9-16.jpg

              Colombia大学 グラック教授

 慰安婦問題が共通の記憶に為るまで

 グラック教授 前回は「記憶の作用」に付いてお話ししました。通常は余り変わる事の無い或る国の「戦争の記憶」が変化する時、その変化をどの様に理解したら好いのかに付いて考えましたね。「記憶の領域」や「記憶が変わる方向性」「政治の文脈」と云う視点から「共通の記憶」がどの様に作られて伝達されて行くのか、どの様に変化するのかに付いて議論しました。
 3回目と為る今日は「共通の記憶」に付いて「慰安婦」をケーススタディーとしながら、更に考察して見ようと思います。
 現在、慰安婦に付いて知ら無い人は少無いかも知れませんが、以前からそうであったかと云うと違います。詰まり、本日お話しするのは「慰安婦が共通の記憶に取り込まれるプロセス」に付いてです。先ずはこの質問から始めたいと思います。慰安婦に付いて初めて耳にしたのは何時でしたか。


 トム 2014年頃、大学の学部時代に日本史の講義で初めて聞いたと思います。
 グラック教授 その講義のテーマは、第二次世界大戦に関してでしたか。
 トム 1600年から第二次世界大戦の終わりまでと云う幅広い内容でした。
 グラック教授 2014年でしたら、現代日本史の講義で慰安婦の話が出て来る可能性は十分にありますね。この頃迄には、慰安婦の問題は共通の記憶として度々取り上げられて居たからです。それより25年前に大学に通って居たとしたら、慰安婦に付いては習わ無かったでしょう。他には?

 ジヒョン 1990年代半ばだったと記憶して居ます。名前は覚えて居ませんが週刊誌で読んだと思います。私は韓国出身なのですが、1994年にインドネシアに移住しました。インドネシアで、購読して居た韓国の雑誌で読んだ様な気がします。
 グラック教授 その事に付いて誰かと話をしましたか。それとも、自分で読んだだけですか。
 ジヒョン 自分で読んだだけです。インドネシアでは慰安婦に付いて特に一緒に話す人は居なかったので・・・
 グラック教授 分かりました。他には?

 ニック 大学の学部時代に日本史と中国史のコースを履修して居ましたが、その時には慰安婦に付いては習いませんでした。只、家族と一緒に2000年初頭に日本に移住して、ニュースの中で教科書問題に付いて聞いた覚えがあります。
 この頃には、慰安婦よりも先に『ザ・レイプ・オブ・南京』(1997年、中国系アメリカ人作家アイリス・チャンによる南京事件に関する著作)や教科書問題の方がメディアで論争を呼んで居たと思います。慰安婦問題は、それ等に付随する形で出て着た様な印象です。

 グラック教授 2000年初頭に、メディアを通じて知ったのですね。アイリス・チャンの著作は1997年に発売されて、既に論争を呼んで居ました。では他の人。慰安婦に付いては、初めて聞いたのは何時でしたか。

 ダイスケ 好い答えでは無いかも知れませんが、何時何処でだったか覚えて居ません。
 グラック教授 為る程。ズッと前から知って居たと云う事でしょうか。何時聞いたのかを覚えて居ないと云う事は、覚えて居無い程前から知って居たと云う可能性もありますね。高校を卒業したのは何時ですか。
 ダイスケ 2008年です。







 慰安婦の「歴史」に付いて知って居る事

 グラック教授 ありがとうございます。それぞれの答えから、皆さんが慰安婦について学校やメディアなどさまざまな文脈の中で耳にしてきたということが分かりました。では、慰安婦について皆さんが知っていることとは何ですか。これは「事実」に関する質問です。
 クリス 慰安婦と云うのは朝鮮人女性に限った話では無く、中国人女性も居たと云う事。慰安婦問題が政治化された後に、議論したり報道したり被害者を支援する事に対して韓国政府が抑圧し、その事が韓国における共通の記憶の形成に直接的な影響を及ぼしたと云う事。又それが、何年も後に為って被害者達が証言する上でも影響したと云う事です。 
 グラック教授 分かりました。他にはどうでしょうか。今皆さんに投げ掛けて居るのは「歴史」に付いての質問です。

 スペンサー アジアの色々な場所に、日本軍の為の所謂「慰安所」と云うものが存在して居たと云う事です。強制性を伴う場合が多かったと・・・ 
 グラック教授 為る程。他に、事実に付いて知って居る人?
 トニー 私が知って居るのは、慰安婦だった人達自身は随分後に為るまで、それに付いて語る事が出来無かったと云う事です。
 クリス 長い時間が掛かったと云う事ですよね。
 ジヒョン 私が読んだ話では、1990年代初めの金泳三政権に為って初めて声を上げ始めたと。
 
 グラック教授 金泳三政権の少し前(1991年、盧泰愚政権の時代)でしたが、慰安婦を共通の記憶に盛り込もうとしたのは確かに1990年代初めでした。何故この時だったのかは後で話しましょう。他に知って居る事実に付いて話したい人は居ませんか。

 クリス タトゥーを「烙印」と見るのは、日本人男性が慰安婦の体にタトゥーを入れたからだと。私は何時もその様に聞かされて居ました。
 
グラック教授 誰が貴女にそう言ったのですか。
 クリス 母です。
 グラック教授 貴女は韓国人ですか。
 クリス そうです。
 グラック教授 貴女のお母さんが、タトゥーの話を教えたのですね。
 クリス ハイ。その他にも、コロンビア大学で韓国の女性とジェンダーに付いての講義を履修して居た時、1990年代末から2001年頃に作られたドキュメンタリー映画を見ました。それ以前にも、中学校の時に発声の先生が慰安婦に付いてのオペラの脚本を作って居ました。
 グラック教授 中学校は何処でしたか。
 クリス メリーランド州ボルティモアです。
 グラック教授 貴女のお母さんや発声の先生は、何処で慰安婦に付いての情報を得て居たのでしょう。
 クリス 母は梨花女子大学校に通って居て(韓国初の女子大として名を馳せる名門大学)発声の先生は韓国系アメリカ人でした。それなので・・・ 
 グラック教授 アア、その答えで分かります。
 一同 (笑)

 グラック教授 その考えは何処から来たのかに付いて、理解しようとする事が必要ですからね。アメリカの中学校や発声の先生は慰安婦に付いて教えませんが、梨花女子大学校に通って居たとか、韓国系アメリカ人、と云うので説明は成り立つでしょう。
 では今度はもっと個人的な質問をしてみましょう。貴女は、慰安婦に付いてどう思いますか。知って居る事では無く、慰安婦に付いての皆さんの見解を教えて下さい。







 韓国から見た「慰安婦問題」

 ヒロミ(仮名) 私の意見では、それは事実・・・実際に起きた事だと思います。そして、それに対して日本人は謝罪をしました。ですが、韓国政府はこの問題を政治の道具として利用して居る。韓国政府が何をしたいのかは分かりませんが、この問題を持ち出して、何かの交渉に使おうとして居ると思います。彼等はこの問題を政治の道具に使って居る・・・これが私の見方です。
 グラック教授 ヒロミの慰安婦に付いての見方は、この問題は政治的に利用されて居ると云う事ですね。

(ジヒョンが手を挙げる)

 グラック教授 ハイ、どうぞ。
 ジヒョン 一般的な見方と、私個人の意見と二つあります。韓国人が一般的に思う事として、韓国人が大前提として求めて居るのは誠意ある謝罪です。ですが、彼等が本音の部分で最も求めて居るのは一貫性です。 
 グラック教授 一貫性というのは、何についてですか。
 ジヒョン メッセージや態度です。
 グラック教授 誰のメッセージや態度ですか。
 クリス 日本人・・・
 ジヒョン 韓国人が日本人の謝罪を謝罪として受け入れ無い決定的な理由は、謝罪があった直後に、日本政府の誰かが違う事を言うからなんです

 グラック教授 詰まり、日本人の態度に一貫性が無いと言いたいのですね。

 (ジヒョンがヒロミとコウヘイの方に向き直って話し続ける)

 ジヒョン 一貫性がないことが、韓国人をとても混乱させているのです。
 ヒロミ 政府の役人も一貫性が無い事を言って居るのでしょうか。
 ジヒョン 首相が言うこともあります。河野談話についても一貫性がありません。日本が慰安婦に補償したと言うのであれば、慰安婦問題が歴史的事実であると認める必要があります。ですが、多くの政治家がそれとは反対のことを言っています。

 グラック教授 ヒロミとジヒョン、二つの立場がありますが、両方とも国際政治に絡んだ問題ですね。ジヒョン、もう一つの意見は何ですか。

 ジヒョン これは私個人の意見で、一般的な見方ではないのですが・・・もちろん、日本も韓国もこの問題を政治的手段として利用して居る処があります。でも、それは或る意味当たり前だと思います。政治家と云うのは常にそうするものなのですから。 一方で、この問題が何故一向に解決しないのかを考えた時、これは別の次元でも扱わ無ければ為ら無い事だと思いました。詰まり、慰安婦と云うのは、女性に対する残虐行為に付いての話であると。歴史認識や外交問題と云うより、ジェンダーの議論であると思う様に為りました。
 似た様な残虐行為は、韓国人男性からベトナム人女性に対しても行われましたし、日本政府も日本国民に対して残虐行為を行いましたよね。慰安婦の問題は、ジェンダーや人権と云う、より大きなスケールで考えるべきだと思います。


 グラック教授 国際関係上、政治家達がこの問題を道具として利用して居ると云う側面と、女性に対する残虐行為と云う側面があると云う事ですね。これはとても重要な点で、そう考えて居るのは貴方だけでは無いですよ。他に、慰安婦に付いての見解はありますか。
 ダイスケ 事実として、それは過去に起きた事だと私も思います。そう云う認識の上で、これ迄に様々な議論に触れて来ました。例えば、韓国人もベトナム人に対して同じ事をした、だから・・・と云う議論。後は、慰安所の様なところに連れて行かれたのは実際には何人だったのか、と云う数の議論があります。
 グラック教授 慰安婦の議論に付いて、重要なポイントを指摘して呉れました。南京事件でも似た様な議論が聞かれます。両方のケースで、誰が誰に何をしたのか、それは何故なのか、そして数の議論が出て来ます。ですが重要なのは、ダイスケが言って呉れた様に、こうした議論コソが共通の記憶を作るのだと云うことです。







 多数の国の軍隊が売春宿を持って居た

 グラック教授 では慰安婦がどの様にして共通の記憶に為ったのか、と云うプロセスの話に戻りたいと思います。又質問してみましょう。1945年、若しくは終戦直後に、人々が慰安婦に付いて知って居たのはどんな事だったでしょうか。想像して見てください。そこで云う「人々」と云うのは誰を指すのかに付いても教えてください。
 ニック 慰安婦の様な事は日本軍だけでは無くほ彼国の軍隊でもありましたし、東ヨーロッパでも酷い事が起きて居ました。日本と中国と韓国の人々は、こうした事が起きて居たと知っては居ても、戦後復興や冷戦、朝鮮戦争の過程等でその記憶を脇に追い遣って居たのではないでしょうか。
 グラック教授 脇に追い遣ると云う場合には、先ずそれを問題視して居る事に為りますが、当時は敢えて無視して居たと云うよりは公然の事実だったのでしょう。 慰安所に付いて確実に知って居た人と云うのは誰でしょうか。
 ニック 軍人達です。
 グラック教授 勿論そうですね。慰安所と云うのは、敢えて一般的に呼ぶ為らば、軍の売春宿の事です。当時、慰安所は軍に採っては珍しいものでは無く、夫々の国の軍隊が売春宿を持って居ました。軍人達は慰安所の存在を勿論知って居ましたし、それは戦争の一つの側面でした。では、軍人の他にその存在を知って居たのは誰ですか。

 マオ 歴史的には皮肉な事かも知れませんが、戦後、米軍が日本を占領して居た時にも同じ様な施設があったと思います。もっと聞こえが好い名前に変えて・・・ 
 グラック教授 「余暇・娯楽協会」ですね(Recreation and Amusement Association。日本占領期、連合国軍による一般女性に対する性犯罪を防ぐ為に日本政府が設置した特殊慰安施設協会。「余暇・娯楽協会」の売春宿は設置から7ヵ月後にGHQによって廃止された)
 日本占領期の売春に付いても語れる事は多くありますが、此処で重要なのは、軍の為の売春宿は見慣れ無い存在では無かったと云う点です。 戦後、慰安婦に付いて知って居たのは、先ずは慰安所を利用した事がある人間と、元慰安婦達自身でした。しかしながら、彼等や彼女達はその事に付いて余り語ら無いですね。何故語らないのでしょうか。
 ニック 汚名を着せられるからでしょうか。

 グラック教授 元慰安婦に採っては、汚名とトラウマが理由でしょうね。元慰安婦は家族の元に帰ったとしても、自分の身に起きた事に付いて語ら無い場合が多いです。では何故、慰安婦の話は戦争の物語に組み込まれて居なかったのか。
 戦争の物語では被害者の存在が重要視されるものです。原爆の被害者や国内で戦争を経験した人々の話は出て来るのに、何故慰安婦は登場し無かったのでしょうか。







 戦後長らく、慰安婦問題が語られ無かった理由

 ディラン 前回の講義で話された様に、アメリカと日本の戦争の物語は基本的にはパールハーバーから始まって原爆で終わります。その様な主要な物語があると、中国や韓国と云った東アジア側の物語は丸事語られ無く為ってしまうのかも知れません。
 グラック教授 それも一つの理由ですね。慰安婦はアジアの話として抜け落ちてしまった、と。他に、慰安婦が物語に登場し無かった理由は?
 クリス 女性だったからでしょうか。
 グラック教授 そうですね。先程ニックが言って呉れた様に、戦時中の女性に対する暴力は他の国にもありましたが、戦争の物語には組み込まれ難いものなのです。終戦時のドイツでソ連軍が大勢の女性を強姦したと云う話は、ドイツの戦争の物語には長い間含まれませんでした。
 何故戦争の物語に入ら無かったのか、理由の一つは、慰安所の存在が当たり前だった点。二つ目は、性的被害に遭った女性と云うのは、どの物語にも登場し辛いと云う点です。 では、戦後に行われた戦犯法廷で慰安婦の問題がどの様に扱われたか知って居る人は居ますか?
 ニック 少数ですが、オランダ人女性の慰安婦問題が戦犯法廷で取り扱われました。一方で日本人や中国人や韓国人の慰安婦に付いては問題にされませんでした。

 グラック教授 その通りです。東京裁判で連合軍の調査官は「慰安ガール」に付いて触れて居ましたが、訴追しませんでした。一方で、日本占領中のオランダ領東インド(現在のインドネシア)で一部の日本軍人が民間人抑留所のオランダ人女性を慰安婦にした件は、戦後のインドネシアで行われたオランダによるBC級戦犯裁判で裁かれたのです。
 何故オランダ人慰安婦に対する罪では日本人を裁いたのに、中国人や日本人、韓国人やフィリピン人等の慰安婦に付いては訴追し無かったのでしょう。明らかな答えがありますね。
 クリス 人種でしょうか。
 グラック教授 そうです。オランダ人女性の中には白人も居たからです。又、日本では「慰安婦が存在した」と云うのは終戦直後の時点では秘密でもナンでも無く、一般的に知られて居る事実でした。1947年には田村泰次郎による慰安婦に付いての短編『春婦伝』が出版されて居ましたし、慰安所と云う言葉は知られて居て、1960年代には日本の国会で戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952年制定)に関連して元日本人慰安婦に付いて触れられても居ました。
 では、皆が知って居た慰安婦と云う存在が、どの様にして戦争の物語の中に入って来たのか。慰安婦とは、どの様な人達だったでしょうか。皆さんが持って居るイメージを教えてください。

 ダイスケ 若い女性でしょうか。 
 グラック教授 とても若い女性達でした。13歳や14歳も居ました。他には?
 数人 貧しい。 
 トム 田舎に住んで居る?
 グラック教授 そうですね。若い女性で、貧しい人が多く、田舎出身の人も居ました。では、1990年代にはこうした慰安婦達はどう為って居ましたか。
 ジヒョン とても年を取って居ました。
 グラック教授 とても年を取り、貧しい人も居て、アジア諸国に散らばって居ました。そんな彼女達が「運動」を起こせるでしょうか。元慰安婦がどの様な人達かを想像すると、無力で、他の元慰安婦と直接的な関わり合いが無い場合が多いです。
 ではそんな彼女達が、何故現在の私達の記憶の中に入って来たのか。前回の話の「記憶の作用」に付いて思い出して見てください。四つ在った「記憶の領域」即ちオフィシャルな領域、民間・大衆文化の領域、個人の記憶、メタ・メモリー、この中で慰安婦が記憶として姿を現した領域とは何処だと思いますか。







 誰が記憶に変化を起こしたか

 クリス ソウルにある日本大使館でしょうか。 
 グラック教授 それは後に為ってからですね。
 ジヒョン 元慰安婦達の証言を取り始めた学者が居ました。
 グラック教授 韓国人の学者ですね。名前は覚えて居ますか?
 ジヒョン 名前は覚えて居ません。
 グラック教授 1980年代後半ですね。例えば梨花女子大学校の尹貞玉がセックスツーリズムの問題に関連して、慰安婦に付いての研究を発表しました。
 スペンサー 日本の学者もその研究をして居たと思います。ヨシミが重大な役割を果たした事は知って居ます。
 グラック教授 歴史学者である吉見義明が慰安所への軍関与を示す資料を発見しましたが、彼は何故その資料を探しに行ったのでしょうか。
 サトシ 河野談話が切っ掛けだったかも知れません。

 グラック教授 面白い視点ですが、少し違います。1991年に韓国の元慰安婦3人が日本政府に補償を求めて提訴した事を受けて、1992年に吉見が資料を発見し、翌1993年に自民党の河野洋平(内閣官房長官)が旧日本軍の直接的・間接的関与を認めた上で謝罪と反省を表明したと云う流れです。
 所謂「河野談話」はそれ以来、大きな論争を呼んで来ましたが、何故彼はこうした談話を発表したのでしょうか。 自民党が慰安婦問題に付いてどうしても謝罪したかった、と云う事では無いでしょう。何があったのですか。前回の内容から、記憶に変化を起こすのは誰だったでしょうか。

 「河野談話」とは1993年村山富市政権時代に当時官房長官を務めた河野洋平氏の名で発表された「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」の事。河野氏が北京にて中国の李克強国務院総理と会談した。

 クリス 政治家ですか? 
 グラック教授 慰安婦の場合は、違います。韓国政府は初め、慰安婦問題を無視しようとした、と云う話が先ほど出て居ましたね。慰安婦が人々の共通の記憶に入って来る前の1990年代初めにさかのぼってみましょう。慰安婦を「問題化」しようとして居たのは、日本政府や韓国政府だったでしょうか。
 コウヘイ メディアでしょうか。新聞とか? 
 グラック教授 メディアは、起きた事を積極的に報じては居ました。では、報じられる様な行動に出て居たのは誰だったでしょうか。
 スコット 利益団体ですか?  
 グラック教授 そうです。そう云ったグループを何と呼んで居ましたか?
 数人 「記憶の活動家」
 
 グラック教授 その通り。民間の領域に属する、好い意味での記憶の活動家ですね。特に1991年に元慰安婦3人が訴訟を起こした後に運動が活発化して、慰安婦が「問題」化したのです。慰安婦問題を顕在化させ様としたのはどの様な人達でしたか。
 ダイスケ 人権活動家ですか。
 グラック教授 人権活動家もそうですね。他には?
 トム フェミニスト? 
 グラック教授 ハイ。第二波フェミニズムでは無く、その後である1990年代のフェミニズムです。1995年に北京で国連主催の第4回世界女性会議が開かれ、有名なスピーチで「人権とは女性の権利であり、女性の権利とは人権なのです」と語られた様に、この頃には人権としての女性の権利が様々な枠組みで大きく取り上げられる様に為って居ました。
 戦後50周年の1995年には慰安婦が政治問題化して居り、北京では女性の権利と結び付けられる事に為りました。では、人権活動家やフェミニストとはどの様な立場の人達でしたか。

 ヒロミ 人権を侵害された人達の家族でしょうか。 
 グラック教授 そうではありません。実は、NGO(非政府組織)だったのです。グローバル化が進展した1990年代には国際的な市民ネットワークが広がり、所謂「グローバル市民社会」が拡大し続けて居ました。1990年代の韓国で、元慰安婦を支援しようとした記憶の活動家とはどの様な人達だったか分かりますか。韓国の人達が、日本に付いて考えた時に思い浮かべた事は何でしょう。
 クリス 植民地支配でしょうか。

 1995年世界女性会議の際、NGO主催で他の集会も開かれて居た 

 グラック教授 そうですね。韓国に採っては、日本に植民地にされて居たと云う背景が重要です。韓国の或る元慰安婦の支援団体の名前は「韓国挺身隊問題対策協議会」と言います。挺身隊と云う言葉は「日本統治下で強制労働させられた」と云う意味合いが強いです。詰まり、韓国では植民地支配と云う視点からも慰安婦問題の活動が行われて居ました。
 日本では、1998年に「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」と云う団体を設立した松井やよりと云う女性が慰安婦問題に取り組んで居ましたが、彼女達の活動は、植民地支配と云うより女性に対する暴力と云うフェミニズムの視点に基づいて居ると言えそうです。では、1990年代から北米で慰安婦を支援して居る、とても影響力のある記憶の活動家は誰でしょう。
 ニック 韓国系アメリカ人や中国系アメリカ人ですか。
 グラック教授 その通りです。韓国系アメリカ人、韓国系カナダ人、中国系アメリカ人と中国系カナダ人です。では、彼女達の活動が行われて居る背景にあるものは何でしょうか。

 コウヘイ 人種問題でしょうか。声を上げる事でアメリカでの自分達の立場を強めたい、と云う事なのかと。
 グラック教授 彼女達がアメリカで声を上げ始めた背景には、1990年代にアイデンティティー・ポリティクスが盛んに為ったと云う事情がありました。アジア系アメリカ人達は元慰安婦の為に活動して居るとは言え、一方で慰安婦問題が自分達のアイデンティティー・ポリティクスの一部に為って居ると言えます。
 カリフォルニア州選出の下院議員マイク・ホンダが、2007年「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」を下院に提出したのは何故なのでしょう。ホンダは日系アメリカ人なのに、何故日本を非難する決議を求めたのか、考えてみてください。
 スペンサー アジア系アメリカ人の票が欲しかったからですか。 
 グラック教授 そうです。彼の選挙区には韓国系アメリカ人や中国系アメリカ人が沢山居たからです。詰まり国によって、慰安婦問題を取り上げる背景と云うのは違うものなのです。背景は違えど、コウヘイが指摘して呉れた様にこの問題をメディアが報じると、「公の」問題として注目される様に為ります。







 証言者達が果たした役割

 グラック教授 重要なポイントに近づいて来ました。これ迄は、記憶の活動家に付いて話して来ましたね。では、元慰安婦自身は記憶を作る上でどの様な役割を果たしたのでしょうか。
 1991年に3人の元慰安婦が名乗りを上げ、日本政府を相手に訴訟を起こした事で、元慰安婦達の長い沈黙が破られました。それから、一人、又一人と自分達の話を語り始めました。終戦直後はトラウマ或は不名誉と云う思いがあって、語ろうとする人は少無かったでしょうが、何故1990年代には話せる様に為ったのですか。
 ディラン 女性に対する暴力に付いて、社会の態度が変わったからですか。
 グラック教授 それは一つの要因ですね。では、元慰安婦達が夫々一人で声を上げて居ただけだったら、その声は社会に響いたでしょうか。
 数人 ノー。

 グラック教授 何故彼女達の声が注目を集める事が出来たのか。記憶の活動家も、重要な役割を果たしたのです。前回の講義で個人の記憶の話をしましたが、個人の過去に付いて話せ無い理由としては、トラウマがあると云う心理的な要因も、誰もその声に耳を傾けたがら無いと云う社会的要因もあります。ですが、今は社会が聞く耳を持つ様に為った。それがあってヤッと、元慰安婦達が口を開く事が出来る様に為りました。他に、彼女達が話せる様に為った理由は何でしょうか。
 ダイスケ これが理由であって欲しくは無いですが、補償して欲しかったと云う事はありますか。
 グラック教授 元慰安婦達が証言した主な目的は、補償を求める事よりも自分達が苦しんだ過去を公然と認められる様にする点にありました。補償と云うのは、訴訟の際に出て来る考えですね。

 ニック 終戦から1990年代迄長い時間が経過して被害者の家族達が亡く為った事で、家族に押される烙印を心配する必要が無く為ったからでは無いですか。
 グラック教授 そうですね。理由の一つは、証言をした時に元慰安婦達が年を召して居た事。退役軍人を含め、年を重ねて人生の或る時点に来ると、十分な時間が経ったとか最後のチャンスであると云う理由で、話したく為る事もあります。証言した元慰安婦達のうち何人かは、夫が亡く為ってから話そうと思って居た、と明かしました。20歳の時には話せ無かった事を話せる程に高齢に為って居たのです。
 では彼女達が何を求めて居たかと言えば、公に知って貰いたい、自分達の話を伝えて欲しいと云う事です。日本政府による認知、謝罪、補償、そして次の世代への教育です。この四つは、ホロコースト犠牲者の家族や強制労働者等、第二次大戦の被害者が求めて居るものと同じです。
 歴史と云うのは、通常は史料に基づいて書かれるものです。それが、この頃にはオーラルヒストリー(口述歴史)や証言が「認められる」様に為り「証言の時代」とも呼ばれました。では何故、慰安婦の証言は認められる様に為ったのですか。

 トム 以前から慰安婦の存在は皆知って居たのに、慰安婦自身は声を上げて居なかった処、声を上げ始めたからでしょうか。
 スコット 日本政府が史料を廃棄して居たからでしょうか。

 グラック教授 終戦時、確かに日本政府は史料を廃棄しましたが、史料を廃棄するのは日本だけではありませんよ(笑)。それが理由ではありません。慰安婦に付いて、ソモソモどれ程史料があったと思いますか。
 一同 全く(無かった)!
 グラック教授 その通り。特に性的暴力と云うのは、一般的には「記録化」されて居ない性質のものです。強姦の記録が、史料として残って居るでしょうか。そんな中で、慰安婦の様な被害者の声によって何が起きたのかが明るみに出る事があります。







 日本と韓国 政府の対応の変化

 グラック教授 サテ、ここ迄民間の領域と個人の記憶の中で、慰安婦の記憶がどの様に変化して来多寡に付いて話して来ました。ではこの間、オフィシャルの領域では何が起きて居たでしょう。政府は何をして居たでしょうか。
 ディラン 韓国政府は、この問題に便乗して居るだけの様な気がします。韓国政府の場合は、慰安婦問題が既に公に為った時点で、自分達の目的の為に利用出来ると考えたのではないでしょうか。一方で日本政府の場合は、この問題に便乗せず、軽視しようとして居る様に思います。
 グラック教授 興味深い事に、韓国政府は金大中大統領が、1990年代末に慰安婦に補償すると言う迄は余り「便乗」しませんでした。韓国人元慰安婦が「韓国政府は私達の為に何もして呉れて居ない!」と言って居た時期もありました。
 日本の1990年代はと云うと、1993年には河野談話が発表され、1995年には村山談話が出て補償等を目的とした財団法人「女性の為のアジア平和国民基金」が設立されたりと、オフィシャルの領域でこの問題に対応する動きがありました。1997年からは日本の中学校で使われる歴史教科書に、慰安婦に付いて記述される事に為りましたが、現在は殆ど削除されて居ます。ではもっと最近は、日本政府はどう云う立場を取って居るでしょうか。

 ニック 日本政府は、公式にはこの問題は解決済みと言って居ますが、非公式には保守政権が強制性を認めて居ない様です。 
 グラック教授 河野談話は強制性を認めて居ましたが、現在の安倍晋三政権は強制性を疑問視して居ます。一方で韓国政府は2011年から、慰安婦問題に大きく便乗して来ました。日本の場合も韓国の場合も、その背景にあるのは国内政治です。戦後60周年の2005年には、殆どの政治家が慰安婦に付いては発言して居なかったのに、戦後70周年の2015年には慰安婦問題が支配的な論点に為って居ました。その理由を掘り下げて行かなければ為りませんね。
 少し話を戻しましょう。オフィシャルな領域と云うのは自発的に動いて居るというよりは何かに「反応」して居るものなのですが、何に反応して居るのかが重要です。日本政府が強制性を否定する時、それはどの様な反応を生むと思いますか。

 クリス 植民地化の記憶と結び付けて考えられると思います。強制性の否定と植民地化の否定・・・この二つは深い処で結び付いて居て、慰安婦問題は単にジェンダーや国際政治の問題では無く為って居るのだと思います。それ位、日本による植民地化は、韓国政府と韓国のアイデンティティー、又韓国の歴史に大きな影響を与えたのだと・・・
 グラック教授 それは、韓国側の見方ですね。植民地化の文脈で考えると云うのは、本当にその通りだと思います。では、日本側はどうでしょう。2015年12月に韓国と日本の外相同士が交わした慰安婦問題日韓合意は「最終的で不可逆的」と言われて居ました。日本政府は補償等を約束しながら、韓国政府に何を期待して居たか覚えて居る人は居ますか。
 ジヒョン 慰安婦像を撤去する事。
 グラック教授 ハイ、韓国政府がソウルの日本大使館前にある慰安婦像の問題を「解決しようとする事」です。実際には、日韓間で慰安婦問題は今でも解決して居ないですね。日本大使館前での日本に対する抗議運動は1992年から毎週水曜日に行われ、2011年に1000回目を迎えた時に慰安婦像が建ちました。では、日本政府が慰安婦の強制性を否定したり、慰安婦像の撤去を求めると、何が起きると思いますか。
 数人 もっと建てる!
 グラック教授 他の場所に慰安婦像が建ちますね。日本政府が抗議する度に、雨上がりのキノコの様に世界の様々な所に慰安婦像が生えて来る様です。抗議すればする程、相手方に燃料を与える事に為るのです。ヨーロッパでのホロコーストの否定の場合でも同じ様な事が起きました。
 ホロコーストを否定すればする程、逆にそれは記憶に刻まれるのです。戦争の記憶と云うのは作られ続けるので、政治的なプロセスの中でこの様な相互作用が起きてしまいます。







 記憶を動かす「政治的文脈」

 グラック教授 では、今度は別の領域に付いての質問です。殆どの人々は、慰安婦に付いてどの様にして知ったと思いますか。
 数人 メディアを通して。  
 グラック教授 ハイ、メディアを通して知る訳です。これが、私が「メタ・メモリー」と呼ぶ記憶の領域です。前回の講義でお話しした様に「公での論争を通じて知る記憶」の事です。大半の人々は慰安婦問題の様な記憶に付いての議論をメディアを通して知ります。河野談話や慰安婦像に付いての議論をメディアを通して学んで居るのです。
 このメタ・メモリーと云う領域は、或記憶を拡散させるのに大きな影響力を持って居ます。日本政府は過去に向き合わ無ければいけない、とする議会決議がアメリカ、オランダ、EU議会、イギリス等で出て居るのは、この記憶がこれ程広範囲に広がった証拠でしょう。慰安婦問題に付いて、直接的には何の関係も無い所にまで、広がって行く訳です。
 今回の講義も終わりに近づいて来ましたが、今度は記憶の変化が何処からヤッテ来るのかを考えてみましょう。こちらも前回お話ししましたが、記憶の変化とは「下から」と「外から」の、二つの方向からヤッテ来るもので、慰安婦の場合、日本の記憶の変化は外から影響を受けました。戦後70周年を迎えた2015年、日本政府と韓国政府にどの様な圧力が掛かりましたか。

 ヒロミ アメリカ等の諸国が共同する様働き掛けました。
 グラック教授 そうです、アメリカは特に日本と韓国と云う二つの同盟国が争うよりも協力した方が好いと考えて居ました。その為、オバマ大統領(当時)は前年の2014年に韓国ソウルを訪れ、慰安婦に付いて話したのです。ドイツのメルケル首相も2015年に発言しました。
 クリス (小声で)ワーオ・・・
 グラック教授 こうした国際政治上の外国政府による圧力に加えて、外からはグローバル市民社会による圧力もありました。一方で、下からの変化は日本国内の民間団体等から起きました。この結果、日本にどの様な変化が起きたのかと云うと、それ迄慰安婦に付いて知ら無かった人々がこの問題に付いて知り、慰安婦が日本の共通の記憶に取り込まれて行く事に為ったのです。そして世界の記憶にも広がって行きました。 サテ、最後は政治の話です。記憶の変化が起きたのは、何故1990年代だったのでしょうか。
 ニック 冷戦が終わったからですか。 
 グラック教授 冷戦の終わりは、東アジアに執って何を意味しましたか。

 マオ ソ連と云う共通の敵が居無く為りました。
 グラック教授 冷戦が終わって、米ソと云う国際政治の二極化が終焉すると、東アジアに何が起きましたか。
 数人 中国が台頭し始めました。
 グラック教授 その通りです。冷戦と云うのは東ヨーロッパでも大きな意味を持って居て、冷戦が終わってソ連時代の戦争の物語が崩れ、東ヨーロッパで第二次大戦の記憶に付いて政治論争が噴き出しました。それと似た様に、東アジアでも冷戦の終焉と共にアジアの記憶に火が付き、それ迄の日米の「太平洋戦争」の物語が「アジア太平洋戦争」に変わり始めました。アジアの戦争が問題化されると、慰安婦問題も取り上げられる事に為ったのです。
 国際政治の変化だけで無く、国内政治の変化も慰安婦問題に影響を与えました。例えば、慰安婦の支援者達がこの問題を公に取り扱う様に為った背景には、1980年代の韓国の民主化がありました。詰まり、記憶が変わった要因には、国内政治と国際政治の両方の側面があったのです。
 又、慰安婦の記憶に影響を与えた国際的な要因として、1990年代にユーゴスラビア紛争があり、ボスニアでの組織的な「レイプキャンプ」が世界的な問題に為った事があります。当時は国連で女性の権利や人権が大きなテーマと為って居て、1998年に国際刑事裁判所(ICC)のローマ規程が戦時中の強姦を「人道に対する罪」と規定しました。強姦と云うのは歴史上、どの戦争にも付き物でしたが、それが初めて現代の国際法上で「犯罪」として認定されたのです。
 ここに至る迄の法的議論を見て行くと、慰安婦の話が必ず出て来ます。年を取って居て多くは貧しくて無力でお互いの事を知ら無いアジア諸国に散らばった元慰安婦達が、自分達の物語を通して、性的暴力が国際法上の犯罪に為ると云う事に、この様に貢献したとも言える訳です。
 とは言え、慰安婦に付いての議論と云うのは「当時、それをすべきでは無かった」と云う過去の事でもあり「将来においてそれをしない」と云う未来に向けた話でもあります。 では現在、日本政府も韓国政府も慰安婦を政治問題として扱って居る中、こうした「記憶の政治」に付いての解決策はあるのでしょうか。
 あるとすればどんな方法でしょうか。現在の東アジアでは、様々な国が戦争に付いて「共通の記憶」を有して居ませんが、それでも出来る限りの共有を目指す・・・詰まり相互理解の為には、どうすれば好いのか。次回、これに付いて一緒に考えて行きましょう。







 第3回の講義を終えて

 3回目の講義を終えたグラック教授に、この特別講義を提案し、実施したニューズウィークの小暮聡子記者が聞いた。

 ・・・慰安婦の回を終えて、参加した学生達の反応をどう振り返りますか。「記憶の作用」と云うグラック説に基づいて考えた時、学生達の答えは想定の範囲内でしたか。

 グラック教授 先ず、学生達が慰安婦に付いてこれ程多くを知って居ると云う事に驚いた。大学の東アジア史の授業で習ったと云う人が何人も居たが、20年前では恐らく有り得無かっただろう。新聞や雑誌を通じて慰安婦の話に触れたと云う人達も居て、共通の記憶を形成する上でメディアが重要な役割を果たして居る点も明確に為った。
 勿論、この講義に参加して居る学生達は一般的なアメリカ人に比べて日本や東アジアの歴史に付いてより多くの事を知って居る。アメリカでは、慰安婦は1990年代にアジア系アメリカ人やフェミニスト、人権活動家達の間で知られる様に為ったが、それよりもっと幅広く一般的に広がったのはここ数年の事だろう。特に、サンフランシスコやアトランタ郊外等に慰安婦像が建ち、それをめぐる論争を通じて知られて行った、とも言えるだろう。

 ・・・慰安婦に付いての見方は勿論国籍に依らず一人一人違うでしょうが、敢えて国毎に考えた時、韓国人と日本人とアメリカ人の学生達に夫々特徴的な態度は見られたのでしょうか。

 グラック教授 戦争の記憶はどれも「国民的な」ものであり、自国の経験に特化して語られるものだ。時間が経つ中では、戦時中の敵国や同盟国等他国の見方を内包して行くと云う様に変化する事も有り得る。しかしその様な時でサヱ、戦争と国家のアイデンティティーは切り離せるものでは無く寧ろ物語の中心に据えられる傾向にあり、その物語は戦争体験者だけで無く戦後世代にも引き継がれて行く。
 講義に参加した中国人、韓国人、日本人、韓国系アメリカ人、アメリカ人の学生は夫々の出自に結び付いた見方を語って居た。それは、彼等がその見方を中国、韓国、日本、若しくはアメリカで習ったからかも知れないし、自分達の親から受け継いだものかも知れない。
 韓国系アメリカ人の学生は慰安婦の記憶を日本の植民地時代と結び付けて語っていたが、アメリカで育ちながらも韓国の国民の記憶をナゾッテ居たと言えるだろう。 東アジアの諸国で和解を目指そうと云う場合には、国民の記憶と云うのは後の世代に迄受け継がれて行く力があると云う事実を考慮に入れる必要がある。

 ・・・アメリカにも慰安婦像が建った今、この国も慰安婦論争の現場に為って居る様に見えますが、慰安婦と云うのは既にアメリカ人の間で共通の記憶に為って居るのでしょうか。もしそうだとしたら、その物語はどんな筋書きですか。

 グラック教授 共通の記憶と云うのは、初めから確立された何かがあるのでは無く、時間と共に作られ、変化し得る「プロセス」の事を言う。共通の記憶の形成には、公での論争が影響する場合が多いだろう。例えば、ホロコーストや南京事件を否定する行為は、その度に人々の意識に残虐行為のイメージを刷り込むと云う逆の効果を生んで来た。
 アメリカでの慰安婦像を巡る論争は、似た様な現象を招いて居る。日本政府が慰安婦像に抗議すればする程、慰安婦像が建った地域のアメリカ人が慰安婦に付いて知る処と為り、地域のニュースが全米的に報じられれば報じられる程、慰安婦を支援する活動家だけで無く一般のアメリカ人もこの問題を認識する様に為る。
 「慰安婦」は、アメリカだけで無く、今や国境を超えて過去における戦争の記憶の一部と為り、将来に向けては人権や女性の権利擁護と云う視点からも語られる様に為った。最早慰安婦像があろうが無かろうが、グローバルな戦争の記憶から消える事は無いだろう。


                  以上




 お疲れさまでした・・・管理人






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22歳モデルが東大の講義で学んだ 真珠湾攻撃そして太平洋戦争  




 




 22歳モデルが東大の講義で学んだ 真珠湾攻撃そして太平洋戦争


              〜現代ビジネス 12/8(日) 6:01配信〜


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                   藤井サチさん

 〜ファッション誌『ViVi』の専属モデルとして、又最近ではテレビ『王様のブランチ』レポーター等活躍の幅を広げる藤井サチさん。読書家でも知られる藤井さんが、読書して心に残った本の筆者に、これから社会人として生きて行く上で知るべき事、学ぶべき事をインタビューする連載企画「22歳からのハローワーク」 
 第0回として、連載の切っ掛けを語って呉れた『22歳のモデルが「私達は自分で考える力が無い」と痛感した理由』に続き、第1回と為る今回は、日本近代史の権威で、米コロンビア大教授のキャロル・グラックさんとその著書『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義 学生との対話』を取り上げます〜



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        米コロンビア大教授のキャロル・グラックさん

 
 アメリカ・中国・韓国・・・コロンビア大学生達が考える「パールハーバー」とは何か


 11月8日に東京大学で開かれたキャロル・グラックさんによる特別講座。学年、国籍も異なる学生達との対話形式で行われた。


 




 歴史を学ぶ意味って何だろう

 皆さんは、自分が教わって来た歴史を疑った事はありますか?戦争に関する学習だけでも、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争・・・等、様々な歴史を学んで来たと思います。しかし、そんな歴史の学習が、もし「偏った学び」に結果として為ってしまっていたら? もし事実とは異なって居た事を教わって居たとしたら?そんな事を考えた事はあるでしょうか。
 今回、キャロル・グラック先生の著書『戦争の記憶』を読んだ上で、東京大学で行われた先生の対話形式の特別講義を受けさせて頂きました。そこで自分為りに考えた「歴史を学ぶ意味」に付いて、戦争をキーワードに書いて行きたいと思います。

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 日米で全く異なる「原爆」の記憶

 『戦争の記憶』では「パールハーバー」「慰安婦問題」「原爆」と云ったキーワードを題材に、学生とグラック先生の対話で生まれた言葉がそのママ綴られて居ます。読んで居て一番ビックリしたのは、マルで自分も対話に参加して居るのでは無いかと感じてしまう程のリアルさがあった事です。
 一見、重そうなテーマだけど、文章の半分以上は先生による問い掛けです。その先生の問い掛けに自然と自分も考えながら読み進めて行くので、自分の中に或る気付きや考えを育てて呉れました。

 3つのテーマを様々な視点から掘り下げて行くのですが、中でも印象的だったのは、夫々のテーマに対するイメージや勉強した事が、グラック先生の講義を受ける生徒毎に異為って居た事です。
 具体例を挙げると、日本とアメリカで語られる原爆に付いての一般的な記憶が異なる事がありました。アメリカでは「原爆は戦争を終わらせ、アメリカ人の命を救った」と話されるのに対し、日本では「原爆は戦後の日本への平和への使命へと繋がった」と話される事が多いのです。

 様々なバックグラウンドを持って居た生徒達が集まり、戦争に付いて語り合う事で、認識の多様さが浮き彫りに為って行く。その様子を見て居ると、他国の歴史を学ぶ事が如何に大切か、私自身、酷く痛感させられました。
 正直に言うと、私は学生の時に受けた歴史の授業を余り覚えて居ません。しかし日本史を学んで居る時、繰り広げられる人間ドラマや戦い方の進歩、統治の仕組みの変化等から「こうヤッテ現代が作られたんだ!」と歴史と今が繋がった時に「歴史を学ぶって楽しい!」と感じた事があるのは覚えて居ます。けれど恥ずかしい事に、何年に何が起こったか等内容は殆ど忘れてしまいました。結局テストで好い点を取る為だけに勉強してしまって居たと思います。

 そんな私も大人に為り、テレビやネット上で慰安婦や靖国神社の国家間での政治的・感情的な問題を目にする事が多く為り「アメリカとも色々あるけれど、中国と韓国よりは好い関係を形成出来て居るのは何故だろう?」と云う疑問を抱く様に為りました。

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 祖父母が語って呉れた戦争体験

 私の戦争に対するイメージは、私の祖父から聞いた体験談の影響が非常に強いです。現在93歳である祖父は大正15年(昭和元年)生まれ。マサに戦争の時代を生き抜いて来ました。そんな祖父は今でも戦争の話をすると目をパキッと開かせ、生き生きと私に当時の事を話して呉れます。
 祖父は学生の頃から英語が大好きであった為、夜間の英語学校へと通い英語の勉強をして居ました。そして昭和16年に戦争が始まると、英語が話せると云う事で大阪にある造船所へ送られ、通訳の仕事をしながら捕虜と為ったアメリカ兵と共に船を作りました。

 過酷な労働環境の中、祖父はアメリカ兵捕虜と絆を深めて居ました。「おはよう」と話す代わりにウィンクを交わしたり、コッソリ食糧を分け合ったり、日本兵の見張りが居無い時には「戦争したく無いよね」と話したり・・・
 祖父はこの時を振り返って「何でコンなに良い人達と殺し合わ無きゃいけ何だろう?」と、毎日の様に思って居たと言います。

 昭和20年、祖父は志願し兵隊に為ります。20歳の時です。今の私の年齢とそんなに変わら無いと思うと信じられません。「怖く無かったの?」と尋ねると祖父は「当時は兵隊に行か無い事が恥で、国の為に死ぬのが当たり前だったからね」と語ります。







 「パールハーバー」と聞いて何を思い浮かべる?
 
 今回、グラック先生の講義を受け、先生の『戦争の記憶』を読んで、先程の疑問の答えが分かった瞬間がありました。特別講義が始まって先生の第一声は「パールハーバーと聞いて思い浮かべる事はナんですか?」と云う問い掛けでした。

 日本語で言えば「真珠湾」の事ですが、皆さんは何を思い浮かべますか? 私は「太平洋戦争」がパッと浮かびました。私の中では日本が真珠湾を攻撃して、アメリカとの戦争が始まり、原爆が落とされ終結したと云うストーリーで認識して居ます。
 しかし、今回参加させて頂いたグラック先生の講義では、驚く程様々な回答が学生から出て来ました。映画・アメリカの英雄主義・陰謀活動の失態、そして日本の外交上の失態・・・祖父母から聞いた事を思い出す様に話す学生・眉間にシワを寄せながら言いズラそうに話す学生・興奮気味に目を輝かせながら話す学生と、話す姿は皆夫々違って居ました。

 様々なバックグラウンドを持った学生達は「パールハーバー」のイメージが夫々異なるだけでは無く「太平洋戦争」の名前も、そして戦争が始まった時期迄も、捉え方が違ったのです。「戦争の捉え方、歴史の捉え方は夫々の国によって異なるんだ」と気付かされた瞬間でした。
「アメリカとも色々あるけれど、中国と韓国よりは好い関係を形成出来て居るのは何故だろう?」と云う疑問の答えにも繋がって来るのではないかと思います。

 事実、歴史に関する教科書や学校のカリキュラムは州、そして国毎に定められて居て、夫々自国側からの視点だけに為って居るとグラック先生は仰って居ました。そう云った学習形態に為るのは自然な事かも知れません。
 それに歴史に関する共通の記憶・認識を持つ事は、国民の一致団結や自分達のアイデンティティー形成に繋がるとも思います。しかし、もしそれが偏った歴史の捉え方に為ってしまっていたら? 自分達の国がした良い事は知って居ても悪い事は知らされて居なかったら? 悪い事を悪いと認める事が出来て居なかったら?

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 「戦争」は怖い でも「兵隊」は怖く無かった

 祖父が、こうして死と隣り合わせの過酷な訓練をして居た矢先の昭和20年8月15日、突然、グラウンドへ集められると、日本が降伏した事を知らされます。「命が助かった」と思った瞬間であったそうです。
 日本の降伏後、大学へと進んだ祖父は夏休みを使って進駐軍の元で通訳のアルバイトをして学費を稼ぎました。祖父は当時を振り返って「アメリカの進駐軍の兵士達はとても明るく、紳士な人達ばかりで、牛肉やハンバーガー、パイナップル、バター等沢山の食料を分けて呉れた」と言います。
 祖父の話を聞いて居ると「戦争」は怖いもの。でも、戦争に関わって居る「兵隊」一人ひとりは怖く無いんだと感じました。

 もしかしたら祖父の様な話は極一部に限られた話かも知れません。ですが敵とされる彼等も自分達と同じ人間で、同じ気持ちで戦わざるを得無い状況に居るから戦って居たと思うと「戦争をする意味って何処にあるんだろう?」とツクヅク考えさせられます。
 86歳である私の祖母も、戦争が始まると毎日、防空頭巾を握り締め通学して居たそうです。空襲警報が鳴るとサッと防空頭巾を被り、草むらに走り身を屈め、戦闘機が過ぎ去る迄ジッとして居なくてはいけませんでした。その為勉強をして居る場合では無く、学校のグラウンドを芋畑にし、食料を確保するので一杯一杯の生活を送って居たのだそうです。

 私は祖父母に質問しました。「私達の世代に何か伝えたい事はある?」すると2人は揃って「人を殺してはいけないと云う事」と答えたのです。戦争は人の殺し合いです。私達は二度と同じ事を繰り返してはいけ無いと強く感じた瞬間と為りました。

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 未来の為の「新しい歴史」を築く為に
 
 最早どの国の教科書に書いてある歴史が正しいか何て分かりません。ソモソモ歴史に正解ナンて云うものもあるのか疑問です。ですが、自国と他国の歴史を知り、異なる視点から歴史を理解し、広い視点で歴史を考えられる様に為ったら、未来の為の「新しい歴史」を築き上げる事が出来るのでは無いでしょうか。
 戦争が終わっておよそ75年経った今もなお、中国や韓国、日本等過去の敵意を現在の日本との関係に持ち込む人々が居て争いが絶えません。けれど、争いを無くす努力はして行けると思います。では具体的にどの様にしたら無くして行けるのでしょうか。

 この問いに対する答えは、未だ私にも見付かりません。でも1つだけ、分かる事があります。それはお互いの歴史を尊重する事は明るい未来を作る事に繋がると云う事。 根拠はありません。ですが、人間関係がそうだと思うのです。
 価値観が全く同じ人ナンて居ないのだから、お互いを尊重して認め合う事で初めて良い関係を築き上げて行ける。だからコソ、互いの歴史や価値観の違い、バックグラウンドを尊重し合えたら、より良い日本に、より良い世界に為って行くのではないでしょうか。

 勿論国家レベルで一気に皆がお互いの歴史を尊重し始め、歴史問題を解決する事は難しい事と理解して居ます。それでも、私達一人ひとりが広い視野を持ち、過去に誠意を持って対処する事で、何時の間にか未来の為の前向きな「新しい歴史」が生まれるのだと思います。
 日本の未来を担って行く人達と一緒にこう考えて行きたいです。「より良い未来を作る為に歴史から学べる事はナンだろう」と。


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           撮影 岡田康且 藤井 サチ     以上





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「第二次世界大戦」「大東亜戦争」と何が違う? 12月8日に開戦した「太平洋戦争」とは




 





  「第二次世界大戦」「大東亜戦争」と何が違う?
 
  12月8日に開戦した「太平洋戦争」とは



              〜THE PAGE 12/8(日) 15:55配信〜


 1941年12月8日(日本時間)日本軍が米・ハワイの真珠湾等を奇襲し、太平洋戦争が開戦しました。どのような戦争だったのでしょうか?


 1941年12月8日、日本軍は英領マレー半島と米・ハワイの真珠湾を奇襲しました。これを切っ掛けとして米国、英国、オランダ、オーストラリア等の「連合国」と日本との間で戦われた戦争が「太平洋戦争」と呼ばれて居ます。又、近年は戦闘が行われた地域をより具体的に示す為に「アジア太平洋戦争」と呼ぶ事もあります。

 日本軍は開戦から半年で東南アジアのホボ全域と太平洋の広い地域を勢力下に置きました。しかし、ミッドウェー海戦(42年6月)やガダルカナルの戦い(42年8月〜43年2月)等で敗れ、劣勢に為って行きます。
 1944年秋頃からは連合国による日本本土への空襲が本格化します。1945年3月10日の東京大空襲では一晩で10万人が犠牲に為りました。更に、8月6日に広島、9日には長崎に原爆が投下されました。そして、昭和天皇が降伏を決断します。日本は14日に米英中首脳による降伏勧告(ポツダム宣言)を受諾。翌15日に終戦を迎え、3年8か月に及んだ戦争が終わりました。

 「第二次世界大戦」「大東亜戦争」と何が違う?
 
 「太平洋戦争」と似た文脈で使われる言葉として「第二次世界大戦」「日中戦争」「大東亜戦争」「15年戦争」等があります。夫々、どの様に違うのでしょうか?

 (1)第二次世界大戦 米英等の「連合国」と、日本・ドイツ・イタリアを中心とする「枢軸(すうじく)国」が対立し、欧州からアジア太平洋地域迄巻き込んだ世界規模の戦争です。1939年9月のドイツによるポーランド侵攻から1945年8月に日本が降伏する迄の6年間を指します。太平洋戦争は第二次世界大戦に含まれると云う見方をされる様です。

 (2)日中戦争 1937年7月に中国・北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で起きた日中両軍による衝突から始まった日本と中国の間で起きた戦争です。1941年12月に日本が米英に宣戦布告して太平洋戦争を始めてからはその中に含まれ、日本のポツダム宣言受諾迄続きました。

 (3)大東亜戦争 戦時中の日本では太平洋戦争の事を「大東亜戦争」と呼んで居たのです。当時の東条英機内閣が閣議決定した事に由来します。日本は、欧米による植民地支配から脱却し、東アジアの民族による共存共栄を意味する「大東亜共栄圏」の建設を唱えて戦争に突入しました。戦後は、米国が名称付けた「太平洋戦争」に表現が統一されました。

 (4)15年戦争 1931年9月、日本軍による中国東北部への侵略戦争(満州事変)が始まりました。それから、日中戦争・太平洋戦争を経て1945年の敗戦迄続いた一連の戦争の総称として「15年戦争」が使われます。


                 以上







 【関連報道】戦争伝える「デジタルアーカイブ」の可能性 

 太平洋戦争開戦78年 体験者減る中での模索



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       立教大学大学院教授 デジタルアーカイブ学会理事 宮本聖二氏

             〜THE PAGE 12/8(日) 16:43配信〜



 1941年12月8日(日本時間)日本の陸軍がマレー半島に上陸、その後海軍機動部隊が米国ハワイ・真珠湾を急襲して太平洋戦争が始まった。1945年8月に日本が敗戦するが、それ迄に日本人310万人(1931年の満州事変後の累計)日本を除くアジア太平洋地域で1000万人以上が命を失ったとされて居る。
 戦後の日本は、この戦争を生き延びた人々の、悲惨な体験の集合的な記憶を共有する事で「非戦」と「平和」が絶対的な価値である事を確認して来たと言え様。しかし、開戦から78年、そして終戦から75年が経とうとして居り、戦争を直接体験した世代が居無く為ろうとして居る。では、これからどの様な手を打てば好いのだろうか?

 先ずは太平洋戦争を紹介する動画(3分)をご覧頂きたい。

 「デジタルアーカイブ」で歴史を継承
 
 筆者は、解決策の一つと為り得るのはデジタルアーカイブの活用だと考えて居る。インターネット上に戦争に関するコンテンツを積み上げて行き、ユーザーに自由にアクセスして貰うのである。「NHK戦争証言アーカイブス」のサイト。およそ1300人の戦争体験の動画や当時のニュース映画等がデジタルアーカイブとして整備されて居る。

 筆者は、NHKに勤務して居た際、戦争を伝える番組を制作しながら、その時にインタビューした戦争体験者の言葉を映像で集めてネット上で視聴して貰う「戦争証言アーカイブス」の構築と運営に当たった。戦争体験者と直接会い、経験談を聞く事が出来無く為りつつある環境下での、言わば「次善の策」だ。
 一方で、一つのサイトの中に多くの戦争体験インタビューや関連のコンテンツが集積されて一覧性を持って視聴出来る事で、戦争を多角的に知る事が出来る利点もある。

 検索で欲しい情報にアクセス

 NHKのアーカイブは、公開開始から10年経過し、2019年12月時点でおよそ1300人もの戦争体験者の証言動画を視聴する事が出来る。これだけの数が揃った事で、視聴・分析して見ると様々な傾向が見えて来る。試しに「日本人と捕虜」と云うテーマで各コンテンツを見詰めて見る事にしよう。
 デジタルアーカイブでは、コンテンツ一つ一つに「メタデータ」が付いて居る。その為、ユーザーは見たいコンテンツを選び出す事が出来る。「捕虜」と云うワードで検索を掛けてみると519ものコンテンツが出て来る。それ等一つ一つを見て行き浮かび上がって来る太平洋戦争の側面を記述する。
 
 「捕虜」を例に検証
 
 デジタルアーカイブで歴史と向き合うと何が見えて来るのだろうか。戦争の記憶の風化を食い止める役割を果たせるのだろうか。
 先ず、自らが捕虜に為った人の証言を聞いて見る。ソロモン諸島・ガダルカナル島を巡って争われたガダルカナルの戦い(1942年8月〜)に兵士として参加した原田昌司さんは、負傷して意識不明に陥って米軍に囚われた。以下は原田さんが語った証言の一節だ。

 原田さんの言葉 寝た切りの状態で捕われ収容所に入った原田さんは捕虜に為った以上、最早日本に生きて帰れ無いと考え、殺して欲しいと思ったと話して居る。又「戦陣訓」に言及して居る。「戦陣訓」とは何だったのだろうか。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」「戦陣訓」は日中戦争(1937年〜)での軍紀の乱れから、東条英機陸軍大臣名で出された「陸軍の将兵が守るべきとされた行動規範」である。太平洋戦争の始まる年、1941年1月に告示された。
 この「戦陣訓」の中に「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず、死して罪科の汚名を残す事なかれ」と云う一節がある。この前には「恥を知るものは強し。常に郷党家門(きょうとうかもん・・・親族の事)の面目を思い」と云う文言もある。

            12-9-13.jpg 東条英機

 詰まり「捕虜は罪」である。更に「出身の地域や家族の面目」に関わる、と云うことを唄って居るものである。この「戦陣訓」に従えば原田さんは最早日本にも故郷にも帰れ無い。それ為らば殺されたい、と思った訳だ。この戦陣訓を東条自身が語って居る音声データも戦争証言アーカイブスにある。
 東条英機自身が呼び上げる「戦陣訓」の音源。https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/sp/movie.cgi?das_id=D0001400143_00000

 原田さんと同じくガダルカナル島で戦った旭知輝さんは、動け無く為り連れて行け無く為った同僚兵士に自爆用の手りゅう弾を渡した事を証言して居る。

 旭さんの言葉  ここでも「死ぬ事は名誉であり生きて捕われる事は不名誉な事である」と云う考えが根付いて居た事が判る。連れて行け無い負傷者に自決を強要して居た事もだ。捕虜に為る事で自軍の事情が米軍側に漏れ無い様にと云う事も負傷者を死なせる事由に為って居る。
 アーカイブに証言が残っている将兵の多くが「捕虜に為る位なら自決せよ」と徹底的に教え込まれた、と証言して居る。しかし実際に捕虜に為ってみると、食べ物や飲み物を与えられ、怪我をした人は治療を受けた等、待遇の良さに驚いたと語る人が少無くない。同一サイト内に数多くの証言コンテンツを掲載出来る一覧性を長所とするデジタルアーカイブの仕組みだからコソ見えて来る傾向だ。







 自軍に付いて暴露した日本人捕虜
 
 日本軍の将兵には捕虜に為った事態を想定した教育が行われて居なかった。日本も批准して居た「ハーグ陸戦条約」には捕虜に為った者は適切に扱われ無ければ為ら無いと同時に、階級と氏名以外は、明らかにする必要は無いと規定され、多くの交戦国はこれを準用して居たのである。
 日本軍は捕虜に為る事強く戒めて居たが故に、万が一捕虜に為った時の対処法を身に着けさせ無かった。そこで、捕虜に為った将兵は連合軍の収容所での思わぬ厚遇に応えるかの様に、自軍の事情を暴露した者が少なく無かったのだ。

 米陸軍の情報部で捕虜の尋問や遺留品等から日本軍に付いての分析に当たって居た日系二世のウォーレン・ツネイシさんは、日本軍の兵士が捕虜に為った際に、どう振る舞うべきか教育を受けて居なかった事を指摘する。

 ウォーレン・ツネイシさんの言葉  こうして、連合軍は日本人捕虜から数多くの有用な情報を得て行ったのである。日米両側の証言を閲覧出来、多角的に戦争を知る事が出来る事は、デジタルアーカイブならではの良さだ。

 過酷だった日本軍の捕虜の扱い
 
 此処では、証言以外のコンテンツを見て見る。戦争証言アーカイブスでは戦前から戦争直後に掛けて、映画館で上映されて居たニュース映画「日本ニュース」 を公開して居る。特に、初回の1940年から戦中の「日本ニュース」は戦意高揚と国家総動員のプロパガンダの為に作られたものである。しかし、映し出されて居る映像は当時加工のしようも無く、実際に起きて居る事である。
 開戦直後、日本が海上部隊と艦載機を動員して上陸作戦を敢行した太平洋のウェーク島からの捕虜移送のニュースである。2000人弱の米軍の守備部隊は砲台を使って日本海軍の駆逐艦2隻を撃沈する等激しく抵抗し、順調に作戦を進めて居た日本軍に採っては最大の苦戦と為った。このニュースでは守備隊長のカニンガム中佐の笑顔とインタビューで構成。日本軍の攻撃の激しさと日本国民に感謝すると云う言葉を紹介して居る。

 このニュースでは、捕虜を適切に扱って居ると云うナレーションが付いて居る。しかし、ウェーク島からの移送の船の中では捕虜の殺害事件が起きて居た。更に、1943年10月ウェーク島では島に残されたおよそ100人の米軍捕虜が日本軍に虐殺される事件が起き、責任者が戦後処刑されて居る。当時の報じられ方と、実態の乖離(かいり)が浮き彫りと為って居る。

 カニンガム中佐(下列右) 日本ニュース85号より 上海の捕虜収容所に収容されたカニンガム中佐はこの翌月脱走を図り、上海市内で捕捉されて居る。

 「捕虜に為っては為ら無い」 住民の集団死

 太平洋戦争では、サイパン、テニアンと言ったマリアナ諸島、そして沖縄で住民が激しい戦闘に巻き込まれた。日本軍の部隊は降伏せず玉砕する迄戦った。その為、住民が戦場の中を逃げ惑う事に為り、砲弾や銃撃で命を奪われ、追い詰められると捕われる事を拒否して集団死に及んだ人も少無くない。何故、こんな事に為ったのだろうか。
 住民等は、捕虜に為ったら残虐に殺される、特に女性は性的な暴行を受けると云う脅迫観念を持って居た人が多かった。その結果、自ら死ぬ事を選ぶ、或は嬲(なぶ)り殺しにされる位なら、自らの手で子や父母、兄弟を死なせた方が好いと思ったのだ。

 テニアン島に米軍が上陸した後、当時18歳の二瓶寅吉さんは、家族と一緒に逃げ惑い、追い詰められた処で母と9歳の妹に頼まれ2人に銃を向けた。

 二瓶寅吉さんの言葉  二瓶寅吉さん(左)右は戦時中の写真  何故、市民迄もが捕虜に為る事を忌避したのか。実は「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」の一節を含む「戦陣訓」は、民間の出版社から競う様に解説本が出版されて居り、その意識は軍人だけで無く市民にも浸透して居た。以下の写真はその極一部。子供向けの本も数多く出されて居る。

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          子供向けの「戦陣訓」解説本(国立国会図書館蔵)

 捕虜への忌避感が齎した夥しい死者

 デジタルアーカイブを「捕虜」の視点から見て行くと以下の事が見えて来た。先ず、軍内部で捕虜に為る事を厳しく禁じて居た事は明らかだ。捕虜に為る事は「恥」とされ、捕虜に為れば故郷の家族の迫害に繋がると云う感覚が将兵の心に浸透して居た。その為、負ける事が分かって居ても、最後の一兵迄戦い抜くと云う「玉砕」が繰り返されたのだ。
 同時に、敵国軍の捕虜の扱いも過酷に為った。実際、戦後にBC級戦犯として処刑されたり処罰されたりした将兵の多くは捕虜虐待に関わった者であった。

 一般市民の間でも、捕虜と為る事はタブー視されて居た。住民を巻き込んだ戦場と為ったサイパンやテニアン、沖縄では住民も捕虜に為る事を恐れた為、多くの集団死が発生した。戦死者が夥しい数に為った事の大きな原因の一つがこの「捕虜に為る事のタブー・忌避感」にあった事が、このデジタルアーカイブのコンテンツから浮き彫りと為った。

 デジタルによる語り継ぎ

 筆者は、戦争体験者が居無く為る事で、戦場で起きた具体的な出来事等の記憶が失われて行く事は何とか防がねば為ら無いと考える。アノ戦争とは一体なんだったのか、戦争が如何に将兵から市民迄も擂り潰す様に命を奪ったのか、生き残った人の心にどの様な深い傷を残したのかを語り継ぎ未来へ伝えて行く、その事が平和の掛け替えの無さを確認するのに欠かせ無い筈だ。
 戦争体験のディテールをどう未来に繋ぐのか。デジタルアーカイブの仕組みが解決策の一つと為り得るのでは無いだろうか。


  立教大学大学院教授 デジタルアーカイブ学会理事 宮本聖二    以上







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「欧州最後の独裁国」で成功した企業トップ




 




 「欧州最後の独裁国」で成功した企業トップ


              〜毎日新聞 12/8(日) 15:00配信〜
  

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 〜旧ソ連のベラルーシでは、ルカシェンコ大統領が1994年から権力を握り「欧州最後の独裁国」とも呼ばれる。社会主義的な政策を敷き、非効率な国営企業が多いが、医療機器の分野で世界トップクラスの企業も生まれて居る。この企業のトップに成功の秘訣(ひけつ)を聞くと共に、経済発展と政治の関係を考えた。【モスクワ特派員・大前仁】


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 アダニ社の製品を説明するウラジーミル・リネフ最高経営責任者 ミンスクで2019年11月14日 大前仁撮影

 ベラルーシの首都ミンスクに本社を構えるアダニ社は、放射線を使った医療機器等を製造する。
 同社の金属探知機はロンドンのヒースロー空港や、英名門サッカークラブのマンチェスター・ユナイテッドのスタジアムに採用された。株式は非公開だが、従業員は700人を数え、米国や英国・ロシア・中国に事業所を構える。専門誌は放射線を使った技術で世界トップ10の企業に入ると報じる。

 創始者のウラジーミル・リネフ最高経営責任者(68)は、2018年に「ベラルーシの起業家」と云うコンテスト(会計事務所アーンスト・アンド・ヤング主催)で1位に輝く等手腕が評価されて来た。
 ソ連時代は核物理学者だったが、1991年に大学に籍を置いたママ起業した。この年の12月にソ連が崩壊し、手厚い保護を受けて来た科学者達が途方に暮れた時代だ。リネフ氏は肩書に頼ら無い生き方を選び、間も無く教授の職を辞した。

 市場のニーズを重視し成長

 当時のアダニ社が取り組んだのは、隣接するウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原発事故(86年)への対応だった。多くの住民は放射能汚染を恐れながら暮らして居たが、ソ連当局の許可無しに放射能濃度を測る事が禁じられて居た。ソ連が崩壊すると、アダニ社は食品や建築材に染み込んだ放射能を測定する機器を開発し、約5000台を販売したと云う。

 何故アダニ社が世界的な企業に成長出来たのだろうか?

 リネフ氏が核物理学者として培った知識を土台にして、同社が取得した特許は130件を超す。その技術を元にして、顧客の要求を探り続け、需要がある製品を短期間で開発する様に取り組んで来たと云う。「我々は市場の末端から(ニーズを聞いて)仕事を始めて居る」とリネフ氏は話す。
 急速に進むデジタル経済に身を置くと、変革を恐れずに挑ま無ければ、大企業でも取り残されてしまう時代である。リネフ氏は「もし(世界的メーカーの)シーメンスから合併を持ち掛けられても、傘下に入れば自由を失うだろうから、同意する事は無い」と述べ、主体的な経営判断の大切さを説く。







 政治と距離を置く

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           アレクサンドル・ルカシェンコ大統領

 ベラルーシではルカシェンコ氏が大統領の3選禁止条項を削除する憲法改正を経て、再選を重ね、四半世紀に渉り権力の座に就いて来た。11月の下院選でも与党系候補が全議席を得る等、野党の政治参加を認め無い一方で、社会保障を手厚くし「アメとムチ」を使い分けて居る。
 経済面では宗主国のロシアから廉価な原油や天然ガスを輸入し、第三国に輸出する産業に依存して来た事から、非効率な国営企業が多い。

 一方で政府はアダニ社等先端企業への優遇措置を取り、近年はIT産業も成長して来た。ルカシェンコ氏も2017年末、デジタル経済を推進する大統領令を出す等、先端技術の育成に意欲を示す。国内の企業家の中からは、長期政権が続く「政治的な安定」が産業の育成に寄与して居るとの声も出て居る。
 一方でベラルーシ国内では「司法が独立して居ない事から、政権の圧力を受けて不当に潰された企業もあった」(ジャーナリストのカルバレビッチ氏)との「反論」も聞かれる。果たして強権政治は企業経営の障害に為ら無いのだろうか?

 リネフ氏にこの点を尋ねると、即座に首を横に振った。シンガポールでは一党支配が続くが、1人当たりの国民総所得は世界のトップ10に入る。リネフ氏はこの事例を持ち出した上で「ビジネスは政治に関与しては行け無い」と、政治と距離を取る大切さを強調した。
 リネフ氏が持ち出した別の事例は隣国ウクライナだった。2000年代半ばから政権交代が続くが、汚職が蔓延(はびこ)って居り、アダニ社も一度開いた現地の事務所を閉じたと云う。「ウクライナで民主主義は根付いて居ない。財閥による利権とお金を巡る争いが続くだけだ」と指摘。形の上で政治的な競争が生まれたが、経済発展を促して居ないとの見方を示す。

 経済発展と民主主義の共存は難しいのか

 ベラルーシではルカシェンコ氏が1994年の大統領選で初当選する数カ月前迄、物理学者出身のシュシケビッチ最高評議会議長(当時)が国のトップに就いて居た。現在のシュシケビッチ氏はルカシェンコ政権の強権政治を批判して居るが、影響力を失って久しい。
 実は核物理学者時代のリネフ氏は20年近くもシュシケビッチ氏の下で研究に励んだと云う。私は「恩師」に当たるシュシケビッチ氏の政治スタンスに付いて尋ねてみたが、リネフ氏は口を噤んだママだった。多くの質問に答えて呉れたリネフ氏だが、微妙な問題には答えず「政治との距離」を取り続けた。

 ソ連崩壊から今年12月で28年を迎え、旧ソ連諸国ではベラルーシの様に表面上の安定を得ながら、強権政治が続く国が多い。
 逆にウクライナの様な国では政治的な競争が根付いたが、経済や社会の混乱が続く。東アジアでは、韓国や台湾等が強権体制下で経済成長を達成した後に民主化を実現した例がある。しかしベラルーシで同じ様な変化が起きる見通しは現時点では無さそうだ。


                 以上









 【関連報道】クトゥーゾフの窓から 北の島々は(7)立ち塞がる国際情勢 「天の時」は訪れるのか

           
          〜毎日新聞 モスクワ特派員 大前仁 2019年10月22日〜


 日本国内ではプーチン氏の訪日に先立ち、平和条約交渉の進展に向けた期待が高まったが、交渉は停滞して居る。日本とロシアは年初から平和条約交渉を始めたが、袋小路に入って居る。安倍晋三首相は条約締結を諦め無い考えを繰り返すが、国際情勢を眺めると、交渉を後押しする様な「天の時」を得られて居ない。現状を振り返り今後の展望を探ってみた。

 「領土問題を解決して、平和条約を締結する。1956年(の日ソ共同)宣言を基礎として、交渉を次の次元へと進め、日露関係の大きな可能性を開花させて行く」安倍首相は10月初旬の所信表明演説で、平和条約交渉への意欲を改めて表明した。
 対露交渉を諦め無い安倍首相の意向は、9月の内閣改造に伴う人事に反映したと見られて居る。2014年から国家安全保障局長を務めた谷内正太郎氏は、75歳の年齢を理由に退任した。しかし実態は谷内氏が慎重な対露政策を説いて居たから外されたのではないか・・・霞が関ではこの様な見方が残ると言われる。

 谷内氏の後任には、内閣情報官の北村滋氏が当てられ、首相秘書官だった今井尚哉氏も首相補佐官に為った。警察庁出身の北村氏は首相の考えを忠実に実行する役割を期待されて居ると云う。今井氏も秘書官時代から、平和条約締結を重視し、ロシアとの経済関係の拡大を唱えて来た人物である。
 人事を一新した安倍首相は11月半ば、再びプーチン露大統領と会談に臨み、平和条約問題を前に進めたい考えだ。

 ロシアが突き付ける条件とは

 但しロシア側は歩み寄る姿勢を見せて居ない。9月に来日したパトルシェフ露安全保障会議書記は、北村氏との会談後に「平和条約を締結し無ければ為ら無い」と述べながら「その為の環境を整え無ければ為ら無い」と付け加えた。ロシアが考える「環境」とは

 ▽日露両国が平和条約問題に固執せず
 ▽在日米軍を巡るロシアの懸念を解消し
 ▽経済関係を発展させて
 ▽日本が米国に従属し無い外交を進める・・・


 等と云う内容だ。残り2年を切った安倍政権の任期中に、これ等の条件をクリア出来る可能性は著しく低い。
 安倍政権は昨秋、平和条約交渉で大きな方針転換に踏み切った。それ迄「4島の帰属確認」を大原則として居たが、実質的に歯舞群島と色丹島の「2島返還」で決着を図る方針に転じ交渉に臨んだ。この点に付いて、ロシアの外交当局者は「日本が『2島返還』に切り替えたからと行って、交渉は進ま無いと思って居た」と1年前を振り返る。

 何故ならば「ロシアは1990年代、西側に大きな譲歩をしたが、得られたものは少なかった。多くのロシア国民がそう考えて居るからだ」と云う。その為「自国の領土」を引き渡して迄、日本と平和条約を結ぶ事に利益を見い出して居ないと云うのだ。別のロシア外交当局者も次のように話す。

 「米国との関係は悪く為るばかりだ。我々が譲歩して島を引き渡した処で、経済的にも僅かしか得られない」と問題点を挙げる。ロシアは日本が米国の影響下に置かれて居ると見做し、北方領土の引き渡しに応じれば、米軍が駐留して来るとの懸念を抱き続けて居る。
 更に米露両国が今年8月、中距離核戦力(INF)全廃条約を失効させた事から、米国が将来的に中距離ミサイルを日本に配備するとの警戒も強めて居り、現在は北方領土を日本に引き渡すタイミングでは無いと考えて居る。詰まり安倍政権がドンなに対露接近を試みた処で、米露関係を中心とした国際情勢が改善され無い限り、平和条約交渉を進める環境を整えられ無いのだ。







 交渉を後押しする国際情勢とは

 ロシアの外交当局者からは平和条約交渉の進展に悲観的な見方が相次いだ。一方でソ連時代を含めた過去の交渉を振り返ると、当局者の一人は興味深いエピソードを明かした。もし平和条約を締結出来るチャンスがあったとしたら、田中角栄首相(当時)が1973年にソ連を訪問した時では無かったのだろうかと云うのだ。
 1970年代前半の国際社会は大きく動いた。同じ社会主義陣営に属するソ連と中国が対立した事から、当時のニクソン米大統領は1972年に中国を訪れ、ソ連包囲網を敷こうとした。この状況を嫌ったソ連は日本に接近し、それ迄は拒否して居た平和条約問題を話し合う姿勢に転じた。但し田中首相が訪ソした際の首脳会談では大きな成果を得られず、日ソ関係は1970年代中盤以降、再び冷え込んだ。前述のロシア外交当局者は、当時を知る先輩外交官から聞いた話として次の様に明かす。

 「ソ連は、日本が中国と組んで対ソ包囲網を敷く事を嫌った。だから2島引き渡しで解決しようとしたが、日本が4島に固執したから決裂した。もし日本が2島で妥協して居れば……」
 但し当時の日本国内が2島返還の決着を受け入れられたかと云うと難しかっただろう。米国が日ソの平和条約締結をスンナリと認めたかも分から無い。飽く迄も仮定の話に過ぎ無いのだが、当時の国際情勢が平和条約交渉を後押ししたと云う点は興味深く思えるのだ。

 「天の時」は訪れるのか

 それでは今後の国際情勢で、日露の平和条約交渉を後押しする「天の時」が訪れるのだろうか。「プーチン大統領が権力(の椅子)に座り、欧米との関係が悪い限りは難しい」対露外交に携わる日本のベテラン外交官は断言する。
 プーチン氏が大統領の任期を迎えるのは4年半後の2024年5月。このタイミングでスンナリ退任し、西側との関係改善に取り組む様な政治家が後任に就くとすれば「平和条約交渉が進むチャンスは生まれるかも知れない」とこの日本外交官は続ける。

 但し今後のロシア内政がどう展開して行くのかは定かでは無い。プーチン氏が任期満了後も実権を握り続けるのかも見えて来ない。
 「ロシアが日本に強硬姿勢を見せるかも知れない。平和条約交渉も進ま無いかも知れない。それでもロシアと接触を続け、関係を維持して行くしか無い」別の日本外交当局者は今が「我慢の時」であるとの考えを滲ませた。


                  以上




















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